パリ・マグナム写真展 感想

アート・シーン:

パリ・マグナム写真展 in 京都市文化博物館

 

1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成された。その写真展が京都文化博物館で開催された。

第二次世界大戦前からの記録。所々挟まれる解説文を見ながらの写真はパリの歴史を追いかけるようで、一種のドキュメンタリー・フィルムを思わせる。パリ解放であったり、アルジェリア独立問題であったり、5月革命であったり、今年の大統領選挙であったり。その中心にいる市民による揺り戻し。積み上がったものを壊す。その力をみくびってはいけない

写真展を見るのは今回が初めてだ。思うのは写真家と被写体との距離。写真家はそこに入り込まない。余計な口を挟まない。写真はデザインであり、ジャーナリズムであり、日常である。絵のように一枚一枚に目を凝らして見るのもいいが、少し離れてみるのもいい。じっと見て、離れてみる。同時期に起きている事実が並べられている。その様子を見るのがいい。

モノクロ、カラー、デジタルという変遷も興味深い。その吐き出すもの、受ける印象というのは違ってくる。今の写真家はそれらを使い分けるのだろうが、その意図するところはどのような具合なのだろう?モノクロ、カラー、デジタル、どれもいいがモノクロは面白い。写真の中にある人や建物や風景にそれを見ている僕の影が重なるとぞわっとする。遠い昔の写真の本当さが濃くなる。

絵画は作者の込めたものが立ち上がってくるが、写真にはそれが無い。ただし動きがある。写真は静止画。しかし当たり前ながらそこには前の動きがあり、後の動きがある。世界が動いている様子を一瞬止めたものがシャッター。ふむ、やっぱり物語が幾らでも湧いて来る。

中には政治家や著名人のポートレートもあるが、やはり市井の人々の様子を見るのがいい。僕も写真家に撮ってもらいたいと思った。構えたり、自然な表情を不意に撮るではなく、構えて不意に撮る。出来た写真を見ながら、これは自分ではないなと思いながらも、人が見たらあぁそれそれっていう僕になる。それを知りたい。そして当たり前ながらも世界はそういう人たちで出来ている。自分のお気に入りの肖像ではなく、人が見たらあぁそれそれっていう人たちで出来ている。

展覧会の最後に飾ってある写真はマクロン氏の当選スピーチのステージを遠くから眺める人々。どこかの建物の大きなポーチのような場所。頭上には木々が茂っている。この国の人たちを侮ってはいけない。

最後に一つ余計な事を付け加えておくと、僕がこの写真展に行くきっかけとなったのは紹介文にあった「自由と公平さと自治」という文言。僕は今、「自由」という言葉がキーワードだと思ったからだ。見に行かなくてはならないと思った。数日経ってもまだ僕の中に残るものがある。行って良かった。

もうひとつ。僕は10年程前まで京都で暮らしていた。三条界隈、京都市文化博物館の前は何度も通った道だ。写真のようにあの時の僕が見え隠れしたら面白かったけど、そういうものは一切見えなかった(笑)