映画『裏切りのサーカス』(2011年)感想

フィルム・レビュー:

『裏切りのサーカス』(2011年)感想

 

映画好きの友達から薦められまして、二度見必須ということだったので、そんなん2回も見てられるかいなと思っていたのですが、案の定2回見てしまいました。ていうか2回見てもよう分からん!!

舞台は冷戦時代。英国諜報部の中枢である‘サーカス’のある作戦が失敗をします。その責任を取らされ、サーカスの責任者であるコントロールと彼の右腕であるスマイリーはサーカスを解雇されるのですが、どうも情報が漏れていた疑いがある。二重スパイ、通称‘もぐら’が入り込んでいるようだと。その‘もぐら’探しを任命されるのがサーカスを解雇されたスマイリー。彼と彼が招集した特別チームによって‘もぐら’探しの捜査が始まる…、というのが導入部です。

話は淡々と進みますね。スパイ映画ですけどアクション・シーンはありません。人は死にますけど、これもあっさりズドンて感じです。説明的なセリフも一切ありません。ていうか必要以上に喋りません。特に主役のスマイリー、無口です…。

でもこのスマイリーがですね、喋らないんですけど表情が饒舌なんですよ。饒舌と言っても無表情に近いんですけど、これ、なんて言うんですかね、抑えた演技と言いますか、存在感だけで持っていっちゃうんです。流石ゲイリー・オールドマンです。時々、池で泳ぐシーンがあるんですけどあれもよく分かりません。このシーンいる?って感じなんですが、それはやっぱりいるんですね。あれがかえってスマイリーのキャラクターを造形していくというか、リアリティーをもたらしています。あぁこういう人なのねと。それにしても凄い演技や。

ただ凄いのはゲイリーさんだけではなくて他の面々も超個性的で、何なんですかこの人達はっていう。全員怪しいんですけど、怪しくないっていう不思議な感覚もありまして、さっき個性的と言いましたが、個性的じゃないと言えばそうとも言えるし、私何言ってるか分かりませんけど(笑)、つまり超没個性的なんです、サーカスの面々は。

証拠に先ず顔と名前とキャラが覚えられないんです。皆あんな個性的な顔をしているのにですよ!これは私の脳みその問題ではありません多分(笑)。それぐらいぼんやりしているんですね人物描写が。逆にサーカスのメンバー以外の諜報部員はキャラがはっきりしていますから多分この辺はあえてなんですよ。だからこれは私の脳みその問題ではございません(笑)。ていうかそういう演技する俳優たち、すげ~なと。

でさっきも言ったとおり説明的な描写やセリフがない。ここがどこだかもちゃんと見ていないと見ている方が行方不明になってしまいます(笑)。あれ、この人さっき死んだじゃんって人がまた登場していたりするし、そういう意味では見る方が積極的に関与していかないいけない映画でもあります。てことでこの映画を観る時は事前にWikiとかで名前と人物関係のチェックをしておくのがお薦めですね、Wikiはネタバレもないし。私も2回目見る時そうしました、2回目やのに(笑)。ま、頭の中に相関図を用意しておくとよいかも、ってことです。

ただこういう分かりにくいし、変に盛り上げることない映画だからこそかえって2回も3回も見れるというのはあると思います。私はTSUTAYAで借りたので2回見て返却しましたけど、アマゾン・プライムとかに入ってたら多分もう一回見てると思います。そういう意味では何度でも楽しめる、逆にエンタ-テイメント性の高い映画ではないでしょうか。そうそう、抑え気味の音楽も素晴らしかったですね。

最後にちょっとネタバレ的なこと言うと、スマイリーが敵の大ボスとかつて会った時の話をする場面があるのですが、この時のスマイリーがいつもの冷静さではなく、ちょっと狂気じみた小芝居をします。あと‘もぐら’が最後にスマイリーに言うセリフに「俺は歴史に名を刻む人間だ」みたいなことを言うんですけど、こういうベラベラ喋らない立派そうな大人にもちゃんと狂気が隠れているっていう、そういう描写もリアルで面白いと思いました。

