『今、何処TOUR 2023』in フェスティバルホール 感想

『今、何処TOUR 2023』 佐野元春 & THE COYOTE BAND
(大阪フェスティバルホール 2023年7月2日)

 

先行でチケットを取ったのだが、2階のバルコニー席となった。今回はアルバムが好評ということもあり、早くから席が埋まっていたのかもしれない。バルコニー席は初めてだったが意外と眺めは悪くない。ここ何年かの佐野のコンサートでは観客の高齢化もあり、2階以上はほとんど立たないのだが、幸運にもバルコニー席の一番外側の席だったので、今回は遠慮せずに立つことが出来た。ある意味ラッキー。若い子の姿も少しだけ見ることが出来て嬉しい。

ステージは18:00の定刻ちょうど、アルバムと同じくSEからの『さよならメランコリア』で始まった。佐野はじめ、コヨーテ・バンドの出で立ちは黒のスーツに白のシャツというスタイルで統一している。『さよならメランコリア』の聴きどころは沢山あるが、最後にぶっ叩く小松シゲルのドラムもその一つ。生で聴くと尚のこと迫力がある。近頃のコヨーテ・バンドは小松のドラムが随分と目立つようになってきた。コンサートの後半で演奏された『純恋 (すみれ)』や『優しい闇』のアウトロもそうだし、アンコールで演奏した『約束の橋』もそう。僕は小松のドラムが腹に響くくらいもっと音量を上げてもらいたいと思った。

曲は『銀の月』へ続く。アルバム屈指のロック・ナンバーだが、この曲は間接的なリリックのどちらかと言うと自分とは距離のある曲と認識していた。特にフックの「そのシナリオは悲観的すぎるよ」というラインは社会的な一般論として受け止めているところがあった。しかし冒頭から僕は胸が詰まってしまった。間接的だと思っていた言葉が不意に僕個人に突き刺さってきたからだ。他人事ではなくこれは僕の歌じゃないか、そう体が反応した瞬間、僕は泣き出しそうになった。そして同じことがコンサートの中盤で演奏された『エンタテイメント!』でも起きた。普段は奥に押し込まれていたものがこの曲がきっかけで露わになったような感覚。まさかこの2曲が僕のそんな内側を突いてくるとは思わなかった。

『今、何処』アルバムを曲順通りにすべて演奏するのかなとも思ったが、アルバム前半を終えたところで、『エンタテイメント!』、『新天地』ともう一つの新作アルバムへと続いた。今回の演出で印象的だったのは、ステージ後方のスクリーンに歌詞の一部が表示されていたこと。歌詞のすべてではないが一部分がリリック・ビデオのように大きく表示されていく。コンサートで初めて聴いた『詩人の恋』は歌詞が縦書きで全て表示されていた。ただ大掛かりなサウンドは無い方がいいと思った。この曲は淡々と奏でられる方が浮かび上がるものが多い気がする。

『詩人の恋』の後はアルバム『今、何処』に戻り、アルバム後半の曲が演奏された。『水のように』でもドラムが躍動し、その勢いで『大人のくせに』へつながった。ギターがギャンギャン聴けて最高だ。アルバムの性質上、今回のステージではギターが前面にということではなかったが、コヨーテ・バンドのギター・サウンドは流石にカッコいい。アルバムの実質ラスト、『明日の誓い』から『優しい闇』へ続き、本編は締めくくられた。

本編は当然のように、コヨーテ・バンドとの曲のみで構成されたが、アンコールでは昔の曲が演奏された。僕はいつも昔の曲になるとやたら盛り上がる古くからのファンがどうも苦手だったのだが、今回はそれを感じなかった。むしろ微笑ましい光景としてみることが出来た。勿論それは本編が近年の曲だけで構成された最新形の佐野元春という前提があったからだと思うが、古くからのファンと思しき人たちが笑顔でいる様子を見ていると、なんかそれもありなんじゃないかって思った。

つまりそれはただ単に懐かしいというのとはちょっと違うのかもしれないということ。あの頃はあの頃として、今自分はここにいる。そしていろいろあってうまくいかないことの方が多かったけど何とかここまで生きてきた、そんな自分へのちょっとした祝福。年に一回あるかないかのコンサートでそんな気分になるのもいいじゃないかと。

僕はこの日、『銀の月』や『エンタテインメント!』が思いがけず今の自分に突き刺さった。それは過去の自分ではなく、懐かしいあの頃でもなく、今の自分の状況に刺さったということ。恐らくはそれと似たような物だと思う。少しルートは違うけど、どちらも日常生活ではかえりみることがない自分のある部分がコンサートという特別な夜に露わになったということ。『冬の雑踏』では「あの人はどこにいるんだろう」と歌われるけれど、「あの人」だけではなく自分自身の立ち位置をも確かめる、長く愛しているアーティストのコンサートに行くということは、そんな意味もあるのかもしれない。

繰り返し言うが、それも本編が今の佐野に溢れていたからである。そして最後のアンコールでおまけのようにあの頃から今を生きた自分を祝福する。あの頃は良かったではなく、今の自分を。2階席の古くからのファンが急に立ち上がり笑顔で『アンジェリーナ』を歌う姿を見て、僕も素直に笑顔になれた。みんな自分の’今、何処’を確認しているのだ。

『SWEET16 30th Anniversary Edition』のリリースに寄せて

 

『SWEET16 30th Anniversary Edition』のリリースに寄せて

 

