年の瀬に

ポエトリー:

『年の瀬に』

 

君に届け
言葉に乗って
君に届け
言葉に沿って

僕は君に
伝えたいことが
人より多くある

例えば今朝の
澄んだ空気や
例えば町の
賑やかなお囃子

僕は君に
届けたい
言葉に乗せて
届けたい

僕は人より多く
君に話したいことがあるんだ

例えば冬の冷たい朝
人より先に冷たいねって伝えたい
例えば冬の三日月
人より先に綺麗だねって伝えたい

遠くのものから近くのものまで
君と僕を隔てる妙な諍いとか
濡れた瓶の縁まで
そびえる障害はそのままにして
その苛立ちの語尾が丸くなるように変換して
君と僕の日常にして照らし出す

そんな日があってもいい
だって今年ももう
残り僅かだから

#MeToo

昨日、NHKのニュースウォッチ9でジャーナリストの伊藤詩織氏の特集が放送されていた。2015年に性的暴行を受けた彼女は記者会見を開きその被害を白日の下にさらした。この日本で、尋常ならざる勇気を持って、顔をさらし堂々と会見を行った。

しかし彼女に性的暴行を行ったとされる山口敬之氏は彼女を執拗に攻撃した。著名なジャーナリストであった彼は表には一切顔を出さず、疑惑には答えず、質問は受け付けず、自分の言いたいことだけを自分の息のかかったメディアを通じてのみ一方的に反論した。 どちらが正しいかは二人の態度を見れば明らかだ。しかし世間はそうではなかった。何のバックボーンも持たない一人の女性ジャーナリストの声よりも、金とコネと権力を持った親父どもの声を支持する顔の見えない連中は、彼女を執拗にバッシングし続け、疲弊した彼女は追われるようにして日本を出て行った。

彼女は今も戦っている。世界中の性被害者との交流を重ね、事実を伝えるという地道な活動を行っている。しかし事件はまだ数年ほど前の話だ。表情を見れば、彼女の傷は到底癒えていない事は明らか。それでも何とか踏ん張って毎日戦っている。

昨年の#MeToo運動はハリウッドの大物プロデューサーによるセクハラへの告発が始まりだったか。その後、続々と大物著名人によるセクハラ行為(トランプ大統領も!)が明るみになり、#MeToo運動は世界的な広がりを見せた。レディー・ガガを始め、多くの有名人はそれを支持した。しかし日本ではどうだっただろう。アイスバケツチャレンジにはこぞって参加した有名人が、こと#MeToo運動になると誰一人手を挙げようとしない(僕が知らないだけかもしれないが)。どころか伊藤詩織氏はバッシングされ続け、彼女への支持を表明する有名人はほとんど現れなかった。そんな日本で彼女は戦っている。

僕は彼女の声を支持します。このような私的なブログではあるが、僕は伊藤詩織氏を支持します。

Room25/Noname 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Room25』(2018年)Noname (ルーム25/ノーネーム)

ノーネームの2作目。1作目の『Telefono』(2016年)が好評だったようで、それまでの平穏な生活から一転、各国をツアーで回る日々が続いたそうだ(その間、日本公演もあったようです)。デビュー作でいきなり脚光を浴びたアーティストが一様に辿る道として、慣れないショービジネスの世界に戸惑い、自分を見失いそうになりつつも、そこで見た新たな世界に触発されて次作では一気に世界観が広がっていく、というのはよくある話で、ノーネームも全く同じく、基本的なモノづくりに向かう姿勢としては1作目とさほど変わらないとしても、アウトプットされて出てきたものは音楽的にもより深く、詩の面でもも視野はより大きなものとなり、やはりアプローチとしてはそのリーチが格段に伸びている。

1曲目の『Self』ではそれこそ前作を踏襲したソフトなサウンドだが、聴き手は2曲目の『Blaxploitation』で度肝を抜かれるだろう。ヒップホップのジャズへの接近は近年のトレンドであるが、チャンス・ザ・ラッパーを中心に今やシーンの最重要地域であるシカゴ一派はもともと従来のヒップ・ホップに頓着しない。今回もそのシカゴ一派が繰り出すサウンドはノーネームのリリックを乗せて縦横無尽に駆け巡っている。

