Being Funny in a Foreign Language / The 1975 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Being Funny in a Foreign Language』(2022年)The 1975
(外国語での言葉遊び/The 1975)
 
 
先日行った中村佳穂のコンサートで、彼女は曲終わりを告げるのに両腕を広げ、手のひらをギュッと握ることで演奏を締めていた。フロントマンが示すこういうジェスチャーは単純にカッコいいから好きだ。このアルバムのジャケットではマシュー・ヒーリーも同じように打ち捨てられた車の上で両腕を広げている。踊っている最中のようにも見えるが、これは何かを止める合図なのか。
 
そもそもアルバム・ジャケットに人が登場するのは今回が初めて。次からはまた誰も登場しなくなるのかもしれないが、とりあえずは彼ら自身が称していた’Music For Cars’の時代は前作『仮定形に関する注釈』(2020年)で終わった。とすれば、今回からは新しいフェイズ、アルバム・ジャケットの方向性が変わるのも頷けるが、このアルバム・ジャケットはどうも始まりには見えない。やはり何かの中途、間に挟まれるものという印象を受ける。
 
てことでもう一度アルバム・ジャケットを見てみると、広げられたマシュー・ヒーリーの両手は真逆にねじれていることに気付く。つまり’Music For Cars’時代とこれから迎えるべき新しい時代の間で彼らはねじれてしまっているということだ。
 
渾身の大作が2作続き、ホッと一息入れたいところで現にホッと一息つくようなポップ・アルバムが出た。しかも彼らにしては異例の11曲、トータル約44分というコンパクトさ。にもかかわらず、これはねじれた状態であるという矛盾。普通に考えるとこっちがスタンダードと思うが、彼らはもうそうではないところに来てしまったのか。これをシリアスに受け止めるかユーモアと受け止めるか。
 
とはいえ、このアルバムは彼らのブライトネスを切り取ったようなポップで軽やかなアルバム。あまりにも軽やかすぎて何か引っかかってしまうなどと面倒くさいことは言わず、ヘッドライナーで登場した今年のサマーソニックをマシュー・ヒーリーが「ベスト・ヒット・ショー」と称したように、素直に楽しく歌って踊りだせばいい。僕たちまでねじれてしまうことはないのだから。
 
今回が恐ろしく個人的で愛に溢れたアルバムになったからといえ、彼らはもう社会的な出来事にコミットメントしない、降りた、ということではないだろう。一方で本当に表舞台には出てこないんじゃないかという危うさも相変わらず保持しつつ、30代を迎えたとはいえThe1975はまだまだ安定とは縁遠い不安定さにいる。
 
結局、アルバム・ジャケットは何かを静止させているわけでも何かの狭間でねじれているわけでもなく、静止させようにも叶わず、グラグラした天秤の上でただバランスを取っているだけ、ねじれはその動作に過ぎない、ということなのかも。そしてそのバランスを保つ唯一の術は、このアルバムで語られているとおり個人の愛なのだろう。

バター

ポエトリー:

「バター」

まっすぐに溶けだしているバターは
指のすきまを流れ右関節へ
いつかのわたしを呼びおこす

よりよく動くのか
すさまじく伸びちぢみする現代で
身体はそれに呼応する
わたしの意志のあるやなしや

いま言えること
子どものときの
車に乗り降りするときのあの気持ち
ちゃんと心のなかで整理して
忘れていない

お行儀よくおすわりして見事だね
そんなこと言われても
あれはホント、
ただおすわりしていただけなのです。

朝食の溶けだしたバターが白いお皿におちていく
うまく身体になじむまで
もうあと幾らかのときを待ち
いつかのわたしよ、
いいから早くもどっておいで

 

2022年10月

中村佳穂 「TOUR  NIA・near 」in フェスティバルホール 感想

ライブ・レビュー:
 
中村佳穂 「TOUR  NIA・near 」大阪フェスティバルホール 2022年10月27日
 
 
念願の中村佳穂のコンサートに行きました。いや、もう凄かったです。才能だけで突っ走ってもいいぐらいの人だと思うんですが、ちゃんとエンターテインメントとしての構成を考えられたショーになっていて、しかもバンドのメンバーそれぞれがメインを張るような場面も用意しているし、今振り返るとどれかひとつということではなくてあれやこれやと色んな場面が印象に残って、アンコール含め約2時間、あっという間でした。
 
