或る秋の日/佐野元春 感想レビュー

 

『或る秋の日』(2019年)佐野元春

 

40も半ばを過ぎて、人から相談を受けることが多くなった。会社では若い社員に変に恐縮されたりして、自分は恐縮されるような大した人間でもないのになぁと思いつつ、あぁそうか、自分は単純に年食ったんだと今更ながら思ったりしている。

最近は人の生き越し方に思いを巡らすようになった。何とはなしに生きているように見える中年だって実は色々あってここにいる。僕だって人に自慢できるようなものでもないけど色々あってここにいるわけだ。乗り越えたり乗り越えられなかったり。いや、上手くいかなかったことの方が圧倒的に多いけど、人生なんてそんなものだと初期設定として取り込めば、案外色々な事に対してポジティブでいられるんじゃないか。最近はそんな風に思うようになってきた。これも年を食った証拠か。

この『或る秋の日』アルバムには今言ったようなことがちりばめられていて、例えば、色々な事があってここにいるというのは#8『みんなの願いかなう日まで』。例えば、人生についての考察はそれこそ#1『私の人生』。元々僕の中から自然に出てきたものと合致したせいか、この2曲については僕の中でごく自然に曲が流れてゆくのが分かる。

一方で#3『最後の手紙』や#4『いつもの空』は未知の世界だ。ここでは大切な人との別れが描かれている。別れと言っても恋人がくっ付いたり離れたりという類のものではない。要するに永遠の別れだ。特に#3『最後の手紙』はラストに「子どもたちにもよろしくと伝えてくれ」というくだりがあり、そこには‘死’を予感させる重たいイメージが見え隠れする。

『いつもの空』は‘君’がいなくなった世界についての曲。「君がいなくても変わらない」との呟きは同じく恋人同士の別れとは異なるニュアンスが含まれている。‘君’はもうこの世にはいないのだろうか。ここで描かれるのは‘君’なしで迎える台所の朝の風景。情感ではなくただ時間だけが過ぎてゆく様。この2曲で描かれているのは主人公の内面ではなく、主人公の視点そのものだ。

表題曲の#5『或る秋の日』も僕にとっては未だ見ぬ景色。ここでは若い頃に別れた二人の再会が描かれている。二人は年月を経て再び出会い、再び恋に落ちる。けれど描かれるのはここまでで、その後の二人の行動は定かでない。つまり上記の2曲とは異なり、主人公の心の揺れ動きのみが描かれている。ここで歌われるのは再び恋に落ちたという事実だけだ。

#6『新しい君へ』は「ささやかなアドバイス」という言葉で締めくくられる今までにない視点を持った曲だ。失うことはネガティブなことではなく、新しい何かを知る契機になるんだよという人生の先輩からの助言。過去にも『レインボー・イン・マイ・ソウル』(1992年)で「失うことは悲しい事じゃない」とノスタルジックに歌った佐野だが、ここではよりポジティブで前向きに、より自然な態度で響いてくる。

とか言いながら次の#7『永遠の迷宮』では「今までの隙間を埋めたい」や「時を遡る」といった言葉も。『新しい君へ』での達観とは裏腹に、ここでは迷いや後悔が素直に吐露されているのが面白い。しかしそれはあの時こうすればよかったという後ろ向きものではなく、これからの人生でそれらの穴埋めをしたいとでもいうような、愛しい人への、或いは愛すべき何かへの優しい眼差しだ。

人生の意味とは何だろう?今はもう会わなくなった人、会えなくなった人。遠くにいる人、連絡が途絶えてしまった人。時折ふと思い出す。あいつは元気にやってるだろうかって。あの人はこんな風に言ってたけど、今頃どうしてるだろうかって。つまりそれは、もしかしたら自分も自分の知らない何処かで誰かにそんなふうに思われているかもしれないってこと。それって生きた証しにならないだろうか?

#8『みんなの願いかなう日まで』がリリースされたのは2013年。あの時はえらくシンプルな言い回しだなとあまり気にも留めずにいたのだが、時を経てこうして何度か聴いていると、そんな今の自分の気持ちと重なり合って聴こえてくることに気付く。

最後に、大事な1曲を忘れていた。#2『君がいなくちゃ』は佐野が16歳の時に書いた曲だそうだ。通っていた高校でちょっとした流行歌となったらしいが、時間と共に佐野自身もすっかり忘れてしまっていたらしい。ところがこの曲は長年にわたりその高校内で歌い継がれるようになり、数年前、卒業生の一人が佐野にこのことを伝えたところ佐野自身も思い出したという。ここで披露される『君がいなくちゃ』は当時とは歌詞を若干変えているそうだが、人生の秋を思わせるアルバムにあって、瑞々しい感性でアクセントを与えている。

ちょっとしたすれ違いを「暗闇の小舟のように」と例える描写が素晴らしいが、より心を打つにはブリッジの部分。かつて『Someday』で「手おくれ」に対し「口笛でこたえていた」少年が、ここでは「強い勇気をどうかこの胸に」と切に願う。遠い昔に書かれた曲がこのアルバム全体のトーンと共鳴する瞬間だ。

このアルバムはタイトルそのままに人生の秋が描かれている。40代半ばを過ぎた僕にはまだ少し早い季節。だから凄く心に馴染む曲もあれば、まだよく分かっていない部分もある。けれどそこには景色がある。意味を云々する前にそこに景色が存在するのだ。僕がまだ若葉の頃、コステロの曲やヴァン・モリソンの曲を素敵だなと思ったように今の若い世代にもこの秋のアルバムを聴いてもらいたい。意味など分からなくていい。まだ見ぬ景色を眺めることもかけがえのない経験や知恵になるのだから。

 

Tracklist:
1. 私の人生
2. 君がいなくちゃ
3. 最後の手紙
4. いつもの空
5. 或る秋の日
6. 新しい君へ
7. 永遠の迷宮
8. みんなの願いかなう日まで

The Circle/佐野元春 感想レビュー

 

『The Circle』 (1994) 佐野元春

 

冒頭の『欲望』は長田進の低く唸るディストーションギターで幕が上がる。「物憂げな顔したこの街の夜/天使達が夢を見てる/コスモスの花束を抱えて/君に話しかける」という詩で始まるこの曲を、佐野は放り投げるようにして歌う。網膜に映る鮮烈なイメージをただひたすら追い続けるかのようなこの曲はまるで白中夢。言葉にならない感情がそれでも言葉になろうと蠢いている。

冒頭の『欲望』が夜明けなら、「朝 目が覚めて」で始まる2曲目の『トゥモロウ』は休日の朝の風景。「It’s getting better now」と歌うこの曲には,混迷の時代を陽気に切り抜けようとする楽観性が見えてくる。この曲の見せ場はその「It’s getting better now」で始まるブリッジの部分。ここで佐野は「作り話はいらない/ただ素早く叩け/速やかに動け」と激しくシャウトする。本アルバムのハイライトのひとつだ。

