いやいや「いだてん」は面白い!

TV Program:

いやいや「いだてん」は面白い!

 

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の視聴率が低調らしいが、いやいやかなり面白いぞ。ということで唐突ですが、先日の第20回「恋の片道切符」の感想です。はは~ん、そういうことやったのねと思っていただければ幸いです。

とその前に。このドラマが始まる前、天の邪鬼な私としては、「けっ、2020年東京オリンピックのプロパガンダかいっ」と思っていました。が実は実は大間違い。プロパガンダどころかちゃっかりスポーツはこうでなくっちゃっていう批評が盛り込まれているんです。

例えば、満を持して出場したアントワープ・オリンピックでは、テニスで日本初の銀メダルを獲得するものの金栗四三始めその他の競技は完敗。帰国後の記者会見で記者から選手団が集中攻撃を受ける中、二階堂トクヨはこう言い放ちます。「オリンピック最優先の体制を改めない限り、わが国の体育の向上はない!」と。これ完全に今の日本に対して言ってますよね(笑)。

あと嘉納治五郎が欧米との実力の差にこう呟きます。「重要なのは50年後、100年後の…」。視聴者はこれまでの嘉納治五郎のイケイケぶりを観てますから、きっとこの後のセリフは、「50年後、100年後の日本選手が欧米人と対等に、いやそれ以上に戦えるよう」みたいなことを言うのかと想像します。ところがです、嘉納治五郎は満面の笑みでこう言うんです。「50年後、100年後の選手たちが、運動やスポーツを楽しんでくれていたら、我々としては嬉しいよね」と。

この場面の嘉納先生は神々しかった~(笑)。それまでは女子はスポーツしては駄目なんですかと訴えるシマに対しても、全く理解を見せるところが無かったあの嘉納治五郎がここでは打って変わってこういうセリフを吐く。なんか嘉納治五郎が一気に開花したような錯覚を覚えました(笑)。

シマは女子がスポーツなんかするもんじゃないと言われながらもこっそりと朝早く起きて、マラソンの練習に励んでおります。そこへ四三の朝練とかち合います。そしてその邂逅と四三がオリンピック後の放浪中にベルリンで観た景色、女子が当たり前のようにスポーツをする景色を見て四三は天啓を得るわけですが、ここでシマとの邂逅が繋がるわけです。

そのシマ。今回の話では彼女の「キエーッ!!」というシャウトが聞けます。そうです。四三の持ちネタですね。四三が素っ裸で水浴びをして「キエーッ!!」と叫ぶ。もう「いだてん」の定番です。ところが最近はその四三の「キエーッ!!」の回数が減ってきた。そこで今回はシマが初の「キエーッ!!」。次週の予告編ではシマが何度もシャウトする姿が描かれています。しかも四三は女学校の教師!?

つまり第21回、ここから四三の精神がシマへ受け継がれることを意味するのです。密かな主役交代と言っていいんじゃないでしょうか。日本人初のオリンピアン、金栗四三から女子体育の夜明けを担うシマへのバトンタッチ。私はそういう風に受け取りました。

この点、先のトクヨさんの発言や嘉納先生の発言と被って来ません?つまりそういうことなんです。勝利至上主義やメダルを何個獲ったとかではなく、市井の人々が等しくスポーツを楽しめることこそが本来のスポーツではないかと。金メダル、金メダルと念仏のように唱えていた四三もまたここで鮮やかに開花するのです。

私は芸術というのはすべからく批評の精神が宿っていると思っているんですね。たかが日曜夜の大河ドラマにそんな大層な理屈付けるんじゃないよと言われるかもしれませんが、これはやっぱり芸術なんだと。制作者一同もきっとそういう心意気なんだと私は思います。

ちなみにシマ演じる杉咲花さんは昨年末の「笑ってはいけない」に出演。バス内でのコントでいきなり「ギヤーッ!!」と叫び笑いを起こしていました。「いだてん」でのシャウトはそこから始まったのではと私は勝手に解釈しております(笑)。

Lonely Avenue/Ben Folds and Nick Hornby 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Lonely Avenue』(2010)Ben Folds and Nick Hornby
(ロンリー・アヴェニュー/ベンフォールズ・アンド・ニック・ホーンビィ)

