芸術と生活(坂本龍一の訃報に際して)
坂本龍一が亡くなった。訃報に際する報道により、 氏の情熱的な活動を知り、 知的でクールなパブリックイメージが覆った人も多かったかと思う 。子供時代の僕にとってはピコピコしたYMOの人であったり、 女装をして清志郎と戯れたりの人であったが、気付けば、 世界で活躍する人の一番に挙げられる人、 日本という枠外にいる人、という印象になっていた。
芸術というものは第一義においては、 作家が誰に気兼ねすることなく思うに任せて創作をする、 ということだと思う。けれどもその先、 創りたいように創ってそれを放り投げる、あとは他者に委ねる、 それでいいかどうかは考える余地がありそうだ。
坂本龍一は自身の才能に任せて創りたいように創り、 後は知らない、という人ではなかったように思う。 芸術と生活は繋がっているもの、 地続きであるということを強く意識していた。被災地での活動や「 NO NUKES」や最近で言えば神宮の森についても、 それは単に彼が社会的な出来事に強く関心があったということだけ ではなく、芸術と生活、 あるいは芸術と社会は地続きでなければならない、 という意志が根底にあったからではないだろうか。 坂本龍一はそれを単に口ずさむだけでなく、行動で示した。
そしてそれは共に行動することで被災地の若い人たちに受け継がれた。 今まさに神宮の森について訴えている人たちに受け継がれた。 プロの音楽家として活動している人たちに引き継がれた。 まさしく彼は若者を導く教授であった。
震災、あるいは戦争といった災厄に対して、音楽が、 あるいは芸術が出来ることは何もないのではないか。 そう打ちひしがれた芸術家は沢山いたかと思う。けれど、 そうではないんだよ、芸術と生活は、 あるいは芸術と社会は切っても切れないものなんだ、 必要なものなんだから発信していかなければならない、 行動していかなければならない、 ということを体現していた人がいた。
その事実は非常に心強いものだった。 坂本龍一は芸術家であると同時に、 そのこと自体が社会の一員であるという認識に立っていた。 それはすなわち、 彼が十代の時になりたいと願っていたコスモポリタンの姿その ものではなかったか。
これからも私たちの前には大きな出来事が立ちはだかるだろう。 しかし私たちには坂本龍一がいたという事実がある。そのことはずっと長く私たちの胸に横たわり続けるだろう。私たちの多くは芸術家ではないけれど、そのすべては生活と社会と繋がっている。
これを機に氏の遺した音楽を聴いてみようと思います。
R.I.P.