続く『レイン・ガール』は佐野のキャリアの中でも屈指のポップ・チューン。くぐもったトーンのアルバムにあって、タイトルとは裏腹に太陽のように明るい曲だ。この曲の見せ場もブリッジ。「楽しい時にはいつも君がそばにいてくれる/悲しい時にはいつも君の口付けに舞い上がる」。このロマンティックなセリフを佐野は高らかに歌い上げる。

続く『ウィークリー・ニュース』はプロテスト・ソング。過去の楽曲で言うと『Shame』に連なる曲だ。とはいえ、特定の誰かを糾弾するものではない。矛先は「好きなだけ悲しげなふりして/うまく立ち回るのはどんな気がする」僕たち自身に向けられる。無論、佐野自身にも。

本アルバムにはその名も『ザ・サークル』という表題曲があるが、実質このアルバムの中核をなすのは5曲目の『君を連れて行く』だろう。そしてまた、この曲はこの時の佐野のソングライティングの一つの到達点と言える。

「無垢の円環」という概念に着目した佐野が示した「再生」の歌。幾つかの終わりを経験した年を重ねた男女の物語。曲も素晴らしいが、このアルバムで最後となるザ・ハートランドの演奏が本当に素晴らしい。ゲストのハモンド・オルガン・プレイヤーであるジョージィ・フェイムと共に、ザ・ハートランドの数ある楽曲の中でも屈指の名演に挙げられるのではないだろうか。

続く5曲目は少し感傷的になった気持ちを目覚めさせるようなホーン・セクションで始まる『新しいシャツ』。それまでの価値観が崩壊しつつあった90年代前半、「ウェヘヘイ」と笑い飛ばし、「新しいシャツを見つけに行く」と歌う姿は、まさにノー・ダメージ。重いテーマを陽気に歌う佐野の真骨頂である。

次曲の『彼女の隣人』ではどちらかと言うと歌詞にそぐわない「ありったけ」というフレーズが繰り返される。「ありったけのrain/ありったけのpain/ありったけのlove/君と抱きしめてゆく」。ロックンロール音楽は英語圏で生まれたものではあるが、日本語ならではの語感もまたいい。

8曲目は表題曲の『ザ・サークル』。「今までの自由はもうないのさ/本当の真実ももうないのさ」という、ショッキングな歌詞で始まるこの曲は、延々「今までのようには~しない」という否定の言葉が続く。ひたすら自己否定を繰り返した挙句、「少しだけやり方を変えてみるのさ」、「今までのように」と続く。まるで禅問答のように。そして特筆すべきは間奏での佐野のシャウト。本人も当時のインタビューで語っていたが、『アンジェリーナ』の頃とはひと味もふた味も違う、実に滋味深いシャウトである。

本作はハモンド・オルガン・プレーヤーのジョージィ・フェイムを招いている。9曲目の『エンジェル』はそのジョージィ・フェイムのために書いたようなバラード。シンプルな歌詞をレゲエのリズムに乗せ、「今夜は君の天使になるよ」とだけ囁くように歌う。中盤のジョージィ・フェイムのソロ・パートは至福の時間である。ラストの佐野とジョージィ・フェイムの掛け合いも実に楽しそう。

このアルバムの最後を締めるのは『君がいなければ』。佐野には珍しいオーソドックスなラブ・ソング。他の曲の個性が際立っているせいか地味な印象を受けるが、後にカバー・アルバムにも収められた重要な曲。ある男の告白といったところか。言葉に出しては言えないが、歌にしてなら言える。けれど本当に伝えるべきことはあるのだろうか。

本アルバムの根底にあるのは、この時期の佐野が発見した「サークル・オブ・イノセンス~無垢の円環~」という概念である。イノセンスというのは消えたり無くなったりするのではなく、それを失いかけた時、新たなイノセンスが立ち現れるというもの。

ロックンロール音楽というのは子供のための音楽である。「生きるってどういうこと?」、「人を好きになるってどういうこと?」という十代の心の迷いや葛藤こそがロックンロール音楽の根幹をなすものと考えられてきたし、もっと極端に言えば、ロックンロールは十代の多感な男の子の為の音楽であった。

かつて「つまらない大人にはなりたくない」と歌った佐野も大人になり、そして僕たちもいつまでも「つまらない大人にはなりたくない」では済まされない年齢になった。「本当の真実が見つかるまで」と歌った佐野はついには「家へ帰ろう」とさえ歌うようになる。誰しも年を取る。老いや成熟といったロックンロール音楽とは相反する立場にありながら、しかし音楽家は或いは僕たちは未だにロックンロール音楽を欲して止まない。

ロックンロール音楽は未開の領域へ踏み出した。例えば、スプリングスティーンは70歳を迎えてもなお、希望や成長についての歌を歌い続けている。幾つかの絶望や喜びを経験した先の希望の歌を。それは無垢の円環とは言えないだろうか。

「家へ帰ろう」と歌った佐野も成熟と成長という相反するテーマに向かい始める。前作の『スィート16』(1992年)アルバムで瑞々しさを取り戻した佐野は陽気に軽やかに再び無垢について歌い始めた。そして無垢の円環についてより深くアプローチしていく。少しも零れ落ちることのないような丁寧さで。それがこの『ザ・サークル』アルバムだ。そしてザ・ハートランドとの最後の作品となったこのアルバムで、佐野はデビュー以来ずっと続いてきたひとつの道程に終止符を打つ。

 

Tracklist:
1. 欲望
2. トゥモロウ
3. レイン・ガール
4. ウィークリー・ニュース
5. 君を連れてゆく
6. 新しいシャツ
7. 彼女の隣人
8. ザ・サークル
9. エンジェル
10.君がいなければ

Fruits/佐野元春 感想レビュー

 

『Fruits』(1996)佐野元春

 

ハートランド解散後、第一弾のアルバム。一人になった佐野が、国内の気になる音楽家をとっかえひっかえ呼び集め、長いセッションを繰り返した末に出来たのがこの『フルーツ』アルバム。今思えば、ハートランド時代からよく海外へ出かけ、現地のミュージシャンとアルバムを作ってくることが何度かあったので、その国内版みたいなものかもしれない。ただ当時としてはやはりハートランドがいないということはかなりのインパクトで、この先どうなるのかは全く想像がつかなかった。

参加ミュージシャンの多さに伴い、サウンド的にも色々なジャンルが施され雑多な多国籍料理のような佇まい。詩の世界観もあちこち飛び回るのだけど不思議と統一感のあるアルバムで、佐野が「僕の庭で始まり、僕の庭で終わる」と言ったのも納得。佐野の案内のもと、初期の『No Damage』を思わせるテンポの良さで、タイムマシーンのように人生の切り絵をあっちこっちドライブしてゆく。そんな脳内ロード・ムービーのようなアルバム。各曲が意図的に3分程度にまとめられている点も効果的だ。