 

ベン・フォールズとニック・ホーンビィによるコラボレーション・アルバム。ニック・ホーンビィという人は英国の著名な作家で、幾つかの作品がハリウッドで映画化されているそうだ。そんなことは全く知らないが、英国人らしい皮肉やユーモアを交えながら素晴らしい詩を紡いでいる。そしてそこに曲を付け、表情を与えるのがロッキン・ピアノ・マン、ベン・フォールズ。とても素晴らしいメロディ・メーカーであり、サウンド・デザイナーである。

その詩の内容はとりわけ特別なテーマを描くのではなく、僕たちの隣人の物語。例えば、大晦日の夜を病気の息子と病院で過ごす母親の心象風景『Picture Window』。副大統領候補の娘と付き合ったばっかりにマスコミの格好の餌食となった青年のため息『Levi Johnston’s Blues』。お互いささやかな幸せを掴みつつも、一向に巡り合えないソウル・メイツを描く『From Above』。どれも人生つまずきながらも、なんとかやりくりしていこうとする人々の日常を切り取ったもので、まるで良質の短編映画を観るよう。

良い悪いの判断も、彼らがどうなったかもとりあえずは横に置いておいて、ただ彼らの動く様子をカメラで追ってゆく。そんな俯瞰的な描写が好い。しかしながら、作者の登場人物に対する愛情は多量である。

彼ら登場人物を更に活き活きと動き回らせるのが才能豊かなピアノ・マン、ベン・フォールズ。ニック・ホーンビィが登場人物を温かく見守る親なら、ベン・フォールズは彼らの肩を叩く友人といったところか。彼らがしっかり歩いてゆけるよう、珠玉のメロディで道を照らしている。

本作で僕が最も好きなのは『Claire’s Ninth』。「もう、最低!」と歌うところは本当にスクール・ガールのよう。この曲の主人公はティーン・ネイジャーだが、曲によっては年老いたミュージシャンであったり、作家であったり老若男女問わず様々。どれも素晴らしいストーリー・テリングと色彩豊かなサウンド・デザインで幅広く奥行き深く楽しむことが出来る。シリアスなストーリーが多かったりもするのだが、あくまでもポップに。そこがまたいい。

日本盤ボーナストラックとして最後に『Picture Window』のポップ・ヴァージョンが収められている。ストリングスとピアノによる本編とは異なるバンド・サウンドだ。歌詞がシリアスな分、ポップなサウンドとの落差にかえって胸が締め付けられる。本編は絶望を幾分和らげるためにストリングスというオブラートを掛けたのかもしれない。

 

Tracklist:
1. A Working Day
2. Picture Window
3. Levi Johnston’s Blues
4. Doc Pomus
5. Your Dogs
6. Practical Amanda
7. Claire’s Ninth
8. Password
9. From Above
10. Saskia Hamilton
11. Belinda
(日本盤ボーナストラック)
12. Picture Window(Pop Version)

THE BARN/佐野元春 感想レビュー

 

『THE BARN』(1998)佐野元春

 

1998年頃の佐野は久方ぶりのテレビ出演やCM出演があったり、かつてない程のマスメディアへの露出があった。デビュー以来のパーマネント・バンドであるThe Heartlandを解散し、新たなメンバー(結成当時はInternational Hobo King Band という長い名前だった)と作り上げた1996年の『FRUITS』アルバムは佐野を知らないリスナーにまで届く可能性のある、非常にポップで明度の高い作品であったし、それを受けたツアーもニュートラルで開放感ある素晴らしいものだった。そして前述のテレビメディアへの露出。その後の新しい聴き手をがっちり確保するいわば勝負の時期に佐野は『THE BARN』というアルバムで挑戦してきたのである。しかしそのアルバムは1984年の『VISITORS』同様、誰もが手放しで喜べるものではなかった。

『THE BARN』は60年代70年代の米国フォーク・ロックへのオマージュである。ザ・バンド、ボブ・ディラン、幾多のウッドストック・サウンドへの憧憬を隠すことなく露わにしている。直接ウッドストックへ赴いてのレコーディング合宿。それは言わばハネムーン期を過ぎたThe Hobo King Bandの面々の共通のバックボーンを辿る旅でもあった。

