夏の余韻

ポエトリー:

『夏の余韻』

 

酷い雨が降ってきた
路地裏で雨宿りをしよう
古い家と適度な湿度に心が柔らかくうずくまる
ひと息つく 回復してゆくのがよく分かる

今思っていることを明日の朝
誰かに言おうと思ったけど
明日の朝ではなく
今すぐにあの人に言うべきだと
帰る道すがら軒先に垂れる雫が
優しく背中を伝う

雨上がりのプリズムの中
大声を上げて走り抜ける子供らを横目に
今宵は地蔵盆
それらしき準備の路地裏で
私にも降る夏の終わりの心構え
最後の余韻が始まろうとしている

それは温もりやいたわりや未来の先を
永遠に枯れることなく
日々を生きる糧として
ずっと向こうまで指し示す
くっきりとしたその生の余韻が
水たまりにのぞくこの光のように
私たちを導かんことを

翌朝早く あの人のおはようが
生暖かい電波に乗ってやってきた
考えるいとまもなく返事を返す指先は
ふんわりと温かい

 

2016年9月

Schmilco/Wilco 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Schmilco』(2016) Wilco
~『シュミルコ』、ウィルコのいいとこ~

サリンジャーとかカポーティーといった海外文学が割と好きで、思い出しては時折読んでいる。勿論全てを理解している訳ではないが、この辺りの作家の言い回し、特に比喩表現が大好きで、その世界観や言わんとしていることも僕にはとてもしっくりくる。日本人だから日本の作家の方がしっくりくる思いきや、そうとはならないところがなかなか面白い。音楽で言えば、このウィルコなんかはその最たるもの。お世辞にもキャッチーとは言えない彼らの音楽が何故か僕にはしっくりくるのだ。

前作から僅か1年でリリースされたこの新作はいつもどおり、いやいつも以上に派手さはなく、ちょっとすりゃあ盛り上がりそうな原曲なんだけど、そういう風には一切ならず、クセのあるメロディが淡々と(淡々と呼ぶにはヘンテコ過ぎるけど)奏でられ、歌われている。このバンドのどこがいいって人に分かってもらうのはとても難しくて、音楽なんて一期一会。人に薦めてもらったからどうこうなるというものでもなく、ふだん着ている洋服の様に自分にそぐうかどうかは本人にしか分からないのだ。

例えば、『Normal American Kids』なんて1曲目からなんでこんな朴訥としてるのって歌だけど、「僕は普通のアメリカの子供がいつも嫌だった」って歌ってる。僕は日本人だけど、そう言われても不思議と違和感がない。逆にそうだよ、そうだよなあ、ってなる。別にアメリカの子供そのものってことじゃなく、何かのメタファーみたいなもんで、それが何かって言われても困るけど、まあなんだっていい。とにかく微妙にヘンテコなサウンドでぼそぼそっとジェフ・トゥイーディーが歌うと、それでしっくりきちゃうんだからしょうがない。

2曲目の『If I Ever Was A Child』だってそう。「ひとりぼっちの時間があまりなかったから分からない/僕に子供時代があったのか」って歌ってて、ウィルコはありがちに「僕は孤独だった」なんて言い方はしない。そりゃそうさ。そういう子もいるかもしれないけど、そんな映画みたいなキャラの子って滅多に居るもんじゃない。でもふとした時にひとりを感じることは誰しもあって、それは何も特別な事じゃない。普通に生活しててもそういう事は感じるし、それは大人だって子供だってそう。別に現代病なんて大層なもんでもなく、もしかしたら電気の無い時代、もっと古い時代だってそうだったかもしれない。こういう感覚をそのまま言葉に変換したら、「ひとりぼっちの時間があまりなかったから・・・」みたいな言い回しになっただけで、でその言い回しがそれ以上でもそれ以下でもなくそうとしか言えないってのが僕にはちゃんと合点がいくからそれでいいのだ。それに3曲目の「cry all day」とか最後の「Just say goodbye」みたいな常套句だってウィルコが歌えば、違った響きを帯びてきて、どこか通り一遍の言葉ではなくちゃんと僕の傍に寄ってきてくれる。多分それはジェフにしてもジョンにしてもネルスにしてもグレンにしてもパットにしてもマイケルにしてもホントのことを言っているからなんだろう。

