スズキコージ『チンチラカと大男』絵本原画展&作品展 感想

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スズキコージ『チンチラカと大男』絵本原画展&作品展

神戸はJR元町駅の近く、ギャラリー・ヴィーで開催中(2020/1/25~2020/2/16)のスズキコージさんの原画展へ行って参りました。

スズキコージさんのことはEテレ『日曜美術館』で知りまして、自由な絵なんですね、ホント、子供が描いたみたいな。もちろん子供が描けるような絵ではないのですが、例えば就学前の子供に象の絵を描いてってお願いしたら我々が望む象を描かないと思うんです。我々は絵本やテレビやなんかで絵で描く象というのはこういう感じというイメージを持っているんですが、小さい子はそうじゃないでしょ。頭の中にお手本とかなくて自由に描いてしまう。

スズキさんの絵にはそういう意味でのオリジナリティというか、言ってみれば原始に立ちかえったような感覚を覚えるんです。そういう意味での子供っぽさがあるのでスズキさんの絵はこれちょっとオレにも描けそうだなって勘違いしてしまうのですが実際には描けません、当たり前か(笑)。

ギャラリー・ヴィーはとても小さい所ですから原画が間近で見れます。そうすると今言ったようなスズキさんの凄みっていうんですか、そういう細かい手仕事が見えてこれは途方もない絵だなと。ちょっと買い求めたいな、でも金額を見て無理!って感じです(笑)。

でもとか言いながらやっぱオレも描いてみよう、って気にさせるのスズキさんの絵の素敵なところだと思います。絵に力がある。伝播力があるってことでしょうか。

でひとしきり見て椅子に腰掛けているとその小さなギャラリー・ヴィーに雰囲気のある方が入ってきまして、店主さんと話しをされているんですね。 思わず「絵描きさんですか?」と声を掛けたら、まさに絵描きさん。しかもスズキさんとお友達だという。気さくな方で貴重なお話を沢山聞かせてくださいました。

※ 以下、次記事「WAKKUN(涌島克己)さんとの会話」へ続く、、、

『黄昏の絵画たち~近代絵画に描かれた夕日・夕景~』感想

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『黄昏の絵画たち~近代絵画に描かれた夕日・夕景~』神戸市立小磯記念美術館 感想

夕方。夕暮れ。日暮れ。薄明。黄昏。これらは全て日が落ち始めた頃合いを表す言葉です。辞書を引くともっと沢山の言い方があるようで、古今東西、太陽が沈み始めるこの時間帯には人それぞれの感じ方があって、それもその時々によっても微妙にニュアンスが異なるという不思議な時間帯です。

電気がない時代はそれこそ日が暮れることが一日の終わりを告げる合図であり、ぐずぐずしているとあっという間に世界は闇に閉ざされてしまいますから、外にいる人は帰り支度をし足早に家路を急ぐ。現代でも夕暮れ時は時にせつなく、時に暖かな感慨をもたらしますが、古い時代の人々にとってはもっと生活に根差した時間帯だったのかもしれません。

というわけで、夕暮れ時は絵描きにとっても非常に感心のあるテーマ。特別展のテーマになるほど数多くの作品が、様々な角度から描かれ観賞されてきました。もしかしたら今までにも夕暮れ時をテーマにした展覧会はあったのかもしれませんね。

『黄昏の絵画たち』展では印象派が活躍した19世紀後半の海外の作品や、同じ頃の日本、明治期から大正期の作品が主に展示されています。最初のフロアが海外の作品。二つ目のフロアが日本の作品になります。

嬉しいのは日本のフロアに明治期の木版画が多数展示されていたこと。ここで瀬川巴水や吉田博の作品が見られるとは思わなかったので嬉しかったです。日本のフロアには木版画の他にも水彩画や日本画もあり多種多様。とても興味深かったです。

色々な夕景が描かれていますが、私が好きなのは赤みがかった割りと早い時間帯の夕景。それも初夏がいいですね。何かいい気分になります。冬は暗みが強くて悲し過ぎます(笑)。

ここに展示されている夕景を観て自分はどういう頃合いが一番好きなのか、そして何故自分はそれが好きなのかというところへ思いを馳せてみるのも面白いかも。自分では気付かなかった自分の新しい側面を発見出来るかもしれません。

小磯記念美術館にはもうひとつフロアがあって、そこにはその名の通り小磯良平の作品が展示されています。油絵から水彩画、写実からキュビスムまで幅広い画風に圧倒されます。今回展示されていた八千草薫さんの肖像画は綺麗だったなぁ。

小磯記念美術館。私は勝手に小ぢんまりとした美術館だと思っていたのですが、いやいや、とても立派な美術館です。フロアも広いし展示数も沢山あって、私は開館の10時頃に入ったのですが、全て見終わったのが13時30分頃でしたか。それも最後の方はお腹がすいたのでかなりの急ぎ足。それでなんと入場料800円ですから、何気にすごい美術館です!!興味のある方はしっかりと腹ごしらえをしてのぞんで下さいな(笑)

大阪市立美術館 特別展「仏像 中国・日本」感想

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大阪市立美術館 特別展「仏像 中国・日本」感想

天王寺にある大阪市立美術館で開催中の特別展「仏像 中国・日本」に行って参りました。サブタイトルは`中国彫刻2000年と日本・北魏仏から遣唐使そしてマリア観音へ`というもの。内容はそのサブタイトルのまんまですね。非常に統一感のある展示でした。

入ってすぐに展示されているのが、銀製の男子立像。これ、紀元前200年くらいの作なんですけど、あまりの精巧さにびっくりしました。デザインも含めまるで現代の作品のようです。紀元前200年にこれだけの技術があったというのは驚きですね。加えてデザイン。とてもチャーミングで2019年のセンスと変わらないというのがスゴイ!恐るべし、中国2000年の歴史!