果たしてそれは成功したか否か。作品としては大成功である。素晴らしい名演の数々。新しいフェーズを感じさせるソングライティング。当時流行のダンス音楽とは一線を画す、アナログで且つキレ味鋭いサウンドはどの曲をとっても生々しい手触りに満ちている。しかし新しい聴き手を獲得する勝負の時期としてそれは的確だったか。残念ながら商業的な成功を収めるに至らず、一般向けには相変わらず佐野元春はよく分からない人というイメージを覆すことは出来なかったように思う。

それは作品が素晴らしいだけに、長らく佐野のファンであった僕には非常にもどかしい感覚だった。しかし。このアルバム20周年にあたる2018年には1万円以上もするアナログ盤をメインにした非常に丁寧なボックス・セットが発売された。このことはこの『THE BARN』アルバムに熱い思いを持つ人達が数多くいたことを証明するトピックではなかったか。確かに当時は不特定多数を巻き込むヒットにはならなかった。しかし、ある特定の人達の心には深く強く響いたのだ。

このアルバムは1984年の『VISITORS』と同じく、佐野のキャリアでは特異点と呼べるような作品だ。歌詞、メロディ、サウンド、どれを取ってもこの時にしか成し得ない表現がパッケージされている。中でも印象深いのは歌詞だ。『THE BARN』アルバムを語る際に真っ先に挙げられるのは、ダウン・トゥ・ジ・アースと言われるいなたいサウンドだが、僕にはそれよりも先ず、リリックが強く響いてきた。佐野は時折目の覚めるようなリリックを書くが、このアルバムでは正にそう。佐野は元々情緒を廃した情景描写を行う作家であるが、ここでは普段より更に乾いた情景が非常に細やかに描かれている。

例えば『7日じゃたりない』。
 「話しかけるたびに不思議な気がする/この体中の血がワインに変わりそうさ/あの子のママが言うことはいつも正しい」

例えば『風の手のひらの上』。
 「身繕いをしながら/仕方がないと彼女は言う/疑わしく囁いて/黒いレースのストールを夜に巻きつける」

例えば『誰も気にしちゃいない』。
 「この辺りじゃ誰も気にしちゃいない/庭を荒らされても何も言えない/君を守る軍隊が欲しい」

それだけで現代詩になるリリックが目白押し。これらが佐野元春節とでもいうような独特の譜割で歌われる。

独特といえばメロディもそうだ。Aメロ、Bメロ、サビ、といった基本フォーマットは無視されている。サビがどこにあるのかよく分からない自由なメロディ。このアルバムの曲の大半は現地で書かれたそうだが、そのオープンな環境に触発されたのか、自由で伸びやかなメロディが横溢している。そこにユニークな言葉の載せ方が加わり、僕たちは言葉とメロディの幸福な関係を見る。

当時、佐野はレイド・バックしたなどと揶揄する向きもあったが、20年経った今聴くとどうだろう。未だに鮮度は失われていない。いや、今でもまだ新しい。それはやはり、その場その時でしか成し得ない衝動に佐野が忠実だった証左。世間に何故今これなんだと言われようが、今はこれなんだという自ら肌で感じる時代感覚が成し得た成果ではないだろうか。『THE BARN』は『VISITORS』と並ぶ異形のアルバムと言って差し支えないだろう。

 

Tracklist:
1. 逃亡アルマジロのテーマ
2. ヤング・フォーエバー
3. 7日じゃたりない
4. マナサス
5. ヘイ・ラ・ラ
6. 風の手のひらの上
7. ドクター
8. どこにでもいる娘
9. 誰も気にしちゃいない
10. ドライブ
11. ロックンロール・ハート
12. ズッキーニ-ホーボーキングの夢

月影

ポエトリー:

『月影』

 

夜の向こう側に降りてくる
柔い光が集まるという
煤けたコンクリートの階段
あの人の歩幅は頼りない

月影を半分こちらに向けて
にじり寄る電球が
チラチラともよおす殺意
誰に向けられたものではない

走り去る人の肩にぶつかって
階段をまっ逆さまに転げ落ち
それでも全体は丸く収まって
何事も無かったように終息していく

まるで古いビデオテープ
訳もなくこんがらがって
中身はいかほどでもない
どうりで汗をかかないわけだ

けれどどうしても落ちていく
落ちていく姿しか見えないんだ
白々として、もう朝になるというのに
そんな自分の姿しか見えないんだ

 

