プーシキン美術館展 感想

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プーシキン美術館展ー旅するフランス風景画 in 国立国際美術館

 

前々から行きたいと思っていたプーシキン美術館展。ようやく足を運ぶことが出来ました。僕が行ったのは展覧会が終わる最後の週。平日、10時のオープン前に行ったのですが、駆け込みなのかエライ行列。こりゃ参ったなと思いつつ、けれど中に入ると思ったより広くって十分ゆっくりと観ることが出来ました。

展覧会は全6章からなり、17世紀から18世紀の宗教画の背景に書き込まれた後景を風景画の源流と考え、そこから風景画としての始まり、自然へ接近、パリの様子、そして20世紀に至る新しい風景画までを年代順に追って観てゆきます。

第1章は宗教画や神話のおまけみたいな感じだから、風景画として目を見張るという程のこともないかな。本展覧会の醍醐味は風景画をメインとして描かれ始めた第2章からになります。僕個人としても、宗教画の背景はやはり写実的というかそれっぽく描かれているのだけど、やはりそれは風景画の前段階。それよりも作家のフィルターを通して本格的に描かれ始めた第2章からの風景画は作家それぞれの個性というフィルターを通している分、個性的で決して写実的ではないんだけど、だからこそのリアリティーがある。それに景色そのものは21世紀の日本にいる僕には馴染みのないものだけど、それでもやっぱり例えば、冬の朝ってこういう景色だなぁとか、そうそう薄暗くなり始めた夕方はこんな感じだよなぁとか。そう思わせるのは多分ノスタルジーというか僕の中にある景色が喚起されるからで、なるほど音楽と一緒でよい絵画にもノスタルジーは宿るんだなと、そんな風に思いました。

この展覧会には著名な画家の絵も沢山あって、僕はこの日初めてルノワールの絵を直に観ました。で、初めて直に観て思ったこと。例のごとくルノワールってホワ~ンとしたタッチなんだけど、不思議と描かれている人と人との関係がハッキリ見えてしまう。向かい合っている人同士の愛情の加減まで見えてくるというか、つまりは写実というのは実は心象であるということなんでしょうか。加えてルノワールの絵は観る側が補完する部分かかなりあって、そういう意味でも余力があるというか、スケールの大きい絵だなぁと思いました。

あとルノワールの後ぐらいに展示されていた、ピエール・カリエ・ベルリーズって人の「パリのビガール広場」も個人的には好きだな。斜め上からの俯瞰で描かれた絵なんだけど、画家のクセに遠近感や斜めの具合がちょっとビミョーで、多分そんな上手くないんだろうなって感じがして、でもなんか愛嬌があって良かったです。

個人的な好みで言うと、今回、アルベール・マルケっていう人の絵が好きになりました。穏やかで優しい絵。明確な輪郭があっても主張しない所がいいんだけど、今回展示されていた絵は2枚とも彼が住んでいたアパートの窓から描いた景色らしく、そういう彼の視点が少しだけ感じられる所もまたちょうどよいバランスで。きっと描いていた時は作家自身の心も落ち着いていたんだろうなって気がしました。

続いて第4章はパリ近郊、著名な画家の絵が沢山出てきます。その初っぱながモネの「草上の昼食」。あれっ?モネって意外とザクッザクッて描く人なんだ。この絵は試行錯誤を繰り返し、完成までに年月を要したらしいけど、なるほど確かに統一感はないな(笑)。それに風景画っていうより人物がグワッと前に出ていて、風景に溶け込んでいない。でも全体として観ると構図は抜群で力強い。後の解説文を読んで納得しました。この絵はモネ、26才の時の絵なんだそうな。どおりでキャンバスからはみ出すような情熱がほとばしってます。

でその後に僕らがよーく知っているモネの絵が出てくる。あー、もう「草上の昼食」とは全然違う。全然ハッキリ描いてない。なのにちゃんと人とか花とか全部分かる。それに今回も思った。モネは自然という継続していく生命を描きたかったじゃないかなって。やっぱモネは時間を描きたかったんじゃないかな。

第4章には他にもセザンヌがあって、あー、やっぱセザンヌは自己主張激しいなとか(笑)、ピカソがあって、あー、やっぱピカソはこういう風に見えてしまうからしょーがねぇなぁとか(笑)、あとマティスやゴーガンもあって結構な密度です。

続いて第5章、第6章と風景画が益々充実してくるこの辺も最高に楽しい。なんか全然その通り描いてないんだけど、返ってリアリティーがあるというか、画家それぞれの表現の仕方というか見え方が個性的でとても愉快だ。中でも僕が断トツに気に入ったのはアンドレ・ドランの「港に並ぶヨット」。ヨットハーバーの風景でオレンジとかあって割りと暖色な派手な絵なんだけど、印象としては全然派手じゃなくて、そこに差し込む海の白色とヨットの帆の白色がまたいいバランスで、構図も距離感も抜群だなぁと。これはずっと観ていられるなって、そんな絵です。

そうそう、やっぱ気に入った絵って持って帰りたい(笑)。家に飾って眺めていたい。眺めれば眺める程色んな発見があるのを知っているから、持って帰りたい(笑)。なんかホントに買ってしまう大金持ちの気持ちが分からんでもないなって思いましたが、でもやっぱそれって悪趣味だよな(笑)。