展示が多かったのは石仏ですね。この石仏がですねぇ、また精巧なんですよ。また立ち姿が抜群
に素敵!特に横から見ると最高です!

仏様なので、少し前傾気味。といっても不自然な感じではなく程よく前傾なんです。でもってそこにはちゃんと軸が存在する。背骨の婉曲がはっきりと存在するんですね。このなんとも柔らかでキリッとした姿勢に私は惚れましたね。しかもほとんどの石仏がそんな感じなんで、こりゃやっぱり彫師の技術なんだなと。昔の職人、スゲー!

あと中国の仏像の特徴としてはやはりお顔立ち。実際の日本人と中国人の顔立ちはそんなに変わらないのですが、あっちの仏様はやっぱ本場インドの面影が色濃いです。鼻梁がスッと伸びて彫り深っ!鼻、とんがってます(笑)。日本にも西アジアの影響を感じさせるお顔立ちの仏様がいらっしゃいますが、ここまではっきりとインド!ってのは私あんまり知らないです。

そんな感じで仏像の方は8割方が中国仏像でしたが、あんまりあちらの仏像に触れることはないので、へぇーって感じて面白かったです。私としては見慣れているせいか日本ののっぺりとしたお顔立ちの仏様の方が落ち着きますけどね(笑)。中国仏像、なんか個性強過ぎっ。

それにしても金製や銀製の仏像や石仏、もちろん木製の仏像にしても技術の高さは目を見張るものがありました。日本の仏像はやっぱり俳句的というかシンプルイズベストが基本ですからね。中国仏像、情報量多いっす!

あと、仏像の法衣や装飾を見るのも面白いです。あんな昔にこんな格好してたんだというのが結構驚きます。じゃらじゃらいっぱいぶら下げてたり、派手な格好は新鮮でしたね。しかもバランス良くてセンスいいんですよ。意外と昔って美的感覚が今と変わらないのかもしれないですね。

Eテレ 日曜美術館「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」感想

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Eテレ 日曜美術館「火だるま槐多~村山槐多の絵と詩~」 2019.6.23放送

 

確か、高校の美術の授業の最後の課題がポートレートだった。私は先ずキャンパスを真っ赤に塗りたくり、その上にぼんやりと椅子に座る自分の姿を描いた。それは私のガランス(暗赤色)だった。しかし私の灯火のようなガランスに比して、村山槐多のガランスは体中の血が濁流となって溢れんばかり、マグマのガランスだ。

生きるエネルギーに溢れている人がいる。そのエネルギーを仕事へ向ける人もいれば、芸術に向ける人もいれば、対人関係に向ける人もいるだろう。しかしそのエネルギーを放出する術を持っていなければ。私はこれまでに何人かそういう人を見かけたが、皆一様に苦しんでいるように見えた。その点、槐多は途方もない生命エネルギーの向ける先を持っていた。

代表作、裸の僧侶が小便する『尿する裸僧』はどうだ。陰茎からおびただしい量のガランスが溢れ出ているではないか。それでも放出しきれないガランスがオーラとなって体中から放たれている。この過剰なエネルギー。しかし不思議なことにこれほど個の熱量が向けられた絵であっても、全く暑苦しくはない。

若い情熱のたぎりであっても、槐多の絵には不思議なことに若さゆえの屈折したネガティブさがない。槐多のエネルギーに圧倒されつつ、ゲストの美術史家、村松和明氏は槐多のこんな言葉を紹介した。「日本中の幸福の絵を描きたい」。この言葉によろめくような感動を覚えた。そうだったのか。槐多は自身のはち切れんばかりのエネルギーを放出するために描いていたのではなかったのだ!!

槐多はきっとモテた人であったろう。自身は報われぬ恋にのたうち回ったにせよ、知らぬところできっと大勢の人に愛されていたであろう。彼の絵であり詩からは激烈でありながら、上品で得も言われぬ愛嬌がある。過剰でやかましい人であったろうけど、きっと周りの人に愛されていたのではなかったろうか。

吉村芳生 超絶技巧を超えて 感想

『吉村芳生 超絶技巧を超えて』美術館「えき」KYOTO 2019年6月2日

結局、最後まで吉村さんはなんで描いてるのか分からなかった。当たり前だけど。吉村さんは実物を見て描くのではなく、わざわざ写真に撮ったものを描く。自分というものを放っぽって数学的に、機械的に描く。だから吉村さんの意図とか感情が見えないのはそれでいい。多分。