2018年12月

Amnesiac/Radiohead 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Amnesiac』(2001)Radiohead
(アムニージアック/レディオヘッド)

 

今こうやって聴いてみると、さして違和感はない。メロディアスな曲が多いからだろうか。生の楽器がちゃんと聴こえるからだろうか。恐らくもう、2019年に至って、トム・ヨークのブルースに僕たちが追い付いたからだろう。憂いに満ちた世界がデフォルトとして横たわっている。当たり前のこととして暮らしている。そういうことかもしれない。

ブルース。エレクトロニカだったり、ジャズであったり、ストリングスであったり、音の背景は色々あるだろうが、これはもうトム・ヨークのブルースだ。ここに『KID A』の攻撃性はない。ただ地を這って横に広がってゆくのみ。トム・ヨークが憂いている。そういうアルバムだ。

だからはっきり言って、アルバム全体の印象は散漫な感じは否めない。どれもが独立して立っていて全体としてのバランスは考えてられないようだ。それはこのアルバムの背景、あの『KID A』からこぼれ落ちたもの、と考えれば合点がいく。しかし何事もつまり、こぼれ落ちたものにこそ大切なものはあるのだ。

僕はこのアルバムを聴いて嫌な感じはしない(←この表現もおかしな話だが)。ていうか心地よい。アルバム・ジャケットが物語るように『KID A』で剥かれた牙はここにはない。それになんだかんだ言って、トム・ヨークはポップな人だ。でないとあんな服装はしない。

『KID A』~『Amnesiac』期というのはテンションが振り切ったまんまのかなりのストレス状態で作られたわけだが、そうは言っても常に中指を立てていたわけではないだろう。時に憂いが吐き出されることがある。そうやって吐き出されたブルースが綺麗なメロディや豊かな音楽性によって語られる。

たまには地を這うのも悪くない。そうやって僕たちは日々のブルースをやり過ごす。

 

Tracklist:
1. Packt Like Sardines In A Crushd Tin Box
2. Pyramid Song
3. Pulk/Pull Revolving Doors
4. You And Whose Army?
5. I Might Be Wrong
6. Knives Out
7. Morning Bell/Amnesiac
8. Dollars & Cents
9. Hunting Bears
10. Like Spinning Plates
11. Life In a Glasshouse

竜馬がゆく/司馬遼太郎 感想

ブック・レビュー:

『竜馬がゆく』 司馬遼太郎

 

『竜馬がゆく』を読んだのは大学生の頃。大学の購買で買って読み始めたんだけど、当時は読書の習慣なんて丸っきりなかったからすぐに挫折(笑)。その後何のきっかけで再び読み始めたのかはとっくに忘れたけど、とにかく僕にとっては沢木耕太郎『深夜特急』とともに、読書をするきっかけになった、読書の面白さを知るきっかけとなった思い出深~い小説です。

でやっぱり竜馬さんはスーパーヒーローなんですね。ケンカは強いわ、でも基本は戦わない人で、優しくって愛嬌あるからモテるし、普段は軽いけどいざとなりゃ凄みがあって、頭もバチバチっと回転して誰にも負けないし、ていうか自分も含めなるべく勝者を作らない。そりゃあもう男なら絶対憬れるような要素をこれでもかってぐらいに持っている人で、勿論これは小説だし、司馬さんの創作なんだろうけど、やっぱ生き生きとしているから、生身の人間みたいに思っちゃう。だから幾多の大学生同様、当時僕は京都に住んでいたから、霊山へお墓参りに行ったり、寺田屋へ行ったり、まあ単純なもんですな(笑)。とにかく竜馬、竜馬って憬れたもんです。

ところがですねぇ、これがだんだんと覚めてくるわけです。現実を見始めるというか、余りにもスーパーヒーロー過ぎて、やっぱ遠すぎるんですね。ちょっと違うんじゃないかなって。そこで出会ったのが司馬さんのもう一つの幕末人気作、『燃えよ剣』でございます。

