『それしかないわけないでしょう』の「すらい」について

ブック・レビュー:
 
『それしかないわけないでしょう』ヨシタケシンスケ
 
 
ヨシタケシンスケの絵本『それしかないわけないでしょう』に出てくる女の子は世の中に好きと嫌いしかないのはおかしい、好きと嫌いの間に「すらい」というのがあってもいいはずだと、父親に向かって「おとうさんなんて大すらい!」と言う。この一コマが非常に可笑しくってこちらは勿論大好きなのだが、考えてみれば何事に対しても「すらい」が圧倒的に多く、好きや嫌いよりも人の数だけ、或いは物事の数だけ「すらい」が存在する。
 
現代詩という文学がこの世にあることをご存じの方は少ないかもしれないが、現代詩というのはまさにこの「すらい」を行ったり来たりする様であって、詩というと何か良いことや励みになることを言うみたいなイメージをお持ちの方がいて、とかく明確な言葉を期待されているのだが、どちらかと言うとどちらかを言うのではなく、どちらかではないことを言葉にしたのが詩である以上、需要と供給が合わないのも致し方ないところ。
 
ただこちらの心構えとしては、どちらかを明確に言われるとそれに対する態度の取りようもあるのだが、はっきりとした物言いではない以上、それをどう捉えたらよいのか分からず、つまりついはっきりしろよと言いたくなる。ただそれに対しては、はっきりしないことを書いていますと言うよりは、そこにあるがままを書いています、無理にはっきりさせようとはせずに、そこにあるがままを書くようなるべく努めていますと言うしかない
 
そこをあくまでも分かるようにしてよと親切に食いついてくれる人は一切いないのだが、全く別の角度から「すらい」という言葉で明確に言ってのけ、何気に分からないものを分かる表現に、ていうか面白く変換してしまえるヨシタケシンスケはやはり恐るべし。

『佐野元春 & THE COYOTE BAND ZEPP TOUR 2021』 2021.11.25 ZEPP NAMBA 感想

『佐野元春 & THE COYOTE BAND ZEPP TOUR 2021』
2021.11.25 ZEPP NAMBA
 
 
デビュー40周年の記念公演を終えた佐野とバンドは、来春に予定されている新しいアルバムの制作を続ける中、横浜、東京、名古屋、大阪のZEPPを回る小規模なツアーに出た。この日の大阪でのライブはその千秋楽になる。とはいえこちらの心構えとしても大それたものはなくリラックス、あるとすれば今後の佐野の活動の糸口を窺えるかも、そんな気持ちだ。
 
そんな中鳴らされた1曲目は『COMPLICATION SHAKEDOWN』。しかも佐野は派手に彩色されたキーボード(?)に位置している。この時点でこのツアーの特色を表している。続くは『STRANGE DAYS~奇妙な日々~』。いずれも80年代の曲だ。「この夜の向こうへ突き抜けたい」という歌詞に続き、通常なら「ヘヘイヘイ!」とレスポンスする流れだが今のご時世、そうはいかない。ただ「夜の向こうへ突き抜けたい」というのは間違いなく今の気分。それを声高に歌いたくなるのは心情だ。
 
3曲目『禅ビート』、4曲目『ポーラスタア』と続き、ここからはコヨーテ・バンドとの作品群かと思いきや、始まったのは1984年のアルバム『VISTORS』からの表題曲。ここまでの4曲は明らかにCOVID-19を意識してのもの。それを受けての『VISTORS』。この曲の最後のラインは「This is a story about you (これは君のことを言ってるんだ)」。毎日流されるCOVID-19関連のニュース、それはあまりにも規模が大きくこうも続けば自分たちのことでありながらも感覚は麻痺してくる。まして感染していない者は尚更だ。しかしCOVID-19は感染している、していないではない。我々はこの間、このウィルスに翻弄され続け、目に見えない傷をいくつも負った。佐野は歌う、「This is a story about you 」と。
 
続く『世界は慈悲を待っている』の後はパンデミックの間、積極的にリリースされたいくつかの新曲が披露された。その中でも最新の曲、『銀の月』は今のバンドの勢いを象徴する曲だ。今やコヨーテ・バンドは彼らにしか為しえない音を出している。2本のギターがリードする派手な曲だが、それは威勢よくケツを蹴り上げるものではない。うなだれた人々への優しいまなざし。銀の月、それは涙、若しくは魂とするならば、邪険にされがちな弱者のそれらが良き道筋を照らす。そういう意思がここにあるような気がした。
 