1992年に発表された『SWEET16』アルバムの30周年記念盤がリリースされた。『SWEET16』は第2期のピークを迎える佐野元春の復活作として記述されることが多い。実際は前作アルバム『TIME OUT!』(1990年)から2年しか経っていないのだが、『TIME OUT!』が80年代のラジカルな佐野元春像からは少しばかり距離のある控えめで地味な作品であり、また、実際に『TIME OUT!』以降は家族のことで1年間ほど音楽活動自体を休んでいたというのもあって、キャリア的には初の空白期間としてあげられている。僕はその頃、まだ佐野の音楽に触れていなかったので、実際の印象は分からない。

そして僕が佐野の音楽にのめり込むきっかけとなったのが正にこの1992年。ドラマ主題歌となった『約束の橋』のヒット、快活なアルバム『SWEET16』のリリース、ベスト・アルバム『NO DAMEGE Ⅱ』のリリース。これらに伴う積極的なメディアへの露出によって、十代最後の年に僕は佐野元春を知るようになった。

30周年記念盤の価格は22,000円。もう少しなんとかならなかったのかとは思うが、勿論それに見合うだけのボリュームはあって、オリジナルのリマスターCDが1枚。アウトテイク集がCD1枚。当時のライブの完全収録を2公演分CD4枚。映像としてBlu-rayが1枚。計7枚プラスずっしり140ページのブックレットに当時の広告用ポスター付きという豪華さ。

オリジナルのリマスター盤と既発がほとんどであまりレア感はないアウトテイク集はまあよいとして、今回の目玉はなんと言っても再始動の端緒となったツアー『See Far Miles Tour Part Ⅰ』(神奈川県民ホール)と、続くアルバム『SWEET16』をフォローするツアー『See Far Miles Tour Part Ⅱ』(横浜アリーナ)の2公演完全収録。とりわけ目を引くのは、ステージアクションを含めた当時36才のキレキレの佐野元春を映像で見れるBlu-rayだろう。佐野のデビュー以来のバック・バンドであるザ・ハートランドはこの後のアルバム『THE CIRCLE』(1994年)で解散をするが、その前の佐野元春 with ザ・ハートランドの最も脂の乗り切った時期がこの『See Far Miles Tour Part Ⅱ』。ていうか佐野の全キャリアのライブ活動においての最大のピークはここなんじゃないかと個人的には思っている。

この時の模様は当時、映像作品として『PartⅠ』が30分ほど、『PartⅡ』が60分ほどのビデオソフトになっていて、佐野の音楽のファンになったばかりの僕はそれこそ擦り切れる程何十回と見た。それが未発表の映像が10曲も追加されて映像化されるなんてあの頃の僕に教えてやりたい。

当時、僕はこの時に佐野が着ていたのと同じような薄いブルーのシャツをミナミのアメ村で探し回った。僕にとって1992年の佐野の活動がこうしてまとまった形でパッケージ化されることの意味は大きい。なにしろ僕の佐野元春はこの時に始まったのだから。

今、何処 / 佐野元春 感想レビュー

『今、何処 / Where Are You Now 』(2022年)

 

世界的なパンデミックを経た2022年、大規模な侵略戦争が起き、僕たちの国で最も権力を持つ政治家が殺害された。歴史が目の前に迫りくる中、ドロップされた通算20枚目のオリジナル・アルバム。困難な時代と向き合った曲が収められている。あまりにも今この時にジャストに響くので、いつ書かれた曲だろうとインナースリーブを開いたら驚いた。レコーディングは2019年から2021年に行われていた。

佐野は常々何かが起きたからといってその事にいちいち反応したりはしないと言っている。ソングライターというのは普段からある種の危機感を持って曲を書いていると。ではその危機感とは何か。今作で言うと、個の抑圧。より具体的に言えば、魂の危機であろう。しかしここで佐野が取り組もうとしていることは危機を煽り、聴き手を不安にさせることではない。

実質的なオープニング曲の『さよならメランコリア』というタイトルや続く『銀の月』での「そのシナリオは悲観的過ぎるよ」というリリックが示すように、このアルバムで佐野が主題としているのは困難な現実に対し、深いため息をつきシリアスな声を発することではない。佐野がここで言わんとしていることは尊い個についての言及。しかしそれは今に始まったことではない。佐野はずっとそのことに言及し続けてきた。ただ、今はその気持ちが強くなっているということ。

個人が解放されれば世界も解放される。個人が自由になれば世界も自由になる。佐野は具体的にそうは言わなかったが、これまでずっと僕は佐野からそのようなメッセージを受け取ってきた気がする。そして個を抑圧しようとする働きには異を唱え、まして心の問題にまで立ち入ろうとする行為にははっきりとノーと言う。実際、そのような態度を僕自身がちゃんと取れてきたわけではないけれど、そうありたいと願っていた。

しかし個の自由意思を押さえつけようとするものは何も外圧だけではない。内的な心の働きによってもそれはもたらされる。例えば、毎日耳に入るウクライナ情勢。戦争の惨禍を見てエモーショナルになる。そしてもし自分たちの住む国が侵略されたならどうするかと考える。そんな時こそ落ち着かなければならない。佐野は『君の宙』で「国を守れるほどの力はないよ」、「命を捧げるほどの勇気もない」と正直に歌う。大事なことは個と個の関係。「君を守りたい」という思いに余計なものは立ち入らせてはならないのだ。