ここに出てくる土方歳三って人が、この人もめっぽう強くてカッコいいんですが、とにかく一途なんです。新鮮組ですから時代と逆行しているんですけど、それでも親友の近藤勇と共に信じる道を突き進む。けどだんだんと追い詰められていく。それでも近藤勇と袂を分かってまで抵抗し続ける。ま、滅びの美学ってんですか。やっぱこれもねぇ、暇を持て余しているバカな大学生にはグッとくるわけですよ(笑)。そこでやっぱオレは竜馬じゃねえ、土方さんだって思い始める。これまた単純な話やね(笑)。

つーことでしばらくは土方のファンになって、そんでもってそっち関係(←幕府側ってことね)の本を読み漁る。例えば池波正太郎の『幕末遊撃隊』。ここに出てくる主人公の伊庭八郎がまた涙ちょちょぎれるぐらいカッコいいんだ。あと北方謙三の『草莽枯れ行く』とか、これもよかったな~。まぁそういう時勢や損得に関係なく、己の信じた道を突き進む男たちに憬れて、その代表として土方さんがいたってことでしょうか。

ま、でもこれも良し悪しでね。盲目的に信じた道を突き進むってのはそりゃ、大学生ぐらいの年代にゃひとつの憧れにもなるんだろうけど、実際にはね、最初の信念に殉じていくってんじゃなく、一時の情緒に燃え上ってしまうってんじゃなく、自分で考えてこれ違うなって思ったらちゃんと軌道修正して、人に変節したなんて言われようと自分の中で理屈の通った考えを持っていくっていうことに当然ながら気持ちは傾いていくわけで、そうなりゃやっぱ竜馬さんなんです(笑)。

確かに表面的なスーパーヒーロー感というか全能感はありますけど、それはそれとしてね、もっと根本のところというか、自分で考えて、皆の意見を尊重して、より良い方向へ向いていくにはどうしたらいいかっていうことを、これでいいってことじゃなく絶えず考えていくっていうのかな。土方さん的に言うと、そんなこと分かってんだ、それでもオレはこっちに行くんだってことになるんだろうけど、それはやっぱりネガティブっていうか自分も含めて皆がしんどくなるし、気持ちいこと言っちゃうけど、やっぱ一人では生きていけないわけだから、誰かがいて自分がいるっていう、そういう当たり前の営みの中であーでもないこーでもないって思い悩んで軌道修正していく方が自然なんじゃないかって。竜馬さんもきっとそっちの人だったんじゃねぇかなって。

だからまた変わるかもしれないけど(笑)、今は竜馬さんみたいにあっちこっちぶつかりながら自分の考えに固執しない、メンツとかプライドなんか放っぽって、素直に「あっそうか」って簡単に心変わり出来るように、そんなんでいれたらいいなって思うのです。

大学の頃に司馬遼太郎の作品に出会って、そっから夢中になって全作品とは言えないまでもかなりの数を読みまくって、中には何回も読み返したのもあったりして、『竜馬がゆく』も文庫本で全8巻もあるのに覚えているだけで3回は読み返してるし、なんだかんだいって僕は竜馬さんが好きなんだろな~と。家族を持って、いい年になって、今もう一度読み返してみたら、また新しい発見があると思うけど、読みたい本が他に山ほどあるからねぇ。いつになることやら(笑)。

和泉市『ART GUSH』 感想

アート・シーン:

『ART GUSH IZUMI CITY』

 

大阪府和泉市では『ART GUSH(アート・ガッシュ)』なるアート・イベントが2019年3月から実施されていて、泉北高速「和泉中央駅」から久保惣美術館にかけての街のあちこちでウォール・ペインティングが施されています。

和泉市はアートに力を入れている自治体で、市の久保惣美術館にはなんと北斎や写楽、モネやゴッホといった錚々たる作品が所蔵されています。今回の『ART GUSH』なるプロジェクトはその久保惣美術館所蔵の作品の中から30点を、関西ゆかりのクリエイター30組が独自の解釈でリライト(再描画)していくというものです。

オシャレなホーム・ページも立ち上げられていて、市の力の入れようが窺えます。ウォール・ペインティングが施されているのは駅であったり、学校であったり、公園であったり、町会館であったり。こうなると一時的な町おこしではないですね。この街をどういう風にしていきたいのかという哲学がそこにあるような気がします。