『銀の月』の後は、来るべきニュー・アルバムに入れる予定だという新曲『斜陽』が披露された。人生という長い坂を下りていくイメージのこの曲は2019年にリリースされたアルバム『或る秋の日』を思わせるシンガーソングライター色の強い曲だ。『或る秋の日』は個人的側面が強い(佐野個人と言う意味ではなく)ためアルバム収録を見送られていた幾つかの曲がまとめられたアルバムだ。つまりこれまでの流れで言うと、『斜陽』もコヨーテ・バンド名義のアルバムには収録されない方向となる。しかし来春のアルバムに収録予定だという。これは何を意味するのか。
 
今回のツアーはここ最近のライブ同様、コヨーテ・バンドとの曲がメインになると思っていた。しかし冒頭の『COMPLICATION SHAKEDOWN』はじめ、コヨーテ・バンド以前の曲も多く演奏されている。勿論これまでのライブでもそうした曲が演奏されることはあったが、明らかに今回は感触が違う。そこには継ぎ目がない、ただコヨーテ・バンドが演奏する曲として機能しているのだ。これは劇的な変化である。何気ない小規模なツアーではあるが、もしかしたら大きな意味を持つ瞬間を観ているのではないか。そんな思いがした。
 
コヨーテ・バンドのオリジナリティが発揮される中、それを象徴するのが中盤に演奏された『La Vita e Bella』と『純恋 (すみれ)』だ。かつての『Someday』や『約束の橋』のような決定的なキラー・チューンになりつつある。ていうかもうなっている。それにこの2曲は手拍子がよく映える。それはコロナ禍ならではかもしれないが、このバンドでも観客が一気に沸き立つ特別な曲が出来つつあるのだ
 
この後ライブは『エンターテイメント!』からアルバム『BLOOD MOON』からの辛辣で愉快な曲をいくつか交え、本編のラストは『INDIVIDUALISTS』、コヨーテ・バンドとの曲をクラッシックスが挟む形で終了した。
 
今回のライブで感じたのは境目が無くなりつつあるということだ。かつてはコヨーテ・バンドとの曲と所謂元春クラッシックスとの間に境目があった。またシンガーソングライター色の強い曲は見送られた。今や彼らはその境目を全く自由に闊歩している。確固たる存在としてのコヨーテ・バンド。それを確信したのが、アンコールで演奏された『悲しきレイディオ』だ。
 
この曲は言い方は悪いが、若いころの佐野を象徴する曲だ。この曲での大掛かりなメドレーに若い僕たちも歓喜した。けれど年を重ね、僕は昔ながらの『レイディオ』が流れることを素直に喜ぶことが出来なくなっていた。けれど今夜のそれはとても楽しかった。いや、あのイントロを聴いた時、思わず笑ってしまった。恐らくそれは本編を通して、コヨーテ・バンドがそういう境目を取っ払ってくれたからだ。
 
僕たちはCOVID-19の只中にいる。それはネガティブなことかもしれない。ではその向こうには何があるのか。ポジティブな光なのか。いやそんなことはない。物事は絶えず混じって進んでいく。COVID-19の只中にも光と闇は存在し、COVID-19の向こうにも光と闇は存在する。この日のライブがそうした混じりあいを示唆していたと大袈裟なことは言わないが、僕にそのことを気付かせる働きかけはあった。「やがて闇と光とがひとつに包まれるまで クロスワードパズル解きながら今夜もストレンジャー This is a story about you」(『VISTORS』)。これからも僕たちは色々なことが混じり合う世界を生きてゆく。
 
ちなみに。。。『レイディオ』中盤でスローダウンするところ、歌詞の順序がぐちゃぐちゃになりました。どう立て直すのかなとニヤニヤして観ていると、佐野さんが「さっきも言ったけど、もう一度、、、この素晴らしい大阪の夜!」と叫んだりして、おっかしかったです。長年共にしてきたミュージシャンとファンならではの愉快な光景がそこにはありました。

遠い山なみ

ポエトリー:

「遠い山なみ」

 

