社会的な事柄に関与しようとしない日本のカルチャー

その他雑感:
 
社会的な事柄に関与しようとしない日本のカルチャー
 
 
ついにというかようやく緊急事態宣言が出されたのだが、昨日の仕事の帰り道、地元ではちょいと有名なアイスクリーム店の前ではいつもと変わらず多くの若者がたむろしていた。まぁ若者というのはふわふわとしているもの。総理大臣や専門家委員会が何を言おうと彼らはニュースなんざ見ないだろう。かくいう僕も若いころはそうだったし偉そうなことは言えない。
 
そこで一役立つのが有名芸能人。彼らが一言言えば効果テキメンだと思うがいかがでしょうか?それこそ海外ではまだこれほど大事になる前の初期の段階で、ビリー・アイリッシュやテイラー・スウィフトといった若者に発信力のあるアーティストが「家にいよう。自分を守るだけじゃなく、大切な人や他の人にうつさないために」みたいなメッセージをさかんに出していたし、日本人でも最近で言えば野球のダルビッシュやサッカーの香川などが素晴らしいメッセージを発している。
 
数年前のフジロックで音楽に政治を持ち込むな論争があったけど、芸術なんてのは社会と切っても切れない間柄なわけで、アーティストが社会的な事柄にコミットするのは当然だと思うんだけどなぁ。
 
あのアイドル事務所の人たちやあのダンス・ボーカル・グループの人たちや他にも沢山若い子に人気のバンドはありますから、そうした人たちがステイ・ホーム的なメッセージを発信すれば都知事が言う何百倍も効果があると思うんです。「みんな学校もなくて、自粛自粛でしんどいだろうけど頑張って」っていう優しい言葉だけでなく、主体的な言葉で社会的なメッセージを発してもらいたいなと。繋がろうとかはすぐ言うのになぁ。

中村佳穂の言葉~例えば「LINDY」

邦楽レビュー:
中村佳穂の言葉~例えば「LINDY」

 

「ハッときて ピンときたんだLINDY」。これだけじゃ何のことだか分からないですよね。これ、中村佳穂さんの『LINDY』の冒頭の言葉です。

以前カネコアヤノさんの『布と皮膚』のリリックに言及した時にも書いたんですけど、言葉というのは予め意味を持っているんですね。その予め意味を持った言葉を解体して新たなイメージを構築しようとする、それが詩人の仕事だとすれば、この『LINDY』の歌詞は正にそれを象徴するような歌詞だと思います。

それと中村佳穂さんの曲に顕著なのが韻ですね。それも理知的に捉えたライミングというより曲の流れのなかで、曲を口ずさむなかで発せられた動的なライミング。例えば『LINDY』。分かりやすいところでは、

 ON AND ON ドキドキ
 ON AND ON トキメキ
 となえるのさ
 応援をあげる

「ドキドキ」と「トキメキ」もそうですけど「ON AND ON」と「応援を」ですねここは。ちょっと私の説明、野暮ですか(笑)。ただ前半はそんなゆったりとした韻なんですがリズムが忙しくなる後半に入ると、

 パッと見て不意に気づくさLINDY
 おどけたふりして 結び直してゆく

と、この短いリリックの間でもそこらじゅうで韻が踏まれいて、「不意に」の「意」と「に」が「リンディ」の「リ」と「ィ」に。「おどけたふりして」の「ふり」が前段の「不意」と、プラス「ふり」は「リンディ」の「リ」、次の「結び」は発音も「結びぃ」となり前段の「リンディ」と掛かります。

まぁそこらじゅうで跳ねるようにアクセントが置かれていくんですけど、この一連のメロディを一気に聴くとですね、やはり言葉とメロディは一体なんだなと。そしてそうなることで冒頭の話じゃないですけど、新たな意味が構築されてゆくのが聴いているこちらも体で理解するんですね。これはやっぱり理屈じゃありません(笑)。

そう考えると中村さんはやはり詩人なんですね。意味を追いかけていかない、何百年も昔からあって既に意味を持っている日本語を駆使して自ら意味を授けようとしている。恐らくそれは意識してというより、もうそういうもんなんだという自覚があるからだと思います。

