After Laughter/Paramore 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『After Laughter』 (2017)  Paramore
(アフター・ラフター/パラモア)
 
 
パラモア、4年ぶり、5枚目のアルバム。前作が全米1位になって、シングルがグラミー獲ってってことで順風満帆かと思いきや、なんか大変なことが起きてたみたい。なんと金銭が絡むメンバーの脱退劇があったようで、ボーカルでソングライターのヘイリーさん、かつてないほど落ち込んだご様子。歌詞を読んでると、ネガティブな言葉が出てくる出てくる。PV観てても渋いエモ姉さんだったのが、メンバー揃ってパステルカラーの衣装着ちゃってるし、もうヤケクソかえ?なによりなんじゃこのサウンドは、全然エモくないやん!
 
とうことで驚くことなかれ、今回はシンセ・ポップ感満載です。いや~ん、やめてぇ~!全然エモくな~い、ドラムがドゥルンドゥルン言ってな~い、とお嘆きのあなた。確かにパラモアの魅力はエモ・パンクと称されるハードでタイトな演奏にヘイリーの大谷翔平ばりの剛速球ボーカル。それがテイラー・スウィフトみたいなシンセ・ポップになっちゃってるんだからがっくりするのもそりゃあ分かりますよ。私だって最初はそおだったんですから。しかし心配することなかれ。何度もよ~く聴いてると、なかなかいいじゃないですか。勝気なヘイリー姉さんのエモい歌詞とフレンドリーなメロディ、パラモアの真骨頂は結局そこなんです!
 
先ず1曲目、タイトルからして『ハード・タイムス』ですから、こりゃ今回の自己紹介みたいなもんですな。しかしヘイリーさん、ハード・タイムスだからと言ってへこたれません。早速2曲目『ローズ・カラード・ボーイ』で出てきますねぇ、エモい歌詞が。
 
  ~ 私は笑いたくない時には笑わない ~
 
これですよあーた。戦う女はそうこなくっちゃ。ちなみにRose-Colored Boyってのは楽天的な男って意味らしいです。こっちが落ち込んでる時にあんたみたいな楽天家には付き合ってらんねぇってことなんですが、それでもちょっとうらやましいなんて気持ちも垣間見えたりして。付け加えて言うとヘイリーさん、それでも頑張りますなんていたいけな言葉は吐きません。落ち込む時は徹底的に落ち込む。だから笑いたくない時は笑わねぇ。そんな感じですかね。バカ姉さんです(笑)
 
3曲目『トールド・ユー・ソー』のフックはこれ。
 
  ~ 「だから言ったのに」って言いたくない。だけどみんな「だから言ったのに」って言いたがる ~
 
これですよ、これ。これが畳み掛けるドラムと印象的なギター・リフに乗って何度も叩き込まれるんだからシビレルぜっ。ちなみに原文は、『I hate to say I told you so / They love to say they told me』。I hate ってのがいいね。こらあ名言やわ。あー、オレもオカンに「あんた、だから言うたやん」ってよう言われたなぁ。ちょっと違うか…。
 
続く4曲目は『フォーギヴネス』。最後のコーラス、『許すことと忘れることは違う』ってのはいいフレーズやね。男はドキッとしちゃいます。5曲目は『フェイク・ハッピー』。結局みんな作り物の幸せを楽しんでいるだけでしょ、っていうどんだけダウナーな曲やねん!って感じですが、ここでヘイリーさんは宣言します。
 
  ~ 私は自分の口より大きく口紅を引く ~
 
どうです、これ?私は男だからよく分かりませんが、それでもなんかよく分かるような気がします。ちょっと私、このフレーズにグッときちゃいましたね。でこの曲、中盤に パラッ、パラッ、パッ、パッっていうコーラスが入るんですが、これが起承転結の転に当たる感じでまたいいんです。
 
続いて6曲目。これもちょっと切ないです。『夢を持ってるならしっかりグリップして / 誰かに持ってかれちゃダメ / 夢見ることは自由だけど、失うものがどれだけあるか私には分からなかった』。フックでそんなようなことが歌われます。26才の女子がそんなこと歌うんですね。切ないです。でもとても美しい曲です。
 