で、そのスマイリーと‘もぐら’の場面がクライマックスかと思えば、そうではなく最後に切ないラストが用意されているんですね。愛憎というかそういう複雑なところがあって(この点、この場面にスマイリーは登場しませんが、彼もそうです)、ここは最後まで一生懸命に見た人だけが感じ取れるような作りになっていますから、あきらめずに最後まで積極的に見ていただければと思います。

それにしても謎解きのところがどうも分からん。やはりもう一度見ねば。

Eテレ SWITCHインタビュー達人達「ブレイディみかこ×鴻上尚史」感想

TV program:

Eテレ SWITCHインタビュー達人達「ブレイディみかこ×鴻上尚史」感想

 

現場を知らないといかんということですよね。今回の新型コロナにしたってPCR検査数を増やせ増やせという声が聞こえるけど、冗談じゃない、今でさえ手一杯なのに、という現場の検査員のTwitterもありましたし。

いくら賢い人がパソコンでガチャガチャやったところでそれは検討違いの国際貢献にしかならんということをペシャワール会の中村哲さんも口を酸っぱくして仰っていました。

ブレイディみかこさんさんの「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」が多くの人に読まれているのもそこでちゃん生活している人の直の声を聞きたいという気持ちが我々の中にあるからだと思います。

ブレイディさんの話で印象的だったのが子供の環境の話。子供の人格や能力は育つ環境による影響が大きい。しかし今の世の中、特にイギリスでは親の資本(経済力だけでなく)によって予めそれが限定されてしまっているとのこと。僕も子供に対しては親の遺伝子なんかよりその環境の方が断然大事だと思っているので、ブレイディさんの話はとてもよく分かるものでした。

ブレイディさんの対談の相手は鴻上尚史さん。鴻上さん、バシッと言い切ります。気持ちは伝わらないと。これ、高校生との演劇ワークショップの時の映像で出た言葉ですね。気持ちを込めても伝わんないよ、伝えるには技術が必要だよと。

つまりその役の気持ち、どういう気持ちなんだろうかとよく考えようということなんですね。ここでは役の気持ちですけど、要は相手の気持ちを考えるということです。

そこで思い出したのは司馬遼太郎さんの「21世紀を生きる君たちへ」の中の一節。相手の気持ちを考えるというのは思いやりの事。でも残念ながらこれは人が生まれながらに持っている性質ではない。だから思いやりというのは訓練して身に付けなければならない。そう司馬さんは仰っています。そうですね、自発的に身に付ける努力をしないといけない、僕もそう思います。

また日本的な根性や気合いといった気持ちを重視する考え方に懐疑的な点もお二人に共通するところですね。以心伝心という言葉があるけれど、そんなものは頼りになりません。気持ちで何とかなるということではなく、自分の気持ち、相手の気持ちを考える、相手の立場になって考えることが大切なんだと思います。

そういや鴻上さんは面白いことを仰っていました。コミュニケーション能力が高い人というのは皆と仲良くするのが上手い人というイメージがあるけれど、実はそういうことではなく上手くいかない時に対話でもって解決する方向へ導ける人のことを言うのだと。これは僕にとっても新しい視点でした。単に人懐っこい人のことを言うのではないのですね。

ブレイディさんによるとイギリスでは演劇が学校のカリキュラムに組み込まれているとのこと。これはスゴく大事なことで、さっき言った相手の気持ちを考えるということに凄く役立つ。例えば演劇であってもいじめらる役というのはものすごくつらいんだと。この点、鴻上さんは演劇に携わるものとして教育に演劇を取り入れしましょうということをずっと言い続けているらしいです。

実際に演劇が教育のカリキュラムに組み込まれるとしたらえらい大学の教授とか専門家がいつもの精査をするんでしょうけど、そこもやっぱり最初の話じゃないですけど、現場の声をね、それもちょっとこっち来て聞かせろっていうんじゃなく、鴻上さんのように実際そういう活動をしている人、もちろん現場の先生の話を足を使ってよく聞かないとそれも机上の空論ということになるのだと思います。