続く『Prayer Song Feat. Adam Ness』でもそうだが、リズムはかなり複雑だ。人々の感情に最接近する生き物のようにうねるジャズ。その変則的なリズムはどこかノーネームたちアフリカ・アメリカンのルーツを思わせる。そう、今回のアルバムでは2曲目のタイトル、『Blaxploitation』からも想起されるように自らのアイデンティティーへの言及が顕著だ(『Blaxploitation』の意味は分からないが)。黒人であり、女性であること。そのことはサウンドも含め歌詞に置いてもかなり強く言及されている。落ち着いたトーンの(厳しい世界が歌われてはいるが)1作目を聴いて、ノーネームはいかにもヒップ・ホップな言葉遣いをしない人だと勝手に思い込んでいた身としては、今回の‘nigga’や‘bitch’や‘pussy’といった言葉が飛び交う歌詞に随分と面食らってしまった。詩の詳しい中身は英語をあまり解さないのでほとんど分かっていないが、それでも彼女の意図や決意や意志は十分に伝わってくる。肉体的なサウンドはそのメッセージ故だろう。

ところで、飛躍的に音像が豊かになったこのアルバム。ノーネームの言によると、生の楽器にこだわったそうで(外野から口出しされるのが嫌だから、全部自分でお金を出したらしい!!)、ゲストもふんだんに交えて、通常のポップ・ソングからすれば突拍子もないご機嫌なメロディーが聴けるのだけど(#7『Montego Bae』とか#8『Ace』とか)、これらはチーム全体のアイデアなのか。メロディやサウンドのアイデアはどこまでがノーネームのものなのか。そこはちょっと気になりました。

いずれにしてもノーネームのラップ・スキルは相変わらずとても滑らかでクール。彼女の場合、元々はちょっとしたイベントでポエトリー・リーディングを披露する街の詩人だったのだが、そこは音楽が伴おうが変わらない。キャリアを重ねてフロウも更に磨かれているけど、いかにもラッパーな感じはしないし、雰囲気はあくまでも街の詩人のポエトリー・リーディングというところが僕は好きだ。

Tracklist :

1. Self

2. Blaxploitation

3. Prayer Song Feat. Adam Ness

4. Window Feat. Phoelix

5. Don’t forget about

6. Regal

7. Montego Bae Feat. Ravyn Lenae

8. Ace Feat. Smino & Saba

9. Part of me Feat. Phoelix & Benjamin Earl Turner

10. With you

11. no name Feat. Yaw & Adam Ness

荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋 in 大阪 感想

『荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋』in 大阪 感想


大阪は天保山、大阪文化館で開催中の『荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋』へ行きました。ジョジョと言っても僕は第5部までしか読んでないので、いっぱしのジョジョラーとは言えない半端者なのですが、いやいや半端者こそジョジョラー、こりゃ行かにゃならんだろと。大阪での開催は2018年11月25日~2019年1月14日なので、グズグズしてると学生さんたちが冬休みに入ってしまう。たださえ混んでそうなので、慌てて行くことにしました。

行って思ったこと。想像以上のボリュームでした。大阪文化館には行ったことがなかったのですが、海遊館の横だしどうせ小ぢんまりした会場での小ぢんまりした展覧会だろうと高を括っていたら意外や意外。見どころ満載で、そんなにゆっくり観ていた覚えはないのですが全部観るのに2時間以上はかかりました。素直に行って良かったです。

とにかく原画がいっぱい置いてあって、荒木先生は原画展なのでライブ感を楽しんで欲しいと仰ってましたが、実にその通り。例えばジャンプ掲載時の原画には下描きが透けて見えてそのまま。僕は漫画の世界に疎いのでよく分かりませんが、薄い青の色鉛筆のようなもので、下描きをしていて(青だと印刷時に写らないからかな?)、そのラフな幾つかの線が躍動感を醸し出していて、で近づいて見ると結構修正液で修正してるんですね。これがかえってリアリティーを出していて、やっぱり躍動感、絵が生まれていく生々しさが表れていました。

