THE BARN/佐野元春 感想レビュー

 

『THE BARN』(1998)佐野元春

 

1998年頃の佐野は久方ぶりのテレビ出演やCM出演があったり、かつてない程のマスメディアへの露出があった。デビュー以来のパーマネント・バンドであるThe Heartlandを解散し、新たなメンバー(結成当時はInternational Hobo King Band という長い名前だった)と作り上げた1996年の『FRUITS』アルバムは佐野を知らないリスナーにまで届く可能性のある、非常にポップで明度の高い作品であったし、それを受けたツアーもニュートラルで開放感ある素晴らしいものだった。そして前述のテレビメディアへの露出。その後の新しい聴き手をがっちり確保するいわば勝負の時期に佐野は『THE BARN』というアルバムで挑戦してきたのである。しかしそのアルバムは1984年の『VISITORS』同様、誰もが手放しで喜べるものではなかった。

『THE BARN』は60年代70年代の米国フォーク・ロックへのオマージュである。ザ・バンド、ボブ・ディラン、幾多のウッドストック・サウンドへの憧憬を隠すことなく露わにしている。直接ウッドストックへ赴いてのレコーディング合宿。それは言わばハネムーン期を過ぎたThe Hobo King Bandの面々の共通のバックボーンを辿る旅でもあった。

果たしてそれは成功したか否か。作品としては大成功である。素晴らしい名演の数々。新しいフェーズを感じさせるソングライティング。当時流行のダンス音楽とは一線を画す、アナログで且つキレ味鋭いサウンドはどの曲をとっても生々しい手触りに満ちている。しかし新しい聴き手を獲得する勝負の時期としてそれは的確だったか。残念ながら商業的な成功を収めるに至らず、一般向けには相変わらず佐野元春はよく分からない人というイメージを覆すことは出来なかったように思う。

それは作品が素晴らしいだけに、長らく佐野のファンであった僕には非常にもどかしい感覚だった。しかし。このアルバム20周年にあたる2018年には1万円以上もするアナログ盤をメインにした非常に丁寧なボックス・セットが発売された。このことはこの『THE BARN』アルバムに熱い思いを持つ人達が数多くいたことを証明するトピックではなかったか。確かに当時は不特定多数を巻き込むヒットにはならなかった。しかし、ある特定の人達の心には深く強く響いたのだ。

このアルバムは1984年の『VISITORS』と同じく、佐野のキャリアでは特異点と呼べるような作品だ。歌詞、メロディ、サウンド、どれを取ってもこの時にしか成し得ない表現がパッケージされている。中でも印象深いのは歌詞だ。『THE BARN』アルバムを語る際に真っ先に挙げられるのは、ダウン・トゥ・ジ・アースと言われるいなたいサウンドだが、僕にはそれよりも先ず、リリックが強く響いてきた。佐野は時折目の覚めるようなリリックを書くが、このアルバムでは正にそう。佐野は元々情緒を廃した情景描写を行う作家であるが、ここでは普段より更に乾いた情景が非常に細やかに描かれている。

例えば『7日じゃたりない』。
 「話しかけるたびに不思議な気がする/この体中の血がワインに変わりそうさ/あの子のママが言うことはいつも正しい」

例えば『風の手のひらの上』。
 「身繕いをしながら/仕方がないと彼女は言う/疑わしく囁いて/黒いレースのストールを夜に巻きつける」

例えば『誰も気にしちゃいない』。
 「この辺りじゃ誰も気にしちゃいない/庭を荒らされても何も言えない/君を守る軍隊が欲しい」

それだけで現代詩になるリリックが目白押し。これらが佐野元春節とでもいうような独特の譜割で歌われる。

独特といえばメロディもそうだ。Aメロ、Bメロ、サビ、といった基本フォーマットは無視されている。サビがどこにあるのかよく分からない自由なメロディ。このアルバムの曲の大半は現地で書かれたそうだが、そのオープンな環境に触発されたのか、自由で伸びやかなメロディが横溢している。そこにユニークな言葉の載せ方が加わり、僕たちは言葉とメロディの幸福な関係を見る。

当時、佐野はレイド・バックしたなどと揶揄する向きもあったが、20年経った今聴くとどうだろう。未だに鮮度は失われていない。いや、今でもまだ新しい。それはやはり、その場その時でしか成し得ない衝動に佐野が忠実だった証左。世間に何故今これなんだと言われようが、今はこれなんだという自ら肌で感じる時代感覚が成し得た成果ではないだろうか。『THE BARN』は『VISITORS』と並ぶ異形のアルバムと言って差し支えないだろう。

 

Tracklist:
1. 逃亡アルマジロのテーマ
2. ヤング・フォーエバー
3. 7日じゃたりない
4. マナサス
5. ヘイ・ラ・ラ
6. 風の手のひらの上
7. ドクター
8. どこにでもいる娘
9. 誰も気にしちゃいない
10. ドライブ
11. ロックンロール・ハート
12. ズッキーニ-ホーボーキングの夢

Sones & Eggs/佐野元春 感想レビュー

Sones & Eggs(1999年)/佐野元春

 

2000年はちょうど佐野のデビュー20周年で、アニバーサリー・ツアーを行ったりベスト・アルバムを2枚出したりと、それっぽい活動を盛んにしていた時期だ。20周年だから新しいアルバムをリリースしてファンの皆に喜んでもらおうという佐野らしからぬ理由で作られたこのアルバムは、正直言うと焦点がいまひとつ絞り切れていない。やはり佐野は作りたい時に作るべき人なんだよなぁと思ったりもするが、この頃は単に佐野自身の創作活動としてもあまり明確なビジョンを持てなかった時期だったのかもしれない。

このアルバムで佐野がチャレンジャブルだったのは楽曲そのものというより、創作方法というプロセスだ。元々佐野は日本全体で5番目という速さで自身のサイトを立ち上げた程のコンピューター・フリーク。80年代中盤から行っていたスポークン・ワーズにおいても、自身がコンピューターで作り上げたトラックに乗せて詩を朗読している。この時の佐野はその表現方法をメインの創作、ポップ・ソングの領域へと押し広げてみようとしたのだろうか。というより単に一度は取り組んでみたかったアイデアだったのかもしれないが、そういう意味では、当時のバック・バンドであるザ・ホーボー・キング・バンドと共にウッドストックまで出向き徹底的にバンド・サウンドにこだわった『The Barn』(1998年)の後というのはちょうどよいタイミングだったのかもしれない。

しかし結果的に言えば、そのトライアルは上手くいかなかった。佐野はサウンドをよく乗り物に例える。フォークであろうがロックンロールであろうがヒップホップであろうが何でもいい。言葉とメロディーを上手く乗せてくれる乗り物であれば何でもいいと。結局、この時の一人での打ち込みサウンドは佐野のソングライティングを受け止めるだけの乗り物にはなり得なかった。佐野自身も一人で作っても面白くなかったと後に冗談めかして述懐しているが恐らくそれは本心だろう。

しかし曲そのものに目を向けていけば、質の高い曲が多く収められている。佐野はライブやなんかでよくアレンジを変えて演奏するので、当時の僕はこれらの曲もいずれライブなどで新しくリアレンジしてくれたらなぁなどと思っていたが、実際に後の裏ベスト『Grass』(2000年)やカバー・アルバム『月と専制君主』(2011年)、『自由の岸辺』(2018年)でこのアルバムからの計4曲が再レコーディングされている。

本作を制作するに当たって、佐野は自身の作品のどういう部分をファンが支持してくれたのかというところに立ち返り、ファンの皆が喜んでくれるようなアルバムにしようというファン・フレンドリーな視点で制作している。それは20周年という節目を迎えた佐野のストレートなファンに対する感謝の気持ちの表れであり、キャリアで始めて過去の作品を振り返るという作業を行っている。

