連続ドラマ小説「スカーレット」感想

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連続ドラマ小説「スカーレット」感想

 

朝の連続ドラマ小説「スカーレット」が終了しました。以前にもここに書いたのですが、朝の連ドラにこんなにも心を惹かれたのは「スカーレット」が初めてです。もう僕の中で戸田恵梨香さんは川原喜美子にしか見えません(笑)。

この1ヶ月ぐらい、物語は喜美子の息子である武志が白血病になる、そして最後に向かってどうなっていくのかというところが焦点となっていました。下世話な話、クライマックスとしておいしいところですよね。ただ「スカーレット」の素晴らしいところはそうした手法を採用しなかった、武志と川原家の日常を丹念に描いていく、そこにしか焦点が向かわなかったところだと思います。

武志の心境が語られる場面がいくつかあって、それは「今日が私の1日なら」という言葉に続くものとして劇中に何度か語られました。それは「いつもと変わらない1日は特別な1日」というもの。最後の1ヶ月ぐらいはまさしくそんな武志の気持ちに寄り添うように、日々の営みの積み重ねのみに重点が置かれていたように思います。恐らく、このドラマ全体のメイン・テーマはここにあったのかもしれませんね。

振り返れば喜美ちゃんの大阪時代。大久保さんとの別れも描かれませんでした。絵付けを学んだ深先生との別れも描かれませんでした。母との死別もそうです。父、常治の最後は描かれましたが、そこも実にあっさりとしたもの。

これらは通常のドラマで言えば折角の盛り上がり所だと思うのですが、このドラマではその場の感傷に寄りかかるような演出は一切しなかった。そこに至るまでの日常を丁寧に描くことで全ては伝わるのだという製作者一同のスタンスは最後までつらぬかれたのだと思います。

そういう意味では安易な情緒に頼らない、視聴者の想像力を信用するというか、作る側と見る側で大人の関係が築けていたのではないかなと思います。

そして「スカーレット」はなんと言っても戸田恵梨香さんですよね。本当に素晴らしい演技でした。10代、20代、そして結婚をして子供を産んで、陶芸家として独り立ちしてっていう、それぞれの川原喜美子をはっきりとした大きな変化を与えることなく、それでいてちゃんとそれぞれの年代としての積み重ねが滲み出る様に演じ分けられていました。

これはホントに、メイクを変えたり、髪型を変えたり、最後は白髪混じりであったりという見た目の変化はありましたけど、それも最小限におさえてですね、僕もそれなりに年を食ってるのでやっぱり分かるんですけど女性の強さの変遷が(笑)。そういう芯の強さ、川原喜美子の屋台骨が次第に太くなる様が伝わってきて、40代の川原喜美子は後ろ姿だけで40代の川原喜美子なんです。演技というのはこういうものかというね、戸田恵梨香さん、本当に素晴らしい俳優さんだと思います。

あとこのドラマはコメディの要素も大きくありましたから、そこを支えた父の川原常治を演じた北村一輝さん。それに常治がいなくなった後半からは幼なじみの大野信作を演じた林遣都さん。面白おじさん担当のお二人は最高でしたね。

それと喜美子の伴侶となった十代田八郎役の松下洸平さん。こんな人いるかってぐらい優しい人でしたけど、その優しさが全然嘘っぽくないんですね。優しすぎない現実味のある優しさっていうところを見事にキープされていたと思います。

そして喜美子と八郎の子、武志役の伊藤健太郎さん。若い俳優さんですけど、喜美子と八郎の子供だなって思わせる部分が時折顔を覗かせるんですね。そのさじ加減、素晴らしかったと思います。

あと大久保さん、深先生、草間さん、ジョージ富士川、みんな印象的でした。そうそうちや子さん!素敵ですよね。僕はちょっと水野美紀さんのファンになりました(笑)。

出演者一同、スタッフ一同、制作者も含め私たちはこういうことをやりたいんだ、こういうメッセージを含んでいるんだということを、そしてそれらをこういうトーンで発信するんだということがしっかりと伝わる、皆さんの哲学が伝わる本当に素晴らしいドラマだったと思います。改めて半年間、こんな素敵なドラマをありがとうございました、今はそんな気持ちでいっぱいです。