何故なら中村佳穂が捉えたポエジーは大げさな言いようですが、その場その時人類が初めて経験するポエジーなわけですから(それは僕やあなたのポエジーもそうです)、それを表す言葉というのはまだこの世に存在しないんです。それをたまたま自分が持っていたのが日本語であるならそれを利用して表現をするんだと。それが「ハッときて ピンときたんだLINDY」という言葉になるのだと思います。

あと言葉の解体と言えば、この曲では中盤にどっかの地方の掛け声のような、これも日本語を解体して新たなイメージを構築するという典型的な部分ですけど、その新しくイメージされた掛け声言葉が明けてのドンッと中村佳穂さんの歌い出しがあって、それは「全部あげる」という解放が始まるところですが、この「全部あげる」には深いエコーがかかってですね、佳穂さんの声は微妙にビブラートするんですがそれもあって、「全部あげる」が「ぜ え ん ぶ う あ げ え る」と解体されて聴こえてくるんです。もう言葉自体が解体されてしまっているんですね。

つまりここではもう give you :あげるという意味は解体されているんですね。勿論そういう意味はまだ含まれていますけど、そこを越えたコズミックなイメージが聴き手それぞれにもたらされる。歌い手が捉えたポエジーと同じ空間が手渡されるわけです。個別の意味とかは越えた感覚的なイメージですよね。だからもうこの部分は聴いていて本当に鳥肌が立つところでもあります。

詩人の茨木のり子さんが仰っていたのは、よい詩というのは最後に離陸する詩なんだと。そういう意味ではこの「全部あげる」という部分は見事に離陸しまくってます(笑)。そこまでも本当に素晴らしいんですけど、それがまるで助走のようにここで一気に飛翔するんです。

この曲は現時点の中村佳穂さんの最新曲になるのかな。その前のアルバム『AINOU』(2018年)も本当に素晴らしいので興味を持たれた方は是非手にとっていただければなと。動的なというものに限らず理知的で素晴らしい歌詞も沢山ありますので、頭と身体と同時に響いてくると思います。

「スカーレット」感想追記、八郎のこと

TVprogram:

「スカーレット」感想追記、八郎のこと

 

「スカーレット」が終了しまして、僕は日中は仕事ですから、夜に録画していたものを観ていたんですけど、それが無くなるというのは一日のリズムでもあったのでちょっとロス感はありますね。

最近ハマったドラマは「スカーレット」と「いだてん」でして、もう「いだてん」は最近でもないのですが、「いだてん」の場合はやっぱりスペシャルな日常というところがあって、それはオリンピック開催というところで大団円を迎えるわけですよね。だから終わったことは寂しかったんですけど、これはもうどう見ても終わりですから、終わりだなと思えるわけです。

ところが「スカーレット」の場合はもちろん主人公に色々なドラマが降りかかるんですけど、ドラマチックなところは敢えてすっ飛ばして、むしろドラマチックな出来事の前後を丁寧に描くというところに注力されていましたから、僕自身の日常にも組み込まれやすいんですね。だから毎日あったものが無くなるというのはやっぱりロス感、ありますね。

で前の記事で長々と感想を書いたのですがちょっと書き足りないなと思う部分がありまして、このドラマは主人公が女性ですから、男性的な目線をちょっと加えようかと。ま、八郎のことですよね。もっと八郎の中はドロトロしてるはずやろ!ということです(笑)。

端的に言えば僕も父親ですから、子供と会えないというのは恐らく、ていうか間違いなく地獄なわけです。しかも八郎は武志がもっとも成長する時期に会えていないわけですから、それはもうのたうち回っていたはずなんですね。しかしそれが劇中にあんまり出てこない。久しぶりの登場した八郎にその影が見えなかった。実にあっさりと爽やかな八さんのままだった。これはそんなわけないやろと(笑)。