普通、初っ端は景気のいい曲をやってお客さんを引きつけるってのが常道だと思うんですが、中村佳穂はそれどころかなかなか歌いません(笑)。初っ端からメンバー紹介、んで今日はよろしくお願いしますって感じでMC、でもそれはお喋りというより歌で伴奏を付けてのアドリブ、今日の気分を鼻歌みたいに歌う、そんでもって気付いたらその流れでオリジナルの曲を歌うみたいな(笑)。もう自由過ぎて素敵です。
 
終始ずっとそんな感じだし、アレンジもオリジナル・バージョンとは大幅に変えてくるし、ホント、歌いだすまで何の曲か分からないっていう世に言うボブ・ディラン状態(笑)。いろいろな表現を用意してはいるもののそれらはすべて音楽、そうじゃないところで演出するってことではなくあくまでも音楽での表現っていうところがやっぱり音楽のライブに来たって感じで最高でしたね。
 
バンド編成はドラム二人にコーラス二人にベースが一人、それと中村佳穂のキーボード。リズム主体のこの編成も面白かったですね。ぐるんぐるんとグルーヴ感の極みのような曲もありましたし、歌い手3人だけでステージに立つ時もありました。あとアンコールではみんな真ん中に集まり、最小限の楽器で『KOPO』を演奏するっていうピクニックみたいな楽しい瞬間もあって、冒頭にも述べましたが、強弱を付けながら中村佳穂バンドのいろんな面を満喫できました。そうそう、生で聴いた『LINDY』はレディオヘッドみたいでした。
 
あとこれぞ中村佳穂、というようなステージに一人で立つソロ・パートもあって、そこもアドリブみたいに「今日は何を歌おうかなぁ」って喋りながら歌って、始めたのはなんと皆知ってる童謡の『あんたがたどこさ』。これが超早弾きキーボードを交えつつ縦横無尽のアレンジ。うん、ここは中村佳穂スゲーっていうパートでしたね(笑)。
 
そんな天才性を垣間見せる中村佳穂ですが、我々観客が感じるのは親密さ。リビングにお邪魔して、ちょっと歌を聴かせてもらうみたいな。もちろん、圧倒的なステージでそれはそれは鮮やかな才能のきらめきなんですけど、感覚としてはなにか親密さがある。これはやっぱり「皆さん、健やかに~」ってメッセージを発する彼女のキャラクターゆえ、なのかもしれませんね。
 
ってことでお客さんもパッと見、いい人ばかりのような気がします(笑)。いやでも冗談じゃなくて、ここにいる多くの人たちは傷つきやすくナイーブな人なんじゃないかなって。ライブ中のみんなの立ち居振る舞い、大人しくて控えめな感じからそんな印象を受けました。あ、自分のことを言っているわけじゃないです(笑)。
 
そうそう、会場へ入場するところで、中村佳穂直筆のプリント(小学校でもらうプリントみたいなイメージ)が配られて、僕はそれを見ながらフェスティバルホールの長いエスカレーターに乗っていたんですね。すると、手を滑らせてそのプリントを落としてしまった。それはヒラヒラッとエスカレーターの間に落ちてしまって僕はもうあきらめかけたんです。そしたら後ろの人たちが皆でそれを拾ってくれたんですね。なんかスゴイ嬉しかった。みんな当たり前のように必死に取ろうとしてくれたんです。なんかあそこにはそんな優しさオーラがあったのかなぁ。改めまして、拾うとしてくださった方々、どうもありがとうございました。

Cruel Country / Wilco 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Cruel Country』(2022年)Wilco
(クルエル・カントリー/ウィルコ)
 
 
もし、一人もしくは一組のアーティストのカタログしか所持してはいけないという法律が出来たら、僕はやっぱり佐野元春かなと思いつつ、よくよく考えてみると、常にBGMとして傍に置いておきたいのはウィルコもしれないなと思い返した。なんてありもしないことを考えてしまったが、そもそも時折ありもしないことを妄想する僕の傾向自体がウィルコっぽいなと思いつつ、その根拠を聞かれても答えようはない。ただそういう妄想を許容してくれるのがウィルコの音楽。
 