で最後に待ってました。今回の僕の最大のお目当て。アンリ・ルソーの「馬を襲うジャガー」です。なんか接近して行ったら思わず笑ってしまいました。やっぱ凄い愛嬌あるこの絵。やっぱ巷で言われる通り、技量的に優れている訳ではないんだけど、不思議な魅力があって、ルソー自身もこれが描けた時には、描けたぞーっとか、オレは描いたぞーっていう達成感がきっとあったんじゃねぇかっていう。実物を観て、それぐらいこれ以上もない絵だと思いました。

でこの絵は真ん中に白馬とその首に巻き付くジャガーが据えられているんだけど、この白馬がどう観てもど真ん中で、例えば横からスーッと観ていって正面に来たらそこに白馬がビシッと来る。でまた動くと中心から外れる。でまたふらふら~っと観て白馬の正面に来るとビシッと来る。ホントに音が聴こえるぐらいビシッと来る(笑)。これがだからどうなんだという訳でもないんだけど、なんか楽しくって嬉しくって僕は何回も行ったり来たりしてニヤニヤしていました(笑)。

今回、この大阪は中之島にある国立国際美術館に初めて行ったんだけど、地下のわりに意外と広くて、結構な人出だったにもかかわらず、最後までストレスなく観ることが出来ました。流石、国立やね。それにここらはビジネス街でもあるから、昼時には安くて美味しそうな飲食店が沢山並んでいて、そういう意味でも楽しいです。また来るときには、その辺もちゃんと調べてから来ようかな(笑)。

新版画展 美しき日本の風景 美術館「えき」KYOTO 感想その②

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新版画展 美しき日本の風景 美術館「えき」KYOTO 感想その②

 

展覧会に入ってすぐに現れるのは瀬川巴水の作品。「東京二十景」と題された作品が続きます。「桜田門(昭和3年)」、「井の頭の春の夜(昭和6年)」、夜の表現が凄いです。吸い込まれていきそうです。「東京二十景」の中で僕が一番気に入ったのは「池上市之倉(昭和3年)」です。何もない街道が画面の下4分の1ぐらいに真横にスーッと伸びていてそこに林が並んで立っている。その街道の暗さと奥から覗く夕陽のオレンジの鮮やかさ、その対比が素晴らしいです。

もうこの辺りで新版画の魅力に打ちのめされます。小さい絵、渡邊庄三郎さんの意向なのか版画はそういうものなのか、B4サイズぐらいに統一されているので、そんなに大きな絵ではないのですが、だからこそそこに広がる宇宙に感動して胸が熱くなる。新版画が大体どういうものかは知っていたので、最初はその精緻さに驚くんだろうなとは思っていたんだけど、ちょっとグッとこみ上げるような感動がありましたね。それはやっぱりそこに広がる宇宙だと思います。

瀬川巴水に続いて、吉田博の作品が並びます。個人的にずっと見たかった作品。念願が叶いました(笑)。やっぱ違いますね、瀬川巴水とは。もう全然違う。なんていうか独創的!勿論、巴水の作品も素晴らしいのですが、同じ新版画といえども全くキャラが違ってて面白いです。なんか吉田博の作品は壮大ですね。画面のサイズは変わらないのですが、躍動感というか、分かりやすく言えば巴水が静で吉田が動といった感じでしょうか。吉田は登山家でもありましたから、山の絵が多いのですが、そうした移動感とでも言うか、止まっている絵でも、静かな湖面を描いた絵でも移動感が仄かに立ち上がるのです。

あと吉田博にも「東京十二題」という連作があるんですが、そのうちの「平川橋(昭和4年)」ていうのが夜を描いていてこれがやっぱいいんです。版画の魅力は彩色にもあるわけで、吉田の作品には「陽明門(昭和12年)」ってのがあってこれは96度摺りっていうとんでもない執念の作品で、立体感とか質感が素晴らしいのですが、逆にトーンを落とした夜の場面てのも新版画の見どころなんですね。深い闇を摺り重ねた向こう側に見えてくるもの、抒情感とでも言えばいいのか、新版画の夜、これも必見ですね。

新版画に続いていくつか江戸時代の浮世絵も展示されていて、この展示の仕方もその違いが浮き彫りになって良かったです。勿論、独創的な江戸時代のものもいいのですが、やっぱ細かさとか技術は進化してるんですね。どちらがいいとか言うのではなく感触が全く異なります。こういうのを見ると、じゃあ現代の作家の版画はどうなのか。これも気になるところです。

あと気付いたことに構図の妙がありますね。さっきも書いたようにサイズが小さいですから、油絵のようにキャンバスに大きく描くっていうのとは違うんです。スケッチブックを持って写生に行ってある部分だけを切り取る。だから構図が自由なんですね。ただ浮世絵の場合は実際にはあり得ないような独創的な構図に持っていく。新版画は最初から構図自体を印象的、特徴的なものにして選んでいく。勿論全てではないですが、そんな印象は受けました。

