Eテレ 日曜美術館「もうひとつのモネ~現代アーティストが語る革新~」 感想

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Eテレ 日曜美術館「もうひとつのモネ~現代アーティストが語る革新~」 2018.6.10放送 感想

日美、この日のテーマは「モネ」。それも印象派としてのモネではなく、現代アートとして見るモネの革新性について。現在、名古屋市美術館にて「モネ それからの100年」と題した展覧会が開かれている。今回はスタジオからではなく、その名古屋市美術館から、そこに展示されている日本の現代アーティストたち(画家:児玉靖枝、美術家:小野耕石、版画家:湯浅克俊)の対談形式で番組は進行しました。

モネはどうしても「睡蓮」が有名過ぎて、あぁあの絵ねってことで落ち着いてしまい、今まであまり気にも留めていなかったんだけど、現代の日本人アーティスト3名が語るモネの魅力が非常に分かりやすい形で伝えられていて、モネの魅力を再発見するという意味でも僕にとってとても興味深い回となりました。

今回気付いたことの一つが、モネの絵に上も下もないのではないかということ。水面に映る空は下にも広がっていくし、横にも上にも広がっていく。上も下もない宇宙的な感覚。それは動的なもので、それこそ移り行く自然。絵は静的なものだけど、モネは当然、自然を描いている訳だから、その時にしかない動くものを捉えている。だから絵は静的なものであっても動いているのだ。そこに鮮やかな原色の花弁がちょんとあって、画面いっぱいにたゆたう中で、それこそ命がバッと開いている。

しかし原色で色づけされたその花びらは画面全体に広がる動的なもののうち、ほんの一瞬でしかない動的なもの。それは上と下もなくて、この世は所詮浮世、或いはこの世ははかないものとする日本的な美に通ずるものではないでしょうか。

だから画家、児玉靖枝さんの「モネは時間を書きたかったんじゃないかな」という言葉が、あぁなるほどなって。絵画は筆を置いた時に止まるものだけど、止まらないまま続く揺らぎ。本当の景色があって、でもそれだけではないし、画家が描いたものが一方にあるものの、それもそうだというものではなくて、やはり揺らぎ続ける。

モネは言い切らない、見る人の広がりに委ねる。そこが絵に意味を持たせる同時代の作家とは異なる部分であり(版画家、湯浅克俊さんの「海外の美術館に行った時に、宗教画とか写実的な絵、意味があり、時代背景があり、隠れたメッセージが含まれたような絵が続いた後にモネの絵を見るとホッとする」、という言葉が印象的だった)、現代アートにも通じる部分ではないかということ。

つまり、絵を見る、というのではなく体験するという感覚、姿形をこういうものだと見るのではなく、同化する、ここではないどこかへ連れ去られる、ここが本当の場所とは限らないし、勿論、作家が提示したものが本当の場所とは限らないけど、異質ではあるけれど、心地よい、行ったことはないけれど馴染みのある場所と思わせる感覚。それはつまり、芸術家は人が見えないものを描く、ということにも繋がるのではないでしょうか。

今回は現代の日本人アーティスト3名の対談が凄くよかったです。芸術家は何故描くのか?誰も急き立ててはいないのにこの切羽詰まった感は何なのか?その一端が垣間見えるような気がしました。

名古屋市美術館「モネ それからの100年」は2018年7月1日まで続き、その後は神奈川へ。十数年前に京都でモネ展を見た記憶があるが、もうほとんど記憶にない(笑)。また近くに来たら是非見に行きたいな、と思いました。

『The Covers』 NHK BSプレミアム 2018.5.22 放送(ゲスト:エレファントカシマシ) 感想

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『The Covers』 NHK BSプレミアム 2018.5.22 放送(ゲスト:エレファントカシマシ) 感想

 

NHK BSプレミアムにて月1回放送されているこの番組。番組H.Pを見ると2018年4月からリニューアルされたようで、MCの一人も仲里依紗から池田エライザへバトンタッチされております。どうでもいいですけどエライザさん、またえらい色気ですなぁ…。仲里依紗さんも夜な感じが出ていましたが、更にラウンジ感強まったような(笑)。リリー・フランキー、ナイスです。

さて、今回のゲストはエレファント・カシマシ。エレカシは僕が大学生の時にブレイクしたバンドで、何度かカラオケで歌った記憶がある。しかしこれが難しいのなんの。宮本浩次の声は男っぽい太い声をしているから、気軽に歌えると思ったら大間違いっ。実はキーがかなり高いのです!

てことで、エラカシが選んだ最初のカバー曲は山口百恵さんの「さよならの向う側」(1980年)。これを宮本さんは原曲のキーのまま歌います。そーなんです。僕が大学の頃のキーの高い男性ボーカリストといえばスピッツの草野マサムネ氏なんですが、実は宮本さんも負けず劣らず高いのです。てことで、どちらも間違いなくカラオケで玉砕します(笑)。

ともあれ、エレカシはカバーをする時は原曲のキーのまま歌うというのを大事にしているらしく、それは原曲の魅力を損ないたくないからということなんですが、そうは言ってもそんな芸当、なかなか出来るもんじゃあございません。しかも全然聴き苦しくないんですから、大したもんです。そういやマサムネ氏も女性ボーカル曲を原曲キーのままで歌うらしいですから、いや~、二人とも流石でんな~。

しかしこの曲はいいです。宮本さんも当時の日本歌謡曲のレベルは凄い凄いと連発していましたが(笑)、確かに凄い!まず言葉。平易な言葉しか使用していないのに凄く奥行きがあるというか、聴き手にもたらす情感の幅が限りなく広いのです。でもってメロディもそれ自体に起承転結があって、だからアレンジで殊更ドラマチックに盛り上げなくても自然な情感が立ちあがってくるのです。宮本さんも言ってましたが、やっぱ視点が俯瞰なんですね~。入れ込み過ぎないというか、これを山口百恵さんがしっとり歌うわけですから、そうそうここも思い入れたっぷり歌い上げるのではなくて、誰かの物語として歌ってるんですね。だからこそ聴き手に伝わる情感が増幅される訳です。やっぱ俯瞰ですよ皆さん。いや~、勉強になりますな~。百恵さんも宇崎竜童さん(作曲)も阿木燿子さん(作詞)もスゴイッ!