展示の流れも良かったですね。導入部があって、ジャンプ掲載時の原画があって、カラー原画があって。ジョジョ漫画の論理的な解説もあり、最後にクライマックスというかドカンと縦2メートルぐらいの描き下ろしカラー原画が部屋を囲むようになんと12枚!!流石偉大な漫画家というか、起承転結がちゃんとあって飽きさせない趣向が凝らされているなと。荒木先生が今回はベスト・オブ・ベストを出したと語っていたようにホントにずっしりとしたボリュームの展覧会でした。

で今言ったように始めに導入部があって、そこで先ず我々は「ドドドド~、ジョジョ展に来たぜぇ~」てテンションが上がるわけですが、色んなパターンの原画を観て最終的には「荒木先生スゲェ!」ってなる。恐らく多少なりとも絵が好きな人であれば、ジョジョ自体を知らなくても圧倒的な画力にひれ伏してしまう。やっぱ荒木先生の絵の力は相当なものなんだと。色彩感覚は相当なものなんだと。そこは改めて思いましたね。

だからジョジョの世界というか、ここはもう荒木先生の世界と言うべきでしょうね。大衆漫画ですから面白くてナンボなんですが、そういうコマーシャルな部分よりもむしろ作家性がバーンッ!と来る。石の塊みたいな物量でゴゴゴ~ッとこれが荒木・ザ・ワールドッ!みたいに来る。荒木飛呂彦という作家の個性が全面に表れていて、でもこれ、実は作家として当たり前のことですよね。僕は詩が好きですから詩人で例えますが、茨木のり子さんにしても吉増剛三さんにしてもその言葉は圧倒的に茨木さんで圧倒的に吉増さんですから、そこは僕個人としても凄く刺激になりました。

あと、さっきも言ったように下描きなんかの展示もありますから、創作の一端が垣間見える部分もありまして、そこは非常に興味深かったです。有料ですが荒木先生の音声ガイドもあり、裏話も聞けたりするのでなかなか面白いです。ガイドの中身はネタバレになるから書きませんが(笑)。

とにかく初めから最後までジョジョ、ジョジョ、ジョジョ。ジョジョ展なんで当たり前ですが、僕としてはジョジョ展というより荒木飛呂彦という一人のアーティストの絵画展という印象を強く持ちました。単純ながら「オレも絵を描きてー!」と思わせるような圧倒的な波紋のエネルギーというか刺激を与えてくれる展覧会で、荒木先生がライブ感を楽しんで欲しいって言ってたのはそういうことだったのかもしれないですね。人に何かしらの意欲をかき立たせる、触発させるっていうのは優れたアートの一つ条件ではないかなと。そこは改めて感じました。

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』 感想レビュー

フィルム・レビュー:

『The Shape Of Water/シェイプ・オブ・ウォーター』〈2018年)

なんだか試されているような映画だ。僕は全てに等しくありたいと思う。けれど僕は日本人だ。同じ肌の色、同じ宗教、似たような価値観の中で育った。小学校時代、確かにいじめられっ子はいたし、皆に避けられている子はいた。けれど僕は避けたりはせずに、なるべく等しく接してきた。つもりだ。でもそれ、お前の本当なのか?

具体的に考えてみる。もし、僕の子供たちが大きくなって、身体に障害を抱えている人、若しくは肌の色の違う、宗教の違う人を連れてきたら。僕は顔色を何一つ変えず接することができるだろうか。僕には自信がない。しようとは思うけど、心が付いていかないかもしれない。

折りもおり。僕はアジアのとある地域にいた。たかが3日ほどの滞在であっても、海外に出たことが数えるほどしかない僕にとってそれは多少なりともストレスのかかる出来事だ。ふと考えてみる。僕はここで暮らすことはできるだろうか。

この映画には人間ではない生き物が出てくるが、それは単に生き物ということではなく、やっぱりメタファーだ。つまり僕は僕の物差しでは測れない人を見かけた時、身構える。極端に言えばそうした人を異物と捉えて明確に線を引いてしまう。会社に新しい同僚が来た時のように自動的に手を差しのべることは出来ないのだ。

この映画でも主人公たちは一瞬たじろぐ。けれど主人公とその友人たちは実はさほどでもない。主人公は何か特別な理由があって、ある生命に心を寄せていくのだけど、そうではない友人たちにしても初めて見る自分たちとは姿形が異なる人物(ここは敢えて人物と言う)に対してさほど拒否を示さない。自分たちとは姿形が変わろうとも、たまにはそういうこともあるさとでも言うような態度でさほどでもないのだ。