今、歌詞について言及しているからついでに言うと、ウィルコの歌詞って使っている言葉は平易なんだけど、分かるんだか分からないんだかよく分からないところが何故か心地よい。ライナーノーツによるとジェフは、僕は長い詩が書けない、なんてこぼしたらしいけど、この短さもまた丁度よくて、僕は1ページか2ページぐらいの現代詩が好きで、なんでかって言うと集中力が途切れることなく全体としてと捉えることが出来るからで(それ以上になると僕の脳みそがパンクしてしまう)、要するに身の丈にぴったり収まる長さということだ。

話は変わるけど、先頃ノーベル賞を獲ったボブ・ディラン。あの声と風貌がたまらなくかっこいいから、時折アルバムを買ってチャレンジしてみるんだけど、手を出すと途端に跳ね返されてしまう。好きになりたいんだけどなかなか気に入らせてもらえない。まあそういうジレンマが心地よかったりもするんだけど、ウィルコってディランぽいところもあって、ジェフも時々放り投げるような歌い方をするし、歌詞だってディランばりに訳の分からないことがあったりする。サウンドだって好き勝手やってそうだし、何かどっかで繋がっているような気がしないでもない。僕はこれからも思い出したようにディランを聴いては跳ね返されたり、分かったような気になったりするんだろうけど、そういう意味ではウィルコの場合は手に負えるというか、手に負えるって言うと変な言い方だけど、なんだか分からないにしてもやっぱり自分の肩幅にすっぽり収まるんだな。

話が逸れちゃったけど、ウィルコは音にせよ言葉にせよちょっとしたズレとか、矛盾するけど「当たり前のこと」に注目してるのかもしれなくて、でもこういう感覚って言葉では説明しずらいもの。でも実は世の多くの人たちが違和感というと大げさだけどそういう感覚を持っていて、ただそれもレディオヘッドやオアシスみたいだと割と分かり易く共感を得られるんだけど、こういうウィルコの感覚というのは明確にコブシを挙げてオレもそうだよ、ってなる類のものではない。勿論僕もレディオヘッドやオアシスは大好きだけど、僕みたいなセンシティブでもなく、心ん中に熱いもの持ってるって訳でもなく、宙ぶらりんな奴、でも少しだけ居心地の悪さを感じている奴って(要するに「当たり前のこと」でいたい)のは世界中にたくさんいる訳で。でももしかしたらそっちの方が多数派なのかもしれないななんて思うのは、明確なつかみが無いくせに、ウィルコの音楽がこれだけ支持されているという事実があるからだろう。

ただ考えてみればオアシスだってレディオヘッドだって「当たり前のこと」を歌ってきたわけで、僕たちは度々そのことに気付かされてきたんだけど、ウィルコの場合はオアシスみたいにやたらテンション上がっちゃってイェエーイってことではなく、うん、いいなあ、ってなるぐらい。要するになんか体温に近い、そんな感じかな。

今回の『シュミルコ』アルバムは先に述べたように地味に淡々と進んでいくアルバムだ。前作の『スター・ウォーズ』は2002年の『ヤンキ-・ホテル・フォックストロット』に割と近い感じで、歪んだギターやサイケデリアといったトリッキーなサウンドで、当時からのファンはニヤリとするようなアルバム。その前の『ホール・ラブ』(2011年)は色んな種類の曲が入った幕の内弁当みたいだったし、更にその前『ウィルコ(ジ・アルバム)』(2009年)は歌ものだったかな。でもどの作品も聴いた後には、ああウィルコらしいなあ、と妙に納得してしまっているから不思議だ。ということで何をやっても結局は、ああウィルコだなあ、といい気分になってしまうんだけど、この変わったことをやっても似たようなことをやってもやっぱりウィルコはウィルコだなあと思わせてしまうところも彼らの魅力のひとつ。『シュミルコ』にしても最初は地味だなあと思いつつもいつの間にやら馴染んじゃって、今ではやっぱウィルコらしいいいアルバムだなあなんて結局いい気分になっている。