お二人とも話すことが沢山あってしかたがないという印象でした。それに想像力に対する信用度が大きい。ここも共通しているように思いました。そうですね、想像力は人間が持つ最大の力ですから、そこを簡単に手放してはいけない。物事を簡単にスワイプするのではなく、ちゃんと想像して考えたい、そう思いました。

野バラ

ポエトリー:

『野バラ』

 

透き通るようになって
自分をなだめることが
大人になる第一歩
道端にある野バラを一本抜き取って
胸ポケットに入れても胸ポケットに入れた気にならない
そんな大人になれたら嬉しいかも

見極めることを正しさと知った十代
お勉強はやがて未来を手繰り寄せる『』となり
水際でバシャバシャやるのはお年寄りのすることだと
分かったような口をして
あなたの股関節にキスをした

生ぬるいかい?

あまた溢れる制服の中からこれを選んだのは
パイロットになりたかったから
空腹になっても空爆はしないと約束できる
生まれ出てくる鬼をなだめるように
私も薄汚れた透明になって
あまた溢れる制服を着て
今日も行ってきます

パイロットなんかになりたくない
路面電車を一人で運転する
運転手になりたい

 

2020年3月

明るい空が閉まって

ポエトリー:

『明るい空が閉まって』

3月のよく晴れた空は閉じていた
時間という扉を開けると
影になった部分がある

駅ですれ違う子どもが母に言う
これゴミちゃうで、
まだ入ってんで、
の’で’に励まされる

あの日、母の元から出てきた時
それは開いたのではなく閉じたのだ
漂うものからの固定
私は母のものになった

それを最初に知ったのは
小学生の頃
ガンダムの映画が上映していると
学校で友達から聞いた情報を頼りに商店街の端っこにある日劇まで歩いた日
途中の絵看板で
そうではなくいかがわしい映画と知ってもなお
母は私の手を引いて歩いていった
最後まで

だから歩きました
美しく見守られて
開くのではなく閉じていく
変わらず私は母のもの

最後に
空はよく晴れていて
姉には内緒
商店街の不二家でホットケーキを食べました。

それからはずっと
なめらかな、すぅーっと息を吐いて
明るい家へ帰っています

 

2020年2月

人間の良さ

ポエトリー:

『人間の良さ』

家の軒先には滴が垂れて
外の様子を確認しようとする首筋をヒヤリとさせる
彼女は極暖を着込む僕とは対照的で
ふんわりとしたコート一枚
横から吹いては舞い上がる粉雪にもお構いなしに
だから
そんな涼しげな格好で玄関から顔を出し
今は冬だってば、もうちょっと着込みなよという僕の声にもゲラゲラ笑って
ちょっとそこはゲラゲラ笑うとこじゃないでしょって
応える声も粉雪同様お構いなしで
たくましく生きる人間の良さを見せつける

午後3時の
雨上がりは
残された生
まだあるよと
言える頃合い

手のひらに残る実感
希薄になりつつ
失われた時を思い返すように時間が果たす意味合いを
中途で仕舞い込む若気の至り陶器のように
僕もたくましく生きる人間の良さを見せつけたい

 

2020年2月

Long Live Love/Kirk Franklin 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Long Live Love』(2019)Kirk Franklin
(ロング・リブ・ラブ/カーク・フランクリン)

 

日本ではあまり知られていませんが、グラミー・ノミネーツの常連さんですね。過去に受賞歴もございます。日本ではあまり知られていないと言いましたが割と来日公演をされているようで、そっちの世界では超有名な方です。僕も名前だけは知っていましたがちゃんと聴くのはこのアルバムが初めて。

ゴスペルということで先入観を持ってしまいがちですが(僕がそうでした)、あまりそういうのは意識しない方がいいですね。普通に格好いい音楽です。僕はこのアルバムを聴いてチャンス・ザ・ラッパーを連想しました。まぁ今どきジャンルなんてあってないようなもんですからね。ゴスペルもカニエ・ウェストが導入して以来多くのヒップ・ホップ・アーティストが取り入れていて、チャンスさんもその一人ですね。ロックの分野で言えばThe1975もそうです。

