Heathen Chemistry/Oasis 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Heathen Chemistry』(2002年)Oasis
(ヒーザン・ケミストリー/オアシス)

 

今年のサマソニにノエルが来るってことで、最近のノエルのセット・リストを眺めてたら『Little by Little』が載っていて、なんかちょっと聴きたいなぁと思って久しぶりにアルバム『ヒーザン・ケミストリー』を聴いてみたら今さら気に入っちゃって、最近は結構な頻度で聴いている。とまあ、聴いてると色々思うところがあったので、今さらながらのレビューです(笑)。

オープニングは1stシングルにもなった『The Hindu Times』。シングルらしい明朗な曲だ。タイトルどおりノエルのインド趣味が出ています。ま、このぐらいならかわいいもの。前作の『スタンディング・オン・ザ・ショルダー・オブ・ジャイアンツ』で見せたサイケデリアも継承しています。

1曲目の流れを引き継いでたゆたうドラム・マシーンから入るは、『Force of Nature』。ノエルのボーカル曲だ。大体ノエルは一番いい歌を歌いたがるんだけど、この曲はそうでもないような…。でもこの高音はこん時のリアムにゃムリだな。続く3曲目はゲム・アーチャー作。ってことで今作はドラマーのアラン・ホワイト以外のメンバー4人が作詞曲を行っているのも特徴。で3曲目の『Hung in a Bad Place』。これがなかなかいいんです。結論から言って何ですが、このアルバム、結構いい曲があって良盤だと思うのですが、カッコイイかとなるとちょっと答えに詰まります。そんな中『Hung in a Bad Place』はいい線言ってます。アルバム中随一のカッコイイ曲がゲム作っていうのも何ですが…。

で4曲目は渾身のバラード、『Stop Crying Your Heart Out』。やっぱリアムの声はいいね。だいぶ盛り上がってますが、ストリングスなんか無くっても多分ええ曲です。続く『Song Bird』はリアム作の小品。ってかリアムはいい小品書くねぇ。昨年のソロ・アルバムを含めても、僕はこの曲がリアムのベストではないかなと。

続いては『Littele by Littele』。ノエルが血管浮き出して歌っている姿が目に浮かぶ(笑)。普通にいい曲。安定感抜群。これぞノエル。やっぱ盤石やね。

次の『A Quick Peep』はアンディ作の短いインスト。その次の『(Probably) All in the Mind』と『She Is Love』の流れが僕は結構好きです。『(Probably) All in the Mind』の方は若干のサイケデリアを絡ませつつハッピーな雰囲気でいい感じ。どっかで聴いたことのあるようなっていうノエル作にはよくパターン(笑)。『She Is Love』もいい。リアムが『Song Bird』ならノエルはこれって感じかな。曲のこなれ具合が全然違うけどどっちもいい曲だ。

10曲目の『Born on a Different Cloud』はリアムの作詞曲。こんな大曲も書けるんやね。今のリアムがこういうのに取り組んでみても面白いかも。続く『Better Man』もリアム作。まあこれはこんなもんというか、だいぶバンドに助けられてるというか(笑)。そうそうこのアルバムはサウンドがいいのです。素直にバンド感が前面に出ててそういう部分もこのアルバムの風通しを良くしている一因じゃないかな。そういや今のノエルのバンドにはゲムも参加しているみたいなので、今年のライブではゲムのギター・プレイも楽しみだ。で最後はノエルがボーカルの『You’ve Got the Heart of a Star』で締め。ゆったりとした穏やかな曲で終了です。

ガツンと来るのが『Hung in a Bad Place』だけなのがちょっと寂しいけど、ここに来てバンド感が高まってきているし、何より全体を通していい曲が揃ってる。初期のアルバムが強烈過ぎるから目立たないけど、僕は地味に穏やかでいいアルバムだと思います。ただまあ、オアシスが地味に穏やかってのがやっぱアレなんやろね(笑)。

 

1. The Hindu Times
2. Force of Nature
3. Hung in a Bad Place
4. Stop Crying Your Heart Out
5. Song Bird
6. Little by Little
7. A Quick Peep
8. (Probably) All in the Mind
9. She Is Love
10.Born on a Different Cloud
11.Better Man
12.You’ve Got the Heart of a Star

山岳地帯の物語

ポエトリー:

『山岳地帯の物語』

 

物語を語る老婆の好きな花はバラ
語り口は滔々と夢の中の偽り
あったことでもなかったことにしてしまう
口を大きく開いた財布をバッグに忍ばせ
権力にしがみつく輩に噛みつく

油断ならない山岳地帯の王は今年で満八十才
牛の生き血を吸うというもっぱらの噂だが虫も殺せない臆病者
腹が一斗樽のように突き出ているがいつも足元にいる猫の尻尾も踏んだことはない
山岳地帯の王たるゆえん

街へと続く坂道をくどくどと歩いてゆく五十がらみの配達夫はそろそろ後のことを考えている
かといって息子もいず頼るべき親類もいず
あるものといえば三十年以上肩に担いだなめし皮のバッグのみ
しかしそれは魔法のバッグ
薄汚れた空気の攻撃を三十年以上に渡り受け付けずにきた動物性皮脂由来の頑丈さを備えている
配達夫の意味は頑丈である事
五十がらみの配達夫がさんざんぱら言われてきたことを体現するそのバッグこそがかの男の教養だ

物語を語る老婆は小さな菜園を持っている
積み木を重ねた仕切りで覆われた菜園で育つものは何?
言いがかりは山ほどあるが老婆は何も発しない
一言も発しない!

その傍を虚ろな目をした少女が過ぎる
何処の街にもよくある風景
思春期特有の鼻持ちならなさを醸し出しながら正義の器を小脇に抱えている
共に歩く弟の擦り傷とは対照的に彼女の傷口からは鮮血が孵化する
奇妙な思いやりのイメージだが後にそれがこの国を丸くする

街に古くからある肉屋は古くからあるだけあって住人の信頼を得ている
主人はめったに顔を出さないが奥で目を光らせている
その主人に目を光らせているのがその妻女だ
妻女は工場の生産管理よろしく先を打って働く
ということもあってそこの従業員は皆よく足が動く
先月新しく入ったアルバイトの青年もまた同様に

街から少し離れたところにある大きな石の塊は神聖なものだが冒すべからずという程のものでもない
健全なストーンヘンジ
母親たちは生まれたばかりの赤ん坊の名を書き込む
最近生まれた風習だがこれもとやかく言う程のものではない
勿論虚ろな目をした女の子の名前もその弟の名前も肉屋の青年の名前も書いてある
近くに川があるから丁度良い憩いの場でもある
例えば新しい料理屋の味付けがどうとか何組の担任がどうとかこうとか…

この国の気候は目まぐるしい
虚ろな目をした少女より目まぐるしい
母親連中の昼の話題より目まぐるしい
肉屋のアルバイトより目まぐるしい
ぐるぐるとかき混ぜマーマレードみたいに皮は残して満遍なく行き渡る
ゴールドの羽音がする瓶詰めの気候

やがてこの国にグラニュー糖の雨が降り注ぐ
老婆の菜園に滋養を与える雨になるのか
配達夫のバッグの頑丈さを試す雨になるのか
山岳地帯の王の太鼓腹を冷やすことになるのか
当時は誰も知らなかったが、
最も恩恵を受けたのは意外にも老婆の大きく口を開いたバッグだった!

 

2017年1月

Scream Above The Sounds/Stereophonics 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Scream Above The Sounds』(2017)Stereophonics
(スクリーム・アバヴ・ザ・サウンズ/ステレオフォニックス)

 

いや~鉄板やね~。551の豚まんやね~。りくろーおじさんやね~(※1)。間違いないねぇ~。いやいやステレオフォニックスのことですよ。デビュー21年目を迎え10作目のオリジナル・アルバムという多作ぶりもさることながら、今回もいい出来。もう間違いないんすよ。御大、ボブ・ディランもフェイバリットに挙げるぐらいですし(※2)、もうイギリス土産としてヒースロー空港に置いてもいいんじゃないですか(※3)!?

てことでステレオフォニックスの10枚目、『スクリーム・アバヴ・ザ・サウンズ』のレビューです。先ずは1曲目。サビで「コート・バイ・ザ・ウィン~♪」ってそよ風吹いてます。どうです、この軽やかさ。デビュー20年を経てのこの軽やかさはちょっとやそっとで出ませんぜ。リリックにある「屋根の上で日光浴(Sunbathing on the roof)」をしているかのようなギター・リフが心地よい。ここで早くも私は思いましたね。今回も間違いない!

