詩への向かい方

詩について:
 
「詩への向かい方」
 
 
詩は誰でも気軽に始められるアートです。音楽のように楽器が弾けなくてもいいし、絵画のように道具も要らない。同じ文学にしても俳句や短歌のような制限もないから、思い立って書くだけで誰もが始められる。こんなに間口の広いアートフォームは他にないと僕は思っています
 
そして思いつくまま書いてみる。意外と書けたら嬉しくなってまた書いてみる。そうするとネットで詩を調べたりするだろうし、アンソロジーの詩集を買ってみるかもしれない、特定の詩人の詩集を買うこともあるかもしれない。そういうことを繰り返していくうちに、ふと気付くことある。そうか、こうやって書けばいいんだ、詩とはこういうことなんじゃないかって。
 
でもその気付きは一瞬のこと。気付いたはずのことさえ分からなくなるし、すぐにまた別の壁が立ちふさがる。書けば書くほど分からなくなってくるし、読めば読むほど分からなくなってくる。これはもう音楽とか絵画とかも一緒ですけど、分からなくなってくるということは少しずつ分かってきているっていうことなんです。ただそうしたちょっとした気付きを繰り返していくと、たとえそれが些細な、それこそ紙きれや薄いセロファンのような薄い気付きであっても積み重なっていくものがあるんです。そしてその薄い積み重なりによって、少しずつではあるけれど、自分にとっての良い詩が着実に書けるようになっているのだと僕は思います。
 
ここで大事なのは自分にとって、ということです。少しずつ書けてくると、少しずつ詩が読めるようになってくると、詩とはこういうものなんじゃないか、詩とはこうあるべきなんじゃないかというルールが自分の中で芽生えてくることがある。それはそれでいいのだと思います。自分の目指す詩というものが明確になっているということですから、そこを目指せばいい。厄介なのはそのルールを他人にまで当てはめてしまうことだと思います。例えば、あなたのこれは詩じゃない、日記だ、単なる感想だって。
 
詩への向かい方って人それぞれなんだと思います。それこそ志高く絵画や音楽のようにいっぱしの作品としてアートとして成立させたい、そう思う人もいるだろうし、自分自身のセラピーのために書いている人もいるかもしれない。あるいは身近な人、困っている人に向けて元気になってもらいたい、そう思って書く人もいるかもしれない。千差万別、そこも含めて自由なアート表現なんだと僕は思いたいです。
 
せっかくの誰でも気軽に始められるアートなんです。広い間口をわざわざ狭くする必要はない。今の時代、ただでさえ詩は遠い存在なのですから、どんどんウェルカムでいい、僕はそう思っています。ただ自分なりの価値観で、こんなのは詩ではないと論じることも否定されるべきではありません。それもまたひとつの詩のありよう、詩への真摯な向かい方なのですから。
 
ただ僕のスタンスとしては、当人がこれが詩ですと言えばそれは詩でいいと思っています。せっかくの自由なアートなのです。ルールなんてクソくらえです。せっかくの懐の深い、自由な世界です。もっと多くの人に詩に触れてほしい、取り組んでみてほしい。それが僕の詩に対する基本的な向き合い方です。というところで繰り返しになりますが、これもあくまでもひとつの考え方です。

詩のルール その②

詩について:
 
詩のルール その②
 
 
これは僕の意見ですが、詩に分かりやすいとか分かりにくいとか難解だとかそうじゃないとかは関係ないと思っています。例えば音楽。ボブ・ディランはノーベル文学賞を獲りましたけど、あの歌詞をちゃんと分かっている人がどれだけいるか。少なくとも僕には分からない(笑)。ちゃんとには恐らくディラン本人にしか分からない。でも世界中にファンがいる。何故か。極端に言えば、皆そこに重きを置いていないからです(笑)。
 
絵画で言えばゴッホ。日本でもしょっちゅう展覧会があって、いつも大盛況ですけど、決して分かりやすい絵ではないですよね。もっと言えばピカソ、クレー、カンディンスキー。凄く人気がありますが、あの絵は理解できるか。僕も好きですけど、全然理解は出来てません。つまり鑑賞する側にとって理解できるできないの優先順位はそんなに高くはないのです。何か感じるものがあればいい。それが自分にとってよき作用をもたらすものであれば、それでOK。それだけのことなんです。
 
