カネコアヤノ 野音ワンマンショー 2023 in 大阪城野外音楽堂 感想

ライブ・レビュー:

カネコアヤノ 野音ワンマンショー 2023 in 大阪城野外音楽堂 2023年7月23日

 

念願のカネコアヤノのライブに行きました。場所は大阪城野外音楽堂。木に囲まれ空は高く、最高のロケーションでした。木に囲まれているから蝉がずっと鳴いていて、カネコアヤノとバンドがエモーショナルにガーッて演奏し、曲が終わってもしーんとならず蝉はずっと鳴いてる。なんか生き物がいる感じがとても良かったです。そんな環境的な印象も含め初カネコ、とても記憶に残るものとなりました。

初めて生で聴きましたが、バンド、素晴らしかったです。技術的にどうこうというのは分かりませんが、わたしたちはこういう音楽をしたいんだという意思が明確にあって、皆が同じ方向を向いている。その上で、曲に合わせて色々な表情を出せる素晴らしいバンドだと思います。あとオリジナルをそのまま再現するのではなく、もっとダイナミックにもっと幅の広いアレンジでいろいろやっちゃうところも、あぁバンドっていいなぁと。久しぶりにバンドらしさを体現している人たちに出会えたような気がします。

今年になってかな、ドラムとベースが変わりましたけど、そういうことは全く感じませんでしたし、むしろ今、カネコアヤノとバンドは表現のピークを迎えているんじゃないか、そんな風にも思いました。つまり、新しい曲も今までの曲もすべてが旬な感じがして、デビューしてここまでやって来た初期の集大成をガッとやるみたいな、少し矛盾した言い方になりますけど、ここで一区切りというか来るとこまで来ちゃった、それぐらいのピーク感を感じました。

そしてそれはカネコアヤノのボーカルも同じで、大声でグワーッと歌うスタイルもここに来て最高潮を迎えつつあるんじゃないかって。今後も歌い方自体は変わらないのかもしれませんけど、今のこの年齢だから出せるバカみたいにでかい声と、度重なるライブで鍛えられた表現力が交錯して今は凄いことになっている。これを大阪城野外音楽堂の開放的な空間で聴けたというのはホントに素晴らしい体験でした。

ライブにはエモーショナルな瞬間が幾度も訪れました。そのクライマックスは最後の『わたしたちへ』。どんな辛いことがあっても、泣きながらでも目をつむりながらでも両手で闇を押しのけようとする、そんな魂の発光、命の強さというものがあの轟音の中にあったように思います。会場にはどのぐらいの人いたのか分かりませんが、カネコアヤノの音楽を心の底から必要としている人が沢山いたのだろうと。そんな人たちに、いや、そうじゃない人たちにもきっと何か届いた、バンドの轟音やカネコの叫びが大多数ではなく観客ひとりひとりに向かう素晴らしいライブだったと思います。カネコアヤノが大好きな人も、あまりよく知らなかった人も何か感じるものがあったのではないでしょうか。

それにしても『アーケード』での盛り上がりはすごかったですね。割とシリアスな曲が多い中で、このロック一直線の曲が始まった時のみんなの爆発力は凄かったです。あと僕自身はなんの曲か忘れましたが、聴いてる途中に高い空を見上げ、そういやオレは子供の頃に何になりたかったんだっけ、そんな風に思う瞬間がありました。カネコアヤノの歌声にはそういう気持ちにさせる何かがあったのだと思います。

開演前のBGMではベックの『ルーザー』がかかってて、終演後にはレディオヘッドの『クリープ』がかかってました。この日僕はレディオヘッドTシャツを着ていまして(笑)、なおのこと余韻の中で聴く『クリープ』は本当にいい感じで最高でした。

タオルケットは穏やかな / カネコアヤノ 感想レビュー

邦楽レビュー:

『タオルケットは穏やかな』(2023年)カネコアヤノ

 

下北沢にある書店、日記屋月日 には物珍しい本、その名の通り書籍化された日記が置いてあるそうで、僕が詩を好きなのを知っている友人が東京土産にそこで購入した日記をプレゼントしてくれました。リトルプレスの『犬まみれは春の季語』という本です。著者は柴沼千晴という方で、日記屋月日で行われていたワークショップ、「日記をつける三ヶ月」でつけていた2022年1月1日から2022年3月27日までの日記をまとめたものだそうです。

正直、他人の日記なんて興味ないよと渋々読み始めたのですが、これが思っていたのとは全然違って散文のような、時には詩のような。しっかりとした観察眼で書かれていて日記という形式であっても場合によってはこうやって作品足りえるのだなぁとまた新しい発見がありました。