他にも新版画の旗手たちの作品があるのですが、個人的には瀬川巴水と吉田博、この2名が突出していましたね。巴水は渡邊庄三郎が見出した人ですから、二人で意見を出し合っていい作品を、売れる作品をと頑張るわけです。一方の吉田は版画を始めたのが40代後半でその頃は既に油絵の大家として有名で、だから版元といえども庄三郎さんは何も言えない(笑)。だからその違いがやっぱり絵にも出てて面白いんです。音楽で言えば、売れっ子プロデューサーとタッグを組んでポップでコマーシャルなものを作ろうとするタイプと、遮二無二作家性を追求していくタイプ。例えば人気があった3点セットが、雪と赤(神社とか楼門とか)と女性で、これらが含まれていると売れると(笑)。だから巴水の作品にはそういう絵がよく出てくるわけです。でもそうは言ってもこれがいいんですね。やっぱりその表現を突き詰めている訳ですから完成度が恐ろしく高い。

逆に吉田は色んなタイプの作品を残しているし、やっぱ執念の人っていうイメージ。とにかく細かさというのかな、リアリズムの追及 さっき書いた96度の摺りだってそうだし、徹底した精緻さ、色の細かさ、指示の細かさ、それに付いて行った刷師の人たちも凄いけど、これでいいがないような、そんな執念を感じますね。

あと気になったのが吉田の絵には余白に「自摺」って書いてあるのが結構あったけど、あれはそういう意味だったんだろか。以前テレビで見た吉田博の特集では本人が彫ってるって言ってたけど、摺りも自分でやったのかな。どっちにしろ、人任せには出来ずに、あーでもないこーでもないと最後まで口うるさく言っていたイメージはやっぱあるなぁ(笑)。

だから版画は画家と彫師と刷師の共同作業ですから、巴水とか吉田博って名前が前面に出ては来ますが、実は名もない職人の技や戦いがその裏にあるわけです。そういう部分に思いを馳せるとまた見え方も違ってくるかもしれません。やっぱプロジェクトXですなぁ。

新版画展 美しき日本の風景 美術館「えき」KYOTO 感想その①

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新版画展 美しき日本の風景 美術館「えき」KYOTO 感想その①

 

JR京都伊勢丹にある美術館「えき」で開催されていた展覧会、「新版画展 美しき日本の風景」に行って参りました。新版画と言われてもピンと来ないかもしれませんが、要するに新しい版画のことです。ハイ、そのまんまですね(笑)。

版画と聞いて思い浮かぶのは浮世絵。浮世絵は江戸時代に盛隆を迎える訳ですが、明治になる頃には写真の登場や印刷技術の進歩もあって衰退してしまいます。しかしその頃、横浜で貿易に携わっていた渡邊庄三郎という方が海外向けに浮世絵がジャンジャン輸出される様子を見て、こりゃ商売になるんじゃねぇかって独立します。そうです、当時はヨーロッパでジャポニズムが一大ブームにだったんですね。で、渡邊庄三郎は版元になるわけです。

基本的に版画というのは画家と彫師と刷師による分業です。それらの版元ということは要するに今で言う総合プロデューサーですね。画家達を集めて工房を立ち上げる。資金繰りもして販売もする。と言っても版画は衰退していたわけですから、手を挙げてくれる人なんてそうはいません。そこを駆け回って版画をもう一度再興させたのですから余り知られてはいないですが、庄三郎さんて方、実は大層凄い方なのです。なんて偉そうに言ってますが、僕もこの展覧会を通じて初めて知った口です(笑)。ちなみにその庄三郎さんの生涯を追った書籍に「最後の版元」というものがあるそうです。一度読んでみたいですね。

で、庄三郎さん、どうせやるなら新しい版画を目指そうじゃないかって、江戸時代の浮世絵を進化させた版画を目指します。それが新版画です。その新版画、展覧会を見た僕の印象では、まず写実ですね。浮世絵ってほら、美人画とか役者絵ってバランス悪いじゃないですか、目や鼻がちょんちょんで。手、ちっちゃいし(笑)。

それと遠近感。広重の東海道五十三次を思い浮かべてもらえば分かると思いますが、浮世絵の遠近感って凄く独創的ですよね。それが海外の人には斬新だ!って受けた訳だけど、新版画はそうじゃなくて西洋の印象派のように実際に見た風景を写真のように切り取ろうとします。します、って言ってますけど版画ですからね(笑)。相当無茶なわけです。それをやろうとしたんですから、もう笑うしかない。プロジェクトXです(笑)。だから見ていると熱量がね、半端なく伝わってきます。中には96回も色を摺った作品もあって、それはもう画家と彫師と刷師の熱意を思わずにはいられないのです。

~感想その②へ続く~

Eテレ 日曜美術館「もうひとつのモネ~現代アーティストが語る革新~」 感想

TV program:

Eテレ 日曜美術館「もうひとつのモネ~現代アーティストが語る革新~」 2018.6.10放送 感想

日美、この日のテーマは「モネ」。それも印象派としてのモネではなく、現代アートとして見るモネの革新性について。現在、名古屋市美術館にて「モネ それからの100年」と題した展覧会が開かれている。今回はスタジオからではなく、その名古屋市美術館から、そこに展示されている日本の現代アーティストたち(画家:児玉靖枝、美術家:小野耕石、版画家:湯浅克俊)の対談形式で番組は進行しました。

モネはどうしても「睡蓮」が有名過ぎて、あぁあの絵ねってことで落ち着いてしまい、今まであまり気にも留めていなかったんだけど、現代の日本人アーティスト3名が語るモネの魅力が非常に分かりやすい形で伝えられていて、モネの魅力を再発見するという意味でも僕にとってとても興味深い回となりました。