だったら詩だってそれでいいじゃないか、というのが僕の考えです。まどみちおの詩は分かりやすいって言うけど本当だろうか。吉増剛造の詩は難解って言うけど本当だろうか。まどみちおの詩はシンプルだから愛されているわけではないし、吉増剛造の詩は難解だからありがたがられているのではないのです。シンプルな詩を書く人、難解な詩を書く人、世の中にいくらでもいますが、その中でまどみちおや吉増剛造は愛されてきた。それは何故か、ということですよね。
 
時々、テレビでピアノ上手い王決定戦とか、歌が上手い王決定戦みたいなのやってますよね。どうやって点数付けるかっていうと、ピアノの場合はミスタッチをした回数が減点される。歌の方は機械が音程から外れてないかとかを判定する。言ってみればどちらも減点法です。日本的で嫌ですねぇ(笑)。もしかしたら詩もこれと同じように判定しようとしているのかもしれない。ここの意味は分かるか。これは何を比喩しているか。分からなければ×、あなたは詩が理解できない人です、という風に。
 
そうなれば誰もついてこないですよね。勉強が苦手な人が勉強を嫌いになるように、詩は理解できないなら、私には関係ないやって、好きになるはずはない。けどそんなことないよって僕は言いたい。勿論、人には向き不向きはありますから一概には言えませんが、音楽や絵画を楽しんでいるなら、詩だって同じように楽しむことが出来る。世の中、もう少し気軽に詩に接近できるムードがあればなぁって思います。

詩のルール その①

詩について:
 
詩のルール その①
 
 
詩にルールはないんですね。好きに書けばいい。勿論、人によってはそんなの詩じゃないとはっきりという人がいるかもしれませんが、基本的にはルールなんてないと思っています。個人的なことを書いてもいいし、世界について書いてもいい。でも長く書いていると自分の中である程度ルールが出来てきます。何でもありのはずが何でもありじゃなくなってくる。困るのは人の詩を読むときにそのルールが顔を出してしまうこと。それが冒頭で述べた、そんなの詩じゃないという判断に繋がっていくのかもしれません。
 
詩に分かりやすさは必要か。永遠のテーマに思えますが、これについて答えは出ているような気がします。つまり特に分かりやすさは必要ないということです。世に出回っているアートと呼ばれるものの多くが分かりやすさでもって書かれていません。分かる分からないはあくまでも結果です。自分の想像力を張り巡らせて思うがままに書いたものが、結果分かりやすかったり分かりにくかったりする。それだけのことかなと思います。
 
書き手は思うがままに自由に書けばいい。詩に分かりやすさは必要、なんてルールはないのです。絵画にしても音楽にしても作家はやりたいようにやればいい。それが創造するということではないでしょうか。人に分かってもらいたいから、人に評価されたいから、そういう理由で作っているわけではないのなら、創作に関しては自分のエゴをぶつけてしまえばいいと思います。
 
とはいえ誰にも相手にされないのはさびしいですよね。だから自分の作品の形を少し変えてみる。多少は道をならしておく。皆に喜んでもらえるようにラッピングしてみる。そういう工夫があるのだと思います。
 
ここからは僕の好みになります。詩は一言一句、分かる必要はないと思います。ただその詩の持っているムード、何を言わんとしているのか、そこから放射されているものは何か、それはキャッチしたいと思います。そしてそれは必ずしも作者の意図していたものでなくてもいいと思っています。逆に言うと、僕は皆が皆同じ解釈をしてしまうタイプの詩にはあまり興味がありません。つまり僕という個性は元々分かりやすさを好んでいないということなんですね。そのくせ、なんだこれ分からんなぁと四苦八苦する。つまり詩に関してはドMなんです(笑)。だから自分の書くものもヘンテコなものになってしまうのかもしれません。
 
 
その②へ続く。。。

詩との付き合い方

詩について:
 
「詩との付き合い方」
 
 
家には読みかけの詩集がいくつかある。アレン・ギンズバーグの『吠える-その他の詩(新訳版)』と現代詩文庫の『石原吉郎詩集』、それとルイーズ・グリュックの『野生のアイリス』。そこに先日、アマゾンに発注したハルキ文庫の『吉増剛造詩集』が加わった。
 