カーク・フランクリンの場合は逆にゴスペルにヒップ・ホップやロックの要素を取り入れたということでしょうか。そんなカークさんの音楽はアーバン・コンテンポラリー・ゴスペルなんて呼び方をされているそうです。ま、名前なんてどうでもいいです(笑)。

百聞は一見にしかず。一度聴いてもらうのが一番ですね。アルバム冒頭の#1『F.A.V.O.R』で僕も一気に持ってかれました。先ず曲が抜群にいいです。それも奇をてらったとかではなく、きちっとした構成の、AメロがあってBメロがあってサビがあってラスサビの前にはブリッジがあってっていう昔ながらのスタイル。クレジットを見てるとほぼカークさんが手掛けているみたいですけど、先ずここの部分が非常に優れている。今の時代にカチッとした構成でここまでいいものを、しかも何曲もやれるっていうのが基本としてカークさんにはあるということですね。

そしてサウンドもカークさんが手がけていて、ゴスペルですからクワイアですよね。クレジットによるとここが先ず総勢9名。あとドラムは一部の曲ではプログラミングのようですが、ほぼ全てがバンド形態で、キーボードはカークさん自身もこなします。特徴としてはハモンド・オルガンですよね。ここが全編に渡り聴こえてくるのがハモンド好きの僕としては非常にウキウキするポイントです。

あとこれだけでも素晴らしいのにここに大所帯のストリングスとホーンセクションが加わるんです、ほぼ全曲。どーです?どんだけ金かかってんねんっていう話ですけど、これらを持て余すどころか的確に振り分けていくカークさんのサウンド・プロダクションが本当に素晴らしいんです。もう生バンドにクワイアにストリングスにホーンに、あとカークさんの異様にハイテンションな合いの手(笑)。これらが一緒くたになってぐわっと来た日にゃ盛り上がるのなんのって。てことでサブスクじゃなくCDがお薦めやね。

僕も最初はゴスペル?カーク・フランクリン?でカークさんいう人は何しますの?っていう感じだったんですけど、これだけの仕事をされちゃあもうぐぅの音も出ませんね。これはもう完全にカークさんのアルバムです。ただ「ハレルヤッ!」とか「カモンッ!」って合いの手を入れてるだけの人じゃございません(笑)。

本当にどの曲が突出してということではなく全編素晴らしくって、色んなタイプの曲が沢山あります。先ほどカチッとした構成でって言いましたけど、そうじゃない曲も幾つかあって特に後半の曲ですよね。#8『Forever/Beautiful Grace』はタイトルが二つに分かれているように最後に違う曲がくっ付いてくる。#9『Spiritual』の最後はセカンド・ラインですかね?ここのガヤガヤした部分がいい味出してます。

で最後の曲『Wynter’s Promise』。これが曲の最後にスポークン・ワーズ、語りになるんですけどここがまた涙ながらにっていう感じで、その前のクワイアからボーカル・ソロに入っていく流れがいいんですけど、ダメを押すように涙ながらのスポークン・ワーズっていうね、どんだけ切ないねんっ!っていう。

まぁ僕もなんでこれだけ凄い人を今まで知らなかったのかなぁという感じですけど、これからはちゃんと追いかけていきたいなと。てことで次来日したら是非ライブに行きたいです。高そうやけど(笑)。

 

Tracklist:
1. F.A.V.O.R
2. Love Theory
3. Idols
4. Just for Me
5. Father Knows Best
6. OK
7. Strong God
8. Forever/Beautiful Grace
9. Spiritual
10. Wynter’s Promise

カネコアヤノの言葉~例えば「布と皮膚」

邦楽レビュー:

カネコアヤノの言葉~例えば「布と皮膚」~

 

僕は洋楽をメインに聴いていますが、何も邦楽を避けているわけではありません。ただ邦楽の場合はどうしても言葉に目が行ってしまうんですね。そこでこれちょっとなと思ってしまうともうダメなんです。逆に言葉の部分でこれいいなと思えるものがあったらすぐに食いつきますね(笑)。やっぱり母国語で得られるカタルシスは特別ですから。