さあここで来ますよ、極上のポップ・チューンが。パラモアの魅力は色々あるんですが、最大のものはやっぱキャッチーなメロディ。そういう意味では7曲目の『プール』がこのアルバム随一ではないでしょうか。サビの背後で鳴るリフがまた水中にいるみたいでいい感じ。歌詞はこんな感じです。『私は今、水の中 / 肺には空気が無い / けれどしっかり目を開いている / 私はあきらめている / あなたはつかまえることのできない波 / けど私は生きてる限り何度でも飛び込むわ』。
 
次いで8曲目『グラッジズ』。皆さん、お待たせしました、ドラムがドゥルンドゥルン言ってますよ!ここに来てこれまでのパラモアを彷彿させるタイトでパンクな曲だ。サビでは、『we just pick up, pick up and start again / ‘Cause we can’t keep holding on to grudges』とリリックが跳ねてます。サビ前に一旦ブレイクして、フッー!と合いの手が入るところがまた最高!個人的にはこの6~8曲目辺りがこのアルバムのハイライトかな。
 
そして真ん中で絡めとられたと歌う9曲目と変則的なメロディの10曲目と続き、11曲目はゲスト・ボーカルによるリーディング。ここは正直かったるいかな。そしてラストにグッとくるいい曲で終わります。『テル・ミー・ハウ』。息も絶え絶え、『あなたをどう感じたらいいの?』ってここでも切ないです。最後に前向きになるってのはお決まりかもしれませんが、そういう事もなく混沌としたままアウトロのリーディングへ。切ないトラックに消え入りそうな声で『私は霧の中で踊っている』と囁くリーディング。ヘイリーさん、最後まで落ち込みっぱなし。ホント、正直な方です。
 
ただまあこんだけ暗い歌詞にもかかわらず、うっとおしくならないのは僕が英語を解さないからというわけでもなさそうで、やっぱそこはヘイリーの声の力強さ、彼女も含めたバンド全体にポジティブな意思の力があるからではないかなと。この最初は面食らうカラフルなサウンドでさえ彼らのへこたれない意志表示だとすれば、それはハナから否定できるものではなく、かえって彼らの真骨頂、前へグイグイ突き進む持ち前のエモーショナルなロック魂ではないでしょうか。
 
とにかく、サウンドに色んな変遷があるにせよ、彼らには力強いメロディと聴き手に最短距離で届くヘイリーの声があればそれでいい。確かに今までとは毛色が違うけど、今回のアルバムもいいですぜダンナ。エモくない、って聞かないのは勿体ないっ!
 
 
 
 1. Hard Times
  2. Rose-Colored Boy
  3. Told You So
  4. Forgiveness
  5. Fake Happy
☆6. 26
★7. Pool
☆8. Grudges
  9. Caught In The Middle
 10. Idle Worship
 11. No Friend

High Noon/Arkells 感想レビュー

洋楽レビュー:

『High Noon』(2014)Arkells
(ハイ・ヌーン/アーケルズ)

丸ビルのタワレコで「店長のイチオシ、もろ80’Sでデュランデュラン」、みたいなことが書いてあったから興味本位で聴いてみたら、あまりのどストレートぶりに思わず買ってしまった。デュランデュランがどういう感じかは知らないけど、今時逆にスゴイなってぐらいの暑苦しい80年代ロックの登場だ。

なにからどう語ればいいのか分からないというか、語るべきものがないというか、デビット・ボウイを聴いた後だからか余計にそう思ってしまう。最初聴いた時はキラーズみたいかとも思ったんだけど、あの大げさなサウンドをセンス良くまとめてしまうスタイリッシュさはなく、いやあここでキラーズをスタイリッシュって言ってしまうのもおかしな話だけど、このバンドを聴いてたらそう言っちゃうしかない。この大陸的な大らかさはカナダのバンドだからか。いやいや彼らがこういう人たちなんでしょ。

