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Eテレ 日曜美術館「もうひとつのモネ~現代アーティストが語る革新~」 2018.6.10放送 感想
日美、この日のテーマは「モネ」。それも印象派としてのモネではなく、現代アートとして見るモネの革新性について。現在、名古屋市美術館にて「モネ それからの100年」と題した展覧会が開かれている。今回はスタジオからではなく、その名古屋市美術館から、そこに展示されている日本の現代アーティストたち(画家:児玉靖枝、美術家:小野耕石、版画家:湯浅克俊)の対談形式で番組は進行しました。
モネはどうしても「睡蓮」が有名過ぎて、あぁあの絵ねってことで落ち着いてしまい、今まであまり気にも留めていなかったんだけど、現代の日本人アーティスト3名が語るモネの魅力が非常に分かりやすい形で伝えられていて、モネの魅力を再発見するという意味でも僕にとってとても興味深い回となりました。
今回気付いたことの一つが、モネの絵に上も下もないのではないかということ。水面に映る空は下にも広がっていくし、横にも上にも広がっていく。上も下もない宇宙的な感覚。それは動的なもので、それこそ移り行く自然。絵は静的なものだけど、モネは当然、自然を描いている訳だから、その時にしかない動くものを捉えている。だから絵は静的なものであっても動いているのだ。そこに鮮やかな原色の花弁がちょんとあって、画面いっぱいにたゆたう中で、それこそ命がバッと開いている。
しかし原色で色づけされたその花びらは画面全体に広がる動的なもののうち、ほんの一瞬でしかない動的なもの。それは上と下もなくて、この世は所詮浮世、或いはこの世ははかないものとする日本的な美に通ずるものではないでしょうか。
だから画家、児玉靖枝さんの「モネは時間を書きたかったんじゃないかな」という言葉が、あぁなるほどなって。絵画は筆を置いた時に止まるものだけど、止まらないまま続く揺らぎ。本当の景色があって、でもそれだけではないし、画家が描いたものが一方にあるものの、それもそうだというものではなくて、やはり揺らぎ続ける。
モネは言い切らない、見る人の広がりに委ねる。そこが絵に意味を持たせる同時代の作家とは異なる部分であり(版画家、湯浅克俊さんの「海外の美術館に行った時に、宗教画とか写実的な絵、意味があり、時代背景があり、隠れたメッセージが含まれたような絵が続いた後にモネの絵を見るとホッとする」、という言葉が印象的だった)、現代アートにも通じる部分ではないかということ。
つまり、絵を見る、というのではなく体験するという感覚、姿形をこういうものだと見るのではなく、同化する、ここではないどこかへ連れ去られる、ここが本当の場所とは限らないし、勿論、作家が提示したものが本当の場所とは限らないけど、異質ではあるけれど、心地よい、行ったことはないけれど馴染みのある場所と思わせる感覚。それはつまり、芸術家は人が見えないものを描く、ということにも繋がるのではないでしょうか。
今回は現代の日本人アーティスト3名の対談が凄くよかったです。芸術家は何故描くのか?誰も急き立ててはいないのにこの切羽詰まった感は何なのか?その一端が垣間見えるような気がしました。
名古屋市美術館「モネ それからの100年」は2018年7月1日まで続き、その後は神奈川へ。十数年前に京都でモネ展を見た記憶があるが、もうほとんど記憶にない(笑)。また近くに来たら是非見に行きたいな、と思いました。