Blue Weekend / Wolf Alice 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Blue Weekend』(2021年)Wolf Alice
(ブルー・ウィークエンド/ウルフ・アリス)
 
 
前作で一気に英国ロックのトップランナーへ駆けあがったウルフ・アリスですけど、その『Visions of a Life』(2017年)がイケイケのアルバムだったのに対し、本作は引きの芸、自信がみなぎっている感じはしますね。
 
確かにキャッチーなシングル向けの曲は前作に譲るけど、アルバム全体の流れとしてはこちらの方が断然たおやか。余裕を感じます。このバンドの特徴として相変わらず縦横無尽にジャンルを行き交いますが、不思議と一つのトーンに収まっていて、ここでまた一歩前へ進んだというか、明らかに成長しているのを感じます。
 
その最たるものがエリー・ロウゼルのボーカルで、本作でも前作同様、時に荒々しく時に物静かに様々な表情を見せるけど、これだけ落差がありながらも聴く方としてはその浮き沈みを全く感じないというか、前作の力んだ感じはなくてごく自然に聴けてしまう。前作までが曲に合わせ意図してボーカルを変えていたのだとしたら、今回はもう意図せずとも曲に応じて自然と声音が変わっていくという、つまり自分から寄せるのではなく、その境目がなくなってきたということですね。
 
そうした印象に一役買っているのがファルセットで、今回はかなり多用されています。ていうか意識して聴くとこんなに多用してたんだって。ま、それぐらい気付かない感じで自然に溶け込んでます。だから全体としては、ああしてやろうとかこうしてやろうとかではなく、曲に向かっていく姿勢の中で自然とこうなっていったというか、そこは前作でやり遂げた成果というものにも繋がるのだろうけど、しゃかりきにならなくても向かうべきところへ集約されていくんだという、作品に対してより研ぎ澄まされていったという感じはしますね。僕が今回は引き芸と感じたのはそこのところかもしれない。
 
それにしてもこの独特の世界観は際立ってますね。演劇的というか、シネマティックというか、でもザ・フーとかクイーンのような大胆な演劇性というのではなくスムーズに漂うような感じで。だから1曲1曲がどうだというよりやはりアルバム全体として一つの作品という感じはあります。で、そのグッと引き締まった感、これはやっぱりバンドの力ですよね。ボーカルばかりに目が留まりがちですけど、バンドの下支え感は半端ないと思います。
 
ま、なんにしてもウルフ・アリスのキャリアにとって、今が初期のピークなんだと思います。それぐらいの絶好調感はあります。個人的には幽玄な#3『Lipstick  On The Glass』から言葉がさく裂する#4『Smile』の流れがたまらんですね。こうなると今のキレキレの状態での彼女たちのライブを見たいものです。

ロック・イン・ジャパン・フェスの中止に思うこと

その他雑感:
 
 
ロック・イン・ジャパン・フェスが中止となった。この夏はオリンピックだけを見ておけということだろうか。
 
開催1か月前に茨木県医師会からフェス主催者へ延期にするなり、開催するにしても更なる防止策を施すよう求めた。主催者側はこの1年、フェスを復活させるべくテストを実施。自治体とも協議を重ねながら、今回のフェスもステージを7つから1つに減らしたり観客数を通常の半分以下に減らすなど、会場への導線も含めて様々な対策を取ってきた。しかし医師会が求めるのは更なる対策。つまり観客の会場外での行動も管理せよ、というものだった。そんなこと出来るはずもない。要するに医師会の見解は「やめろ」ということ。開催1ヵ月前にこんな踏み絵とは。
 
医師会はフェスというものは若者がただ騒ぎたいだけと思っているのではないか。違う。世の中には音楽がないと生きてゆけない人が大勢いるのだ。つらいこと、苦しいこと、年に数えるほどの音楽フェスを心の拠りどころにして頑張って生きている人たちは沢山いるのだ。何故そのことが医者である彼らに分からないのか。
 
僕は昨年末にコロナ禍で開催されたライブに行った。行くことを随分迷ったが、行ってよかったと今は思う。そこでは演者だけでなく観客までもが新しい形のコンサートを作ろうと主体的に行動し前を向いていた。何故か。僕らは音楽を愛しているからだ。こんなつまらないことでライブを失いたくないからだ。
 