続く2曲目『Taken A Tumble』も軽快なロック・チューン。こりゃ懐かしのストリート・ロック、ジョン・メレンキャンプやん。軽やかに進むと思いきや、後半はリリックが膨らんでドラムもろとも畳み掛けてくる。流石フォニックス、カッコいいぜ!

3曲目『What’s All The Fuss About?』はちょっと趣が変わってフラメンコ(←あくまでもイメージです)。哀愁漂うトランペットといい、気分は『私だけの十字架(※4)』(←これも勝手なイメージです)。この曲も後半にかけて畳み掛けてきます。なんか今回のアルバムはこういうの多いな。アウトロのフラメンコ・ギターが沁みるぜ。

『Geronimo』は多分ライミングとかアクセント先行で出来た曲やね。全編韻を踏んでます。中でもサビの「~like a domino」と「~like Jeronimo」の韻がイカす。そーです。カッコよけりゃ意味なんて雰囲気でどーとでもなるのです。こういう遊びで作ったような曲がえてしてカッコイイから不思議。演ってる方も実はこういうのが一番楽しかったりするのではないでしょうか。曲の中盤では珍しくサックスだ。ちなみにジェロニモといえばつい「アパッチの雄叫び(※5)」を思い出してしまいますが、全く関係ありませんのであしからず。

フォニックスの魅力の一つはリリック、とりわけそのストーリー・テリングにある。今回で言えば5曲目の『All In One Night』だ。余計な感情は一切排し、時間軸に沿ってただ物語だけが進行していく。リリックにもサウンドにも大げさな仕掛けは一切なし。にもかかわらず、徐々に立ち上がる情感。見事である。

6曲目の『Chances Are』は同じフレーズを繰り返しながらサウンドが徐々に盛り上がっていくハード・ロック・ナンバー。最後は盛り上がっちゃってどうしようもなくなる感じがいい。7曲目は今は亡き元メンバーへ捧げる『Before Anyone Knew Our Name』。ピアノの伴奏のみで静かに歌われる。ピアノはケリー自身によるものだろうか。

8曲目は珍しくサビがファルセットの『Would You Believe?』。これもストーリー・テリング。でもこっちは主人公の独白で進行していくタイプ。ブルースやね。間奏から入ってくるギター・ソロがたまらんね。ウイスキーでもグッとあおりましょうか。そんな感じです。ま、したことないけどっ。

続く『Cryin’ In Your Beer』は古き良きロックン・ロール。ヴィンテージ・ロックだ。オルガンもグイングインしちゃってるし、ここでもサックスがブロウ・アップだ。アメリカっぽいな~。元々フォニックスは大陸的な大らかさがあるバンドだけど、今回は特にその傾向が強い。

そしてケリーの回想録のような『Boy On A Bike』をはさみ本編ラストの『Elevators』へ。これなんかもすごくアメリカっぽい。ジョン・メレンキャンプ感満載で、ピアノのフレーズなんてブルース・スプリングスティーン&ザ・ E・ストリート・バンドみたい。でもサビにかかるとやっぱ英国的な情緒があって、そういうとこがまたいいんだよな。

ってことで本編全11曲。細かくコンピューター・サウンドを取り入れてみたり、ハード・ロッキンしたり、ケリー・ジョーンズの声を満喫できる弾き語りもあったりで、バラエティ豊かな曲調。肩肘張らずに、でも攻めの姿勢は忘れない、そんなフォニックスらしいアルバムではないでしょうか。ここからまた新しい旅が始まるんだという軽やかさがいい!

確固たるスタイルがありつつも決して守りに入らない。不思議と今作る音が今の音になる現役感がフォニックスの最大の強みだ。てことで、やっぱ今回も間違いないぜ!
伝統がありつつも最前線。こりゃやっぱヒースロー空港に置くしかないね!どうです?メイ首相。

 

1. Caught By The Wind
2. Taken A Tumble
3. What’s All The Fuss About?
4. Geronimo
5. All In One Night
6. Chances Are
7. Before Anyone Knew Our Name
8. Would You Believe?
9. Cryin’ In Your Beer
10.Boy On A Bike
11.Elevators