今回気付いたことの一つが、モネの絵に上も下もないのではないかということ。水面に映る空は下にも広がっていくし、横にも上にも広がっていく。上も下もない宇宙的な感覚。それは動的なもので、それこそ移り行く自然。絵は静的なものだけど、モネは当然、自然を描いている訳だから、その時にしかない動くものを捉えている。だから絵は静的なものであっても動いているのだ。そこに鮮やかな原色の花弁がちょんとあって、画面いっぱいにたゆたう中で、それこそ命がバッと開いている。

しかし原色で色づけされたその花びらは画面全体に広がる動的なもののうち、ほんの一瞬でしかない動的なもの。それは上と下もなくて、この世は所詮浮世、或いはこの世ははかないものとする日本的な美に通ずるものではないでしょうか。

だから画家、児玉靖枝さんの「モネは時間を書きたかったんじゃないかな」という言葉が、あぁなるほどなって。絵画は筆を置いた時に止まるものだけど、止まらないまま続く揺らぎ。本当の景色があって、でもそれだけではないし、画家が描いたものが一方にあるものの、それもそうだというものではなくて、やはり揺らぎ続ける。

モネは言い切らない、見る人の広がりに委ねる。そこが絵に意味を持たせる同時代の作家とは異なる部分であり(版画家、湯浅克俊さんの「海外の美術館に行った時に、宗教画とか写実的な絵、意味があり、時代背景があり、隠れたメッセージが含まれたような絵が続いた後にモネの絵を見るとホッとする」、という言葉が印象的だった)、現代アートにも通じる部分ではないかということ。

つまり、絵を見る、というのではなく体験するという感覚、姿形をこういうものだと見るのではなく、同化する、ここではないどこかへ連れ去られる、ここが本当の場所とは限らないし、勿論、作家が提示したものが本当の場所とは限らないけど、異質ではあるけれど、心地よい、行ったことはないけれど馴染みのある場所と思わせる感覚。それはつまり、芸術家は人が見えないものを描く、ということにも繋がるのではないでしょうか。

今回は現代の日本人アーティスト3名の対談が凄くよかったです。芸術家は何故描くのか?誰も急き立ててはいないのにこの切羽詰まった感は何なのか?その一端が垣間見えるような気がしました。

名古屋市美術館「モネ それからの100年」は2018年7月1日まで続き、その後は神奈川へ。十数年前に京都でモネ展を見た記憶があるが、もうほとんど記憶にない(笑)。また近くに来たら是非見に行きたいな、と思いました。

ゴッホ展~巡りゆく日本の夢~京都国立近代美術館 感想

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ゴッホ展~巡りゆく日本の夢~ 京都国立近代美術館 感想

 

京都国立近代美術館で開催されているゴッホの展覧会に行ってきました。今回の展覧会はゴッホと日本の関係に焦点を当てたもの。1880年頃のパリは芸術家による「ジャポニズム」への接近が顕著な時期だったらしく、ゴッホもその影響を受けていたとのこと。なるほど、浮世絵を収集したり、知り合いの店で浮世絵の展覧会を開いてもらったり、思っている以上に日本が好きだったみたいだ。純粋に日本に憬れていた節もあって、すぐ夢中になるところなんかは子供みたい(笑)。ゴッホが日本に親しみを覚えてくれていたなんて嬉しいなぁ。

ゴッホ展に入ってすぐに大きなゴッホの肖像画があった。ゴッホはたくさんの肖像画を残したが(モデルを雇うお金が無かったかららしいけど)、ここにあるのは『画家としての自画像』。凄い迫力。僕が一番印象的だったのはその立体感だ。描かれている筆の1本1本がちゃんと立っている。実物を見るとそれがスゴイ分かる。横にあった『三冊の小説』も同じ。立体感があって、まるで飛び出す絵本を見ているみたい。ゴッホ独特の線なので写実ではないのだけど、ホントにそこにあるみたいで、先ずこれに僕は度肝を抜かれました。

ゴッホが「ジャポニズム」に触れたのはパリ時代。ということで展示はパリ時代から南仏アルル時代が中心となる。どれも素晴らしい。僕は時折展覧会に行くのだけど、正直気に入ったものもあれば、ふ~んって感じのものもある。でも今回のゴッホ展は気に入ったものだらけ。ふ~んってやり過ごすのはほとんどなかったんじゃないかな。やっぱエネルギーがスゴイんです!僕もものを書いたりしますが、時折自分に問うのは、本当にこれがお前の言いたいことなのか、これはどうしても書かなければならない言葉なのか、ということ。それがゴッホの絵にはあるんです。ゴッホのエネルギーとか気持ちがちゃんとそこにあって、やっぱ生きた絵。描くべくして描かれた絵っていう感じが凄くするのです。やっぱかくあるべし!って思いました(笑)。

多分、ていうかきっとゴッホは絵を描くのが好きだったんだろうし、でも好きで好きで俺はこれで行くんだ~って早くから決めていたわけじゃなく、28才になってようやく画家を志すみたいな人で、ゴッホの絵は短い線で構成していくのが特徴なんだけど、その一本一本が几帳面な感じがして、そういう性格的にもメンドクサイところが絵からも存分に出ている気がして、そこがスゴイ絵なんだけど何故か親近感を覚えるところにも繋がるのかなぁ、って思いました。