どれも思いついた時に手を伸ばして続きのページから読むことが多い。時には順序関係なしに途中のページを読んだりもする。『野生のアイリス』のようにちゃんとした詩集の場合は割と頭から読むが、全集やまとめたものなんかはあまり順序は気にしない。読みたいように読む。『石原吉郎全集』なんかは読み始めて1年以上経っているかもしれない。詩集は小説とは違うのだから、飛び飛びに読んでも構わないし、読んでも分からないものは分らないまますっ飛ばせばいい。あぁ、なんてフランクな読み物だ。
 
詩は分らないという声を耳にする。僕も最初はそうでした。でも段々と分かってきたことは別に分からなくてもいいということです。例えば音楽。皆分かってますか?ここのメロディの展開がどうとか、このリリックで作者が言いたいことだとか、或いはここの和音は理にかなっている、いや変則だから面白いとか。誰もそんなこと考えて聴きませんよね。
 
僕は絵画が好きだからよく美術館へ行きます。特にゴッホは大好きです。時には感じ入って、あ、今おれ、ゴッホと分かりあえた、という瞬間があったりします。とんだ勘違い野郎ですね(笑)。パウル・クレーも大好きです。あんなよく分からない抽象画でも観てるとなんかいいんです。感じるものはあるんです、不思議と。
 
ゴッホもクレーも日本ですごく人気があります。ルノワールとかフェルメールなら人気あるのも頷けますけど、ゴッホとクレーなんてどっちも分かりやすい絵じゃないですよね。でも凄く人気がある。これは理屈じゃないんですね。分からなくてもいいものはいい。なんでかなぁと言うと、多分絵画には慣れ親しんでいるからなんです。
 
僕は言葉が好きですから言葉による芸術が好きです。それが詩です。音楽や絵画と一緒で全体を眺めます。何か感じるものがあれば嬉しいし、なんか分かったぞと思う時はすごい嬉しい。でも分からなくても音楽や絵画と同様、流しているだけでも眺めているだけでもなんかいい感じ。全体が分からなくてもこのフレーズかっこいいなとか、ここの言い回しは面白いなとかがあればそれで十分なんです。
 
世俗的に詩はやっぱり励まされるもの、感動するものみたいなイメージがある。なんかいいこと言うみたいな(笑)。確かにそういうものもありますが、詩の表現はそれだけではありません。詩は言葉の芸術です。簡単に分かってたまるか、です(笑)。でも分かんなくてもいい、ゴッホやクレーの絵を見て分からないけどなんかいいと思うように、分かんなくてもなんかいいなって思ったらそれでいいんです。
 
いやいや、それが分からんのです、詩には何も感じないのですと言うかもしれません。それは多分慣れです。僕も最初はそうでした。だから詩に興味を持ち始めた時、シンプルな詩集である童話屋の『ポケット詩集』シリーズを読みました。そこで興味を持った詩人の詩集を買ってみるんですね。分かる詩もあれば分からないものもある。そうですね、詩集読んでなんとなく分かるのって2割もないかもしれません。でもそうやって詩に慣れてくる。そうすると分からないことがさして重要ではないと思うようになりました。
 
でも分からないことって苦痛ですよね。折角興味を持っても、その入口で自分にはこれ無理だってなってしまう。ただ詩ってなんかいいな、ちょっと興味あるなって人には高い壁眺めて詩って難解だよなぁって終わってほしくない。折角興味を持ってもらえたのだから、もう少しだけ手を伸ばしてほしい。
 
要するに詩が身近にないだけなのです。慣れていないから理解しようとしてしまうのです。理解しようとするから苦痛なんです。でも大丈夫。考えてみれば音楽や絵画だってそこまで理解していない、それと同じことなんです。詩は今その瞬間さえ言葉にしてしまえる懐の深いアートフォームです。詩も音楽や絵画のように分かる分からないにこだわることなく、肩肘張らぬまま楽しめる文化であってほしいなと思います。

二十億光年の孤独 / 谷川俊太郎

詩について:
 
 
先日、長男が通う中学校へ行ったのだが、図書室の壁に谷川俊太郎の『二十億光年の孤独』は貼りだされているのに気付いた。貼りだされてから随分と時間が経過しているような質感であったが、谷川俊太郎の詩はこうやって学校教育に用いられがちだ。平易な言葉使いなので、単純に若い子向きと思われている節がある。
 