良くも悪くもザ・ハートランドという制約を取っ払ったことで、佐野の才能がスパークしており、堰を切ったようにアイデアが溢れ出している。自由にソングライティング出来る喜びに満ち溢れているといった感じである。

またアルバム・リリース後にバンドを組むことになる The Hobo King Band のメンツがあらかた揃っているのも特筆すべきで、当然このアルバムを機に佐野のサウンドは大きく舵を切る。このアルバムで言えば佐橋佳幸のギターが大きくフィーチャーされており、これまでのキャリアを見てもこれだけギターが目を引くのは初めてではないか。また、ドカドカした古田たかしのドラムとは異なり、小刻みに弾けるように叩く小田原豊のドラムが新鮮。彼のドラムはこのアルバムのムードによく合ってる。

佐野はこのアルバムを、誕生、成長、結婚、そして生と死といった人生のサウンド・トラックと称している。非常にポップなアルバムで生を色鮮やかに彩る一方、その背後に死を感じさせており、特に大きな震災を経た今となっては余計にその思いを強くする。

そういえばこのアルバムは阪神淡路大震災後にリリースされている。当時はあまりに気に掛けなかったが、そこかしこに死や明日はもう来ないかもしれないといったイメージが見え隠れする。一見、シングル集的側面が強いポップなアルバムではあるが、頭から通して聴くべきアルバムではないだろうか。そういう意味では作家性の強い作品とも言える。

詩は非常にシンプルにまとめられており、視覚的にも平仮名が多くなっている。しかしながら映像を伴ったその喚起力は凄まじく、聴き手の想像力を大いにかき立てる。今思えば、近年ほぼ完成形を見せている平易な言葉での日常的な表現という手法の始まりだったのかもしれない。言葉が強く前面に出ていた前作『ザ・サークル』とはまた別の視点で日本語への接近が図られており、圧巻の♯14『霧の中のダライラマ』を始めとして、今までとは異なる言葉の冴えが随所に見られる。

このころの佐野の表情は柔和なもので、リリース前に行われたツアーでも笑顔が絶えなかった。やはり前作『ザ・サークル』で成し遂げた無垢の円環という気付きは大きなターニング・ポイントだったのだろう。文字通り、新しいシャツを着た佐野の次のタームがここにある。

様々な重荷から解き放たれたことで簡潔になった言葉。ジャンルを問わないサウンド。まさに新しい佐野元春が始まったということを印象付けるように前向きでまっさら、これまでの、またこれ以降の作品と比べても飛び抜けて色鮮やかな作品。『ザ・サークル』からハートランド解散を経て、佐野の新たなステージが始まった。そんな印象を強く受ける、その名のとおり新鮮な果物のようなアルバムだ。

 

 

Tracklist:
1. International Hobo King
2. 恋人達の曳航
3. 僕にできること
4. 天国に続く丘の上
5. 夏のピースハウスにて
6. Yeah!Soul Boy
7. すべてうまくはいかなくても
8. 水上バスに乗って
9. 言葉にならない
10. 十代の潜水生活
11. メリーゴーランド
12. 経験の唄
13. 太陽だけが見えてる
14. 霧の中のダライラマ
15. そこにいてくれてありがとう
16. Fruits

THE BARN/佐野元春 感想レビュー

 

『THE BARN』(1998)佐野元春

 

1998年頃の佐野は久方ぶりのテレビ出演やCM出演があったり、かつてない程のマスメディアへの露出があった。デビュー以来のパーマネント・バンドであるThe Heartlandを解散し、新たなメンバー(結成当時はInternational Hobo King Band という長い名前だった)と作り上げた1996年の『FRUITS』アルバムは佐野を知らないリスナーにまで届く可能性のある、非常にポップで明度の高い作品であったし、それを受けたツアーもニュートラルで開放感ある素晴らしいものだった。そして前述のテレビメディアへの露出。その後の新しい聴き手をがっちり確保するいわば勝負の時期に佐野は『THE BARN』というアルバムで挑戦してきたのである。しかしそのアルバムは1984年の『VISITORS』同様、誰もが手放しで喜べるものではなかった。

『THE BARN』は60年代70年代の米国フォーク・ロックへのオマージュである。ザ・バンド、ボブ・ディラン、幾多のウッドストック・サウンドへの憧憬を隠すことなく露わにしている。直接ウッドストックへ赴いてのレコーディング合宿。それは言わばハネムーン期を過ぎたThe Hobo King Bandの面々の共通のバックボーンを辿る旅でもあった。

果たしてそれは成功したか否か。作品としては大成功である。素晴らしい名演の数々。新しいフェーズを感じさせるソングライティング。当時流行のダンス音楽とは一線を画す、アナログで且つキレ味鋭いサウンドはどの曲をとっても生々しい手触りに満ちている。しかし新しい聴き手を獲得する勝負の時期としてそれは的確だったか。残念ながら商業的な成功を収めるに至らず、一般向けには相変わらず佐野元春はよく分からない人というイメージを覆すことは出来なかったように思う。

それは作品が素晴らしいだけに、長らく佐野のファンであった僕には非常にもどかしい感覚だった。しかし。このアルバム20周年にあたる2018年には1万円以上もするアナログ盤をメインにした非常に丁寧なボックス・セットが発売された。このことはこの『THE BARN』アルバムに熱い思いを持つ人達が数多くいたことを証明するトピックではなかったか。確かに当時は不特定多数を巻き込むヒットにはならなかった。しかし、ある特定の人達の心には深く強く響いたのだ。

このアルバムは1984年の『VISITORS』と同じく、佐野のキャリアでは特異点と呼べるような作品だ。歌詞、メロディ、サウンド、どれを取ってもこの時にしか成し得ない表現がパッケージされている。中でも印象深いのは歌詞だ。『THE BARN』アルバムを語る際に真っ先に挙げられるのは、ダウン・トゥ・ジ・アースと言われるいなたいサウンドだが、僕にはそれよりも先ず、リリックが強く響いてきた。佐野は時折目の覚めるようなリリックを書くが、このアルバムでは正にそう。佐野は元々情緒を廃した情景描写を行う作家であるが、ここでは普段より更に乾いた情景が非常に細やかに描かれている。

例えば『7日じゃたりない』。
 「話しかけるたびに不思議な気がする/この体中の血がワインに変わりそうさ/あの子のママが言うことはいつも正しい」

例えば『風の手のひらの上』。
 「身繕いをしながら/仕方がないと彼女は言う/疑わしく囁いて/黒いレースのストールを夜に巻きつける」

例えば『誰も気にしちゃいない』。
 「この辺りじゃ誰も気にしちゃいない/庭を荒らされても何も言えない/君を守る軍隊が欲しい」

それだけで現代詩になるリリックが目白押し。これらが佐野元春節とでもいうような独特の譜割で歌われる。

独特といえばメロディもそうだ。Aメロ、Bメロ、サビ、といった基本フォーマットは無視されている。サビがどこにあるのかよく分からない自由なメロディ。このアルバムの曲の大半は現地で書かれたそうだが、そのオープンな環境に触発されたのか、自由で伸びやかなメロディが横溢している。そこにユニークな言葉の載せ方が加わり、僕たちは言葉とメロディの幸福な関係を見る。