2曲目はサザン・オール・スターズの「いとしのエリー」(1979年)。これを歌う宮本さんも良かったです。ですがこれはもう桑田圭祐のあの歌唱がやっぱありまして、やっぱあれはあれなんですねぇ(笑)。まぁどういうことかと言うと、「いとしのエリー」のメロディにはあの歌い方というか独特のリズム感が内包されてあって、それはもう真似できないわけです。以前この番組でRCサクセションのカバーがあった時も出演者が一様に苦労していましたが、あれと一緒ですね(笑)。RCのメロディにも清志郎のリズムが内包されている訳です。

でまぁそれはエレカシ=宮本浩次も一緒なわけで、番組では逆に若いミュージシャンがエレカシの曲をカバーするコーナーもあったりするわけですが、これもそういう訳で、いーんですけどね、なかなかそれっぽく歌えないというか、そういう意味では宮本さんが歌う「さよならの向う側」は良かったですねぇ。僕が百恵さんのことをよく知らないというのもあると思うんですが、なんかエレカシの元々の歌にあったような気さえするとってもいい演奏でした。

去年はエレカシの30周年だったそうで、31年目の新しい曲「Easy Go」も披露されました。これがまたお見事でした。31年目にして荒々しいというか、宮本さんはシンガーというよりやっぱシャウタ―ってイメージなんですが、この曲でも歌うというよりもうやたらめったら叫んでいて、それが彼らの今の意思表示というか、まだまだやってくぜっていう、その現役感が最高でした。

それにしても宮本さんのフロントマンとしての存在感は抜群ですね。あーいうパフォーマンスが出来るロック・ミュージシャンってのはもうあんまりいないですもんねぇ。でやっぱり声が抜群にデカい。失礼ながらもう結構な年齢だと思うのですが、経時変化していかないってのは驚きです。あれだけ叫んで喉を酷使していながらですから、これは実はかなり凄いことだと思います!

それに改めて、ソングライターとしても素晴らしい。いい事を歌おうっていうのではなくて正直な言葉というか、それも奇を衒った言葉使いではないし、それにメロディはふくよかで情緒がある。だからこの番組で若い世代がエレカシをカバーしたようにより幅広い世代へ伝わるんですね。「さよならの向う側」がエレカシの歌みたいに感じたのもきっとそういう日本の歌謡曲の良い部分をエレカシも持っているからなんだと思います。未だに若い層から支持されている理由はそういうことなんじゃないでしょうか。僕は彼らのことをあんまりよく分かっていなかったですが、この番組で何だかそれが分かるような気がしました。この番組を観て良かったです。凄いぞ、エレカシ!

『The Covers』 NHK BSプレミアム 2017.12.22 放送(ゲスト:ROOTS66)感想

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『The Covers』 NHK BSプレミアム 2017.12.22 放送(ゲスト:ROOTS66)

 

NHK BSプレミアムで放送されているこの番組。番組H.Pには「歌は、歌い継がれることでスタンダードとなり、永遠の命を授けられます。ジャンルや世代を超えたアーティスト達が、影響を受けた曲や、思い出深い一曲を魅力的なアレンジでカバー。名曲達を新鮮な感動と共にお届けします。」とある。司会はリリー・フランキーと仲里依紗。2018年、最後のゲストは「ROOTS66」。

「ROOTS66」とは1966年生まれのアーティストによるユニット。元々はFM802の企画で始まったそうだ。この日出演したメンバーは、友森昭一,大槻ケンヂ(筋肉少女隊・特撮),福島忍(勝手にしやがれ),増子直純(怒髪天),田島貴男(ORIGINAL LOVE),田中邦和,スガシカオ,阿部耕作(チリヌルヲワカ),伊藤ふみお(KEMURI),たちばな哲也(SPARKS GO GO),八熊慎一(SPARKA GO GO),奥野真哉(SOUL FLOWER UNION),田中和(勝手にしやがれ),木暮晋也(HICKSVILLE),トータス松本(ウルフルズ),tatsu(レピッシュ)の総勢16名。この日の出演は無かったがイエモンの吉井和哉や渡辺美里、VTRで出てきた斎藤和義もメンバーとのこと。

オープニングは沢田研二の「勝手にしやがれ」。ボーカリスト総勢7名(オーケン、トータス、田島、伊藤、八熊、スガ、増子)で歌う「勝手にしやがれは」はホントに勝手にしやがれって感じ(笑)。だってみんな個性強いのなんのって。

その後は司会の二人と共にトーク。これが面白かった。テレビ見て声出して笑ったのは久しぶりです。僕は1973年生まれだから彼らより下の世代だけど、僕もテレビっ子だったから(あの時代の子供はほとんどがテレビっ子だったと思う)彼らの話はちゃんと分かるし、細かいところもいちいちツボを突いてホント面白かった。