そんなくだらないことを考えたのはこのアルバムを聴いたことが原因だと思うが、とにかくジェフ・トゥイーディのリアルなのか半ば夢見がちなのか、いつものことながら分かるようで分からないながら、どっちかというと分かる寄りの歌を聴いて、何事も白黒ハッキリつけたくない、というかハッキリつけられない性質の人間としては、このぐらいのスタンスがやっぱり落ち着く。
 
今回、その落ち着きをより顕著なものにしているのはカントリー色の強いサウンド。元々、オルタナ・カントリーと呼ばれるところから出発して(ちなみにこのオルタナ・カントリーというのも分かるようで分からないが、それもまたウィルコっぽくてよい)、途中実験的な音響であったり、エレキギターで変態的な音をギャイーンと鳴らすこともあったけど、ここ最近は、というか2016年の『シュミルコ』アルバムあたりから割とアコースティック寄りにはなってきた。
 
なんでそうなってきたのかは知る由もないが、なんにせよこの歌心と予想通りにはならないがなぜか安心感のあるサウンドはウィルコ以外の何ものでもない。しかし相変わらず大きく盛り上がることもなく地味な曲が21曲も続くのにずっと聴いていられる、あぁやっぱりウィルコはいいなぁと思わせるこの力はなんなんだ。
 
そこで考えてみる。音楽というのは非日常を楽しむものでもある。ダンス音楽に体を揺らすこともあれば、時には悲しい音楽で思いっきり悲しんでみたりもする。そうすることで心が晴れればいいじゃないかと。てことで普段私たちが耳にする音楽は感情の揺れ幅の大きいところめがけて奏でられている向きはあるかもしれない。それに対し、素のまんま、普段の調子の私たちに並走するのがウィルコの音楽ではないか。
 
日常とは基本的には平坦なものである。しかしその平坦な中にもドラマはある。そのドラマの中で小さくうごめく何か。つまりそれが#13『Hearts Hard To Find』。人生が起伏激しくやたらめったら盛り上がったり盛り下がったりするものではないならば、音楽も平坦でいい。僕はやっぱりウィルコの音楽を傍に置いておきたい。

優しさがない

ポエトリー:

「優しさがない」

ないの優しさが
 と虚しさが頬をつたう
  それはいつのことだっけ

幾らで買ったのか
 問いかけることもせず
  とるに足らない言い訳

ただ足元を見ると
 捨てた言葉が掃くほど溢れ
  今はまた別の方角から風に吹かれ

無い物ねだりと知りながら
 白身の粘り気が苦手で
  ちゃんと火を通さないと駄目だった

喉を通るものだけを食べなさい
 昔の母みなそう言ったが
  今は涙が止まらないんです

休日

ポエトリー:

「休日」

am7:30
 あどけない朝の態度がとても優しい
 心の隙間に潜んでいるものたちの声が聞こえます
 その言葉のひとつやふたつ
 耳たぶに貼り付けて今日は過ごしましょう
 それで困るくらいなら
 今日はおそらく駄目でしょう
 朝から真夏日でクラクラになります
 暑い日のお化粧は体に堪えます

am8:30
 午後からのキャンセル
 致し方ない?それとも人格との戦い?
 もともと気にしてないって言ってあげるわたしは天才
 でも十日も雨が降らないと食べ物が心配
 今はただひたすらあなたを患っていて
 そうだとしても食べ物は心配
 別腹ですから

  am10:00
   いつかの
   耐えきれなかった時間がまた現れる
   今度も
   自分が嫌になるなら黙っているのがよいでしょう
   今度会うときは花束を添えてあなたに届けようと思う
   困らない勇気、あなたはまぁまぁあると思う
 
 am11:30
   今日はいい感じで午後を迎えられそうです
   でも心臓破りの坂は体に悪いから今日はやめておきます
   今は簡単に蛇口をひねって喉を潤すぐらいの気持ち
   いろいろありますが、
   それぐらいの元気はあるようです

ぼちぼち銀河 / 柴田聡子 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『ぼちぼち銀河』(2022年)柴田聡子
 
 
日々のこまごまとしたことを日記のように綴りながら、日記とは対極のカラカラに乾いた感性が秀逸な#2『雑感』を聴いていると、ひとり言のようでいてその実、自分のことは一切書いていないのではないかと思ってしまう。とか言いつつ、「給料から年金が天引かれて心底腹が立つ」ているのは彼女なんだろうなぁと思わせる絶妙な距離感。いずれにしても彼女は描くものを対象化できているのだろう
 