Eテレ SWITCHインタビュー達人達「ブレイディみかこ×鴻上尚史」感想

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Eテレ SWITCHインタビュー達人達「ブレイディみかこ×鴻上尚史」感想

 

現場を知らないといかんということですよね。今回の新型コロナにしたってPCR検査数を増やせ増やせという声が聞こえるけど、冗談じゃない、今でさえ手一杯なのに、という現場の検査員のTwitterもありましたし。

いくら賢い人がパソコンでガチャガチャやったところでそれは検討違いの国際貢献にしかならんということをペシャワール会の中村哲さんも口を酸っぱくして仰っていました。

ブレイディみかこさんさんの「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」が多くの人に読まれているのもそこでちゃん生活している人の直の声を聞きたいという気持ちが我々の中にあるからだと思います。

ブレイディさんの話で印象的だったのが子供の環境の話。子供の人格や能力は育つ環境による影響が大きい。しかし今の世の中、特にイギリスでは親の資本(経済力だけでなく)によって予めそれが限定されてしまっているとのこと。僕も子供に対しては親の遺伝子なんかよりその環境の方が断然大事だと思っているので、ブレイディさんの話はとてもよく分かるものでした。

ブレイディさんの対談の相手は鴻上尚史さん。鴻上さん、バシッと言い切ります。気持ちは伝わらないと。これ、高校生との演劇ワークショップの時の映像で出た言葉ですね。気持ちを込めても伝わんないよ、伝えるには技術が必要だよと。

つまりその役の気持ち、どういう気持ちなんだろうかとよく考えようということなんですね。ここでは役の気持ちですけど、要は相手の気持ちを考えるということです。

そこで思い出したのは司馬遼太郎さんの「21世紀を生きる君たちへ」の中の一節。相手の気持ちを考えるというのは思いやりの事。でも残念ながらこれは人が生まれながらに持っている性質ではない。だから思いやりというのは訓練して身に付けなければならない。そう司馬さんは仰っています。そうですね、自発的に身に付ける努力をしないといけない、僕もそう思います。

また日本的な根性や気合いといった気持ちを重視する考え方に懐疑的な点もお二人に共通するところですね。以心伝心という言葉があるけれど、そんなものは頼りになりません。気持ちで何とかなるということではなく、自分の気持ち、相手の気持ちを考える、相手の立場になって考えることが大切なんだと思います。

そういや鴻上さんは面白いことを仰っていました。コミュニケーション能力が高い人というのは皆と仲良くするのが上手い人というイメージがあるけれど、実はそういうことではなく上手くいかない時に対話でもって解決する方向へ導ける人のことを言うのだと。これは僕にとっても新しい視点でした。単に人懐っこい人のことを言うのではないのですね。

ブレイディさんによるとイギリスでは演劇が学校のカリキュラムに組み込まれているとのこと。これはスゴく大事なことで、さっき言った相手の気持ちを考えるということに凄く役立つ。例えば演劇であってもいじめらる役というのはものすごくつらいんだと。この点、鴻上さんは演劇に携わるものとして教育に演劇を取り入れしましょうということをずっと言い続けているらしいです。

実際に演劇が教育のカリキュラムに組み込まれるとしたらえらい大学の教授とか専門家がいつもの精査をするんでしょうけど、そこもやっぱり最初の話じゃないですけど、現場の声をね、それもちょっとこっち来て聞かせろっていうんじゃなく、鴻上さんのように実際そういう活動をしている人、もちろん現場の先生の話を足を使ってよく聞かないとそれも机上の空論ということになるのだと思います。

お二人とも話すことが沢山あってしかたがないという印象でした。それに想像力に対する信用度が大きい。ここも共通しているように思いました。そうですね、想像力は人間が持つ最大の力ですから、そこを簡単に手放してはいけない。物事を簡単にスワイプするのではなく、ちゃんと想像して考えたい、そう思いました。

Eテレ 日曜美術館「写真家ソール・ライター いつもの毎日でみつけた宝物」感想

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Eテレ 日曜美術館「写真家ソール・ライター いつもの毎日でみつけた宝物」感想