従って本アルバムは過去の作品を踏襲したものや、当時国内で勃興していたヒップ・ホップへの再接近などがある。特に冒頭の『GO4』はそのどちらをも意識した作りであるが、音も言葉も中途半端感が否めない。言葉が紋切型だし、前述したとおり音が弱い。残念ながらアルバム最後に据えられた、ドラゴンアッシュのKJとBOTZが手掛けたリミックスの方がよほどカッコいいと思うがどうだろう。

逆に言葉の切れ味が素晴らしいのは同じくヒップ・ホップ的なアプローチの『驚くに値しない』。かつての『ビジターズ』(1984年)の系譜といえるボーカル・スタイルで、ラップでもない歌モノでもないオリジナルの表現が立ち現われている。特に「偽善者たちの群れにグッドラックと言って~」で始まる2番からのリリックは秀逸。

このアルバムは全てを佐野一人で手掛けたわけではなく、曲によっては盟友ザ・ホーボー・キング・バンドが参加。とても素晴らしいバンド・サウンドを聴かせてくれる。そのひとつが『大丈夫、と彼女は言った』。情景を喚起させる丁寧な歌詞とそれを掬い取るバンドの演奏。特にKyonのアコーディオンが最高だ。

もう1曲のホーボー・キング・サウンドが『シーズンズ』。この曲の見せ場は何と言っても最後の1ライン、「さようならと昨日までの君を抱きしめて」とアウトロにかかる「Sha la la …」である。というよりこの部分が全てと言っていいだろう。「さようならと~」のフレーズは曲中に何度か繰り返されるが、最後のそれはそれまでとは全く異なる響きを持つ魔法の言葉となり、そしてそれは佐野の黄金フレーズである「Sha la la …」へと昇華されてゆく。この曲を初めて聴いた時は正直このベタであまりにもストレートな歌詞になんじゃこれと思ってしまったが、先ほど述べた最後のラインとアウトロでそんな気持ちはどこかに飛んで行ってしまった。恐るべし、佐野の「Sha la la …」。

佐野はやはり20周年ということでどうしてもアルバムを作りたかったんだろうと思う。しかし実際にはザ・ホーボー・キング・バンドとの渾身の『The Barn』後の空白のような時期で、次へのビジョンを整理している段階である。しかもこの時期の佐野は声に変調をきたし、上手く声が出せなくなっていた。低音で歌ったりファルセットを多用し、ボーカルにおいても試行錯誤の時期である。

そういう全体的な創作において旺盛な時期ではなかったにもかかわらず、佐野は自身のスタジオに籠り、ファンの皆に喜んでもらいたいと言って一人で新しい表現へのトライアルを続けてくれた。このアルバムはその結実である。何かと凸凹の多いアルバムではあるけれど、今振り返ってみればチャレンジャブルで極めて佐野元春らしいアルバムではないだろうか。

Track List:
1. GO4
2. C’mon
3. 驚くに値しない
4. 君を失いそうさ
5. メッセージ
6. だいじょうぶ、と彼女は言った
7. エンジェル・フライ
8. 石と卵
9. シーズンズ
10. GO4 Impact

自由の岸辺/佐野元春 感想レビュー

 

『自由の岸辺』(2018年)佐野元春

 

僕は割と物持ちのいい方で、幸い体型も若い頃とさほど変わらないから、10年以上前に買ったジーンズを未だに穿いたりしている。流石にデザイン的に古くなったものは処分するが、世間には仕立て直して代々引き継ぐなんてのもあって、まぁそういうものはそれなりの価値があるものだろう。そういえば姉が成人式で着た振袖は母のものを仕立て直したものだし、うちの娘が着た七五三の晴れ着も確か姪っ子のものを仕立て直したものだった。

この『自由の岸辺も』も言ってみればそのようなイメージで、年月を重ねた今の体型にそぐう形に仕立て直されたアルバムだ。したがってカバー・アルバムにありがちな、昔のアレンジはちょっとアレだから今風のサウンドに手直ししましたというのとは異なる。アーシーでより直接性を帯びたサウンドを聴けば、本作が現代の解釈で練り直されたリ・クリエイト・アルバムだというのが分かってもらえるだろう。

芸術とはまだ起きていない事を形にするものだとは誰が言った言葉だったか。優れた作品というものは時代を超える。本作にも今の時代に照らし合わせても、いや年月を経た今だからこそかえって真実味を帯びている曲がある。例えば『メッセージ』。2000年の曲だが、不穏な時代の今にこそよく響く。原曲では快活に「How you going to read this message? (君ならこのメッセージをどう読み取る?)」と歌われる歌詞は、よりテンポを落とした落ち着いたトーンで「本当の君のメッセージ / 本当の君が知りたいだけ」と視点を変え、日本語に変えて歌われている。この視点の入れ替わりは何を意味するのか。それは非寛容な現代における他者への耳のそばだてを意味するというのは考え過ぎだろうか。

また、1989年の作品『ブルーの見解』は、分かったような口を聞く「放課後の教師」のような存在に対し、「俺は君からはみ出している」と辛辣に言い放つ曲。これこそSNS時代の今ならではのリアリティーを感じる曲だ。曲調はファンクでアップテンポ。性急さと共に、「俺は君からはみ出している」のはもう当然だろ?とでも言うような居住まいはやはり2018年だ。

前回のリ・クリエイト・アルバム『月と専制君主』(2011年)は‘君の不在’がテーマだったが、本作は‘そばにいるよ’という優しいメッセージがテーマとなっている。オープニングを飾る『ハッピーエンド』はその典型。新しくラテン調のリズムを纏ったこの曲は原曲の溌剌さではなく、優しく語りかけるように「そばにいるよ」と歌う。続く『僕にできること』もそうだし、基本的には最終曲の『グッドタイムス&バッドタイムス』まで穏やかなトーンで占められている。このアルバムはやはり、「一緒にランチ食べよう」と歌う『エンジェル・フライ』でも顕著なようにコミュニティの中で好むと好まざるに関わらずアウトサイダーになってしまう人々の存在が強く意識されているのではないか。それが全体としての優しいトーンに繋がっているようにも思うし、2018年という時代性とも繋がっているように思う。

しかし全体としてはそのような優しいトーンであるにもかかわらず、アルバム・タイトル曲として、80年代に作られどのオリジナル・アルバムにも収録されていない隠れた曲、『自由の岸辺』を持ってきたというのにはわけがある。優しいだけではなく、時代への危機感や明確な意思が働いていることも聴き手には訴えかけてくるだろう。

このアルバムは原曲では英語になっている箇所が日本語に置き換えられていたり、歌詞そのものが変更されている箇所がある。原曲に馴染んだ手前、変更された歌詞に異物感を感じてしまうところもあるが、勿論作者はそれも織り込み済みであろう。そうした遺物感から生まれる揺らぎを作者は提示しているのかもしれない。

僕は物持ちがいい方だ。出来れば気に入った服は長く愛用したい。中には長く着ていないけど、気に入っているので処分できずにずっと仕舞われたままのものもある。ところが何を思ったか、今の時代にぴったりそぐう時があって再び袖を通す時が訪れる。それはやはり嬉しいことだし、少しだけ誇らしい気分にもなる。音楽家だって同じこと。過去に書いた曲であっても今の空気に触れさせたいと思うのは当然だ。新しい空気に触れて、その音楽はまた新しい色艶を手に入れる。そういう音楽の在り方は素敵だと思うし、聴く方も勿論楽しい。

 