今回のアルバムはどの曲もほぼ3、4分で終わるものばかり。全体としてサッと始まりサッと終わる印象だ。それでも色んな種類の曲があって、派手さはないけど意外とバラエティ豊か。#3『Cry All Day』のような疾走感があるのもあるし、#4『Common Sense』のようなヘンテコなのもある。うんうんと頷いてしまう#7『Happiness』もあるし、地べたを這うような#9『Locator』もある。#6『Someone To Lose』なんて結構キャッチーだ。そんな中、僕が今一番気に入っているのは最後の『Just Say Goodbye』。ジェフのぼそっとした声が穏やかなメロディと上手く溶け合ってて、サヨナラって歌なのにとても綺麗だ。そうそう、サヨナラって歌なのにサヨナラっていう感じがしなくて、でもサヨナラとしか言えない気もする。ウィルコにはいつもそういう反語的な響きがあって、でもシニカルな感じはしないし、受ける印象は親密さとかユーモアの感覚。やっぱり不思議なバンドだ。バンドの演奏が必要以上に言葉やメロディに寄せてこないところもまたよくて、こっちが情緒に依りかかりそうなところをひっぺがえしてくれるのもいい。

バンドの演奏とジェフの声がすっと体のそこかしこにある、でも自分では分からない隙間にスッと入り込んできて、それがかつて失くしたピースのように居心地良く馴染んでいく。でまたこれがクセになる。会ったこともないアメリカ人の歌がそう思えてしまうから不思議だけど、きっと世界中にそんな人、たくさんいるんだな。

 

1. Normal American Kids
2. If I Ever Was A Child
3. Cry All Day
4. Common Sense
5. Nope
6. Someone To Lose
7. Happiness
8. Quarters
9. Locator
10. Shrug And Destroy
11. We Aren’t The World (Safety Girl)
12. Just Say Goodbye

※上記の文章は、rockin’on presents 第3回 音楽文 ONGAKU-BUN大賞 にて入賞作に選ばれました。

Eテレ 日曜美術館「アメリカの国民的画家・ワイエス」 感想

TV Program:

Eテレ 「日曜美術館〜アメリカの国民的画家・ワイエス」 2017.9.10 放送

 

アンドリュー・ワイエス。20世紀の米国を代表する画家。幼少時から高名な画家である父より絵の手ほどきを受ける。父は息子を挿絵画家にすべく、徹底的に写実的な描写を求める(時には同じくモチーフを数百回も描かせた!)が、長じるにつれ自由な表現を求め始めたワイエスはやがて父との間に乖離を感じ始める。

五人兄弟の末っ子で病弱だったワイエスは次第に学校へも行かなくなり、家の近所の人々との交流を深めるようになる。次第に当時厳しく分けられていた黒人居留地へも足を運ぶようになり、彼らとの邂逅はその後の活動に大きく影響を与えるようになった。

再現描画力が抜きん出ていて(この基本的な技倆は父親からの英才教育の賜物であろう)、それこそ草の一本一本まで描写する執拗な精緻さを持っているわけだが、にも関わらず彼の絵から受ける最大の印象は気配という一言に集約される。上手く描くことを目的とした絵では無く、如何にその人の年輪をキャンバスに刻みつけるかに持ち得る表現の全てを注ぎ込んだような絵。故に我々目に飛び込んでくる最大のものはどうあってもその気迫であり気配なのである。

米国に限らず、国を支えるのはお金持とか政治家とか世渡り上手といった成功者ではなく、名もない市井の人々であり、ワイエスが美しさを感じるのは厳しい自然界や理不尽な社会の中にあっても懸命に生き、ズル賢さでは無く生真面目さでしか生きることが出来なかった人々であり、貧しくとも現実を受け入れ、地を這って生きてきた人々に人間という生き物の気高さ見出していたのだと思う。人間にとって最も大切なことは何か、人の営みとは何かということのワイエス唯一の答えが、絵の中に凝縮されているのだと思う。

この何に美しさを見出すかという部分は、同じく小さな村の暮らしの中で、農業の専門家として人々の暮らしを少しでも良くしたいと奔走し、最良の精神を‘デクノボー’に見出した宮沢賢治を思い起こさせた。

僕はこの番組が好きだ。この番組のいいところは、無理に分かろうとしない二人の司会者のトーンにもよる押し付けがましさの無さと、毎回ゲストに呼ばれる人たちのアーティストに対する深い尊敬だ。今回のゲストの一人で、バイオリニストの五嶋龍氏が言った「答えはこれだよと言ってはくれないけれど、見た瞬間に何か答えを得たような気がする。」という言葉はワイエスの絵を語るに最も的確な言葉のひとつかもしれない。

もうひとりのゲスト、岐阜県現代陶芸美術館館長であり、ワイエス研究の第一人者である高橋秀治は言う。
「自分と共感を持てるまわりの人たちを描くことが結果的に普遍性を獲得している。」
これは多くの場合、あらゆる芸術に当てはまる真理なのかもしれない。