人の顔や静物なんかもたくさん展示してあったけど、やっぱ僕は風景画が好きです。『アイリスの咲くアルル風景』、『糸杉の見える花咲く果樹園』、『花咲くアーモンド』、『サント=マリーの道』。ほんと素晴らしい。『蝶の舞う庭の片隅』なんてただの田舎道を接写して描いているだけなのに、凄くいい。畔道の雑草や蝶への優しい眼差しというか、ちょっと難しい人だったかもしれないけど、こういうのを見てると基本は優しい人だったんだろうなって。

ゴッホの絵を見てると、なんで空が黄色なの?とか、妙なところに妙な色が入ってるってのがよくあるけど、『オリーブ園』の地面が肌色なのは驚いた。スゴイ生命力。ちょっと生々しくって怖かった。

晩年の絵を見てると(晩年といっても37才で亡くなってしまったけど)、例えば『ポプラ林の中の二人』とかは景色と一体になっているというか、景色の中に入ってもうゴッホ自身が景色になっている感じ。自分と絵の境目がなくなってくるというのか、ゴッホ自身が風景の中に溶け込んでしまっている、そんな印像を受けました。人生には長短に関係なく四季があるっていうけれど、ホントそうかもしれないな、って思いました。

ゴッホは生前、1枚も絵が売れなかったとか。貧乏で仕方なくって、弟のテオに随分と援助をしてもらって(あんなに大きなキャンバスに絵の具を塗り込めてたんだから、絵の具代だけでも相当だったと思う)、きっと売れたかったんだろうな、評価されたかったんだろうなって思うけど、でもやっぱり自分がこれだと思えるものを描けたときの喜びというのは他に代えがたい喜びだったはずで。『サント=マリーの海』っていう荒々しいアルルの海を描いた絵と『麦畑』っていう穏やかなアルルの風景を描いた絵が2枚並んで展示してあって、だから僕はこれを見た時にどうしようもなく感動したのです。きっとゴッホはこれを描いた時に「やった!」と思って、僕は描けたぞっていう喜びがあって、もしかしたらしばらく、ほんのしばらくかもしれないけど、絵から近寄ったり少し離れたりしながら何度も見返して、人生で最高の喜びを、人生の意味をほんの一瞬だけでも了解したんじゃないかって。僕には何故かそんな光景が目に浮かんで、本当に感動して目頭が熱くなってしまいました。

ゴッホの絵はホントにリアル。写実じゃないから写真みたいじゃないけど凄くリアル。それにエネルギーに溢れてる。でもなんだか落ち着くんだなぁ。これはもう僕の勝手な思い込みだけど、やっぱゴッホは絵を描くってことだけでホントに他意はなかったからで、ただいい絵を描きたい、自分でこれだと思えるものを描きたい、その一心さが僕ら見ている人に何らかの安らぎというかプラスの感情をもたらしているのかもしれない。そんな風に思いました。

面と向かって話すと誤解や齟齬ばかりで空回り、なかなか上手くいかないけれど、絵だと時にこれは自分だというものを表現できた。目指す絵が描けないとそれはそれでストレスが貯まったろうけど、それでも絵が最大の自己表現だとすれば、やはり描くことは止められなかったのだろうなって。なんか分かるような気がします。

偉大な画家だけど、そう遠くに感じない。僕にとってゴッホとはそんな人です。京都でのゴッホ展はもうしばらく続きます。皆さんにとってのゴッホを見つけてみてはいかがでしょうか。

興福寺 国宝館 リニューアルオープン 感想

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興福寺 国宝館 リニューアルオープン 感想

 

2018年元旦よりリニューアルオープンした奈良興福寺の国宝館へ行って参りました。とその前に興福寺東金堂を参拝。国宝館目当てで行ったのですが、東金堂もスゴクよいです。正面に薬師如来坐像、その左右に維摩居士坐像、文殊菩薩坐像、更に日光菩薩立像、月光菩薩立像と並び、その周囲を十二神将立像が取り囲みます。更に四隅を四天王立像が配置する迫力の国宝群です。ちなみに薬師如来坐像と日光・月光菩薩立像が銅造で他は木造になります。

ここの日光・月光菩薩立像は片方の手が手の甲を上にして指先をちょんと跳ね上げる格好でまるでペンギンみたい。穏やかな表情と相まってかわいいです。

さて、リニューアルオープンの国宝館。奈良時代に創建された食堂(じきどう)の外観をイメージしているそうなので外観は至って地味です。ん?リニューアルなのにこれがそうなの?って感じで遠目には分かりにくいですが、中に入るとすんごいです!

館内は白で統一されたシンプルな内装なので像が一層際立ちます。像を痛めることのない柔らかなLED照明もよい感じ。昨年の乾漆群像展で見た乾漆八部衆立像や乾漆十大弟子立像も配置の妙で素晴らしかったのですが、この国宝館で見る像はひとつひとつが独立して配置されていて距離も近いので凄くじっくり見れます。ホントに素晴らしい。間近に見る阿修羅像や迦楼羅像は最高です。

阿修羅像は人気があるので皆さんそれぞれに感想をお持ちでしょうが、私がこの日感じたのは性別を超越したところ。もともと神様に性別はないそうですが、私は今回どちらかというと女性の面影を強く感じました。それも古風な面立ちではなく凄く現代的なお顔。本当に美しいです。

