落語番組の決定版!Eテレ「落語ディーパー」が面白い

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落語番組の決定版!Eテレ「落語ディーパー」が面白い

 

月曜の23時からEテレで放送されている「落語ディーパー~東出・一之輔の噺(はなし)のはなし~」がすごく面白い。近年落語ブームということで「落語ザ・ムービー」のような落語に関する番組があったけど、これはその決定版という感じ。落語に興味はあるけど余り馴染みがない人にとっては持って来いの番組だ。

まずその日の放送回でフィーチャーされる噺があって、あらすじが紹介されます。そしてその噺にまつわる背景なんかが語られて、この語られてっていうのが堅苦しくなく、出ている出演者が若い落語家ばかりで我々と同じ目線で語ってくれる。ていうか若いから当たり前のように同じ目線になってしまう。例えばあんな噺は堅苦しくて嫌だとかそういう類の話がポンポン出てくる。落語といやぁお年寄りというイメージで、僕が密かに毎週録画している「日本の話芸」(同じくEテレ、土曜の午後にやってます)だって、出てくる演者は超ベテランばかりだし、やっぱ若い演者が今の感覚で喋るってのは大きいと思います。

この番組のいいところがもう一つあって、それはその回の噺を過去の名人が演じているVTRが流れるところ。しかも一人だけじゃなく対照的な二人の名人の映像を流してくれたりする。例えば9/10放送回だとテーマは「鼠穴」。昭和の大名人三遊亭圓生と僕らでも知ってるあの立川談志の映像が流れる。圓生の方は江戸ッ子のパリッとした語り口で談志はご存じのとおり破天荒な濃ゆ~い語り口。「鼠穴」は困窮した弟に3文しか貸さない吝嗇な兄が出てくるんだけど、圓生だと江戸っ子だからキャラとしては50両でも100両でも貸しそうだと。一方の談志は本当に貸しなさそう(笑)。で貸さないのには理由があるんだけど、談志だとその理由も敢えて言わずに憎んでくれて結構っていう背景が普通に成立してしまう(笑)。だからどっちがいいとかではなく、私はこっちが好みですみたいなトークがあって、この辺は観ていてとても面白かったですね。あと余談ですが、前述の「日本の話芸」で以前桂福團治による「鼠穴」があって、なんでも上方落語の「鼠穴」は珍しいそうですが、凄く生活感があって、妙なリアリティーというか迫力がありました。

あともう一ついいところ。番組にはホームページがあってそこで落語の動画が公開されている。第1回(8/30放送)は桂米團治の「地獄八景亡者戯」(この回の上方落語と江戸落語の違いのトークも面白かったです)。第2回(9/3放送)は番組出演者でもある柳亭小痴楽の「明烏」。第3回(9/10放送)は先ほど話した「鼠穴」でこちらも出演者である春風亭一之輔。いつでもどこでも気軽に観れるのでホントお勧めです(※但し、公開期間があるので注意)。

出演者は春風亭一之輔、柳家わさび、柳亭小痴楽、立川吉笑、俳優の東出昌大、雨宮萌果アナウンサー。一之輔を筆頭に皆さんキャラが立ってます。あと俳優の東出さんの知識とか落語愛がすんごくてびっくりします。番組H.Pによるとこのあと、「粗忽長屋」 9/17(月)、「居残り佐平次」 9/24(月)と続くようなので、今からとても楽しみです。

NHK SONGSスペシャル 宇多田ヒカル 2018.6.3.放送 感想

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NHK SONGSスペシャル 宇多田ヒカル 2018.6.3.放送

『初恋』を聴いていたら冒頭の「うるさいほどに高鳴る胸が~」のところでいきなりグッと来て目頭が熱くなった。感動したとか切なくなったとか、ましてや初恋云々ではない。それにこの曲は一般的な初恋について歌われた曲ではないし(勿論そうも読み取れる)、宇多田さんにとっての最初の愛、両親に関わる愛についてを歌ったものだという話もあった訳で、ところが何故か冒頭の歌詞でいきなりグッと来て、それは今思い出してみれば、そこに人間の原初に立ち返るような言葉の響きがあって僕はそれに少し震えていたのかもしれない。

『初恋』のメロディは後韻を踏む言葉と共に繰り返しが多用されていて、そのせいかどうかは分からないけど、まるで昔からある童謡、『かごめかごめ』のような懐かしさがふわっと立ち昇る。それが最初に言った原初的な感覚とも繋がるのかもしれないけど、そのふるさとに触れたようなノスタルジーは切れば血の出るような生々しさを含んでいて、つまりは子供の頃の夕方の暗くなりつつある世界、異世界に踏み込んでいくおどろおどろしさでもあり、そこが宇多田ヒカルという人の凄みにも繋がっていく気がしました。