ヒロイックで大げさな物言いなど必要ない。答えを持たない僕たちは答えを持つ(ているように見える)人につい惹かれるけど、僕たちには「英雄もファシストもいらない」(『大人のくせに』)。大切なのは個人の思い。例えばそれは「恋をしている瞬間」(『クロエ』)だ。何故ならそこには「正義も悪もなく」「過去も未来もない」し、「ルールも約束もなく」「右も左もない」から。外からも内からも浸食されることのない混じりけのない個人の思い。今、その個人の思いがあちこちで悲鳴を上げている。そのことに作者は警鐘を鳴らしている。いや社会に向けてというような大それた警鐘ではない。ワン・トゥ・メニーではなく、一人一人へ向けて声をかけている。まるでラジオの向こう側に語り掛けるように。

このアルバムでは何度も「魂」という言葉が歌われる。『さよならメランコリア』では「ぶち上げろ魂」と歌い、『銀の月』では「暮れなずんでいく魂」と歌い、『斜陽』では「君の魂 無駄にしないでくれ」と歌い、『冬の雑踏』では「あの人の気高い魂」と歌い、『永遠のコメディ』では「魂の抑圧」と歌う。佐野がこれほどまでに繰り返し僕たちに語り掛けるのは何か。それは魂を脅かす特定の何か設定し一線を引くことではなく、どうか君の魂を大事にしてほしいという個から個への願い。故に「いつかまた会えるその日まで 元気で」(『水のように』)という声が直筆の手紙のように胸に届くのだ。

しかしこのアルバムは冒頭で述べたとおり、難しい顔をして深いため息をつくアルバムではない。その証がこのアルバムで大々的に鳴らされているポップなメロディーとポップなサウンド。佐野は今までも個の大切さを歌ってきた。けれど今、その切実さはかつてないほど高まっている。しかしその高まりと同期するように佐野の音楽もまたかつてなくポップになり大衆性を獲得していく不思議。僕はこのことが素直に嬉しくてたまらない。

オープニングのピアノの律動を引き継ぐ形で鳴らされるドラムのデカい音と、「YesかNoかどっちでもなく 白か黒か決まんないまま」(『さよならメランコリア』)とシリアスなセリフを事も無げに歌う出だしの途方もないカッコよさ。『銀の月』の流れるような韻に中盤でギャンギャン鳴るラウドなギター。『クロエ』のAメロを省き真実にいきなり到達しようとするかのような優雅なメロディー、佐野流シティ・ポップ。これらの音楽を聴いて眉間に皺がよるわけがない。難しい問題はあるにせよ、佐野が切り開こうとするのはあくまでポップ音楽なのだ。

歴史が目の前に迫っている。しかし殊更ネガティブになる必要はないのではないか。僕はアルバム『ENTERTAINMENT!』のレビューで、僕たちはいつまでこの無邪気なオプティミズムを更新し続けることができるのかと書いた。何も遠慮することはない。物事がシリアスになればなるほど佐野の音楽がポップになっていくように、時代が暗く沈んだものになればなるほど、理想や希望はより大きくなる。これはごく自然なことなのだ。これまでと同じように心の中のオプティミズムを更新し続ければよいのだと思う。

厳しい現実認識を伴ったアルバムの実質的な最終曲『明日への誓い』は屈託のない希望の歌だ。悩みや心配事を抱えたまま、明日へ紛れていく。あちこちに大小さまざまな傷を負い、それでも理想や希望を思わずには生きていられない。個が個としてその核たる魂を尊重し、家族や友人、知人や隣近所の人たち、職場の人たちや時には見知らぬ誰かと、笑いあい、すれ違い、そうやって僕たちはこれまでもこれからも混じりあう。

しかしそんな希望の歌もクロージングの『今、何処』で再び個に戻る。家族であろうと友人であろうと誰も自分の代わりに生きてはくれないのだ。孤独であることを知りつつ、それでも時折、互いの居場所を確かめ合う営み。あなたは何処にいるのという問いは、すなわち私はここにいるという意。その思いは人の数だけ存在する。

今、何処 / 佐野元春(2022年)全曲レビュー

『今、何処 / Where Are You Now 』(2022年)全曲レビュー
 
 
1. オープニング / Opening
不穏なシンセとピアノの重い響きは私たちの心象風景。ラストに微かに聴こえるピアノの律動はよい予感?それとも悪い予感?このアルバムの特徴である両義性を端的に示す曲。クレジットを見ると唯一2022年にレコーディングされたものであるが、この曲がここに入ることでこのアルバムは完成したのだと強く感じさせる曲。
 
2. さよならメランコリア / Soul Garden
オープニングでの律動をドラムが雷のような推進力に変換する。沈みゆくこの国。私たちだっていつ坂を転げ落ちるか分からない。その憂いを反動にして佐野は言う、「ぶち上げろ魂」と。それでも最後には「愛してもいい事」や「信じてもいい事」をこの胸にと歌うのはまさしくブルース。最後まで落雷のようにぶっ叩くドラムが最高だ。
 
3. 銀の月 / Silver Moon
「そのシナリオは悲観的すぎるよ」とは誰に向けられたものか。当然、この認識は「さよならメランコリア」と通底する。難しい顔をしたところで何も変わらない。ひたすら時は流れ、私たちは歩いていく。銀の月とはこのアルバムで幾度も言及される魂であり涙。とは言え、アルバム屈指のロック・チューン、ここはただラウドに聴きたい。
 
4. クロエ / Chloé
Aメロを飛ばしていきなりBメロのような「彼女が恋をしている瞬間」で始まる不思議な曲。それはさておき、今回のアルバムはそれとしか言いようがない言葉が並び、解説するのが野暮なぐらいだが、この曲も言葉がすべてを言い含んでいる。「彼女が恋をしている瞬間」、「時はため息の中に止まる」が逆もまた然り。
 