当時、佐野はレイド・バックしたなどと揶揄する向きもあったが、20年経った今聴くとどうだろう。未だに鮮度は失われていない。いや、今でもまだ新しい。それはやはり、その場その時でしか成し得ない衝動に佐野が忠実だった証左。世間に何故今これなんだと言われようが、今はこれなんだという自ら肌で感じる時代感覚が成し得た成果ではないだろうか。『THE BARN』は『VISITORS』と並ぶ異形のアルバムと言って差し支えないだろう。

 

Tracklist:
1. 逃亡アルマジロのテーマ
2. ヤング・フォーエバー
3. 7日じゃたりない
4. マナサス
5. ヘイ・ラ・ラ
6. 風の手のひらの上
7. ドクター
8. どこにでもいる娘
9. 誰も気にしちゃいない
10. ドライブ
11. ロックンロール・ハート
12. ズッキーニ-ホーボーキングの夢

Sones & Eggs/佐野元春 感想レビュー

Sones & Eggs(1999年)/佐野元春

 

2000年はちょうど佐野のデビュー20周年で、アニバーサリー・ツアーを行ったりベスト・アルバムを2枚出したりと、それっぽい活動を盛んにしていた時期だ。20周年だから新しいアルバムをリリースしてファンの皆に喜んでもらおうという佐野らしからぬ理由で作られたこのアルバムは、正直言うと焦点がいまひとつ絞り切れていない。やはり佐野は作りたい時に作るべき人なんだよなぁと思ったりもするが、この頃は単に佐野自身の創作活動としてもあまり明確なビジョンを持てなかった時期だったのかもしれない。

このアルバムで佐野がチャレンジャブルだったのは楽曲そのものというより、創作方法というプロセスだ。元々佐野は日本全体で5番目という速さで自身のサイトを立ち上げた程のコンピューター・フリーク。80年代中盤から行っていたスポークン・ワーズにおいても、自身がコンピューターで作り上げたトラックに乗せて詩を朗読している。この時の佐野はその表現方法をメインの創作、ポップ・ソングの領域へと押し広げてみようとしたのだろうか。というより単に一度は取り組んでみたかったアイデアだったのかもしれないが、そういう意味では、当時のバック・バンドであるザ・ホーボー・キング・バンドと共にウッドストックまで出向き徹底的にバンド・サウンドにこだわった『The Barn』(1998年)の後というのはちょうどよいタイミングだったのかもしれない。

しかし結果的に言えば、そのトライアルは上手くいかなかった。佐野はサウンドをよく乗り物に例える。フォークであろうがロックンロールであろうがヒップホップであろうが何でもいい。言葉とメロディーを上手く乗せてくれる乗り物であれば何でもいいと。結局、この時の一人での打ち込みサウンドは佐野のソングライティングを受け止めるだけの乗り物にはなり得なかった。佐野自身も一人で作っても面白くなかったと後に冗談めかして述懐しているが恐らくそれは本心だろう。

しかし曲そのものに目を向けていけば、質の高い曲が多く収められている。佐野はライブやなんかでよくアレンジを変えて演奏するので、当時の僕はこれらの曲もいずれライブなどで新しくリアレンジしてくれたらなぁなどと思っていたが、実際に後の裏ベスト『Grass』(2000年)やカバー・アルバム『月と専制君主』(2011年)、『自由の岸辺』(2018年)でこのアルバムからの計4曲が再レコーディングされている。

本作を制作するに当たって、佐野は自身の作品のどういう部分をファンが支持してくれたのかというところに立ち返り、ファンの皆が喜んでくれるようなアルバムにしようというファン・フレンドリーな視点で制作している。それは20周年という節目を迎えた佐野のストレートなファンに対する感謝の気持ちの表れであり、キャリアで始めて過去の作品を振り返るという作業を行っている。

従って本アルバムは過去の作品を踏襲したものや、当時国内で勃興していたヒップ・ホップへの再接近などがある。特に冒頭の『GO4』はそのどちらをも意識した作りであるが、音も言葉も中途半端感が否めない。言葉が紋切型だし、前述したとおり音が弱い。残念ながらアルバム最後に据えられた、ドラゴンアッシュのKJとBOTZが手掛けたリミックスの方がよほどカッコいいと思うがどうだろう。

逆に言葉の切れ味が素晴らしいのは同じくヒップ・ホップ的なアプローチの『驚くに値しない』。かつての『ビジターズ』(1984年)の系譜といえるボーカル・スタイルで、ラップでもない歌モノでもないオリジナルの表現が立ち現われている。特に「偽善者たちの群れにグッドラックと言って~」で始まる2番からのリリックは秀逸。

このアルバムは全てを佐野一人で手掛けたわけではなく、曲によっては盟友ザ・ホーボー・キング・バンドが参加。とても素晴らしいバンド・サウンドを聴かせてくれる。そのひとつが『大丈夫、と彼女は言った』。情景を喚起させる丁寧な歌詞とそれを掬い取るバンドの演奏。特にKyonのアコーディオンが最高だ。

もう1曲のホーボー・キング・サウンドが『シーズンズ』。この曲の見せ場は何と言っても最後の1ライン、「さようならと昨日までの君を抱きしめて」とアウトロにかかる「Sha la la …」である。というよりこの部分が全てと言っていいだろう。「さようならと~」のフレーズは曲中に何度か繰り返されるが、最後のそれはそれまでとは全く異なる響きを持つ魔法の言葉となり、そしてそれは佐野の黄金フレーズである「Sha la la …」へと昇華されてゆく。この曲を初めて聴いた時は正直このベタであまりにもストレートな歌詞になんじゃこれと思ってしまったが、先ほど述べた最後のラインとアウトロでそんな気持ちはどこかに飛んで行ってしまった。恐るべし、佐野の「Sha la la …」。

佐野はやはり20周年ということでどうしてもアルバムを作りたかったんだろうと思う。しかし実際にはザ・ホーボー・キング・バンドとの渾身の『The Barn』後の空白のような時期で、次へのビジョンを整理している段階である。しかもこの時期の佐野は声に変調をきたし、上手く声が出せなくなっていた。低音で歌ったりファルセットを多用し、ボーカルにおいても試行錯誤の時期である。

そういう全体的な創作において旺盛な時期ではなかったにもかかわらず、佐野は自身のスタジオに籠り、ファンの皆に喜んでもらいたいと言って一人で新しい表現へのトライアルを続けてくれた。このアルバムはその結実である。何かと凸凹の多いアルバムではあるけれど、今振り返ってみればチャレンジャブルで極めて佐野元春らしいアルバムではないだろうか。