今、一部の若い人たちの間でソール・ライター風の写真をSNSに上げることが流行っているとのこと。確かに、お洒落で且つ誰にも撮れそうな写真だ。誰にでも手が届きそうな距離感。つまりそれがポップ・アートということ。

ソール・ライターは有名ファッション誌の一流カメラマンとして名を馳せるが、ある撮影現場での外野の、すなわちスポンサーの「あー撮れ」「こー撮れ」という声にうんざりして、カメラを置きその場を立ち去った。

その後は一転、安定した収入もなく、友人に助けられながらの生計。セレブなステータスを得ながらも自分のやりたいことを貫いたソール・ライターの生き方。若い人たちはそこにも大きな魅力を感じているらしい。

ゲストの俳優、須藤蓮さんはその若い人々の気持ちを代弁するようにソール・ライターの魅力を論じていた。その気持ちは分かる。けれど一方でそれが先に来てはいけないよ、という軽い気持ちがないでもない。

須藤さんの興奮をクール・ダウンするように写真評論家の飯沢耕太郎さんは、「それもあるけど、先ず作品として素晴らしい」といったような趣旨の発言をされていた。

作家の個性、その人となりを愛することも良し。けれど作品そのものの評価は別個として考えたい。それが作家への、或いは作品への敬意だと思います。場合によってはこれはちょっと好きじゃないなって言える視点は持っておきたい。

そんなつまらない理屈をこねているから中年は駄目なのかもしれないですけど(笑)。

ソール・ライター展は東京で開催された後、春には京都へやって来ます。分かったようなことをぬかしておりますが、実物を見て素直に撃たれたいと思います(笑)。

Eテレ100de名著『力なき者たちの力~ヴァーツラフ・ハヴェル』第1回目 感想

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Eテレ100de名著『力なき者たちの力~ヴァーツラフ・ハヴェル』第1回目 感想

第1回目はイデオロギーの話。何気ないスローガンを何気ないものとして掲げているうちに、それがさも大事な事のようになっていく。そして人々はスローガンを受け入れることを互いに牽制し合うようになる。

ハヴェルはポスト全体主義には消費社会の特性があるとも指摘。我々は良心とか責任といった倫理的なものと引き換えに物質的な安定を優先してしまう。同調圧力。本当のことがあったとしても言えなくなってしまい、それは連鎖していくとのこと。

これ、僕としても一企業に勤める会社員として身につまされる言葉だ。

第1回目の放送を見ていてふと思ったのが東京オリンピック。そうしたら司会の伊集院光が言いずらそうに「東京オリンピックってホントにいるのかなってまだ思ってる」と発言した。

ハヴェルが本の中で訴えていることが今の日本にも、もちろん日本だけではないけれど、今現在も進行中だということを忘れてはいけない。

NHK『平成万葉集』感想

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「平成万葉集」感想

昨年の師走にNHKで放送されていた「平成万葉集(再放送)」。今まであまり短歌に馴染みが無かったのですが、番組を見て心が揺さぶられるのを感じました。

それは書き手の生々しい声があって、言うなれば血の通った言葉だったからなんですね。切ればザクッと血の出るような生きた人間の生きた言葉。番組で紹介された句はプロの方のものもあれば素人の方のものもある。でも問題はそこではないんですね。

番組は「ふるさと」、「男と女」、「この国に生きる」というテーマで3回に分けて放送されました。その最後の「この国に生きる」で語られた’短歌は心の底荷(バラスト)’という言葉が心に残りました。

バラストとは船底に積んで、船を安定させるための重量物のことです。番組で紹介された人々は皆それぞれの思いを胸に短歌を書いてきました。つらい体験。悲しい出来事。どうにもならない現実。それらを短歌にすることでなんとか命を繋いでゆくことが出来たという方も一人や二人ではありません。

これは僕の想像でしかありませんけど、恐らくどんな状況であってもよい短歌が出来ると嬉しいんですね。出来た、とその一瞬だけでも心が軽くなる。たとえつらい事に端を発した短歌であっても、瞬間出来た喜びに満たされる。その小さな喜びの積み重ねが、もしかしたら自分自身を癒す効果があったのではないか。そんな風に思います。