自分のことを歌っているのに自分のことではないような、気持ちを込めて歌っていてももう一人の自分が違う場所から見ていているような。それは自身の生い立ちにも関係しているのかもと述べていたけど、僕にはまるで魂の入ったマネキンのようにも見えてしまうのです。悲しみの純度は益々高くなって、そのマネキンは益々人間になっていく。そういう部分に起因するのかもしれないけど、宇多田さんは今が一番綺麗な気がします。

あと余計なことを言うと、、、。宇多田さんは生い立ちもあって社会の出来事に関心はあっても歌には出来ないと言っていたけど、宇多田さんが社会の事、世の中の事を歌ったらどんなだろうって。若干の怖いもの見たさもあるけど(笑)、彼女が世界をどういう風に歌うのか、それも気になるところです。

Eテレ 日曜美術館「熱烈! 傑作ダンギ アンリ・ルソー」 感想

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Eテレ 日曜美術館「熱烈! 傑作ダンギ アンリ・ルソー」 2018.7.2放送 感想

 

教科書に載っていたのかな。何かの媒体で目にしたことがあるのかな。どこかで見たことがあるような気はするけど、実際そんな身近な絵とでもいうか、決して画壇のお偉いさんや巨匠が描いた絵ではなく、一見シュールな絵なんだけど手が届きそうな親しみ。僕たちの側にある絵。それは独学で学んだということにも関係してくるのかもしれないけど、自由で明るく前向きな彼の姿勢が強く関係しているのかもしれない。そんな風に思いました。

アンリ・ルソーが本格的に絵を描き始めたのは40才を過ぎてから。パリの税関で働きながら休みの日に絵を描くという日曜画家。な~んだ、サラリーマンだったのかって余計に親しみを覚えてしまいました。ただ彼は日曜の休み毎にのんびりと描いていたわけではなく、展覧会に出す絵はことごとく酷評。私生活でも一人目の妻、二人目の妻を病気で亡くし、更には5人の子供のうち4人までをも病気でなくしている。そんな絵などもう描きたくなくなるような試練の中、彼は強い心で絵を描き続けた。

少しづつ世間に認められつつあったルソーは絵の先生として地域の人々に絵を教え始める。自身の肖像画にはその資格を認められたバッジを胸にした姿が誇らしく描かれている。見ているこちらにまでその喜びが伝わるような絵だが、そこに描かれたパレットには亡くした二人の妻の名前が書き込まれている。全体としてはまるでどこかの万博ポスターのような明るい絵だけど、彼はそういう人なんだな。

今回、番組で談義を繰り広げるのは、世田谷美術館学芸員の遠藤望さん。ミュージシャンのグローバーさん。女優の鶴田真由さん。ルソーの研究家でもある遠藤さんでさえルソーの絵はよく分からないという不思議な世界。けれど彼はあきらめない人、めげない人だと、そこは何度も強く強調していた。結局はそこがいつまでも掴んで離さない彼の絵の魅力なのかもしれない。

ミュージシャンのグローバーさんの言葉も印象的だった。影を描かなかったり、朝陽なのか夕陽なのか分からない描き方をする時間の概念を無視したルソーに対し、時制に囚われたくなかったのかも、との気付きを話していた。あぁ、確かにそうだ。時間の概念よりも大切なものがルソーにはあったんだ。それに対し鶴田真由さんはこういう見方をしていた。彼は興味あるものにしか目が向かない人なんじゃないかって(笑)。それもそうかもしれない。男の子にはそういうところがあるからな。ルソーは男の子の部分を大きく残していた人のような気もするし、うん、確かにそうかもしれない(笑)。

死の半年前に描かれた「夢」という作品はルソーの総括。この世の生命力を象徴するような絵だ。ルソー自身の諦めない、めげない精神を象徴する絵。遠藤望さんは彼の絵は晩年になればなるほど良くなっていくと言っていたけど、死の半年前に書かれた絵が最高傑作だなんて。もしルソー自身もそう思っていたとしたら、絵描きにとってこんな嬉しいことはないのかもしれない。

苦労してきたのに暗い感じで絵に出ていない、そこが酷評されてもくじけないところとリンクする、と言った鶴田真由さんの言葉が強く心に残りました。人生はつらいことの方が多いけど、出来るだけ前を向いていたい。そんな風に考えている人はきっと、アンリ・ルソーの絵に何かを感じるのかもしれません。勿論僕もそんなひとりです(笑)。

幼い頃からの夢を持ち続け、40才を過ぎてから筆を取り始め、妻や子供を失くしながらも、世間に酷評されながらも描き続けたルソー。そんな彼の絵を僕はいつか直に見てみたいと思いました。

ちなみに、、、。感性で話すいつまでもロマンチストなグローバーさんと、論理的でいつまでもクールな鶴田さんの対比が可笑しかった。やっぱ女性にはかなわないや(笑)。

日美の司会者

その他雑感:

日美の司会者

Eテレ『日美』の司会者がこの春から変わった。高橋美鈴アナはそのままに、男性司会者が俳優の井浦新さんから作家の小野正嗣さんに変わった。井浦さんはいい感じで評判も良かったと思うけど、それでも何年かやったらこうしてスパッと変更する姿勢が僕は好きです。流石Eテレ。

井浦さんはとにかく格好いいんだけど、気取らないというか、常にアーティストやアートへの尊敬の眼差しを忘れない人で、子供みたいにすぐにウットリするお茶目な方。なにより、分からない事を無理に分かろうとしないところが僕は好きでした。上手く言葉にできなくても上手く言おうとしないというか、しょっちゅう言葉に詰まってましたが(笑)、その詰まった感がかえって良かったですね。

現在司会をされている小野正嗣さんは作家ということで最初は理知的な堅いイメージがあったのですが、何度か見ていると小野さんも無理に分かろうとしないというところがあって、知的な印象の割に絵に圧倒されているところが意外とバレバレな人で(笑)、最近は僕も親しみを覚えるようになってきました。

それとやっぱり品の良い語り口の高橋美鈴アナが素晴らしいですね。高橋アナがこの番組の空気を下支えしているように思います。

Eテレ 日曜美術館「もうひとつのモネ~現代アーティストが語る革新~」 感想

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Eテレ 日曜美術館「もうひとつのモネ~現代アーティストが語る革新~」 2018.6.10放送 感想

日美、この日のテーマは「モネ」。それも印象派としてのモネではなく、現代アートとして見るモネの革新性について。現在、名古屋市美術館にて「モネ それからの100年」と題した展覧会が開かれている。今回はスタジオからではなく、その名古屋市美術館から、そこに展示されている日本の現代アーティストたち(画家:児玉靖枝、美術家:小野耕石、版画家:湯浅克俊)の対談形式で番組は進行しました。

モネはどうしても「睡蓮」が有名過ぎて、あぁあの絵ねってことで落ち着いてしまい、今まであまり気にも留めていなかったんだけど、現代の日本人アーティスト3名が語るモネの魅力が非常に分かりやすい形で伝えられていて、モネの魅力を再発見するという意味でも僕にとってとても興味深い回となりました。

今回気付いたことの一つが、モネの絵に上も下もないのではないかということ。水面に映る空は下にも広がっていくし、横にも上にも広がっていく。上も下もない宇宙的な感覚。それは動的なもので、それこそ移り行く自然。絵は静的なものだけど、モネは当然、自然を描いている訳だから、その時にしかない動くものを捉えている。だから絵は静的なものであっても動いているのだ。そこに鮮やかな原色の花弁がちょんとあって、画面いっぱいにたゆたう中で、それこそ命がバッと開いている。

しかし原色で色づけされたその花びらは画面全体に広がる動的なもののうち、ほんの一瞬でしかない動的なもの。それは上と下もなくて、この世は所詮浮世、或いはこの世ははかないものとする日本的な美に通ずるものではないでしょうか。

だから画家、児玉靖枝さんの「モネは時間を書きたかったんじゃないかな」という言葉が、あぁなるほどなって。絵画は筆を置いた時に止まるものだけど、止まらないまま続く揺らぎ。本当の景色があって、でもそれだけではないし、画家が描いたものが一方にあるものの、それもそうだというものではなくて、やはり揺らぎ続ける。

モネは言い切らない、見る人の広がりに委ねる。そこが絵に意味を持たせる同時代の作家とは異なる部分であり(版画家、湯浅克俊さんの「海外の美術館に行った時に、宗教画とか写実的な絵、意味があり、時代背景があり、隠れたメッセージが含まれたような絵が続いた後にモネの絵を見るとホッとする」、という言葉が印象的だった)、現代アートにも通じる部分ではないかということ。

つまり、絵を見る、というのではなく体験するという感覚、姿形をこういうものだと見るのではなく、同化する、ここではないどこかへ連れ去られる、ここが本当の場所とは限らないし、勿論、作家が提示したものが本当の場所とは限らないけど、異質ではあるけれど、心地よい、行ったことはないけれど馴染みのある場所と思わせる感覚。それはつまり、芸術家は人が見えないものを描く、ということにも繋がるのではないでしょうか。

今回は現代の日本人アーティスト3名の対談が凄くよかったです。芸術家は何故描くのか?誰も急き立ててはいないのにこの切羽詰まった感は何なのか?その一端が垣間見えるような気がしました。

名古屋市美術館「モネ それからの100年」は2018年7月1日まで続き、その後は神奈川へ。十数年前に京都でモネ展を見た記憶があるが、もうほとんど記憶にない(笑)。また近くに来たら是非見に行きたいな、と思いました。