ただ八郎のダークサイドが全く描かれていなかったわけではないんですね。中盤ではむしろ描かれていた。それは天賦の才能が覚醒し始める喜美子と自分の才能に限界を感じ始める八郎という構図の中で八郎の複雑な心境というのは徐々に露になってきて、そのピークが喜美子と八郎の亀裂が決定的になる場面で爆発するという。

穴釜を続けるという喜美子に対して八郎は「僕にとって喜美子は女や。陶芸家やない。ずっと男と女やった。これまでも、これからも。危ないことせんといてほしい」と。これは強烈でしたね。

要するに陶芸家として喜美子には敵わないという事実に対してそこで議論するわけじゃなく、男と女という理屈を引っ張り出してきて、挙げ句の果てに「危ないことはせんといてほしい」という優しさにかまけたセリフを吐くわけですから。これはホントやな男ですよ。このセリフでそれまで八さんのファンだった人の多くがガッカリしたんじゃないでしょうか(笑)。

それに対して喜美子はきっぱりと「陶芸家になる」と宣言をする。この時期はモンスター化する喜美子も相まって観ててしんどかったですけど、でもそれはやっぱり八郎の言動も喜美子の言動もリアルだったからですよね。今モンスター化すると言いましたけど、芸術家になるというのはそんな甘いものではなくて、それ相当の覚悟が必要なんだと。今は猫も杓子もアーティストなんて言い方をしますが、そういうメッセージもここにはあったような気はします。

たださっきの八郎のセリフについてや再登場した八郎に影がないなんてのは僕のうがった見方に過ぎず、本当に八郎は圧倒的に優しい人だったということかもしれませんし、そこはこのドラマの説明をしない、言い過ぎないという視点においてそれだけの余白があったということかもしれません。

ということで八郎目線で考えてみても、彼自身も相当劇的な人生であるわけですから、喜美子とは違った生き方というのがあったわけで。久しぶりに登場した八郎が変わらず爽やかなままというのもね、そこのところの穴埋めを想像するのもそれへそれで面白いなぁと思った次第です。

今度また総集編が放送されるみたいですから、その時には今言ったようなところを留めながら観てみたいですね。

連続ドラマ小説「スカーレット」感想

TVprogram:

連続ドラマ小説「スカーレット」感想

 

朝の連続ドラマ小説「スカーレット」が終了しました。以前にもここに書いたのですが、朝の連ドラにこんなにも心を惹かれたのは「スカーレット」が初めてです。もう僕の中で戸田恵梨香さんは川原喜美子にしか見えません(笑)。

この1ヶ月ぐらい、物語は喜美子の息子である武志が白血病になる、そして最後に向かってどうなっていくのかというところが焦点となっていました。下世話な話、クライマックスとしておいしいところですよね。ただ「スカーレット」の素晴らしいところはそうした手法を採用しなかった、武志と川原家の日常を丹念に描いていく、そこにしか焦点が向かわなかったところだと思います。

武志の心境が語られる場面がいくつかあって、それは「今日が私の1日なら」という言葉に続くものとして劇中に何度か語られました。それは「いつもと変わらない1日は特別な1日」というもの。最後の1ヶ月ぐらいはまさしくそんな武志の気持ちに寄り添うように、日々の営みの積み重ねのみに重点が置かれていたように思います。恐らく、このドラマ全体のメイン・テーマはここにあったのかもしれませんね。

振り返れば喜美ちゃんの大阪時代。大久保さんとの別れも描かれませんでした。絵付けを学んだ深先生との別れも描かれませんでした。母との死別もそうです。父、常治の最後は描かれましたが、そこも実にあっさりとしたもの。

これらは通常のドラマで言えば折角の盛り上がり所だと思うのですが、このドラマではその場の感傷に寄りかかるような演出は一切しなかった。そこに至るまでの日常を丁寧に描くことで全ては伝わるのだという製作者一同のスタンスは最後までつらぬかれたのだと思います。

そういう意味では安易な情緒に頼らない、視聴者の想像力を信用するというか、作る側と見る側で大人の関係が築けていたのではないかなと思います。

そして「スカーレット」はなんと言っても戸田恵梨香さんですよね。本当に素晴らしい演技でした。10代、20代、そして結婚をして子供を産んで、陶芸家として独り立ちしてっていう、それぞれの川原喜美子をはっきりとした大きな変化を与えることなく、それでいてちゃんとそれぞれの年代としての積み重ねが滲み出る様に演じ分けられていました。