番組を見た後、お正月を迎えた僕は友人たちと久しぶりに地元を散策する機会がありました。僕は紙と鉛筆を用意し、彼らと一緒に歩きながら短歌を詠み合うという遊びを試みました。

友人たちは僕の提案にのってくれました。皆で短歌を作りながら昔懐かしい町を歩く。皆楽しんでくれたと思います。案外、短歌って身近なものかもしれないですね。

Eテレ『日曜美術館 秋野亥佐牟 辺境の向こう側を見た男』感想

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Eテレ『日曜美術館 秋野亥佐牟 辺境の向こう側を見た男』感想

 

勿論上手い下手はあると思うけど、前に出てくるのは描く人のエネルギーなんだと。絵を描くということ、そこの突端に全エネルギーを集中して描く。絵を見て圧倒されるのはやっぱり作者のエネルギーだ。

秋野亥佐牟(アキノイサム)さんはただ絵を描くのが得意なだけではなく、生きていくエネルギーに溢れた人で、世界中を旅したり石垣島で暮らしたりと、サバイバルしていく生活力にも長けた人。単純に体力がすさまじい。

若い頃はそのエネルギーを持てあまして、学生運動とか命を落としてもおかしくないところまでいったようだけど、ただそのエネルギーの持っていく先を見つけた、そのきっかけが日本画家でもあった母親であったというのは感動的だ。

その母とのインドへの旅で秋野亥佐牟さんは生きる道を見出だす訳だけど、それは人本来の生き方をするというもので、でその先に絵というものがあったということ。

ここはやはり天与の才というか、芸大に入って中退してっていうことがさらっと述べられていて、下地として既に絵を描く能力が備わっていた、加えて両親が著名な画家で経済的なあれこれを考える必要がなかったというのも大きいだろうし、こんなことを言うと身も蓋もないけど、生活を先ず考えなくても良かった、その前にやりたいことを出来る環境が才能も含めてあったということは事実だろうし、勿論その前提として人間力というか秋野亥佐牟さん自身の生きる力、圧倒的な前への推進力とポジティビティがあったんだと思う。

今もそのまま残されたアトリエには200を超える未発表作があって、膨大な文章も残しているし、何より腕が走って仕方がないというような作品の数々。溢れ出して仕方がないというような想像力があって、やはりこの人の体の中にはマグマのようなエネルギーが沸き立っていたんだなと思います。

番組に登場された奥さんやご子息、義妹さんたちの清々しさや聡明さを見ていると、その向こうに秋野亥佐牟さんが見えるような、息せききって旅をして、石垣島で海人になって、なったはいいものの魚を獲ることは二の次でそれでも地元の海人に愛されて、自分で建てた家のアトリエで静かに絵を描いている秋野亥佐牟さんがいるような、そんな気がしました。

兵庫県上郡町やたつの市へいつか訪れてみたいと思いました。

「スカーレット」はおもろい!!

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「スカーレット」はおもろい!!

 

朝の連ドラ「スカーレット」が面白いねぇ~。人生初です、朝ドラにハマったの(笑)。ドラマを見るにあたっては私の場合、どうも「いだてん」とか「スカーレット」とかみたいに合間合間に笑いがないとダメみたいですね(笑)。

朝ドラは何年か前からか家内が録画して夜に観てるんです。なので私もチラ見というか、今までもなんとはなしに観ていたのですが、こうもハマるとはね。今や「スカーレット」を観るのが一日の楽しみの一つになってしまいました(笑)。

最初はね、やっぱ子供時代の喜美ちゃんですよ!この子がすっごく面白くってですね、活発でしっかり者で、またお父さんとの掛け合いも楽しくって、ホンマおもろい子やったんです。なので、主役がね、当然のことながら成長すると演じる人が変わるんですけどね、ここがちょっと心配だったのです。あの喜美ちゃんじゃなくなるのかって。ところがですよ、長じた喜美ちゃん演じる戸田恵梨香さんがまた素晴らしくって、あぁもう大きなった喜美ちゃんこんな感じかもっていう自然な演技を披露されている。繋がりがちゃんと見えるんですね。戸田さん演じる喜美ちゃんももう最高です!