Track List:
1. GO4
2. C’mon
3. 驚くに値しない
4. 君を失いそうさ
5. メッセージ
6. だいじょうぶ、と彼女は言った
7. エンジェル・フライ
8. 石と卵
9. シーズンズ
10. GO4 Impact

自由の岸辺/佐野元春 感想レビュー

 

『自由の岸辺』(2018年)佐野元春

 

僕は割と物持ちのいい方で、幸い体型も若い頃とさほど変わらないから、10年以上前に買ったジーンズを未だに穿いたりしている。流石にデザイン的に古くなったものは処分するが、世間には仕立て直して代々引き継ぐなんてのもあって、まぁそういうものはそれなりの価値があるものだろう。そういえば姉が成人式で着た振袖は母のものを仕立て直したものだし、うちの娘が着た七五三の晴れ着も確か姪っ子のものを仕立て直したものだった。

この『自由の岸辺も』も言ってみればそのようなイメージで、年月を重ねた今の体型にそぐう形に仕立て直されたアルバムだ。したがってカバー・アルバムにありがちな、昔のアレンジはちょっとアレだから今風のサウンドに手直ししましたというのとは異なる。アーシーでより直接性を帯びたサウンドを聴けば、本作が現代の解釈で練り直されたリ・クリエイト・アルバムだというのが分かってもらえるだろう。

芸術とはまだ起きていない事を形にするものだとは誰が言った言葉だったか。優れた作品というものは時代を超える。本作にも今の時代に照らし合わせても、いや年月を経た今だからこそかえって真実味を帯びている曲がある。例えば『メッセージ』。2000年の曲だが、不穏な時代の今にこそよく響く。原曲では快活に「How you going to read this message? (君ならこのメッセージをどう読み取る?)」と歌われる歌詞は、よりテンポを落とした落ち着いたトーンで「本当の君のメッセージ / 本当の君が知りたいだけ」と視点を変え、日本語に変えて歌われている。この視点の入れ替わりは何を意味するのか。それは非寛容な現代における他者への耳のそばだてを意味するというのは考え過ぎだろうか。

また、1989年の作品『ブルーの見解』は、分かったような口を聞く「放課後の教師」のような存在に対し、「俺は君からはみ出している」と辛辣に言い放つ曲。これこそSNS時代の今ならではのリアリティーを感じる曲だ。曲調はファンクでアップテンポ。性急さと共に、「俺は君からはみ出している」のはもう当然だろ?とでも言うような居住まいはやはり2018年だ。

前回のリ・クリエイト・アルバム『月と専制君主』(2011年)は‘君の不在’がテーマだったが、本作は‘そばにいるよ’という優しいメッセージがテーマとなっている。オープニングを飾る『ハッピーエンド』はその典型。新しくラテン調のリズムを纏ったこの曲は原曲の溌剌さではなく、優しく語りかけるように「そばにいるよ」と歌う。続く『僕にできること』もそうだし、基本的には最終曲の『グッドタイムス&バッドタイムス』まで穏やかなトーンで占められている。このアルバムはやはり、「一緒にランチ食べよう」と歌う『エンジェル・フライ』でも顕著なようにコミュニティの中で好むと好まざるに関わらずアウトサイダーになってしまう人々の存在が強く意識されているのではないか。それが全体としての優しいトーンに繋がっているようにも思うし、2018年という時代性とも繋がっているように思う。

しかし全体としてはそのような優しいトーンであるにもかかわらず、アルバム・タイトル曲として、80年代に作られどのオリジナル・アルバムにも収録されていない隠れた曲、『自由の岸辺』を持ってきたというのにはわけがある。優しいだけではなく、時代への危機感や明確な意思が働いていることも聴き手には訴えかけてくるだろう。

このアルバムは原曲では英語になっている箇所が日本語に置き換えられていたり、歌詞そのものが変更されている箇所がある。原曲に馴染んだ手前、変更された歌詞に異物感を感じてしまうところもあるが、勿論作者はそれも織り込み済みであろう。そうした遺物感から生まれる揺らぎを作者は提示しているのかもしれない。

僕は物持ちがいい方だ。出来れば気に入った服は長く愛用したい。中には長く着ていないけど、気に入っているので処分できずにずっと仕舞われたままのものもある。ところが何を思ったか、今の時代にぴったりそぐう時があって再び袖を通す時が訪れる。それはやはり嬉しいことだし、少しだけ誇らしい気分にもなる。音楽家だって同じこと。過去に書いた曲であっても今の空気に触れさせたいと思うのは当然だ。新しい空気に触れて、その音楽はまた新しい色艶を手に入れる。そういう音楽の在り方は素敵だと思うし、聴く方も勿論楽しい。

 

Track List:
1. ハッピーエンド
2. 僕にできることは
3. 夜に揺れて
4. メッセージ
5. ブルーの見解
6. エンジェル・フライ
7. ナポレオンフィッシュと泳ぐ日
8. 自由の岸辺
9. 最新マシンを手にした子供たち
10. ふたりの理由~その後
11. グッドタイムス&バッドタイムス

佐野元春 & The Coyote Band 禅BEAT TOUR 2018 感想

ライブ・レビュー:

佐野元春 & The Coyote Band 禅BEAT TOUR 2018 in ZEPPなんば 2018.10.20 感想

いや~、楽しかったッス。佐野元春 & The Coyote Band「禅ビート・ツアー 2018」。今年の春にニュー・アルバム『Maniju』をフォローするマニジュ・ツアーが行われたばっかなのに、この秋に『Maniju』アルバム中の1曲である「禅ビート」をタイトルにしたツアーを行うという。春がホール・ツアーで今回はライヴ・ハウスを巡るということで主旨が異なるものの、またなんでツアーなの?という疑問が無くもなかったのですが、行ってみてよ~く分かりました。全編、重心の低い Coyote Band ならではビートをフィーチャーした名付けて禅ビート。2007年のアルバム『Coyote』に端を発した Coyote Band 結成がここに至り獲得したひとつのスタイルをより重点的に披露しようってんですね。その意図がよ~く伝わるライヴでした。

マニジュ・ツアーは Coyote Band と制作したアルバムからの曲のみで本編が構成されるという潔いセット・リストだったけど、今回の禅ビート・ツアーも基本はそこは同じ。オープニングからほぼ全編、近年の曲で占められています。これはやっぱりいいですね。ロック音楽には同時代性が必要で佐野さんの昔の曲がそうではないという訳ではないけど、今の佐野さんには今を叩きつける今の歌が沢山あるわけだから僕はやっぱりそれを聴きたい。世の中には音楽が沢山あるけれど、残念ながら日本には時代に言及する音楽が足りない。今の佐野さんの音楽はチャートに昇るようなものではないけれど、今日この日の会場では2018年の音楽が流れている。そう強く感じさせるライブでした。