これはホントに、メイクを変えたり、髪型を変えたり、最後は白髪混じりであったりという見た目の変化はありましたけど、それも最小限におさえてですね、僕もそれなりに年を食ってるのでやっぱり分かるんですけど女性の強さの変遷が(笑)。そういう芯の強さ、川原喜美子の屋台骨が次第に太くなる様が伝わってきて、40代の川原喜美子は後ろ姿だけで40代の川原喜美子なんです。演技というのはこういうものかというね、戸田恵梨香さん、本当に素晴らしい俳優さんだと思います。

あとこのドラマはコメディの要素も大きくありましたから、そこを支えた父の川原常治を演じた北村一輝さん。それに常治がいなくなった後半からは幼なじみの大野信作を演じた林遣都さん。面白おじさん担当のお二人は最高でしたね。

それと喜美子の伴侶となった十代田八郎役の松下洸平さん。こんな人いるかってぐらい優しい人でしたけど、その優しさが全然嘘っぽくないんですね。優しすぎない現実味のある優しさっていうところを見事にキープされていたと思います。

そして喜美子と八郎の子、武志役の伊藤健太郎さん。若い俳優さんですけど、喜美子と八郎の子供だなって思わせる部分が時折顔を覗かせるんですね。そのさじ加減、素晴らしかったと思います。

あと大久保さん、深先生、草間さん、ジョージ富士川、みんな印象的でした。そうそうちや子さん!素敵ですよね。僕はちょっと水野美紀さんのファンになりました(笑)。

出演者一同、スタッフ一同、制作者も含め私たちはこういうことをやりたいんだ、こういうメッセージを含んでいるんだということを、そしてそれらをこういうトーンで発信するんだということがしっかりと伝わる、皆さんの哲学が伝わる本当に素晴らしいドラマだったと思います。改めて半年間、こんな素敵なドラマをありがとうございました、今はそんな気持ちでいっぱいです。

藤浪選手の敏感力

野球のこと:

「藤浪選手の敏感力」

 

一応毎日マスクをして出社しています。これは予防もあるけど、人にうつさない為、これが一番大きいですね。新型コロナウィルスは陽性であっても症状が表に現れない場合があるので、知らないうちに人にうつしているかもしれない。今の状況を考えれば自分は大丈夫、ではなく自分はもうそうかもしれないと、認識を改めた方がいいかもしれませんね。

そこで。阪神タイガースの藤浪選手です。味覚と嗅覚が近頃おかしいということで自ら申告し、PCR検査の結果、陽性反応が出たとのことです。

新型コロナウィルスは味覚と嗅覚を感じなくなる。これだけこのウィルスが蔓延しているのにこの事を知っている人がどれだけいたでしょうか。恥ずかしながら僕は知りませんでした。要するに藤浪選手は自ら調べて知っていたということですね。

これは藤浪選手が普段からいかに自分の身体に気を配っているかということと、野球選手というのはある意味社会的責任を負うのだということをしっかりと自覚している、ということを表しているのだと思います。

僕は子供の頃から阪神タイガースのファンですが、最近はチームというより、選手一人一人を応援する気持ちの方が強いです。藤浪選手に対してはこの数年大変な苦労をされていますから、その気持ちが特に強いです。

最近は鈍感力なんて言葉があります。少々鈍感な方が物事は前に進むし、精神的にも健全でいられるのだと。確かにそうした一面もあるかもしれません。でも僕はそうした声に違和感があります。やっぱり鈍感な人は鈍感なままだし、敏感な人は敏感なままで、結局敏感な人が割りを食ってしまうのが世の中ですから。

敏感な人は無理に鈍感になる必要はないんですね。敏感なままでいいのだと思います。人が気にしない些細なことに気がつける、これははっきり言って利点です。僕も大阪弁で言うところの気にしぃですから、余計なことに気を揉んでしんどい思いをすることが沢山あります。けど何も気にしないで人に迷惑かけるよりよっぽどいいし、気にすることで少しずつでも階段を登っていけるのではと思っています。

