OTODAMA’22~音泉魂~ 2022年5月5日 感想

ライブ・レビュー:
 
OTODAMA’22~音泉魂~ 2022年5月5日 感想
 
 
5月5日、7日、8日に大阪は泉大津フェニックスで開催される音楽フェス、音魂’22の初日に行ってきた。他の音楽フェス同様2年ぶりの開催だそうだが、僕が参加するのは今年が初めて。やってるのは知っていたし、なかなか素敵な出演者が揃っているなという印象もあったので、近場だし、なんなら自転車でもいけるのでそのうちにと思っていたが、今回はグレイプバインにくるり、そしてなにより羊文学が来るということで、これは行かねばと再開一発目の5/5(木)初日のチケットを購入した。
 
ステージは2か所で交互の演奏になる。演奏が終わると割とすぐにもう一つの場所で演奏が始まるので、続けて次のステージを前の方で観ようと思っても間に合わない。でもどこにいても演奏はしっかり聴こえるので特に問題はない。このどこにいてもすべての演奏を聴く事が出来るというのはこのフェスの利点やね。あと中央にシートエリアがあって、地べたに座るところとイスを置いて座るところが別々に区切られているのがよいです。もちろん飲食OKなので、皆ゴザを敷いてゆったりと鑑賞している。アルコールOKでしたけど、バカ騒ぎをしている人は皆無でとてもマナーのよい環境でした。
 
僕の一番のお目当ては羊文学。新しいアルバム『OOPARTS』も素晴らしかったもんね。久しぶりのフェスということで観る方もちょっと緊張していたと思うけど、華やかで茶目っ気たっぷりの羊文学がそれを吹き飛ばしてくれました。こういうキャラの人だったんだと(笑)。そんなことを知れるのもフェスのいいところです。
 
もちろん演奏も素晴らしかったです。とても3ピースとは思えない分厚いサウンドで、いわゆるシューゲイザーですけどギターの響きがとても心地よかったです。途中で気付いたんですけどベーシストはギターを弾いてましたね。ベースはコンピュータか袖で誰か弾いてたのかな。3ピースなのでその辺は臨機応変にということでしょうか。ボーカルも力強く安定していて、見た目は華奢ですけど、芯のある鍛えられた声ですね。新しいアルバムでも声が力強くなったなぁという印象を受けたのですが、生で聴いてそれを確認することが出来ました。険しい顔して結構ロックな歌い方が格好いいんですが、MCになるとほのぼのとしたキャラになるギャップ萌えも〇。
 
あと新しいアルバムが出たばっかりでそのことにも触れていたんですけど、そこからは1曲しかしないっていうのが計算なのか天然なのか(笑)。とにかく期待に違わぬ、というかそれ以上でますます好きになりました。
 
ただこの日、僕がガッツリ聴いた中で最高だったのはグレイプバインでした。もうめちゃくちゃかっこよかったです。特に昨年のアルバム『新しい果実』からの3曲が最高でしたけど、中でも『阿』は圧巻でしたね。田中和将の咆哮が辺りの空気を切り裂いていました。アルバムも良かったですけど、ライブだと尚のこと素晴らしかった。やっぱりこの人たちはライブの人なんですね。「今日みたいな天気に合わせて」と言って、随分と昔の『風待ち』も演奏してくれました。当時は僕もまだ20代でしたけど大好きな曲だったのでとても嬉しかったです。そうそう、ライブ中は喋らないという評判でしたけど、結構気さくに喋ってましたよ。関西人らしくもっちゃりと(笑)。
 
ところでライブ前のチューニング、本人たちがやってました。あまりに普通にごちょごちょやってたから、観客の方も歓声あげるタイミング逃したみたいな感じになっていました。え、あれ、本人ちゃうんって(笑)。
 
そしてグレイプバインの次がくるり。なんで立て続けやねん!前で観られへんやんか!と思っていたのは僕だけではなかったと思いますが、これは正解でしたね。あのグレイプバインのすぐあとは並みのバンドじゃキツイです(笑)。でゾロゾロとくるりのステージへ向かったのですが、こんなに人おったっけ?というぐらいの大観衆でした。流石くるり、すごい人気やね。
 
『上海蟹~』や『ばらの花』といった有名曲で始まり、田中和将より更にもっちゃりとした岸田繁の関西弁を挟みつつ、『すけべな女の子』で勢いつけてって感じでしたけど、最新アルバムの『天才の愛』からはひとつも演奏しなかったのが残念だったかな。くるりのハイライトは最後に演奏した『街』。僕は初めて聴きましたが調べてみると2000年の曲なんですね。『青すぎるそらを飛び交うミサイル』という歌詞があったり、最後に世界の都市名を連呼したりというところで、思うところがあってこの曲を選んだのだと思います。全身全霊を込めて歌う岸田繫の姿に心を打たれた人も多かったはず。僕もその一人でした。
 