ライブ前半はマニジュ・ツアーに準ずるラインナップ。しかしやはりライブ・ハウスというのは大きい。単純に届く距離が短いということは同じ曲であっても響き方が全然違うということ。これは僕が思ってるだけかもしれないけど、やはりCoyote Band はライブ・ハウスが映える。なんかホールだとよそよそしく感じてしまうんだよなぁ。このバンドが一番自然体ていられるのはライブ・ハウスってことではないでしょうか。

てことで、ところ違えば響き方も違う。僕個人として今回一番そこを感じたのは「純恋(すみれ)」だ。この曲は『Maniju』アルバムの中でも人気が高い曲だけど、実は僕にはあまり響いて来なかった。ところが今回はイントロを聴いた瞬間に感情が大きく波打って自分でもびっくり。この曲は佐野さんのMCでもあったようにティーンエイジャーに向けられた曲で、恋に落ちた時の心模様が描かれている。なんだろ、好きになった時やそれが成就した時の天にも昇る気分、恋が終わった時ののたうち回るような苦しさ、そういった記憶がバババッと思い出されてきたんだな。なんか自分の中の思春期が急に蘇ってきた感じ(笑)。強烈なアンセムとして響きました。僕にとってはこの曲がこの日のハイライトでした。

ライブ後半はマニジュ・ツアーと違って80年代、90年代の曲が幾つか披露されました。禅ビート・ツアーって言うぐらいですから勿論、Coyote Band としての解釈でぐぐくっと重心の低いダンス・ビートとして鳴らされます。確かにこの辺の曲をやった時の方が Coyote Band としてのアイデンティティーが明確に目に見えて来ますね。なんて言うのかな、世代的にオルタナティブなロックをくぐり抜けた Coyote Band の面々ではあるけれど、かえってアーシーと言うか非常に泥臭いサウンドで直に迫る感じ、泥が跳ねて来そうな直接性を感じられました。「インディビジュアリスト」や「ヤァ!ソウルボーイ」などでそれは顕著に感じましたね。

まぁそういう意味では、古い曲をすることで Coyote Band が叩き出す`禅ビート’がよりはっきりと浮かび上がってくる訳だけど、マニジュ・ツアーに比べると幾分古い曲が多いかなと。個人的にはもうちょい『Maniju』アルバムからの曲が聴きたかったかなとは思います。ま、そうするとマニジュ・ツアーとあんま変わらないセトリになってしまいますからとマニジュ・ツアーとは別のアプローチで、というのはあったのかもしれないですね。

あとライブの中身と関係無いところで、春のツアーはフェスティバルホールだったの席番があって、ところが本編の間中ずっと誰も立たないという髄分なストレスがかかる状態となり(←主要年齢層が50代なもので)、集中することが難しかったんだけど、今回はライブ・ハウスということでスタンディングあり。それでも年齢層を考慮してほぼ9割が座席ありのチケットで、僕は勿論前みたいにずっと座ってんのヤダからスタンディングにしたんだけど、始まったら結局みんな立ち上がって、なんだそんならイス席取りゃ良かったなと(笑)。だってスタンディングは1階の最後列なんやもんなぁ。

あと途中からなんかプワ~ンと漂うものがあって、これは多分口臭ですかね(笑)。これがどうも気になっちゃって、いかんいかん、口で息をしようと思ったんだけど、オレ魚じゃねぇし無理(笑)。多分後ろの人だと思うんだけど、だんだん盛り上がって来て一緒に歌い出したんだろな、そうすっと息も前へ前へ押し出されてくる訳で、スンマセン、僕はもう我慢出来なくなりました。てことで途中で一番後ろへ移動(笑)。でもこれが不幸中の幸い。一番後ろはスペースもあって、そこからは周りを気にすることなく目一杯楽しめました。やっぱスタンディングで良かったという話です(笑)。

今回はインスト・ナンバーも披露されました。キーボードの渡辺シュンスケ率いるバンド、シュローダー・ヘッズの曲、「ライナス・アンド・ルーシー」。聞き覚えのあるスヌーピーの曲です。これが格好良かった!めちゃくちゃ楽しかった!僕は一番後ろで跳び跳ねてしまいました(笑)。佐野さんも「ここからは渡辺シュンスケ・アンド・ザ・コヨーテ・バンド!」なんて粋なこと言います。

ライブはアンコール含めての2時間弱。えっ、そんだけしか時間経ってないの?っていうぐらいあっという間の濃密なライブでした。セトリもアップ・テンポのものが多く、やはりビートに重きを置いたライブという主旨が如何なく発揮されていました。力強く深く道を抉る感じ。今の佐野元春はこれなんだよ、という宣言。Coyote Band のアイデンティティーはこれなんだよ、という宣言。どうしても年齢層は高くなるけど、これはやっぱり若い人に聴いてもらいたいな思いました。現実的に年齢層の高いお客さんのパワーも落ちてきたような気もするしね(笑)。

でも実際、もし佐野元春の曲をひとつも知らなくても十分楽しめるライブだと思います。今の若い子はフェスなんかでそういう場合の楽しみ方もよーく分かってるだろうし、なんつっても Coyote Band の作り出すサウンドは普通に格好いい!勿論、手練れのメンバーだし技量的に優れているのだけど大事なのはそういことではなく、同時代性を伴って如何にビートを鳴らせるかに掛かっている訳で、そういう意味では佐野元春 and The Coyote Band の’禅ビート’はまさしく今を強くキックするバンドだと思います。

ライブとは何なのか。こうやってひとつところに集まって直に音楽を聴く、体感することはどういう意味を持つのか。この日の佐野さんは何度も「楽しんでいこう!」、「ダンスしよう!」と言った。会場には少ないながらも10代、20代の連中がいた。佐野元春は言う。「僕たちと皆の見ている景色は違うかもしれないけれど、明るい未来は願う気持ちは一緒だ」と。ただ楽しむもよし、踊るもよし。自分の胸を打つものは何なのか?それは何故なのか?と咀嚼し考えるもよし。それぞれの人生と照らし合わせ、思い思いにライブを過ごす。そういう自由でポジティブなムードをもたらすものはやはり現代の荒地を往く Coyote Band のビートがあるからなのだと思いました。

それにしても佐野さんが一番楽しそう(笑)。ところどころで顔を出すユーモアも抜群だし、佐野さん、キャラ変わってきたな(笑)。「僕たちはこれからも前進します」と言ってたし、結成して10年以上経ちますが、佐野元春 & The Coyote Band の旅はまだまだ続きそう。皆さん、今の佐野元春は凄いですよ!

