ナケバ

ポエトリー:

「ナケバ」

 

君のこと やめようと思っても
ついてくる風 なびく稲穂の手引き
その時に夜は 星たちの綱引き
オーエス、
そして大事なこと 言う羽目になる

屏風を立てた日 風はおしろいに乗ってやまびこ
こだまする 幾度も幾度も
肯定する心 内側に秘めたるさしたる願い ありもせず
難しい話なら 夜半にして

毎日でも 少しでも あの人のためならばと心
引き留めて まさかね
無味無臭 無害大敵
どうか無事にやりとげて どうか穏やかに

短いあなた 過去に遡る私
いずれ大切なときが訪れる
そう信じてさえ
雨ニモマケル 凡人の行方
なにが恋しい?
それすらわからない

 

2020年5月

尋ねていた

ポエトリー:

「尋ねていた」

 

くぐり抜けてきた
うまくいかないこと
その多くを
さして支障はない

星を眺めていた
窓が濡れていた
ぶつかり合う星のこと
考えていた

誓いは嘘をつかない
泣き出した日のこと
もうこれからは
忘れたりしない

街の隅では
静まり返った太陽が
古い喉を枯らして
口笛を吹いていた
傍らの犬も共に
喉を鳴らしていた

違いは嘘をつけない
アケビがそっぽを向いていた
ごめんなさいと嵐がただならぬ風を吹かせ
他ならぬ君の横を通りすぎた

気がつけば星は
新しい時代の代謝
いくらかでも信じるがための光、
少し分けてくれまいかと
見知らぬ風をつかまえては
尋ねていた

 

2021年5月

よすが / カネコアヤノ 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『よすが』(2021年)カネコアヤノ
 
 
僕はカネコアヤノは風景を描く作家だと思っている。風景と言ってもそれは山や川ということではなくてより身近なもの、手の届く範囲のことで、今回は特に自粛生活だからか、アルバムのインナースリーブにあるようにあまり明るくない部屋の一室からの風景ということになる。
 
ところが彼女の作品は、これは前作もそうだが実質彼女自身の一人語りになっていない。確かに歌詞は「わたし」や「僕」という一人称が用いられているけれど、決して作家本人の喜怒哀楽が述べられているわけではないのだ。あくまでも主役は目に映る風景、「布と皮膚」であり「屋上で干されたシーツ」でありはたまた「瞳孔の動き」である。彼女の視点がそこにフォーカスされている以上、実のところ彼女自身の感情は横に置いておかれているのだ。
 
これは意識してのことだろうか。そこは分からない。けれど彼女が自分の感情を掃き出すために歌っているのではないことは明らかだ。彼女はその大声を「自分のこと」を歌うために使ってはいない。だから彼女がいくら心をむき出しに歌おうとそこに暑苦しさは窮屈さはないし、むしろプラスに転じる明るさや開放感が宿っているのだ。
 
加えて、彼女には今「カネコアヤノ・バンド」と呼べるメンバーがいる。いつからのコラボレーションなのかは分からないが、幾度かのレコーディング合宿を行い、幾度もライブを重ねた彼らは、単にカネコアヤノとバック・バンドではなく、もうすっかりバンドだ。アルバム1曲目、『抱擁』でのアウトロ。ここでのコーラスのなんと穏やかな一体感。更に言えばそれは、身近な風景を描くカネコアヤノならではの、さっきまで肘を突いていた机に残る温かさたちが手を添えるコーラスでもある。
 
すなわちここには彼らバンド・メンバーの目があり、小さな部屋にうごめく生命(そう、彼女の描く風景、モノにはいつも命の宿りが感じられる)のあたたかな目がある。彼女の歌が決して彼女の視点だけにならないのはそういうこと。彼女は人に向かって歌っている。「私」が前に来るのではなく「歌」が前に来ているのだ。
 
