フィルム・レビュー:
「私たちの話し方 ~The Way We Talk」(2026年)
3才の時に聴覚を失ったソフィーは人工内耳を装用し、’普通の人’と同じような生活を送ろうとしている。ジーソンはろう者として、手話話者であることに誇りを持って生きている。アランは人工内耳を装用しつつも、手話を行うバイリンガルだ。同じろう者でありながら背景の異なる3人の若者が互いに影響を受け合いながら、それぞれの道を選ぶ。
劇中、ジーソンは「手話がオレの母国語なんだ!」と声を大にして言った。そうだ、手話話者にとって手話は母国語なのだ。例えば、日本語を母国語とする日本人は日本語でものを考え、日本語でモノを伝える。言語は思考を司る。言語はアイデンティティーであり、文化である。つまり今現在のジーソンの思考や行動は手話があってこそ生まれたもの。言葉は単なる道具ではないのだ。
人工内耳により、’普通の人’と同じように生きることを選択したように見えるソフィーは、ジーソンやアランたちとの交流を経て、自分の生き方を見直し始める。人工内耳を装着しても到底聴者ほどには聞こえないし、たとえ問題なく会話できたとしても聴者に合わせたそれがソフィーにとって自然な行為なのか。人が人として自然にふるまえるにはどうしたらよいのか。ソフィーにはそれさえ、ままならない。
この映画に結論めいたものはない。ソフィー、アラン、ジーソンも迷いながらそれぞれの選択をしてこの先も生きていく。もちろんその中には、人に合わせなくちゃならないことも絶えず出てくる。それは聴者もろう者も変わらない。ただ願わくば、ソフィーたちが借り物の道具ではない自分の自然な発露としての言葉で思考し、交流し、自己を定義することができればと思う。
映画はほぼ発話による音声が無い状態で上映された。BGMもほぼない。字幕だけを追って理解するのは頭が疲れそうだったが、それも次第に慣れてきた。また会話やBGMを含めた音声の強弱は感情を表現する大事な要素であると思っていたので、エンタメとしてエモーショナルな部分が不足するのではと懸念していたが、そこはよいストーリーや演者の好演により、まったく杞憂に終わった。音は無くてもエモーショナルなとても良い場面がいくつもあった。
主人公3人の個性を描き過ぎない点も好印象だった。それぞれに異なるソフィー、ジーソン、アランの物事に対するアプローチを殊更強調せず、変にドラマっぽ人物にはしない。くどい台詞も無いし、ドラマチックな展開もない。いいとか間違っているという判断はせず、ただ3人のその時々の選択をカメラが追っていくだけという姿勢。それに応える俳優たちの自然さがとてもよかった。静かだけど、とても雄弁な映画であったと思う。
映画は聴者でもろう者の’聴こえ方’、例えば雑音や耳に残る重い感じが想像できるような音像の工夫がなされていた。それがどこまで実際のろう者の聴こえ方に近いのか分からないが、ひとくちにろう者と言っても様々で、人によっては全くの無音ではないのかもしれない。
最後にもうひとつ。手話は手や表情で表現するのだから、日本の手話も海外の手話も例えば日本語と英語ほどには異ならないんじゃないかと思った。もしそうだとしたら、日本人も外国人も手話話者同士のコミュニケーションの方がよっぽどスムーズなのかもしれない。少なくとも日本語と外国語ほど別ものではないような気がした。
それにしても上映時間134分はちょっと長かったかな。