結局、詩にしても日記にしてもそれを作品と称するからにはある程度自分からは切り離して、ただ何よりも個人の思いが大事なのでそこのところは難しいのだけど、自分の心にうずくまったり時にはこぼれそうなものを精一杯書いても、見えるところは作者本人ではなく他者の共感を得る方向へ向かうというのが大事で、でもそういうのは意図的にどうこうできるものではないと知りつつ、けど何がしらの自覚があってこそなんだと思います。そこのところがとても大きく他者への共感に向かうのがカネコアヤノの音楽ではないでしょうか。

さぁこれから、というところでコロナ禍にまみえたカネコアヤノですけど、負けじと無観客ライブだのなんだとできうる限りの活動を続けて、元々アルバム出す毎に脱皮していくような印象はありましたけどコロナ禍を経ての今回のアルバムでは更に太くたくましくなった印象を受けました。

あとカネコアヤノは心象風景を歌う作家だと僕は思っているのですが、前作の『よすが』ではそれも部屋の風景に落とし込まれている印象がありました。それが今回は外に向かった解放感というのが復活しているような気はして、例えばタイトル曲の『タオルケットは穏やかな』での「家々の窓には~」っていうのはもう完全に外の景色、昼か夜かは人それぞれの受け取り方だと思いますけど、とにかくそこには空があって風が吹いてというところまで想像できる、しかも迷っているけど「シャツの襟は立ったまま」という。すべてではないですけど、歌ひとつひとつが外で鳴っていて、今歌の主人公は外にいるんだという感じはすごくします。

あと太くたくましくというところで言うと、今回もバンドがすごくいいです。同じメンバーでもう何作目になるのかは知りませんけど、一緒にアルバム作って一緒にライブしてっていうのをずっと続けてきた中で、お互いの理解が更に進んでいるような気はします。特に目新しいことはしていないと思うのですけど、ごく自然なやり取りの中で歌に合わせてちゃんと曲の表情が変わっていって、何よりバンドの演奏だったりカネコの歌であったりというところで全く継ぎ目がなく聴こえてくるところがとても素晴らしいです。

『よすが』があって、窮屈な中で活動を続け、今作の1曲目『わたしたちへ』でギターが思いっきりかき鳴らされるオープニングというのはやっぱグッと来ます。単純にソングライティングの練度もどんどん上がっているし、もちろんその時々のアルバムでの良さはありますが、災厄を経てまた一段、音楽家として大きくなったんだと思います。

ところで、日記『犬まみれは春の季語』でもカネコアヤノへの言及が沢山出てきます。好きなものが横に広がっていく感じが嬉しいです。

よすが / カネコアヤノ 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『よすが』(2021年)カネコアヤノ
 
 
僕はカネコアヤノは風景を描く作家だと思っている。風景と言ってもそれは山や川ということではなくてより身近なもの、手の届く範囲のことで、今回は特に自粛生活だからか、アルバムのインナースリーブにあるようにあまり明るくない部屋の一室からの風景ということになる。
 
ところが彼女の作品は、これは前作もそうだが実質彼女自身の一人語りになっていない。確かに歌詞は「わたし」や「僕」という一人称が用いられているけれど、決して作家本人の喜怒哀楽が述べられているわけではないのだ。あくまでも主役は目に映る風景、「布と皮膚」であり「屋上で干されたシーツ」でありはたまた「瞳孔の動き」である。彼女の視点がそこにフォーカスされている以上、実のところ彼女自身の感情は横に置いておかれているのだ。
 
これは意識してのことだろうか。そこは分からない。けれど彼女が自分の感情を掃き出すために歌っているのではないことは明らかだ。彼女はその大声を「自分のこと」を歌うために使ってはいない。だから彼女がいくら心をむき出しに歌おうとそこに暑苦しさは窮屈さはないし、むしろプラスに転じる明るさや開放感が宿っているのだ。
 
加えて、彼女には今「カネコアヤノ・バンド」と呼べるメンバーがいる。いつからのコラボレーションなのかは分からないが、幾度かのレコーディング合宿を行い、幾度もライブを重ねた彼らは、単にカネコアヤノとバック・バンドではなく、もうすっかりバンドだ。アルバム1曲目、『抱擁』でのアウトロ。ここでのコーラスのなんと穏やかな一体感。更に言えばそれは、身近な風景を描くカネコアヤノならではの、さっきまで肘を突いていた机に残る温かさたちが手を添えるコーラスでもある。
 
すなわちここには彼らバンド・メンバーの目があり、小さな部屋にうごめく生命(そう、彼女の描く風景、モノにはいつも命の宿りが感じられる)のあたたかな目がある。彼女の歌が決して彼女の視点だけにならないのはそういうこと。彼女は人に向かって歌っている。「私」が前に来るのではなく「歌」が前に来ているのだ。
 