 

2017年9月

アドルフ・ヴェルフリ展 二萬五千頁の王国 感想

アート・シーン:

『規則正しく自由に』
~アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国~兵庫県立美術館

 

奥行きがあるような無いような

平面的でないような立体的でないような

規則正しく自由な感じ

 

左右対称でないようで非対称でないようで

動的でないようで静的でないようで

あるようなではなくないような

規則正しさのコラージュ

その居心地の悪さ

 

でもそれは彼にとっての規則正しさ

タイトルを変えイメージを変えモチーフを変え執拗に描かれる

所々に明るさが垣間見える

譲れない規則正しさがあってでもそこから自由になる

その自由さにも規則正しさがある

 

彼の鼻の中とか耳の中とか毛穴とか目の奥から覗いた景色

まさしく揺りかごから墓場まで

彼の旅を覗いていく

 

決して平面的に描いている訳ではなく意図的に奥行きを効かせている場合もある

ペルシャ絨毯のようなそれでいて規則正しさからの自由

 

あちこちに書かれた音符は五線譜ではなく六線譜

不自由で自由な規則正しさの表れ

あちこちに書かれたポエトリーを読みたい

 

旅は晩年の葬送行進曲で終わりに向かう

目に付いた僅かなコラージュとことば、マントラ

ぐるぐると回ってマグマの奥深く己のマントルへ向かう

最後まで自己の物語を演出する

彼は絵を描いているといふ感覚があったのだろうか

 

2017年2月

Eテレ 日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」 感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」 2017.1.29 アンコール放送

 

新聞のテレビ欄に面白そうな番組を発見した。Eテレの『日曜美術館』。吉田博。精緻な木版画と書いてあった。僕は興味を引かれた。

画家、吉田博は今も海外では人気があるらしいが日本ではあまり知られていない。彼が活躍した昭和初期当時も日本画壇は黒田清輝を中心とする淡い色使いの人物画、所謂新派と呼ばれるグループが主流を占めていたようで、吉田のような油絵は旧派と呼ばれ、あまり評価をされなかったらしい。ともあれ、反骨の人、吉田は己の技法を突き詰めていく。そして49才の時に木版画と出会う。

その木版画。木版画とは言われてみないと分からない程の精緻さと奥行き、表現力だが、これはもう見てもらうしかない。僕らが持つ葛飾北斎とか棟方志功といった木版画のイメージを軽く跳躍する驚くべき作品。空前絶後だ。霧の表現、朝日の表現、水流の表現、水面の表現。全てがまだそこにある生きている景色。静的でもあり動的でもあり自然そのものである。彼はイノベーター。誰もなしえない未知の領域を表現している。

『濁流』は圧巻だ。文字通り唸りを上げている。圧倒的な動と静がそこにある。堅い樫木に細かく掘っていく作業は困難を極めた。歯を噛みしめるため奥歯が随分やられたという。1週間もかかったらしい。いや、1週間で彫りあげたのだ。これは驚異だ。何故そこまでして彫ったのか。答えは簡単。そこに線が見えるからだ。自分が進むべき線がはっきりと見えているのに描かない芸術家がいるだろうか。余談だが芸術家には我々には見えない、この進むべき線がはっきりと見えている。何故そんな風に描いたかなどという質問は多くの場合愚問だ。

吉田はいつまでも絵の表現を追い求めていく。満足しない。それこそ書生時代は「絵の鬼」と呼ばれるぐらい熱中した。沢山歩いて、沢山山に登って、沢山景色を見て、沢山人の絵を見て、何度も海外へ行って、自分の絵を高めていく。そして彼の絵は年代を追うごとに磨かれていく。彼の最後の作品である『農家』はその極みだ。芸術に年齢は関係ない。この絵は芸術には何が必要かということを証明している。

彼の言葉がある。
~自然と人間の間に立って、それをみることが出来ない人のために自然の美を表してみせるのが天職である。~

心に留めておきたいことがもう一つある。それは自分が決めた道であればそれを向上させるためにはいかなる努力も惜しんじゃならないということ。沢山学んで、吸収して、実践していかなくてはならない。自分の技法はこうだ、自分にはこれしかないとか、自分にはこれが合ってるというのではなく、新しいやり方に挑戦していかなければならない。芸術にとって停滞は悪だ。彼はそんなことは言わなかったけど、心得として、そんな風に聞こえた。