田島貴男が石野真子を見に地元のダイエーに行ったくだらない話とか、その石野真子の実物大の顔のポスターを地球儀にくっ付けてキスをしたオーケンの、「だって立体的にしたいじゃん!」っていう馬鹿馬鹿しい話にゲラゲラ笑ってしまいました。あとみんなキャラが立っているというか、例えば増子の居酒屋のオヤジ風ツッコミキャラや八熊のそこにいる客みたいな感じも面白い。一番印象的なのは、クールで渋い奴だと認識していた田島がよく喋るかなりテキトーな天然キャラだということ。なんでツッコまれてるのか分からんぐらいのレベルです(笑)。オーケンはデビューが早かったから、「オーケンさん」なんて年寄り扱いされているくだりもなるほどな、と思いました。あともうひとつくだらないのがコメントVTRで出てきた斎藤和義で、いきなり「今日はこの後包茎手術があるのでそちらへは行けません」っていう挨拶。ほんとにくだらんよなぁ(笑)。そんな中、意外と人見知りというか中々打ち解けれないトータスのシャイな人柄が、あぁやっぱこの人はこういう人やねんなぁ、というところでまた好きになりました。

2曲目に披露されたのがRCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」(vo.オーケン、伊藤、八熊、スガ)。みんな言ってたけど、清志郎、実は歌上手かったってのがよく分かった。だってみんな歌い切れてないもん。だからかみんな「アオーッ!」って言い過ぎ(笑)、トークでもツッコまれてました。あと歌う前はRCの歌は崩しようがないというか自分で歌えないからついつい清志郎の物まねになってしまうなんて言ってたけど、いやいやそんなことない、みんなキャラ濃過ぎ、ちゃんと出てました(笑)。でも確かに上手く歌えなくて結構グダグダ。だからみんな「アオーッ!」でごまかすみたいな(笑)。

でもやっぱこの歌いいよなぁ。みんなもRCの事が清志郎の事が好きなのが凄く伝わってくるし、僕はやっぱ下の世代だからどっちかって言うと清志郎はひょうきん族とかで暴れて帰る変な人っていうイメージしかなかったけど、きっと高校の時に「トランジスタ・ラジオ」を聴いてたらヤラレてたんだろうな。この年末にちょっと聴いてみよう。

3曲目は世良公則&ツイストの「銃爪」(vo.増子、田島、トータス)。曲の最後の方でミニコントやって、ジャ~ンで終わり。リリー・フランキーのマチャアキと井上順が曲の間にするミニコントを思い出したってコメントがナイスでした。最後に歌ったのは「レッツゴー!ムッツゴー!~6色の虹~」。アニメ「おそ松さん」のエンドテーマだそうだ。この曲はみんなで手分けして作った「ROOTS66」のオリジナルとのこと。意外とちゃんとした曲、ていうかいい曲だぞ。

1966年は丙午だそうで、けどそんな迷信気にしないぜっていう両親の元から生まれたからみんな個性的なんだって言うリリー・フランキーのコメントが、説得力あるんだかないんだかよく分からないぼんやりした感じで良かった。

ちょっと文章長くなってしまったけど、そんぐらい面白かったということでお許しを。ということでリリー・フランキーがいつもよりだいぶ楽しそうだったのと置いてけぼりの仲里依紗が印象的な「The Covers」、今年最後の放送の感想でした。

ついでに、、、
番組の合間に司会の二人がスナックと思しきセットでミッツ・マングローブ率いるそっち系3人組とテーマ・トークをするミニ・コーナーがある。「星屑スキャット」と名付けられた3人がテーマに沿って1曲歌うんだけど、今回歌ったのはテレサ・テンの「愛人」。歌い終わった後に小さい声で「謝謝(シェイシェイ)」と呟くミッツの芸が細かい。ていうか3人ともめちゃくちゃ上手すぎてなんかオモロイ(笑)。

『The Covers』 NHK BSプレミアム 2017.11.4 放送(ゲスト:矢野顕子) 感想

TV program:

『The Covers』 NHK BSプレミアム 2017.11.4 放送(ゲスト:矢野顕子)

 

NHK BSプレミアムで放送されているこの番組。番組H.Pには「歌は、歌い継がれることでスタンダードとなり、永遠の命を授けられます。ジャンルや世代を超えたアーティスト達が、影響を受けた曲や、思い出深い一曲を魅力的なアレンジでカバー。名曲達を新鮮な感動と共にお届けします。」とあります。司会はリリー・フランキーさんと仲里依紗さんです。月1回の放送なのかな。 11月のゲストは矢野顕子さんということを知り、慌てて録画しました。

この日矢野さんがカバーしたのは、佐野元春「SOMEDAY」(1981年)、フジファブリック「Bye Bye」(2010年)、そして自身のヒット曲「春咲小紅」とこの曲と同じコンビ(詞:糸井重里 曲:矢野顕子)で今年新たに作られた 「SUPER FOLK SONG RETURNED」(2017年)の4曲。

とっても面白かった。僕は矢野さんのアルバムを一枚も持っていませんが、テレビで彼女が出ているとついつい見てしまいます。で見た時の感想はいつも同じ、「すげ~」。今回で言うと、笑っちゃうぐらいもう原型を留めてないです(笑)。でまあそれがいいのです。なんでメロディを解体しちゃうのか、歌詞までも変えてしまうのか。それに対する矢野さんの答えがまた面白くて、例えば「SOMEDAY」で言うと、これは男の人が作った曲だから自分が歌う時には女のひと目線に変えちゃうとか、好きだからその曲をカバーするんだけど、ここはちょっと違うかな、私だったらこうだな、っていうところは言葉を変えてしまうっていう。だってそうでしょ、っていうような顔でさらっと言ってしまうところがやっぱそうだよな、表現するってそういうことだよなってすごく合点がいきました。