三度の飯よりオリンピックが好きという人もいるだろう。でもオリンピックが始まろうが何しようが寄席に行きたい人は寄席へ行くし、美術館へ行きたい人は美術館へ行くし、おれは見るよりやる方が好きなんだとフットサルへ出かける人もいるし、オリンピックなど少し見ずにいつもどおりソロキャンプへ行く人もいる。すべては同じ地平にあるのだ。そしてその選択は絶対に強要されてはならない、制限されてはならない。
 
医療従事者の皆さんには本当に頭が下がる思いだし、感謝の気持ちでいっぱいだけど、それとこれとは別の話。何故この勧告が1ヶ月前になったのか。これがどういう意味を持っているのかを茨城県医師会が理解しているとは思えない。

美しが丘

ポエトリー:

「美しが丘」

 

短い嘘から始まる勇気
間近に迫ったたった今
極端に曲がったガードレール越しに
心臓破りの丘、初めての勇気

思い出してもみよ、これみよがしに
打ち解けた日のお祝い
初日の美しヶ丘
できあがったばかりの首を固定して
春の心地、外へ出かける

十分な潤いに滑りだす
ガシッとコンクリートを掴む足
歩く度、増えるキズに
新品ではなくなることの心地よさ
近くを歩けるだけ歩く
腕を振る角度は固定されていても
その看板に偽りはない

いつからか分からない
毛の生えた程度のドキドキ
心は晴れやかに落書き
そこに飛び出すカラスは西から
雲がよぎり長い影がひとつ傾いて
問題ない、ふたつでひとつ
心の中の相棒に語りかける

四時間ばかり先のこと
口からでまかせのハカリゴト
ことあるごとに口を開き
サブタイトルに心を開き
誤魔化さないでと
虚ろな眩しさたおやかに

ガードレール越しに
心臓破りの丘、初めての勇気
傍には大いなる古時計があって
存分に仰ぎ見る太陽

銀色に光るボディ
視線を投げて光る初日の美しが丘
はじめまして、
私はニンゲンというものですと
丁寧にお辞儀す

 

2021年5月

夜の招待 / 石原吉郎

詩について:

 

「夜の招待」 石原吉郎

 

窓のそとで ぴすとるが鳴って
かあてんへいっぺんに
火がつけられて
まちかまえた時間が やってくる
夜だ 連隊のように
せろふあんでふち取って――
ふらんすは
すぺいんと和ぼくせよ
獅子はおのおの
尻尾をなめよ
私は にわかに寛大になり
もはやだれでもなくなった人と
手をとりあって
おうようなおとなの時間を
その手のあいだに かこみとる
ああ 動物園には
ちゃんと象がいるだろうよ
そのそばには
また象がいるだろうよ
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ
椅子がゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる

 

(『サンチョ・パンサの帰郷』1963年)

 

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石原吉郎さんと言えば、背景が背景なものでつい深刻な顔をしてしまいがちですが、この詩はなんかパッと明るい感じがしました。明るいと言ってもやはり冷めた目線というか、「朝は 約束をしにやってくる」といえどもそこまで信じ切っていないというか。ただ僕の印象としては望みを託している方に気持ちは傾いているのではないかと思っています。基本的には石原さんの希望の詩なんだと思います。ていうか実際に希望の朝を迎えた時の、実体験に基づいた詩なのかもしれません。とまぁ、ここでもシベリアの強制収容所という石原さんの背景を見てしまいますが。

冒頭から‘ぴすとる’が鳴ったり‘かあてん’に火が付いたり戦争を想起させるような描写はあります。ただここで‘ぴすとる’や‘かあてん’と平仮名で表記しているところで印象はやわらぎますよね。ここに何か意味はあるのかなと思っていると、‘まちかまえた時間’、つまり争いごとが終わることが示唆される。平仮名はそういうことかもしれません。

‘にわかに寛大になり もはやだれでもなくなった人と 手をとりあって おうようなおとなの時間を その手のあいだに かこみとる’。この箇所、全部記載してしまいましたが、最高の言い回しですよね。‘もはやだれでもなくなった人’といった表現や‘おうようなおとなのじかん’といった表現、もうそれとしか言いようがないですね(笑)。

とにかく、平和な時間が訪れて、そばには象がいて、ここで言う象とは必ずしも動物の象のことではなく、人々ということかもしれませんが、いずれにしても‘おうよう’とした存在がある。そして‘来るよりほかに仕方のない時間が’やって来ることの見事さに石原さんは感動されているのです。

次の‘切られた食卓の花にも’から先のくだりは自由の象徴です。例えて言うと革命が起きて自由な世界が訪れる、歓喜の輪が広がってゆく、そんなイメージです。遂には手の中にある色とりどりのクレヨンまで溶けてしまう。それまでの考え方や思想までが溶けていくということです。