それにしても、この’みんなの歌’感はなんだ。7曲目の『閃きは彼方』ではそれこそトイ・ストーリーのように部屋中のテーブルや歯ブラシやフライパンといった身近な風景たちが楽団となり音を立てていて、それをみんなで見たり聴いたりしているような錯覚がある。やはり彼女の歌は「私の出来事」という狭い世界の話ではなく、それがたとえ活動を制限された自粛生活から生まれたものであろうと、もっと大きな、生きとし生けるものたちを描く壮大で切なる物語なのだ。
 
大事なことを何気なく「ポン」と置いていくカネコアヤノさんの歌には、やっぱり何気ない何か、例えば小学校時代から使っているシャーペンを今も大事にしているような温かさを感じます。決して正面切って人を励ます歌ではないけれど、きっと誰かの支えになっている。そんな歌だと思います。
 
あと最後に。彼女の日本語表現、相変わらず素敵です。「快晴で透けるレースの影」(『手紙』)とか「桃色の花びら 希薄な僕ら」(『春の夢へ』)とか「瞼から子うさぎが跳ねてく 波のようだね 波のようだね あなたが優しい人だから」(『窓辺』)とか、他にも沢山ありますけどホントに見事な情景描写です。あともうひとつ(笑)。#8『窓辺』でのギター・ソロが最高です。

中村佳穂の新曲『アイミル』と細田守の最新作『竜とそばかすの姫』

邦楽レビュー:
 
中村佳穂の新曲『アイミル』と細田守の最新作『竜とそばかすの姫』
 
 
 
中村佳穂の新曲がリリースされた。2019年の『LINDY』以来、随分と久しぶりだ。その間、いろいろなことがあった。今も続いている。そんな中での再始動。そうだ、再始動!中村佳穂が動き出したぞ!『アイミル』はそんな新しい気持ちになる新曲だ。
 
聴いて分かるようにコロナ禍だからという曲ではない。ずっと前からあった曲にも思えるし、何年後かに出たとしても恐らく今の曲だと思える、そんな普遍性を帯びた曲だ。『アイミル』、’私は見る’、いいタイトルです。中村佳穂の持つ肯定のイメージ、いけいけゴーゴー、そんな気持ちがいっぱい詰まっている気がします。そうそう、何気に『LINDY』の一節が投げ込まれているのも楽しいね。すべては分かたれたわけではなく、連続しているのです。
 
それと先日、所さんの『笑ってコラえて!』を見ていたらビックリ映像が。あれ、この横顔、佳穂さんじゃないの?と思ったらなんとビックリ、細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』の主役声優を中村佳穂がつとめるとのこと。え?佳穂さん芝居できんの?と思った瞬間、アフレコのご様子が。うわっ佳穂さん、スゲー、めちゃくちゃできてるやん!!
 
僕は細田監督の作品も割と好きなんで、『竜とそばかすの姫』が俄然楽しみになりました。いや~、テンション上がりましたね~。中村佳穂、ここで一気にブレイクしてほしいです。

『聖徳太子と法隆寺』in奈良国立博物館 感想

アート・シーン:
 
『聖徳太子と法隆寺』in奈良国立博物館
 
 
先日のEテレ「日曜美術館」で本展覧会の特集が放送されまして、開催しているのは知っていたのですが、6月20日までの開催ということでもうあまり時間がない、行ける日に行っておこうと、関西地方は大雨の日だったのですが、朝一の9:30から行って参りました。
 
「聖徳太子と法隆寺」ですから、奈良時代のものが沢山あって、奈良時代、7~8世紀のものが沢山展示されているわけです。もう1,400年前のものですよ。しかも保存状態が素晴らしいんです。これは「日曜美術館」でも言及されていたのですが、法隆寺はちゃんと保存目的に管理していた、つまりあの時代ですでに美術品であるという認識があったということなんですね。今の美術館と同じ役割を担っていた。これは凄いことです。文化に対する位置づけが相当高かった証拠ですよね。でその中心に聖徳太子がいた。このことからも聖徳太子がいかに進歩的な人だったかというのが見て取れるのではないでしょうか。
 