でそれは矢野さん自身が語っていたように元々ジャズが好きで、ジャズと言うのはスタンダード曲があって、それを各人の解釈で自由に演奏するっていうものなんだけど、矢野さんにそういう下地があるというのもあるにせよ、彼女自身にやっぱ批評精神というものが宿っているからで。批評精神なんて言うと一般的には批判したり文句を言ったりというようなマイナスの意味に誤解されている節があるけど、批評と言うのはその人独自のものの見方であったり、解釈だったりするわけだから、逆に言えばアーティストというのは、全てそうだとは限りませんが、批評性を持っているか否かということにもなるのだと思います。

加えて言うと、演奏と言うのは元々はワン・アンド・オンリーというか、それこそモーツァルトとかベートーベンがその場その時にしかない音楽をライブで披露して、観客は二度と再現されないその唯一の演奏に耳を傾けるっていうのが始まりだったわけで、それをレコードというものが登場して録音できるようになった、再現できるようになったというのは後から出来るようになったことに過ぎないわけであって、始まりの音楽はその夜一度きりのものを楽しむというものだったのです。ちょっと理屈っぽくなりましたが、矢野さんがテレビに出ているとつい見てしまうのは、矢野さんの音楽にはそういう原初的な魅力が沢山あるからなんだと思います。

歌以外のトークも凄く面白かったです。「春咲小紅」を始め、幾つかの曲でコンビを組んでいた糸井重里さんが途中からゲストとして登場しました。糸井さんの詞をどう感じているかという話の中で、矢野さんはこんなようなことを言っていました。「初対面の人同士がお互いが好きな共通の話題で盛り上がるっていうのはあるけど、逆にこれって嫌だよねとか、ちょっと違うんじゃない、っていう部分を共有している方がもっと深いとこで繋がりあうような気がする」。あぁ、そうか、そういや僕も長く付き合っている友達とはみんなそんな感じだなぁって、なるほどなぁって思いました。

あと面白かったのは、矢野さんは「車に乗っている時のBGMにならない」ってよく言われると言って笑っていたところ。確かに矢野さんの歌を聴いているとついつい自由な拍子にこっちも巻き込まれちゃって変なところで変な操作してしまいそうな気がする(笑)。

次回は12月22日放送とのこと。1966年生まれのミュージシャンが集まるのだそうだ。トータス松本さんとか、大槻ケンヂさんとか僕にとっちゃ懐かしのレピッシュ/tatsuの名前もあるぞ。今回この番組を初めて見たけどなかなか面白いぞ。これも見なくては。

Eテレ 日曜美術館「仏師 運慶~時代が生み出した天才~」感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「仏師 運慶~時代が生み出した天才~」 2017.10.15放送分 感想

 

いや~、昨日の日美、面白かった。今回は関西人には東大寺南大門の仁王さんでおなじみ、運慶の特集です。現在、東京国立博物館で運慶展を行っているとのこと。そこからの放送となります。ゲストは見仏記でおなじみのみうらじゅん氏と美術史家の佐々木あすかさん。みうらじゅんのぐちゃっとした話も、佐々木あすかさんのガシッとした話も面白かったです。

で仁王像、私のような80年代ジャンプ世代にとってはやっぱ北斗の拳です。どう見ても昔の造形物とは思えない漫画チックなビジュアルは子供心にも訴えるものがありました。ちなみに向かって左側の口を開いた方が阿形(あぎょう)像で右側の口を閉じた方が吽形(うんぎょう)像。阿は宇宙の始まりを表し、吽は宇宙の終わりを表すのだそうです。う~ん、小学校の遠足以来何度も見ているがそういうことだったのか。なるほど。

続いて大日如来坐像。運慶のデビュー作だそうです。この坐像はそれまでの仏像とは全く違うそうで仏像らしからぬ造形をしているとのこと。例えば足の裏。仏様というのは偏平足と相場が決まっているのに、ちゃんと土踏まずの凹みまで表している。仏様は人ではないという概念があったから偏平足だったのか、単に昔からそうだったからそうなっていただけなのかは知らないけど、とにかく運慶は自分の審美眼というか自分の思い描く仏像というものがはっきりと目に見えていたのだ。

正直言って、仏様というのは正面から見ると、あぁ仏様だって感じは受けるけど、角度を変えて見ると、造形的におかしかったりして、それはやっぱり仏様というのは人ではないのだから当たり前で、異様なバランスがそれはそれでそういうもんだという納得をしてしまえるのだけど、運慶はそうはならなかった、ということではないでしょうか。

この大日如来坐像の台座の裏に運慶は自分の名前を書いている。仏像に製作者の名を入れるというのは運慶が初めてだったらしい。ということは、もう完全に作品として捉えているからで、もちろん仏様という存在は私たちとは比較にならないぐらい大きなものだったと思うんだけど、それでもなお仏像を作るというよりは芸術作品を作ってるっていう意識があったから名前を入れるってところに繋がってったんじゃないだろうか。