まあでもこういう人たちは他にもわんさかいるんだろうし、何故彼らが極東のCDショップで知らず知らずのうちにお薦めされてるかっていうと、そりゃもう曲が抜群いいから。あと演奏も手堅いし。#4なんてホント良く出来てて、なんで全編これぐらい丁寧に作らせないんだろう、ってプロデューサーを確認してみたらなんとトニー・ホッファー。それこそフェニックスとかファスター・ザ・ピープルといったセンスの塊みたいな人たちとやってきた人なのにあら不思議。こいつらはこれしかねえってことなのか。

はっきり言って評論家からは相手にされないだろうけど、まあいいんじゃないか。結局なんだかんだ言って僕もこういうのは嫌いじゃないし、単純に楽しいやん。笑っちゃうほどベタな展開で暑苦しいボーカルなんだけどみんなもこういうの好きでしょ、ってことで許してしまおう。あー、でもホントに語ることがない(笑)。

1. Fake Money
2. Come To Light
3. Cynical Bastards
4. 11:11
5. Never Thought That This Would Happen
6. Dirty Blonde
7. What Are You Holding On To?
8. Hey Kids!
9. Leather Jacket
10. Crawling Through The Window
11. Systematic

お薦めは#4、#3、#6の順かな。
#5もいい曲なんだけど曲間のシャウトがダサくて最高。
#8とか#11とかもホント振り切っちゃってる(笑)

★/David Bowie 感想レビュー

洋楽レビュー:

『★』(2016)David Bowie
(ブラック・スター/デビッド・ボウイ)

あまりにもキャリアが膨大過ぎて、もう自分とは関係ないやっていうアーティストって結構いる。デビッド・ボウイもその一人で、一昨年かその前の年だったか、久しぶりに新作が出た、しかもサプライズでってことで話題になったんだけど、僕とすりゃふ~んて感じであまり気にも留めなかった。そこへ昨年の訃報。それとほぼ同時にニュー・アルバムが出た。そんなことでこれまたビッグ・ニュースになって、そんでまた下駄を履かせたわけではないんだろうけど、年末に各紙で発表される2016年のベスト・アルバムにこのアルバムが結構食い込んでて、そんなにいいんだったらいっちょ聴いてみるかって気になった。そこへ運よく知り合いにデビッド・ボウイ好きがいたのでその人から借りたという次第。ということでデビッド・ボウイ初心者による『★』のレビューです。

デビッド・ボウイといえば美しいというイメージが刷り込まれているので、美しいメロディを期待していた節があったけど、なんだこの抑揚のないメロディは。デビッド・ボウイの呻き声みたいじゃないか。と少し面食らった面も無きにしも非ず。途中からは考えをリセットし、これはもうリーディングだな、と。ジャズ(これがジャズかどうかは分からないが、世間でそう言うのだからそうなのだろう)に乗せて詩を朗読するってのはよくある話だし、そうやって聴けば違和感はない。それにこのアルバムはデビッド・ボウイの才能がスパークしているというより、彼に元々備わっている美意識とか先進性とか哲学といったものがそれはそこにあるとして、そこにどう肉付けをしていくか、いかに2016年現在にフックさせていくか、というところが主題のようにも見えてきた。だからスパークしているのはボウイそのものというより、その後ろで鳴っているサウンドというべき。つまりボウイ自身の居住まいは決して変わっていない。ありのままというか、ありのままですがそれが何か?っていうことだろう。

そのありのままがこんなけったいな音楽になるのだから、要するにありのままが相当イッちゃてるってこと。加えていうと、そのありのままは1970年であろうと2016年であろうと生のままでは人に見せたものではない。味を調えたり、意匠を纏う必要がある。これこそがデビッド・ボウイということか。

1. ★
儀式めいた雰囲気。序盤のアタック音が効いてる。転調してからの「あの者が死んだ日の出来事だった」から始まる詩が秀逸。少し長いかなって気はするど、これはロック以外の何物でもない。

2. ティズ・ア・ピティ・シー・ワズ・ア・ホア
今作で特徴的なドラムが印象的。単調だが一気にグワッと行ってしまうところはいい。

3. ラザルス
トラックが素晴らしい。ホーンが効いてる。こういう渇いたスローソングは好きだ。

4. スー(オア・イン・ア・シーズン・オブ・クライム)
バンドかイカす。これはヒップホップだな。クールなリーディングかラップがいいと思うけど、ボウイの歌は正直かったるい。