その聖徳太子直筆の「法華義疏」、法華経の注釈書らしいですけど、これが展示されていて、なんと間近に見ることができます。さっき言ったように保存状態がいいから、しっかり読めます!もちろん、解読はできないですけど(笑)。それにしてもあの聖徳太子の直筆ですよ、しかもちょっと丸みを帯びた親近感ある字体なんです。学者然とした感じではなく、生活感のある字体。こういうの見ると身近に感じますよね、太子さんの実像が浮かび上がってくるというか、まさしくロマンです。
 
あと見どころは何と言っても仏像ですね、その辺も沢山見れて仏像好きにはたまりません。特に飛鳥時代のいわゆる「アルカイックスマイル」と「アーモンド形の眼」の仏像、僕は鎌倉期の情報量の多いものより、シンプルなこの時代の仏像が割と好きなのでホントもう惚れ惚れするというか、溜息を何度ついたことか、もう美しいの一言ですね。
 
あと仏像って決して写実ではないんですけど、今にも動き出しそうなリアルさがあって、つまり創造物とはそっくりそのまま作ればリアルになるということではない、フィクションのリアリティということなんですが、その写実ではないけどリアルっていう相反するものが行ったり来たりと目の前で転換されるダイナミズム、もう最高です。何と言っても間近に見れますから。
 
今回はちょっと風変わりな塑像もありまして、「羅漢座像」というものなんですが、お釈迦さまの死を悼む様子を描いた座像でして、これが現代のフィギュアのようなリアル造形なんです。で、おぉこれはすげぇなんて隣に目をやると、横にも同じく悲嘆にくれる別の表情の塑像がある、更に横を見ると、みたいな感じで要するに連作なんですね。これにはちょっと笑ってしまいました。ここも大事な見どころです(笑)。
 
奈良国立博物館には仏像館もあって、この特別展の半券があれば入館できます。仏像館と言うぐらいですから仏像盛りだくさんで、更に今は5m以上もある金剛力士像2体が堂々と展示されていますから、ここも是非足を運びたいところですね。金剛力士像のみ撮影OKですので、みんなバシャバシャ撮ってました(笑)。
 
それにしても、何十体とある仏像にどれ一つとして同じものはない。当たり前のことですけど、ちゃんとそれぞれに顔立ちが違って造作が違って、個性が異なる。仏像なんてみんな同じやん、と思われるかもしれませんがひとたびその魅力に取りつかれるとこれほどシンプルで奥深いものはありませんね。今度は法隆寺に行って、また違った環境で見てみたいと思いました。

Drunk Tank Pink / Shame 洋楽レビュー

洋楽レビュー:
 
『Drunk Tank Pink』(2021年)Shame
(ドランク・タンク・ピンク/シェイム)
 
 
昨年あたりからUK、特にサウス・ロンドンが活況づいているとの記事が散見されるようになり、僕もどれどれとチェックはしていたのだけど、あまりピンとは来ず、ところが今年に入ってもその熱は収まるどころか更に大きなムーブメントになっていると。でその大きなトピックとして、シェイムなるバンドが2ndアルバムを出したと言う。それがもっぱら評判がいいので、じゃあと聴いてみたら、なんやめっちゃカッコエエやん。ということで、ここんとこ毎朝の通勤ではこれを聴いていました。朝から激しいなオレは(笑)。
 
ボーカルとツイン・ギターにベースとドラムの5人編成ですね。全員20才そこそこ、見た目も尖がっててイイ感じです。ことに激しいライブが売りだとのこと。なのでイケイケかと思いきや、音楽は全くもって丁寧。プロデュースがアークティック・モンキーズを手掛けたジェイムス・フォードだそうですけど、彼の手腕も大きいのかな。でもかと言って角が取れたということではなく、シェイム独特のやさぐれ感、ダークな感じはしっかり残っている。曲自体がそれを内包しているからか。
 
