ウルフルズの凄いテクニック

その他雑感:

『ウルフルズの凄いテクニック』

 

カーラジオからウルフルズの歌が流れてきた。普通にいい歌だなあなんてと聴いてると、いつものようにサビで大阪弁になった。ちょっと具体的な歌詞は忘れたけど、語尾が「~へん」とか「やねん」みたいな単純なものだったような気がする。大阪弁なんて言っても今や日本中に溶け込んでいるので別にどうってことないんだけど、これが曲に紛れ込むとなると話は別。いつもウルフルズの曲をスーッと流してしまっているけど、ちょっと待って。実はこれって大したことなんじゃないか。

僕が子供の頃の関西弁の歌といえば、やしきたかじんとかボロとか上田正樹とか。もうローカル色まる出し(笑)。しかも大阪の夜の町というか場末の酒場しか思い浮かばねえみたいな。歌ってる方もハナからそっちしか向いてねえみたいな。いい悪いは別にして、聴く方も歌う方も、開かれた歌というよりは閉じた世界、聴き手を選ぶ限定された歌だったように思う。

ところがウルフルズ。彼らの歌は非常にオープンで聴き手を選ばない。僕も詩を書いたりするので時折喋り口調が欲しい時は地言葉を用いる場合があるが、それ以外は何故かいつも標準語で書いている。創作の過程で口に出すときがあっても何故かいつも標準語(←なんか変な人みたいやな(笑))で、イントネーションすら大阪弁にはならないというかなれないというか。そうしちゃうとなんか意図したものと違ってしまって、詩を書く時には感じたこととか浮かんだことをなるべく原形を損なわずに言葉に変換したいのだけど、心に浮かんだこと自体が方言を纏う以前の状態だからなのか、それが表に出てくるときには何故か自分が普段用いている大阪弁として言葉は現れてこない。不思議だけどそれはそういうものなのだ。

要するにぼんやりとした心に浮かんだものを言葉に変換する行為は、普通に喋ることとは全く別物だということなのかもしれないけど、それをするりとやってのけるウルフルズは、というかトータス松本はちょっと他に見当たらない稀有な存在なんじゃないかと。これだけ方言丸出しのウルフルズがMステで普通に座っている事の違和感の無さ。北海道から沖縄まで何の制約も無し普通に親しまれている事実は特筆すべきことではないかと。

詩人が書きたいと思うことを仮にポエジーと呼ぶなら、詩人はそのポエジーを出来るだけそっくりそのまま言葉に変換したいはず。ならば当然普段自分が使っている言葉で表現する方が近いに決まっている。なのにそうとはならない。ならないということは遠いことを意味するのではないのか。いやそれとこれとは全くの別物なのか。

トータスのやってることってあまり語られたことがないようだけど、実は凄いことだと思う。僕はトータスにあって直にこの事を聞いてみたい。彼は恐らく、このことに自覚的だ。

Wonder Future/アジアン・カンフー・ジェネレーション 感想レビュー

邦楽レビュー:

『Wonder Future』 (2015)  Asian Kung-Fu Generation
(ワンダー・フューチャー/アジアン・カンフー・ジェネレーション)

 

元々買う気は無かったんだけど、『復活祭』と『スタンダード』がやたらカッコよかったもんで、久しぶりにアジカンのアルバムを購入した。やっぱデビューして10年以上もたつと手癖というか、その人独特の言い回しが身に付いてしまう。アジカンもどうしても後藤正文節というのがあって、ありがちなメロディ、ありがちな言葉についつい目が行ってしまう。カッコいいなと思いつつ、結局買わずにいたのはそんなところに理由があったりするのだけど、この2曲はそういう部分を越えた先の表現が存在している気がした。

本作は米国、デイブ・クロールのスタジオで録音されている。今の子供たちに8ビートのロックンロールを届けたい。そんな気分になったということで全編に渡って勢いあるサウンド。アジカン史上、最も洋楽に接近したアルバムと言えよう。これまでのアルバム全部聴いたわけじゃないけどね。

で、この意気込みは大成功。取って付けた感は全くない、芯からぶっ放すロックンロールだ。その中でも冒頭に述べた2曲が突出しているのだけど、じゃあ他のはどうかってなるとちょっと物足りない感じがしないでもない。折角だし、もっと無茶苦茶になっててもよかったんじゃないかなと。そこがちょっと残念かな。でもまあこんなのやろうと思ってもなかなか出来るもんじゃないし、これが彼らの底力。キャリアから見てもこれまでの経路からは少し外れた異質なアルバムになっているんじゃないだろうか。