5. ガール・ラヴズ・ミー
この手の変化球ってありがちだけど個人的にはあまり好きではない。退屈。でも聴き手を完全に無視してるところは好きかな。この曲辺りからベースが耳に残り始める。

6. ダラー・デイズ
これはもうイントロからして美しいでしょう。ここに来てアコースティックギターが聴こえてくるところなんかズルイ。この曲と最後の曲でメロディが戻ってくるところは確信犯か。なんだかんだ言ってこの曲が一番好きかな(笑)。サビのベースリフには当然意味がある。

7. アイ・キャント・ギヴ・エヴリシング・アウェイ
そのままの流れで最後の曲。ベースリフは早くなってる。「私は全てを与えることはできない」とか言いながら、サウンドはオープン・ザ・ロードだ。

このアルバムは僕の手に負えない。てかよく分からない。でも何度も聴いている。要するに分かればいいってもんじゃないってこと。アートとはいつもそういうものだ。ピカソの絵は理解できるからいいわけではない。人々はそのよく分からなさに惹かれるのである。69才にもなってこんなスリリングな作品を作れるのだから、やはり音楽に年は関係ない。

最初はしんどいなと思ったけど、1度目よりも2度目。2度目よりも3度目という風にだんだんよくなってくる。音楽には時にこういうことがあるから面白い。

佐野元春 in NY『not yet free〜何が俺たちを狂わせるのか〜』  感想レビュー

TVプログラム:

佐野元春 in NY
『not yet free ~何が俺たちを狂わせるのか~』  NHK-BSプレミアム 2017.5.28
 
 
2017年4月28日。ニューヨークにあるライブハウス「ポアソン・ルージュ」で、ミュージシャン、佐野元春がスポークン・ワーズのライブを行った。この番組はその舞台に立つまでを追ったドキュメンタリーだ。
 
スポークン・ワーズとは詩の朗読のこと。詩の朗読は一般的にはポエトリー・リーディングと呼ばれている。少し説明するとポエトリー・リーディングとは50年代に米国で起きた「ビート」と呼ばれるカウンター・カルチャーの主をなすもの。そして「ビート」とはあらゆる制約から離れた文学のムーヴメントのこと。アレン・ギンズバーグの『吠える』やジャック・ケルアックの『路上』などが有名だ。話し言葉で、思いつくまま、文体などは一切無視し、文学でもって反逆の狼煙を上げる。簡単に言うとそんなようなものか。ビートルズもストーンズもディランもその系譜と言っていい。余談ながら当時日本でも「ビート」の影響を受けた諏訪優や白石かずこといった詩人がポエトリー・リーディングを行っている。
 
佐野のスポークンワーズはこの流れを汲むものだが、ポエトリー・リーディングとは少し異なる。スポークンワーズとは詩の朗読にバックトラックを乗せたもの。要するに音楽付きのリーディングだ。あまり知られていないが佐野は通常の音楽活動とは別にこのスポークンワーズを80年代から行っている。
 
番組の中で佐野は言う。「音楽からそこに元から備わっている言葉を取り出すのが僕の仕事」だと。このことから佐野がいわゆる現代詩の詩人とは少しスタンスが異なるというのが窺える。あくまでも音楽ありき、ビートありきのポエトリー。ビートとは鼓動。生きる鼓動。すなわち書棚に飾られた言葉ではなく、移動する言葉ということだ。番組でも佐野は頻繁に街に出かける。街の名もないアーティストに声をかけ、地下鉄に乗り、ポエトリー・カフェへ向かう。言うまでもなく詩は路上に落ちている。

佐野が立ち寄ったポエトリー・カフェでは名もない詩人たちが夜ごと言葉を発している。壇上に立ち、マイクの前で吠える。ここでは詩は生活に根差したもの、日常のすぐ傍にあるものだ。欧米ではこうしたポエトリー・カフェが沢山ある。オレは言いたいこと言い、あいつも言いたいことを言う。少し口を滑らせただけですぐに袋叩きに合うどこかの国とは大違い。トランプが大統領になろうともこの営みは変わっていない。むしろ活発になっているようだ。