そして最後に‘朝が 約束をしにやってくる’わけですけど、ここではまだ朝はやって来ていない、まだ歓喜の中、人々が作り出す明かりはあるけれどまだ夜の闇の中にいる。今の段階では約束はまだできていない、そんな状態でこの詩は幕を閉じます。

とはいえ、これらはあくまでも僕の解釈です。それとて時間が経てば変わりゆくもの。僕は石原さんのシベリア体験と結びつけてしまいましたが、ここに戦争の影を見る必要はないし、そうではない読み方はいくらでも出来そうです。単純に夜が朝に変わる様とかね。いずれにしても何かが終わり何かが始まる、そんな気分をもたらす作品かもしれません。

個人的な話でなんですが、僕の祖父は終戦後、シベリアでふた冬を過ごし帰ってきました。祖父は近寄りがたい人だったので、喋った記憶はほとんどないのですが、石原吉郎さんの詩を僕はどこかに祖父を感じながら読んでいるところがあります。ですのでこの「夜の招待」には、あの時解放された人々の風景はこんな風だったのかな、祖父も半信半疑でありながら徐々に望みへと気持ちは傾いていったのかな、まんじりと朝を待ちわびていたのではないかな、そんな風に想像をしてしまいます。

ところでこの「夜の招待」は現代詩文庫の石原吉郎詩集で読んでいる時に、なにか引っ掛かりを覚えたのですが、調べて見るとこの詩は石原さんが初めて雑誌に投稿された時の詩なんだそうです(当時39歳だとか)。つまり石原吉郎のデビュー作です。そのデビュー作にピピンと来たオレもなかなかだなと、自画自賛してこの文章を終わりたいと思います(笑)。

春の陽気

ポエトリー:

「春の陽気」

 

帽子を取って走る姿に
いま一度ほれおなす
確かあれは
桜並木
賀茂川のほとり

無尽蔵にこみ上げる
大切に想う気持ち
春の陽気に請われて
減じてしまうよ
まさか、
まさかね

眩しい光線
お願いするよ
そのままどこかへ持ち去らないで

伸び盛りの欲望
ほどなく断ち切る
桜並木
賀茂川のほとり
いつか来た道

 

2021年4月

天才の愛 / くるり 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『天才の愛』(2021年)くるり
 
 
先日、中1の息子が谷川俊太郎の『朝のリレー』を持ってきた。学校のテストで出たんだけど、よく分からないと。けれど僕は考え込んでしまった。なぜなら詩は人によって受け取り方が違うから正解なんて言えない(笑)。なのに問題文はここはどういう意味だ?とか、作者がここで言いたいことは何だ?とか言う。こういうところが子供から詩を奪うんだよなぁと思いつつ、そんなことを息子に言ってもしょうがないから、これが一般的な答えかなぁというのをその理由と共に伝えました。
 
詩はそもそも論文でも作文でもない。簡単に言えば、好きに受け取ってしまえばいいし、必ずしも言葉を一つ一つ追いかけて論理的に理解する必要はないわけです。そこのところのスタート地点に立った時、『天才の愛』は僕の中で俄然輝きを放ち始めました。
 
『天才の愛』、タイトルからして分からないですよね。1曲目の『I Love You』だってこんな分かりやすいタイトルだけど、「杯になれ 灰になる I Love You」はどういう意味かを問われれば答えに窮します。2曲目『潮風のアリア』だってそう。しかも大らかな『潮風のアリア』の次に「かっとばせ!かっとばせ!」ですよ、全く分からない(笑)。『益荒男さん』、「デゼニランド」、なんのこっちゃ?「my guiter、スルスルneckを滑らすnylon弦」と来て、「昔々人類は…」ですよ!僕も最初はこれらの歌詞を理解しようとしたんですけどやめました(笑)。ていうか気づきました。細かい理屈は要らないって。
 
僕たちは言葉に支配されてしまっているような気がします。もっと自由でいいのに。理解を放置する、思考を捨てて身を委ねる、そういうところに戻ってもいいのかなって気がします。つまり、ぼーっと聴けばいい(笑)。だってくるりは言葉だけを構築しているのではなく、サウンドを含めた曲全体を構築しているんですから。で、凄いことにそれらすべては並列していて、『潮風のアリア』の大らかなストリングスも『ことでん』の愛らしいピロピロ音も『益荒男さん』の「オッペケペッポー」も同じ地平にあるのです。
 