ただ、だからといって理解しやすいというわけではない。入口がソフトな分、分かりやすいという印象を与えているのかもしれないが、詩の場合、平易な言葉使い=分かりやすい、という図式は当てはまらない。教師の皆さんにはこのなかなか難しい詩を子供たちへ投げて終わりにしないで欲しい。子供たちが詩から離れてしまわないように想像力をもって楽しませてほしいなと思います。
 
 
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「二十億光年の孤独」 谷川俊太郎
 

人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがったりする
 
火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ
 
万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う
 
宇宙はどんどん膨らんでゆく
それ故みんなは不安である
 
二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした

 
 
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読んで先ず引っ掛かるのは、火星人のくだりですよね。更に「ネリリ」とか「キルル」と畳みかけられちゃもうお手上げです。多分ここで詩から気持ちは離れてしまうと思います。ただ明確なタイトルがありますから、イメージとしてはかなりはっきりとさせることが出来る。要するに思春期の少年の姿が思い浮かびます。
 
大事なのはここで引っかかってしまい続けないことです。この詩は中盤からより具体的な描写が始まりますから、まずは最後まで読んでしまうこと。詩は分らないところは分らないままにしておけばよい。そのうち分かるかもしれないし、分からないままかもしれない。詩というはそんな長いスパンでのんびりと構えられる代物なんです
 
この詩の面白いところは置き換えて読むことが出来るところです。例えば、「火星人」を「あの人」と置き換えてもいいかもしれない。「火星人」を「地球の裏側の人」にしてもいいし、もっと思い切って動物に置き換えてもいいかもしれない。
 
後半の「宇宙」。ここは「世界」に変えてもいいし「心」にしてもいいし、「恋愛」とか「友情」に変えても面白いかもしれない。どうですか?そうやって自分の身近なものに置き換えて読んでみれば、違った感想をこの詩に持つのではないかなと思います。
 
僕が面白いと思ったのは「宇宙」を「インターネット」に置き換えて読んでみること。そうすると最初の「ネリリ」とか「キルル」がインターネット回線の立ち上がる音、世界を行き交う電波の音にも聞こえてきます。
 
そしてこの詩の一番のポイントは最後の「二十億光年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」ですよね。くしゃみ?ん?何のことだろう?と思うかもしれません。よく言われるのは、誰かが噂をしているからくしゃみなんだよ、という解釈です。火星人が同じように地球人のことを考えているから、地球人である僕はくしゃみをする。そんな図式です。
 
でも僕はそうは受け取りませんでした。主人公は何故くしゃみをしたか。それは鼻がムズムズしたからなんです。何故鼻がムズムズしたか。ここはやっぱりネガティブな予感ではないですよね。主人公はこの詩で述べられているようなことに対してポジティブな予感を抱いている。それが彼の鼻をムズムズさせる。僕はなんかこっちの方がワクワク感があって好きです。
 
谷川俊太郎さんの詩はこのように自由度が高いです。平易な言葉使い。すなわちそれは言葉の意味を限定していないということ。故に1950年代に書かれた詩であってもインターネットに置き換えて読むことが出来る。本当に凄い詩人だなと思います。

夜の招待 / 石原吉郎

詩について:

 

「夜の招待」 石原吉郎

 

窓のそとで ぴすとるが鳴って
かあてんへいっぺんに
火がつけられて
まちかまえた時間が やってくる
夜だ 連隊のように
せろふあんでふち取って――
ふらんすは
すぺいんと和ぼくせよ
獅子はおのおの
尻尾をなめよ
私は にわかに寛大になり
もはやだれでもなくなった人と
手をとりあって
おうようなおとなの時間を
その手のあいだに かこみとる
ああ 動物園には
ちゃんと象がいるだろうよ
そのそばには
また象がいるだろうよ
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ
椅子がゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる

 

(『サンチョ・パンサの帰郷』1963年)

 