それにしても、この’みんなの歌’感はなんだ。7曲目の『閃きは彼方』ではそれこそトイ・ストーリーのように部屋中のテーブルや歯ブラシやフライパンといった身近な風景たちが楽団となり音を立てていて、それをみんなで見たり聴いたりしているような錯覚がある。やはり彼女の歌は「私の出来事」という狭い世界の話ではなく、それがたとえ活動を制限された自粛生活から生まれたものであろうと、もっと大きな、生きとし生けるものたちを描く壮大で切なる物語なのだ。
 
大事なことを何気なく「ポン」と置いていくカネコアヤノさんの歌には、やっぱり何気ない何か、例えば小学校時代から使っているシャーペンを今も大事にしているような温かさを感じます。決して正面切って人を励ます歌ではないけれど、きっと誰かの支えになっている。そんな歌だと思います。
 
あと最後に。彼女の日本語表現、相変わらず素敵です。「快晴で透けるレースの影」(『手紙』)とか「桃色の花びら 希薄な僕ら」(『春の夢へ』)とか「瞼から子うさぎが跳ねてく 波のようだね 波のようだね あなたが優しい人だから」(『窓辺』)とか、他にも沢山ありますけどホントに見事な情景描写です。あともうひとつ(笑)。#8『窓辺』でのギター・ソロが最高です。

カネコアヤノの言葉~例えば「布と皮膚」

邦楽レビュー:

カネコアヤノの言葉~例えば「布と皮膚」~

 

僕は洋楽をメインに聴いていますが、何も邦楽を避けているわけではありません。ただ邦楽の場合はどうしても言葉に目が行ってしまうんですね。そこでこれちょっとなと思ってしまうともうダメなんです。逆に言葉の部分でこれいいなと思えるものがあったらすぐに食いつきますね(笑)。やっぱり母国語で得られるカタルシスは特別ですから。

最近僕が食いついたのはカネコアヤノさんの曲です。彼女の言葉への向かい方が新鮮なんですね。そこで今回はカネコさんの曲の中でも、これ特徴的だなと思った曲があったので、それを紹介したいと思います。2019年リリースのアルバム『燦燦』に収められた「布と皮膚」という曲です。

先ずタイトルの「布と皮膚」ですよね。最初に聴き手はここで引っ掛かります。カネコさんは突飛な曲のタイトルの付け方をしないのですが、この「布と皮膚」はちょっと独特ですね。字だけを見ているとちょっと堅い印象を受けます。その堅い印象を持ったまま、そして意味の把握しかねる状態で聴き手は曲を聴き始めます。で最初のヴァース。

  いろんなところがドキドキしてる
  Tシャツの襟ぐりと首の境を
  行ったり来たりバレないように
  指先でそっと縫い目をなぞった

ここで聴き手は「布と皮膚」は具体的には「Tシャツの襟ぐりと首の境」のことなんだなと了解します。もう単純に映像が、この「布と皮膚」というタイトルと「Tシャツの襟ぐりと首の境」という言葉で映像が立ちあがってきますよね。それも少し離れた、或いは俯瞰的な絵というのではなく近い映像。例えて言うと陶芸家が土をこねるようなそぐそこにある即物的な絵です。そこを「行ったり来たりバレないように / 指先でそっと縫い目をなぞ」るわけです。

つまり聴き手は最初のヴァースで「縫い目」とは何か、「Tシャツの襟ぐりと首の境」とは何か、加えて歌の主人公はそこを指でなぞっている、ということを視覚的に知るわけです。ではこの「縫い目」とはどういう意味なのか、「Tシャツの襟ぐりと首の境」が象徴するものは何なんだ、ということがコーラスで判明します。

  布と皮膚 布と皮膚 布と皮膚
  交互になぞった
  眠れない夜にそっと
  布と皮膚 交互になぞった

僕の解釈では「皮膚」というのは‘私’の一番外側にあるもの。「布」というのは反対に‘私’ではない存在の最も‘私’寄りの部分。この両者の接触付近について歌われていることなんだと。簡単に言うと自分と外界の境目についての歌ですよね。そう考えるとそんなニュアンスの歌って結構ありますよね。ただカネコさんはそこをわざわざ「布と皮膚」と表現するんです。「布と皮膚」と表現することによってより即物的なイメージを聴き手は持つことが出来るのです。

面白いのはその境目、触れるか触れないかの接触付近、出入口についての歌なんだけど、そこがどうなんだということは一切触れられていないんです。違和感を感じるとか心地よいとかそういう作者の主観は入ってこない。つまり状態が描写されているだけなんです。ここ、結構大きなポイントではないでしょうか。