そういえば佐野は路上のアーティストの「社会が大きく変わる時にアーティストは何をすべきか」との問いにこう答えている。「ワードとビートで人々がまだ気づいていない事に言及する」と。佐野がよく口にする炭鉱のカナリアとはまさにこのことだ。大きなトピックが起きた時に反応することは誰にもできる。大事なのは何も起きていない時に如何に想像力を働かせるかということなのかもしれない。
 
東京でリハーサルをした後、NYで現地のミュージシャンと最終的な音を練り上げていく。ベース奏者はバキティ・クマロ。彼はかつてポール・サイモンにその才能を見いだされ、アフリカからやって来た。佐野とポール・サイモンとは旧知の仲。ポール・サイモン繋がりということか。ドラムスはそのバキティ・マクロの弟子の若いドラム奏者が担当する。しかしながらこのドラム奏者とは息が合わなかったようで、すぐバキティの別の弟子が現れた。この辺りのドキュメントは面白い。
 
佐野が今回ステージで披露するリストには『何が俺たちを狂わせるのか』と題されたポエトリーがある。変則的な4分の6拍子。今の時代の分断を表現しているのだそうだ。テクニカルな表現になるので、少し知的に過ぎるという懸念があったようだが、セッションを通じて彼らはそれを解消していく。番組の最後に流されるライブ映像をみると、それは見事に解消されていた。バイオリニストのギターのような破れたディスト―ションがゴキゲンなしらべを奏でていた。
 
佐野は今回のステージを日本語で朗読する。佐野は言う。「ポエトリーというのはユニバーシャルなもの。今回はそれを証明するいい機会。それに母国語に誇りを持っているし、日本語でパフォーマンスするのは楽しい。しかし言語が異なる人々にはヒント、取っ掛かりが必要なので今回は映像を用意した。」と。ここでも佐野はNY在住の若い日本人映像作家とセッションを繰り返す。そこに映るのは日本の街の景色と言葉だ。言葉と言っても詩の内容をそのまま英訳したいわゆる字幕ではない。キーワードとなる言葉だけを抽出し展開させる。日本の街の映像とキーワードとなる言葉、そして自身の日本語による朗読とバンドの演奏で観客の想像力をかき立てようというのだ。
 
本番当日、ステージに上がった佐野は軽い自己紹介とこの日披露するポエトリーについて言及した。今から披露するのはジャパニーズ・スポークンワーズ。「Style of ‘ZEN’」と。ここの観客にとって訳の分からない日本語とそれを取り囲む幾つものイメージを媒介にコミュニケーションを図る。言ってみればそれが佐野流の‘禅’のスタイル。そして佐野はかつての「ビート」世代と同じく、悪態を突く。毒にも薬にもならないクール・ジャパンとしてではなく、「ビート」の系譜に連なる街の詩人として。狡猾に素早く。そして、自分の属する文化でもって異文化の人々と接触を図る。自身の立場を明確にしながら。 
 
佐野はライブに向けて準備を進める一方、新しい詩を書きとめていた。セッションの合間を縫って、創作していたようだ。その作業は本番前日の夜も行われていた。佐野は言う。「やろう。インスピレーションがどこかへ行ってしまう前に。」。NYでの自身のドキュメントとして、その詩は『echo ~こだま~ 』と名付けられた。もしかしたらそれは現地で参加したアーティストたちの討論会で、あるアーティストが発した「我々はいつも過去から学び自分の中でエコーさせる」という言葉が導火線になったのかもしれない。

詩は隣近所から生まれる。街の詩人たちは優しさと反逆の精神で言葉を紡ぐ。子供たちに、大人たちに、老人たちに。街路や町内や農村や路地裏に落ちている言葉を丹念に拾い集め、自らの胴体に反響させる。それはこだま。過去から現在、現在から未来。それは決して誰にも途切れさせることのできない。誰にも規定させることはできない。