セットリスト:
1. 境界線
2. 君が気高い孤独なら
3. ポーラスタア
4. 私の太陽
5. 紅い月
6. いつかの君
7. 世界は慈悲を待っている
8. La Vita e Vella
9. 空港待合室
10. 新しい雨
11. 純恋
12. ライナス&ルーシー(インスト)
13. 禅ビート
14. 優しい闇
15. 新しい航海
16. レインガール
17. インディビジュアリスト
(アンコール)
18. ヤァ!ソウルボーイ
19. 水上バスに乗って
20. アンジェリーナ

THE SUN/佐野元春 感想レビュー

THE SUN(2003年)/佐野元春

 

佐野元春は孤高の存在だった。時に抽象的に、時にコラージュのように言葉を並べ、場合によってはスポークン・ワーズ形式で理知的に語るときもあるし、ラップのように語感を強く響かせたりもした。比喩表現をふんだんに散りばめ、押韻を踏み、また聞いたこともないような人名や語彙を盛り込ませながら、聴き手の想像力にさざ波を立てた。ややもすれば聴き手を置いてけぼりにするその態度はアーティストそのものだった。その如何にも意味ありげな言葉や未知の表現に、意味がよく分からないながらも僕はなんとか食らいつこうとした。そしてそこに抗いがたい魅力を感じた。だからライブに行ってたとえそこに佐野がいたとしても、佐野は僕にとってはるか遠い存在だった。

このアルバムが出た2003年、僕は結婚をした。仕事から帰っては時間を見つけて、日に2~3曲づつこのアルバムを聴いていた。当時の僕は仕事から精神的にダメージを受けていた。でも彼女との新しい暮らしに喜びを感じていたし、やがて子供を宿したと聞いてかつてない幸福感を感じていた。そんな色んな日常の感情が激しく揺れ動くなかにこのアルバムはあった。

このアルバムで佐野はいつになく身近な言葉を用いている。時に巧みな比喩表現を用いて心象風景を描いてきたこれまでとは出発点から異なっていた。簡単な、平易なという意味ではなく、生活に根差した身近な言葉。かつての少年少女は大人になった。30年前、街のファンタジーを切り取ったように、今度は地に足の着いた人生を切り取る。アーティストが我々の側に降りてきたとまでは言わないが、佐野のスタンス、視点が大きく変わり始めたアルバムではないだろうか。

佐野はこのアルバムを自身のキャリアと共に成長してきたファンに向けて書いたと言っていた。この時(2003年当時)、30代から40代といった彼、彼女たちは不況の中、上からや下からのプレッシャーの中でしんどい時期を迎えている。そんな彼、彼女たちの物語を書きたいと話していた。その言葉通り、ここには14編の小さな物語がある。どれも生活といううすのろと悪戦苦闘するそう若くない男女の物語。そこには確実に絶望が横たわっている。しかしそれだけではない。見えない何か、それは希望と言ってもいい。明々と照らしているわけではないが、その分確実に存在する光。木漏れ日のような光が差し込んでいる。数十年前に佐野はこう歌った。~いつの日も誰かがきっと遠くから見ていてくれる~(1989年『ジュジュ』)。佐野はここでそれをもう一度高らかに歌っているようだ。何処かで見ていてくれる存在。そして小さくとも確かにそこにある希望。そして僕にとってもこのアルバムは、2003年の景色として冬の日の太陽のように温かく傍にいてくれた。

僕はこのところ、ライブに行くと目の前に佐野がいるという事実にどうしようもなく胸が熱くなる。そりゃ当然今だって遠い存在であることに変わりはない。でも以前のような全く別の世界にいる人、実際に存在しているのかどうかも分からないぐらい遠い存在ということではなくなってきた。確かにそこに佐野元春がいる。そんな風に感じるようになってきたのは、もしかしたらこのアルバムがきっかけだったのかもしれない。

もう一つこのアルバムについて述べておかないといけないことがある。ホーボー・キング・バンド(HKB)について。消化不良にも思えた前作、『Stones & Eggs』の反省もあったのかもしれないが、たっぷりと時間をかけて8年間を共にしたHKBの集大成とも言えるのサウンドを作り上げている。これが本当に素晴らしく、発酵して熟成された蒸留酒のような表情豊かな演奏。もうこれ以上望むべくもないと言ってしまえるほどの素晴らしいサウンドだ。現にHKBとしてはこれ以降オリジナル・アルバムを発表していない。僕は今のアグレッシブなコヨーテ・バンドも大好きだけど、HKBも同じくらい好きだ。最近のビルボード・ライブやセルフ・カバー・アルバム(2011年『月と専制君主』、2018年『自由の岸辺』)では若干のメンバー・チェンジをしたHKBとなっているけど、僕はやはりこの時期まで(1996年『Fruits』~2003年『The Sun』)のHKBが好き。またいつかこの時のメンバーでガッツリとロックンロール・アルバムを作ってくれたら嬉しい。

自身のレーベル、デイジー・ミュージックからの最初のアルバムであり、HKBとの蜜月が生んだ最良の作品。今思えば、終わりの始まりのようなアルバムだ。佐野にとって特別なアルバムであるように、僕にとっても思い出深いとても大切なアルバム。

 

Track List:
1. 月夜を往け
2. 最後の1ピース
3. 恵みの雨
4. 希望
5. 地図のない旅
6. 観覧車の夜
7. 愛しい我が家
8. 君の魂 大事な魂
9. 遠い声
10. Leyna
11. 明日を生きよう
12. DIG
13. 国のための準備
14. 太陽

月と専制君主/佐野元春 感想レビュー

 

月と専制君主  (2011) 佐野元春

 

リ・クリエイト・アルバム。要するに自前のカバー曲集なんだけど、これがとてもいい。嫌な言い方をすれば、あくまでも焼き回しに過ぎないのだが、全くそうは思えない瑞々しさと、今を感じさせる時代性を備えている。

ライブにおける佐野はこれまでも、場所や時代が変われば衣替えするかのような身軽さでもってアレンジを変えて演奏してきた。僕たちファンにとってもそれは当たり前のことではあったのだが、ライブ用のそれと、こうして時間をかけて丹念に録音されたスタジオ版とでは少し趣が違うようだ。それはライブバージョンのような瞬発力はないが、砂地が水を吸い込むかのようなゆったりとした浸透力を持っている。

フリー・フォークと呼ばれる当時の海外の潮流と歩調を合わせたかのようなアコースティックなサウンドは、親密さと同時に、リアリティを醸し出し、演者と聴き手との距離をぐっと引き寄せる。目の前に広がる風景は、これまで以上にまるで自分がそこにいるかのようで、ここにはズボンの裾に土がこびり付きそうな直接性がある。そしてその喚起力は、目の前にぐっと引き付ける力強いものではなく、やんわりとした日常性を伴ったものだ。

加えて素晴らしいのは、今を感じさせるという点である。これはポップ・ソングで最も重要な要素であるが、このアルバムを聴いて何よりうれしいのは、過去の曲であろうが、アコースティックであろうが、今この時を叩きつけている点である。まさに正真正銘のリ・クリエイト・アルバムと言えよう。