『The Covers』 NHK BSプレミアム 2018.5.22 放送(ゲスト:エレファントカシマシ) 感想

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『The Covers』 NHK BSプレミアム 2018.5.22 放送(ゲスト:エレファントカシマシ) 感想

 

NHK BSプレミアムにて月1回放送されているこの番組。番組H.Pを見ると2018年4月からリニューアルされたようで、MCの一人も仲里依紗から池田エライザへバトンタッチされております。どうでもいいですけどエライザさん、またえらい色気ですなぁ…。仲里依紗さんも夜な感じが出ていましたが、更にラウンジ感強まったような(笑)。リリー・フランキー、ナイスです。

さて、今回のゲストはエレファント・カシマシ。エレカシは僕が大学生の時にブレイクしたバンドで、何度かカラオケで歌った記憶がある。しかしこれが難しいのなんの。宮本浩次の声は男っぽい太い声をしているから、気軽に歌えると思ったら大間違いっ。実はキーがかなり高いのです!

てことで、エラカシが選んだ最初のカバー曲は山口百恵さんの「さよならの向う側」(1980年)。これを宮本さんは原曲のキーのまま歌います。そーなんです。僕が大学の頃のキーの高い男性ボーカリストといえばスピッツの草野マサムネ氏なんですが、実は宮本さんも負けず劣らず高いのです。てことで、どちらも間違いなくカラオケで玉砕します(笑)。

ともあれ、エレカシはカバーをする時は原曲のキーのまま歌うというのを大事にしているらしく、それは原曲の魅力を損ないたくないからということなんですが、そうは言ってもそんな芸当、なかなか出来るもんじゃあございません。しかも全然聴き苦しくないんですから、大したもんです。そういやマサムネ氏も女性ボーカル曲を原曲キーのままで歌うらしいですから、いや~、二人とも流石でんな~。

しかしこの曲はいいです。宮本さんも当時の日本歌謡曲のレベルは凄い凄いと連発していましたが(笑)、確かに凄い!まず言葉。平易な言葉しか使用していないのに凄く奥行きがあるというか、聴き手にもたらす情感の幅が限りなく広いのです。でもってメロディもそれ自体に起承転結があって、だからアレンジで殊更ドラマチックに盛り上げなくても自然な情感が立ちあがってくるのです。宮本さんも言ってましたが、やっぱ視点が俯瞰なんですね~。入れ込み過ぎないというか、これを山口百恵さんがしっとり歌うわけですから、そうそうここも思い入れたっぷり歌い上げるのではなくて、誰かの物語として歌ってるんですね。だからこそ聴き手に伝わる情感が増幅される訳です。やっぱ俯瞰ですよ皆さん。いや~、勉強になりますな~。百恵さんも宇崎竜童さん(作曲)も阿木燿子さん(作詞)もスゴイッ!

2曲目はサザン・オール・スターズの「いとしのエリー」(1979年)。これを歌う宮本さんも良かったです。ですがこれはもう桑田圭祐のあの歌唱がやっぱありまして、やっぱあれはあれなんですねぇ(笑)。まぁどういうことかと言うと、「いとしのエリー」のメロディにはあの歌い方というか独特のリズム感が内包されてあって、それはもう真似できないわけです。以前この番組でRCサクセションのカバーがあった時も出演者が一様に苦労していましたが、あれと一緒ですね(笑)。RCのメロディにも清志郎のリズムが内包されている訳です。

でまぁそれはエレカシ=宮本浩次も一緒なわけで、番組では逆に若いミュージシャンがエレカシの曲をカバーするコーナーもあったりするわけですが、これもそういう訳で、いーんですけどね、なかなかそれっぽく歌えないというか、そういう意味では宮本さんが歌う「さよならの向う側」は良かったですねぇ。僕が百恵さんのことをよく知らないというのもあると思うんですが、なんかエレカシの元々の歌にあったような気さえするとってもいい演奏でした。

去年はエレカシの30周年だったそうで、31年目の新しい曲「Easy Go」も披露されました。これがまたお見事でした。31年目にして荒々しいというか、宮本さんはシンガーというよりやっぱシャウタ―ってイメージなんですが、この曲でも歌うというよりもうやたらめったら叫んでいて、それが彼らの今の意思表示というか、まだまだやってくぜっていう、その現役感が最高でした。

それにしても宮本さんのフロントマンとしての存在感は抜群ですね。あーいうパフォーマンスが出来るロック・ミュージシャンってのはもうあんまりいないですもんねぇ。でやっぱり声が抜群にデカい。失礼ながらもう結構な年齢だと思うのですが、経時変化していかないってのは驚きです。あれだけ叫んで喉を酷使していながらですから、これは実はかなり凄いことだと思います!