でやっぱお上手です。比較するわけじゃないんですが、前回の「なつぞら」の広瀬すずさんはやっぱりお若いですから、大人になって母親になってっていう主人公を演じるにあたっても広瀬さん自身が発する若さ、光が隠し切れないんです。手で押さえても指の隙間から光が漏れてしまう。

そこがですね、戸田さんは今年30才になるらしんですけど、ちゃんとその光を手の平で抑えることが出来るんですね。光が漏れてこないんです。そこがまた喜美ちゃんの切なさと快活さのコントラストとなってですね、劇中の喜美ちゃんはまだ18才かそこらなんですけど、やっぱ18才ですからそこのところのコントラストに自覚がないわけですよ。その辺りの出し入れを戸田さんはホントに上手に演じてらっしゃてて、私は普段ドラマをあまり観ないのでよく知りませんでしたが、戸田恵梨香さん、ほんと素晴らしい俳優さんだなと思いました。

私が「スカーレット」を好きなのはもう一つ理由がありまして、それは言い過ぎないということでしょうか。例えば大久保さんのくだり。大阪へ下働きに来た喜美ちゃんの前に女中のプロッフェッショナルである大久保さんが立ちはだかるんですが、この喜美ちゃんと大久保さんとの交流、見どころでもあるんですけどね、ここがサラッとしてるんです。過剰な表現がないんです。あと圭介さんとの初恋もサラッとしている。変に感動させようとか、変に盛り上げようとかってのが一切感じられなくて淡々と進む。恐らくここは製作陣、意図的にそうしているのだと思います。観てて窮屈さがない。クドクドと言わない。観る方に委ねられている。そういう部分にも風通しの良さ、自由さを感じているのかもしれませんね。

あと登場人物もみんな面白いです。私のヒットはお父さんに始まり、荒木荘のちや子さん。そしてなんと言っても大久保さんです!ほんと素敵な大阪弁を話すんですよ。昔の大阪弁っていうんですか、昭和の時代の、私の母親もまだそういう懐かしい大阪弁を使いますが(母の場合は泉州弁ですね)、上方落語で言うところの5代目文枝師匠みたいな耳当たりの良い大阪弁が、昭和の子供だった私にはなんとも気持ちいいんです。

「スカーレット」、まだ始まってそんなに経っていないんで、これからも沢山楽しめるかと思うとウキウキしてしまいます。今のところ私にとっての名場面は、喜美ちゃんが働き始めた頃、寝る前に枕を大久保さんに見立てて何度も「大久保っ!!」と投げ飛ばす場面ですね(笑)。

『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』 第34回「226」 感想

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『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』 第34回「226」 感想

 

ま、タイトルからして「226」ですから、不穏な空気で物語は進行します。時代が時代なので、この辺りの世情は描かずにはいられないですよね。ここをさらっと流さず国民にとってもどれだけ大きなインパクトを与えたか、人々の生活目線も交えながらの展開は観る方にも重たい空気を与えました。しかもそこへIOC会長のラトゥールが来日してくる。さぁ、どうする?田畑政治!!

一次は弱気になったまーちゃんですが嘉納治五郎の「やるんだよ!」の一声で吹っ切れます。図らずもラトゥールの東京案内を仰せつかったまーちゃんですが、道案内はなんと清さん!戒厳令が布かれた東京にはあちこちで道が封鎖され軍人が立っている。こりゃ抜け道に精通した者が必要だなと。そこで白羽の矢が立ったのが清さんでした。てことで小梅も登場!