他の八部衆立像と比べても根本から造形が異なるようですし、もしかしたらこの現代的なお顔には実在のモデルがいたのかもしれません。男だったのか女だったのかは分かりませんが、そこに幾ばくかの物語があったかもしれず、そんな風にして想像を巡らせるのも楽しいものです。

素晴らしい仏像や絵画というのは見る場所や時に応じてに異なる印象を与えてくれます。ここで見られる仏像についても全くそのとおりですね。

あと国宝館の中心におわします5メートル超の木造千手観音立像も圧巻です。これも間近に見れますよ。

ここでひとつ豆知識。奈良にある国宝の仏像は東京をはじめ各地の展覧会に引っ張りだこだそうですが、元々の所在地から移動するときは一度魂を抜くのだそうです。したがって、各地の展覧会で展示される場合は美術品として扱われるので拝観と言います。一方、ここ国宝館の阿修羅像たちは魂が入っていますから参拝と言います。たまたま国宝館のスタッフの方が館内で観光案内をされていたのを聞いた受け売りですが(笑)

私が訪れたのは1月3日でしたが、やはりお正月ということで春日大社へ向かわれる方がメインのようで、オープンしたばかりの国宝館は人もまばら。すごい人で見れないかも、なんて心配していましたが、しっかり堪能できました。堅苦しくなく、リラックスした雰囲気ですので、仏像にちょっと興味があるんだけどイマイチよく分からないんだよな、って人には是非おススメです。

国宝展 Ⅳ期 京都国立博物館 感想

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国宝展 Ⅳ期 京都国立博物館 感想

 

京都国立博物館で行われている特別展覧会『国宝』へ行きました。10月3日~11月26日の間、Ⅰ期~Ⅳ期と展示内容を一部入れ替えながら行われています。私が訪れたのはⅣ期。有名どころで言うと「伝源頼朝像」や「燕子花図屏風」などがあります。

京都国立博物館前に着いたのは10時半頃でしたが、平日ということでチケットを並んで買うこともなく、すんなりと建物へ。館内ロビーで2、30分ほど並びましたが、スムーズに入場することができました。

1階は仏像などの巨大な造形物の展示。暗闇に浮かぶ巨大な像。いきなり迫力があります。漆黒に浮かぶ大日如来坐像はなかなかのも。普段は大阪の金剛寺に所蔵されているとのこと。今度は金剛寺で見てみたいと思いました。

テレビの国宝展紹介番組で見た「油滴天目」(陶磁器)。光を当てると器の内側が星空のように光るということでしたが、展示中は上部からのライトで常時輝いています。ふむふむ。

2階には絵画や書物などが展示されており、ここに「伝源頼朝像」がありました。意外と大きいことにびっくり。縦横2メートル近くあるぞ。これだけ大きいと単なる肖像画というより作品です。ちょっと認識が改まりました。

この階にはこれも有名な尾形光琳の「燕子花図屏風」もありました。これもでかい!意外とざっくりとした筆使い。ずっーと考えて、ヨシッ、って一気にグワッグワッて描いていく。なんか絵師のそういう姿が思い起こされました。

3階には私が一番見たかった縄文式土器(これも教科書に載っている有名なやつ「深鉢型土器」)と土偶があります。どっちも素晴らしかった。土器は上部に鶏のトサカのような造形を施しているのだが、これがちゃんと4面とも対象に形作られていて、しかもその内側が今で言う樹脂成形品の内側のような整然とした線の並びで、こういうのを見ていると、あぁ今も昔も人の美的感覚というのは同じなんだなぁなどと、縄文人に親近感が沸いてきました。

土偶もよかった。お尻がプリッとした「縄文のビーナス」と呼ばれている土偶もテレビで見たときはなんじゃこりゃって感じだったが、実際に見てみるとかわいい。ユーモアがあってなかなか面白いです。

絵図や書物や刀剣、織物に蒔絵や調度品などなど、ホント多種多様な展示がされていたのだけど、個人的には結局小さい土偶が一番よかった。私はやっぱ仏像とかこういった造形物が好きなんだと再確認しました(笑)。他にもホントにいろんなジャンルの国宝が展示されているので、見る人それぞれの好みでいかようにも楽しめるオールマイティな展覧会ではないでしょうか。

雪舟の作品も今回の目玉だったのだが、展示はもう終わってたみたいでちょっと残念。私は日程の都合もあってⅣ期を訪れることになったのだが、それでも十分見れたので満足。ただ平日でしたがどのフロアも結構な人だかりで結構疲れます。これに外で並んで中で並んでが加わるとかなり大変かも。なかなか難しいけどやっぱ平日がお薦めです。

しかし寒かった。先日奈良に行った時はポカポカ陽気で最高だったけど、この日は曇りがちで風も吹いてちょっと大変。私は20代をずっと京都で過ごしましたが、なんかその頃の空気の感じを思い出しました。

ちなみに。
京都国立博物館の向かいには三十三間堂があります。京都に住んでいた頃に2度ほど来たことがあるけど久しぶりに入りました。やっぱいい。1001体の仏像は圧巻です。奈良の興福寺で八部衆を見て、ほうほうなんて思っていたけどここは二十八部衆像(笑)。運慶一派の組織立った大量生産(なんて言うと怒られるかな)な仕事ぶりも詳しく見ていくときっと面白いんだろうな。

 