今年、『吉田博 生誕140年 回顧展』が幾つかの地域を巡回している。残念ながら北関東ばかりでこちらにはやってこないようだ。でもまあいい。僕はまだ長生きする。死ぬまでに吉田博の木版画を見る。

 

2017年2月

バルにて

ポエトリー:

『バルにて』

 

バルの奥から見える赤いドア枠の扉の隙間をグレーがかった猫が少し頭をもたげた格好で歩いている。揺れる扉のガラスに写り込んだ猫の姿は乱反射し、一匹が二匹にも三匹にも見えた。僕は心の中で言う。おい、お前、名前はなんて言うんだ?他の誰かも心の中で言う。おばさん、あの猫を捕まえてきて。猫は斜めになったドアガラスに写り込んだまま、石畳みを西の方角へ移動する。僕は跡をつける。

中東の入り組んだ住宅街。ここは一転砂の色。酔っ払いか、或いは普段から酔っ払ったようなオヤジが悪態を突く。オメェはどこの国のもんだ?どうやらどの家にも朝から洗濯物がなびいているのが気に入らないようだ。

自転車に轢かれそうになる。と思ったのはこちら側で、グレーがかった猫は見えているのか見えていないのか分からないような格好で、物売りか若しくはくたびれたビジネスマンのようにとりあえず前に進む。うねりながら若干登り坂になった通りの先にようやく市場が見えてきた。温かいスープにこんがり焼けたポテトの山。そんなような事を頭に浮かべながらバルのおばさんは買い物をする。あぁそうだ。僕は今、バルの奥で栄養価の高いワインを食しているところだった。

今夜もまた真っ直ぐ家には帰らないだろう。でもそこが中東の土で出来た幾つかの四角い窓のあるアパートならこのまま帰ってもいい。

 

2014年11月

パリ・マグナム写真展 感想

アート・シーン:

パリ・マグナム写真展 in 京都市文化博物館

 

1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成された。その写真展が京都文化博物館で開催された。

第二次世界大戦前からの記録。所々挟まれる解説文を見ながらの写真はパリの歴史を追いかけるようで、一種のドキュメンタリー・フィルムを思わせる。パリ解放であったり、アルジェリア独立問題であったり、5月革命であったり、今年の大統領選挙であったり。その中心にいる市民による揺り戻し。積み上がったものを壊す。その力をみくびってはいけない

写真展を見るのは今回が初めてだ。思うのは写真家と被写体との距離。写真家はそこに入り込まない。余計な口を挟まない。写真はデザインであり、ジャーナリズムであり、日常である。絵のように一枚一枚に目を凝らして見るのもいいが、少し離れてみるのもいい。じっと見て、離れてみる。同時期に起きている事実が並べられている。その様子を見るのがいい。

モノクロ、カラー、デジタルという変遷も興味深い。その吐き出すもの、受ける印象というのは違ってくる。今の写真家はそれらを使い分けるのだろうが、その意図するところはどのような具合なのだろう?モノクロ、カラー、デジタル、どれもいいがモノクロは面白い。写真の中にある人や建物や風景にそれを見ている僕の影が重なるとぞわっとする。遠い昔の写真の本当さが濃くなる。

絵画は作者の込めたものが立ち上がってくるが、写真にはそれが無い。ただし動きがある。写真は静止画。しかし当たり前ながらそこには前の動きがあり、後の動きがある。世界が動いている様子を一瞬止めたものがシャッター。ふむ、やっぱり物語が幾らでも湧いて来る。

中には政治家や著名人のポートレートもあるが、やはり市井の人々の様子を見るのがいい。僕も写真家に撮ってもらいたいと思った。構えたり、自然な表情を不意に撮るではなく、構えて不意に撮る。出来た写真を見ながら、これは自分ではないなと思いながらも、人が見たらあぁそれそれっていう僕になる。それを知りたい。そして当たり前ながらも世界はそういう人たちで出来ている。自分のお気に入りの肖像ではなく、人が見たらあぁそれそれっていう人たちで出来ている。

展覧会の最後に飾ってある写真はマクロン氏の当選スピーチのステージを遠くから眺める人々。どこかの建物の大きなポーチのような場所。頭上には木々が茂っている。この国の人たちを侮ってはいけない。