ホーム・ページではグーグル・マップと連動して作品の所在が分かるようになっていて、更にその場所の写真も添えられていますから、周りの景色からどこにあるかが判別しやすい。マップ上だけでは分かりにくいですからね。壁画の近くには小さなレリーフとQRコードがありますから、スマホをかざすとその場で詳細を見ることが出来る。そういう部分も見に来る人に優しいというか、インフラ的にも完成度の高いプロジェクトだと思います。てことで早速私も。一応変なとこで几帳面な正確なもんで、作品No.1から順に見て回ることにしました。

そうそう、壁画は№1~№30まであるのですが、それとは別にA,B,Cと立体物が建てられています。先ずはその立体物Cの「宮本武蔵×キャプテン・ハーロック」から。スタート地点は泉北高速「和泉中央駅」です!!

←こちらはバス停にあります。

 

 

 

 

 

←続いて駅を上がった歩道橋にある立体物B。こちらはロダン作「考える人」×「島耕作」。

←こちらはその歩道橋を図書館やイベントホールなどがあるシティプラザへ向かう途中にあります。作品No.1です。

←こちらもその歩道橋沿い。

←階段にはこんなんもございます。

←でもってそのシティプラザには幾つか展示されています。

←そしてシティプラザから桃山学院大学へ向かいますが、その道中にあるのがこちら。

←トンネルの中にもございます。

←ここからちょっと道を外れて、和泉中央駅の裏手。水道局にあるのがこちら。ちょっと遠目ですが。
←拡大するとこんな感じ。

←その向かいの石尾中学校の校舎にも。

←少し離れた のぞみ野自治会館。

←こちらは桃山学院大学へ向かう橋。

←左右それぞれこんな感じですね。

←橋をさらに進んだ橋の下。というか橋の裏。

←桃山学院大学の校舎にもありますね。これは見つけるのに苦労しました。

桃山学院大学の横に宮ノ上公園というのがあるのですが、そこには盛り沢山!ラストスパートといったところでしょうか。じゃんじゃん見つかります。では一気に!

←最後は宮ノ上公園から見える桃山学院大学の校舎に。これが№30です!

とまぁ駆け足で紹介しましたが、これだけ全部みるのに自転車でおよそ2時間といったところでしょうか。ちなみに和泉中央駅ではレンタサイクルがございます。

途中、あれ?どこだ?となることが何度かありましたが、そうは言っても冒頭に申し上げた通り、ホームページを覗けば簡単に見つけることが出来るから、その辺のストレスは全く無いですね。

最後は久保惣美術館。KUBOSOの文字のオブジェが立体物Aです。宮ノ上公園に案内板がありますから、久保惣美術館へは迷わずに行けます。最後にこの美術館に入って元ネタである絵画を観る、というのが本来の流れでしょうか。

ちなみに僕は学生が沢山いる大学の回りや、小さな子ども連れが沢山いる公園で、バシャバシャ写真を撮ってましたから、ちょっと怪しい人物だったかもしれません(笑)。

駅から色々歩いていると、通りかかる人々が絵を指さしたり口々に話していたり。日常の生活の中にアートが存在する。それはとてもいい景色だなと思いました。

インターネット/インターチェンジ

ポエトリー:

『インターネット/インターチェンジ』

 

高速道路を時速100キロで走る君の横を
光速で過ぎるインターネットが
鋭角に変換され
柔らかに君の元へ配達されるのは
君の嗜好に基づき
インターチェンジで自動的に配分された後
君が感応する経路はいささか偽悪的だ
配分された後、再び交わることは稀で
AIの親切心は私たちの思考を固定し
分断を助長する
それでも私たちはインターネットを手放せない

 

2018年12月

京都非公開文化財特別公開~得浄明院、長楽寺など~

アート・シーン:

『京都非公開文化財特別公開~得浄明院、長楽寺など~』

 

春の「京都非公開文化財特別公開」が4月26日~5月6日、京都市と京都府宇治市の寺社20ヶ所で実施されました。このうち、「お戒檀巡り」の得浄明院と、改元時にしか公開されない秘仏の本尊「准胝観音(じゅんていかんのん)像」がある長楽寺へ行きました。どちらも円山公園界隈ということで、その辺りには他にもお寺が沢山ありますから、時間を見ながら他にも足を伸ばせるようなプランで出掛けました。