Track List:
1. ハッピーエンド
2. 僕にできることは
3. 夜に揺れて
4. メッセージ
5. ブルーの見解
6. エンジェル・フライ
7. ナポレオンフィッシュと泳ぐ日
8. 自由の岸辺
9. 最新マシンを手にした子供たち
10. ふたりの理由~その後
11. グッドタイムス&バッドタイムス

佐野元春 & The Coyote Band 禅BEAT TOUR 2018 感想

ライブ・レビュー:

佐野元春 & The Coyote Band 禅BEAT TOUR 2018 in ZEPPなんば 2018.10.20 感想

いや~、楽しかったッス。佐野元春 & The Coyote Band「禅ビート・ツアー 2018」。今年の春にニュー・アルバム『Maniju』をフォローするマニジュ・ツアーが行われたばっかなのに、この秋に『Maniju』アルバム中の1曲である「禅ビート」をタイトルにしたツアーを行うという。春がホール・ツアーで今回はライヴ・ハウスを巡るということで主旨が異なるものの、またなんでツアーなの?という疑問が無くもなかったのですが、行ってみてよ~く分かりました。全編、重心の低い Coyote Band ならではビートをフィーチャーした名付けて禅ビート。2007年のアルバム『Coyote』に端を発した Coyote Band 結成がここに至り獲得したひとつのスタイルをより重点的に披露しようってんですね。その意図がよ~く伝わるライヴでした。

マニジュ・ツアーは Coyote Band と制作したアルバムからの曲のみで本編が構成されるという潔いセット・リストだったけど、今回の禅ビート・ツアーも基本はそこは同じ。オープニングからほぼ全編、近年の曲で占められています。これはやっぱりいいですね。ロック音楽には同時代性が必要で佐野さんの昔の曲がそうではないという訳ではないけど、今の佐野さんには今を叩きつける今の歌が沢山あるわけだから僕はやっぱりそれを聴きたい。世の中には音楽が沢山あるけれど、残念ながら日本には時代に言及する音楽が足りない。今の佐野さんの音楽はチャートに昇るようなものではないけれど、今日この日の会場では2018年の音楽が流れている。そう強く感じさせるライブでした。

ライブ前半はマニジュ・ツアーに準ずるラインナップ。しかしやはりライブ・ハウスというのは大きい。単純に届く距離が短いということは同じ曲であっても響き方が全然違うということ。これは僕が思ってるだけかもしれないけど、やはりCoyote Band はライブ・ハウスが映える。なんかホールだとよそよそしく感じてしまうんだよなぁ。このバンドが一番自然体ていられるのはライブ・ハウスってことではないでしょうか。

てことで、ところ違えば響き方も違う。僕個人として今回一番そこを感じたのは「純恋(すみれ)」だ。この曲は『Maniju』アルバムの中でも人気が高い曲だけど、実は僕にはあまり響いて来なかった。ところが今回はイントロを聴いた瞬間に感情が大きく波打って自分でもびっくり。この曲は佐野さんのMCでもあったようにティーンエイジャーに向けられた曲で、恋に落ちた時の心模様が描かれている。なんだろ、好きになった時やそれが成就した時の天にも昇る気分、恋が終わった時ののたうち回るような苦しさ、そういった記憶がバババッと思い出されてきたんだな。なんか自分の中の思春期が急に蘇ってきた感じ(笑)。強烈なアンセムとして響きました。僕にとってはこの曲がこの日のハイライトでした。

ライブ後半はマニジュ・ツアーと違って80年代、90年代の曲が幾つか披露されました。禅ビート・ツアーって言うぐらいですから勿論、Coyote Band としての解釈でぐぐくっと重心の低いダンス・ビートとして鳴らされます。確かにこの辺の曲をやった時の方が Coyote Band としてのアイデンティティーが明確に目に見えて来ますね。なんて言うのかな、世代的にオルタナティブなロックをくぐり抜けた Coyote Band の面々ではあるけれど、かえってアーシーと言うか非常に泥臭いサウンドで直に迫る感じ、泥が跳ねて来そうな直接性を感じられました。「インディビジュアリスト」や「ヤァ!ソウルボーイ」などでそれは顕著に感じましたね。

まぁそういう意味では、古い曲をすることで Coyote Band が叩き出す`禅ビート’がよりはっきりと浮かび上がってくる訳だけど、マニジュ・ツアーに比べると幾分古い曲が多いかなと。個人的にはもうちょい『Maniju』アルバムからの曲が聴きたかったかなとは思います。ま、そうするとマニジュ・ツアーとあんま変わらないセトリになってしまいますからとマニジュ・ツアーとは別のアプローチで、というのはあったのかもしれないですね。

あとライブの中身と関係無いところで、春のツアーはフェスティバルホールだったの席番があって、ところが本編の間中ずっと誰も立たないという髄分なストレスがかかる状態となり(←主要年齢層が50代なもので)、集中することが難しかったんだけど、今回はライブ・ハウスということでスタンディングあり。それでも年齢層を考慮してほぼ9割が座席ありのチケットで、僕は勿論前みたいにずっと座ってんのヤダからスタンディングにしたんだけど、始まったら結局みんな立ち上がって、なんだそんならイス席取りゃ良かったなと(笑)。だってスタンディングは1階の最後列なんやもんなぁ。

あと途中からなんかプワ~ンと漂うものがあって、これは多分口臭ですかね(笑)。これがどうも気になっちゃって、いかんいかん、口で息をしようと思ったんだけど、オレ魚じゃねぇし無理(笑)。多分後ろの人だと思うんだけど、だんだん盛り上がって来て一緒に歌い出したんだろな、そうすっと息も前へ前へ押し出されてくる訳で、スンマセン、僕はもう我慢出来なくなりました。てことで途中で一番後ろへ移動(笑)。でもこれが不幸中の幸い。一番後ろはスペースもあって、そこからは周りを気にすることなく目一杯楽しめました。やっぱスタンディングで良かったという話です(笑)。

今回はインスト・ナンバーも披露されました。キーボードの渡辺シュンスケ率いるバンド、シュローダー・ヘッズの曲、「ライナス・アンド・ルーシー」。聞き覚えのあるスヌーピーの曲です。これが格好良かった!めちゃくちゃ楽しかった!僕は一番後ろで跳び跳ねてしまいました(笑)。佐野さんも「ここからは渡辺シュンスケ・アンド・ザ・コヨーテ・バンド!」なんて粋なこと言います。

ライブはアンコール含めての2時間弱。えっ、そんだけしか時間経ってないの?っていうぐらいあっという間の濃密なライブでした。セトリもアップ・テンポのものが多く、やはりビートに重きを置いたライブという主旨が如何なく発揮されていました。力強く深く道を抉る感じ。今の佐野元春はこれなんだよ、という宣言。Coyote Band のアイデンティティーはこれなんだよ、という宣言。どうしても年齢層は高くなるけど、これはやっぱり若い人に聴いてもらいたいな思いました。現実的に年齢層の高いお客さんのパワーも落ちてきたような気もするしね(笑)。

でも実際、もし佐野元春の曲をひとつも知らなくても十分楽しめるライブだと思います。今の若い子はフェスなんかでそういう場合の楽しみ方もよーく分かってるだろうし、なんつっても Coyote Band の作り出すサウンドは普通に格好いい!勿論、手練れのメンバーだし技量的に優れているのだけど大事なのはそういことではなく、同時代性を伴って如何にビートを鳴らせるかに掛かっている訳で、そういう意味では佐野元春 and The Coyote Band の’禅ビート’はまさしく今を強くキックするバンドだと思います。

ライブとは何なのか。こうやってひとつところに集まって直に音楽を聴く、体感することはどういう意味を持つのか。この日の佐野さんは何度も「楽しんでいこう!」、「ダンスしよう!」と言った。会場には少ないながらも10代、20代の連中がいた。佐野元春は言う。「僕たちと皆の見ている景色は違うかもしれないけれど、明るい未来は願う気持ちは一緒だ」と。ただ楽しむもよし、踊るもよし。自分の胸を打つものは何なのか?それは何故なのか?と咀嚼し考えるもよし。それぞれの人生と照らし合わせ、思い思いにライブを過ごす。そういう自由でポジティブなムードをもたらすものはやはり現代の荒地を往く Coyote Band のビートがあるからなのだと思いました。

それにしても佐野さんが一番楽しそう(笑)。ところどころで顔を出すユーモアも抜群だし、佐野さん、キャラ変わってきたな(笑)。「僕たちはこれからも前進します」と言ってたし、結成して10年以上経ちますが、佐野元春 & The Coyote Band の旅はまだまだ続きそう。皆さん、今の佐野元春は凄いですよ!