あちこちに立ち並ぶ群青色した肉体に
感動して君は頭から血を流した
生きていることの蓋が開いたような気がして
あちこちの人に話しかけてみる

葉巻みたいにウンザリ、とした表情で煙たがられることもしばしば
それでもリレーの第一走者のような気分でスタート・ラインに立つ
華奢な体で

あちこちに立つ狼煙、
不定期に届くダイレクトメール、
そのひとつひとつに
不確かな未来の口も開いている
けれど勘違いしないで、と彼女は言う

柔らかな肌を滑りゆく君の反動
あくまでも肉体は群青色
ガサガサと音を立ててそぞろ歩く
けれど勘違いしないで、彼女は何度もそれを言う

  ————————————–

遠い山なみを指でなぞるようにして、彼女は一昨日のことを思い出していた
遠い時代が被さる彼女の面影には一切のモラルが抜け落ちているようだった
指一本なら本当の自分を描けるよ
遠い山なみがそう言うのを待ってから、彼女はおもむろに席を立った
軽くお辞儀をしているようにも見えた

彼女は納得したがっていた
人々が完成と言う完成が何処にあるのかを
惰性と言う惰性が何処にあるのかを
身近な存在
そうかもしれない
何を意味するかをとうに知っているように
問題は遠回りをしてきつく体に巻きつく

駅前に小さな書店があればいいな
夜になれば小さなろうそくに火を灯し
形あるものは全て溶かして再び形あるものに

彼女はお財布の中身を勘定して横になる
初めての時みたいにゆっくりと身を委ね
モナリザ
まるで家族の一員みたいに
ゆっくりとモナリザが横になる

 

2021年10月

星屑 / 折坂悠太 感想

邦楽レビュー:

『星屑』(2021年)折坂悠太

 
折坂さんの新しいアルバム『心理』、素晴らしいです。折坂さんの歌は所謂分かりやすさとはかけ離れていますから、取っつきにくい印象を持たれるかもしれませんが、逆から捉えればこちらの理解の幅は大きなゆとりを与えられてるとも言え、この『星屑』という曲も聴き手の環境によって大きく印象を変えてくるように思います。
 
この曲はアルバムの中では割と素直な表現でもあるので、歌詞をそのままに受け取ることが出来るのですが、それでも昔懐かしい人、友人、愛する人、対象はいかようにも受け取れます。僕が心に思い浮かべたのは、幼子をこども園から迎えて帰ってゆく様子です。このように捉えた方は結構多いのではないでしょうか。
 
僕の子供は随分と大きくなり、もう遊んではくれませんが(笑)、子供に良きことが訪れることを祈る気持ちは今も変わりません。ただこの歌は自分の子供だけに限定するものではありませんよね。もっと大きな意味、全ての子供たちへの祈り、そういう大らかさも含まれているような気がします。
 
 
 疲れた顔 見ないでいい ほら
 聴かせてほしい 漫画のあの歌
 覚えたての歌
 
 ~『星屑』折坂悠太~

 

https://www.youtube.com/watch?v=adiG68h9T1Y

詩との付き合い方

詩について:
 
「詩との付き合い方」
 
 
家には読みかけの詩集がいくつかある。アレン・ギンズバーグの『吠える-その他の詩(新訳版)』と現代詩文庫の『石原吉郎詩集』、それとルイーズ・グリュックの『野生のアイリス』。そこに先日、アマゾンに発注したハルキ文庫の『吉増剛造詩集』が加わった。
 
どれも思いついた時に手を伸ばして続きのページから読むことが多い。時には順序関係なしに途中のページを読んだりもする。『野生のアイリス』のようにちゃんとした詩集の場合は割と頭から読むが、全集やまとめたものなんかはあまり順序は気にしない。読みたいように読む。『石原吉郎全集』なんかは読み始めて1年以上経っているかもしれない。詩集は小説とは違うのだから、飛び飛びに読んでも構わないし、読んでも分からないものは分らないまますっ飛ばせばいい。あぁ、なんてフランクな読み物だ。
 
詩は分らないという声を耳にする。僕も最初はそうでした。でも段々と分かってきたことは別に分からなくてもいいということです。例えば音楽。皆分かってますか?ここのメロディの展開がどうとか、このリリックで作者が言いたいことだとか、或いはここの和音は理にかなっている、いや変則だから面白いとか。誰もそんなこと考えて聴きませんよね。
 
僕は絵画が好きだからよく美術館へ行きます。特にゴッホは大好きです。時には感じ入って、あ、今おれ、ゴッホと分かりあえた、という瞬間があったりします。とんだ勘違い野郎ですね(笑)。パウル・クレーも大好きです。あんなよく分からない抽象画でも観てるとなんかいいんです。感じるものはあるんです、不思議と。
 