最近僕が食いついたのはカネコアヤノさんの曲です。彼女の言葉への向かい方が新鮮なんですね。そこで今回はカネコさんの曲の中でも、これ特徴的だなと思った曲があったので、それを紹介したいと思います。2019年リリースのアルバム『燦燦』に収められた「布と皮膚」という曲です。

先ずタイトルの「布と皮膚」ですよね。最初に聴き手はここで引っ掛かります。カネコさんは突飛な曲のタイトルの付け方をしないのですが、この「布と皮膚」はちょっと独特ですね。字だけを見ているとちょっと堅い印象を受けます。その堅い印象を持ったまま、そして意味の把握しかねる状態で聴き手は曲を聴き始めます。で最初のヴァース。

  いろんなところがドキドキしてる
  Tシャツの襟ぐりと首の境を
  行ったり来たりバレないように
  指先でそっと縫い目をなぞった

ここで聴き手は「布と皮膚」は具体的には「Tシャツの襟ぐりと首の境」のことなんだなと了解します。もう単純に映像が、この「布と皮膚」というタイトルと「Tシャツの襟ぐりと首の境」という言葉で映像が立ちあがってきますよね。それも少し離れた、或いは俯瞰的な絵というのではなく近い映像。例えて言うと陶芸家が土をこねるようなそぐそこにある即物的な絵です。そこを「行ったり来たりバレないように / 指先でそっと縫い目をなぞ」るわけです。

つまり聴き手は最初のヴァースで「縫い目」とは何か、「Tシャツの襟ぐりと首の境」とは何か、加えて歌の主人公はそこを指でなぞっている、ということを視覚的に知るわけです。ではこの「縫い目」とはどういう意味なのか、「Tシャツの襟ぐりと首の境」が象徴するものは何なんだ、ということがコーラスで判明します。

  布と皮膚 布と皮膚 布と皮膚
  交互になぞった
  眠れない夜にそっと
  布と皮膚 交互になぞった

僕の解釈では「皮膚」というのは‘私’の一番外側にあるもの。「布」というのは反対に‘私’ではない存在の最も‘私’寄りの部分。この両者の接触付近について歌われていることなんだと。簡単に言うと自分と外界の境目についての歌ですよね。そう考えるとそんなニュアンスの歌って結構ありますよね。ただカネコさんはそこをわざわざ「布と皮膚」と表現するんです。「布と皮膚」と表現することによってより即物的なイメージを聴き手は持つことが出来るのです。

面白いのはその境目、触れるか触れないかの接触付近、出入口についての歌なんだけど、そこがどうなんだということは一切触れられていないんです。違和感を感じるとか心地よいとかそういう作者の主観は入ってこない。つまり状態が描写されているだけなんです。ここ、結構大きなポイントではないでしょうか。

そして「布と皮膚」を「眠れない夜にそっと / 交互になぞった」という表現ですがこの表現、少し色っぽいです。これは歌ですからこの言葉に動的な意味が加わる、メロディや声や演奏が加わるわけです。ここをカネコさんは「布と皮膚」ではなく「ぬぅのと、ひっふー」と歌います。少し色っぽい表現を更に「ぬぅのと」と歌うことで同じ意味が被さってきて、要は強調されてきて、次、ここですよね、「ひっふー」と歌うことですばやくユーモアに転じて行く。この部分、見事だと思います。

音楽家に限らず、言葉を扱う人というのはやはりオリジナルの表現を好むんですね。自分自身の言葉を獲得したい、そう思うものだと思います。ですのでどうしても突飛な言い回し、違和感のある言葉遣いに目が向いてしまうわけです。要は表現のアプローチを伸ばしたくなるんですね。

でも結果どうなるかというと、それはやはり自分から離れた言葉ですからリアリティが希薄になります。加えて、突飛な表現というのは案外使い古されている、突飛な表現という行為自体が使い古されていますから、かえってありきたりな表現、紋切型の定型文になってしまいがちです。だから言葉というのは自分の体の中から出てくる、手の届く範囲でないといけないということなんだと思います。

そういう意味でカネコさんの言葉はカネコさんの中から出てきた言葉なんですね。言い換えれば肉体的な言葉。手の届く範囲で捕まえることのできる言葉なんです。だから言葉に通っている静脈がうっすら透けて見えるんです。言葉というものへの向き合い方をカネコさんに改めて教わったような気がします。