セットリスト:
1. 境界線
2. 君が気高い孤独なら
3. ポーラスタア
4. 私の太陽
5. 紅い月
6. いつかの君
7. 世界は慈悲を待っている
8. La Vita e Vella
9. 空港待合室
10. 新しい雨
11. 純恋
12. ライナス&ルーシー(インスト)
13. 禅ビート
14. 優しい闇
15. 新しい航海
16. レインガール
17. インディビジュアリスト
(アンコール)
18. ヤァ!ソウルボーイ
19. 水上バスに乗って
20. アンジェリーナ

THE SUN/佐野元春 感想レビュー

THE SUN(2003年)/佐野元春

 

佐野元春は孤高の存在だった。時に抽象的に、時にコラージュのように言葉を並べ、場合によってはスポークン・ワーズ形式で理知的に語るときもあるし、ラップのように語感を強く響かせたりもした。比喩表現をふんだんに散りばめ、押韻を踏み、また聞いたこともないような人名や語彙を盛り込ませながら、聴き手の想像力にさざ波を立てた。ややもすれば聴き手を置いてけぼりにするその態度はアーティストそのものだった。その如何にも意味ありげな言葉や未知の表現に、意味がよく分からないながらも僕はなんとか食らいつこうとした。そしてそこに抗いがたい魅力を感じた。だからライブに行ってたとえそこに佐野がいたとしても、佐野は僕にとってはるか遠い存在だった。

このアルバムが出た2003年、僕は結婚をした。仕事から帰っては時間を見つけて、日に2~3曲づつこのアルバムを聴いていた。当時の僕は仕事から精神的にダメージを受けていた。でも彼女との新しい暮らしに喜びを感じていたし、やがて子供を宿したと聞いてかつてない幸福感を感じていた。そんな色んな日常の感情が激しく揺れ動くなかにこのアルバムはあった。

このアルバムで佐野はいつになく身近な言葉を用いている。時に巧みな比喩表現を用いて心象風景を描いてきたこれまでとは出発点から異なっていた。簡単な、平易なという意味ではなく、生活に根差した身近な言葉。かつての少年少女は大人になった。30年前、街のファンタジーを切り取ったように、今度は地に足の着いた人生を切り取る。アーティストが我々の側に降りてきたとまでは言わないが、佐野のスタンス、視点が大きく変わり始めたアルバムではないだろうか。

佐野はこのアルバムを自身のキャリアと共に成長してきたファンに向けて書いたと言っていた。この時(2003年当時)、30代から40代といった彼、彼女たちは不況の中、上からや下からのプレッシャーの中でしんどい時期を迎えている。そんな彼、彼女たちの物語を書きたいと話していた。その言葉通り、ここには14編の小さな物語がある。どれも生活といううすのろと悪戦苦闘するそう若くない男女の物語。そこには確実に絶望が横たわっている。しかしそれだけではない。見えない何か、それは希望と言ってもいい。明々と照らしているわけではないが、その分確実に存在する光。木漏れ日のような光が差し込んでいる。数十年前に佐野はこう歌った。~いつの日も誰かがきっと遠くから見ていてくれる~(1989年『ジュジュ』)。佐野はここでそれをもう一度高らかに歌っているようだ。何処かで見ていてくれる存在。そして小さくとも確かにそこにある希望。そして僕にとってもこのアルバムは、2003年の景色として冬の日の太陽のように温かく傍にいてくれた。

僕はこのところ、ライブに行くと目の前に佐野がいるという事実にどうしようもなく胸が熱くなる。そりゃ当然今だって遠い存在であることに変わりはない。でも以前のような全く別の世界にいる人、実際に存在しているのかどうかも分からないぐらい遠い存在ということではなくなってきた。確かにそこに佐野元春がいる。そんな風に感じるようになってきたのは、もしかしたらこのアルバムがきっかけだったのかもしれない。

もう一つこのアルバムについて述べておかないといけないことがある。ホーボー・キング・バンド(HKB)について。消化不良にも思えた前作、『Stones & Eggs』の反省もあったのかもしれないが、たっぷりと時間をかけて8年間を共にしたHKBの集大成とも言えるのサウンドを作り上げている。これが本当に素晴らしく、発酵して熟成された蒸留酒のような表情豊かな演奏。もうこれ以上望むべくもないと言ってしまえるほどの素晴らしいサウンドだ。現にHKBとしてはこれ以降オリジナル・アルバムを発表していない。僕は今のアグレッシブなコヨーテ・バンドも大好きだけど、HKBも同じくらい好きだ。最近のビルボード・ライブやセルフ・カバー・アルバム(2011年『月と専制君主』、2018年『自由の岸辺』)では若干のメンバー・チェンジをしたHKBとなっているけど、僕はやはりこの時期まで(1996年『Fruits』~2003年『The Sun』)のHKBが好き。またいつかこの時のメンバーでガッツリとロックンロール・アルバムを作ってくれたら嬉しい。

自身のレーベル、デイジー・ミュージックからの最初のアルバムであり、HKBとの蜜月が生んだ最良の作品。今思えば、終わりの始まりのようなアルバムだ。佐野にとって特別なアルバムであるように、僕にとっても思い出深いとても大切なアルバム。

 

Track List:
1. 月夜を往け
2. 最後の1ピース
3. 恵みの雨
4. 希望
5. 地図のない旅
6. 観覧車の夜
7. 愛しい我が家
8. 君の魂 大事な魂
9. 遠い声
10. Leyna
11. 明日を生きよう
12. DIG
13. 国のための準備
14. 太陽

月と専制君主/佐野元春 感想レビュー

 

月と専制君主  (2011) 佐野元春

 

リ・クリエイト・アルバム。要するに自前のカバー曲集なんだけど、これがとてもいい。嫌な言い方をすれば、あくまでも焼き回しに過ぎないのだが、全くそうは思えない瑞々しさと、今を感じさせる時代性を備えている。

ライブにおける佐野はこれまでも、場所や時代が変われば衣替えするかのような身軽さでもってアレンジを変えて演奏してきた。僕たちファンにとってもそれは当たり前のことではあったのだが、ライブ用のそれと、こうして時間をかけて丹念に録音されたスタジオ版とでは少し趣が違うようだ。それはライブバージョンのような瞬発力はないが、砂地が水を吸い込むかのようなゆったりとした浸透力を持っている。

フリー・フォークと呼ばれる当時の海外の潮流と歩調を合わせたかのようなアコースティックなサウンドは、親密さと同時に、リアリティを醸し出し、演者と聴き手との距離をぐっと引き寄せる。目の前に広がる風景は、これまで以上にまるで自分がそこにいるかのようで、ここにはズボンの裾に土がこびり付きそうな直接性がある。そしてその喚起力は、目の前にぐっと引き付ける力強いものではなく、やんわりとした日常性を伴ったものだ。