つまり彼女は入れ込んだり、情緒に流れることはしなくて、物事を表現する時の態度をどうとるべきかという彼女なりのスタンスが明確で、「私」と「対象」とが寄りかかったままだと本当に大切なことは感情にくぐもってしまうということを敏感に回避しているのではないか。言葉としては「私」でありながら、「私」でもなさそうなこの絶妙な距離感はそういうこと。この時ぐらい情緒に流されてよさそうな聖夜の『サイレント・ホーリー・マッドネス・オールナイト』でさえそのスタンスは崩れない。
 
言いたいことがあると、その中身が自分では分かっているものだからつい大掴みにワッと、それこそ大袈裟に言ってしまいがちになるのだが、ここでも彼女は冷静で描くべき対象一つ一つをまるで神は細部に宿るとでも言うように丁寧に重ねていく。すなわちそれは真摯さの表れ。いずれにしても素晴らしいのはその対象がいちいち並列で、やっぱり入れ込んでいない。「一緒に住んでいる人」も「一瞬だけ月」もすべて体温は同じ。
 
究極は#8『夕日』でここで歌われている「大人子供おじいちゃんおばあちゃん孫」とか「酸素炭素水素窒素空虚」とか「猿の置物」とか「みゆき」とか「なおみ」とか「きょうこ」とか「あゆみ」とか「歯医者の窓」とか全てを並列に並べてしまえる彼女の才能は単純に凄い。
 
と振り切ったところから続く最後の#9『ぼちぼち銀河』、#10『24秒』、#11『n,d,n,n,n』で彼女の顔の輪郭がぼちぼち明確になってくるのは意図してのことかどうか。というところでなかなか本心を見せないところが彼女の魅力です。なんて言うと、いや全部出してるよ、とうそぶきそうだなこの人はなどと思っている僕は見事に柴田聡子沼にハマっている。
 
最後になったが細部まで行き届いたリリックを丁寧になぞるようにこちらも真摯な態度のサウンドが最高。静かなところで聴きませう。

Mr. Morale & The Big Steppers / Kendrick Lamar 感想レビュー

洋楽レビュー:
『Mr. Morale & The Big Steppers』(2022)Kendrick Lamar
(ミスター・モラル・アンド・ザ・ビッグ・ステッパーズ/ケンドリック・ラマー)
 
 

このアルバムは前後半、Volume1(Big Steppers)とVolume 2(Mr.Morale)に分かれているんですね。だから長いアルバムでもあるので思い切って前後半と分けて聴いていたんです。でVolume 1 の方から何回か繰り返し聴き続けて、あぁ今回は聴きやすいなぁなんて思っていました。もちろん、ケンドリックの作品ですからそんな単純に聴きやすいってこともないんですけど、割と重くないというか、急にセレブになってATM2台分ぐらいどうってことなくなってしまった自分や周りに対する違和感とか、昔ながらの男らしさを徹底的に叩き込まれた父親との関係とか、あとこれは4文字言葉連発という意味で聴くのしんどいので僕は時々飛ばしますけど(笑)、痴話ゲンカの一部始終とか、まぁこれまでの作品でこっちが免疫付いたのかもしれないですけど、割と負荷なく聴けるんです。

 
加えて音がべらぼうに恰好いいし、中には歌モノもあるしサウンド的な面白さもあってキャッチーな要素も結構ある。だからリリックはさておき、部屋で流して聴いても全然イケるなっていう感覚があった。ていう流れでじゃあそろそろVolume 2 を聴こうかってことでこっちも最初は音だけを聴いていたんです。でやっぱり恰好いいなぁと、ヒップホップ分かんなくても全然恰好ええわぁと。
 
まぁこれは、ケンドリックのアルバムを聴く時の僕のいつものやり方ではあるんです。やっぱリリックが強烈なのでシンドイ、後回しにしちゃえ、と。あと、いつも和訳付きの国内盤を買うんですけど、和訳片手に目で追ってくの大変なので、音まで気にしちゃいられないというのがある。でもそれも勿体ない、だから先ずは耳で楽しみたいなと。ケンドリックは勿論リリックだけの人ではないので、音楽的なところで先ずは楽しみたいというのがあって今回も先ずは訳を読まないでいました。とは言え、Volume 1 があったので、そこまでキツイものではないのだろうと高を括ってたんですけど、Volume 2 の和訳を片手に聴き始めたらですね、これはかなりヤバい、辛い内容がそこにはありました。
 