てことで一応ポスト・パンクということですが、メロディは人懐っこいです。曲調もイケイケ一辺倒では全然なく、中には転調もあったりトーンが変わったりと凝った作り。でも印象としてはシンプルに聴こえるっていう。ていうかギターがいちいちカッコイイ!それにどの曲もつかみのイントロが最高!躍動感のある#6『Snow Day』や#9『6/1』でのドラムとギターのコンビネーション、磁石のようにへばりつくベースはめちゃくちゃカッコイイぞ。このバンドを評するに色々あると思いますが、ま、単純にカッコイイ。そういうことだと思います。
 
あとボーカルの声がジョー・ストラマーに似てますね。あんまりそういう指摘はないみたいですが。だからさっき言った手の込んだアレンジを加えてくるという点ではクラッシュに近いかも。クラッシュみたいに今後アルバムを重ねるごとに新しい音楽的な実験をしていくんじゃないかなと。ということで、一つの道を究めていくというより、いろんなことを吸収して表現の可動域を広げていきたい、そういう傾向のバンドなのかもしれません。

フェスティバル

ポエトリー:

「フェスティバル」

 

音楽に沿って未来を見ていくことは美しいこと
絵画を捉えて、こころは穏やか
新しいことを始めるには
まずは絵筆を整え形から

パレットに絵の具を垂らして
五線譜の行方、新しい助走
音楽は始まっているね
そうだね、わたしたちも今から行こうかね

筋肉は付かない
大きな公園へむかって
黄色のバケツを持ってみんな集まりだす
七色のフェスティバルのはじまりだ
僕たちのフェスティバルのはじまりだ

 

2021年5月

W.L. / The Snuts 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『W.L.』(2021年)The Snuts
(W.L./ザ・スナッツ)
 
 
このところ英国初のロックが元気だ。長い間ヒップ・ホップやダンス・ミュージックに押されっぱなしだったが、若い才能が次々と登場している。当初はアイドルズやフォンテインズD.C、シェイムといったポスト・パンクと呼ばれる威勢のいいバンドが多かったが、今年に入り、長尺ジャム・バンドのブラック・カントリー・ニュー・ロードやポエトリー・リーディング主体のドライ・クリーニングといった風変わりなバンドまでもが英国アルバム・チャートのトップ10入りを果たしている。
 
長尺ジャム・バンドやポエトリー・リーディングがトップ10ヒットになるなんて流石ロックの国だなと感心するが、そことは真逆のポップ・サイドの真打と言えそうなのがザ・スナッツ。中学校で出会った仲間とバンドを組み、アークティック・モンキーズに影響を受けたというから、その背景もまさに正統派ロック・キッズだ。
 
アークティックへの憧れで言えば、#3『Juan Belmonte』はアルバム『AM』期のアークティックだし、続く#4『All Your Friends』はまんま初期のそれ。けれどアルバム全体を聴いていると、アークティックだけではない、00年代、10年代ロック音楽の影響をそこかしこに感じることが出来る。
 
まず思い浮かべたのは、彼らと同じスコットランド出身のザ・ビュー。シャウト気味に歌う時の声がカイル・ファルコナーそっくりやね。このところ名前を聞かなくなったが、ザ・ビューも勢い重視と思いきや音楽的素養確かな連中で、しかもとっつきやすいメロディーが最大の持ち味という点では割と近いかなと思います。
 
あと、#10『Don’t Forget It (Punk)』とか#11『Coffee & Cigarettes』の職人的なソングライティングには、これは英国じゃないけど、フォスター・ザ・ピープルに通じるところがあって、そう思うと声までマーク・フォスターに似ている気がしてくる。マーク・フォスターはデビュー前にCM音楽なんかを手掛けていたというから、それに近い職人気質だってザ・スナッツはあるのかもしれない。
 