5. 植民地の夜 / Once Upon A Time
このアルバムはその両義性を象徴するように、全ての曲に英語のタイトルが付けられている。この曲には「Once Upon A Time」と付けられているが、果たしてそれは本当に「昔、昔」か。一見、不作為に取り付けられた定点観測。これからに思いを馳せ空を見上げる私たちに自由は残されているのか。遠い昔のことではない。
 
6. 斜陽 / Don’t Waste Your Tears
ここで歌われる下り坂とは僕たちが住むこの世界であると同時に私たち自身でもある。あらゆることを知ってしまった今、もう以前のようには踊れない。結局私たちが手に入れたものは何だったのか。その中で「少しずつ過激になってゆく」狂気。それでも、ここで佐野が言いたいのはたった一つのこと。「君の魂 無駄にしないでくれ」。
 
7. 冬の雑踏 / Where Are You Now
今はもう会わなくなった人、会えなくなった人。遠くにいる人、連絡が途絶えてしまった人。街を歩いていると、ふと思い出す。あいつは今、元気にやってるだろうか。つまりそれは、自分も知らない何処かでそんな風に思われているかもしれないってこと。行き交う誰かと誰かの「Where are you now?」。それは生の記憶。
 
8. エデンの海 / White Light
「何もかも溶かしてしまう」閃光とは広島と長崎に落ちた原子爆弾のことか。それは大切なものを一瞬で破壊する悪魔の光。しかしそれは過去の出来事ではない。「私たちの幸運はきっと永遠には続かない」のだから。そのためには私たち自身が光を放ち闇を照らすしかない。「White Light」というリフレインは性急さの表れだ。
 
9. 君の宙 / Love and Justice
あらゆるものが情緒的で、エモいに流されてしまう現代にあって、「国を守れるほどの力はないよ」という言葉にハッとする。ヒロイックな行為も大げさな物言いも要らない。そうだ、佐野はいつでも個と個の関係について言及してきたのだ。「君を守りたい」という思いは個人のもの。そこに余計なものは立ち入らせたくはない。
 
10. 水のように / The Water Song
「ここまでなんとなくやってきた」「死なないように頑張った」とは冒頭の『さよならメランコリア』での言葉。そう、私たちはここまでなんとか生き残ってきた。しかし、生き残れなかった者たちもいる。これから先も何があるのか分からないけど、お互いかける言葉などないのは知っている。言えることはひとつだけ。次に会える日まで、「元気で」。
 
11. 永遠のコメディ / The Perfect Comedy
同じ毎日を繰り返しているようで同じ毎日じゃない私たち。満たされぬ思いを埋めようにも最初からそんなものあったのかどうか。ありもしないものに囚われること自体が生きることかもしれないが、そんなことすら気にしちゃいられない。というのはある意味喜劇。それでもお構いなしに「新しい日がやってくる」。
 
12. 大人のくせに / Growing Up Blue
サビもなく、Aメロだけの曲ではあるが、妙に盛り上がる不思議な曲。これは躍動する佐野の視点とバンドの力だろう。グイグイ押し寄せるアウトロはこの曲の聴き所。佐野の「カモンッ!」が未だ新鮮味を失わないのが素直に嬉しい。大人だってブルーになる。時折、気持ちのいいことを言う人に惹かれるけれど、そんなものはやっぱり要らない。
 
13. 明日の誓い / Better Tomorrow
朝が来たからってすべてがリセットされるわけではない。今日と明日は切り離せるものではない。「夜明けを迎える前にあの人の手を放してしまった」としても夜明けは待ってくれないのだ。今日の喜びと悲しみを道連れに僕たちは歩いていく。たとえ悲しみや苦しみの方が多くとも。そのことが人生に彩を与えてくれると信じて。
 
14. 今、何処 / Where Are We Now
人は何処から来て、何処へ向かうのか。この社会はこの地球は長い歴史の中で今はどの季節にいるのか?生まれてから死ぬまでの二度とない道のり。私たちの命は今、どこら辺り?

『今、何処』アルバムが凄い!

 
 
『今、何処』アルバムが凄い!
 
2022年は宇多田ヒカルとケンドリック・ラマーの年だと思っていましたけど、更に凄いアルバムが出てきました。まさかまさかの佐野元春です。音楽に限らず、アートには時折その時代と見事に合わさってしまう時があって、それはいくらマーケティングしようが意図的にどうこうできるものではありません。何故佐野にそれが出来たのか?何故この『今、何処』アルバムはジャストに響いてくるのか?
 
とにもかくにも40年以上のキャリアを誇るベテラン・ミュージシャンがここに来て何度目かのピークを迎えていることに驚きを隠せません。ただこのピーク、急に訪れたものではないんですね。佐野はずっと新しい音楽を発表し続け、毎年のようにライブ・ツアーを行ってきました。以下は今も第一線で活躍するベテラン・ミュージシャンのここ10年(2012~2022年)のオリジナル・アルバムのリリース数です。
 
松任谷由実 3作
桑田佳祐 2作(サザンで1作、ソロで1作)
小田和正 2作
長渕剛  2作
山下達郎 1作
佐野元春 6作
 
ま、出しゃいいってもんではないですけど、これを見ただけでも佐野の今というものを感じてもらえると思います。で、これらの作品、佐野は自分より下の世代と作ってきました。コヨーテ・バンドと名付けられていますけど、プレイグスの深沼元昭やノーナリーブスの小松シゲルといった面々です。佐野は彼らと15年ずっと一緒にやってるんですね。言ってみれば佐野が通過した60年代70年代の米英ロックと90年代のオルタナティブ・ロックのコラボレーションです。
 