次は八大童子立像。これがもう大日如来坐像とも阿形像・吽形像とも違う世界。顔つきがめっちゃリアルです。こうして同じ手法を繰り返すのではなく、次々に新しいことに取り組んでいくっていう面もやっぱり芸術家です。この八大童子立像ですが仏像というより人。リアリティの追求、仏像という名を借りた想像物とでも言おうか、当時の人はどう思ったかは知らないけど、これはもう我々の時代の作品としてもいいんじゃないかっていう。瞳の輪郭を赤にするというのも完全に現代アートの世界で、リアリティとそこにフィクションを加えることで更にグッとリアリティをもたらす運慶の真骨頂。未だに先鋭的な部分が失われない所以ではないでしょうか。
体は確かに仏像の形を残しているが、顔はもう完全に人。証拠にどの角度から見てもリアリティがあって、仏像っていうある意味非合理的な描写ではなく理にかなった造形ということになる。その辺り、みうらじゅんが運慶はビートルズって言ってたけど、それがすっごく分かり易かった。ビートルズとかiPhoneみたいなそれまでの常識とは違うルートからポーンと新しいものが出てきて、まずは分かりやすくてポップでっていう。でその後にこれって凄いんじゃないかっていうような感想がやって来て、だから何百年経った今でも新しさがあるんだと思う。

最後は興福寺の無著・世親菩薩立像(むじゃく・せしんぼさつりつぞう)。これが後ろに立ってたら気配感じてめっちゃ怖いでっていうぐらい、人みたい。そっくりそのままに造形すればリアルというわけではなくて、本当はそうじゃないかもしれないけど、本当よりも内面を生々しく描いたリアリティっていうのかな。確かに生きているかのようなリアルな造形だけど、やはりどこかをデフォルメしたり抑えたりしているからこそのリアリティ。この人の最大のものを抽出したらこうなるだろうというような描写ということなのかもしれない。そうした見えないものを彫刻しているんだけど、運慶にはやっぱり見えているのであって、それは運慶自身の生き来し方というものがあればこそだろうし、そこの部分と年月を経て極めた技術というものが合致して生み出されたのだと。そしてそうした目に見えないものを我々に見せてくれる、何百年経った我々にも紐解いてくれる。それは何かと言われれば、やっぱり芸術としか言えない物だと思う。

てことでこの日本肖像彫刻の最高傑作と言われている興福寺の無著・世親菩薩立像は現在、東京国立博物館で展示中ということで奈良におわしません。来月、奈良に行こう思てたのにおれへんや~ん。ま、近いしそのうち行けるからえーか。

Eテレ 100分 de 名著「ハンナ・アーレント/全体主義の起原」 感想

TV Program:

Eテレ 100分 de 名著「ハンナ・アーレント/全体主義の起原」  2017年9月放送分

 

国内外の名著を全4回、100分で紹介するこの番組。9月の作品はハンナ・アーレントの『全体主義の起原』。全体主義の生成過程をナチス・ドイツを例に取り紐解いていく。ここでは細かく述べないが、これは現代にも当てはまる僕らのすぐ側にある問題だ。

日本が右傾化しているのかどうかは分からないけど、メディアは自国を誉めそやすのに熱心だ。すぐに「世界が驚いた日本!」と騒ぎ立てる。そんなのは言い方次第でどうにでもなる。逆に言えば、「世界から見れば最低な日本!」なんてのもいくらでも作れるだろう。僕たちのリーダーは「絶対に」、「完全に」と言いたがる。かの国のリーダーは「never ever」と言いたがる。大げさな物言いが溢れている。僕たちは本当はどうなのかを自分自身で判断しなくてはならない。けど、とても難しいことだ。そんな時、僕はこう思うようにしている。「それって本当かな?」。物事というのはどちらか一方ということはない。光もあれば影の部分もある。どちらか一方に偏った意見には注意しなければならない。特に分かりやすい表現には。それを強いてくる連中には。

番組の最後で「複数性」という言葉が出てきた。この言葉を聞いて僕はある別の言葉が思い浮んだ。丸山真男の「他者共感」という言葉だ。自分の考えというのがあって、他者の別の考えがある。それを戦わせる、非難するというのではなく、相手の身になってそれを考えてみる。そうすることで、自分の考え方もまた別のステージに向かうことができる。自分の考えも他人の考えも俯瞰して見ることの重要性。そうした考えを丸山は「他者共感」と名づけている。

自分と違う考え、意見、性別、年齢、人種、民族。世界は「複数性」で成り立っている。自分(たち)だけが正しい。自分(たち)だけで成り立っている。悪いのはやつらだ。これは大きな誤りだ。自分とは異なる意見に出会った時、相手の立場になって考えてみる。そうするとまた違った自分の考えが生まれてくるのではないか。しかし言うは易し行うは難し。僕だって自分の考えはそう簡単に変わらないし、批判されりゃついムッとなる。世界は「複数性」で成り立っている。このことをしっかりと心に留めておきたい。

最後にこの番組で紹介されたミルグラム実験について述べておきたい。閉鎖的な状況における権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したものだ。具体的に言うと、「体罰と学習効果の測定」と称して教師役は隣室にいる生徒役の回答が間違うたびにより強い電気ショックを与えることを要求される。もちろん、生徒役に電気は流れていないので苦しんでいるふりをしているだけ。本当の被験者は教師役ということになる。この実験では、うめき声がやがて絶叫となり、遂には聞こえなくなっても教師役は回答が違えば、権威者の指示通りに電気を強くし続け、最終的に6割以上の参加者が命の危険がある450Vのショックを与えることになったという。この実験は、ホロコーストに関与し、数百万のユダヤ人を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担ったアイヒマンの名前を取って、アイヒマン実験とも呼ばれている。誰だってアイヒマンになり得るのだ。