加えて素晴らしいのは、今を感じさせるという点である。これはポップ・ソングで最も重要な要素であるが、このアルバムを聴いて何よりうれしいのは、過去の曲であろうが、アコースティックであろうが、今この時を叩きつけている点である。まさに正真正銘のリ・クリエイト・アルバムと言えよう。

新たに施されたサウンド・デザイン、それに応えるホーボー・キング・バンドの適切な演奏もさることながら、今回感じるのはやはり曲本来の力である。煮て食おうが焼いて食おうが、今と共鳴する普遍性。余計な装飾がない分改めて佐野の楽曲の確かさが浮き彫りになった気がする。

『クエスチョンズ』や『C’mon』といったチョイスも良し。振り返れば佐野のキャリアも随分と長くなってきた。あまり顧みられることのない佳曲を掘り起こすことは僕らにとっても意味のあることではないか。

ただやはりカバー・アルバムなので、佐野のいつものはみ出すような危うさが無いのは物足りないか。このようなコンセプト・アルバムに違和感なく溶け込む新曲が2、3あれば、より鮮度は高くなったと思うがどうだろうか。ていうかファンとしちゃそっちの方が嬉しい(笑)。

そう言えば、、、ハートランド解散の折り、当時のライブ・アレンジで何曲かばぁーっと録音したはずなんだけど、あれはもうリリースしないのだろうか。本当の意味でのハートランド最後の作品ってことでファンにとっちゃたまらんのですけど、、、。

 

1. ジュジュ
2. 夏草の誘い
3. ヤング・ブラッズ
4. クエスチョンズ
5. 彼女が自由に踊るとき
6. 月と専制君主
7. C’mon
8. 日曜の朝の憂鬱
9. 君がいなければ
10.レイン・ガール

COYOTE/佐野元春 感想レビュー

 

『COYOTE』 (2007) 

 

一時期の混迷期を抜けて、復活の狼煙を上げたのが、『THE SUN』。とても素晴らしいアルバムで僕にとっても特別なアルバムになったわけだが、この数年の積極的な活動を振り返った時、ターニング・ポイントとなったのは、間違いなくこの『COYOTE』ではないだろうか。それはまさしく出会い。コヨーテ・バンドとの出会いである。

勿論それは、佐野の嗅覚がさせたものであるが、ここに集まった佐野より下の世代との交流は佐野に計り知れない影響を与えてきたように思う。熟練のホーボー・キング・バンド(HKB)が素晴らしいのは重々承知しているのだけど、言ってみればそれは長距離選手のようなもので、やはりロックンロールのダイナミズムというか、パッと走り出しパッと駆け抜ける短距離走の切れ味という意味ではコヨーテ・バンドである。HKBが大人のロックというつまらないものではなく、スリリングなバンドであるという事実を僕たちファンなら知っているのだけど、フェスなんかでコヨーテ・バンドを従え最前線に降り立った佐野の立ち姿というものは単純にロックンロール・ヒーローなのだ。

このアルバムはその始まりの記録である。今聴くとやはり始めということで、方向付けというかひとつの作品としてまとめられた感があるが、ここで聴けるサウンドは今現在のコヨーテ・バンドにつながる紛れもないコヨーテ・サウンドだ。

このアルバムを最初に聴いた時に強く耳に残ったのは『君が気高い孤独なら』だ。まるで20代の佐野が書いたかのような瑞々しい曲で、久しぶりにうれしい気持ち、ワクワクする気持ちになった。この曲で歌われる思いやりの気持ちと反逆の心を表す(と僕が勝手に解釈している)「Sweet soul ,Blue beat」というコーラスは今の僕にとっても大事なメッセージだ。当時2才のうちの娘がこの曲をかけると踊りだし、「しーそー、ぶーびー(Sweet soul ,Blue beat)」と嬉しそうに歌っていたのを思い出す。このアルバムでは他にも瑞々しいメロディを沢山聴くことが出来るが、それはもしかすると新しいバンドとの新鮮なセッションが呼び水となったのかもしれない。

今につながるコヨーテ・バンドが垣間見えるのはこのアルバムの後半だ。『Us』、『夜空の果てまで』、『世界は誰のために』といったロック・チューンはコヨーテ・バンドならでは。今必要なのは、悠長な歌ではない。今僕たちに必要なのは、畳み掛ける性急なサウンドだ。

このアルバムのタイトル・チューンは『コヨーテ、海へ』。このアルバムはコヨーテなる人物(むしろ生き物といった方が適切か)のロード・ムービーであり、そのサウンド・トラックという格好を採っている。『コヨーテ、海へ』はその典型のような曲。ゆったりとしたバラードで、コヨーテ男の終着点でもあるのだが、にも関わらず不思議と最も‘移動’を感じさせる曲である。

この曲の持つ素晴らしさは何より乾いているという点にある。日本的情緒に依りかからない乾いたバラード。これこそ佐野の真骨頂と言える。この『コヨーテ、海へ』とラストの『黄金色の天使』は、アルバム『Someday』のラスト、『ロックンロールナイト』~『サンチャイルドは僕の友達』の流れを思い起こさせる。『サンチャイルドは僕の友達』がララバイであるのに対し、『黄金色の天使』はエピローグ。当時の登場人物のひとりが時を経て‘コヨーテ男’として歩いている。数十年経った今、この2枚のアルバムのラストがシンクロしているように思うのは気のせいだろうか。

このアルバムのテーマとなっているのは‘荒地’である。この困難な時代にどう生きてゆくのかという主題が、前作の『THE SUN』とは違う側面から照らされている。

『THE SUN』は苦い現実認識の歌であるとはいえ、その根底には明確な希望、祈りが流れていた。一方この作品ではより暗闇に軸足が乗っかっている。そうした闇を表現するのに、最低限のバンド編成でより若い世代を起用したというのには当然理由がある。それは取りも直さず当事者意識ということではないだろうか。HKBがそうではないというのではなく、若手の先頭に立つべき世代、今この困難な時代に先頭きって飛び込んでゆく彼らの態度、ビートこそが今鳴らされるべき音ではないか。佐野は‘荒地’とそこを突き進む彼らの一歩に何かあるのかもしれないと感じていたのかもしれない。

しかし当然のことながら、その更に先頭に立つのは紛れもなく佐野である。僕は素直にジャム・バンドであるHKBも好きだけど、あのハートランド時代のように佐野が全面的にタクトを振るう明確なサウンドが好きだ。寄り道せずにまっすぐに。佐野が長い髪を振り乱すただのロックンロールが好きなのだ。そういう意味でこのコヨーテ・バンドというのは、渋い深みのあるHKBへ一旦振れた佐野が、もう一度初期衝動に立ち返るきっかけになったバンドと言えるのではないか。

本人はそんな気はないのかもしれないが、佐野はバンドメンバーの一人ではない。一人の抜きんでた才能である。その抜きんでた個性をあおるように当事者であるコヨーテ・バンドの面々が追う。だからこそ彼らのサウンドはリアルで、直接的で性急なのだ。そしてそれは今も進行中である。

 

1. 星の下 路の上
2. 荒地の何処かで
3. 君が気高い孤独なら
4. 折れた翼
5. 呼吸
6. ラジオデイズ
7. Us
8. 夜空の果てまで
9. 壊れた振り子
10.世界は誰のために
11.コヨーテ、海へ
12.黄金色の天使

佐野元春 マニジュ・ツアー in 大阪 感想

 

佐野元春 マニジュ・ツアー/佐野元春&THE COYOTE BAND
~2018年3月11日 大阪フェスティバルホール~

 