インタビューで岸田さんが『天才の愛』は弾き語りではできないと仰ってました。そうですよね、この『天才の愛』は言葉もメロディもサウンドも全てひっくるめて『天才の愛』なんです。どこかを抜き出して表現できないということは、聴く方にしたって、どこかを抜き出して聴くことなんて出来ないのです。
 
 
ですので、僕は頭で理解することをやめました。そうするとだんだんと全体像に耳は傾きだした。思考を捨てて身を委ねると、景色が目の前を通り過ぎて歌が動き出す。論理を超える、サウンドがそれを補強する、その心地よさ。あぁ『渚』は通り過ぎてくなぁ~。
 
だから『天才の愛』を僕は詩のように聴いています。論文ではないんですから、細かいことは気にしません。沢山の音が入ってますよね、遊園地のように。そういえばうちの高2の娘が『益荒男さん』と『大阪万博』がスピーカーから流れ出た時に「これ、ディズニーランドで流れてる曲みたい」と言いました。娘は曲のさわりだけを聴いてそんなこと言ったので僕は「おぉぉ、慧眼や!」と興奮したのですが、ま、それは横に置いといて(笑)、『天才の愛』は思考をゼロにして、ダイレクトに受け取りたい、論理を飛び越えて鳴る音楽に身を委ねたい、そんな感じです。
 
『天才の愛』は名作です!とか言いながら、僕はくるりのアルバムを聴くのはこれが初めてです(汗っ)。くるりと僕は世代が近いんですね。その同世代が、このコロナ禍で何を歌うんだ、というところが気になって今回初めてくるりのCDを手に取りました。ところがアルバムを聴いて、そんな僕の期待はすっかりはぐらかされた。そんなところはとうに飛び越えた音楽がここにはあったんです。
 
僕は新しい音楽を知りました。嬉しい気持ちでいっぱいです。くるり初心者の僕は彼らのキャリアの中でこのアルバムがどういう意味を持つのか知りません。でも僕の中で2021年に出たこのアルバムはしっかりと記録されました。今まで無かった新しい回路が開いた感じ。 この年になってそんな感覚になるなんて思いもしませんでした。僕は俄然くるりが好きになりました。

ナケバ

ポエトリー:

「ナケバ」

 

君のこと やめようと思っても
ついてくる風 なびく稲穂の手引き
その時に夜は 星たちの綱引き
オーエス、
そして大事なこと 言う羽目になる

屏風を立てた日 風はおしろいに乗ってやまびこ
こだまする 幾度も幾度も
肯定する心 内側に秘めたるさしたる願い ありもせず
難しい話なら 夜半にして

毎日でも 少しでも あの人のためならばと心
引き留めて まさかね
無味無臭 無害大敵
どうか無事にやりとげて どうか穏やかに

短いあなた 過去に遡る私
いずれ大切なときが訪れる
そう信じてさえ
雨ニモマケル 凡人の行方
なにが恋しい?
それすらわからない

 

2020年5月

尋ねていた

ポエトリー:

「尋ねていた」

 

くぐり抜けてきた
うまくいかないこと
その多くを
さして支障はない

星を眺めていた
窓が濡れていた
ぶつかり合う星のこと
考えていた

誓いは嘘をつかない
泣き出した日のこと
もうこれからは
忘れたりしない

街の隅では
静まり返った太陽が
古い喉を枯らして
口笛を吹いていた
傍らの犬も共に
喉を鳴らしていた

違いは嘘をつけない
アケビがそっぽを向いていた
ごめんなさいと嵐がただならぬ風を吹かせ
他ならぬ君の横を通りすぎた

気がつけば星は
新しい時代の代謝
いくらかでも信じるがための光、
少し分けてくれまいかと
見知らぬ風をつかまえては
尋ねていた

 

2021年5月

よすが / カネコアヤノ 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『よすが』(2021年)カネコアヤノ
 
 
僕はカネコアヤノは風景を描く作家だと思っている。風景と言ってもそれは山や川ということではなくてより身近なもの、手の届く範囲のことで、今回は特に自粛生活だからか、アルバムのインナースリーブにあるようにあまり明るくない部屋の一室からの風景ということになる。
 
ところが彼女の作品は、これは前作もそうだが実質彼女自身の一人語りになっていない。確かに歌詞は「わたし」や「僕」という一人称が用いられているけれど、決して作家本人の喜怒哀楽が述べられているわけではないのだ。あくまでも主役は目に映る風景、「布と皮膚」であり「屋上で干されたシーツ」でありはたまた「瞳孔の動き」である。彼女の視点がそこにフォーカスされている以上、実のところ彼女自身の感情は横に置いておかれているのだ。
 