それとやっぱり嬉しいのは、彼らの目線が常に外を向いているということ。単純にサウンドという意味だけじゃなく、ドメスティックな域にとどまらない意識の開かれ方は流石である。

ジャパニーズ・ギターロックは掃いて捨てる程あるけど、言葉への向かい方とか、サウンドの鳴りとか、なんだかんだ言ってもやはりアジカン。こうやって改めて聴くとつくづく思いました。今もすべてにおいてトップランナーであるのは間違いない。これが若い子に届くといいけどなぁ。

 

1. Easter/復活祭
2. Little Lennon/小さなレノン
3. Winner and Loser/勝者と敗者
4. Caterpillar/芋虫
5. Eternal Sunshine/永遠の陽光
6. Planet of the Apes/猿の惑星
7. Standard/スタンダード
8. Wonder Future/ワンダーフューチャー
9. Prisoner in a Frame/額の中の囚人
10. Signal on the Street/街頭のシグナル
11. Opera Glasses/オペラグラス

フェイクワールドワンダーランド/きのこ帝国 感想レビュー

邦楽レビュー:

『フェイクワールドワンダーランド』(2014) きのこ帝国

 

僕が邦楽を聴くときの一番のキーになるのはやはり言葉だ。歌われる内容もそうだけど、それよりなにより言葉とメロディの関係についつい目が行ってしまう。この言葉とメロディの関係というのは、時代を経てどんどん研ぎ澄まされていて、10年前、20年前、もっと前からと比べると、格段によくなっているのはほぼ間違いない。逆に言えば、言葉がオリジナリティを生み出すと言っていいんじゃないだろうか。

このきのこ帝国の2枚目のアルバムも言葉のアルバムだ。確かにキャッチーなメロディではあるんだけど、言葉がメロディを紡いでいるような感覚がある。しかしそこに言葉の音楽化、あるいは日本語とロックの永遠の課題、といったような堅苦しさはない。日本語とメロディが仲良しの状態で出てくるような違和感のなさ。新しい世代にとって、日本語でロックをやるということは、もうそういうことなのかもしれない。勿論、東京を「とーきょー」と言わずに「とうきょー」と唄うソングライターの佐藤はそこのところに自覚的だ。加えて彼女は言葉を的確にフックさせる体内時計を持っている。これはもう天性のもの。

詩の内容の方は割と深刻。そりゃそうだ。10代、20代というのは深刻なものだ。時々若い頃を振り返って、あの頃はよかったなどど言う人がいるが、多分その人はあの頃の事を忘れてしまったのだろう。

アルバム全体で見ると、一番最後に一番ポップなナンバーを持ってくるところが〇。結局、詩が暗いと言われようが根はポジティブ。ロックだもの。そうこなくっちゃ。サウンドもアイデアに満ち溢れているし、日本のロックだって凄い。

#2で350mlの缶ビールを「スリー・ファイブ・オー・エム・エルの缶ビール」と歌ったり、#4の「夜 未来 永い 怖い 夢見る 終わり」で始まるバースの締めが「阿呆くせぇ」だったり、#11の「多分ゲームオーバー」と「捨ててしまおうか」の後韻や、「テレパシー」と「オーバードライブ」を引っ付ける、分かるんだか分からないんだかよく分からないけど、何かすごく分かる言語感覚が抜群だ。一方で#9の「みかんを剥く君の手が黄色い~」というくだりの情景描写も素晴らしい。ついでに#4のギター・フレーズがいちいちシビレル!きのこ帝国、かっこいいぞ!