Eテレ 日曜美術館「まど・みちおの秘密の絵」 感想

TV program:

Eテレ 日曜美術館「まど・みちおの秘密の絵」 2016.1.10 アンコール・放送

 

まどみちおと言えば、僕はやっぱり『ぞうさん』のイメージ。平仮名で書かれた詩。子供から大人まで親しまれる間口の広い作家、詩人というイメージだ。そのまどさんが50代を迎えた頃から絵をたくさん描き始めたという。それも何やらダークな抽象画。これは一体どういう事なんだ?ということからこの番組は始まる。

ゲストは谷川俊太郎。番組では再現VTRを交えながら色々語られていくが、やっぱり谷川さんの言葉が一番しっくりくる。蓮の花は綺麗だけど池の下はドロドロなんだという話。絵描きでも音楽家でも何でもいいけど、クリエイターと呼ばれる人はみんなダークサイドを持っているとか。なかでも印象的だったのは言葉はちゃちだという話。言葉があるということはその言葉は既に意味を持ってるということ。目の前にある存在だけを表現したいけど、言いたいのはそんな言葉ではないという事実。人類が言葉を持つ以前の状態で存在と接したい。人が見るという行為と宇宙の間にはなんら介在するものがあってはいけない。『見る=宇宙』なんだと。言葉を用いる人たちがこういう事を言う。だから詩人の言葉は信用できるのだろう。

で、まどさんは言葉の表現に行き詰まりを感じる。そしてその空白を埋めるように絵を描き始める。この絵が素晴らしい。絵の教育を受けていない創造性豊かな人が描いた絵。パッと見た感じではパウル・クレーに似た抽象画に見えたけど、やっぱ違う。暗い。もっと自分の魂と直結した絵なんだな。これは誰かに見せるための絵ではないというのがあるんだ。正確な数字は忘れたけど、まどさんは51才頃からの2~3年で百以上の絵を描いている。で、あるとき悟るんだ。これからは自分にとっての美を追求してゆこうと。

そこからの絵はなんかきれいに見える。まさに自分と宇宙が直結したような絵。それでいてまどさんの詩のような明るさがちゃんと見えてる。生命への尊敬が見えてる。でここからまどさんは絵をほとんど描かなくなる。てゆうか描く必要がなくなったんだ。だって人に見せるためのものではないんだもの。思い付きで言葉を出しているんじゃない。色々あっての言葉なんだ。ことにまどさんのような平仮名ばっかの詩だとそう思いがちなんだけど、違うんだ。この何気なさが詩人の凄みなんだ。

 

2016年1月

Eテレ 日曜美術館「アメリカの国民的画家・ワイエス」 感想

TV Program:

Eテレ 「日曜美術館〜アメリカの国民的画家・ワイエス」 2017.9.10 放送

 

アンドリュー・ワイエス。20世紀の米国を代表する画家。幼少時から高名な画家である父より絵の手ほどきを受ける。父は息子を挿絵画家にすべく、徹底的に写実的な描写を求める(時には同じくモチーフを数百回も描かせた!)が、長じるにつれ自由な表現を求め始めたワイエスはやがて父との間に乖離を感じ始める。

五人兄弟の末っ子で病弱だったワイエスは次第に学校へも行かなくなり、家の近所の人々との交流を深めるようになる。次第に当時厳しく分けられていた黒人居留地へも足を運ぶようになり、彼らとの邂逅はその後の活動に大きく影響を与えるようになった。

再現描画力が抜きん出ていて(この基本的な技倆は父親からの英才教育の賜物であろう)、それこそ草の一本一本まで描写する執拗な精緻さを持っているわけだが、にも関わらず彼の絵から受ける最大の印象は気配という一言に集約される。上手く描くことを目的とした絵では無く、如何にその人の年輪をキャンバスに刻みつけるかに持ち得る表現の全てを注ぎ込んだような絵。故に我々目に飛び込んでくる最大のものはどうあってもその気迫であり気配なのである。

米国に限らず、国を支えるのはお金持とか政治家とか世渡り上手といった成功者ではなく、名もない市井の人々であり、ワイエスが美しさを感じるのは厳しい自然界や理不尽な社会の中にあっても懸命に生き、ズル賢さでは無く生真面目さでしか生きることが出来なかった人々であり、貧しくとも現実を受け入れ、地を這って生きてきた人々に人間という生き物の気高さ見出していたのだと思う。人間にとって最も大切なことは何か、人の営みとは何かということのワイエス唯一の答えが、絵の中に凝縮されているのだと思う。

この何に美しさを見出すかという部分は、同じく小さな村の暮らしの中で、農業の専門家として人々の暮らしを少しでも良くしたいと奔走し、最良の精神を‘デクノボー’に見出した宮沢賢治を思い起こさせた。

僕はこの番組が好きだ。この番組のいいところは、無理に分かろうとしない二人の司会者のトーンにもよる押し付けがましさの無さと、毎回ゲストに呼ばれる人たちのアーティストに対する深い尊敬だ。今回のゲストの一人で、バイオリニストの五嶋龍氏が言った「答えはこれだよと言ってはくれないけれど、見た瞬間に何か答えを得たような気がする。」という言葉はワイエスの絵を語るに最も的確な言葉のひとつかもしれない。

もうひとりのゲスト、岐阜県現代陶芸美術館館長であり、ワイエス研究の第一人者である高橋秀治は言う。
「自分と共感を持てるまわりの人たちを描くことが結果的に普遍性を獲得している。」
これは多くの場合、あらゆる芸術に当てはまる真理なのかもしれない。