それに改めて、ソングライターとしても素晴らしい。いい事を歌おうっていうのではなくて正直な言葉というか、それも奇を衒った言葉使いではないし、それにメロディはふくよかで情緒がある。だからこの番組で若い世代がエレカシをカバーしたようにより幅広い世代へ伝わるんですね。「さよならの向う側」がエレカシの歌みたいに感じたのもきっとそういう日本の歌謡曲の良い部分をエレカシも持っているからなんだと思います。未だに若い層から支持されている理由はそういうことなんじゃないでしょうか。僕は彼らのことをあんまりよく分かっていなかったですが、この番組で何だかそれが分かるような気がしました。この番組を観て良かったです。凄いぞ、エレカシ!

『The Covers』 NHK BSプレミアム 2017.12.22 放送(ゲスト:ROOTS66)感想

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『The Covers』 NHK BSプレミアム 2017.12.22 放送(ゲスト:ROOTS66)

 

NHK BSプレミアムで放送されているこの番組。番組H.Pには「歌は、歌い継がれることでスタンダードとなり、永遠の命を授けられます。ジャンルや世代を超えたアーティスト達が、影響を受けた曲や、思い出深い一曲を魅力的なアレンジでカバー。名曲達を新鮮な感動と共にお届けします。」とある。司会はリリー・フランキーと仲里依紗。2018年、最後のゲストは「ROOTS66」。

「ROOTS66」とは1966年生まれのアーティストによるユニット。元々はFM802の企画で始まったそうだ。この日出演したメンバーは、友森昭一,大槻ケンヂ(筋肉少女隊・特撮),福島忍(勝手にしやがれ),増子直純(怒髪天),田島貴男(ORIGINAL LOVE),田中邦和,スガシカオ,阿部耕作(チリヌルヲワカ),伊藤ふみお(KEMURI),たちばな哲也(SPARKS GO GO),八熊慎一(SPARKA GO GO),奥野真哉(SOUL FLOWER UNION),田中和(勝手にしやがれ),木暮晋也(HICKSVILLE),トータス松本(ウルフルズ),tatsu(レピッシュ)の総勢16名。この日の出演は無かったがイエモンの吉井和哉や渡辺美里、VTRで出てきた斎藤和義もメンバーとのこと。

オープニングは沢田研二の「勝手にしやがれ」。ボーカリスト総勢7名(オーケン、トータス、田島、伊藤、八熊、スガ、増子)で歌う「勝手にしやがれは」はホントに勝手にしやがれって感じ(笑)。だってみんな個性強いのなんのって。

その後は司会の二人と共にトーク。これが面白かった。テレビ見て声出して笑ったのは久しぶりです。僕は1973年生まれだから彼らより下の世代だけど、僕もテレビっ子だったから(あの時代の子供はほとんどがテレビっ子だったと思う)彼らの話はちゃんと分かるし、細かいところもいちいちツボを突いてホント面白かった。

田島貴男が石野真子を見に地元のダイエーに行ったくだらない話とか、その石野真子の実物大の顔のポスターを地球儀にくっ付けてキスをしたオーケンの、「だって立体的にしたいじゃん!」っていう馬鹿馬鹿しい話にゲラゲラ笑ってしまいました。あとみんなキャラが立っているというか、例えば増子の居酒屋のオヤジ風ツッコミキャラや八熊のそこにいる客みたいな感じも面白い。一番印象的なのは、クールで渋い奴だと認識していた田島がよく喋るかなりテキトーな天然キャラだということ。なんでツッコまれてるのか分からんぐらいのレベルです(笑)。オーケンはデビューが早かったから、「オーケンさん」なんて年寄り扱いされているくだりもなるほどな、と思いました。あともうひとつくだらないのがコメントVTRで出てきた斎藤和義で、いきなり「今日はこの後包茎手術があるのでそちらへは行けません」っていう挨拶。ほんとにくだらんよなぁ(笑)。そんな中、意外と人見知りというか中々打ち解けれないトータスのシャイな人柄が、あぁやっぱこの人はこういう人やねんなぁ、というところでまた好きになりました。

2曲目に披露されたのがRCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」(vo.オーケン、伊藤、八熊、スガ)。みんな言ってたけど、清志郎、実は歌上手かったってのがよく分かった。だってみんな歌い切れてないもん。だからかみんな「アオーッ!」って言い過ぎ(笑)、トークでもツッコまれてました。あと歌う前はRCの歌は崩しようがないというか自分で歌えないからついつい清志郎の物まねになってしまうなんて言ってたけど、いやいやそんなことない、みんなキャラ濃過ぎ、ちゃんと出てました(笑)。でも確かに上手く歌えなくて結構グダグダ。だからみんな「アオーッ!」でごまかすみたいな(笑)。

でもやっぱこの歌いいよなぁ。みんなもRCの事が清志郎の事が好きなのが凄く伝わってくるし、僕はやっぱ下の世代だからどっちかって言うと清志郎はひょうきん族とかで暴れて帰る変な人っていうイメージしかなかったけど、きっと高校の時に「トランジスタ・ラジオ」を聴いてたらヤラレてたんだろうな。この年末にちょっと聴いてみよう。