(ボーナス・トラック)
12.Never Going Down(Live at RAK Studios)
13.Drive A Thousand Miles(Graffiti Sessions)
14.Breaking Dawn(Written for Twilight)
15.All In One Night(Unplugged)
16.Caught By The Wind(Unplugged)

 

(※1)「りくろーおじさん」とは、全国的には知られていないが、大阪人にはお馴染みのチーズケーキ店のこと。味もさることながら1ホール700円弱というコスパが嬉しい。父親が昔よく仕事帰りに買ってきたのはそういうことだったのね。今では私が買って帰ります。

(※2)2017年のインタビューで、ボブ・ディランはステレオフォニックスとエイミー・ワインハウスがお気に入りのアーティストであることを明かしている。

(※3)実際、6度の全英№1を誇る国民的バンドでございます。

(※4)テレビ朝日系列で1970年代から80年代にかけて放送された刑事ドラマ『特捜最前線』。当時人気を博した石原軍団の派手な刑事ものとは対極にあるような渋い刑事ドラマ。
当時の小学生は何故かこれを昼の再放送とかで観ていて、誰もがエンディング・テーマ、チリアーノの『私だけの十字架』を歌えた。最後のとこだけやけどね。

(※5)80年代ジャンプ世代にとってジェロニモといえば「キン肉マン」に登場する正義超人、ジェロニモが先ず思い浮かぶ。人間から超人になったレア超人だ。得意技は「ウ~ララ~」という‘アパッチの雄叫び’。地味やな~。

~TRTRに捧ぐ~

ウルフルズの凄いテクニック

その他雑感:

『ウルフルズの凄いテクニック』

 

カーラジオからウルフルズの歌が流れてきた。普通にいい歌だなあなんてと聴いてると、いつものようにサビで大阪弁になった。ちょっと具体的な歌詞は忘れたけど、語尾が「~へん」とか「やねん」みたいな単純なものだったような気がする。大阪弁なんて言っても今や日本中に溶け込んでいるので別にどうってことないんだけど、これが曲に紛れ込むとなると話は別。いつもウルフルズの曲をスーッと流してしまっているけど、ちょっと待って。実はこれって大したことなんじゃないか。

僕が子供の頃の関西弁の歌といえば、やしきたかじんとかボロとか上田正樹とか。もうローカル色まる出し(笑)。しかも大阪の夜の町というか場末の酒場しか思い浮かばねえみたいな。歌ってる方もハナからそっちしか向いてねえみたいな。いい悪いは別にして、聴く方も歌う方も、開かれた歌というよりは閉じた世界、聴き手を選ぶ限定された歌だったように思う。

ところがウルフルズ。彼らの歌は非常にオープンで聴き手を選ばない。僕も詩を書いたりするので時折喋り口調が欲しい時は地言葉を用いる場合があるが、それ以外は何故かいつも標準語で書いている。創作の過程で口に出すときがあっても何故かいつも標準語(←なんか変な人みたいやな(笑))で、イントネーションすら大阪弁にはならないというかなれないというか。そうしちゃうとなんか意図したものと違ってしまって、詩を書く時には感じたこととか浮かんだことをなるべく原形を損なわずに言葉に変換したいのだけど、心に浮かんだこと自体が方言を纏う以前の状態だからなのか、それが表に出てくるときには何故か自分が普段用いている大阪弁として言葉は現れてこない。不思議だけどそれはそういうものなのだ。

要するにぼんやりとした心に浮かんだものを言葉に変換する行為は、普通に喋ることとは全く別物だということなのかもしれないけど、それをするりとやってのけるウルフルズは、というかトータス松本はちょっと他に見当たらない稀有な存在なんじゃないかと。これだけ方言丸出しのウルフルズがMステで普通に座っている事の違和感の無さ。北海道から沖縄まで何の制約も無し普通に親しまれている事実は特筆すべきことではないかと。

詩人が書きたいと思うことを仮にポエジーと呼ぶなら、詩人はそのポエジーを出来るだけそっくりそのまま言葉に変換したいはず。ならば当然普段自分が使っている言葉で表現する方が近いに決まっている。なのにそうとはならない。ならないということは遠いことを意味するのではないのか。いやそれとこれとは全くの別物なのか。

トータスのやってることってあまり語られたことがないようだけど、実は凄いことだと思う。僕はトータスにあって直にこの事を聞いてみたい。彼は恐らく、このことに自覚的だ。