ずっとケンドリックが描いてきたことなんですけど、アフロアメリカンとしての歴史ですよね。特に性的なところ、レイプされレイプさせられてきたという事実。そういう中々消えない歴史、トラウマがアフロアメリカンにはあって、そしてケンドリック自身も幼いころに性的被害に関するゴタゴタにあっている、そして性的虐待や恐喝をした罪で服役しているR.ケリーも傷を負っていると。この辺のくだりは訳詞を読んでて本当にキツイです。
 
そしてケンドリックの告白ですよね、セックス依存症であるという。でケンドリックのパートナーであるホイットニーが登場して、彼女はすべてを包み込む聖母のようなんですね、でも実際はどうなんだろう、他の女の人とそういうことがあって、理由はあるのだろうけどそんな受け入れられるのかなとか、いやいやホイットニーも受け入れることができるぐらいアフロアメリカンにとってのトラウマ自体が深いものなのかとか、はたまたケンドリックぐらいになるとそれこそ女の人がヤバいぐらい寄ってきてもうまともな奴でもそうなってしまうのかな、でもなんでそうなっちゃうんだとか他にもいろいろ考え込んでしまう。
 
更に話は飛んで、日本だと在日2世とか部落の問題とかいろいろあるわけで、僕はEテレの『バリバラ』をたまに見るぐらいの知識しかないけど、じゃあ在日とか部落でもまだまだ言えないことがあるのだろうかとか、このアルバムはアフロアメリカンについてではあるので関係ないのかもしれないけど、こっちはそんなことまで考えてしまってまぁホントに重たい。あと、自分が子供の頃の記憶をたどりながら性転換をした親戚の話があったりもするし、曲自体は全体を通して聴きやすいし恰好いいんですけど、リリック含めた音楽としては気楽には聴けないなかなかしんどいアルバムではあります。
 
なのでVolume 2 も何回か聴いてますけどVolume 1 ほどじゃない、しかも和訳読みながらっていうのはそんなにないですね。アルバム買って2か月ぐらい経ちますけどまだ2回です、無理です(笑)。でも英語圏の人はこのアルバムを聴く度このヘビーなリリックが耳に入ってくるわけですよね、ちょっとそれは耐えられないなぁ(笑)。
 
最後にこういう事書いているとこのアルバムはじゃあどうなんだということになりますが、勿論素晴らしいです。先ずは当たり前のことして音楽として恰好いいかどうか、やっぱこれが大前提になりますけど、この点は流石ケンドリックの恰好よさです。あとやっぱリリックをね、何ラップしてるのか分からなくて音楽としてのみ楽しむ、勿論それもありですけど、リリックを読んでいろいろなこと、聴くのしんどい時はあるかもしれないけど、ケンドリックはやっぱ大事ことラップしてますから、日本人だから関係ないとかじゃなく、こういうことを知っておくというのも大事なんじゃないかなと、これは僕がケンドリックを聴き続けている理由でもあります。

ではまた

ポエトリー:

「ではまた」

 

わたしたちの
額に流れる汗
いつもより濃い目のコーヒー

通りに面したカフェで
わたしたちは互いの困難や苛立ちを語り合い
時には大げさに笑いあった

これまでの暮らしがわたしたちに与えたものは
初めから無かったものを無理やりぶら下げるようにして
雨傘や
時には進軍ラッパをかき鳴らし
人々がこうと決めた目的地まで
一目散、声を競ったんだ

見返りに求めたものは何だったのか
見知らぬまま胸ポケットの裏返し
朝昼晩、過不足ない食事を摂り
時折無駄をした痕跡
体のあちこちに歪む意思

もう二度と
交わることはないと知りながら
今日は昨日のこと
明日は今日のこと

わたしたちの
額に流れる汗
いつもより濃い目のコーヒー

無事に過ごせばいいじゃん
通りに面したカフェで
わたしたちは今日も
大げさに笑いあった

 