これは意識してのことだろうか。そこは分からない。けれど彼女が自分の感情を掃き出すために歌っているのではないことは明らかだ。彼女はその大声を「自分のこと」を歌うために使ってはいない。だから彼女がいくら心をむき出しに歌おうとそこに暑苦しさは窮屈さはないし、むしろプラスに転じる明るさや開放感が宿っているのだ。
 
加えて、彼女には今「カネコアヤノ・バンド」と呼べるメンバーがいる。いつからのコラボレーションなのかは分からないが、幾度かのレコーディング合宿を行い、幾度もライブを重ねた彼らは、単にカネコアヤノとバック・バンドではなく、もうすっかりバンドだ。アルバム1曲目、『抱擁』でのアウトロ。ここでのコーラスのなんと穏やかな一体感。更に言えばそれは、身近な風景を描くカネコアヤノならではの、さっきまで肘を突いていた机に残る温かさたちが手を添えるコーラスでもある。
 
すなわちここには彼らバンド・メンバーの目があり、小さな部屋にうごめく生命(そう、彼女の描く風景、モノにはいつも命の宿りが感じられる)のあたたかな目がある。彼女の歌が決して彼女の視点だけにならないのはそういうこと。彼女は人に向かって歌っている。「私」が前に来るのではなく「歌」が前に来ているのだ。
 
それにしても、この’みんなの歌’感はなんだ。7曲目の『閃きは彼方』ではそれこそトイ・ストーリーのように部屋中のテーブルや歯ブラシやフライパンといった身近な風景たちが楽団となり音を立てていて、それをみんなで見たり聴いたりしているような錯覚がある。やはり彼女の歌は「私の出来事」という狭い世界の話ではなく、それがたとえ活動を制限された自粛生活から生まれたものであろうと、もっと大きな、生きとし生けるものたちを描く壮大で切なる物語なのだ。
 
大事なことを何気なく「ポン」と置いていくカネコアヤノさんの歌には、やっぱり何気ない何か、例えば小学校時代から使っているシャーペンを今も大事にしているような温かさを感じます。決して正面切って人を励ます歌ではないけれど、きっと誰かの支えになっている。そんな歌だと思います。
 
あと最後に。彼女の日本語表現、相変わらず素敵です。「快晴で透けるレースの影」(『手紙』)とか「桃色の花びら 希薄な僕ら」(『春の夢へ』)とか「瞼から子うさぎが跳ねてく 波のようだね 波のようだね あなたが優しい人だから」(『窓辺』)とか、他にも沢山ありますけどホントに見事な情景描写です。あともうひとつ(笑)。#8『窓辺』でのギター・ソロが最高です。

中村佳穂の新曲『アイミル』と細田守の最新作『竜とそばかすの姫』

邦楽レビュー:
 
中村佳穂の新曲『アイミル』と細田守の最新作『竜とそばかすの姫』
 
 
 
中村佳穂の新曲がリリースされた。2019年の『LINDY』以来、随分と久しぶりだ。その間、いろいろなことがあった。今も続いている。そんな中での再始動。そうだ、再始動!中村佳穂が動き出したぞ!『アイミル』はそんな新しい気持ちになる新曲だ。
 
聴いて分かるようにコロナ禍だからという曲ではない。ずっと前からあった曲にも思えるし、何年後かに出たとしても恐らく今の曲だと思える、そんな普遍性を帯びた曲だ。『アイミル』、’私は見る’、いいタイトルです。中村佳穂の持つ肯定のイメージ、いけいけゴーゴー、そんな気持ちがいっぱい詰まっている気がします。そうそう、何気に『LINDY』の一節が投げ込まれているのも楽しいね。すべては分かたれたわけではなく、連続しているのです。
 
それと先日、所さんの『笑ってコラえて!』を見ていたらビックリ映像が。あれ、この横顔、佳穂さんじゃないの?と思ったらなんとビックリ、細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』の主役声優を中村佳穂がつとめるとのこと。え?佳穂さん芝居できんの?と思った瞬間、アフレコのご様子が。うわっ佳穂さん、スゲー、めちゃくちゃできてるやん!!
 
僕は細田監督の作品も割と好きなんで、『竜とそばかすの姫』が俄然楽しみになりました。いや~、テンション上がりましたね~。中村佳穂、ここで一気にブレイクしてほしいです。