新たに施されたサウンド・デザイン、それに応えるホーボー・キング・バンドの適切な演奏もさることながら、今回感じるのはやはり曲本来の力である。煮て食おうが焼いて食おうが、今と共鳴する普遍性。余計な装飾がない分改めて佐野の楽曲の確かさが浮き彫りになった気がする。

『クエスチョンズ』や『C’mon』といったチョイスも良し。振り返れば佐野のキャリアも随分と長くなってきた。あまり顧みられることのない佳曲を掘り起こすことは僕らにとっても意味のあることではないか。

ただやはりカバー・アルバムなので、佐野のいつものはみ出すような危うさが無いのは物足りないか。このようなコンセプト・アルバムに違和感なく溶け込む新曲が2、3あれば、より鮮度は高くなったと思うがどうだろうか。ていうかファンとしちゃそっちの方が嬉しい(笑)。

そう言えば、、、ハートランド解散の折り、当時のライブ・アレンジで何曲かばぁーっと録音したはずなんだけど、あれはもうリリースしないのだろうか。本当の意味でのハートランド最後の作品ってことでファンにとっちゃたまらんのですけど、、、。

 

1. ジュジュ
2. 夏草の誘い
3. ヤング・ブラッズ
4. クエスチョンズ
5. 彼女が自由に踊るとき
6. 月と専制君主
7. C’mon
8. 日曜の朝の憂鬱
9. 君がいなければ
10.レイン・ガール

COYOTE/佐野元春 感想レビュー

 

『COYOTE』 (2007) 

 

一時期の混迷期を抜けて、復活の狼煙を上げたのが、『THE SUN』。とても素晴らしいアルバムで僕にとっても特別なアルバムになったわけだが、この数年の積極的な活動を振り返った時、ターニング・ポイントとなったのは、間違いなくこの『COYOTE』ではないだろうか。それはまさしく出会い。コヨーテ・バンドとの出会いである。

勿論それは、佐野の嗅覚がさせたものであるが、ここに集まった佐野より下の世代との交流は佐野に計り知れない影響を与えてきたように思う。熟練のホーボー・キング・バンド(HKB)が素晴らしいのは重々承知しているのだけど、言ってみればそれは長距離選手のようなもので、やはりロックンロールのダイナミズムというか、パッと走り出しパッと駆け抜ける短距離走の切れ味という意味ではコヨーテ・バンドである。HKBが大人のロックというつまらないものではなく、スリリングなバンドであるという事実を僕たちファンなら知っているのだけど、フェスなんかでコヨーテ・バンドを従え最前線に降り立った佐野の立ち姿というものは単純にロックンロール・ヒーローなのだ。

このアルバムはその始まりの記録である。今聴くとやはり始めということで、方向付けというかひとつの作品としてまとめられた感があるが、ここで聴けるサウンドは今現在のコヨーテ・バンドにつながる紛れもないコヨーテ・サウンドだ。

このアルバムを最初に聴いた時に強く耳に残ったのは『君が気高い孤独なら』だ。まるで20代の佐野が書いたかのような瑞々しい曲で、久しぶりにうれしい気持ち、ワクワクする気持ちになった。この曲で歌われる思いやりの気持ちと反逆の心を表す(と僕が勝手に解釈している)「Sweet soul ,Blue beat」というコーラスは今の僕にとっても大事なメッセージだ。当時2才のうちの娘がこの曲をかけると踊りだし、「しーそー、ぶーびー(Sweet soul ,Blue beat)」と嬉しそうに歌っていたのを思い出す。このアルバムでは他にも瑞々しいメロディを沢山聴くことが出来るが、それはもしかすると新しいバンドとの新鮮なセッションが呼び水となったのかもしれない。

今につながるコヨーテ・バンドが垣間見えるのはこのアルバムの後半だ。『Us』、『夜空の果てまで』、『世界は誰のために』といったロック・チューンはコヨーテ・バンドならでは。今必要なのは、悠長な歌ではない。今僕たちに必要なのは、畳み掛ける性急なサウンドだ。

このアルバムのタイトル・チューンは『コヨーテ、海へ』。このアルバムはコヨーテなる人物(むしろ生き物といった方が適切か)のロード・ムービーであり、そのサウンド・トラックという格好を採っている。『コヨーテ、海へ』はその典型のような曲。ゆったりとしたバラードで、コヨーテ男の終着点でもあるのだが、にも関わらず不思議と最も‘移動’を感じさせる曲である。

この曲の持つ素晴らしさは何より乾いているという点にある。日本的情緒に依りかからない乾いたバラード。これこそ佐野の真骨頂と言える。この『コヨーテ、海へ』とラストの『黄金色の天使』は、アルバム『Someday』のラスト、『ロックンロールナイト』~『サンチャイルドは僕の友達』の流れを思い起こさせる。『サンチャイルドは僕の友達』がララバイであるのに対し、『黄金色の天使』はエピローグ。当時の登場人物のひとりが時を経て‘コヨーテ男’として歩いている。数十年経った今、この2枚のアルバムのラストがシンクロしているように思うのは気のせいだろうか。

このアルバムのテーマとなっているのは‘荒地’である。この困難な時代にどう生きてゆくのかという主題が、前作の『THE SUN』とは違う側面から照らされている。

『THE SUN』は苦い現実認識の歌であるとはいえ、その根底には明確な希望、祈りが流れていた。一方この作品ではより暗闇に軸足が乗っかっている。そうした闇を表現するのに、最低限のバンド編成でより若い世代を起用したというのには当然理由がある。それは取りも直さず当事者意識ということではないだろうか。HKBがそうではないというのではなく、若手の先頭に立つべき世代、今この困難な時代に先頭きって飛び込んでゆく彼らの態度、ビートこそが今鳴らされるべき音ではないか。佐野は‘荒地’とそこを突き進む彼らの一歩に何かあるのかもしれないと感じていたのかもしれない。

しかし当然のことながら、その更に先頭に立つのは紛れもなく佐野である。僕は素直にジャム・バンドであるHKBも好きだけど、あのハートランド時代のように佐野が全面的にタクトを振るう明確なサウンドが好きだ。寄り道せずにまっすぐに。佐野が長い髪を振り乱すただのロックンロールが好きなのだ。そういう意味でこのコヨーテ・バンドというのは、渋い深みのあるHKBへ一旦振れた佐野が、もう一度初期衝動に立ち返るきっかけになったバンドと言えるのではないか。

本人はそんな気はないのかもしれないが、佐野はバンドメンバーの一人ではない。一人の抜きんでた才能である。その抜きんでた個性をあおるように当事者であるコヨーテ・バンドの面々が追う。だからこそ彼らのサウンドはリアルで、直接的で性急なのだ。そしてそれは今も進行中である。

 

1. 星の下 路の上
2. 荒地の何処かで
3. 君が気高い孤独なら
4. 折れた翼
5. 呼吸
6. ラジオデイズ
7. Us
8. 夜空の果てまで
9. 壊れた振り子
10.世界は誰のために
11.コヨーテ、海へ
12.黄金色の天使