吉村さんは自画像を描く。新聞紙上に描く。ある年には365枚描いた。パリ留学の時にはパリに居るのに部屋に籠ってパリの新聞紙に自画像だけを描き続けた。展覧会ではその自画像の山が辺り一面に貼り出され、たくさん居る吉村さんに僕たちは囲まれる。吉村さんの居ないところで一人ぼっちの吉村さんが描いたたくさんの自画像にたくさんの人々が感嘆の声を上げる。ここでは一人ではなくたくさんの人々に囲まれる吉村さん。なんか意味分からない。

毎日の新聞紙面。その日の一面に掲載されたその日一番のニュースを背景に描かれた自画像。つまり吉村さんのインスタグラム。今たくさんの人々が`いいね´を押す矛盾。自分というものを放っぽって描くことに執念を燃やしたクセに自画像ばかりを描く矛盾。本当に分からない。

吉村さんが次に選んだのは色鉛筆による表現。ん?表現?吉村さんが表現したかったのかはさておき、観ている人々は一様に驚きの声。わぁ!写真みたい!でもどうかな。写真とは違う。

変な違和感。素直に写真とは言えない得も言われなさ。吉村さんも感じていたのか色鉛筆画には色々な試行錯誤の後が見える。なんか違うなー、なんか違うなーって。鉛筆画の変態としか言えないような細かな作業に比べればやはり物足りなかったのでしょうか。わざわざ写真みたいに描いた色鉛筆画にダメージを付けるなんて。やっぱり吉村さんは変態です。

表現するというよりむしろ。ある一定の作業量があって、作業がある一定量まで来ないと気持ちが落ち着かない、描いた気にならない感じ。そこにある程度の労働が組み込まれていないと満足出来なかったのでしょうか。

結局、最後まで吉村さんは何をしたかったのか、何を描きたかったのか分からず仕舞い。それはつまり吉村さんのミッションが完遂された証。元々そんなもの分かるべくもないけれど、いつも分かったような気になる僕たちを横目に、そんなものは鼻からないんだとか、そういう表情すら見せない吉村さん。吉村さんは何て言われるのが一番嬉しかったんですか?

 

という感想をその日の内に書いて、今なんとはなしにスマホの写真を見ると、展覧会の出口で撮った、壁に書かれていた吉村さんの言葉がありました。

「退屈だとして切り捨てられる日常のひとこまから、非日常な新鮮味を発掘してみせる。それが芸術の力でしょう。一輪の花に、それを見いだしたいんです」

僕がその日のうちに書いた感想は、これらの言葉に打たれ、成す術もなく崩れ去っていきました。分かったような愚かな感想ではありますが、その日のうちに書いたそれも事実ですから、それはそれとして、赤っ恥を承知でそのままにしておきます。

和泉市『ART GUSH』 感想

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『ART GUSH IZUMI CITY』

 

大阪府和泉市では『ART GUSH(アート・ガッシュ)』なるアート・イベントが2019年3月から実施されていて、泉北高速「和泉中央駅」から久保惣美術館にかけての街のあちこちでウォール・ペインティングが施されています。

和泉市はアートに力を入れている自治体で、市の久保惣美術館にはなんと北斎や写楽、モネやゴッホといった錚々たる作品が所蔵されています。今回の『ART GUSH』なるプロジェクトはその久保惣美術館所蔵の作品の中から30点を、関西ゆかりのクリエイター30組が独自の解釈でリライト(再描画)していくというものです。

オシャレなホーム・ページも立ち上げられていて、市の力の入れようが窺えます。ウォール・ペインティングが施されているのは駅であったり、学校であったり、公園であったり、町会館であったり。こうなると一時的な町おこしではないですね。この街をどういう風にしていきたいのかという哲学がそこにあるような気がします。

ホーム・ページではグーグル・マップと連動して作品の所在が分かるようになっていて、更にその場所の写真も添えられていますから、周りの景色からどこにあるかが判別しやすい。マップ上だけでは分かりにくいですからね。壁画の近くには小さなレリーフとQRコードがありますから、スマホをかざすとその場で詳細を見ることが出来る。そういう部分も見に来る人に優しいというか、インフラ的にも完成度の高いプロジェクトだと思います。てことで早速私も。一応変なとこで几帳面な正確なもんで、作品No.1から順に見て回ることにしました。

そうそう、壁画は№1~№30まであるのですが、それとは別にA,B,Cと立体物が建てられています。先ずはその立体物Cの「宮本武蔵×キャプテン・ハーロック」から。スタート地点は泉北高速「和泉中央駅」です!!

←こちらはバス停にあります。

 

 

 

 

 

←続いて駅を上がった歩道橋にある立体物B。こちらはロダン作「考える人」×「島耕作」。

←こちらはその歩道橋を図書館やイベントホールなどがあるシティプラザへ向かう途中にあります。作品No.1です。

←こちらもその歩道橋沿い。

←階段にはこんなんもございます。

←でもってそのシティプラザには幾つか展示されています。

←そしてシティプラザから桃山学院大学へ向かいますが、その道中にあるのがこちら。

←トンネルの中にもございます。

←ここからちょっと道を外れて、和泉中央駅の裏手。水道局にあるのがこちら。ちょっと遠目ですが。
←拡大するとこんな感じ。

←その向かいの石尾中学校の校舎にも。

←少し離れた のぞみ野自治会館。

←こちらは桃山学院大学へ向かう橋。

←左右それぞれこんな感じですね。

←橋をさらに進んだ橋の下。というか橋の裏。

←桃山学院大学の校舎にもありますね。これは見つけるのに苦労しました。

桃山学院大学の横に宮ノ上公園というのがあるのですが、そこには盛り沢山!ラストスパートといったところでしょうか。じゃんじゃん見つかります。では一気に!