しかしこの映画にはそうではないない人たちも登場する。心安いパイ屋の主人は黒人が店に入ること拒否する。国家機密を扱う連中はいわずもがな。一方で自分たちとは違う誰かのことを、たまにはそういうこともあるさと肯定する存在か確かにいる。この映画はそのことも高らかに宣言しているのではないか。

僕は全ての人に等しくありたいと思う。けれど今のところはそういう機会が少ないから、いざ自分がその立場になった時どういう態度を取るのか正直分からない。主人公も友人たちも自分の物差しでは測れない誰かを異物と捉えて線引きしたりはしない。何故なら彼らも社会から弾き飛ばされた人たちだから。彼らはよく分かっている。それがどのような意味を持つのかを。だから彼らは自動的に手を差しのべる。

僕たちは想像する。一方で想像しきれないこともある。けれど人の気持ちなど元より分からないものなのだ。分からないことを当たり前の事とするならば、怖れる必要はないし無理をする必要もない。自分のストラグルを誰も分からないのと同様に他人の心情も分からないのだ。

人と人とは本来そういうものなのだとリセットしつつ、分からないまでも相手が今どういう思いでいるのかを想像する。思いやりの気持ちを多少なりとも持てればいい。分からないからこそ親切にできればいい。そして主人公やその友人たちが行ったように、僕も自動的に手を差しのべることが出来るようになれば。『シェイプ・オブ・ウォーター』を観て僕は今、そんな風に思っています。

綻び

ポエトリー:

『綻び』

 

君は明日をつかまえた
僕はこころなしか遠くなった
手首には跡が残った
言葉は行ったり来たりして声が残った
冷たい空気に気付いたから
ここに来てからの日々を想う

意味は昨日からやって来た
答えを用意していた
大人しく黙って見ていた
瞼が重くて仕方がなかったが
明け方、用意した答えをそのままに
贅沢なワインの口を開けた
で、どうする?

君は人生の意味を問いかける
形を正確になぞれるか
感受性は試される
神経質な縫い目を合わせたがっているな

 

2015年4月

この世界の片隅に/こうの史代 再読 感想

ブック・レビュー:

『この世界の片隅に』 こうの史代 再読 感想

 

『この世界の片隅に』をもう一度読みまして。もう一度って言っても前読んだ時からまだ1ヶ月ぐらいしか経ってないんですけど、まぁそれでも1度目ではよく分からなかったところがなんとなく、あ~そうなんかねぇ~ぐらいにはなったような気もして、やはり2度目だと落ち着いて読めたのかなぁなどと思ったりもしています。

1つ目。これは皆もそう思ったかもしれないですけど、やっぱ哲さんのくだり。よく分からないですよね~。ちょっと説明しますと、すずさんの幼馴染に哲さんて方がいて、この人は水兵さんなんですけど、休暇ということですずさんの嫁ぎ先にふらっとやって来て、ていうか確信犯的にやって来るんですけど、この人が子供時代以上に馴れ馴れしくてですね、「すず、すず」って呼び捨てにするぐらいなんですけど、じゃあ今日はすずの家に泊めてもらおうか、なんて言うわけです。そこですずさんの夫である周作さんがですね、「今日は父がおらんですけぇ、私が主です。あなたをお泊めするわけにはいきません」みたいなことを言いまして。ここで読者は、おぉよう言うた周作さん、それでこそ周作や、なんて思うんですが、ところが周作さん、離れというか物置に追いやった哲さんとこへすずさんに行火なんか持たせて、あっちは寒いから持って行ってやれなんて言うんです。あかんっあかんっ、そんなん離れに二人きりにしたらあかんやんか!なんてこっちは思うわけですけど案の定哲さんはすずさんに言い寄りまして、おぉ~っ、お前ら何しよんね~ん!って展開になるわけです。結局すずさんが、うちは周作さんが好きですけぇみたいなことを言って事なきを得るんですが、それにしてもですよ。おい、周作!あんた何で大好きなすずさんを差し出すような真似やったんやって思うわけです。