あとやっぱりロック・バンドと言えども2020年代でもあるわけだから、当然のことながら4ピースだけでドカンということじゃなく、ちゃんと電子的なアレンジも施されていて、コーラスもそうだけど耳を凝らせばいろんなフレーズが飛び込んで来る。彼らを代表するロック・チューンになりそうな#6『Glasgow』だって単純にドカンじゃないもんな。この辺はそれこそフォスター・ザ・ピープルもプロデュースしたことのあるトニー・ホッファーの手腕も大きいのかもしれないけど、そうは言っても、やっぱり彼らにその素養があるのだと思います。あ、勿論4ピースでドカンも僕は好きです。
 
いい曲を沢山書けて、それを料理する技術とセンスも持っている。今後これがどこまで続くか分からないが、多分彼らの推進力は初期衝動だけではなさそうだ。あちこちに気の利いたギター・フレーズを忍ばせたり、アルバム最後をしっかりロック・バラード#13『Sing For Your Supper』で締めるとこなんざ、まさに王道ギター・ロック・アルバムと言っていいだろう。
 

はいはい、そういう人ね、に対するリベンジ

「はいはい、そういう人ね、に対するリベンジ」
 
 

先日アップした『TIME OUT!』でこのブログでの佐野のアルバム・レビューも残すは80年代の作品のみとなった。ブログを始めた当初にその時点での最新作から遡ってのレビューを始めたのだが、もっとスイスイ進んでいくはずが結構な時間がかかっている。この分だといつ終わるか分からないが、誰に頼まれたわけでもなく好きで書いているので、多分これからもこの調子だろう。

過去に書いたものを読んでいると、肩に力が入っていて今ならもう少しうまく書けるのになぁとも思うのだが、それはそれでその時の記録だし、何よりありがちな批評ではなくちゃんと僕なりの視点を持てていると思うので、​これは​そのままにしておきたい。てことで昔の作品のレビューの方がこなれた感じになっていくという不思議な現象になってはいるが、まあいいなんにしても好きなことを書くのは楽しいものだ。
 
僕は思春期でもないのにいまだに人に佐野のファンだと言うことに抵抗がある。二十歳前後の頃、僕の事などロクに知らないくせに、佐野ファンだと言うと「あぁ、そういう人ね」みたいなことを言われたのをずっと引きずっている。2、3年前にも似たようなことがあって、だから嫌なんだと改めて思った。
 
このブログの三本柱は拙い自作詩と洋楽レビューと佐野元春。ブログを始めた理由は色々あるけど、佐野についてはもしかしたら二十歳前後の時に受けたこの仕打ちへのリベンジという意味合いどこかにあるかもしれない。僕自身に降りかかった誤解も含め、レジェンドと言われる割には音楽自体があまりにも知られていない佐野元春という稀有な音楽家のことを出来る限り誠実に発信していきたい。大げさな言い方になるけど、もしかしたらそれは佐野に対する僕の恩返しかも、なんて思っています。
 
最近じゃ、佐野のこと「誰それ?」って人が思った以上に多いから(笑)
 
 

TIME OUT! / 佐野元春 感想レビュー

『TIME OUT!』(1990年)佐野元春
 
 
『僕は大人になった』という曲が好きだ。特にどうと言うこともない曲だと思うけど、佐野自身も好きなのかよくライブで演奏する。昔からのファンはこの曲と『ガラスのジェネレーション』を結びつけてしまうようだけど、後からファンになった僕には関係ない。単純にこの曲の軽さが好きだ。
 
僕はそろそろ50が見えてきて完全なる大人だけど、じゃあ本当にそうかと言われれば随分と心もとない。多分、僕がこの曲を好きなのはその心もとなさがうまく表現されているからだろう。難しい文句を重ねるわけでもなく、「壊れた気持ちで翼もないまま どこかに飛んでゆくのはどんな気がする」とシャウトし、「とてもイカしてるぜ」と結ぶ。とてもいい加減な曲だ。そこがすごくいい。
 