←最後は宮ノ上公園から見える桃山学院大学の校舎に。これが№30です!

とまぁ駆け足で紹介しましたが、これだけ全部みるのに自転車でおよそ2時間といったところでしょうか。ちなみに和泉中央駅ではレンタサイクルがございます。

途中、あれ?どこだ?となることが何度かありましたが、そうは言っても冒頭に申し上げた通り、ホームページを覗けば簡単に見つけることが出来るから、その辺のストレスは全く無いですね。

最後は久保惣美術館。KUBOSOの文字のオブジェが立体物Aです。宮ノ上公園に案内板がありますから、久保惣美術館へは迷わずに行けます。最後にこの美術館に入って元ネタである絵画を観る、というのが本来の流れでしょうか。

ちなみに僕は学生が沢山いる大学の回りや、小さな子ども連れが沢山いる公園で、バシャバシャ写真を撮ってましたから、ちょっと怪しい人物だったかもしれません(笑)。

駅から色々歩いていると、通りかかる人々が絵を指さしたり口々に話していたり。日常の生活の中にアートが存在する。それはとてもいい景色だなと思いました。

京都非公開文化財特別公開~得浄明院、長楽寺など~

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『京都非公開文化財特別公開~得浄明院、長楽寺など~』

 

春の「京都非公開文化財特別公開」が4月26日~5月6日、京都市と京都府宇治市の寺社20ヶ所で実施されました。このうち、「お戒檀巡り」の得浄明院と、改元時にしか公開されない秘仏の本尊「准胝観音(じゅんていかんのん)像」がある長楽寺へ行きました。どちらも円山公園界隈ということで、その辺りには他にもお寺が沢山ありますから、時間を見ながら他にも足を伸ばせるようなプランで出掛けました。

先ず向かったのは得浄明院。ここではこの時期限定で「お戒檀巡り」が出来ます。「お戒檀巡り」というのは、真っ暗闇の本堂地下を右手で壁を伝いながら歩き、途中にある錠前に手を触れることが出来れば、本尊と縁を結び、功徳を授かるというもの。

これ、ちょっとしたアトラクションのようで楽しいです。基本的に人間というのは反時計回りに回るように出来ておりまして、運動会や陸上競技場を思い浮かべてもらうと分かり易いと思いますが、要するに心臓を守るように、左胸が内側に来るようにぐるりと回るのが自然なんです。ところがこの「お戒檀巡り」は時計回り、右回りに進むのです。

恐らくこの時計回りというのが肝で、これが不安感を煽るわけです。しかも真っ暗闇、本当に真っ暗ですから、私は友人と計4名で行ったのですが、皆で静かにワイワイ言いながらでなかなかの盛り上がり。ちなみに私は錠前に触れなくてもう一周しました(笑)。

ここは「一初(←アヤメのことです)」も沢山見られるはずでしたが、私が行ったこの日は残念ながら満開とはいきませんでした。

ところで得浄明院に着いたのは朝10時ぐらいでしたが、何故かあまり人はいませんでした。沢山の人で「お戒檀巡り」は出来ないんじゃないかと少し心配していたので、ちょっと肩透かし。てことで行くなら朝が狙い目ですね。

得浄明院を南下し次に向かうは長楽寺。得浄明院周辺はいかにも京都な住宅地でほとんど人もいませんでしたが、そこから長楽寺へは円山公園を抜けていく道ですから、歩いているだけでも観光気分がグッと増します。長楽寺は途中、東へ折れ、石の階段を登った先にあります。おっと、結構行列。10分ほど並んだでしょうか。漸く本堂へ入れました。

そんなに大きくない本堂の中に入ると沢山の人だかり。ここの「准胝観音像」は今回の20ヶ所ある特別公開の中でも目玉のひとつですからね。なんせ30年ぶりのご開帳ですよ!

そういや最初に訪れた得浄明院もそうでしたが、学芸員らしき若い女性が文化財の説明をしてくれるんですね。これはなかなか良いサービス。勿論ある程度は調べて行ったのですが、こうやってその場で説明をしてくれると尚更理解が深まります。

そして遂に「准胝観音像」の正面へ。うわ~、やっぱ素晴らしい~。気品がありますねぇ~。失礼ながらお顔の大きさ、胴体のバランス、何本もある腕の太さ、これらがちょうどいいんです。太からず、細からず、中庸の美とでも言いますか、これは見事なプロポーション、いつまでも見ていられます。

ところでこちらの「准胝観音像」。天井からぶら下がった紐みたいなのが「准胝観音像」の頭上辺りに繋がってるんです。何故だろうこれはと私なりに考えたところによると、はは~ん、これは准胝観音様がもう疲れた、ちょっと休憩って時にクイッと引っ張ってバタンッ!と閉めるわけやな。てことで皆さん見に行くのなら午前中に(←あくまでも私の妄想です)。