いや~、やっぱこの二人は素敵ですな。画面が一気に華やぎます。孝ちゃんこと、この時は金原亭馬生って名になってますが、久しぶりの清さんと孝ちゃんの邂逅もあったりで、この回は不穏な空気で始まりましたが、第一部の登場人物たちがその空気感を見事にポジティブなものに変えていく。そーですよね、第一部の登場人物はみんな明るかった。久しぶりの大活躍の嘉納治五郎もしかり、第34話はそうした前向きな第一部の登場人物に支えられて切り開いていった回でもありました。

その極めつけは金栗四三の義母、池部幾江です。熊本に帰ったものの無気力な日々を過ごすいだてんこと金栗四三。そんな四三の元に治五郎先生から東京オリンピック招致に力を貸してほしいとの手紙が届きます。居ても立ってもいられなくなった四三は家族団らんの中、幾江に東京行きを嘆願します。

四三の変化に気付いていた幾江は意外にもあっさりと了承。ここで緊張の糸がほぐれたか四三は「俺なんかおらんくても寂しくなかでしょ」みたいなセリフを何気に呟く。しかしここで幾江はその言葉を逃さず堰を切ったように感情を爆発させる。
「寂しくないことなんかあるか!走ってばかりの息子でも4年もおらんだら寂しいわ!それが親じゃ!アホか!実の息子に先立たれたんじゃ!実の親を亡くしたお前も覚悟を決めて親子にならんか!!」

この回は226事件に始まり、ラトゥールの来日、そして清さん登場、治五郎大活躍、復興オリンピックの時のような子供たちの運動する姿。つらい世情になんとか堪える形で第一部の登場人物達のポジティブさが光を放ちました。このところ何だかなぁといった感じの四三も幾江の言葉に我を忘れて泣きじゃくる、幾江にしがみつく、その必死さのおかしみ。そうそう四三はこういう人であったと。

それにしても圧巻は幾江を演じる大竹しのぶさんでしたね。今回も行ったり来たり浮き沈みの激しい回でしたが、最後にすべてを持っていきました。四三のように観てるこっちも呆気にとられ、その後ぐわっと感極まる。演技してるとかそんなんじゃなく生々しく伝わってきました。それをユーモアで返す四三こと中村勘九郎さんも凄い。

ラトゥールにありったけの誠意を見せ、後は若者に任せたと言って去っていく嘉納治五郎。治五郎の雄姿もこれで見納めか。ってこの人に限ってそれはないですね(笑)。予告編ではあのシマちゃんの声も!
来週も楽しみだ!

『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』 第32回「独裁者」 感想

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『いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~』 第32回「独裁者」 感想

 

とその前に前回の第31回「トップ・オブ・ザ・ワールド」についてひと言。ロサンジェルス・オリンピック編ではサイドストーリーとして日系人や人種差別のエピソードも盛り込まれていました。前回の最後に虐げられてきた日系人が歓喜の声を挙げる場面があるのですが、彼らは口々に「アイ アム ジャパニーズアメリカン!」と叫びます。

このジャパニーズアメリカンというのが良かったですね。日本人ではなくジャパニーズアメリカン。よく聞き取れませんでしたが日系人でない人も「~アメリカン!」と叫んでました。彼彼女らのアイデンティティーはそこなんです。

今移民の話題が時折出てきますし、日本にもこれから多くの移民がやってくる訳ですが、そうした問題を日系人として、我々と繋がる世界史へと引き寄せて物語る手法は粋だなと思いましたし、ロサンジェルス・オリンピック編のクライマックスを大活躍をした日本選手団ではなく、それまでのサイドストーリーであった移民の人々で終わらせるところもお見事でした。

さて、第32回「独裁者」です。大活躍をしたロサンジェルス・オリンピックから帰国した日本代表の面々。賛辞の声を浴びる中、東京オリンピックを日本に招致しようとした発起人の東京、永田市長が200メートル女子平泳ぎで銀メダルを獲得した前畑秀子に対し、「なぜ金メダルではなかったか」と心無い言葉を吐いてしまいます。その場に偶然通りがかった我らがカッパのまーちゃんはそんな永田市長に対し怒りの言葉を発するも、まーちゃん以上にブチ切れたのが2代目体協会長の岸清一。

岸は当初、大言壮語な嘉納治五郎を冷ややかに見るどちらかというとスポーツに多くを期待しない事務方として登場しますが、回を及ぶ毎にスポーツの力に魅せられ今や嘉納のよき理解者として日本スポーツ界を牽引しています。今回は岸清一にスポットが当たった回でもありました。