2022年8月

岡本太郎展 中之島美術館 感想

アート・シーン:
 
岡本太郎展 大阪中之島美術館
 
 
気付けば、大阪での岡本太郎展も10/2までと残り僅か、台風14号の影響もあり天候が不安定ではありましたが、かえって人出では少なかろうと、3連休の中日に行ってまいりました。
 
10時開館より少し早めの9時45分ぐらいに到着しましたが、既に行列ができていました。この天候にも関わらず流石ですね。会場に入ると最初に目に飛び込んでくるのは初期の作品群ですね。と言っても戦火で随分と消失してしまったようですが、学生時代の作品も含め幾つか展示されていました。岡本太郎といえば原色鮮やかなあの絵を思い浮かべますけど、始めからそうではなかった、ちゃんと写実に描いている絵もあって、当然と言えば当然なんですけど、こうやって観ると新鮮な驚きがあります。
 
展覧会は年代順に展示されており、絵だけでなく幅広く活動していた岡本太郎らしくいろいろな造形物もあって楽しく観ることが出来ます。僕はぐるっと回って2時間ちょいでしたが、そんなに経ったとは思えないぐらいあっという間でした。つまり岡本太郎の作品に対する評価はいろいろあるのでしょうけど、基本的にはエンタメなんだと、楽しませるだけではなく違和感を抱かせる部分も含めて見る側を飽きさせないエンタメなんだと思います。
 
あと面白かったのは、晩年にはテレビによく出ていて有名なフレーズ、「芸術は爆発だ」と共に目を見開く岡本太郎の姿が印象的でしたが、あれも芸術活動の一環だったようで、つまりにらめっこなんだと。動物でもなんでも相手とにらめっこしてそこから創作が生まれるというのがあるらしく、にらめっこというのは岡本太郎にとって重要な意味を持つ行為だったんです。あぁなるほどなと、あの岡本太郎の姿はあえてだったんだと(笑)、今になって腑に落ちるとは思わなかったです。
 
作品には一応タイトルがあるのですが、ま、その辺はよくわからないですよね(笑)、絵を観てももうなんのこっちゃ(笑)。でも圧倒的なパワーですよね、そこに何かあると思わせる、岡本太郎にはそうとしか見えない何かがあるのだと。つまり物を見る時に我々は形あるものとして、そこにある物を物質として認識するのですが、岡本太郎はそこを超えて何かエネルギーであるとか別のものに変換されて見えてくる。例えばリンゴは赤くて丸いですけど、じゃあ本当にそうなのだろうか、その本質は本来の姿はどこにあるのか、そこにあるじゃないか、それを描くんだというような、物を見る自分と物とが同じ意識下、同じレベルになって相互に見て見られる、そういう関係性があったんじゃないかと、何か意識レベルの交感があったんじゃないか、そんな気はしました。
 
あと芸術に対して、条件に挙げていることがいくつかあって、もう忘れてしまったんですけど(笑)、そのうちのひとつに「心地いいものであってはいけない」というのがありまして、やっぱり自己陶酔というか、自分で気持ちよくなってしまうことがあると思うんですけど、そうじゃないんだと、気持ちの良いものであってはいけないと。また、鑑賞する側に対しても何かをぶつけるというような、相手にとって心地よいものを提示する、ということとは真逆なものを提示する、というのは何か目から鱗というか、僕自身も居住まいを正されるような気持ちになりました。
 
あと見に来ている人ですけど女性が非常に多かった、特に若い女性が多かったのが印象的でした。岡本太郎の作品のどこにそういう要素があるのか、僕には見当がつかないですけど、今までもいろいろと展覧会へ行きましたけど、こんなに若い世代、特に若い女性が多かったのは初めてでした。
 
あとグッズ売り場が充実していましたね(笑)。とにかく岡本太郎の作品はキャラ付けしやすいというか、そこもさっき言ったエンタメ性と繋がると思うのですが、企画会議ででもあれしよう、これはどうか、っていくらでもアイデアが出たんじゃないかって想像できますよね(笑)。つまり岡本太郎の作品が他の誰かの創作を喚起している、作品が作品を生むっていう、そういう循環を促す力があるんだということなんです。それこ芸術ですよね、今もなお他人に伝播しつつ爆発しているんだと思います。