先ず向かったのは得浄明院。ここではこの時期限定で「お戒檀巡り」が出来ます。「お戒檀巡り」というのは、真っ暗闇の本堂地下を右手で壁を伝いながら歩き、途中にある錠前に手を触れることが出来れば、本尊と縁を結び、功徳を授かるというもの。

これ、ちょっとしたアトラクションのようで楽しいです。基本的に人間というのは反時計回りに回るように出来ておりまして、運動会や陸上競技場を思い浮かべてもらうと分かり易いと思いますが、要するに心臓を守るように、左胸が内側に来るようにぐるりと回るのが自然なんです。ところがこの「お戒檀巡り」は時計回り、右回りに進むのです。

恐らくこの時計回りというのが肝で、これが不安感を煽るわけです。しかも真っ暗闇、本当に真っ暗ですから、私は友人と計4名で行ったのですが、皆で静かにワイワイ言いながらでなかなかの盛り上がり。ちなみに私は錠前に触れなくてもう一周しました(笑)。

ここは「一初(←アヤメのことです)」も沢山見られるはずでしたが、私が行ったこの日は残念ながら満開とはいきませんでした。

ところで得浄明院に着いたのは朝10時ぐらいでしたが、何故かあまり人はいませんでした。沢山の人で「お戒檀巡り」は出来ないんじゃないかと少し心配していたので、ちょっと肩透かし。てことで行くなら朝が狙い目ですね。

得浄明院を南下し次に向かうは長楽寺。得浄明院周辺はいかにも京都な住宅地でほとんど人もいませんでしたが、そこから長楽寺へは円山公園を抜けていく道ですから、歩いているだけでも観光気分がグッと増します。長楽寺は途中、東へ折れ、石の階段を登った先にあります。おっと、結構行列。10分ほど並んだでしょうか。漸く本堂へ入れました。

そんなに大きくない本堂の中に入ると沢山の人だかり。ここの「准胝観音像」は今回の20ヶ所ある特別公開の中でも目玉のひとつですからね。なんせ30年ぶりのご開帳ですよ!

そういや最初に訪れた得浄明院もそうでしたが、学芸員らしき若い女性が文化財の説明をしてくれるんですね。これはなかなか良いサービス。勿論ある程度は調べて行ったのですが、こうやってその場で説明をしてくれると尚更理解が深まります。

そして遂に「准胝観音像」の正面へ。うわ~、やっぱ素晴らしい~。気品がありますねぇ~。失礼ながらお顔の大きさ、胴体のバランス、何本もある腕の太さ、これらがちょうどいいんです。太からず、細からず、中庸の美とでも言いますか、これは見事なプロポーション、いつまでも見ていられます。

ところでこちらの「准胝観音像」。天井からぶら下がった紐みたいなのが「准胝観音像」の頭上辺りに繋がってるんです。何故だろうこれはと私なりに考えたところによると、はは~ん、これは准胝観音様がもう疲れた、ちょっと休憩って時にクイッと引っ張ってバタンッ!と閉めるわけやな。てことで皆さん見に行くのなら午前中に(←あくまでも私の妄想です)。

ここの本堂には「布袋尊像」もおわします。なんでも鎌倉初期に三国の土(インド、中国、日本だそうです)をもって造られたらしく、日本全土に祀られている布袋の模範像とのこと。またこの像は泥像(土をこねたままで焼いていない)であって、今日まで保存されているというなんとも珍しい布袋様でございます。

春の京都非公開文化財特別公開、私たちが行ったのは得浄明院と長楽寺の二寺のみ。ま、あちこちに散らばっていますからね。てことで次に向かったのは六道珍皇寺。特別公開とは関係なく単に行きたかったのです。目当てはアレですアレ、小野篁(おののたかむら)が地獄へ行ったり来たりしたという井戸、冥界の出入口です。

とその前に、折角なので途中にある建仁寺にも入りました。流石に広いです、綺麗です。心なしか寂れた長楽寺との落差がスゴイです。大身代!って感じです。しかしここは涼しいですね。風がよく通ります。そのへんも考えて建てられているのでしょうか。