ただこれがですね、読み返してみるとなんか分かるような気がしてきまして。だって周作さんにしたってすずさんが好きで、何も知らんすずさんを無理やりって言ったらあれですけど、もしかしたらすずさんにいい人がおったかもしれんけど、それを嫁に貰ったわけで、そういう意味じゃ周作さんには負い目みたいなのがあるわけです。で哲さんとすずさんは幼馴染で傍で見てたら仲がいいのは分かるし、哲さんは水兵だからいつ死ぬか分からんし、わざわざすずさんのところに来たってのは今生の別れを言いに来たんだというのはそりゃ誰にだって分かるし。それが周作さんの優しさって言ったらそんなの優しさじゃねぇなんて言われそうだけど、自分の負い目もあるだろうけど、すずさんと哲さんのこと考えたら周作さんは人の気持ちに敏感な人だからついそうするのが一番いいんだなんて。他人から見たら絶対いいわけないんですけど、当事者はですね、周作さんはすずさんが好きだからそういう時はそう考えてしまうもんなんですよ。

ていうかこの行ったり来たりな頼りない男の微妙な心情をこうの史代さんはよく描けるなと。表情もそうですけど、微妙な心の動きをホントに丁寧に描くんですね。だからやっぱこうの史代さん自身も他人の感情に敏感な人なんだろうな~と勝手ながら偉そうに思ったりしました。

あと終盤の方で義姉の径子さんがすずさんに、あんたの居場所はここなんやからここにおったらええ、みたいなことを言うのですが、2度目読んだ時にはここが凄く印象に残りました。すずさんなりに思い悩むところがあって、でもそれは夫である周作さんにも十分に分かってもらえずに、そこでキツイ性格の径子さんがすっとすずさんに吐くセリフがね、全然ドラマチックじゃないところがまたええですよねぇ。

でまぁそういうところを見ていくと、こうの史代さんはやっぱり詩人だなぁと。これは中盤の話だったか、土手ですずさんが海というか軍用艦を見ていて、そこへ周作さんが仕事から帰ってきて、落ち込んでいるすずさんの頭を撫でようとするんですね。でもすずさんは周作さんの手を振り払う。周作さんは撫でようとする、すずさんは振り払う、そんなことを繰り返す描写があって。で後で分かることなんですが、実はすずさんの頭には10円禿げができていたっていうオチがつくんですけど、でも本当はね、もしかしたらすずさんが周作さんの手を振り払ったのは10円禿げがバレるのが嫌だったというよりも、別の意味があったんじゃないかって、そういう行間があるんです。

だからあらゆる場面でそうなんですけど、こうのさんはこの辺をクドクドと説明したりしない。絵でもって、前後の動きでもって表現するんですね。だから読む人によって色んな解釈が出来る。読む場所や時によって違う見え方がする。つまりはポエジーなんです。世の中には言葉で説明できないものがあって、それを言葉で説明するのではなく、ポエジーという目には見えないものを立ち上がらせることで過去にあった情感や思いを現出させるやり方がある。言葉では説明できないものを表現するのが詩人であるならば、こうのさんも詩人なのだと僕は思いました。

てことで2回も続けざまに読んだんで、まぁしばらくは読まないかなと。といいながら、来年には映画の再編集版が上映されるそうで、僕は「片隅」ビギナーなんでスクリーンではまだ一度も観たことがなく、再編集版であろうと何であろうと今から楽しみで仕方がないんだけど、そん時にはまたこの原作を読み返すかもしれないなぁと。そんな具合にして、結局この物語はいつまでも終わらないものなんだと思います。

Love Me/ Love Me Not  Honne 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Love Me/ Love Me Not 』(2018)Honne
(ラブ・ミー/ラブ・ミー・ノット /ホンネ)

ホンネ、2枚目のアルバム。ロンドン出身のエレクトロ・デュオです。そうです。ホンネとは日本語の‘本音’のことです。自身のレーベルが‘Tatemae Record’だそうで、インナースリーブには‘recorded at Tokidoki Studio’なんて文字もあったりして、随分と日本をご贔屓にしていただいているようです。有り難いことですな。まぁ日本に限らず、シングルの#2『Me & You』のPVでは韓国を舞台にしているぐらいですから、東アジア全般が好きなんでございましょうなぁ。