3曲目は世良公則&ツイストの「銃爪」(vo.増子、田島、トータス)。曲の最後の方でミニコントやって、ジャ~ンで終わり。リリー・フランキーのマチャアキと井上順が曲の間にするミニコントを思い出したってコメントがナイスでした。最後に歌ったのは「レッツゴー!ムッツゴー!~6色の虹~」。アニメ「おそ松さん」のエンドテーマだそうだ。この曲はみんなで手分けして作った「ROOTS66」のオリジナルとのこと。意外とちゃんとした曲、ていうかいい曲だぞ。

1966年は丙午だそうで、けどそんな迷信気にしないぜっていう両親の元から生まれたからみんな個性的なんだって言うリリー・フランキーのコメントが、説得力あるんだかないんだかよく分からないぼんやりした感じで良かった。

ちょっと文章長くなってしまったけど、そんぐらい面白かったということでお許しを。ということでリリー・フランキーがいつもよりだいぶ楽しそうだったのと置いてけぼりの仲里依紗が印象的な「The Covers」、今年最後の放送の感想でした。

ついでに、、、
番組の合間に司会の二人がスナックと思しきセットでミッツ・マングローブ率いるそっち系3人組とテーマ・トークをするミニ・コーナーがある。「星屑スキャット」と名付けられた3人がテーマに沿って1曲歌うんだけど、今回歌ったのはテレサ・テンの「愛人」。歌い終わった後に小さい声で「謝謝(シェイシェイ)」と呟くミッツの芸が細かい。ていうか3人ともめちゃくちゃ上手すぎてなんかオモロイ(笑)。

『The Covers』 NHK BSプレミアム 2017.11.4 放送(ゲスト:矢野顕子) 感想

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『The Covers』 NHK BSプレミアム 2017.11.4 放送(ゲスト:矢野顕子)

 

NHK BSプレミアムで放送されているこの番組。番組H.Pには「歌は、歌い継がれることでスタンダードとなり、永遠の命を授けられます。ジャンルや世代を超えたアーティスト達が、影響を受けた曲や、思い出深い一曲を魅力的なアレンジでカバー。名曲達を新鮮な感動と共にお届けします。」とあります。司会はリリー・フランキーさんと仲里依紗さんです。月1回の放送なのかな。 11月のゲストは矢野顕子さんということを知り、慌てて録画しました。

この日矢野さんがカバーしたのは、佐野元春「SOMEDAY」(1981年)、フジファブリック「Bye Bye」(2010年)、そして自身のヒット曲「春咲小紅」とこの曲と同じコンビ(詞:糸井重里 曲:矢野顕子)で今年新たに作られた 「SUPER FOLK SONG RETURNED」(2017年)の4曲。

とっても面白かった。僕は矢野さんのアルバムを一枚も持っていませんが、テレビで彼女が出ているとついつい見てしまいます。で見た時の感想はいつも同じ、「すげ~」。今回で言うと、笑っちゃうぐらいもう原型を留めてないです(笑)。でまあそれがいいのです。なんでメロディを解体しちゃうのか、歌詞までも変えてしまうのか。それに対する矢野さんの答えがまた面白くて、例えば「SOMEDAY」で言うと、これは男の人が作った曲だから自分が歌う時には女のひと目線に変えちゃうとか、好きだからその曲をカバーするんだけど、ここはちょっと違うかな、私だったらこうだな、っていうところは言葉を変えてしまうっていう。だってそうでしょ、っていうような顔でさらっと言ってしまうところがやっぱそうだよな、表現するってそういうことだよなってすごく合点がいきました。

でそれは矢野さん自身が語っていたように元々ジャズが好きで、ジャズと言うのはスタンダード曲があって、それを各人の解釈で自由に演奏するっていうものなんだけど、矢野さんにそういう下地があるというのもあるにせよ、彼女自身にやっぱ批評精神というものが宿っているからで。批評精神なんて言うと一般的には批判したり文句を言ったりというようなマイナスの意味に誤解されている節があるけど、批評と言うのはその人独自のものの見方であったり、解釈だったりするわけだから、逆に言えばアーティストというのは、全てそうだとは限りませんが、批評性を持っているか否かということにもなるのだと思います。

加えて言うと、演奏と言うのは元々はワン・アンド・オンリーというか、それこそモーツァルトとかベートーベンがその場その時にしかない音楽をライブで披露して、観客は二度と再現されないその唯一の演奏に耳を傾けるっていうのが始まりだったわけで、それをレコードというものが登場して録音できるようになった、再現できるようになったというのは後から出来るようになったことに過ぎないわけであって、始まりの音楽はその夜一度きりのものを楽しむというものだったのです。ちょっと理屈っぽくなりましたが、矢野さんがテレビに出ているとつい見てしまうのは、矢野さんの音楽にはそういう原初的な魅力が沢山あるからなんだと思います。