ここの本堂には「布袋尊像」もおわします。なんでも鎌倉初期に三国の土(インド、中国、日本だそうです)をもって造られたらしく、日本全土に祀られている布袋の模範像とのこと。またこの像は泥像(土をこねたままで焼いていない)であって、今日まで保存されているというなんとも珍しい布袋様でございます。

春の京都非公開文化財特別公開、私たちが行ったのは得浄明院と長楽寺の二寺のみ。ま、あちこちに散らばっていますからね。てことで次に向かったのは六道珍皇寺。特別公開とは関係なく単に行きたかったのです。目当てはアレですアレ、小野篁(おののたかむら)が地獄へ行ったり来たりしたという井戸、冥界の出入口です。

とその前に、折角なので途中にある建仁寺にも入りました。流石に広いです、綺麗です。心なしか寂れた長楽寺との落差がスゴイです。大身代!って感じです。しかしここは涼しいですね。風がよく通ります。そのへんも考えて建てられているのでしょうか。

法堂の天井には平成14年(2002)に建仁寺創建800年を記念して、日本画家の小泉淳作画伯が約2年の歳月をかけて取り組んだという壮大な「双龍図」があります。これはなかなかの迫力ですね。天井が高いですから、正に龍に天空から見下ろされているような気分と言いますか、この絵もこの先何百年と引き継がれていくのでしょう。

そして六道珍皇寺。建仁寺の境内に案内図が立ってましたから、そのまま難なく進めます。六道珍皇寺の六道とは、仏教の教義でいう地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道(人間)・天道の六種の冥界ですね。この六道の分岐点がこの六道珍皇寺。いわゆるこの世とあの世の境の辻、六道の辻、冥界への出入口がここの境内にあるという訳です。

ま、言い伝えですけど、やっぱこういうのを見る時はこっちもその気にならないとね。ほうほう、これが冥界への出入口かぁと、気分を盛り上げて向かうべし!私たちはちょっと外で待ってるわとここの境内には入って来なかった友人の名前を呼んだりして遊んでしまいました。しかしそれにしても深い!何処まで続いてるのやら。呼びかけて返事がした日にゃ、恐ろしや~。

私が行ったのは改元10連休の後半、気温がグイグイ上がった時期でしたが、それでもまだ5月、お寺巡りには持ってこいの陽気でした。

私は割と一人でもフラフラ~っとお寺巡りをするのですが、こうやって気心知れた仲間とあーだこーだ言いながら散策するのもいいですね。仏像が好きなもんで一人で出掛けるときは仏像ばっか見て回ってしまいますが、お寺には他にも色々とあるわけですから、皆と行くとそーゆーのも見れて良かったです。私の趣味に付き合ってくれた皆さん、どーもです!

あとお昼時にカレーが食べたいなんて言って、グーグルに呼びかけたらいくつか候補が出てきて、そのまま近くの美味しそうな店に入ったりなんかして、なんかCMみたいだなと、改めてスマホはスゲーと思った次第。

フェルメール展 大阪市立美術館 感想

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フェルメール展 大阪市立美術館 感想

 

天王寺にある大阪市立美術館で2019年2月16日から5月12日の間に開催されるフェルメール展へ行きました。私が行ったのは平日、雨の日の訪問です。実は十数年に同じく大阪市立美術館で行われたフェルメール展でなんと4時間待ち!というのを経験しておりまして(その時は諦めてそそくさと帰りました…)、もうすぐ春休みで学生さんも増えるだろうし、行くなら今のうちだなと。ちょうど行く予定にしていた日が雨の予報。こ、これはまさしく神のご加護!客足も鈍るだろうと勇んで参りました。

着いたのは9時半オープンの20分ほど前でしょうか。予想通り、既に並んでいる方が沢山いらっしゃいます。といっても100名もいなかったんじゃないかな。傘をさして並びつつ、ほぼオープンと同時に中に入ることが出来ました。

今回のフェルメール展は6章仕立てになっています。第1章は「オランダ人との出会い:肖像画」。2章は「遠い昔の物語:神話画と宗教画」。3章は「戸外の画家たち:風景画」。4章は「命なきものの美:静物画」。5章は「日々の生活:風俗画」。そして最後の6章が「光と影:フェルメール」となっています。大阪会場で展示されているフェルメールは6点。主催者には申し訳ないのですが、4時間待ちの記憶が頭から離れない私は真っ先に第6章の部屋へ向かい、フェルメールの作品から観ることにしました。

先ず現れるのは「マルタとマリアの家のキリスト」。初期の作品で宗教画です。サイズも結構大きいです。まだ我々がよく知っているフェルメールぽさは無いのですが、色使いはフェルメールですね。上に黄色、左下に赤、右下に青と三角形に配色されたコントラストが美しいです。

同じ部屋にある「取り持ち女」。これも見どころは色ですね。男が持つコインがキャンバスの中心にあって、登場人物の視線もそこに集まっている。そしてそのコインを中心にこれも赤、黄色、青が三角形に配置されています。