アーティストにとって一番問題なのは自由な表現を邪魔されること。今ほどその言葉が重くのしかかる時はないだろう。話が逆になってしまうが、番組の冒頭で佐野が記した言葉を最後にそのまま掲示したいと思う。どのような時代になっても「ビート」の系譜は続いていく。私もそうあることを願いたい。
 
 
   かつて50年代 米国にビートと呼ばれる文学者たちがいた
   彼らはあらゆる矛盾に反抗の矛先を向けていた
   企業とメディアに
   近代文明に
   キャピタリズムに
   そしてあらゆる差別と検閲に
 
   2017年の今
   それらはさらに複雑な様相をともなって
   不吉に現実を凌駕している
 
   今 僕らにできることがあるとしたら
   それは亡びに向けて反抗すること
   そして破滅から脱出を
   試みることではないだろうか
 
   僕は夢想する
   新しい思想と新しい行為を持った「旅」のかたちを
   僕は思想する

   忍耐と想像力を傍らに往く創造的な「旅」のかたちを

 

※2017.5.28放送 NHK-BSプレミアム 『Not Yet Free~何が俺たちを狂わせるのか~』より

クリーニング店

ポエトリー:

『クリーニング店』

 

広い通りに面したクリーニング店では

服を預けるとちょうどよい肩幅のハンガーが付いて返ってくる

彼女の肩幅もちょうどいいという噂があるがそれは確かめようがない

私ももちろんそこへ行く

今日の私はクリーニング品を預けるだけでなくコインランドリーで洗濯をする

コインランドリーで洗濯をしている間は退屈なので選りすぐりの本を持っていく

普段はあまり読まないようなもの

少し頼りがないものがいい

ここのハンガーがちょうどいいように

ここの洗濯機の音もちょうどいい

彼女も今日あたりここへ来るかもしれない

けれども彼女の肩幅はアイロンをかけていない

彼女の靴下は裏返っていない

彼女の魂は撹拌されていない

ここの洗濯機の音はちょうどいい

私の退屈な時間も残り僅かなので

詩を2編ほど読んで今日はもう終わりにする

 

2016年6月

ただ一つの物語

ポエトリー:

『ただ一つの物語』

 

ただ一つの物語を君のために送る

荒廃した裏庭にハッと目が覚めるような花を添えて

夕暮れ時、赤茶けた煉瓦の向こうに差す光を

手の甲の青い線に沿って真っ直ぐに線を引く

 

いつか君の動力源に辿り着きたい

今度こそ正しい言葉を見つけ

出来るだけ分かり易くただ一つの物語を君のために

 

2017年5月

Fantôme/宇多田ヒカル 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『Fantôme』 (2016) 宇多田ヒカル
(ファントーム/宇多田ヒカル)
 
 
随分久しぶりのアルバム・リリースだそうだ。ラジオで「道」を聴いていいなって思った。でも宇多田ヒカルとは思わなかった。声とか言葉が僕が知っているそれとはちょっと違ってたから。後日タワレコで聴いてやっぱ思った。こりゃ言葉だなと。なんか惹きつけられるものがあった。
 
この数年、プライベートで非常に大きな出来事があったとのこと。一度目に聴いた時、そのことを色濃く感じた。彼女にとってこのアルバムは避けては通れないもの。セラピーの意味もあったのではないか。そんな風に感じたので、僕の試みとしては、ここ数年彼女に降り注いだ出来事は頭から切り離して聴きたい。そんなところにあった。
 
僕は宇多田ヒカルのアルバムを買ったのは今回が初めてだ。聴いてると「あぁ、やっぱお母さんに声が似ているな」とか、意外と回るコブシにも「こりゃ母譲りの情念だな」とかつい思っちゃう。昔テレビで宇多田さんの声は美空ひばりさんの声とおんなじで人が聴いて心地よい周波数が流れてるってのを観たことがある。テレビのことだからホントかどうかは怪しいもんだけど、僕としてもこの人の声をどう捉えたらいいのか今もって分からない。上手いのか、声がいいのか、味があるのか。一体この人の歌声の一番のチャームポイントは何処にあるんだ?僕にとって宇多田ヒカルは好きとも嫌いとも言えないじれったさと言えるかもしれない。
 