藤浪選手は非常にデリケートな選手だと思います。だから彼に対してはもっと大雑把でいいよとか、あんまり深く考えるなよとか、精神的なアドバイスをする人が多いかもしれません。

でもきっと精神論ではないんですね。藤浪選手は普通の人以上に色々なことに気付いています。それに知らぬまに上手くいくようになったというのでは彼も納得しないのではないでしょうか。

これまでも色々なことに気付いた上でじゃあどうするんだと具体的な解決法をいくつかトライアルしてきたのだと思いますし、恐らく陽性反応が出た今も次は何をすべきかということを理知的に考えているのだと思います。

鈍感力なんてくそ食らえです(笑)。藤浪選手には今のまま、その素晴らしい敏感力で大活躍してほしいです。これからも応援したいと思います。

映画『裏切りのサーカス』(2011年)感想

フィルム・レビュー:

『裏切りのサーカス』(2011年)感想

 

映画好きの友達から薦められまして、二度見必須ということだったので、そんなん2回も見てられるかいなと思っていたのですが、案の定2回見てしまいました。ていうか2回見てもよう分からん!!

舞台は冷戦時代。英国諜報部の中枢である‘サーカス’のある作戦が失敗をします。その責任を取らされ、サーカスの責任者であるコントロールと彼の右腕であるスマイリーはサーカスを解雇されるのですが、どうも情報が漏れていた疑いがある。二重スパイ、通称‘もぐら’が入り込んでいるようだと。その‘もぐら’探しを任命されるのがサーカスを解雇されたスマイリー。彼と彼が招集した特別チームによって‘もぐら’探しの捜査が始まる…、というのが導入部です。

話は淡々と進みますね。スパイ映画ですけどアクション・シーンはありません。人は死にますけど、これもあっさりズドンて感じです。説明的なセリフも一切ありません。ていうか必要以上に喋りません。特に主役のスマイリー、無口です…。

でもこのスマイリーがですね、喋らないんですけど表情が饒舌なんですよ。饒舌と言っても無表情に近いんですけど、これ、なんて言うんですかね、抑えた演技と言いますか、存在感だけで持っていっちゃうんです。流石ゲイリー・オールドマンです。時々、池で泳ぐシーンがあるんですけどあれもよく分かりません。このシーンいる?って感じなんですが、それはやっぱりいるんですね。あれがかえってスマイリーのキャラクターを造形していくというか、リアリティーをもたらしています。あぁこういう人なのねと。それにしても凄い演技や。

ただ凄いのはゲイリーさんだけではなくて他の面々も超個性的で、何なんですかこの人達はっていう。全員怪しいんですけど、怪しくないっていう不思議な感覚もありまして、さっき個性的と言いましたが、個性的じゃないと言えばそうとも言えるし、私何言ってるか分かりませんけど(笑)、つまり超没個性的なんです、サーカスの面々は。

証拠に先ず顔と名前とキャラが覚えられないんです。皆あんな個性的な顔をしているのにですよ!これは私の脳みその問題ではありません多分(笑)。それぐらいぼんやりしているんですね人物描写が。逆にサーカスのメンバー以外の諜報部員はキャラがはっきりしていますから多分この辺はあえてなんですよ。だからこれは私の脳みその問題ではございません(笑)。ていうかそういう演技する俳優たち、すげ~なと。

でさっきも言ったとおり説明的な描写やセリフがない。ここがどこだかもちゃんと見ていないと見ている方が行方不明になってしまいます(笑)。あれ、この人さっき死んだじゃんって人がまた登場していたりするし、そういう意味では見る方が積極的に関与していかないいけない映画でもあります。てことでこの映画を観る時は事前にWikiとかで名前と人物関係のチェックをしておくのがお薦めですね、Wikiはネタバレもないし。私も2回目見る時そうしました、2回目やのに(笑)。ま、頭の中に相関図を用意しておくとよいかも、ってことです。