昨年リリースされた佐野のアルバム『MANIJU』。そのアルバム名を冠したツアーが行われた。大阪はフェスティバルホール。3月11日の開催だ。

今回のツアーは2007年に結成したコヨーテ・バンドと制作したアルバムからのみの選曲になる。具体的に言うと、『COYOTE』(2007年)、『ZOOEY』(2013年)、『BLOOD MOON』(2015年)、そして昨年の『MANIJU』。嬉しい事だ。僕はアンジェリーナもSOMEDAYも好きだけど、もうライブで毎回演奏する必要は無いと思う。何かの機会にたまに演奏する程度でいい。佐野には今を叩きつける新しい歌が沢山あるのだから、当たり前のように僕はそっちを聴きたい。本当にそう思う。

僕は2階席の丁度真ん中辺りだった。ライブが始まって立とうとすると立てなかった。なんと2階席は誰一人立たなかったのだ。佐野のコアなファンの年代は僕よりもかなり上なのは分かっているが、まさか誰も立たないとは。僕はたまりかねて、途中の休憩の間に(そう、年齢層に配慮してか休憩まである!)、フェステバルホールの係員に後ろの通路で立ってもいいかと尋ねたが、やはりそれは駄目だと言われた。残念ながらこのことがライブを通してずっと僕のストレスとなってしまった。

ライブ自体は素晴らしいものだった。予想に反して、前半はアルバム『BLOOD MOON』からの曲が立て続けに演奏された。聴いている時は分からなかったが、後で振り返るとそれは意味のあることだった。中でも『私の太陽』が強く印象に残った。「きっと君は君のまま / 変わらない」。この曲はドカドカしたジャングル・ビートとキーボードのうねりがたまらないが、この日は何よりそのリリックが突き刺さった。

前半の最後に披露されたのは『優しい闇』。硬質なメッセージを携えたロック・チューンだ。サビではこう歌われる。「何もかも変わってしまった / あれから何もかも変わってしまった」。この日は3月11日。どうしたって震災を思わずにはいられない。確かにあの日を境に変わった。僕はこれまで、あの日を境に僕たちの生活や価値観は変わったと思っていた。けれどそれは‘僕たち’ではなかった。僕は何も変わっていない。この曲の最中、何気ない自分の偽善をふいに突き付けらた気がして僕はひどく狼狽えた。

後半はマニジュ・ツアーにふさわしく、新しいアルバムからの曲が披露された。素晴らしいソウル・ナンバー、『悟りの涙』はライブで聴いてもグッ来た。『新しい雨』が始まる前、佐野は自分たちの世代と新しい世代との交流の歌を作ったと言った。けれど正直に言うと僕にはそれがあまりピンと来なかった。すこし楽観的過ぎるんじゃないかって。

表題曲『MANIJU』は組曲仕立てになっている。後半に向かって音自体もどんどん大きくなって空間の境目が溶けていく。けれど客席に向けられた照明がかなり眩し過ぎて目を開けていられなかった。音楽に集中出来なかったのが残念だ。

『MANIJU』アルバムからの曲に挟まれて、『ZOOEY』アルバムからの2曲が演奏された。『世界は慈悲を待っている』。印象的なイントロのギターに続き、モータウンばりのリズムが跳ねる。曲は大げさに盛り上がったりはしない。淡々と進んでいく。けれど聴き手の心を掻きむしる。続く『ラ・ビータ・エ・ベッラ』。この2曲に僕は不覚にも泣いてしまった。

アンコールでは古い歌も披露された。『レインガール』がオリジナルに近いアレンジで披露されたのが嬉しかった。大好きな曲なので、一緒になって歌った。『ヤァ、ソウルボーイ』が演奏されたのも意外だった。どちらも今のコヨーテ・バンドらしくブルージーで渋い。とてもカッコよかった。最後のアンジェリーナでは隣のベテラン客がやたら盛り上がっていた。僕個人としてはアンコールでもコヨーテ・バンドとの曲だけにして欲しかった。それに休憩も要らない。年齢層に配慮するなら1時間かそこらでもいい。今を歌う今のコヨーテ・バンドと共にペース配分など気にせずに一気に駆け去ってしまった方がいい。ライブ後についそう思ってしまうほど、この日の僕は揺さぶられていた。

僕は10代の頃に佐野の音楽を聴き始めてからライブにはほとんど参加している。途中、なんだかんだと行けなくなった時期もあったけど、ここ10年ぐらいは再び参加し続けている。そしていつもいい気分で帰ってきた。そこに佐野がいる。実在している。そのことだけで僕には特別な事だった。しかしこの日のライブは少し勝手が違っていた。

音楽に何が出来るだろう。3月11日、僕は僕にとって特別な人のライブに行った。音楽が白々しく聞こえてしまう時があった。音楽が訴える言葉に涙する時があった。この日の僕はどちらにも極端に振れた。僕は何も知らないくせに感情が昂った。

音楽は何を訴えることが出来るのだろう。音楽は何に向けて真っ直ぐに突き進むことが出来るのだろう。ただ騒いでそれだけでいいのか。人々の心に何か残すことは出来るのだろうか。何かを残すなんて自惚れたこと考える方が間違っているのだろうか。少しでも何かをより良い方へ向かわせる意志が人々にあったのだろうか。今日のこの集まりは何か意味があったのだろうか。

そもそも僕はこの日のライブに何を求めていたのか。僕はきっと期待していたに違いない。3月11日のコンサートが僕の気持ちを少しは整理させてくれるものと。何か明確な、目に見えるもの。世界中で起きている理不尽な事に対し、痛ましい表情をしながらも、いつものように日常を過ごすだけの自分の偽善を蹴飛ばすような、すっきりとさせてくれる何かをもしかしたら求めていたのかもしれない。或いはそれでいいんだよと肯定してもらうのを待っていたのかもしれない。しかし同然ながらそんなものはない。なかった。当たり前だ。

マニジュ・ツアーの冒頭はアルバム『ブラッド・ムーン』からの曲が立て続けに演奏された。あのアルバムは発した言葉がそのままこちらへ帰ってくる硬質で辛辣なアルバムだ。今日、そのアルバムからの曲が沢山かかった。お前、今日は何かのキリになるかと思ったか、とでも言うように。

あの日から何もかも変わってしまった。違う。お前は何も変わっていない。お前まで変わってしまったなど傲慢な。必要以上に繊細になるな。痛ましい振りをするな。憂い顔をするな。眉間に皺を寄せるな。お前がそんな顔をしても何も変わらない。

ライブが終わって、家に帰っても落ち着かなかった。スッキリとするはずだと勝手に思っていたものが全くスッキリしなかったのは僕の勝手だ。もしかしたら2階席で本編の間じゅうずっと座らなくてはならなかったことや、アンコールで昔の曲が始まった途端、急に立ち上がってやたら盛り上がる人たちに苛立ったせいもあったかもしれない。益々こんがらがって僕は心の安定を欠いていた。

今にして思う。今まで音楽に、ライブに楽しさを求めていたのは僕の方だったのだ。日常の上手くいかないことをほんの1時間でも2時間でも忘れて目一杯楽しむ。そうだったはず。しかしこの日は妙な声が入り込んできた。お前にとって音楽はそれでいいのかと。

『世界は慈悲を待っている』のサビはこう歌われる。「Grace 欲望に忠実なこの世界のために / Grace 今すぐ そのドアを開け放たってくれ」。世界は欲望に忠実だ。これは何もそういう世界を非難している訳でも糾弾している訳でもない。お腹が空けば何かを食べるし、眠たくなれば眠るし、大切な人とも話をしたい。欲望に忠実な世界とはそういう平坦な普段の営みのことだ。そこに佐野は‘Grace’と言う。‘Grace’とは優美さ、寛容さ、或いは恩寵、神の恵みを意味する。