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石原吉郎さんと言えば、背景が背景なものでつい深刻な顔をしてしまいがちですが、この詩はなんかパッと明るい感じがしました。明るいと言ってもやはり冷めた目線というか、「朝は 約束をしにやってくる」といえどもそこまで信じ切っていないというか。ただ僕の印象としては望みを託している方に気持ちは傾いているのではないかと思っています。基本的には石原さんの希望の詩なんだと思います。ていうか実際に希望の朝を迎えた時の、実体験に基づいた詩なのかもしれません。とまぁ、ここでもシベリアの強制収容所という石原さんの背景を見てしまいますが。

冒頭から‘ぴすとる’が鳴ったり‘かあてん’に火が付いたり戦争を想起させるような描写はあります。ただここで‘ぴすとる’や‘かあてん’と平仮名で表記しているところで印象はやわらぎますよね。ここに何か意味はあるのかなと思っていると、‘まちかまえた時間’、つまり争いごとが終わることが示唆される。平仮名はそういうことかもしれません。

‘にわかに寛大になり もはやだれでもなくなった人と 手をとりあって おうようなおとなの時間を その手のあいだに かこみとる’。この箇所、全部記載してしまいましたが、最高の言い回しですよね。‘もはやだれでもなくなった人’といった表現や‘おうようなおとなのじかん’といった表現、もうそれとしか言いようがないですね(笑)。

とにかく、平和な時間が訪れて、そばには象がいて、ここで言う象とは必ずしも動物の象のことではなく、人々ということかもしれませんが、いずれにしても‘おうよう’とした存在がある。そして‘来るよりほかに仕方のない時間が’やって来ることの見事さに石原さんは感動されているのです。

次の‘切られた食卓の花にも’から先のくだりは自由の象徴です。例えて言うと革命が起きて自由な世界が訪れる、歓喜の輪が広がってゆく、そんなイメージです。遂には手の中にある色とりどりのクレヨンまで溶けてしまう。それまでの考え方や思想までが溶けていくということです。

そして最後に‘朝が 約束をしにやってくる’わけですけど、ここではまだ朝はやって来ていない、まだ歓喜の中、人々が作り出す明かりはあるけれどまだ夜の闇の中にいる。今の段階では約束はまだできていない、そんな状態でこの詩は幕を閉じます。

とはいえ、これらはあくまでも僕の解釈です。それとて時間が経てば変わりゆくもの。僕は石原さんのシベリア体験と結びつけてしまいましたが、ここに戦争の影を見る必要はないし、そうではない読み方はいくらでも出来そうです。単純に夜が朝に変わる様とかね。いずれにしても何かが終わり何かが始まる、そんな気分をもたらす作品かもしれません。

個人的な話でなんですが、僕の祖父は終戦後、シベリアでふた冬を過ごし帰ってきました。祖父は近寄りがたい人だったので、喋った記憶はほとんどないのですが、石原吉郎さんの詩を僕はどこかに祖父を感じながら読んでいるところがあります。ですのでこの「夜の招待」には、あの時解放された人々の風景はこんな風だったのかな、祖父も半信半疑でありながら徐々に望みへと気持ちは傾いていったのかな、まんじりと朝を待ちわびていたのではないかな、そんな風に想像をしてしまいます。

ところでこの「夜の招待」は現代詩文庫の石原吉郎詩集で読んでいる時に、なにか引っ掛かりを覚えたのですが、調べて見るとこの詩は石原さんが初めて雑誌に投稿された時の詩なんだそうです(当時39歳だとか)。つまり石原吉郎のデビュー作です。そのデビュー作にピピンと来たオレもなかなかだなと、自画自賛してこの文章を終わりたいと思います(笑)。

詩に触れる

詩について:

『詩に触れる』

 

仕事でも趣味でも長く続けていると時折気付きが訪れます。世間的にはどうか知らないけど、そういうことか、こうすればよいのかという自分の中での新しい発見。誰にもそういう経験はあると思います。

僕は下手な詩をもう10年ほど書き続けていますが、僕なりの発見はこれまでに幾度か訪れました。先日のテレビ放送『SWITCHインタビュー 達人たち ~ 佐野元春×吉増剛造』もその一つです。内容については既に記載しているので省きますが、これは自分にとって得難い気付きでした。