2017年11月

仏を巡る旅「興福寺~新薬師寺~奈良市写真美術館」

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仏を巡る旅「興福寺~新薬師寺~奈良市写真美術館」

奈良へ行ってまいりました。興福寺仮講堂での特別展「阿修羅ー天平乾漆群像展」から新薬師寺の薬師如来坐像と十二神将立像を経て、奈良市写真美術館で開催されている入江泰吉の「古き仏たち」。丸一日、様々な仏様を拝観しました。

まずは興福寺仮講堂での乾漆群像展。国宝館の耐震補強工事に伴う特別展で、春の公開に続き二度目、秋の公開となる。春に家族と奈良公園界隈を訪れたのだが、その時はこの特別展に入ることは叶わず。今回は念願の再訪となった。

西金堂内陣の宗教空間イメージを一部視覚化したとの記述があったが、その配置が絶妙だった。両サイドで筋骨隆々の阿形像吽形像が見得を切る横に、一転、胸板に骨が浮かぶ静謐な佇まい十大弟子がいるという対比。その写実的な十大弟子像の横に八部衆という神話の神々が配置されているこれまたコントラスト。その中心には阿弥陀如来像というこの並びが最高にイカしていた。

今回の旅の一番の目的はこの乾漆群像であるが、中でも一番のお目当ては阿修羅像。僕は初めて直に見たが、美しいの一言。体のラインや立ち姿、6本の腕のバランスを含めた佇まいは息をのむ美しさだ。それとやはり表情。両サイドの2面の顔はあまりよく見えなかったが、正面を見据える表情が何とも言えない。悲しんでいるのか憐れんでいるのか、優しさなのか怒りなのか。そのどれでもないし全てとも言える表情。それに決して目線は合わないのに、ずっと見られているようで、人垣の後ろへ少し離れてみても同じようにすっと見据えられているような感覚がする。まるで阿修羅像の目線の先にこちらから吸い込まれていくようだ。

その阿修羅像のとなりに立つ迦楼羅像もまた素晴らしい。鶏頭の半獣半人像だ。この表情も何とも言えない。悟りきったようなすべてを受け入れたような表情。阿修羅像が多くの人に同じような印象を与えるとすれば、迦楼羅像は人によって、時によって全く異なる印象を与えるのだと思う。見る人を写す鏡のような表情と言えるかもしれない。

続いて向かったのは奈良公園を南東に抜けた場所にある新薬師寺。ここには十二支を題材にした十二神将立像が薬師如来坐像を取り囲むように並んでいる。十二神将立像は木を骨組みとし主に粘土で造形されている。故に先ほどの乾漆像とは重量感、質感が全く異なる。全て動きのある造形だが、粘土ゆえか中国の兵馬俑を思わせる。中心の薬師如来坐像の表情も彫が深く鼻筋がすっと通っておりインド風な趣。ここは少し異国的な雰囲気があった。

十二神将立像は本来極彩色で彩られていたそうで、往時の姿がパネルで再現されていた。結構すごい。皮膚はアバターのように緑で鎧は赤や青でずっしり重い。これが十二体、全て彩られていたら結構なインパクトだろう。と言ってもここに限らず、昔の像の多くは彩色されていたらしいので、単なる信仰とは別に、仏像は僕たちが思うそれとは全く違う捉えられ方をしていたのかもしれない。

最後に向かったのは新薬師寺のすぐ近くにある入江泰吉記念奈良市写真美術館。ここでは現代の写真家による奈良の風景が前半部に、メインに入江泰吉の仏像写真が展示されている。前半の現代の写真家による奈良の写真も良かったが、後半の入江泰吉の仏像写真は今見てきた実物の写真が多く展示されているので、また違った角度で思いを巡らせることができ、非常に興味深かった。ここの美術館に入ったのは偶然だったけど、実物を見た後にまた違う手法で見るというのもなかなかのもの。印象に残ったのは広目天像。顔がいかついのなんのって。すげえ迫力を捉えていた。

阿修羅像の写真もいくつかあって、その下に入江泰吉の言葉が記載されていた。少し紹介すると、「一二、三才の少年をモデルにしたと言い伝えらえれているが、清純な乙女のイメージが強いのである。」。そうだな、そう言われるとそんな気もする。そんな見方ができるのも阿修羅像の魅力だ。

入江の奈良の風景を捉えた写真展示はなかった。今回はそういう趣旨ではなかったのだろうけど、僕はそっちも好きなのでこの点は残念だったかな。

当初は奈良市写真美術館へ行く予定はなかった。新薬師寺に行ったら近くにあるのを知って、入江泰吉のことは知っていたからちょうどいいやと思って入った。10時頃に奈良に着いて、全部見終わったのは2時ごろかな。結果的に奈良の仏像を巡る旅になったけど、最初に東大寺で大仏や広目天像を見るのもいいかもしれない。で最後に奈良市写真美術館へ行く。今日も奈良公園界隈は観光客でいっぱいだったが、新薬師寺~奈良市写真美術館辺りはほとんど人がいない。あまり知られていないようだけどなかなかいいコースだと思います。特に写真美術館、ここで最後を締めるのもよいのではないでしょうか。