ただこういう分かりにくいし、変に盛り上げることない映画だからこそかえって2回も3回も見れるというのはあると思います。私はTSUTAYAで借りたので2回見て返却しましたけど、アマゾン・プライムとかに入ってたら多分もう一回見てると思います。そういう意味では何度でも楽しめる、逆にエンタ-テイメント性の高い映画ではないでしょうか。そうそう、抑え気味の音楽も素晴らしかったですね。

最後にちょっとネタバレ的なこと言うと、スマイリーが敵の大ボスとかつて会った時の話をする場面があるのですが、この時のスマイリーがいつもの冷静さではなく、ちょっと狂気じみた小芝居をします。あと‘もぐら’が最後にスマイリーに言うセリフに「俺は歴史に名を刻む人間だ」みたいなことを言うんですけど、こういうベラベラ喋らない立派そうな大人にもちゃんと狂気が隠れているっていう、そういう描写もリアルで面白いと思いました。

で、そのスマイリーと‘もぐら’の場面がクライマックスかと思えば、そうではなく最後に切ないラストが用意されているんですね。愛憎というかそういう複雑なところがあって(この点、この場面にスマイリーは登場しませんが、彼もそうです)、ここは最後まで一生懸命に見た人だけが感じ取れるような作りになっていますから、あきらめずに最後まで積極的に見ていただければと思います。

それにしても謎解きのところがどうも分からん。やはりもう一度見ねば。

Eテレ SWITCHインタビュー達人達「ブレイディみかこ×鴻上尚史」感想

TV program:

Eテレ SWITCHインタビュー達人達「ブレイディみかこ×鴻上尚史」感想

 

現場を知らないといかんということですよね。今回の新型コロナにしたってPCR検査数を増やせ増やせという声が聞こえるけど、冗談じゃない、今でさえ手一杯なのに、という現場の検査員のTwitterもありましたし。

いくら賢い人がパソコンでガチャガチャやったところでそれは検討違いの国際貢献にしかならんということをペシャワール会の中村哲さんも口を酸っぱくして仰っていました。

ブレイディみかこさんさんの「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」が多くの人に読まれているのもそこでちゃん生活している人の直の声を聞きたいという気持ちが我々の中にあるからだと思います。

ブレイディさんの話で印象的だったのが子供の環境の話。子供の人格や能力は育つ環境による影響が大きい。しかし今の世の中、特にイギリスでは親の資本(経済力だけでなく)によって予めそれが限定されてしまっているとのこと。僕も子供に対しては親の遺伝子なんかよりその環境の方が断然大事だと思っているので、ブレイディさんの話はとてもよく分かるものでした。

ブレイディさんの対談の相手は鴻上尚史さん。鴻上さん、バシッと言い切ります。気持ちは伝わらないと。これ、高校生との演劇ワークショップの時の映像で出た言葉ですね。気持ちを込めても伝わんないよ、伝えるには技術が必要だよと。

つまりその役の気持ち、どういう気持ちなんだろうかとよく考えようということなんですね。ここでは役の気持ちですけど、要は相手の気持ちを考えるということです。

そこで思い出したのは司馬遼太郎さんの「21世紀を生きる君たちへ」の中の一節。相手の気持ちを考えるというのは思いやりの事。でも残念ながらこれは人が生まれながらに持っている性質ではない。だから思いやりというのは訓練して身に付けなければならない。そう司馬さんは仰っています。そうですね、自発的に身に付ける努力をしないといけない、僕もそう思います。

また日本的な根性や気合いといった気持ちを重視する考え方に懐疑的な点もお二人に共通するところですね。以心伝心という言葉があるけれど、そんなものは頼りになりません。気持ちで何とかなるということではなく、自分の気持ち、相手の気持ちを考える、相手の立場になって考えることが大切なんだと思います。

そういや鴻上さんは面白いことを仰っていました。コミュニケーション能力が高い人というのは皆と仲良くするのが上手い人というイメージがあるけれど、実はそういうことではなく上手くいかない時に対話でもって解決する方向へ導ける人のことを言うのだと。これは僕にとっても新しい視点でした。単に人懐っこい人のことを言うのではないのですね。