そして「布と皮膚」を「眠れない夜にそっと / 交互になぞった」という表現ですがこの表現、少し色っぽいです。これは歌ですからこの言葉に動的な意味が加わる、メロディや声や演奏が加わるわけです。ここをカネコさんは「布と皮膚」ではなく「ぬぅのと、ひっふー」と歌います。少し色っぽい表現を更に「ぬぅのと」と歌うことで同じ意味が被さってきて、要は強調されてきて、次、ここですよね、「ひっふー」と歌うことですばやくユーモアに転じて行く。この部分、見事だと思います。

音楽家に限らず、言葉を扱う人というのはやはりオリジナルの表現を好むんですね。自分自身の言葉を獲得したい、そう思うものだと思います。ですのでどうしても突飛な言い回し、違和感のある言葉遣いに目が向いてしまうわけです。要は表現のアプローチを伸ばしたくなるんですね。

でも結果どうなるかというと、それはやはり自分から離れた言葉ですからリアリティが希薄になります。加えて、突飛な表現というのは案外使い古されている、突飛な表現という行為自体が使い古されていますから、かえってありきたりな表現、紋切型の定型文になってしまいがちです。だから言葉というのは自分の体の中から出てくる、手の届く範囲でないといけないということなんだと思います。

そういう意味でカネコさんの言葉はカネコさんの中から出てきた言葉なんですね。言い換えれば肉体的な言葉。手の届く範囲で捕まえることのできる言葉なんです。だから言葉に通っている静脈がうっすら透けて見えるんです。言葉というものへの向き合い方をカネコさんに改めて教わったような気がします。

最後に。これは谷川俊太郎さんが折に触れて仰っているのですが、言葉というのはもうすでに意味を持ってしまっているんですね。だから詩というのはそことのせめぎ合いということになります。つまり「布と皮膚」というタイトルで言うと、「布」という言葉も「皮膚」という言葉も予め意味、イメージを持っていますよね。その従来持っている言葉が組み合わさることで別のイメージが現れてくる。加えてこれは歌ですから、声やメロディによる効果も加味されて、「布と皮膚」という言葉は従来持っている言葉を組み合わただけではない別のイメージを生み出している、ということが言えると思います。

追記:
本来であればここに歌詞を全て掲載したいのですが、著作権の問題もありますからね。とか言いながら半分程度載せてしまっていますが(笑)。ま、ご容赦ください。

今、ライブを観に行きたい人シリーズその③ カネコアヤノ

その他雑感:
「今、ライブを観に行きたい人シリーズその③ カネコアヤノ」  
 
カネコさんを知ったのはラジオです。たまたまですけど弾き語りで「かみつきたい」という曲を歌ってらっしゃるのを聞いて、弾き語りですから言葉がダイレクトに響いてきたんですね。そうすると、いい曲を歌おうとか人を励まそうとかそういった外側の部分が何ひとつ感じられなくて、あぁこの人は歌いたいことがあるんだなぁとそれだけが全面に来たんです。で、その潔さになんだなんだと興味を引かれたわけです。ですので僕がカネコさんを好きになったのは見た目からではありません。ラジオです。一応言っときます(笑)。
 
前述の折坂さんや中村佳穂さんは何と形容すればよいか分からない人たちでしたけど、カネコさんはもう完全にロックの人ですね。サウンドがどうとか以前の段階として立ち居振る舞いが完全にロックです。めちゃくちゃ格好いいです。チャーミングなルックスに目が行きがちですが野性的です。どんな感じかというと、とりあえずこちらをご覧ください。
 
 
普段はどんな方が知りませんが、インタビューなんかを聞いてると物静かな印象ですね。それがステージに立つと、ていうかギターを抱えるとスパークするんです。これですよこれ。逆に普段カッコつけてるくせに歌い出すとからっきしカッコ悪い人いるじゃないですか(笑)。でもカネコさんは恰好つけようとか演出云々ではなくナチュラルにスパークしちゃうんです。これはもうロック以外の何物でもないでしょ。
 
あとやっぱりバンドがいいです。スタジオで録音されたオリジナル・バージョンよりライブ・バージョンの方が圧倒的にいいです。多分同じメンツだと思うんですけど、こんなに違うかっていうぐらいダイナミズムが全然違います。ここは課題なのかもしれませんが、彼女の場合は2パターンあるってことで、これはこれでいいような気もします。
 
男だろうが女だろうが立ち居振る舞いが格好いいミュージシャンてそんなにいません。曲が格好いいってのはありますよ。単純にルックスがいいってのはありますよ。でも歌ってる姿が格好いいってあんまりいないんです。しかもちょっと意識してっていうのではなく、本人にその気がなくても、いや多分むしろそんなこと無頓着なのに自然と格好よくなってしまうっていう、そういうお方なのだと思います。
 
てことで僕がライブを観に行きたい人シリーズの最後を飾るにはネコアヤノさんです。