今気づいたが、’飛んで’と’どんな’で頭韻を踏んでいる。こういう跳ねた表現がそこかしこにあるのもこの曲の魅力だ。ていうかこのアルバムはずっとそんな感じだな。なんにしてもこの何気なさにはやられる。
 
80年代の佐野は外に向かっていた。特に『VISTORS』(1984年)以降はその傾向が強い。しかしこの『TIME OUT!』にはその気概が感じられない。時代背景もあってかバブルに浮かれた世相を冷ややかに見ている視点もあるけど、それもちょっと投げやり。らしくない。それどころか佐野自身のプライベートな声がここにある。
 
佐野は自身の喜怒哀楽を歌に表さない。滲ませているかもしれないが、基本的には’自分ではない誰かの視点’で曲を書いている。けれどこのアルバムでは佐野の生な声が聞こえてくる。もちろん自分ではない誰かのストーリーに仕立ててはいるけど、自虐的に面白おかしく内面を吐露させているように思える。そんなアルバムは現時点においても唯一この作品だけだ。『VISITORS』(1984年)、『Cafe Bohemia』(1986年)、『ナポレオン・フィッシュと泳ぐ日』(1989年)とそれ自身ダイナモのようにエネルギーを発する怒涛の作品群と来て、一気にトーン・ダウンの『TIME OUT!』。あの佐野元春にもこういう作品があるんだな。なんかこのアルバム、レアだぞ。
 
この頃は wowow でのアンプラグド・セッション『Good Bye Cruel World』(1991年)もあったりと、自身のバンド、ハートランドとの距離が更に濃くなっていく時期だ。海外を活動の拠点にしていた佐野が90年代に入ってからはハートランドとの時間を密に取っていく。1993年の『The Circle』を最後にザ・ハートランドは解散するのだけど、その頂きに向かって再スタートを切った時期と見ていい。
 
そのピークを迎えていく『The Circle』や『Sweet16』(1992年)での躍動するハートランドも素晴らしいが、この『TIME OUT!』での演奏も地味に目を見張るものがある。いや、ハートランドとTokyo Be-Bop のメンバー一人一人の顔が見えるという点で言えば、むしろこのアルバムかもしれない。完全なるザ・ハートランドお手製アルバム。 あぁ、『Good Bye Cruel World』も音源化してくれないかな。
 
それにしてもこの頃の佐野元春はキレキレだ。活動的にはトーンダウンした時期かもしれないけど、前作から1年しかインターバルがないように創作力は旺盛だ。言葉の妙と言い、その載せ方といい、AメロBメロサビ的なパターンを無視したメロディといいオリジナリティーに満ちている。これは完全に80年代の果敢なトライアルの成果だろう。逆に肩の力が抜けていい感じ。#10『ガンボ』での「あれ、片っぽの靴下がどこにもないだろう」のラインが最高過ぎる。
 
ところでこのアルバムをフォローしたツアーを収録したビデオがあって、6曲しか収録されてなかったんだけど、『クエスチョンズ』とかテンポアップした『愛のシステム』とか見事な佐野元春 With The Heartland ぶりを見ることが出来る。ビデオには収録されていないけど、Youtubeにはビートルズの『Revolution』のカバーがアップされていて、シャウトしまくりの異様にかっこいいこの時期の佐野の姿が捉えられている。 『Good Bye Cruel World』と合わせて、『TIME OUT!』ツアーの長尺パッケージ化も切に望むぞ!
 
随分と昔に佐野がこのアルバムを’ホーム・アルバム’と称していたけど、今改めて聴くとなんとなく分かる気がする。昔からのファンには重いアルバムのようだが、いやいや『VISITORS』~『ナポレオン~』期の方が断然重いでしょう(笑)。僕は純粋にこのアルバムを楽しめている。こりゃ後追いファンの特権だな。とはいえこの時の佐野は33才。とは思えない大人なアルバムだ。