歌以外のトークも凄く面白かったです。「春咲小紅」を始め、幾つかの曲でコンビを組んでいた糸井重里さんが途中からゲストとして登場しました。糸井さんの詞をどう感じているかという話の中で、矢野さんはこんなようなことを言っていました。「初対面の人同士がお互いが好きな共通の話題で盛り上がるっていうのはあるけど、逆にこれって嫌だよねとか、ちょっと違うんじゃない、っていう部分を共有している方がもっと深いとこで繋がりあうような気がする」。あぁ、そうか、そういや僕も長く付き合っている友達とはみんなそんな感じだなぁって、なるほどなぁって思いました。

あと面白かったのは、矢野さんは「車に乗っている時のBGMにならない」ってよく言われると言って笑っていたところ。確かに矢野さんの歌を聴いているとついつい自由な拍子にこっちも巻き込まれちゃって変なところで変な操作してしまいそうな気がする(笑)。

次回は12月22日放送とのこと。1966年生まれのミュージシャンが集まるのだそうだ。トータス松本さんとか、大槻ケンヂさんとか僕にとっちゃ懐かしのレピッシュ/tatsuの名前もあるぞ。今回この番組を初めて見たけどなかなか面白いぞ。これも見なくては。

Eテレ 日曜美術館「仏師 運慶~時代が生み出した天才~」感想

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Eテレ 日曜美術館「仏師 運慶~時代が生み出した天才~」 2017.10.15放送分 感想

 

いや~、昨日の日美、面白かった。今回は関西人には東大寺南大門の仁王さんでおなじみ、運慶の特集です。現在、東京国立博物館で運慶展を行っているとのこと。そこからの放送となります。ゲストは見仏記でおなじみのみうらじゅん氏と美術史家の佐々木あすかさん。みうらじゅんのぐちゃっとした話も、佐々木あすかさんのガシッとした話も面白かったです。

で仁王像、私のような80年代ジャンプ世代にとってはやっぱ北斗の拳です。どう見ても昔の造形物とは思えない漫画チックなビジュアルは子供心にも訴えるものがありました。ちなみに向かって左側の口を開いた方が阿形(あぎょう)像で右側の口を閉じた方が吽形(うんぎょう)像。阿は宇宙の始まりを表し、吽は宇宙の終わりを表すのだそうです。う~ん、小学校の遠足以来何度も見ているがそういうことだったのか。なるほど。

続いて大日如来坐像。運慶のデビュー作だそうです。この坐像はそれまでの仏像とは全く違うそうで仏像らしからぬ造形をしているとのこと。例えば足の裏。仏様というのは偏平足と相場が決まっているのに、ちゃんと土踏まずの凹みまで表している。仏様は人ではないという概念があったから偏平足だったのか、単に昔からそうだったからそうなっていただけなのかは知らないけど、とにかく運慶は自分の審美眼というか自分の思い描く仏像というものがはっきりと目に見えていたのだ。

正直言って、仏様というのは正面から見ると、あぁ仏様だって感じは受けるけど、角度を変えて見ると、造形的におかしかったりして、それはやっぱり仏様というのは人ではないのだから当たり前で、異様なバランスがそれはそれでそういうもんだという納得をしてしまえるのだけど、運慶はそうはならなかった、ということではないでしょうか。

この大日如来坐像の台座の裏に運慶は自分の名前を書いている。仏像に製作者の名を入れるというのは運慶が初めてだったらしい。ということは、もう完全に作品として捉えているからで、もちろん仏様という存在は私たちとは比較にならないぐらい大きなものだったと思うんだけど、それでもなお仏像を作るというよりは芸術作品を作ってるっていう意識があったから名前を入れるってところに繋がってったんじゃないだろうか。

次は八大童子立像。これがもう大日如来坐像とも阿形像・吽形像とも違う世界。顔つきがめっちゃリアルです。こうして同じ手法を繰り返すのではなく、次々に新しいことに取り組んでいくっていう面もやっぱり芸術家です。この八大童子立像ですが仏像というより人。リアリティの追求、仏像という名を借りた想像物とでも言おうか、当時の人はどう思ったかは知らないけど、これはもう我々の時代の作品としてもいいんじゃないかっていう。瞳の輪郭を赤にするというのも完全に現代アートの世界で、リアリティとそこにフィクションを加えることで更にグッとリアリティをもたらす運慶の真骨頂。未だに先鋭的な部分が失われない所以ではないでしょうか。
体は確かに仏像の形を残しているが、顔はもう完全に人。証拠にどの角度から見てもリアリティがあって、仏像っていうある意味非合理的な描写ではなく理にかなった造形ということになる。その辺り、みうらじゅんが運慶はビートルズって言ってたけど、それがすっごく分かり易かった。ビートルズとかiPhoneみたいなそれまでの常識とは違うルートからポーンと新しいものが出てきて、まずは分かりやすくてポップでっていう。でその後にこれって凄いんじゃないかっていうような感想がやって来て、だから何百年経った今でも新しさがあるんだと思う。