自然治癒の法則

ポエトリー:

『自然治癒の法則』

 

容赦ないあなたの目には三センチの涙

頬を伝って国境を越えます

敵と味方を繋ぐのです

つまるところそれは自然治癒の法則

困り果てた老人の物知り顔など用は無いのです

 

はにかんだ微笑みの向こうにある傾げた襟元

襟元の汚れは簡単には落ちないというけれど

簡単に落ちる時もあるのです

例えばフリーマーケットのちょうど時計台の下

インド人みたいな恰好で子供たちの着られなくなった洋服を広げているAさん

Aさんの幸せは売れた服の代金で子供たちに新しい服を与えること

例えば温泉街の三叉路にある案内所

三代続く名物案内人のGさん

言葉の通じない相手でも難なく笑顔にしてしまうその手腕

先日は二駅先まで送っていったそうです

 

風車でも特急列車の如く

胸ポケットの便箋もツイッターの如く

あなたに沿って海へ向かいます

 

海の底の奥深く

人の体と同じ成分を湛えたまま生き物に変え草花に変え空気に変え私たちの元へ還元される

見たこともない景色が見たことがあると感じられるのはそういうことなのです

 

2017年1月

わたしを離さないで/カズオ・イシグロ 感想

ブック・レビュー:

『わたしを離さないで』  カズオ・イシグロ

 

カズオ・イシグロの小説は解決されないことが解決されないままそこにあって、それでも時間は流れていくみたいなイメージが僕にはある。ただそれでも読んで良かったと思わせる魅力が彼の作品にはあって、それはやっぱり心に形のあるものが明確に残るからで、解決されない、いつまでもあぁそうかって腑に落ちないものではあり続けるんだけど、読んだ後では心のありようが違ってくるというか、具体的にどうとは言えないけど、お前はどうなんだと問いかけられているような、その問いがいつも心に引っ掛かりを残し続ける。彼の作品はそんなような作用を読み手にもたらすものなんだと思います。

誤解を恐れずに言うと、僕はやはり最後に反逆して欲しかったなって。素直に無垢にそうは言えない事は十分承知しているつもりだけど、そう思いたい、というか、でもそれって僕自身の偽善を突きつけられているような気分もあって、やはり一概には言えないんだけど、ページ数が残り少なくなって、もうそういうことは起きないんだなと分かっていてもやはり最後まで反逆して欲しかった、早く逃げて、なんで逃げないのっていう気持ちが強く残ったのは正直なところです。

キャシーとトミーは逃げちゃだめだったのかな。いや逃げられないのは分かっている。僕たちはもう世界中と見えるところ見えないところで繋がり合っていて、もう誰とも無関係ではいられない。グローバリズムなんて言ってるけど、要するに極論すれば誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立っている訳で、そんなこと俺はしてないと言ったって僕たちは美味しいものを食べたり、誰かにプレゼントをしたりっていう行為の中で、その裏にはもしかしたら僕たちの知らない誰かが犠牲になっているかもしれないし、僕らの新しいスニーカーは誰かの裏庭を荒らしているかもしれない。原発や沖縄の問題を思い浮かべればよく分かる。いくら綺麗ごとを言ったってもう僕たちはそういう世界にいるのだ。

そういう意味ではキャシーやトミーも逃げることはできないのかもしれないし、反逆して欲しかったななんて言ってるけど結局僕たちは今のところエミリー先生でもあり、彼らを腫物でも見るような目で見てしまう存在でもあり、反逆される側でもあるという事実からは目をそむけることは出来ない。一方でいつ僕たちもそちら側になるかもしれない、そしてそちら側へ行けばもう簡単には戻ってこれないという現実をも孕んでいる。

それでも彼らに逃げて欲しかったのか、反逆して欲しかったのかと問われれば、そうした複雑な感情が絡むにせよ、そうだという気持ちが勝ってしまうのはどうしようもない事実として今の僕には残っている。逃げて、っていうのは自分自身のつい見て見ぬふりをしてしまう現実に対する負い目から解放されたいという自己防衛みたいな気持ちが働いたからかもしれないし、それは否定しきれないけど、偽善だと言われようが彼らに逃げて欲しいという気持ちは事実としてある。感情的に言ってしまえば、キャシーたちの犠牲の上に立つ幸福なんて要らない。