そんな岸を演じるのが岩松了さん。実物とそっくりです(笑)。『いだてん』の魅力の一つは個性豊かな俳優陣。テレビドラマというのはどうしても出演者が限られてくるというか、既に見知った方に占められてしまうケースが多いんですね。最近は俳優もバラエティー番組によく出ますから、どうしても登場人物の誰それ、ではなくその俳優としか見えなくなってしまう。なので僕としてはあまりテレビドラマには入り込めないのですが、『いだてん』の場合は先ず第一部の主役からしてよく知りませんでしたからね(笑)。

そりゃ中村勘九郎って名前ぐらいは知ってますけど、実際はどんな役者かはよく知らない。出演者の多くも脚本がクドカンですからそっち方面の方が沢山いて、僕はあまり演劇界に詳しくないから見ているだけで新鮮で登場人物を先入観なしに見れるんです。これはやっぱり大きいです。最近はもう『いだてん』の世界に入り込んで、あの役所広司でさえ嘉納治五郎にしか見えなくなってきました(笑)。

ところで我らがカッパのまーちゃんもここに来て大分変ってきました。当初は「勝たなきゃどうする?」、「参加することに意味がある?ないない、そんなもん」という立場でしたが、ロサンジェルス・オリンピックを経由して随分と考えが変わったようです。ていうか、もともと本音はそこにあったんでしょうか。

面白いのはそうしてまーちゃんがスポーツは楽しむもんだよと、いつの間にか嘉納治五郎化していくのに対し、最初はスポーツに冷ややかだった世間が少しづつ勝利至上主義になっていくところですね。つまりまーちゃんは一歩も二歩も先を走ってるんです。夢中になればなるほど先に行く。まさしく「いだてん」。当然、嘉納治五郎しかりです。

今回のクライマックスは東京オリンピック招致が困難な中、これからどうすべきかを体協で話し合っている場面。「お前の意見はないのか」と振られたまーちゃんがまくしたてる場面です。一部を書き起こします。

「誰の為のオリンピックかって話じゃんねー。ムッソリーニもヒトラーもいないんだから日本には。嘉納治五郎はいるけどね」

「何期待してんの?オリンピックに。ただのお祭りですよ。走って泳いで騒いでそれでおしまい。平和だよねー。政治がどうの軍がどうの国がどうの。違う違う違うっ、簡単に考えましょうよ。ローマには勝てない。じゃあどうします?戦わず勝つ嘉納さん」

そーいうことです。「誰の為のオリンピックか」。見事な発言だと思いました。

「いだてん 第2部~田畑政治編~」、スタート!

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「いだてん 第2部~田畑政治編~」、スタート!

 

「いだてん 第2部~田畑政治編~」が始まりまして、ま~観てるとですね、今までの金栗四三や嘉納治五郎の奮闘は何だったのかと(笑)。何だあんなものとコケにしまくるマーちゃんこと田畑政治がキレキレですな。先週の感動の第一部最終回もあれはあれ、と感動の余韻を期待するこちらを見透かすように、四三だろうが治五郎だろうがベリベリとひっぺ返していく外連味の無さ。こーゆーの、いいですねぇ~。

もう丸っきりマーちゃんこと阿部サダヲの独壇場でして、まぁ僕みたいなクドカン×阿部サダヲ好きにはこれはこれでアリなんですが、これは完全に好き嫌いに分かれるでしょと(笑)。ただでさえ視聴率悪いのに、こりゃまた離れる人続出だなと(笑)。ま、そーゆー何かに慮るところが一切無しっていうのがいいとこなんですけど、流石にちょっと心配になってきたな(笑)。

第一部で積上げてきた登場人物の人となりもあれはあれというか、角度を変えればこうなるというか、そりゃ人間なんてそんなもんですから、どっからどう見ても素晴らしい人なんていないわけで、そんな風にこちらの思い込みをサラッとひっくり返すところは、人のことをどうこう言いながら、じゃあ自分はどうなんだいと、人の一面を見ただけであの人はどうとかこの人はどうとか分けちゃってるんじゃないのと、自分こそ物事を二極化してるんじゃないのっていう、己を顧みるというか、第二部初回を観た私にはそこのところがズキッとした感覚として残りましたね。

いや~、やっぱり「いだてん」はオモロイ!!