ゴッホもクレーも日本ですごく人気があります。ルノワールとかフェルメールなら人気あるのも頷けますけど、ゴッホとクレーなんてどっちも分かりやすい絵じゃないですよね。でも凄く人気がある。これは理屈じゃないんですね。分からなくてもいいものはいい。なんでかなぁと言うと、多分絵画には慣れ親しんでいるからなんです。
 
僕は言葉が好きですから言葉による芸術が好きです。それが詩です。音楽や絵画と一緒で全体を眺めます。何か感じるものがあれば嬉しいし、なんか分かったぞと思う時はすごい嬉しい。でも分からなくても音楽や絵画と同様、流しているだけでも眺めているだけでもなんかいい感じ。全体が分からなくてもこのフレーズかっこいいなとか、ここの言い回しは面白いなとかがあればそれで十分なんです。
 
世俗的に詩はやっぱり励まされるもの、感動するものみたいなイメージがある。なんかいいこと言うみたいな(笑)。確かにそういうものもありますが、詩の表現はそれだけではありません。詩は言葉の芸術です。簡単に分かってたまるか、です(笑)。でも分かんなくてもいい、ゴッホやクレーの絵を見て分からないけどなんかいいと思うように、分かんなくてもなんかいいなって思ったらそれでいいんです。
 
いやいや、それが分からんのです、詩には何も感じないのですと言うかもしれません。それは多分慣れです。僕も最初はそうでした。だから詩に興味を持ち始めた時、シンプルな詩集である童話屋の『ポケット詩集』シリーズを読みました。そこで興味を持った詩人の詩集を買ってみるんですね。分かる詩もあれば分からないものもある。そうですね、詩集読んでなんとなく分かるのって2割もないかもしれません。でもそうやって詩に慣れてくる。そうすると分からないことがさして重要ではないと思うようになりました。
 
でも分からないことって苦痛ですよね。折角興味を持っても、その入口で自分にはこれ無理だってなってしまう。ただ詩ってなんかいいな、ちょっと興味あるなって人には高い壁眺めて詩って難解だよなぁって終わってほしくない。折角興味を持ってもらえたのだから、もう少しだけ手を伸ばしてほしい。
 
要するに詩が身近にないだけなのです。慣れていないから理解しようとしてしまうのです。理解しようとするから苦痛なんです。でも大丈夫。考えてみれば音楽や絵画だってそこまで理解していない、それと同じことなんです。詩は今その瞬間さえ言葉にしてしまえる懐の深いアートフォームです。詩も音楽や絵画のように分かる分からないにこだわることなく、肩肘張らぬまま楽しめる文化であってほしいなと思います。

銀の月 / 佐野元春 感想

 

『銀の月』(2021年)佐野元春

 

佐野元春の新曲がリリースされた。来春に予定しているアルバムからの先行トラックだそうだ。コヨーテ・バンドならではのギター・チューン。コヨーテもいつの間にか聴けばそれと分かる個性が確立されたような気がします。初期のザ・ハートランドも中期のホーボーキング・バンドも割とアルバムごとにサウンドは違ってましたから、バンド・サウンドを固めたまましばらく続けるのは佐野さんのキャリアでも非常に珍しいことかと思います。

『世界は慈悲を待っている』や『エンタテインメント!』に通じるコヨーテならではのダンス・ロック。いや、苦み走ったダンス・ロックと言えばよいか。このダブル・ギターを基調とした独特の疾走感(って言っていいのかわからないが)は完全なオリジナリティー。一方でこれだけ確立してしまうと、次のアルバムでコヨーテ・バンドとしての活動は一旦休止になりそうな気がしないでもない。

そして意味深なタイトル、「銀の月」。僕は涙と受け取りました。若しくは魂。邪険にされがちな弱者のそれらが良き道筋に転嫁される。そういう意思がここにあるような気がします。ていうか感じ方は人それぞれ。いつものようにこうであるとは拘らない、聴き手の想像力を自由に喚起する素晴らしいリリックです。個人的には「そのシナリオは悲観的すぎるよ」という言葉を自分の問題としてどう判断すべきか、まだ僕の中で消化しきれずにいます。

 

  銀の月抱いて 歩いてゆく
  行きたいと思う道 目指してゆく
  そのシナリオは悲観的すぎるよ
  日は暮れて 君は少し笑った

    ~『銀の月』佐野元春~