そんなこと考えようが考えまいが何も起こらないし世界は変わらない。けど、そういうことを心のどこかに残していく、目に見えない引っかき傷を残していくという行為は無駄な事ではない、意味のあることだと思います。

僕はフィクションにこそリアリティーは宿ると思っている。この物語はイギリス人が書いた遠い国の空想ではない。僕たちの物語でもあるのだ。

Bankrupt!/Phoenix 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Bankrupt!』(2013)Phoenix
(バンクラプト!/フェニックス)

 

フェニックスの5枚目。グラミーを受賞し世界的ブレイクを果たした『Wolfgang Amadeus Phoenix』(2010年)を受けてのアルバムだ。『Wolfgank~』ではついに鉱脈を発見したかのようなフェニックス独自のサウンドを展開。この路線でもう一発行くのかな、ていうかもう一発行って欲しいな、なんていうこちらの甘~い期待を覆すかのように全く違う角度で攻めてきました。てことでさっすがフェニックス、と思いきや、おフランスのマイペースなポップ職人が打ち出したのはなんとオリエンタル。オリエンタルといっても日本や中国ではございませんでぇ!舞台は香港HongKongだ!

オープニングを飾るのは『エンターテインメント』。春節祭でも始まったかのような派手なイントロで皆の頭の上に?が浮かんだところですかさず『Wolfgang~』的なドラムが一気になだれ込んでくるこの過剰さ。こちらの期待を見事に見透かすこのセンスは流石です。ちなみにライブでこの曲がかかる時のテンションは凄いっす。

2曲目『ザ・リアル・シング』、3曲目『S.O.S.イン・ベル・エアー』と続く辺りでこのアルバムの概要は見えてくる。ぎらぎらシンセ全開で騒がしいったらありゃしない。4曲目の『トライング・トゥ・ビー・クール』はそれに加えてオリエンタルな雰囲気満載で気分はもう80年代の香港。そやね、ジャッキー・チェンとかそーいうのではなく、ハリウッド映画の香港とでも言おうか。ほら、80年代の日本を舞台にしたハリウッド映画って唐突にニンジャが出てきたり、やたら派手なメイクのゲイシャが出てきたりってのがあるけどそういう西洋人がイメージするオリエンタルっていうのかな。香港じゃなくてHongKongってことです。

でそれをオシャレに切り取ってみせるのがフェニックスならではというか、でも普通香港はオシャレになんないでしょーよ?それがオシャレになっちゃうんだから参りました。この辺りのハンドル捌きはホントにお見事です。

世間の流行廃りに頓着なく好きな事をやって、しかもそいつがセンスいいんだから文句のつけようがない。しかしそう思えるのも元々の曲がいいから。今回も相変わらずいいメロディを書いている。きっとソングライティングがずば抜けているから何をやってもOKなんだろね。ご機嫌な曲もいいんだけど、#7『クロロフォルム』とか#9『ブルジョワ』といったスロー・ソングの組み立て方なんてホントに上手い。

でもっていつもと変わらないトーマの甘い声があるんだから、アレンジがどう変わろうと、やっぱりどこをどう切ってもフェニックスなアルバムである。

 

1. Entertainment
2. The Real Thing
3. S.O.S. in Bel Air
4. Trying to Be Cool
5. Bankrupt!
6. Drakkar Noir
7. Chloroform
8. Don’t
9. Bourgeois
10.Oblique City

フェニックス史上最も派手なアルバムだ!

ゴッホ展~巡りゆく日本の夢~京都国立近代美術館 感想

アート・シーン:

ゴッホ展~巡りゆく日本の夢~ 京都国立近代美術館 感想

 

京都国立近代美術館で開催されているゴッホの展覧会に行ってきました。今回の展覧会はゴッホと日本の関係に焦点を当てたもの。1880年頃のパリは芸術家による「ジャポニズム」への接近が顕著な時期だったらしく、ゴッホもその影響を受けていたとのこと。なるほど、浮世絵を収集したり、知り合いの店で浮世絵の展覧会を開いてもらったり、思っている以上に日本が好きだったみたいだ。純粋に日本に憬れていた節もあって、すぐ夢中になるところなんかは子供みたい(笑)。ゴッホが日本に親しみを覚えてくれていたなんて嬉しいなぁ。