 

1. 東京
2. クロノスタシス
3. ヴァージン・スーサイド
4. You outside my window
5. Unknown Planet
6. あるゆえ
7. 24
8. フェイクワールドワンダーランド
9. ラストデイ
10. 疾走
11. Telepathy/Overdrive

Night Buzz/高田みち子 感想レビュー

邦楽レビュー:

『Night buzz』(2004) 高田みち子

今ちょうど季節は雨。梅雨の季節である。僕が高田みち子さんを知ったのはかれこれ5年以上も前のこと。ちょうどラジオで梅雨の日特集をやっていたのがきっかけだった。僕は一瞬で虜になった。アルバムを探したけど、あったのは4,000円も5,000円もする中古品。もう新品は何処にも無かったんだな。高いのを買うのは癪だから、時々ネットをチェックをしてたんだけど、ようやくお手軽価格を発見。といっても定価よりは若干高めだった。でも新品がもう無い以上ここを逃す手はないと迷わず購入。その時はもう次の年の梅雨の季節になっていた。

僕がこの時ラジオで聴いたのは『雨は優しく』という曲。静かなバラードだ。サビで「雨、雨、雨、、、」とただ繰り返すだけのこの曲がとにかく素晴らしくて胸にじーんと来た。それこそ雨の情景が浮かんで、僕が浮かんだのは部屋の中から見える雨の景色で、外は暗くて粒が見えるくらいに降っている。こういうのを叙情詩というのかな。恋の終わりの歌だからエモーショナルな歌詞なのに、湿っぽくなくてただ淡々と「雨、雨、雨、、、」。雨のクセに湿っぽくならない、というかなれないという感じがまた切なくて。僕はこの時以来、6月になると毎年聴いている。

情景が浮かぶもう一つの要因はサウンドだ。演奏がホントに素晴らしい。バンドのメンバーはかつて山下達郎や坂本龍一らを輩出したという「What is Hip」なるユニットだそうで、折角だからここで名前を挙げておくと、松木恒秀(guitar)、岡沢章(bass)、野力奏一(piano, organ, keyboards)、渡嘉敷祐一(drums, perc)という面々。高田みち子とは何度か一緒に組んでアルバムを作っているようだ。

とにかくいいバンドで、『雨は優しく』では雨の音など一つも入ってないのにホントに雨が降っているような気がしてくるし、『カナリヤ』ではカナリヤが飛び去っていくのが見える。『僕らの樹』ではちゃんと目の前に大きな樹がそびえ立つんだな。歌に静かに寄り添っていて、ホントに素晴らしい演奏だ。

あとこれは僕の好みだけど声がいい。こういうちょっと低くて鼻にかかった声、ほんと大好きだ。『僕らの樹』で聴こえる伸び上がるパートは至福の瞬間です。あ、僕の好みなどどーでもいいか(笑)。とにかく、明瞭で知的、表現豊かで素晴らしいボーカリストだと思います。

新品は無いけど、ダウンロード版はあるみたいで、しかもハイレゾ版もあるそう。ホントいい時代になったもんだ。

 

1. 51st Street, Lexington Avenue
2. chocolate
3. 雨は優しく
4. カナリア
5. Night buzz
6 Don’t Say A Word
7. 春を待ってる
8. Your God
9. 夕暮れと嘘
10. The Tracks Of My Tears
11. 僕らの樹

Fantôme/宇多田ヒカル 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『Fantôme』 (2016) 宇多田ヒカル
(ファントーム/宇多田ヒカル)
 
 
随分久しぶりのアルバム・リリースだそうだ。ラジオで「道」を聴いていいなって思った。でも宇多田ヒカルとは思わなかった。声とか言葉が僕が知っているそれとはちょっと違ってたから。後日タワレコで聴いてやっぱ思った。こりゃ言葉だなと。なんか惹きつけられるものがあった。
 
この数年、プライベートで非常に大きな出来事があったとのこと。一度目に聴いた時、そのことを色濃く感じた。彼女にとってこのアルバムは避けては通れないもの。セラピーの意味もあったのではないか。そんな風に感じたので、僕の試みとしては、ここ数年彼女に降り注いだ出来事は頭から切り離して聴きたい。そんなところにあった。
 
僕は宇多田ヒカルのアルバムを買ったのは今回が初めてだ。聴いてると「あぁ、やっぱお母さんに声が似ているな」とか、意外と回るコブシにも「こりゃ母譲りの情念だな」とかつい思っちゃう。昔テレビで宇多田さんの声は美空ひばりさんの声とおんなじで人が聴いて心地よい周波数が流れてるってのを観たことがある。テレビのことだからホントかどうかは怪しいもんだけど、僕としてもこの人の声をどう捉えたらいいのか今もって分からない。上手いのか、声がいいのか、味があるのか。一体この人の歌声の一番のチャームポイントは何処にあるんだ?僕にとって宇多田ヒカルは好きとも嫌いとも言えないじれったさと言えるかもしれない。
 