そこで吉増剛造さんの詩を、もちろんこれまでも詩のアンソロジーや雑誌やなんかで吉増さんの詩に触れることはあったのですが、ちゃんと詩集を読んだことはなかったので、番組で吉増さんが朗読していたあの『黄金詩篇』、これを読みたいと思って、早速Amazonで検索したんですけど無いんです。番組終わりによくある皆が殺到して売り切れとかそういうことではなく、恐らくもう刷っていない。取り扱い外になってるんです。

番組終わりに僕と同じように吉増さんに興味を持った方、たくさんいると思うんですけど、こうやって現代詩への接近の機会を失ってしまうの、非常に残念です。今はネットで著作権はどうかは知らないけどアップしている人もいるし、吉増さんの他の詩集であったり、簡単にまとめたものがあるので是非、多くの人に吉増さんの詩を手に取ってもらいたいですね。

これはずっと前の僕の気付きでもあるんですけど、詩を書く力と読む力は繋がっているのではないかということ。これは詩に限らず、短歌や俳句も、或いは音楽や絵画もそうかもしれません。鑑賞する能力とそれに取り組む能力は互いに影響し合っている、そういう部分があるんじゃないかと思っています。

現代詩、非常に難解ですよね。でも頭で追っかけていかなくていいと思います。理解したという証を求めなくてもいいと思います。とはいえ、あまりにも取っ付きにくい。だからこそ触れる機会を持って欲しい。多分これは慣れだと思うんです。僕たちの日常に溶け込んでいれば、どんな難解な詩であっても何となく肌で感じていればそれでオッケー、人がどうかでも作者の意図がどうかでもなく自分はこんな感じ、というのを気軽に持てるようになれば、多分それが文化だと思うんですが、そうなればとても嬉しいです。

ですので現代詩という今の時代において随分と遠くに離れてしまったものに対して出来るだけ多く人に触れて欲しい。目に馴染んで欲しい、そう願っています。ビカソの絵を初見で見てもなんのこっちゃだと思うんですが、有名ですからもう目に馴染んでいますよね。誰でも何がしかの感じることはある。でもいちいち理解の証を求めないですよね。そういう風に現代詩とも気さくな関係を築いていければ、そしてやがて短歌な俳句のように自分でも気楽に創作していける関係になれば、詩を好きな人間として、こんな嬉しいことはないですね。

アマンダ・ゴーマンさんの詩を聴いて

詩について:
 
「アマンダ・ゴーマンさんの詩を聴いて」
 
 
先日、バイデン新大統領の就任式が行われました。式典にはレディー・ガガさんをはじめ多くのアーティストが花を添えましたが、最も話題となったのは22才の詩人、アマンダ・ゴーマンさんによる自作詩「The Hill We Climb」の朗読でした。なんでも大統領就任式では詩人が招かれ詩を朗読するのが慣例になっているようです。前大統領の時は詩人が招かれることはなかったようですが(笑)。
 
僕も字幕付きの動画を見ましたが(ネットですぐ検索できます)、自作詩「The Hill We Climb」、そして彼女のパフォーマンス、共に素晴らしかったです。何も知らない理想主義だと、グレタさんに対してと同じように揶揄する人もいると思いますが、できない理由を列挙する古い政治家よりも僕は圧倒的に彼女たちを支持します。心を打つとても素晴らしい朗読でした。
 
ところで彼女の詩、ところどころで韻が踏まれていました。僕は英語が得意ではないのですが、それでも意識して聞いていればそれとわかる箇所がいくつもありました。これはもう詩のマナーですね。古くはウィリアム・ブレイク、現代でもボブ・ディランをはじめ多くのアーティストが当然のように韻を踏んでいます。これは詩は読まれるものだという前提があるからなんだと思います。決して紙面上に書かれて終わりということではないのですね(勿論、それだけでも詩は成り立ちます)。
 
韻を踏むことで聴き手への伝播力は高まります。しかしただ韻を踏めばよいというものではない、あくまでも聴き手に伝わりやすくリズム感を添えてということだと思います。僕も詩を書くので分かりますが、つい韻に引っ張られてしまうことがある。しかし大事なのは韻を踏むことではなく、相手に伝えることです。今回、ゴーマンさんはとても上品に韻を踏んでいました。目から鱗でしたね。
 