ゴッホ展に入ってすぐに大きなゴッホの肖像画があった。ゴッホはたくさんの肖像画を残したが(モデルを雇うお金が無かったかららしいけど)、ここにあるのは『画家としての自画像』。凄い迫力。僕が一番印象的だったのはその立体感だ。描かれている筆の1本1本がちゃんと立っている。実物を見るとそれがスゴイ分かる。横にあった『三冊の小説』も同じ。立体感があって、まるで飛び出す絵本を見ているみたい。ゴッホ独特の線なので写実ではないのだけど、ホントにそこにあるみたいで、先ずこれに僕は度肝を抜かれました。

ゴッホが「ジャポニズム」に触れたのはパリ時代。ということで展示はパリ時代から南仏アルル時代が中心となる。どれも素晴らしい。僕は時折展覧会に行くのだけど、正直気に入ったものもあれば、ふ~んって感じのものもある。でも今回のゴッホ展は気に入ったものだらけ。ふ~んってやり過ごすのはほとんどなかったんじゃないかな。やっぱエネルギーがスゴイんです!僕もものを書いたりしますが、時折自分に問うのは、本当にこれがお前の言いたいことなのか、これはどうしても書かなければならない言葉なのか、ということ。それがゴッホの絵にはあるんです。ゴッホのエネルギーとか気持ちがちゃんとそこにあって、やっぱ生きた絵。描くべくして描かれた絵っていう感じが凄くするのです。やっぱかくあるべし!って思いました(笑)。

多分、ていうかきっとゴッホは絵を描くのが好きだったんだろうし、でも好きで好きで俺はこれで行くんだ~って早くから決めていたわけじゃなく、28才になってようやく画家を志すみたいな人で、ゴッホの絵は短い線で構成していくのが特徴なんだけど、その一本一本が几帳面な感じがして、そういう性格的にもメンドクサイところが絵からも存分に出ている気がして、そこがスゴイ絵なんだけど何故か親近感を覚えるところにも繋がるのかなぁ、って思いました。

人の顔や静物なんかもたくさん展示してあったけど、やっぱ僕は風景画が好きです。『アイリスの咲くアルル風景』、『糸杉の見える花咲く果樹園』、『花咲くアーモンド』、『サント=マリーの道』。ほんと素晴らしい。『蝶の舞う庭の片隅』なんてただの田舎道を接写して描いているだけなのに、凄くいい。畔道の雑草や蝶への優しい眼差しというか、ちょっと難しい人だったかもしれないけど、こういうのを見てると基本は優しい人だったんだろうなって。

ゴッホの絵を見てると、なんで空が黄色なの?とか、妙なところに妙な色が入ってるってのがよくあるけど、『オリーブ園』の地面が肌色なのは驚いた。スゴイ生命力。ちょっと生々しくって怖かった。

晩年の絵を見てると(晩年といっても37才で亡くなってしまったけど)、例えば『ポプラ林の中の二人』とかは景色と一体になっているというか、景色の中に入ってもうゴッホ自身が景色になっている感じ。自分と絵の境目がなくなってくるというのか、ゴッホ自身が風景の中に溶け込んでしまっている、そんな印像を受けました。人生には長短に関係なく四季があるっていうけれど、ホントそうかもしれないな、って思いました。

ゴッホは生前、1枚も絵が売れなかったとか。貧乏で仕方なくって、弟のテオに随分と援助をしてもらって(あんなに大きなキャンバスに絵の具を塗り込めてたんだから、絵の具代だけでも相当だったと思う)、きっと売れたかったんだろうな、評価されたかったんだろうなって思うけど、でもやっぱり自分がこれだと思えるものを描けたときの喜びというのは他に代えがたい喜びだったはずで。『サント=マリーの海』っていう荒々しいアルルの海を描いた絵と『麦畑』っていう穏やかなアルルの風景を描いた絵が2枚並んで展示してあって、だから僕はこれを見た時にどうしようもなく感動したのです。きっとゴッホはこれを描いた時に「やった!」と思って、僕は描けたぞっていう喜びがあって、もしかしたらしばらく、ほんのしばらくかもしれないけど、絵から近寄ったり少し離れたりしながら何度も見返して、人生で最高の喜びを、人生の意味をほんの一瞬だけでも了解したんじゃないかって。僕には何故かそんな光景が目に浮かんで、本当に感動して目頭が熱くなってしまいました。