フェルメール作品で最も有名な登場人物はあの青いターバンの「真珠の耳飾りの少女」ですが、次いで有名なのは「手紙を書く女」や「リュートを調弦する女」の黄色い衣装の女性ではないでしょうか。今回「真珠の~」は来日していないのですが、今述べた黄色い衣装の女性の2作品は展示されています。私が印象に残ったのは「リュートをを調弦する女」ですね。観てると女性の衣装の黄色と左の窓から射す光が薄ぼんやりと描かれているのですが、画面の右半分はほぼ暗い状態、影になっています。光の状態だけに主眼が置かれているんですね。だからか女性の衣装も淡い黄色。光と影はフェルメールの代名詞ですが、この作品はそれに特化したような作品で、ある意味フェルメール自身も試していたのかもしれない。そんな印象を受ける作品でした。

部屋の手前からまるで中を覗き込むように描かれていて、中が明るい「恋文」もいいですね。登場人物は二人の女性。主人とお手伝いでしょうか。主人が腰かけて手紙を持ち、お手伝いに不安げな表情を見せている。それに対しお手伝いは笑っています。女主人「この手紙、どういう意味かしら?」。お手伝い「いい知らせじゃない?」。女主人「そうかしら(まだ不安げ)」。そんな会話が聞こえてきます(笑)。

そうですね。フェルメールの絵は動きが見えるんですね。前後の動きが。生命を感じる、動作を感じます。ほら、あの「真珠の~」だって目が訴えてるでしょ(笑)。やっぱり生命を感じる訳です。だから登場人物が2人以上いたら会話が聞こえてくるし、想像力をかき立てるんですね。これはやっぱり優れた絵画の条件の一つではないでしょうか。そういう意味では「手紙を書く婦人と召し使い」もその典型。女主人と召し使いの‘それ以上でもそれ以下でもない’関係が如実に表れていて、もの凄く面白い。二人の心の声が聞こえてきそうな距離感です。

フェルメールの作品を堪能した後は、順路とは逆に辿って観覧しました。こうして観ると、フェルメールの偉大さが分かりますね。1章から5章はフェルメールより4、50年ほど前の時代。フェルメールに影響を与えたであろう作品が並びますが、もう全然違いますね。バイアスが掛かっているのかもしれないですけど、デッサン、配色、構成、要するに画力が全然違う。残念ながら生きている間は評価が芳しくなかったようですが、こうして並べてみるとフェルメールの絵はもう圧倒的というか見事に生きた絵。単に描写が写実的というのではなく、心象風景がザワザワと立ち上がってくるのです。

大阪市立美術館に赴いたのは今回で2度目です。ここは展示数も恐らく意図的に抑えてるのでしょうか、ゆったり観れるのがいいですね。壁面は濃紺のイメージでカーテンも濃紺。ちゃんとフェルメール仕立てです。休日にはどのぐらいの人手になるのか分かりませんが、なにしろオープン初日には700人が行列をなしたということですから、やはり可能であれば平日がいいですね。それも雨の日!雨の日がお薦めです。雨の日のフェルメール、、、なんかいい響きです。

お正月の仏像巡り~広隆寺から東寺へ~

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お正月の仏像巡り~広隆寺から東寺へ~

1月3日、仏様に会いに京都へ参りました。参拝したのは太秦にある広隆寺。お目当ては日本一美しい仏像と言われ、国宝第一号でもある弥勒菩薩半跏思惟像と京都駅を少しばかり西へ歩いた東寺にある空海の曼陀羅を再現した立体曼陀羅です。お正月も3日目ということで、人手もボチボチとちょうどよく、天候にも恵まれとてもよい1日を過ごすことが出来ました。

広隆寺へはJRでも行けるのですが、せっかくなので嵐電で。私は十数年前、西院辺りに住んでいたことがありまして当時何度か利用していたのですが、道路を走ったり住宅地を抜けていく電車はなんとも言えない風情がありますね。生活感があって素敵です。

広隆寺は思ったより人が少なかったですね。1時間ぐらい滞在していたのですが、参拝客は20名ほどでしょうか。人が少なくガチャガチャしてなくて、静かなお正月って感じが心地よかったです。

お目当ての弥勒菩薩半跏思惟像は新霊宝殿に安置されております。入り口には係りの方がいらっしゃって、そうそう、当たり前のことですがお寺ですから境内には僧侶だけでなく、ここで働いている方が何人かいらっしゃいます。だからお務めって言うんですかね、境内は落ち葉ひとつなく綺麗なんです。こういうお正月であっても普段と変わらないお寺の日常感には心が洗われますね。

新霊宝殿は想像以上に広くて魅力的な仏像が数多く並んでいます。中は薄暗いので最初はちょっと見えにくいのですが、目が慣れてくると暗いことは全く気にならなくて、かえってその微妙な暗さ加減が厳かな雰囲気を出していました。

弥勒菩薩半跏思惟像はその中央奥におわします。繊細なイメージを持っていたのですが思ったより大きかったですね。座った姿勢の高さは84.2cmだそうで標準的な日本人とさほど変わらないのですが、見た感じはもっと大きいです。流石と言いますか、迫力がありますね。

弥勒菩薩半跏思惟像の前は畳敷きの小上がりになっているので、そこに座って弥勒菩薩さんをじっくりと眺めることが出来ます。この日は人手がポツポツだったので、僕はしばらくの間座っていましたが、普段はこうはいかないんでしょうね。