サウンドはとってもクールでオシャレなエレクトロ・サウンド。ソウル・テイストな曲に平熱感のボーカル。けれどしっかりフックが効いているから耳にすご~く残ります。それでも巷のヤングメンみたいにやたら盛り上げることはありませんから、私のようなクールな大人にぴったり。と行きたいところですが、夜の東京、ホテルのバーでオシャレに夜景を眺めるなんてしたことねー。

しかしまぁ、アレンジが絶妙やね。#1『I Might』にしても#9『Shrink』にしても、さぁここからサビだってとこで逆にクール・ダウン。でもそれがかえって心地よくって疲れないというか、ほら、すっごくキャッチーな曲でも強調され過ぎると疲れるでしょ?日常生活ってそんなしょっちゅうテンション高くないし。だからこうやって地味~なサウンドで大きな起伏なくすうっと来られるのが一番落ち着くし、変化のない毎日でもずーっと聴いていられるのです。

と言ってもただひたすら地味にって訳じゃなくちゃんとアクセントを効かせていて、背後で控えめにいいフレーズが流れているんですね。だから目をつむって耳を澄ませて、ゆったりしながら聴くってのがホントに決まるっていうか、やっぱ静かな夜の音楽なんやね。それはサビの「ガラッガラッゲッ、バックトゥユー♪(gotta gotta get back to you)」が耳に付いて離れないアルバム随一のキャッチーな曲、#7『Location Unknown』でも変わりません。背後でずっとオシャレなリフが鳴っているのもツボやね。だからいい気分になる。やっぱ日本好きといい、この人達はニッチなところを突いてくるのが好きなんやね。

そうそう、#6『306』なんてエレピ好きの私にとっちゃたまりません。中盤でのフェンダー・ローズかな?との独唱パートは最高やね。全編通してフィーチャーされているのはハモンド・オルガンでしょうか?引き算が得意の彼らではありますが、ここはオレのためにもっとエレピをグイングイン言わせてくれ~。

ほんと、控えめな落ち着いた音楽ですから、聴く場所を選びません。てことで、大人の夜の音楽と言いながら、私、休日の真昼間からリビングで流しているので、このところ「ガラッガラッゲッ、バックトゥユー♪」が脳内をループしまくっているマイ・ファミリーでございます。

tracklist:
1. I Might
2. Me & You
3. Day 1
4. I Got You
5. Feels So Good
6. 306
7. Location Unknown
8. Crying Over You
9. Shrink
10. Just Wanna Go Back
11. Sometimes
12. Forget Me Not

日本盤ボーナス・トラック
13. Just Dance
14. Day1 (Late Night Version)
15. Sometimes (Light Night Version)

映画『ボヘミアン・ラプソディー』感想レビュー

フィルム・レビュー:

『Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディー』(2018年)感想

 

クイーンとはフレディ・マーキュリーのことだと思っていたが、そうではなかったようだ。この辺りは、製作にブライアン・メイ(ギター)とロジャー・テイラー(ドラム)の二人が大きく関わっているから(それにしても二人とも演じる俳優さんがソックリ!)自然とそうなるのかもしれないけど、事実、作曲はメンバー全員が手掛けているし、フレディのソロが上手くいかなかったことからも、やはり彼らは4人でクイーンなのだと。このことはファンにとっては当たり前のことかもしれないけど、僕にとっては全く新しい発見で、てっきりフレディが全てのタクトを振るっていると思っていました。あの「ドンドンパッ!ドンドンパッ!」がブライアン・メイの発案だということも『ボヘミアン・ラプソディー』のあのオペラ部分をメンバーだけで歌っていたことも初めて知ってビックリしました。

圧巻は巷の噂どおり、ラスト21分のライブ・エイドの再現。CGだと芝居だと分かっていても鳥肌が立ってしまう。しかもフレディの人生そのもののような『ボヘミアン・ラプソディー』の歌詞がここでぐぐっと立ち上がってくる。そこはやはり感動的です。しかしまぁライブエイドを再現する今の技術はホントにスゴいなと。そこに演者の熱演が加わる訳ですから、この場面の熱量は相当なもんです。

ただ通常のライブ映像のように単純にオーッ!となったかというとそういうわけでもなく、当然そこに至るまでのストーリーがあるわけで、俄然盛り上がるというわけにはいかない。やっぱりそこに至るフレディのストーリーはかなり重いですから、僕はそれを踏まえてのライブ・エイドとして観てしまいました。ここは観る人によって感想が異なるところだと思います。