でその結実が2015年の『Blood Moon』だと僕は思っていたのですが、今回の『今、何処』はそれを遥かに越えてきました。これこそ正真正銘の佐野元春&ザ・コヨーテ・バンドの最高傑作だと思います。となると、その前の佐野のバンドであるホーボーキングバンドが『The Sun』(2003年)を最後にオリジナル・アルバムを出さなくなったのと同じことがコヨーテ・バンドでも起きそうな予感も無きにしも非ずですが、今はこの圧倒的な作品に打たれておこうと思います。
 
下に『今、何処』の映像トレイラーを貼り付けておきます。佐野のことを知らない世代も多いと思いますが、ものの数分ですので騙されたと思って聴いてもらえたら嬉しいです。そしてもし気になったら、アルバム自体を聴いてほしい。サブスクに入ってれば気軽に聴けますから、冒頭の数曲だけでも試しに聴いてもらえたらなって。
 
あらゆる世代、あらゆる考え方を持つどんな人々にも開かれた全肯定のブルース。私(わたくし)と世界とのせめぎあい、その中で一対をなす光と闇、2022年の今この時を撃つ傑作アルバムです。なんなら佐野の名前が表に出なくてもいい、この『今、何処』アルバムが多くの人の耳に届いてくれたら、そんな風に思わせる作品です。
 
ところでこのアルバム、音楽評論家の田中宗一郎によるポッドキャスト「THE SIGN PODCAST」で全3回にわたって特集が組まれています。田中宗一郎と言えばレディオヘッドを思い浮かべるので、なんでまた佐野元春?と思ったのですが、彼はずっと佐野の熱心なリスナーだったようですね。このポッドキャストではそのあたりも詳しく述べられています。とても的確な佐野元春評ですので、佐野のことを初めて知ったという人にもとてもよいガイドになると思います。勿論、目から鱗の『今、何処』評も聴けます!Spotifyでも聴けるのでこちらも是非!
 

ENTERTAINMENT! / 佐野元春 感想レビュー

 
『ENTERTAINMENT!』(2022年)佐野元春
 
 
佐野はコロナ禍の中でもできうる限りの活動を続けてきた。’Save It for a Sunny Day‘プロジェクトと称し、その中からシングルをリリース、全7回におよぶ動画配信やグッズ販売、可能な範囲でのコンサートも行い、このプロジェクトで得た収益の一部はコロナ禍で困窮している音楽関係者への基金として役立てた。中には寄稿文募集というファン参加型の企画もあったりして、もしかしたらコロナ以前よりも旺盛な活動であったのではないかとも思う。そんな2年を僕自身はどう過ごしてきたのか。この間リリースされたいくつかのシングルを含むこのアルバムを聴いて、僕はそんなことを考えていた。
 
僕たちの暮らしは大きく変わった。密なコミュニケーションは避けられ、人と人は距離を保ち、僕たちは息をひそめるように語り合った。もう慣れた。そうかもしれない。僕たちはいろいろな息苦しさにその都度折り合いをつけ、こんなことは今だけだと自分に言い聞かせながら、いつか元に戻るさという頼りない楽観性で心の平衡を保っていた。けれど気付きつつもある。もう元には戻らないことを。
 
ただ、だからといってどうなのか。殊更悲観的になるだろうか。未来に絶望するだろうか。そんなことはない。どう転がろうが、もう元には戻れないと知りつつ、相変わらずなんとかなるさと日々をやり過ごすことしか僕たちにはできないけれど、そうやってストレスの角を少しづつ丸めていく自己防衛能力が僕たちにはちゃんと備わっている。僕たちにできることはこの無邪気なオプティミズムを支持し続けることではないか。
 
#3『この道』では何度も「いつかきっと」と歌われる。言葉巧みな作家が「いつかきっと いつかきっと 夜が明ける その日まで」と他愛のない希望を綴っている。#5『合言葉 – Save It for a Sunny Day』では「古い世界 蒼い未来 何処へもゆけない」と歌いつつも僕たちに「まだチャンスはあるよ」と元気づけてくれた。#10『いばらの道』では北原白秋の「この道」を引用することで過去への広がりを喚起させつつ、「明日になれば 明日になれば 悲しいことも 忘れるよ」と祈ってみせた。そして#7『東京に雨が降っている』では再び「濡れた街を歩いて行こう」と呼びかける。
 
僕たちは他愛なさの中にいる。もちろん、その時々で辛いこと、しんどい時期はあるけれど、なんとか頼りがない希望を胸にやり過ごしてきた。そしてこの危機に及んで僕たちが選んだこともやっぱりこの他愛ない無邪気な希望ではなかったか。そんなことでシリアスな現実は乗り越えられない、ウィルスに打ち克つことは出来ないと物知り顔は言うだろう。でも僕たちは打ち克とうなんて思っていない。もちろん、乗り越えられたら嬉しいけど、とにもかくにも僕たちはサバイブしていかないといけないのだから。
 