今回聴いて発見したことがある。言葉のフックのさせ方が絶妙だなと。これは間違いなくそう言える。多分、カラオケで宇多田さんと同じように歌える人はいないだろう。歌っても気持ちよくなれないだろう。だってそれってカンでしかないから。宇多田さんにはそういう体内時計が仕込まれてるんだな。彼女の壮大な才能の一つかもしれない。そういう意味じゃミラクルひかるはホントにミラクルだ
 
ところでサウンドについてはどうなんだろう。自身によるプロデュースはいつものことなのかどうかは知らないが、彼女は曲を作ってる段階で既に最終的なサウンドが頭の中で鳴っているのだろうか。これが明確な意図を持って作られたサウンドなのか、探りながら行き着いたサウンドなのか僕にはわからない。いつもの宇多田っぽい音なのか、今回がちょっと違っているのか、それも僕には判断がつかない。つかないけれど、サウンドについては、僕にはまだこれが宇多田ヒカルの決定版というところにまでは至っていないような気がする。声や言葉の圧倒的な質量に対して、何か煮え切らない感じがするのは僕だけだろうか。
 
宇多田ヒカルには素人の僕から見ても、彼女自身が扱えないほどの巨大な才能が埋まっている。昔テレビによく出ていた時の早口で変に明るいキャラも、彼女自身が自分自身を持て余していたからなのかもしれない。ただ彼女が今回ここで選択した言葉の落ち着きを見ていると、どうやらその有り余る才能を時の気分に応じてアウトプットする術を少しずつ獲得しつつあるのではないかというような気もする。しかしそのきっかけとなったのが近しい人との別れだったとすれば、これも過剰に詰め込まれたギフト故の業と言え、しかしそうすると私たちはこの素晴らしい作品を手放しで喜ぶべきかどうか。とはいえ、いくらその業が深いからといっても我々はただのリスナーであるべきだし、商業的であるべき。そんなことはお構いなしに音楽として消費すべきだ。
 
その点、このアルバムの立ち位置は面白い。通常、この手の個人的側面の強い作品は聴いていられない。でもどうだろう。このアルバムはひとつもやな感じがしないのだ。僕はこのアルバムを聴くにあたって、ここ数年彼女に起きた事柄とは切り離して聴こうと心がけていた。ところが何度か聴いていると、その必要が全く無いことに気付いた。だって彼女自身がもう他人事なのだから。そりゃ曲を書いてりゃ意図しようがしまいが個人的な断片はどうしても出てくる。しかし、書いてしまえば、録ってしまえば、手元から離れてしまえば、それはもう済んだこと。当然のことながら彼女は音楽を作っているのだ。個人的な体験でさえ一個の作品として昇華してしまえる。彼女はやはりアーティストなのだ。
 
このアルバムのポイントはここではないか。宇多田ヒカルは個人的な出来事でさえ距離を持って眺められるから、このような作品を世に出すことが出来るのだ。加えて言えば、それは作品そのものに対する作家の自負とも言える。逆にこれまではその距離が遠過ぎたのかもしれない。彼女自身、思うように間合いが測れなかったのだ。遠過ぎたからこそ、僕はじれったさを感じていたのかもしれない。しかし明らかに今回は曲と本人が近い。言葉が近くなった。そこに彼女の必然があったから。しかしそれは曲との馴れ合いの関係を示すものではない。あくまでもこれまでと比べて近くなったというに過ぎず、今も多くのミュージシャンとは比較にならないくらい遠い。テレビで歌う彼女を観た時、僕には彼女が自分ではない誰かの物語として歌っているように見えた。彼女はつまらない大人が期待するように涙を流して歌うことはないだろう。

僕たちも馴れ合っちゃいけない。彼女が本心を晒したなんて露にも思っちゃならない。僕らには到底理解できない回路を経由してこのアルバムは生まれたのだ。それがアーティストというもの。そしてそのアーティストとしての矜持がこの作品だ。僕らの時代には宇多田ヒカルがいる。僕らはもう少し自慢していいのではないか。
 