最後に。これは谷川俊太郎さんが折に触れて仰っているのですが、言葉というのはもうすでに意味を持ってしまっているんですね。だから詩というのはそことのせめぎ合いということになります。つまり「布と皮膚」というタイトルで言うと、「布」という言葉も「皮膚」という言葉も予め意味、イメージを持っていますよね。その従来持っている言葉が組み合わさることで別のイメージが現れてくる。加えてこれは歌ですから、声やメロディによる効果も加味されて、「布と皮膚」という言葉は従来持っている言葉を組み合わただけではない別のイメージを生み出している、ということが言えると思います。

追記:
本来であればここに歌詞を全て掲載したいのですが、著作権の問題もありますからね。とか言いながら半分程度載せてしまっていますが(笑)。ま、ご容赦ください。

ポエトリー:

『月』

 

今宵、
蒸発した細かな雨粒がおぼろげな雲となって爪の先
みたいな月、
薄おっと浮かぶ

風呂上がりに切ったオレの爪
は、ふくよかな歌声を聴いて一目散
に空に伸びてゆき
お前か、そこにいるのは

間違ってはいない
湯上がりの
雫、ポタリと垂れて
戻ってこいよ
戻らないのか平成みたいに

分け隔てなく自由に
ウサギとなって跳び跳ねよ
だからコップに掬ってドボドボと
注ぎたいです栄養を

おぼろげな記憶が
明確な影になってしまうまで
ひとつの本当のことが
なくなってしまうまで

片膝を立て
ゆっくりと息を吸い
私の命が暴れぬよう
ふやけた爪を今日も切ります

詩行が覚めて
爪の先
みたいな月
薄おっと浮かぶ

 

2020年2月

「~させていただく」が気になる

その他雑感:

「~させていただく」が気になる

 

先日、娘の付き添いでE-girlsのコンサートに行ったんですけど、彼女たちが「歌わさせていただく」やら「出演させていただく」やら事ある毎に「~させていただく」と発言するのは何に対してへりくだっているのかよく分かりませんでした。

これは観客に向けて話してかけているので、観客に対して「歌わさせていただく」と言っているでしょうか。いや、観客にそんな権限はないし観客の側も「歌わさせてあげている」という感覚は全くないと思われるので、彼女たちはいちいち主催者であるプロモーターや所属する事務所のお偉方に公の場を通じて「歌わさせていただく」とへりくだっているのか。ま、そういうことではないでしょう(笑)。

コンサートはですね、非常に良かったんですよ。うちの娘も若い十代の女の子を中心とするお客さんも非常に満足していたと思います。コンサートというのは距離が一気に縮まるんですね。距離がグッと縮まってまた好きになる。そういう効果があると思うんです。ところが事ある毎に「~させていただく」と表現するのは折角に縮まったそうした距離をわざわざ演者の方から遠ざけているような気がするんです。

いいんじゃないですか、そんなへりくだらなくても。もっと堂々とね、パフォーマーとして素晴らしい能力をお持ちなんですから自分の意志として「歌います」、「共演します」と宣言してほしいです。何かにおもんばかったような、ちょっとエクスキューズが働くような言い方はしないでよって。

娘に聞いたら、そんなこと娘に聞かないですけどね、もし聞いたらそんな風には感じないと答えると思うんですけど、でもこれは大人の視点としてね、彼女たちも十分な大人ですから、というより一流の歌い手でありダンサーであるわけですから、そういう意識は持ってほしいなぁと思いました。なんでそんなとこで変な気を使わなくちゃいけないんでしょうね?やな世の中です。

E-girls PERFECT LIVE 2011-2020 in 三重県営サンアリーナ 2020年2月22日 感想

邦楽レビュー:

E-girls PERFECT LIVE 2011-2020 in 三重県営サンアリーナ 2020年2月22日 感想

 

中3のうちの娘がですね、E-girls の大ファンでして、年中歌ったり曲を流したりしてるんです。でライブに行きたいと、今年で解散するからどうしても行きたいと。まぁ娘の受験もめでたく終わったんでね、じゃあ合格祝いで行こうかということになりまして、で付き添いはママ、ではなく何故か私が行くことになりました(笑)。