コロナ前にシングル#1『エンタテイメント!』がリリースされて、コロナになってリモートで制作された#3『この道』が急遽無料で公開されて、#5『合言葉 – Save It for a Sunny Day』があり、コロナ2年目に#4『街空ハ高ク晴レテ』が配信されて、久しぶりのコンサートで#2『愛が分母』を聴いて、今僕は新たな5曲が追加されたアルバムを聴いている。アルバムとしてどうなのかというシビアな目で見れば、この『ENTERTAINMENT!』アルバムはこれまでのコンセプチュアルな佐野のディスコグラフィーの中では見劣りするかもしれない。でもそれは次のアルバムに期待すればいい。今求めるものはそこじゃない。リスクは承知で、避けては通れない道を佐野はちゃんと選んだのだと思う。
 
いつか時間が経ってこのアルバムを聴いた時、僕はきっと思い出すだろう。この2年、僕がどう過ごしてきたかを。このアルバムはその記憶だ。僕たちが歩んできたコロナ禍とは何だったのか、という一般論ではなく、僕自身がどう過ごしてきたのかという個としての記憶。もちろん、これらの歌の主人公は僕ではないけれど、僕もまたそこにいたのだ。
 
 
追記:
今、僕たちが慎重に事を運んだこの2年を根本からひっくり返すような事態が起きている。この戦争に対し、日本人である僕たちはどうすべきか、多くの人が心の中に小さな泡立ちを感じながら、学校に行き、会社へ行き、家の用事をして、いつもの日々を過ごしている。難しい顔をしたところで何も変わらないと知りつつ、全く無茶苦茶な角度からいつミサイルが飛んでくるともしれない世の中で、僕たちはいつまでこの無邪気なオプティミズムを更新し続けることができるのだろうか。

『佐野元春 & THE COYOTE BAND ZEPP TOUR 2021』 2021.11.25 ZEPP NAMBA 感想

『佐野元春 & THE COYOTE BAND ZEPP TOUR 2021』
2021.11.25 ZEPP NAMBA
 
 
デビュー40周年の記念公演を終えた佐野とバンドは、来春に予定されている新しいアルバムの制作を続ける中、横浜、東京、名古屋、大阪のZEPPを回る小規模なツアーに出た。この日の大阪でのライブはその千秋楽になる。とはいえこちらの心構えとしても大それたものはなくリラックス、あるとすれば今後の佐野の活動の糸口を窺えるかも、そんな気持ちだ。
 
そんな中鳴らされた1曲目は『COMPLICATION SHAKEDOWN』。しかも佐野は派手に彩色されたキーボード(?)に位置している。この時点でこのツアーの特色を表している。続くは『STRANGE DAYS~奇妙な日々~』。いずれも80年代の曲だ。「この夜の向こうへ突き抜けたい」という歌詞に続き、通常なら「ヘヘイヘイ!」とレスポンスする流れだが今のご時世、そうはいかない。ただ「夜の向こうへ突き抜けたい」というのは間違いなく今の気分。それを声高に歌いたくなるのは心情だ。
 
3曲目『禅ビート』、4曲目『ポーラスタア』と続き、ここからはコヨーテ・バンドとの作品群かと思いきや、始まったのは1984年のアルバム『VISTORS』からの表題曲。ここまでの4曲は明らかにCOVID-19を意識してのもの。それを受けての『VISTORS』。この曲の最後のラインは「This is a story about you (これは君のことを言ってるんだ)」。毎日流されるCOVID-19関連のニュース、それはあまりにも規模が大きくこうも続けば自分たちのことでありながらも感覚は麻痺してくる。まして感染していない者は尚更だ。しかしCOVID-19は感染している、していないではない。我々はこの間、このウィルスに翻弄され続け、目に見えない傷をいくつも負った。佐野は歌う、「This is a story about you 」と。
 
続く『世界は慈悲を待っている』の後はパンデミックの間、積極的にリリースされたいくつかの新曲が披露された。その中でも最新の曲、『銀の月』は今のバンドの勢いを象徴する曲だ。今やコヨーテ・バンドは彼らにしか為しえない音を出している。2本のギターがリードする派手な曲だが、それは威勢よくケツを蹴り上げるものではない。うなだれた人々への優しいまなざし。銀の月、それは涙、若しくは魂とするならば、邪険にされがちな弱者のそれらが良き道筋を照らす。そういう意思がここにあるような気がした。
 
『銀の月』の後は、来るべきニュー・アルバムに入れる予定だという新曲『斜陽』が披露された。人生という長い坂を下りていくイメージのこの曲は2019年にリリースされたアルバム『或る秋の日』を思わせるシンガーソングライター色の強い曲だ。『或る秋の日』は個人的側面が強い(佐野個人と言う意味ではなく)ためアルバム収録を見送られていた幾つかの曲がまとめられたアルバムだ。つまりこれまでの流れで言うと、『斜陽』もコヨーテ・バンド名義のアルバムには収録されない方向となる。しかし来春のアルバムに収録予定だという。これは何を意味するのか。
 
今回のツアーはここ最近のライブ同様、コヨーテ・バンドとの曲がメインになると思っていた。しかし冒頭の『COMPLICATION SHAKEDOWN』はじめ、コヨーテ・バンド以前の曲も多く演奏されている。勿論これまでのライブでもそうした曲が演奏されることはあったが、明らかに今回は感触が違う。そこには継ぎ目がない、ただコヨーテ・バンドが演奏する曲として機能しているのだ。これは劇的な変化である。何気ない小規模なツアーではあるが、もしかしたら大きな意味を持つ瞬間を観ているのではないか。そんな思いがした。
 