ゴッホの絵はホントにリアル。写実じゃないから写真みたいじゃないけど凄くリアル。それにエネルギーに溢れてる。でもなんだか落ち着くんだなぁ。これはもう僕の勝手な思い込みだけど、やっぱゴッホは絵を描くってことだけでホントに他意はなかったからで、ただいい絵を描きたい、自分でこれだと思えるものを描きたい、その一心さが僕ら見ている人に何らかの安らぎというかプラスの感情をもたらしているのかもしれない。そんな風に思いました。

面と向かって話すと誤解や齟齬ばかりで空回り、なかなか上手くいかないけれど、絵だと時にこれは自分だというものを表現できた。目指す絵が描けないとそれはそれでストレスが貯まったろうけど、それでも絵が最大の自己表現だとすれば、やはり描くことは止められなかったのだろうなって。なんか分かるような気がします。

偉大な画家だけど、そう遠くに感じない。僕にとってゴッホとはそんな人です。京都でのゴッホ展はもうしばらく続きます。皆さんにとってのゴッホを見つけてみてはいかがでしょうか。

『フー・ビルト・ザ・ムーン』を聴いて思った事

 

『フー・ビルト・ザ・ムーン』を聴いて思った事

 

ノエル・ギャラガーの『フー・ビルト・ザ・ムーン』の評判がすこぶる良い。僕も最近よく聴くのはもっぱらこのアルバムだ。進化したサウンドがノエルのソングライティングを一段も二段も引っ張り上げており、ただでさえ次元の違うノエルの曲が、また別のステージに向かっていることを感じさせる全く新しいアルバムだ。というわけで僕はこのアルバムを勝手に「ノエル、宇宙の旅」なんて呼んでいる。

ソロになってからのノエルは勿論曲がずば抜けているのだからいいことはいいのだけど、どうしてもあの声にやられた身としてはそこにあの声を探してしまう。けれどこのアルバムにはもうそれはほとんど感じられない。ノエルの声として成立してしまっているからだ。要するにそれだけオアシス的なものからかけ離れたサウンドになっている訳だけど、じゃあ仮に今ノエルがリアムが歌うことを前提として曲なりサウンドなりを作ったなら、ここまでの曲想の広がりは望めたかどうか。

勿論、稀有な二人がそのまま揃っていたとして、再びとんでもない化学反応が起きて今回とは全く違う角度で新たな傑作が生まれていたのかもしれないが、やっぱりそれは可能性としてはかなり低かった訳で、そうなるとやはり二人が別の道を行くというのは意味があったということなのだ。

ただここまで来るのにノエルはソロ3作を要したわけで、やっぱりそれだけの時間が必要だったのかもしれず、そう考えると昨年ようやくソロ・アルバムを出したリアムだって、確かにあれはオアシス的なものを全肯定してゆくアルバムでそれはそれで素晴らしかったんだけど、時間をかけていけば今後どうなっていくかは分からないし、リアムはリアムで別の次元の新しい扉を開けていくかもしれない。そういうわけで類まれな才能を更に解放させるためにもそれぞれがそれぞれの制約から離れるというのはとても大事な事なのかもしれない。

で結局僕らが望むのは二人が妥協して(二人に限ってそんなことはあり得ないけど)ありきたりな作品を残すってことじゃなく、どうせなら僕らファンを置き去りにするぐらいの新しい力に溢れた瑞々しい作品であって、それはもう二人が組もうが別々に進もうが変わりはないこと。だからそういう流れの中で、二人がまた同じ方向を向いて、じゃあこっち行くぜってなりゃあそれは勿論めちゃくちゃ嬉しいことだけど、それはやっぱ二次的な事なんだな。

だから僕が『フー・ビルト・ザ・ムーン』を聴いて思った事、というよりむしろノエルとリアムが新しいアルバムを出した2017年を受けて今思うことは、これがリアムの声だったらとか、これがノエルの曲だったらとかってのはまぁ飲み屋のネタぐらいにして、僕たちもそろそろノエルはノエルとして、リアムはリアムとして接していく、そういうものの見方が体に馴染んできているのかなってことです。勿論これは大いに前向きに捉えていい事ではないでしょうか。