ママはね、中学生がそんなん行くもんちゃうなんて言ってたんですけど、私としては行かせてやりたいなと。中3ですから1年間頑張ってきましたし、それに彼女にとって人生初のコンサートになるわけですから、これは心に大きく刻まれるわけです。15才で観た初めてのライブというのは彼女にとってかけがえのない思い出になるんじゃないかなって、それは春からの高校生活への励みになるんじゃないかなって。ですから反対するママを説得してですね(笑)、いつもはそう簡単に説得できないんですけど今回は分かってくれたみたいで、娘を念願のE-girlsライブへ連れていくことができました。

私としても娘と二人でライブなんてこれが最初で最後かもしれないわけですから、おっさんがE-girlsのライブへ行くという気恥しさはあったんですけど、私も基本的に音楽は好きですから。それに娘の本当に喜ぶ顔が見れる、大切な場に一緒に居れるっていうね、そこがやっぱり大きかったですね。

私たちが行ったのは三重県営サンアリーナでのライブです。大阪在住なんで5月の大阪公演に行けばよかったんですが、春からの高校生活がどうなるか分からなかったので今行こうと。はるばるアーバンライナーに乗って三重まで出かけました。

18時開演だったんですけど着いたのは15時前。娘がグッズを買いたいと、なんでもライブ会場限定のグッズがあるとかで、グッズ販売は13時からだったので本当はもっと早く行きたかったみたいですが、そこも色々話し合いをしまして(笑)。結局15時前に着いたんですけど、それでも娘が欲しかったグッズはちゃんと買えたみたいだったので、ほれみぃ、買えたやないか、ということでここは丸く収まりました(笑)。

と前置きが長くなりましたが肝心のライブ。こういうのは私も初めて観たのですが素直に良かったです。ていうかちょっと感動しました(笑)。理由は二つあります。一つはやっぱり娘ですよね、横で見てると大好きなE-girlsのライブということで本当にいい顔をしてるんです。そこに先ず感動してしまいまして、ハイ、親バカですな(笑)。でも彼女がどれだけ好きかっていうのは日常を見て知ってますから本当によかったなって、そこはもう親として胸が熱くなりました。

でもう一つ、これはE-girlsのパフォーマンスですね。彼女たちも本当に精一杯歌って踊っていて、これが解散コンサートということで、私はこれまでの彼女たちの活動は全然知りませんけど、想像するに十代のころからここに青春をかけて頑張ってきたわけですよね。それがこの日の彼女たちの素晴らしいパフォーマンスに繋がっているって考えると、私は全く彼女たちの肉親でもなんでもないんですけどね(笑)、これもやっぱりここまでようやったなぁと、これはやっぱりグッと来ますよ。

あとこれは私独特の楽しさだったかもしれませんが、一応娘が普段歌ったりしているので何となくE-girlsの歌は知っているんですね、まぁ何となくですけど。それが実際に聴いて、あぁこれはこういう曲だったのかとか、はいはいこの曲ね、ということでいちいちストンと腑に落ちていく瞬間が幾度かありまして、それはそれで面白かったですね。あと、娘にこの歌のこのサビの時はこのフレーズで合いの手を入れるんだとかいうのをピンポイントで教わったりしていて、それもまぁ恥ずかしながら楽しかったです(笑)。

でやっぱり生で聴くと歌もダンスも上手いなぁと、当たり前ですけど。ほら、ここ数年ダンスって流行ってるじゃないですか。だからテレビやなんかで見る機会はあるんですけど、プロのダンスってのは初めて直に見るわけですからこれはやっぱり凄いなと。途中、ソロのダンスコーナーもあったんですけど、ここは相当カッコよかったですね。

歌も抜群にうまかったです。あとラップをするメンバーもいて、すみません、娘に名前を聞きましたが誰か忘れました(笑)、彼女のラップもバッチリ決まってましたね。少ししかなかったんですけど、ここをもう少し押し広げてもいいんじゃないかと思いました。