最後に一つ余計な事を付け加えておくと、僕がこの写真展に行くきっかけとなったのは紹介文にあった「自由と公平さと自治」という文言。僕は今、「自由」という言葉がキーワードだと思ったからだ。見に行かなくてはならないと思った。数日経ってもまだ僕の中に残るものがある。行って良かった。

もうひとつ。僕は10年程前まで京都で暮らしていた。三条界隈、京都市文化博物館の前は何度も通った道だ。写真のようにあの時の僕が見え隠れしたら面白かったけど、そういうものは一切見えなかった(笑)

夏から秋にかけては

ポエトリー:

『夏から秋にかけては』

 

夏から秋にかけては

体調を崩すから嫌だ

夏から秋にかけては

体調を崩すから嫌だ

 

秋から冬にかけては

Virusが舞うから嫌だ

秋から冬にかけては

Virusが舞うから嫌だ

 

冬から春にかけては

離れ離れになるから嫌だ

冬から春にかけては

離れ離れになるから嫌だ

 

夏は命の源

夏は命の源

大切な人もきっと良くなる

 

2016年6月

A Moon Shaped Pool/Radiohead 感想レビュー

洋楽レビュー:

『A Moon Shaped Pool』 (2016) Radiohead
(ア・ムーン・シェイプド・プール/レディオヘッド)

ここで歌われるのは祈りだ。ところどころ感じさせる宗教的なサウンドが落ち着きを与える一方、不穏さを与えている。緊迫感と平穏さの同時進行もまた聴き手の感情を不安にさせ、安心させる。相反する動きがそれが自然な形だと言わんばかりに同居している。当然それらを許容する器が必要だ。

言葉やメロディ、そしてそれらを運ぶサウンドがぎこちないままだと聴き手への伝播力は半減される。ここでの言葉とメロディやエレクトロニカ、オーケストレーションの緩やかな結合は人の手が加わったことも忘れてしまうほどにあまりにも自然だ。そこに外界のどんなウィルスも受け付けない声が降り注ぎゆっくりと同化してゆく。このアルバムでは声であるとかベースであるとかギターであるとかストリングスであるとかという区分は意味を持たない。全てがひとつの音という意識として人々の耳へ飛び込んでくる。耳から入った音もまた、耳とか脳とか心とかの分別なく、体の四隅へゆっくりと溶けてゆく。或いは衰弱し、或いは回復してゆく。それはまるでサイケデリア。現実のようで夢のようで、意識は明瞭のようで幻覚のようで。境界線も曖昧なまま、美しく、ざわめきは抑えようもない。

1. Burn The Witch(魔女を燃やせ)
落ち着きのないサウンド。最後の止まれなくて微かに残る余韻が不穏さを醸し出している。

2. Daydreaming(白日夢)
チベットか何処かを想起させる宗教的な音階。最後のコントラバスが不安をかき立てる。

3. Decks Dark(甲板の闇)
幻覚ではない。意識は明瞭だ。しかし女性コーラスが入ることで幻想的になってゆく。

4. Desert Island Disk
主人公は移動をしている。しかしそれは白昼夢。目覚め、更新される。

5. Ful Stop
ちょっと待って。一旦止めてくれ。元に戻してくれ。

6. Glass Eyes(義眼)
リアルにやばい曲。最後にフッと浮き上がるのは良い兆候かそれとも、、、。

7. Identikit(モンタージュ作成装置)
肉体的なビートが「broken hearts make it rain」という言葉を補完する。

8. The Numbers
ラストのダムが決壊したかのようなオーケストラに押し流されてしまいそう。

9. Present Tense(現在形)
フラメンコ。踊るのには理由がある。

10. Tinker Tailor Soldier Sailor Rich Man Poor Man Beggar Man Thief
(いかけや したてや へいたいさん ふなのり おかねもち びんぼう こじき どろぼう)
エレクトロニカからバンドを経由しオーケストラへ。意識の境もなくなってゆく。

11. True Love Waits
背後に軋む音が残された意味とは。成熟とはより純化されるということ。

一見感情的なように見えて実はそうではない。仮に実体験が下地にあったとしても作者と言葉は一定の距離を保っている。そこのところの冷静さや知性が彼らの魅力だと言えるし、もしかしたらトム・ヨークから出てくる言葉はどうあってもそうなってゆかざるを得ない性質のものなのかもしれない。人の心を揺さぶる声を持っていながらも基礎体温の低さはぬぐい切れない。その奇妙なバランスが美しい。