で弥勒菩薩さん。実物を見て印象に残ったのはスタイルですね。なんとも上品な佇まいで、胴体もすごくスマート。でも細さを感じなくてちゃんと内臓を感じられる。でもやっぱり細い。でまぁ考えるとですよ、やはり呼吸が細いんでしょう。それに菩薩様は食生活も質素ですから、我々みたいに馬鹿忙しく内臓が立ち働く必要はない訳です。だから内臓も必要最小限しか活動しない。てことで全体のサイズに比べて胴体がスマートなんだと。あぁなるほどなと。僕は小上がりに座ってそんなことを想像しながら一人頷いておりました。

新霊宝殿には他にも魅力的な仏様が沢山いらっしゃいます。印象的だったのを幾つか挙げると、先ずは聖観音立像。失礼ながら、こちらに向けて下に下ろしている掌が艶かしいんですよね。そう考えると衣装も胸元の辺りが2つの円を描いているようでセクシー。てことで僕は勝手にこのお方はエロスなんだと。我々しもじものいやらしい煩悩を始末してくださるエロス仏なのではないかと。そんなことを思いフムフムと一人悦に入っておりました。

あと吉祥天立像。こちらは女性です。毘沙門天の奥様だそうです。吉祥天立像は3体並んでおりまして、僕のイメージでは向かって左がちゃんとした格好をなさっているのでお務め時の吉祥天さん。まん中がラフな格好なので普段着の吉祥天さん。右端が胸元がちょっと開いたお衣装なのでドレスコードかな、よそ行きの吉祥天さんですね。

新霊宝殿を出るとポカポカ陽気。ちょうどお昼過ぎなので、太秦広隆寺駅にある麺処でお正月らしく力うどんをいただきました。年末年始を家人の実家である愛知県で過ごしたので、あぁやっぱ関西風のお出汁はええなぁと舌鼓を打ちつつ、その後は西へ10分程歩きJR太秦駅へ。東寺に向かうべく京都駅まで行きました。しかしJRの車内は凄い人でしたね。外国の方も多くて、行きの嵐電とは大違い。京都駅から歩いて15分程の東寺も結構人がいて、広隆寺界隈との落差を感じました。

東寺ではお正月の三が日のみ、五重塔の四面の扉が開帳されていて中の四仏坐像を見ることができました。金堂では薬師如来と両サイドに日光菩薩と月光菩薩。薬師如来の台座の下には十二神将がぐるりと配されています。

てことで十二神将はサイズがかなり小さいんですね。つまりは想像すると十二神将はサイズが自由自在なんじゃないかと。ほら確かウルトラマンだって怪獣相手だとでっかいけど、相手に応じて小さくなれたはず。十二神将もあれと同じで、戦う相手や場所に応じて体長を変えられるということではないかと。そーかそーかなるほどね、戦う神さんだからそりゃそーだよねと、一人納得して講堂へ向かいました。

そしていよいよ講堂の立体曼陀羅。これも思っていたより大きくて迫力満点でした。なんといっても如来像5体(五智如来)、菩薩像5体、明王像5体、天部2体、四天王像4体の計21体ってことですから、仏像好きにはたまりませんな。立体ですから角度を変えないと見えない仏様もいて、あっちから眺めこっちから眺めと、多種多様な仏様を拝見出来るんですから、食べ物で例えると蟹とかフグとか焼き肉とかが一つのテーブルに並んだ満漢全席と言いますか、贅の限りを尽くした立体曼陀羅といった感じでしょうか。

ですので人それぞれ、好みに応じて見所満載でして、僕が最初に見入ったのは入ってすぐの梵天。チケット売り場でもらえる栞の表紙にもなっています。なんつっても4匹のガチョウの上に単座されてる姿がいいじゃないですか。想像力がスパークしてますよね。用事がある時は梵天さん、「行けっ、ガチョウ」なんつって、この4匹のガチョウが羽ばたくんでしょうなぁ。くぅ~、飛ぶとこ見たいぜぇ。

立体曼陀羅の中心部は5体の如来様がおわします。如来様ですから華美な装飾はないのですが、それでもそれぞれに個性があってじっくり見比べるのもよいです。しかしまぁ悟りを開かれた如来様ですから5体とも静かで落ち着いた佇まいですね。やっぱ如来様はちゃうなぁ。

その隣は明王様たち。先ずは隆三世明王、カッコええ。胸の前で組んだ印て言うんですか、指どうなってんねんっていう。この魔術を使いそうな指の絡ませ方と足を踏み出したポーズがいかにも戦いまっせという感じでカッコいいです。

あと不動明王。不動明王は大体どこで見ても光背が赤く色付けされていて、なんか特別感が出ております。よう分からんけど怒ってはんねんなと。学校にもいたでしょ怖い先生。ま、仏像界でもそういうポジションなんでしょうな。

天部では梵天と並び称される帝釈天。流石、仏像界No.1と言われるイケメン。キリリとして男前ですな。象の上で半跏思惟の座り方です。象がどういう意味を持つのか分かりませんが、片足を組む半跏思惟の姿勢ですよ。ハイ、最後に戻りましたね、足を組んで思索にふける半跏思惟像に。そーです、最初に見た広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と同じ座り方です。こりゃなんか今年はよーく考えて行動しなさいよってことでしょうか、弥勒菩薩様。