あと言葉での表現について言うと、 ’Show, don’t Tell’ 「語るのではなく、見せる」というものがあります。「嬉しい」とか「悲しい」と言っても、どう嬉しいのかどう悲しいのかは相手には伝わらない、だから映像化しろというものです。例えば「嬉しい」時。「心が躍りあがるほど嬉しい」と言えばどれぐらい嬉しいのかがより伝わります。例えば「冬の朝」というよりも「太陽がゆっくりと腰を上げる朝」と言った方がイメージが湧くと思います。ゴーマンさんの詩、特に後半部では視覚的な描写を畳みかけてきます。歌で言うところのサビですね、最も強調したいところを映像で見せていく。そしてここでゴーマンさんの口調も激しさを増し早口になる。この効果は大きいと思います。
 
この 「語るのではなく、見せる」という部分、2018年に当時中学3年生だった相良倫子さんが沖縄全戦没者追悼式で朗読した自作詩「平和の詩」は更に強烈に映像を喚起させるものでした。沖縄戦の悲惨さを語るのではなく、映像をフラッシュバック的に次々と投げ込んでいく。この詩の朗読映像も検索すればすぐに見られます。詩のありようがどういうものか、興味がある方は是非。
 
そしてこれが一番大きいと思うのですが、アメリカという国はいろいろ問題を抱えてはいますが、大統領就任式典に詩人が招かれ、自作詩を朗読するという事実が本当に素晴らしいなと思います。詩というのもは生活に根差したものなんですね。そして僕たちの日常になんらかの良きものをもたらしてくれる。そんな風に僕は捉えています。しかし日本においてはどうでしょうか。
 
日本の詩は先人たちが長い年月をかけ素晴らしいものを積み上げてきて、僕たちはその恩恵にあずかっている。それは間違いない事実です。けれど一方で詩が遠くなってしまった、僕たちの日常と関係のないものになってしまった部分も否定できない。このことは新しい時代において僕たちが変えていかないといけないことだと思います。
 
ライミング、映像化する、僕たちの生活と地続きである、という点で考えてもゴーマンさんのそれはスピーチではなく、詩の朗読(ポエトリーリーディング)です。僕も日常に詩を取り戻していきたい、アマンダ・ゴーマンさんの朗読を聴いてそんなことを思いました。

兄弟/ビートたけし

詩について:
 
「兄弟/ビートたけし」
 
 
詩を書く時はもちろん作者の個人的体験や見たこと聞いたこと、或いは長年培った思考や物事への捉え方がベースになりますが、それはあくまでもトリガーに過ぎず、詩において作者の喜怒哀楽というのは重視されません。むしろ作者自身の喜怒哀楽から離れることでその言葉は詩になりえるものだと思います。
 
例えば宮沢賢治の詩は賢治の個人的な体験や思想から出たものであるけれど、我々が読んでもとても心に響くものです。これは何故か。賢治の詩は個人の喜怒哀楽にとどまってはいないからです。宮沢賢治は自身の詩のことを‘心象スケッチ’と呼びます。この言葉が全てを表していますよね。だから我々はそこに入り込むことが出来るんです。
 
だから詩は日記とは違うんですね。個人的な体験がそのまま綴られた日記、あるいは個人的な感情がそのまま吐き出された日記に他人が入る余地はありません。せいぜい、あぁ、あなたは嬉しかったんだね、あなたは悲しかったんだねというぐらい。その言葉はその人だけのもので、そこから広がってゆくものではないんです。
 
次に取り上げるのはビートたけしさんの「兄弟」という詩です。たけしさんはお笑いだけじゃなく絵も描きますし文章も書きます。映画監督としては外国で大きな賞を取るほどの名監督ですよね。つまりたけしさんも賢治同様、自身の個人的な体験を他人事のように描けるひとなんです。
 
加えてこの「兄弟」という詩は子供時代の話ですから、もう何十年も前のことを思い出して書いている。つまりこの時点で個人的な体験から距離が十分に取れているんですね。簡潔で大切な部分だけが純化されている。流石のたけしさんも昨日今日の体験ならここまで描けなかったろうと思います。
 
 
 
 
「兄弟」 ビートたけし
 
兄ちゃんが、僕を上野に映画を見につれて行ってくれた
初めて見た外国の映画は何か悲しかった
ラーメンを食べ、喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ
兄ちゃんが、後から入ってきた、タバコを吸ってる人達に
殴られて、お金をとられた
帰りのバス代が一人分しかなく
兄ちゃんは僕をバスに押し込もうとした
僕はバスから飛び降りた
兄ちゃんと歩いて帰った
先を歩く兄ちゃんの背中がゆれていた
僕も泣きながら歩いた