法堂の天井には平成14年(2002)に建仁寺創建800年を記念して、日本画家の小泉淳作画伯が約2年の歳月をかけて取り組んだという壮大な「双龍図」があります。これはなかなかの迫力ですね。天井が高いですから、正に龍に天空から見下ろされているような気分と言いますか、この絵もこの先何百年と引き継がれていくのでしょう。

そして六道珍皇寺。建仁寺の境内に案内図が立ってましたから、そのまま難なく進めます。六道珍皇寺の六道とは、仏教の教義でいう地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道(人間)・天道の六種の冥界ですね。この六道の分岐点がこの六道珍皇寺。いわゆるこの世とあの世の境の辻、六道の辻、冥界への出入口がここの境内にあるという訳です。

ま、言い伝えですけど、やっぱこういうのを見る時はこっちもその気にならないとね。ほうほう、これが冥界への出入口かぁと、気分を盛り上げて向かうべし!私たちはちょっと外で待ってるわとここの境内には入って来なかった友人の名前を呼んだりして遊んでしまいました。しかしそれにしても深い!何処まで続いてるのやら。呼びかけて返事がした日にゃ、恐ろしや~。

私が行ったのは改元10連休の後半、気温がグイグイ上がった時期でしたが、それでもまだ5月、お寺巡りには持ってこいの陽気でした。

私は割と一人でもフラフラ~っとお寺巡りをするのですが、こうやって気心知れた仲間とあーだこーだ言いながら散策するのもいいですね。仏像が好きなもんで一人で出掛けるときは仏像ばっか見て回ってしまいますが、お寺には他にも色々とあるわけですから、皆と行くとそーゆーのも見れて良かったです。私の趣味に付き合ってくれた皆さん、どーもです!

あとお昼時にカレーが食べたいなんて言って、グーグルに呼びかけたらいくつか候補が出てきて、そのまま近くの美味しそうな店に入ったりなんかして、なんかCMみたいだなと、改めてスマホはスゲーと思った次第。

改元を機に

その他雑感:

「改元を機に」

年齢を数える時に昭和64年が平成元年で、平成31年が令和元年だから、オレは今何歳だなんていう数え方は誰もしないだろう。

てことは織田信長は「ワシは天文3年の生まれだぎゃ。天文は23年までで翌年は弘治になって、弘治は3年まででその次は永禄で、永禄12年の翌年が元亀元年で今年は元亀3年。てことは今ワシは39歳だがや」なんて数え方はしなかったはず。話が急に戦国時代に飛びましたが。

今我々が桶狭間の戦いの時の信長は27歳で、本能寺の変の時は49歳だったというのを知るのは恐らく信長の側近とか祐筆とかがしっかり書き留めていたからで、当の本人は自分の歳を正確に把握していたかどうか。出自が農民の秀吉の年齢が曖昧なのはもっともな話だ。

何が言いたいかって、昔の人は自分の歳に無頓着だったんじゃないのって話です。昔の日本人は西暦なんて知らなかった訳だから元号で数えなきゃならない。でも昔はころころと元号が変わったもんだから、いちいち天文何年だから何歳だとか数えてられないだろうし、ていうか庶民はそんなこと知らない。てことは自分の年齢は去年は幾つだったから今年は幾つだろうなぐらいの積み上げ式の数え方しか出来なかったんじゃないだろうか。

そうすっと自分の正確な年齢もそのうち分からなくなって、要するに「そういや近所の平蔵が今年40っつってたな、じゃあオレも今年は40か?」ぐらいのテキトーな認識だったんじゃないだろうか。
現代に生きる我々は同い歳のあいつはあーなのに自分はどーしてこんななんだとか、何歳だからこうしていなくちゃならないとか、わりと年相応ってことを気にしがちなんだけど、この際昔にならってその辺はなんとなくでいいんじゃないでしょうか。

元号っていうのはそういう年齢に曖昧さをもたらす効用があったのかもしれず、ならばそれに素直に従って行きましょうと。改元を機に年齢なんて大体でいいんじゃないかと思った次第です。これからは昔の人にならって「そういやオレは幾つだったっけ?」ぐらいの大らかさで行きましょうか。