今回聴いて発見したことがある。言葉のフックのさせ方が絶妙だなと。これは間違いなくそう言える。多分、カラオケで宇多田さんと同じように歌える人はいないだろう。歌っても気持ちよくなれないだろう。だってそれってカンでしかないから。宇多田さんにはそういう体内時計が仕込まれてるんだな。彼女の壮大な才能の一つかもしれない。そういう意味じゃミラクルひかるはホントにミラクルだ
 
ところでサウンドについてはどうなんだろう。自身によるプロデュースはいつものことなのかどうかは知らないが、彼女は曲を作ってる段階で既に最終的なサウンドが頭の中で鳴っているのだろうか。これが明確な意図を持って作られたサウンドなのか、探りながら行き着いたサウンドなのか僕にはわからない。いつもの宇多田っぽい音なのか、今回がちょっと違っているのか、それも僕には判断がつかない。つかないけれど、サウンドについては、僕にはまだこれが宇多田ヒカルの決定版というところにまでは至っていないような気がする。声や言葉の圧倒的な質量に対して、何か煮え切らない感じがするのは僕だけだろうか。
 
宇多田ヒカルには素人の僕から見ても、彼女自身が扱えないほどの巨大な才能が埋まっている。昔テレビによく出ていた時の早口で変に明るいキャラも、彼女自身が自分自身を持て余していたからなのかもしれない。ただ彼女が今回ここで選択した言葉の落ち着きを見ていると、どうやらその有り余る才能を時の気分に応じてアウトプットする術を少しずつ獲得しつつあるのではないかというような気もする。しかしそのきっかけとなったのが近しい人との別れだったとすれば、これも過剰に詰め込まれたギフト故の業と言え、しかしそうすると私たちはこの素晴らしい作品を手放しで喜ぶべきかどうか。とはいえ、いくらその業が深いからといっても我々はただのリスナーであるべきだし、商業的であるべき。そんなことはお構いなしに音楽として消費すべきだ。
 
その点、このアルバムの立ち位置は面白い。通常、この手の個人的側面の強い作品は聴いていられない。でもどうだろう。このアルバムはひとつもやな感じがしないのだ。僕はこのアルバムを聴くにあたって、ここ数年彼女に起きた事柄とは切り離して聴こうと心がけていた。ところが何度か聴いていると、その必要が全く無いことに気付いた。だって彼女自身がもう他人事なのだから。そりゃ曲を書いてりゃ意図しようがしまいが個人的な断片はどうしても出てくる。しかし、書いてしまえば、録ってしまえば、手元から離れてしまえば、それはもう済んだこと。当然のことながら彼女は音楽を作っているのだ。個人的な体験でさえ一個の作品として昇華してしまえる。彼女はやはりアーティストなのだ。
 
このアルバムのポイントはここではないか。宇多田ヒカルは個人的な出来事でさえ距離を持って眺められるから、このような作品を世に出すことが出来るのだ。加えて言えば、それは作品そのものに対する作家の自負とも言える。逆にこれまではその距離が遠過ぎたのかもしれない。彼女自身、思うように間合いが測れなかったのだ。遠過ぎたからこそ、僕はじれったさを感じていたのかもしれない。しかし明らかに今回は曲と本人が近い。言葉が近くなった。そこに彼女の必然があったから。しかしそれは曲との馴れ合いの関係を示すものではない。あくまでもこれまでと比べて近くなったというに過ぎず、今も多くのミュージシャンとは比較にならないくらい遠い。テレビで歌う彼女を観た時、僕には彼女が自分ではない誰かの物語として歌っているように見えた。彼女はつまらない大人が期待するように涙を流して歌うことはないだろう。

僕たちも馴れ合っちゃいけない。彼女が本心を晒したなんて露にも思っちゃならない。僕らには到底理解できない回路を経由してこのアルバムは生まれたのだ。それがアーティストというもの。そしてそのアーティストとしての矜持がこの作品だ。僕らの時代には宇多田ヒカルがいる。僕らはもう少し自慢していいのではないか。
 
★1. 道
  2. 俺の彼女
  3. 花束を君に
  4. 二時間だけのバカンス
  5. 人魚
☆6. ともだち
  7. 真夏の通り雨
  8. 荒野の狼
☆9. 忘却
 10. 人生最高の日
 11. 桜流し