漂泊者/W.H.オーデン

詩について:

漂泊者/W.H.オーデン

 

W.H.オーデン(1907年2月21日 – 1973年9月29日)。20世紀最大の詩人の一人と言われている巨人です。イギリス出身ですが、後にアメリカへ移住。時代が時代ですから戦争の影響が色濃く出ている詩が数多くあります。愛にまつわる詩も沢山ありますが、オーデンさんは同性愛者でありましたから、ヘテロセクシャルとはまた違う表現になっているところがとても魅力的です。

僕は海外の詩を読むのも好きです。が、はっきり言ってほとんど理解できていないです。海外の詩は宗教が絡んだりもしますし、それになんと言ってももともと詩は詩人が雲を掴むようにして編んだ言葉ですから、それが翻訳されるとなると尚の事理解し難い表現になる。ただそういう理解し難さが詩の魅力でもありますから、僕みたいなお調子者はその魅力に誘われてついつい海外詩へ手を伸ばしてしまうんですね。で結局ほとんど理解できない。僕の場合はそんなことの繰り返しです(笑)。

その点、オーデンさんは21世紀の日本人が読んでも割と馴染めるというか、こちらに引き寄せて読めるというか。無人島に本を持っていくなら間違いなく候補に上がるような、鞄の中にいつも忍ばせたい。僕にとってはそんな詩人です。

 

W.H.オーデンの詩「漂泊者」The Wanderer(壺齋散人訳)

運命は暗く どんな海の底よりも深い
運命に見舞われた人間は
春のさなかに 花々が咲き乱れ
なだれが崩れ 岩肌の雪がはがれるとき
自分の故郷を後にせねばならぬ

どんな手もあいつを抱きかかえることはできず 
またどんな女たちの制止もあいつをとめることはできぬ
あいつは番人たちの間をすり抜け 森を横切り
異邦人となって 乾くことのない海を渡り
息詰まる海底の漁礁を通り過ぎていく
かと思えば 湧き水のほとりに横になって
ぶつぶつと言葉を吐いたりもする
岩の上にとまった おしゃべりな小鳥のように

疲労した夕方 頭を前方に垂れたまま
夢見るのは故郷のこと
妻が窓から手を振って 喜び迎えてくれるや
一枚のシーツに包まって抱き合う夢だ
だが目覚めながら見るものといえば
名も知らぬ鳥の群れか
浮気をする男たちがドア越しにたてる音だ

あいつを敵の虜にするな
虎の一撃から救ってやれ
あいつの家を護ってやれ
日々が過ぎていく不安な家を
雷から護ってやれ
しみのようにじりじり広がる崩壊から護ってやれ
あいまいな数を確かな数に変え
喜びをもたらしてやれ
帰る日が近づくその喜びをもたらしてやれ

 

この詩はその名のとおり漂泊者を詠んだ詩です。が実際の漂泊とは限りません。心の漂流という見方も出来るんじゃないでしょうか。

人はある年齢になると旅に出ます。実際に家を出る人もいるでしょうが、そうじゃなくても心の旅を始める。旅というのは行き先が決まってますから、この場合はやはり漂泊と言った方が適切でしょうか。親の保護下から離れ、自分なりの価値観の揺らぎに目覚める。その問いへの旅は誰にも止めることは出来ない。思春期はその一つの例かもしれません。

ある人はいつしか大人になり、特別な出会いを経て家庭を持つ。自分なりのホームを見つけるんですね。そこで一区切り付けばいいのですが、やがて恐らく、また新しい問いが心に芽生え、心の漂流が始まるなんてことも。

ここが嫌だという訳ではなく、ここではない何処かに本当の居場所があるのではないか。そんな風に思うのもまた人の心のありよう。ま、この詩は心の漂流ではなく、実際に家を飛び出しちゃった人の話ですが(笑)。

いつの日か帰る日はあるのだろうか。この詩は漂流を鼓舞する力強さ、或いは漂泊の所在なさだけでなく、そういう希望も含まれている。そんな詩だと思います。