僕はこの日のライブの直後、こんな煮え切らない思いをするなら、佐野のライブにはもう行かないかもしれないと思った。けれど今は違う。ライブは楽しければいい。それはそう思う。でももう少し違う一面があってもいい。わけもなく感情が揺さぶられてその所在が分からなくなって、苛立って、それでもいい。

『ラ・ビータ・エ・ベッラ』で不覚にも僕は泣いてしまった。震災を想起させる歌に泣いてしまった。それは素直な感情の発露だったと思う。けれど一方で、お前なに泣いてんだ、という気持ちがすぐに持ち上がったのも事実だ。言ってみればこの日のライブはそうした感情のせめぎ合いでもあった。何をめんどくさいことをと言う人もいるだろう。でもそれはやっぱり必要な事だと思いたい。分からないまでも、知らないまでも、何も変わらないまでも、戸惑うことは、考えることは必要なのだと。僕はやっぱりドアを開け放たっていたいのだ。

僕はこれからも佐野のライブに行くだろう。また心の中を行ったり来たりするものに揺さぶられるかもしれないが、それをしっかりと受け止めたい。

佐野のライブでこんな複雑な感情になったことは初めてだ。それは3月11日にここ数年の曲だけでライブが行われたというのも大きな理由だったかもしれない。

Zooey/佐野元春 全曲レビュー

『ZOOEY』(2013)佐野元春 全曲レビュー
(ゾーイ/佐野元春)

1. 世界は慈悲を待っている
「穏やかで未経験な君 やりきれなくなって自滅するなんて」。冒頭の数行を聴くだけで、これまでのスタイルとは全く違うことに気付く。モータウン調のリズムに乗り、意図的に一音に一語をフックさせることでビートが強調されている。「若くて 未熟な アナキスト」に捧げられてはいるが、無論、年齢や世代を制限するものではない。開かれた曲だ。
この曲にはサビでとっておきのラインが待っている。「Grace 今すぐ 君の窓を開け放たってくれ」。曲の後半、饒舌になる訳でもなく、大げさなアレンジを加えることもなく、静かに盛り上がりをみせる手腕は過去の曲でいうと『月夜を往け』(2003年『The Sun』収録曲)で見せたもの。

2. 虹をつかむひと
出だしのオルガンといい、ピアノといい、ダダンと踏み込むドラムといい、これはもうスプリングスティーンである。ロックの一つの定型であり、いわゆるウォール・オブ・サウンド。
宮沢賢治のようなイノセントな言葉に面食らってしまう。僕はそんな正直な人間ではないよ、と。思わず琴線に触れてしまうのだけど、めんどくさい僕はどうしたらいいのか持て余してしまう。この曲をライブで聞いたときには素直にグッときた。結局、ライブでなんの躊躇もなく聴くべき曲なんだろう。

3. La Vita e Bella
リード・トラックに相応しい快活な曲。しかし言葉は先の震災を思わせる。タイトルは「素晴らしき人生」。色んなことを経験し、知ってしまった。しかし「君が愛しい 理由はない 言えることはたったひとつ この先へもっと」と歌う。もうそれしかないというように。ここでのメッセージは切実だ。
ライナー・ノーツにはこんなふうに書いてあった。「人生は素晴らしい。しかしそれを知るころには身も心も傷だらけ」。この曲はただの人生賛歌ではない。その両面が歌われている。それに応えるバンドの演奏もまた素晴らしい。サッと始まり、サッと終わる。その疾走感もこの曲の意味を明確にしている。

4. 愛のためにできたこと
ゆったりとしたバラード。多分深刻な別れの歌なんだろうけど、さらりとした別れともとれるし、現在進行形にも聞こえる。2番になると詩は更に広がりを見せ、様々なイメージを喚起させる。言葉少ななシンプルな曲だが、深刻でもあり、ユーモラスでもある。また、過去と現在、未来とも繋がっており、佐野のソングライティングが新たな領域へ入ったことを確信させる作品となっている。加えて、佐野のボーカルが素晴らしい。このアルバムでも1,2を争う出来ではないか。
「愛していると君は言う でも信じてるとは決して言わない」というフレーズは秀逸。ちなみに最初このタイトルを聞いたときは『僕にできること』(1996年『フルーツ』収録曲)を連想したが、全く別物だった。

5. ポーラスタア
早口で字余り気味に歌われる、珍しい曲。スポークン・ワーズ形式とも異なり、吉田拓郎の『イメージの詩』を思わせる。詩の中身の方は完全に現代詩。しかし言葉の意味にとらわれず、自由に聴くべきであろう。そのためのサウンドがここには用意されている。確か新生コヨーテ・バンドによる最初の録音がこの曲だったはず。バンドの勢いが感じられ、この曲の意図するところと重なって見える。すなわちひたすら前を向いて歩いてゆくということだ。そしてその上には瞬く何かが存在するということ。そういう意味で、この曲と次の『君と往く道』、その次の『ビートニクス』はつながっている。

6. 君と往く道
人生を航海ととらえた『ポーラスタア』とは対照的に、この曲では散歩に例えて歌っている。色々な事があったけど、「全ては何も変わらない 全てはずっと今までのようさ」とうそぶく楽天性がいい。年月を重ねた、あるいは何事かを経験したひと組のカップルを思い浮かべるが、サビの「愛されてるって~」てところは世代を問わない初々しさがある。ブリッジの「打ち明けることもできずにいたのが懐かしい」というラインににやにやしているひとも多いはず。
他愛のない曲。しかしその他愛のなさこそが僕たちには大切なのだ。

7. ビートニクス
佐野ファンにはおなじみのビートニクス。物質的に豊かになった1950年代米国におけるカウンター・カルチャーのことだが、ここで歌われるのは彼ら先人に向けたものではない。現代の荒地を往く我々に向けられたもの。メッセージは簡潔だ。「信念のままに迷わずに歩け」。なんか猪木みたいだが、それはもうそうとしかいいようがない。金持ちだろうが、貧乏だろうが、行動家だろうが、引きこもりだろうが、関係ない。「行き先は自分で決めてゆくしかない」のだ。
珍しくギター・リフを基調とした曲。ヘビーなサウンドが心地よい。歌詞も少なく単純。つまり「Don’tthink. Feel!」ということだ。

8. 君と一緒でなけりゃ
マービン・ゲイ風ソウルナンバーといったところか。「人間なんてみんなバカさ」。言葉だけを見ると強烈だが、そこまでの重さはない。これこそ音楽の魅力だろう。むしろこの曲のテーマは「君と一緒でなけりゃ」というライン。その意味をじっくり考えたい。ロックンロール一辺倒と思っていたコヨーテ・バンドだが、この手の曲も見事。もともとは1993年のアルバム、『ザ・サークル』のアウト・テイクだそうで確かにそれも頷ける。となると、ハートランド・バージョンも聴いてみたくなるのが心情。前曲『ビートニクス』からの流れがこの曲の良さを一層高めている。

9. 詩人の恋
タイトルそのままに愛の歌。別れの歌。しかも死別を思わせる深刻なもののようだ。言葉があまりにリアル。このアルバムの制作前、個人的に衝撃的なことがあったとのこと。もしかしたらそうなのかもしれない。何人かのレビューを見ているとこの曲はかなり評価が高いようだ。が、僕はまだよく掴めていない。この曲ではストリングスを模したシンセが使われてるが、それも僕がいまいち入り込めない要因だ。はっきり言ってこの曲に漂うリアルな生にはそぐわない。変に盛り上げる必要はないと思う。アコースティック・ギターのみで淡々と歌われるデモ・バージョンの方が僕は絶対いいと思う。