 

2017年9月

Eテレ 日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」 感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」 2017.1.29 アンコール放送

 

新聞のテレビ欄に面白そうな番組を発見した。Eテレの『日曜美術館』。吉田博。精緻な木版画と書いてあった。僕は興味を引かれた。

画家、吉田博は今も海外では人気があるらしいが日本ではあまり知られていない。彼が活躍した昭和初期当時も日本画壇は黒田清輝を中心とする淡い色使いの人物画、所謂新派と呼ばれるグループが主流を占めていたようで、吉田のような油絵は旧派と呼ばれ、あまり評価をされなかったらしい。ともあれ、反骨の人、吉田は己の技法を突き詰めていく。そして49才の時に木版画と出会う。

その木版画。木版画とは言われてみないと分からない程の精緻さと奥行き、表現力だが、これはもう見てもらうしかない。僕らが持つ葛飾北斎とか棟方志功といった木版画のイメージを軽く跳躍する驚くべき作品。空前絶後だ。霧の表現、朝日の表現、水流の表現、水面の表現。全てがまだそこにある生きている景色。静的でもあり動的でもあり自然そのものである。彼はイノベーター。誰もなしえない未知の領域を表現している。

『濁流』は圧巻だ。文字通り唸りを上げている。圧倒的な動と静がそこにある。堅い樫木に細かく掘っていく作業は困難を極めた。歯を噛みしめるため奥歯が随分やられたという。1週間もかかったらしい。いや、1週間で彫りあげたのだ。これは驚異だ。何故そこまでして彫ったのか。答えは簡単。そこに線が見えるからだ。自分が進むべき線がはっきりと見えているのに描かない芸術家がいるだろうか。余談だが芸術家には我々には見えない、この進むべき線がはっきりと見えている。何故そんな風に描いたかなどという質問は多くの場合愚問だ。

吉田はいつまでも絵の表現を追い求めていく。満足しない。それこそ書生時代は「絵の鬼」と呼ばれるぐらい熱中した。沢山歩いて、沢山山に登って、沢山景色を見て、沢山人の絵を見て、何度も海外へ行って、自分の絵を高めていく。そして彼の絵は年代を追うごとに磨かれていく。彼の最後の作品である『農家』はその極みだ。芸術に年齢は関係ない。この絵は芸術には何が必要かということを証明している。

彼の言葉がある。
~自然と人間の間に立って、それをみることが出来ない人のために自然の美を表してみせるのが天職である。~

心に留めておきたいことがもう一つある。それは自分が決めた道であればそれを向上させるためにはいかなる努力も惜しんじゃならないということ。沢山学んで、吸収して、実践していかなくてはならない。自分の技法はこうだ、自分にはこれしかないとか、自分にはこれが合ってるというのではなく、新しいやり方に挑戦していかなければならない。芸術にとって停滞は悪だ。彼はそんなことは言わなかったけど、心得として、そんな風に聞こえた。

今年、『吉田博 生誕140年 回顧展』が幾つかの地域を巡回している。残念ながら北関東ばかりでこちらにはやってこないようだ。でもまあいい。僕はまだ長生きする。死ぬまでに吉田博の木版画を見る。

 

2017年2月

佐野元春 in NY『not yet free〜何が俺たちを狂わせるのか〜』  感想レビュー

TVプログラム:

佐野元春 in NY
『not yet free ~何が俺たちを狂わせるのか~』  NHK-BSプレミアム 2017.5.28
 
 
2017年4月28日。ニューヨークにあるライブハウス「ポアソン・ルージュ」で、ミュージシャン、佐野元春がスポークン・ワーズのライブを行った。この番組はその舞台に立つまでを追ったドキュメンタリーだ。
 
スポークン・ワーズとは詩の朗読のこと。詩の朗読は一般的にはポエトリー・リーディングと呼ばれている。少し説明するとポエトリー・リーディングとは50年代に米国で起きた「ビート」と呼ばれるカウンター・カルチャーの主をなすもの。そして「ビート」とはあらゆる制約から離れた文学のムーヴメントのこと。アレン・ギンズバーグの『吠える』やジャック・ケルアックの『路上』などが有名だ。話し言葉で、思いつくまま、文体などは一切無視し、文学でもって反逆の狼煙を上げる。簡単に言うとそんなようなものか。ビートルズもストーンズもディランもその系譜と言っていい。余談ながら当時日本でも「ビート」の影響を受けた諏訪優や白石かずこといった詩人がポエトリー・リーディングを行っている。
 
佐野のスポークンワーズはこの流れを汲むものだが、ポエトリー・リーディングとは少し異なる。スポークンワーズとは詩の朗読にバックトラックを乗せたもの。要するに音楽付きのリーディングだ。あまり知られていないが佐野は通常の音楽活動とは別にこのスポークンワーズを80年代から行っている。
 
番組の中で佐野は言う。「音楽からそこに元から備わっている言葉を取り出すのが僕の仕事」だと。このことから佐野がいわゆる現代詩の詩人とは少しスタンスが異なるというのが窺える。あくまでも音楽ありき、ビートありきのポエトリー。ビートとは鼓動。生きる鼓動。すなわち書棚に飾られた言葉ではなく、移動する言葉ということだ。番組でも佐野は頻繁に街に出かける。街の名もないアーティストに声をかけ、地下鉄に乗り、ポエトリー・カフェへ向かう。言うまでもなく詩は路上に落ちている。