難点というか、ひとつ気になったのは、ホントにフレディは普段からあんなエキセントリックだったのかなってこと。実際のステージ以外での写真を見てみると穏やかな表情をしているし、僕のイメージでは普段は物静かな人なんじゃないかなって。それがステージに上がると皆が知ってるあのフレディにバッと変わるっていう。

映画でも契約の前にお前たちはどんなバンドかと聞かれて、フレディは教室の隅っこにいるような連中のための音楽(確かそんなニュアンス)と答えているわけだから、フレディの孤独を表現するのにエキセントリックじゃない描き方もあったんじゃないかと。それにいきなりパフォーマーとして完成されているんだもんなぁ。

その辺は時間の制約もあるし、なんだかんだ言ってフレディはスーパーな存在なのだから、ブライアン・メイにしてもロジャー・テイラーにしてもフレディの穏やかな姿を当然よく知っているわけだけど、今フレディのクイーンの映画を描く時にはフレディをスーパーな存在として描くのが一番いいんじゃないかということで落ち着いたのかもしれないし。

あとちょっと駈け足になってしまうけど、彼のパーソナリティーはどうやって育まれたのか。家族との関係、宗教、外見、移民であること。そこら辺も描かれていたのはとても良かったと思います。

今も尚、ブライアン・メイとロジャー・テイラーの二人はゲスト・ボーカルなどを迎えながらクイーンとしての活動を継続している(ベースのジョン・ディーコンは表舞台から足を洗ったらしい)。つまりは、やはりクイーンはフレディ・マーキュリーだけのものではないということだ。

映画にもあったように、始まりはブライアン・メイとロジャー・テイラーの二人が作ったバンドにフレディが参加したということで、当然この二人にもクイーンという大きな幹を育て、根を張った血脈が流れている。過去の偉大なバンドはいくつもあるけど、圧倒的なフロント・マンが居なくなっても継続出来るバンドというのはかなり珍しいことかもしれない。

とまぁ、観る人によって感じるところは色々あるとは思いますが、観終わった後数日はクイーンの曲が頭を離れないということで、そこは全員の共通するところかなと思います。例に漏れず僕も実際のライブ・エイドのYoutubeは観てしまいました(笑)。レ~~~ロッ!!

Fairytale of New York/Pogues 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Fairytale of New York』(1987年)The Pogues
(ニューヨークの夢/ザ・ポーグス)

 

12月です。クリスマスです。皆さんはクリスマス・ソングと聞いて思い浮かべるものはありますか?僕が真っ先に思い浮かぶのは「レリッ、スノ~、レリッ、スノ~、レリッ、スノ~♪」ですね。映画『ダイハード2』のラスト、ジョン・マクレーンとホリーが再会する印象的な場面でかかるこの曲の正式名称は『Let It Snow』。歌詞の内容は恋人との別れを惜しむ気持ちを、文字通り「Let it snow, Let it snow, Let it snow(雪よ降り続いて」という言葉で表現しています。1946年に米国で作られ、以来多くの歌手により歌い継がれています。『ダイハード2』ではフランク・シナトラだったかと思います。

日本で言うとやはり山下達郎の『クリスマス・イブ』でしょうか。「きっと君は来ない~」ですよ(笑)。でもこの歌はここがミソ。最後に「叶えられそうにない」と歌うように恐らく君は来ないのでしょう。でももしかしたら来るかもしれない。君に会えるんじゃないかと。そういう期待を微かに持っている。そういう弱々しい歌なのだと思います(笑)。でもみんな、そういう経験ありますよね?この微妙なニュアンスを言葉で説明せずに曲全体の雰囲気で響かせる山下達郎さんは流石です。

世界的に最も有名なのはやはりジョン・レノンの『Happy Cristmas(War Is Over)』かもしれません。お金持ちにも貧しい人にも、どんな人種の人にも、もっと言えばクリスマスなんて知らない人にも等しくクリスマスは訪れる。だからもう戦いなんてやめようよ。そんな歌ではないでしょうか。「Marry Cristmas」の後に「and Happy New Year」と続くところがいいですね。この言葉が加わることで肯定感や希望が増してくる。光がポッと射してくるような気がします。