最後は興福寺の無著・世親菩薩立像(むじゃく・せしんぼさつりつぞう)。これが後ろに立ってたら気配感じてめっちゃ怖いでっていうぐらい、人みたい。そっくりそのままに造形すればリアルというわけではなくて、本当はそうじゃないかもしれないけど、本当よりも内面を生々しく描いたリアリティっていうのかな。確かに生きているかのようなリアルな造形だけど、やはりどこかをデフォルメしたり抑えたりしているからこそのリアリティ。この人の最大のものを抽出したらこうなるだろうというような描写ということなのかもしれない。そうした見えないものを彫刻しているんだけど、運慶にはやっぱり見えているのであって、それは運慶自身の生き来し方というものがあればこそだろうし、そこの部分と年月を経て極めた技術というものが合致して生み出されたのだと。そしてそうした目に見えないものを我々に見せてくれる、何百年経った我々にも紐解いてくれる。それは何かと言われれば、やっぱり芸術としか言えない物だと思う。

てことでこの日本肖像彫刻の最高傑作と言われている興福寺の無著・世親菩薩立像は現在、東京国立博物館で展示中ということで奈良におわしません。来月、奈良に行こう思てたのにおれへんや~ん。ま、近いしそのうち行けるからえーか。

Eテレ 100分 de 名著「ハンナ・アーレント/全体主義の起原」 感想

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Eテレ 100分 de 名著「ハンナ・アーレント/全体主義の起原」  2017年9月放送分

 

国内外の名著を全4回、100分で紹介するこの番組。9月の作品はハンナ・アーレントの『全体主義の起原』。全体主義の生成過程をナチス・ドイツを例に取り紐解いていく。ここでは細かく述べないが、これは現代にも当てはまる僕らのすぐ側にある問題だ。

日本が右傾化しているのかどうかは分からないけど、メディアは自国を誉めそやすのに熱心だ。すぐに「世界が驚いた日本!」と騒ぎ立てる。そんなのは言い方次第でどうにでもなる。逆に言えば、「世界から見れば最低な日本!」なんてのもいくらでも作れるだろう。僕たちのリーダーは「絶対に」、「完全に」と言いたがる。かの国のリーダーは「never ever」と言いたがる。大げさな物言いが溢れている。僕たちは本当はどうなのかを自分自身で判断しなくてはならない。けど、とても難しいことだ。そんな時、僕はこう思うようにしている。「それって本当かな?」。物事というのはどちらか一方ということはない。光もあれば影の部分もある。どちらか一方に偏った意見には注意しなければならない。特に分かりやすい表現には。それを強いてくる連中には。

番組の最後で「複数性」という言葉が出てきた。この言葉を聞いて僕はある別の言葉が思い浮んだ。丸山真男の「他者共感」という言葉だ。自分の考えというのがあって、他者の別の考えがある。それを戦わせる、非難するというのではなく、相手の身になってそれを考えてみる。そうすることで、自分の考え方もまた別のステージに向かうことができる。自分の考えも他人の考えも俯瞰して見ることの重要性。そうした考えを丸山は「他者共感」と名づけている。

自分と違う考え、意見、性別、年齢、人種、民族。世界は「複数性」で成り立っている。自分(たち)だけが正しい。自分(たち)だけで成り立っている。悪いのはやつらだ。これは大きな誤りだ。自分とは異なる意見に出会った時、相手の立場になって考えてみる。そうするとまた違った自分の考えが生まれてくるのではないか。しかし言うは易し行うは難し。僕だって自分の考えはそう簡単に変わらないし、批判されりゃついムッとなる。世界は「複数性」で成り立っている。このことをしっかりと心に留めておきたい。

最後にこの番組で紹介されたミルグラム実験について述べておきたい。閉鎖的な状況における権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したものだ。具体的に言うと、「体罰と学習効果の測定」と称して教師役は隣室にいる生徒役の回答が間違うたびにより強い電気ショックを与えることを要求される。もちろん、生徒役に電気は流れていないので苦しんでいるふりをしているだけ。本当の被験者は教師役ということになる。この実験では、うめき声がやがて絶叫となり、遂には聞こえなくなっても教師役は回答が違えば、権威者の指示通りに電気を強くし続け、最終的に6割以上の参加者が命の危険がある450Vのショックを与えることになったという。この実験は、ホロコーストに関与し、数百万のユダヤ人を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担ったアイヒマンの名前を取って、アイヒマン実験とも呼ばれている。誰だってアイヒマンになり得るのだ。