ブレイディさんによるとイギリスでは演劇が学校のカリキュラムに組み込まれているとのこと。これはスゴく大事なことで、さっき言った相手の気持ちを考えるということに凄く役立つ。例えば演劇であってもいじめらる役というのはものすごくつらいんだと。この点、鴻上さんは演劇に携わるものとして教育に演劇を取り入れしましょうということをずっと言い続けているらしいです。

実際に演劇が教育のカリキュラムに組み込まれるとしたらえらい大学の教授とか専門家がいつもの精査をするんでしょうけど、そこもやっぱり最初の話じゃないですけど、現場の声をね、それもちょっとこっち来て聞かせろっていうんじゃなく、鴻上さんのように実際そういう活動をしている人、もちろん現場の先生の話を足を使ってよく聞かないとそれも机上の空論ということになるのだと思います。

お二人とも話すことが沢山あってしかたがないという印象でした。それに想像力に対する信用度が大きい。ここも共通しているように思いました。そうですね、想像力は人間が持つ最大の力ですから、そこを簡単に手放してはいけない。物事を簡単にスワイプするのではなく、ちゃんと想像して考えたい、そう思いました。

野バラ

ポエトリー:

『野バラ』

 

透き通るようになって
自分をなだめることが
大人になる第一歩
道端にある野バラを一本抜き取って
胸ポケットに入れても胸ポケットに入れた気にならない
そんな大人になれたら嬉しいかも

見極めることを正しさと知った十代
お勉強はやがて未来を手繰り寄せる『』となり
水際でバシャバシャやるのはお年寄りのすることだと
分かったような口をして
あなたの股関節にキスをした

生ぬるいかい?

あまた溢れる制服の中からこれを選んだのは
パイロットになりたかったから
空腹になっても空爆はしないと約束できる
生まれ出てくる鬼をなだめるように
私も薄汚れた透明になって
あまた溢れる制服を着て
今日も行ってきます

パイロットなんかになりたくない
路面電車を一人で運転する
運転手になりたい

 

2020年3月

明るい空が閉まって

ポエトリー:

『明るい空が閉まって』

3月のよく晴れた空は閉じていた
時間という扉を開けると
影になった部分がある

駅ですれ違う子どもが母に言う
これゴミちゃうで、
まだ入ってんで、
の’で’に励まされる

あの日、母の元から出てきた時
それは開いたのではなく閉じたのだ
漂うものからの固定
私は母のものになった

それを最初に知ったのは
小学生の頃
ガンダムの映画が上映していると
学校で友達から聞いた情報を頼りに商店街の端っこにある日劇まで歩いた日
途中の絵看板で
そうではなくいかがわしい映画と知ってもなお
母は私の手を引いて歩いていった
最後まで

だから歩きました
美しく見守られて
開くのではなく閉じていく
変わらず私は母のもの

最後に
空はよく晴れていて
姉には内緒
商店街の不二家でホットケーキを食べました。

それからはずっと
なめらかな、すぅーっと息を吐いて
明るい家へ帰っています

 

2020年2月

人間の良さ

ポエトリー:

『人間の良さ』

家の軒先には滴が垂れて
外の様子を確認しようとする首筋をヒヤリとさせる
彼女は極暖を着込む僕とは対照的で
ふんわりとしたコート一枚
横から吹いては舞い上がる粉雪にもお構いなしに
だから
そんな涼しげな格好で玄関から顔を出し
今は冬だってば、もうちょっと着込みなよという僕の声にもゲラゲラ笑って
ちょっとそこはゲラゲラ笑うとこじゃないでしょって
応える声も粉雪同様お構いなしで
たくましく生きる人間の良さを見せつける

午後3時の
雨上がりは
残された生
まだあるよと
言える頃合い

手のひらに残る実感
希薄になりつつ
失われた時を思い返すように時間が果たす意味合いを
中途で仕舞い込む若気の至り陶器のように
僕もたくましく生きる人間の良さを見せつけたい

 

2020年2月