でまぁ色々と工夫があってね、Youtube風の動画コーナーがあったり、LINEを模した掛け合いがあったり、ここはお客さんも喜んでいましたね。ただちょっと広告的な、彼女たちの所属する事務所の他のグループ云々のところであったり、メンバーの出演する映画の宣伝だったりというのはちょっとね。折角のE-girlsのライブという全体の流れがちょっと阻害されるかなと。野暮だなと大人の私は思いました。

あとこれは言ってもしょうがないのかもしれませんが、トラックですよね。ここがもう少し何とかならんかったのかなと。歌も踊りも相当なレベルにあると思うんですが、それに引き替え音がやっぱり弱いというか。フル・バンドとは言いませんが、せめてドラムだけでもいたらなと。あとホーン・セクションが何人かいるだけでダイナミズムが相当出ると思うんですけど、そう簡単な話ではないのですかね。

というのもやっぱり彼女たちのパフォーマンスが素晴らしかったんですね、他の部分にもう少し力を入れたらエンターテイメントとしてのレベルが更にグッと上がったんじゃないかなと思うんです。なんかこれだけの素材があるのに勿体ないなと思いました。

勿体ないというと解散もね、私はその辺の事情を全く知りませんが、これだけの実力があるのに解散なんてなんか勿体ないなぁって、ただの通りすがりの人間としてそこは素直に思いましたね。

ライブは18時開演で終わったのが21時50分頃でしょうか。最初の30分ほどが若いグループによるオープニング・アクトで、途中動画コーナーもあったり宣伝コーナーもあったりしましたから、実質のライブはそんなにも無かったのかもしれませんが、兎に角で最後まで娘は楽しんでましたし、なんだったらこれだけあっても物足りないくらいに思ってたんじゃないですかね、なにしろ体力が有り余ってますから(笑)。

ただまぁ残念なことに私たちは大阪から来ていますから最終電車の時間が迫っている訳ですよ(笑)。ライブが終わって大勢が一挙に出てきてゾロゾロ歩いていたら帰りの最終特急に乗り遅れてしまう。ということでここは事前に娘と何があっても21時45分になったら会場を出る、という取り決めをしていたんですけどね、娘としちゃそりゃあここにきてのそれは納得いかないですよ(笑)。

とはいえ親として冒険は出来ませんから娘をちゃんと家に帰すべく、だから娘の気が収まるまで険悪な雰囲気になってしまいましたが(笑)、無事に家に帰ることが出来まして、まぁ長い一日でしたけど、娘にとっても私にとっても思い出深い日になりました。

あとですねぇ、お客さんが非常に行儀よかったです。若い子ばっかりだったんですけど、妙にはしゃいでる子やいちびっているような子は全然いませんでした。これは前から思っていたことなんですけど、今の子ってちゃんと教育を受けてるし、色んなことを理解していて、我々の世代とは比べものにならないぐらいちゃんとしてるんです。今やもう圧倒的に年寄りの方がマナー悪いですから。その事も改めて知る機会になりましたね。

最後に新型コロナウイルスの件。2月26日の政府の発表で人が大勢集めるイベントの中止要請が出ました。これ、1週間早く出ていたらE-girlsのライブへ行けなかったわけです。ここは日本政府の対応のノロさに感謝するしかないですが、まぁあの日会場にいたことによって感染した人がいたとすれば、我々も含めてですけどね、感謝とか言ってられないですが、その日を楽しみにして26日以降のイベントに参加出来ない人たちが沢山いるわけですから、とりあえず私たちとしては今は幸運だったということですね。

あと主催者に苦言を呈すとですね、やっぱりチケット代ですね。1万円越えというのはお客さんが10代20代の子中心ということを考えるとこれはちょっとね、もう少し何とかならないのかなと。あと娘に解散ツアーの詳細を教えてもらったんですけどこれが大都市中心なんですよ。解散コンサートですから地方の子も参加できるようにね、もうちょっときめ細かく回ってあげられないものかなと。それが無理なら開演時間を早めるとかね。一人で帰る女の子もちらほらいましたから、一時間早めるだけで随分と違うのになとは思いました。