★1. 道
  2. 俺の彼女
  3. 花束を君に
  4. 二時間だけのバカンス
  5. 人魚
☆6. ともだち
  7. 真夏の通り雨
  8. 荒野の狼
☆9. 忘却
 10. 人生最高の日
 11. 桜流し

Oasis:Supersonic 感想レビュー

『Oasis:Supersonic』(2016)
(オアシス:スーパーソニック)

オアシスの映画を観た。公開初日に観た。2時間たっぷり。観終わった素直な感想は「疲れた~」。「馬鹿か、そんなんじゃやってけねぇよ」ってノエルに言われそうだけど、それぐらいすごいパワーに圧倒されっぱなしの2時間だった。

見どころは沢山あってその辺の詳しい話はいろんな媒体に載っているからよしとして、僕が思ったのはオアシスが巨大になっていくに従って、トラブルも倍々に増えていったけど、悪いやつは一人もいないってこと。そりゃノエルもリアムも無茶苦茶やるけど、後に金目当ての裁判を起こしたトニーだって悪くない。すべてなるようになった。それだけのことなのだ。結局、映画観ててこいつ悪いやっちゃなぁって思ったのは父親だけ。でもその父親がいたから二人がいるってことだから全否定はできない。

ということで、この映画には製作総指揮としてノエルとリアムが関わっている。通常この手のドキュメンタリーは死んだあとに作られたりするんだけど、二人はまだピンピンしてる。なのに一番輝いていた時期だけを抜き取って映画にすると言う。そんな昔の栄光、なんで今更って話で、ディナー・ショー・ミュージシャンじゃあるまいし、我々がよく知ってる二人のキャラからは考えられないことだ。なのに映画にすると言う。それは何故か?要するにこれはオアシスの8枚目のアルバムだからだ。

オアシスが解散してからずっと、二人は絶縁状態のままだ。今もツイッターやインタビューで互いを罵り合ってる。なのに力を合わせて映画を作る。確かに面と向き合って作り上げていくわけではないが、これはもう明らかに二人の共同作業。同じ場所にいなくても二人が同じステージに立っていた時のように通じ合っている。こっち向いていくぜって。ケンカしながらもスタジオに入った時に、あるいはステージに立った時に爆発的な力を発揮したあの時と同じ。二人は分かっているのだ。今もそれが可能なことを。そして自分たちが今やるべきことを。それは何か。ただの昔の栄光を辿る下らない映画ではなく、今を、2016年を、ジャスティン・ビーバーやテイラー・スウィフトやカニエ・ウェストがいる2016年を20年前と同じように唾を吐いて、ファッキン喚き散らし、壁に穴をあけて、叩き壊す。二人の目線は間違いなく今ここにある。だからこうやって映画を作ったのだ。

トランプが大統領になるとか、イギリスがEUを離脱するとかはどうだっていい。ロックもEDMもヒップ・ホップもソウルも何もかもポップでいいねっていう世の中に、デビット・ボウイもビヨンセもケンドリック・ラマーもすべて同じ地平で語られる世界に、二人は2016年に叩きつけてきたのだ。そんなんじゃねぇぞ。なにぬるいこと言ってんだって。昔の伝記映画ではなく、新しいロックンロール・アルバムとして。

二人はあの時と何も変わっちゃいない。同じ態度で同じ目線で、無敵なままやってきた。お前ら、くだらねぇこと言ってねえでオレたちを見ろって。ネットや周りの意見なんてどうでもいい。いいことはいいと言えばいいし、やなことは嫌と言えばいい。みんな隣の顔色伺って、あれもいいよねとか、それもありだよねとか、一見物わかりの良くなった2016年に、クリック一つで何もかも分かったような気になる2016年に、顔をさらさず好きなことが言える2016年に、二人は20年前と同じ温度で怒鳴り込んできた。これはそういう映画だ。2016年現在、今この時にドロップされたオアシス8枚目のアルバムだ。そう考えてほぼ間違いない。

 

2016年12月25日