コヨーテ・バンドのオリジナリティが発揮される中、それを象徴するのが中盤に演奏された『La Vita e Bella』と『純恋 (すみれ)』だ。かつての『Someday』や『約束の橋』のような決定的なキラー・チューンになりつつある。ていうかもうなっている。それにこの2曲は手拍子がよく映える。それはコロナ禍ならではかもしれないが、このバンドでも観客が一気に沸き立つ特別な曲が出来つつあるのだ
 
この後ライブは『エンターテイメント!』からアルバム『BLOOD MOON』からの辛辣で愉快な曲をいくつか交え、本編のラストは『INDIVIDUALISTS』、コヨーテ・バンドとの曲をクラッシックスが挟む形で終了した。
 
今回のライブで感じたのは境目が無くなりつつあるということだ。かつてはコヨーテ・バンドとの曲と所謂元春クラッシックスとの間に境目があった。またシンガーソングライター色の強い曲は見送られた。今や彼らはその境目を全く自由に闊歩している。確固たる存在としてのコヨーテ・バンド。それを確信したのが、アンコールで演奏された『悲しきレイディオ』だ。
 
この曲は言い方は悪いが、若いころの佐野を象徴する曲だ。この曲での大掛かりなメドレーに若い僕たちも歓喜した。けれど年を重ね、僕は昔ながらの『レイディオ』が流れることを素直に喜ぶことが出来なくなっていた。けれど今夜のそれはとても楽しかった。いや、あのイントロを聴いた時、思わず笑ってしまった。恐らくそれは本編を通して、コヨーテ・バンドがそういう境目を取っ払ってくれたからだ。
 
僕たちはCOVID-19の只中にいる。それはネガティブなことかもしれない。ではその向こうには何があるのか。ポジティブな光なのか。いやそんなことはない。物事は絶えず混じって進んでいく。COVID-19の只中にも光と闇は存在し、COVID-19の向こうにも光と闇は存在する。この日のライブがそうした混じりあいを示唆していたと大袈裟なことは言わないが、僕にそのことを気付かせる働きかけはあった。「やがて闇と光とがひとつに包まれるまで クロスワードパズル解きながら今夜もストレンジャー This is a story about you」(『VISTORS』)。これからも僕たちは色々なことが混じり合う世界を生きてゆく。
 
ちなみに。。。『レイディオ』中盤でスローダウンするところ、歌詞の順序がぐちゃぐちゃになりました。どう立て直すのかなとニヤニヤして観ていると、佐野さんが「さっきも言ったけど、もう一度、、、この素晴らしい大阪の夜!」と叫んだりして、おっかしかったです。長年共にしてきたミュージシャンとファンならではの愉快な光景がそこにはありました。

銀の月 / 佐野元春 感想

 

『銀の月』(2021年)佐野元春

 

佐野元春の新曲がリリースされた。来春に予定しているアルバムからの先行トラックだそうだ。コヨーテ・バンドならではのギター・チューン。コヨーテもいつの間にか聴けばそれと分かる個性が確立されたような気がします。初期のザ・ハートランドも中期のホーボーキング・バンドも割とアルバムごとにサウンドは違ってましたから、バンド・サウンドを固めたまましばらく続けるのは佐野さんのキャリアでも非常に珍しいことかと思います。

『世界は慈悲を待っている』や『エンタテインメント!』に通じるコヨーテならではのダンス・ロック。いや、苦み走ったダンス・ロックと言えばよいか。このダブル・ギターを基調とした独特の疾走感(って言っていいのかわからないが)は完全なオリジナリティー。一方でこれだけ確立してしまうと、次のアルバムでコヨーテ・バンドとしての活動は一旦休止になりそうな気がしないでもない。

そして意味深なタイトル、「銀の月」。僕は涙と受け取りました。若しくは魂。邪険にされがちな弱者のそれらが良き道筋に転嫁される。そういう意思がここにあるような気がします。ていうか感じ方は人それぞれ。いつものようにこうであるとは拘らない、聴き手の想像力を自由に喚起する素晴らしいリリックです。個人的には「そのシナリオは悲観的すぎるよ」という言葉を自分の問題としてどう判断すべきか、まだ僕の中で消化しきれずにいます。

 

  銀の月抱いて 歩いてゆく
  行きたいと思う道 目指してゆく
  そのシナリオは悲観的すぎるよ
  日は暮れて 君は少し笑った

    ~『銀の月』佐野元春~

はいはい、そういう人ね、に対するリベンジ

「はいはい、そういう人ね、に対するリベンジ」
 
 

先日アップした『TIME OUT!』でこのブログでの佐野のアルバム・レビューも残すは80年代の作品のみとなった。ブログを始めた当初にその時点での最新作から遡ってのレビューを始めたのだが、もっとスイスイ進んでいくはずが結構な時間がかかっている。この分だといつ終わるか分からないが、誰に頼まれたわけでもなく好きで書いているので、多分これからもこの調子だろう。

過去に書いたものを読んでいると、肩に力が入っていて今ならもう少しうまく書けるのになぁとも思うのだが、それはそれでその時の記録だし、何よりありがちな批評ではなくちゃんと僕なりの視点を持てていると思うので、​これは​そのままにしておきたい。てことで昔の作品のレビューの方がこなれた感じになっていくという不思議な現象になってはいるが、まあいいなんにしても好きなことを書くのは楽しいものだ。
 
僕は思春期でもないのにいまだに人に佐野のファンだと言うことに抵抗がある。二十歳前後の頃、僕の事などロクに知らないくせに、佐野ファンだと言うと「あぁ、そういう人ね」みたいなことを言われたのをずっと引きずっている。2、3年前にも似たようなことがあって、だから嫌なんだと改めて思った。
 