10. スーパーナチュラルウーマン
この歌はライナー・ノーツで述べているとおり。主人公はもうやけくそ。だってどうあがいても女性にはかないっこないんだから。女性賛歌。どう思うかはひとそれぞれ。この曲に深い意味を詮索するのは無意味だろう。過激な歌詞に目が行くが、ノリで口をついて出てきただけ。ほんとに理由なんてないと思うな。作家の本心はアウトロの「スーパーナチュラルウーマン♫」。このコーラスの柔らかな歌声が全てだと思う。

11. 食事とベッド
アルバム終盤に相応しいパワー・ポップ。プラス、スカということで陽気な曲。この曲もストレートに捉えるべきであろう。「二人はピーナッツ」というのも楽しいが、『食事とベッド』というのが色々想像できていい。佐野元春という人は知的で真面目なメッセージを歌う、というイメージがあるかもしれないが、基本的にはこの曲みたいな風来坊。盛り上がっちゃってラストでベースが唸るのはその表れ。「あとどれくらい愛してゆけば君に会えるだろう」という厳しい言葉が頬が緩みそうなメロディで歌われているところがミソ。

12. ゾーイ
佐野の「Well」で始まるシンプルなロックンロール。前作『コヨーテ』から6年もの歳月を要した理由がここにある。恐らく、できたてホヤホヤのバンドでもこの手の曲はできただろう。しかし、幾たびかのライブ・ツアーを通してまで佐野がこだわったのは、バンドとしての気を込めるためではなかったか。この曲にはロック音楽に最も重要な気が込められている。佐野流に言うならば、血の通った音楽ということだ。このあまりに身も蓋もないシンプルな言葉とメロディ。それこそが佐野から僕たちへの強烈なメッセージだ。シンプルゆえに簡単に消費されてしまいかねない。しかしその風雪に抗うための強固な気がここにはある。僕は‘zoe(ゾエ):永遠の命’と冠したアルバム・タイトルに相応しい曲だと思う。

Blood Moon/佐野元春 感想レビュー

『BLOOD MOON』(2015年)佐野元春

僕がこのアルバムを聴いて最初に思ったのは、バンド・サウンドだ。ついにコヨーテ・バンドのオリジナリティが開花したと思った。ハートランドとも違う、ホーボーキングとも違うコヨーテ・バンドならではのサウンド。今この時、2015年を生き抜くには強靭なグルーヴが必要だ。足元をすくわれぬよう、無意識のうちに導かれぬよう、自ら拠って立つ強靭なグルーヴが。

2007年の『コヨーテ』アルバムは‘荒地’がテーマだった。現代を荒地と捉え、その中でどうサバイブしてゆくか、ということが大きなテーマだった。佐野はこのアルバム・リリースにあたってのインタビューで「変容」という言葉を使っている。「変化=change」ではなく、「変容=transformation」。変化という生易しいものではなく、我々の住む世界そのものが形を変えてようとしていると。アルバム『コヨーテ』以来、バンドは原始的で重心の低いグルーヴを求めてきた。それは邪な風が吹いても優しい闇が訪れても、決して流されない為だったのか。そうして鍛え上げられてきたグルーヴに今回、いつもより硬質な言葉が乗せてられている。

それは政治的な言葉と言っていい。但し政治的と言っても特定の誰かを糾弾したり、批判したりというものではない。今ある世界にいる我々の生きてゆく様を大げさに言うでもなく、ありのまま物語ることだ。しかしそれはバンドと聴き手のイマジネーションへの揺るぎない信頼があって初めて可能になる。それさえあれば作家は思うままに言葉を乗せてゆくことができる。どう聞いても間違いようのない明確な言葉が躍動しているのはバンドに対する深い信頼と、当たり前のことではあるが良き聴き手がいて自分がいるという意識の表れだ。

今回のアルバムではいつになく、映像が鮮やかだ。全ての曲ではっきりと聴き手のイマジネーションに働きかけている。といっても実際の話という訳ではない。あくまでも架空の物語である。フィクションにどれだけリアリティを持ち込めるか。フィクションだからこそのリアリティ。これは優れたアートの大前提と言っていい。そしてフィクション故に様々な両義性が生まれる。

そう、このアルバムの特徴を一言で言うなら両義性だ。かつてないほどネガティブな言葉、硬質な言葉。そして象徴的なアルバム・ジャケット。しかしそのすべてが一方的に外に向けられたものではなく、こちらにも等しく返ってくるということ。ここにあるのはどちらかの立場で何かを述べたものではなく、どちらが正しいというものでもなく、今ある世界をあるがまま見ようとする態度である。#3『本当の彼女』での「彼女のこと 誰もわかっちゃいない」というのも、だからといってこちらが分かっているわけではないし、#4『バイ・ザ・シー』においても何もセレブな週末を描いているわけでもない。『優しい闇』での闇というのも外から迫りくるものという解釈がある一方で、自分の内に芽生えるものという解釈も見えてくる。#6『新世界の夜』や#9『誰かの神』などはもろに言葉がこちらに返ってくるし、#7『私の太陽』でも主人公は不公平な世界を「気にしない」と言うけれど、そことは無関係ではいられない自分を知っている。#10『キャビアとキャピタリズム』も市場原理主義の真っ只中にいる我々が「俺のキャビアとキャピタリズム」と叫ぶところに意味がある。

一見、外に向けたメッセージ色の濃いアルバムのように思える。しかしこのアルバムは自分以外の誰かや見えない何かを指さすものではない。「何も変わらない」、「気にしない」といった言葉の意味は?正義面して誰かを指弾することができるのか?今の自分の生活はどこに立脚しているのか?不公平な世の中の恩恵を受けているのは誰なのか?僕たちの生活は明日も保証されたものなのか?僕たちこそ糾弾されるかもしれない、坂を転げ落ちるかもしれない。そんないつどうなるとも限らない頼りない世の中で、僕たちはどう生きてゆけばいいのか、どう向き合ってゆけばいいのかということを投げかけてくる。だからこそこのアルバムは人々のイマジネーションに働きかけ、各々がはっきりと自分自身の物語として像を結ぶのである。

今はかつてないほど同時代性が重要だ。今この時代に何も言うことがない作家はどこにもいないだろう。これは今を生きるある作家からのメッセージだ。不特定多数へではなく、聴き手ひとりひとりへ。一方通行ではなく相互に作用しあうメッセージ。

但しそのメッセージは非常に言葉が強い。それを可能にしたのは間違いなくバンドだ。こうしたはっきりとした言葉が表に出過ぎてしまうと、きっとそれは聴くに堪えない。だがここにある言葉は浮つくこともなければ、逆に重すぎて沈み込んでしまうこともない。また殊更ネガティブになることもなければ、ポジティブになることもない。えぐい言葉が出てくる。だが聴き手を突き刺してくることはない。むしろこちらの態度に委ねられていると言っていい。ここで歌われている風景を見ているのは我々なのか。あるいは見られているのはこちら側なのか。バンドはただフラットな感情を呼び起こし、我々に踊ろうと言う。音楽というのは楽しむものだ。その本能に従っていけばいい。硬質な言葉が眉間にしわを寄せることなくダンスする。我々はビートに従ってゆくだけだ。ビートとは反抗。佐野は言う。「ロックンロール音楽はカウンターである」と。

 

1. 境界線
2. 紅い月
3. 本当の彼女
4. バイ・ザ・シー
5. 優しい闇
6. 新世界の夜
7. 私の太陽
8. いつかの君
9. 誰かの神
10. キャビアとキャピタリズム
11. 空港待合室
12. 東京スカイライン