今お話しした3曲はいずれも超有名曲。けれど今から紹介する曲をご存知の方はいらっしゃるでしょうか。ザ・ポーグス(Pogues)の『ニューヨークの夢(原題 Fairytale of New York)』です。ザ・ポーグスはアイルランド人ボーカリスト、シェイン・マガウアン(Shane MacGowan)を中心にロンドンで結成された、アイルランド民族音楽とパンクロックを融合したアイリッシュ・ロック・バンド。なんのこっちゃ分からないと思いますが、北欧やなんかの酒場でアコーディオンとかフィドル(バイオリンのこと)とか首から下げた太鼓なんかで賑やかに音楽を奏でる場面ってのをたま~にテレビで見かけませんか?あれですあれ。通常のバンド編成プラス、あーゆう感じという具合に想像していただければよいのですが、ま、この曲を聴いてもらうのが一番ですね(笑)。

さっきわざわざアイルランド人ボーカリストって述べましたが、それには理由がありまして、この歌は所謂ストーリーテリングの手法が用いられているんですね。で登場人物がニューヨークへやって来たアイルランド移民なわけです。冒頭、酔っぱらって留置場へ入れられた男はそこにいる先客の老人が「The Rare Old Mountain Dew」を歌っているのを耳にします。これはアイルランドの地名が沢山出てくる歌で、男は、あぁこの泥酔してぶち込まれた老人もアイルランド人だなと悟るわけです。そして「あれはクリスマス・イヴだったな」とちょっとばかり昔を思い出すのです。

若い頃に男は愛する女とアメリカに移民してきます。男には夢があり、女にも夢があった。男は格好よく女は可愛らしかった。この辺りがさっき言ったアイルランド音楽っぽい賑やかな雰囲気で奏でられます。しかし現実はそう上手くは行かない。2番の歌詞では年老いた二人が、こんなになったのはお前のせいだと互いに口汚く罵り合います。そうそうこの歌はデュエットです。シェイン・マガウアンとこの時のポーグスのプロデューサー、スティーヴ・リリー・ホワイト(←U2やデイブ・マシューズ・バンドなんかを手掛けた当時の敏腕プロデューサーです)の奥さん、カースティー・マッコールが女性部分のボーカルを担当しています。このデュエットというか掛け合いが素晴らしいんですね。二人とも登場人物にぴったりの声。ミュージカルみたいでテンポよく、ちょっと芝居がかった感じがとてもいいのです。で最後のヴァースでは落ち着きを取り戻した二人がぽつりと本音を語り合う。語り合うって言ってもそんなハッピーな話じゃないんですけど、老境にさしかかった二人の関係がね、決して感動するとかっていうんじゃなく、でも心に響くんですね。まぁこの辺は実際に聴いてもらって人それぞれ、年代によって、性別によって、環境によって思うところは色々あるんだと思います。

ところで、この曲はコーラスのところでもアイルランドの有名な曲が出てきます。ニューヨーク市警の聖歌隊が歌う『Galway Bay』です。だからこの人達もアイリッシュなんだというのが分かるわけです。要するに、多くのアイルランド人が新天地を求めてアメリカ大陸にやって来るものの、実際にはそんな簡単にいい職にありつける訳じゃなく、あるとすれば危険な仕事ばかり。だから警察官もアイリッシュが多かったらしいのです。僕たち日本人にはなかなか分かりにくい所かもしれませんが、日本でも入管法の議論がなされていて、まぁはっきり言って移民ですよね。そういう意味では今後この曲の世界は僕たちにとっても真実味のある曲になっていくのかもしれません。

少し話が逸れましたが、本当に素晴らしいクリスマス・ソングです。ちなみにこの曲はイギリスでは国民的なクリスマス・ソングらしく、毎年この時期になるとチャートに上がってくるそうです。まるで達郎さんの『クリスマス・イブ』ですね。日本でもこの歌を好きな人はたくさんいて、グーグルで検索すると僕みたいに、というか僕以上に上手に語っている人が沢山いて、ホントに愛されている歌なんだなと。僕は何年か前にラジオでこの曲を聴いて、以来、毎年この時期になると必ず聴いています。もっと多くの人にこの歌が行き渡っていくといいなと思っています。