このブログの三本柱は拙い自作詩と洋楽レビューと佐野元春。ブログを始めた理由は色々あるけど、佐野についてはもしかしたら二十歳前後の時に受けたこの仕打ちへのリベンジという意味合いどこかにあるかもしれない。僕自身に降りかかった誤解も含め、レジェンドと言われる割には音楽自体があまりにも知られていない佐野元春という稀有な音楽家のことを出来る限り誠実に発信していきたい。大げさな言い方になるけど、もしかしたらそれは佐野に対する僕の恩返しかも、なんて思っています。
 
最近じゃ、佐野のこと「誰それ?」って人が思った以上に多いから(笑)
 
 

TIME OUT! / 佐野元春 感想レビュー

『TIME OUT!』(1990年)佐野元春
 
 
『僕は大人になった』という曲が好きだ。特にどうと言うこともない曲だと思うけど、佐野自身も好きなのかよくライブで演奏する。昔からのファンはこの曲と『ガラスのジェネレーション』を結びつけてしまうようだけど、後からファンになった僕には関係ない。単純にこの曲の軽さが好きだ。
 
僕はそろそろ50が見えてきて完全なる大人だけど、じゃあ本当にそうかと言われれば随分と心もとない。多分、僕がこの曲を好きなのはその心もとなさがうまく表現されているからだろう。難しい文句を重ねるわけでもなく、「壊れた気持ちで翼もないまま どこかに飛んでゆくのはどんな気がする」とシャウトし、「とてもイカしてるぜ」と結ぶ。とてもいい加減な曲だ。そこがすごくいい。
 
今気づいたが、’飛んで’と’どんな’で頭韻を踏んでいる。こういう跳ねた表現がそこかしこにあるのもこの曲の魅力だ。ていうかこのアルバムはずっとそんな感じだな。なんにしてもこの何気なさにはやられる。
 
80年代の佐野は外に向かっていた。特に『VISTORS』(1984年)以降はその傾向が強い。しかしこの『TIME OUT!』にはその気概が感じられない。時代背景もあってかバブルに浮かれた世相を冷ややかに見ている視点もあるけど、それもちょっと投げやり。らしくない。それどころか佐野自身のプライベートな声がここにある。
 
佐野は自身の喜怒哀楽を歌に表さない。滲ませているかもしれないが、基本的には’自分ではない誰かの視点’で曲を書いている。けれどこのアルバムでは佐野の生な声が聞こえてくる。もちろん自分ではない誰かのストーリーに仕立ててはいるけど、自虐的に面白おかしく内面を吐露させているように思える。そんなアルバムは現時点においても唯一この作品だけだ。『VISITORS』(1984年)、『Cafe Bohemia』(1986年)、『ナポレオン・フィッシュと泳ぐ日』(1989年)とそれ自身ダイナモのようにエネルギーを発する怒涛の作品群と来て、一気にトーン・ダウンの『TIME OUT!』。あの佐野元春にもこういう作品があるんだな。なんかこのアルバム、レアだぞ。
 
この頃は wowow でのアンプラグド・セッション『Good Bye Cruel World』(1991年)もあったりと、自身のバンド、ハートランドとの距離が更に濃くなっていく時期だ。海外を活動の拠点にしていた佐野が90年代に入ってからはハートランドとの時間を密に取っていく。1993年の『The Circle』を最後にザ・ハートランドは解散するのだけど、その頂きに向かって再スタートを切った時期と見ていい。
 
そのピークを迎えていく『The Circle』や『Sweet16』(1992年)での躍動するハートランドも素晴らしいが、この『TIME OUT!』での演奏も地味に目を見張るものがある。いや、ハートランドとTokyo Be-Bop のメンバー一人一人の顔が見えるという点で言えば、むしろこのアルバムかもしれない。完全なるザ・ハートランドお手製アルバム。 あぁ、『Good Bye Cruel World』も音源化してくれないかな。
 
それにしてもこの頃の佐野元春はキレキレだ。活動的にはトーンダウンした時期かもしれないけど、前作から1年しかインターバルがないように創作力は旺盛だ。言葉の妙と言い、その載せ方といい、AメロBメロサビ的なパターンを無視したメロディといいオリジナリティーに満ちている。これは完全に80年代の果敢なトライアルの成果だろう。逆に肩の力が抜けていい感じ。#10『ガンボ』での「あれ、片っぽの靴下がどこにもないだろう」のラインが最高過ぎる。
 
ところでこのアルバムをフォローしたツアーを収録したビデオがあって、6曲しか収録されてなかったんだけど、『クエスチョンズ』とかテンポアップした『愛のシステム』とか見事な佐野元春 With The Heartland ぶりを見ることが出来る。ビデオには収録されていないけど、Youtubeにはビートルズの『Revolution』のカバーがアップされていて、シャウトしまくりの異様にかっこいいこの時期の佐野の姿が捉えられている。 『Good Bye Cruel World』と合わせて、『TIME OUT!』ツアーの長尺パッケージ化も切に望むぞ!
 
随分と昔に佐野がこのアルバムを’ホーム・アルバム’と称していたけど、今改めて聴くとなんとなく分かる気がする。昔からのファンには重いアルバムのようだが、いやいや『VISITORS』~『ナポレオン~』期の方が断然重いでしょう(笑)。僕は純粋にこのアルバムを楽しめている。こりゃ後追いファンの特権だな。とはいえこの時の佐野は33才。とは思えない大人なアルバムだ。