佐野が立ち寄ったポエトリー・カフェでは名もない詩人たちが夜ごと言葉を発している。壇上に立ち、マイクの前で吠える。ここでは詩は生活に根差したもの、日常のすぐ傍にあるものだ。欧米ではこうしたポエトリー・カフェが沢山ある。オレは言いたいこと言い、あいつも言いたいことを言う。少し口を滑らせただけですぐに袋叩きに合うどこかの国とは大違い。トランプが大統領になろうともこの営みは変わっていない。むしろ活発になっているようだ。

そういえば佐野は路上のアーティストの「社会が大きく変わる時にアーティストは何をすべきか」との問いにこう答えている。「ワードとビートで人々がまだ気づいていない事に言及する」と。佐野がよく口にする炭鉱のカナリアとはまさにこのことだ。大きなトピックが起きた時に反応することは誰にもできる。大事なのは何も起きていない時に如何に想像力を働かせるかということなのかもしれない。
 
東京でリハーサルをした後、NYで現地のミュージシャンと最終的な音を練り上げていく。ベース奏者はバキティ・クマロ。彼はかつてポール・サイモンにその才能を見いだされ、アフリカからやって来た。佐野とポール・サイモンとは旧知の仲。ポール・サイモン繋がりということか。ドラムスはそのバキティ・マクロの弟子の若いドラム奏者が担当する。しかしながらこのドラム奏者とは息が合わなかったようで、すぐバキティの別の弟子が現れた。この辺りのドキュメントは面白い。
 
佐野が今回ステージで披露するリストには『何が俺たちを狂わせるのか』と題されたポエトリーがある。変則的な4分の6拍子。今の時代の分断を表現しているのだそうだ。テクニカルな表現になるので、少し知的に過ぎるという懸念があったようだが、セッションを通じて彼らはそれを解消していく。番組の最後に流されるライブ映像をみると、それは見事に解消されていた。バイオリニストのギターのような破れたディスト―ションがゴキゲンなしらべを奏でていた。
 
佐野は今回のステージを日本語で朗読する。佐野は言う。「ポエトリーというのはユニバーシャルなもの。今回はそれを証明するいい機会。それに母国語に誇りを持っているし、日本語でパフォーマンスするのは楽しい。しかし言語が異なる人々にはヒント、取っ掛かりが必要なので今回は映像を用意した。」と。ここでも佐野はNY在住の若い日本人映像作家とセッションを繰り返す。そこに映るのは日本の街の景色と言葉だ。言葉と言っても詩の内容をそのまま英訳したいわゆる字幕ではない。キーワードとなる言葉だけを抽出し展開させる。日本の街の映像とキーワードとなる言葉、そして自身の日本語による朗読とバンドの演奏で観客の想像力をかき立てようというのだ。
 
本番当日、ステージに上がった佐野は軽い自己紹介とこの日披露するポエトリーについて言及した。今から披露するのはジャパニーズ・スポークンワーズ。「Style of ‘ZEN’」と。ここの観客にとって訳の分からない日本語とそれを取り囲む幾つものイメージを媒介にコミュニケーションを図る。言ってみればそれが佐野流の‘禅’のスタイル。そして佐野はかつての「ビート」世代と同じく、悪態を突く。毒にも薬にもならないクール・ジャパンとしてではなく、「ビート」の系譜に連なる街の詩人として。狡猾に素早く。そして、自分の属する文化でもって異文化の人々と接触を図る。自身の立場を明確にしながら。 
 
佐野はライブに向けて準備を進める一方、新しい詩を書きとめていた。セッションの合間を縫って、創作していたようだ。その作業は本番前日の夜も行われていた。佐野は言う。「やろう。インスピレーションがどこかへ行ってしまう前に。」。NYでの自身のドキュメントとして、その詩は『echo ~こだま~ 』と名付けられた。もしかしたらそれは現地で参加したアーティストたちの討論会で、あるアーティストが発した「我々はいつも過去から学び自分の中でエコーさせる」という言葉が導火線になったのかもしれない。

詩は隣近所から生まれる。街の詩人たちは優しさと反逆の精神で言葉を紡ぐ。子供たちに、大人たちに、老人たちに。街路や町内や農村や路地裏に落ちている言葉を丹念に拾い集め、自らの胴体に反響させる。それはこだま。過去から現在、現在から未来。それは決して誰にも途切れさせることのできない。誰にも規定させることはできない。

アーティストにとって一番問題なのは自由な表現を邪魔されること。今ほどその言葉が重くのしかかる時はないだろう。話が逆になってしまうが、番組の冒頭で佐野が記した言葉を最後にそのまま掲示したいと思う。どのような時代になっても「ビート」の系譜は続いていく。私もそうあることを願いたい。
 
 
   かつて50年代 米国にビートと呼ばれる文学者たちがいた
   彼らはあらゆる矛盾に反抗の矛先を向けていた
   企業とメディアに
   近代文明に
   キャピタリズムに
   そしてあらゆる差別と検閲に
 
   2017年の今
   それらはさらに複雑な様相をともなって
   不吉に現実を凌駕している
 
   今 僕らにできることがあるとしたら
   それは亡びに向けて反抗すること
   そして破滅から脱出を
   試みることではないだろうか
 
   僕は夢想する
   新しい思想と新しい行為を持った「旅」のかたちを
   僕は思想する

   忍耐と想像力を傍らに往く創造的な「旅」のかたちを

 

※2017.5.28放送 NHK-BSプレミアム 『Not Yet Free~何が俺たちを狂わせるのか~』より