午前に広隆寺を訪れ、昼食を挟み午後からは東寺へ。時間的にも余裕もあり、我ながらなかなかよいチョイスではないかなと。もうちょい駆け足で行けばもう一件ぐらいお寺を回れたかもしれませんが、あんまり急いでもねぇ。折角の仏像巡りですから、ゆったり見て回るには広隆寺~東寺はちょうどよいルートではないでしょうか。

旅のおまけ:

帰りに京都駅で食パンを買いました。京都駅近鉄名店街にある「ORENO PAN」(←俺のフレンチとは関係なしです)。名物は柚子ピール食パンらしいのですが家人がピール系は好みではないので、普通の食パンを買いました。4枚切り。モチモチしてかなり美味しかったです。また京都駅に行ったら多分買いますなこりゃ。

荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋 in 大阪 感想

『荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋』in 大阪 感想


大阪は天保山、大阪文化館で開催中の『荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋』へ行きました。ジョジョと言っても僕は第5部までしか読んでないので、いっぱしのジョジョラーとは言えない半端者なのですが、いやいや半端者こそジョジョラー、こりゃ行かにゃならんだろと。大阪での開催は2018年11月25日~2019年1月14日なので、グズグズしてると学生さんたちが冬休みに入ってしまう。たださえ混んでそうなので、慌てて行くことにしました。

行って思ったこと。想像以上のボリュームでした。大阪文化館には行ったことがなかったのですが、海遊館の横だしどうせ小ぢんまりした会場での小ぢんまりした展覧会だろうと高を括っていたら意外や意外。見どころ満載で、そんなにゆっくり観ていた覚えはないのですが全部観るのに2時間以上はかかりました。素直に行って良かったです。

とにかく原画がいっぱい置いてあって、荒木先生は原画展なのでライブ感を楽しんで欲しいと仰ってましたが、実にその通り。例えばジャンプ掲載時の原画には下描きが透けて見えてそのまま。僕は漫画の世界に疎いのでよく分かりませんが、薄い青の色鉛筆のようなもので、下描きをしていて(青だと印刷時に写らないからかな?)、そのラフな幾つかの線が躍動感を醸し出していて、で近づいて見ると結構修正液で修正してるんですね。これがかえってリアリティーを出していて、やっぱり躍動感、絵が生まれていく生々しさが表れていました。

展示の流れも良かったですね。導入部があって、ジャンプ掲載時の原画があって、カラー原画があって。ジョジョ漫画の論理的な解説もあり、最後にクライマックスというかドカンと縦2メートルぐらいの描き下ろしカラー原画が部屋を囲むようになんと12枚!!流石偉大な漫画家というか、起承転結がちゃんとあって飽きさせない趣向が凝らされているなと。荒木先生が今回はベスト・オブ・ベストを出したと語っていたようにホントにずっしりとしたボリュームの展覧会でした。

で今言ったように始めに導入部があって、そこで先ず我々は「ドドドド~、ジョジョ展に来たぜぇ~」てテンションが上がるわけですが、色んなパターンの原画を観て最終的には「荒木先生スゲェ!」ってなる。恐らく多少なりとも絵が好きな人であれば、ジョジョ自体を知らなくても圧倒的な画力にひれ伏してしまう。やっぱ荒木先生の絵の力は相当なものなんだと。色彩感覚は相当なものなんだと。そこは改めて思いましたね。

だからジョジョの世界というか、ここはもう荒木先生の世界と言うべきでしょうね。大衆漫画ですから面白くてナンボなんですが、そういうコマーシャルな部分よりもむしろ作家性がバーンッ!と来る。石の塊みたいな物量でゴゴゴ~ッとこれが荒木・ザ・ワールドッ!みたいに来る。荒木飛呂彦という作家の個性が全面に表れていて、でもこれ、実は作家として当たり前のことですよね。僕は詩が好きですから詩人で例えますが、茨木のり子さんにしても吉増剛三さんにしてもその言葉は圧倒的に茨木さんで圧倒的に吉増さんですから、そこは僕個人としても凄く刺激になりました。

あと、さっきも言ったように下描きなんかの展示もありますから、創作の一端が垣間見える部分もありまして、そこは非常に興味深かったです。有料ですが荒木先生の音声ガイドもあり、裏話も聞けたりするのでなかなか面白いです。ガイドの中身はネタバレになるから書きませんが(笑)。

とにかく初めから最後までジョジョ、ジョジョ、ジョジョ。ジョジョ展なんで当たり前ですが、僕としてはジョジョ展というより荒木飛呂彦という一人のアーティストの絵画展という印象を強く持ちました。単純ながら「オレも絵を描きてー!」と思わせるような圧倒的な波紋のエネルギーというか刺激を与えてくれる展覧会で、荒木先生がライブ感を楽しんで欲しいって言ってたのはそういうことだったのかもしれないですね。人に何かしらの意欲をかき立たせる、触発させるっていうのは優れたアートの一つ条件ではないかなと。そこは改めて感じました。