仏像の写真展は12月24日までのようだけど、以降も奈良を舞台にした写真展が行われるだろうし、それはそれですごくいいんじゃないかな。

ところで全てを見終わった後、写真美術館の近くにあるお店で(名前は忘れましたっ)少し遅い昼食を採ったのだが、そこの二階でちょっとした写真展をしていた。年配の地元の写真家によるものだという大台ヶ原を舞台にした写真の数々。奈良市写真美術館にも奈良県川上村の写真が展示されていたが、その若手写真家による直線的な表現と食堂の二階で見た年配の写真家による磁味深い写真との対比。これもなかなか良い体験でした。

 

2017年11月

ピカソと日本美術-線描の魅力- 感想

アート・シーン:

『ピカソと日本美術-線描の魅力-』 和泉市久保惣記念美術館

 

この展覧会では浮世絵に代表される日本絵画のコレクターでもあったピカソの絵と、彼に影響を与えたであろう日本絵画が並列して陳列されている。まあ僕にとっては解説文を読んでふむふむといった程度のもので、その関連性についてはよく分からない。当時は日本からも多くの芸術家がかの地を訪れピカソと交流をしていたそうなので、お互いに影響を与え与えられというところがあったというのは想像に難くないところだろう。

この展覧会ではピカソの多くの下書きやデッサンが展示されている。メモ程度のものであっても写実的な描写はない。ほぼ全てが僕たちのよく知るピカソのへんてこな絵の下書きばかりだ。あぁ、そうか、なんとなくピカソは感性を頼りにへんてこな絵を描いていたとばかり思っていたが、そこに至るまでには何百何千の下書きをしているのだ。この下書き、自分の中にあるイメージを確認するためなのか、徐々に固めていくためなのか、結局のところは分からないにせよ、彼の試行錯誤を見るようで面白かった。ずっと見ていると彼の中の何か決まり事というか美しさの基準が見えてくるような気もしてくる。ま、そんなことは一切分かりっこないんだろうけど、そんな気がするだけで僕は満足だ。なんにしても思いつきで描いているわけではないのだ。

ピカソの特徴として静物よりも人物画の方が圧倒的に多い。今回もほとんどが人物画だ。例のごとく一見本人とは似ても似つかぬデフォルメした人物画。けれどちゃんと違うんだな。例えば、2枚並べて展示してあった「女の半身像」と「男の胸像」は同じ手法、色味で描かれているけれど、印象は全く異なる。ということはつまり、2枚ともちゃんとモデルその人を描いているということだ。あんなデフォルメした絵を描いてはいてもちゃんとその人を描いている。だから多分よく似ているんだと思う。きっとその人の本質を言葉ではなく絵で見抜くんだろうな。ピカソのデッサン力が凄いのは有名だが、つまりは観察力が尋常ではないということだろう。

ピカソの場合、とかく造形に目が行きがちだけど、色使いも抜群だ。同じ色合いの濃淡とかはみ出し具合とか混ざり具合とか。僕はやっぱこっちの方に圧倒される。さっき述べた「女の半身像」と「男の胸像」もそうだし、「赤い枕で眠る女」とかホントきれいだ。デッサン力は磨けても色の感覚はそうはいかない。これはもう天性のものだろう。

また、『博物誌』なるものに描いた挿絵が何枚も展示されていたのだか、そこに描かれた動物とか昆虫が実に見事。人物画とは対照的に非常に細かく描きこまれている。といっても写実ということではなく、生き物の生命力や躍動感を前面に出した力強く精密な絵。ピカソの違う一面が見れてとても良かった。

今回の展覧会は久保惣記念美術館の35周年記念特別展。それにしてもこれだけのピカソの絵が一地方都市の美術館に集められたというのが驚き。関係者の皆さんの熱意の賜物。この展示会を開催するため奔走したであろう皆さんに感謝。よいものを見せてくれてありがとうございます。

最後に。僕がここを訪れた日、たまたま近くの中学校が校外学習に来ていた。学芸員と思しき方が学生達に説明をされていて、それがとても的確だったので僕も一緒になって聞いていた。ちょっとラッキー。学芸員さん、ありがとう。

 

2017年11月

 

アドルフ・ヴェルフリ展 二萬五千頁の王国 感想

アート・シーン:

『規則正しく自由に』
~アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国~兵庫県立美術館

 

奥行きがあるような無いような

平面的でないような立体的でないような

規則正しく自由な感じ

 

左右対称でないようで非対称でないようで

動的でないようで静的でないようで

あるようなではなくないような

規則正しさのコラージュ

その居心地の悪さ

 

でもそれは彼にとっての規則正しさ

タイトルを変えイメージを変えモチーフを変え執拗に描かれる

所々に明るさが垣間見える

譲れない規則正しさがあってでもそこから自由になる

その自由さにも規則正しさがある

 

彼の鼻の中とか耳の中とか毛穴とか目の奥から覗いた景色

まさしく揺りかごから墓場まで

彼の旅を覗いていく

 

決して平面的に描いている訳ではなく意図的に奥行きを効かせている場合もある

ペルシャ絨毯のようなそれでいて規則正しさからの自由

 

あちこちに書かれた音符は五線譜ではなく六線譜

不自由で自由な規則正しさの表れ

あちこちに書かれたポエトリーを読みたい

 

旅は晩年の葬送行進曲で終わりに向かう

目に付いた僅かなコラージュとことば、マントラ

ぐるぐると回ってマグマの奥深く己のマントルへ向かう

最後まで自己の物語を演出する

彼は絵を描いているといふ感覚があったのだろうか

 

2017年2月