5月初旬にしては暑かったですけど、夏に向けてよい肩慣らしとなりました。屋台はそんなに期待してなかったんですけど、結構充実してましたよ。すごい行列でしたけど(笑)。今度来るときは家から食べ物もって行ってもいいかもですね、真夏じゃないから痛まないし。あと会場全体が芝生ってのがいいですね。足にやさしい(笑)。暑さも軽減されるんじゃないでしょうか。こんな近場でこんなに素晴らしいフェスがあるなんて滅多にあることじゃないので、これからは毎年チェックしようかなと思っています。

Love All Serve All / 藤井風 感想レビュー

邦楽レビュー:
 

『Love All Serve All』(2022年) 藤井風

 

日産スタジアムでの無観客一人ライブがあったり、紅白歌合戦で特集を組まれたりと大飛躍の2021年となったわけだが、ここでアルバムとしても売れて、よい評価も得て、いよいよ邦楽シーンの顔になろうかという、言わば勝負のタイミングでリリースされた本作。

とにかく曲が抜群にいいです。複雑なメロディーだけどスムーズに進行して、印象的なサビで一気に持っていくっていう、最高にキャッチーなポップ・ソングです。あちこちで韻を踏む言葉選びの巧みさとかもそうですけど、この辺は考えて出来ることではないと思うので、初期衝動のなせる業というか、今は凄くいい状態で曲が出来ているのかなぁと想像します。キラー・フレーズも満載だし、一度聴いたら頭から離れないですね。
 
ただ、それでいいのか藤井風、というのが実はありまして、最初から最後までいい曲ばかりだし、聴いてて心地よいし、非常によくできたポップ・ソング集だとは思うのですが、そこからの広がりですよね。なんかこう期待してたのとちょっと違うなぁと。もっと個性的なのがグワッと来るのかなと思ってたんですけど、普通にええアルバムやんていう。
 
ピアノの前に座って、一人で歌ってるときは個性の塊でめちゃくちゃ格好いいんですけどあの他とは一線を画する突き抜けた個性がアルバムになるとなんか薄っすらしてるなぁと。そこは多分アレンジなんだと思うんですが、その90年代ぽい、久保田利伸っぽいアレンジがあまり魅力的なものになっていないような気はします。曲はいいしボーカルはいいし、そこにビタッとはまるサウンドがあれば最高なんだけどなぁと思ってるのは私だけでしょうか。既視感のあるシンセのフレーズはなんだかなぁ。。。
 
ただアレンジに関しては、最近は宇多田ヒカルの『BADモード』でも編曲に加わっていたA.G.クックと一緒になんか始めたみたいなので、フットワーク軽く今回はこれ、次はこれっていう風に決めつけはせずコロコロ変えていくタイプなのかもしれません。それはそれで面白いとは思いますが、今回のアルバムに関しては決め手に欠ける気がしました。
 
アルバムは凄く売れて、多分これから先もしばらくは売れ続けるとは思いますけど、万人に好かれるポップ・ソングを作る人ではなく、好きなことをめちゃくちゃやって、僕ら凡人の理解を超えていく作品を残してほしいなとは思います。藤井風っていいよねじゃなく、なんか分からんけど、すげぇっていう。やっぱ彼にはそっちを期待してしまいますね。いいアルバムだとは思うんですけど、あの圧倒的な存在感とかいい意味での異物感が薄まっちゃったかなぁというのが正直な感想です。

NIA / 中村佳穂 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『NIA』(2022年)中村佳穂
 
 
映画『竜とそばかすの姫』の主演に抜擢され、紅白歌合戦にまで出場した2021年。言わば勝負のタイミングでリリースされた『NIA』アルバム。一言で言うと、テンションたけぇ!初っ端からイケイケで現在の彼女の状態の良さ、クリエイティビティの高まりを存分に感じることが出来ます。が、ちょっとハイパー過ぎるかなという気はします。こっちがそのテンションに付いていけない(笑)。
 
その象徴がオープニングの#1『KAPO』で、いきなり「Hi My name is KAHO !」で始まります。つまりここでこのアルバムは中村佳穂本人にかなり近い形で進んでいくのだなと聴き手は了解します。これ実は凄い事だと思います。海外の音楽を聴いていると割と歌い手がそのまま歌詞に登場するってのがあるんですけど、日本でここまで宣言するのって聞いたことないです。
 
邦楽の場合はそこまで宣言しなくても、歌い手=歌の主体、なのかなと思わせる人が多いですけど、多分それは無自覚なんだと思います(笑)。自覚的なミュージシャンは恐らくそこは距離を取っている。作家は自身の喜怒哀楽を表現するのではなく、ストーリー・テラーなんだという自覚ですね。だからこそ聞き手は各々の物語として受け止めることが出来るのです。
 
中村佳穂はどうか。無自覚なわけないですよね(笑)。恐らく彼女は敢えて「Hi My name is KAHO !」と宣言している。それは何故か?彼女は多分今はそうしていかないとダメなんだという現実認識があるのだと思います。コロナで思うような活動が出来なかった特に若い人たち。彼彼女らをなんとかチア・アップしたい。誰かの物語として訴えるのではなく、直接私が皆の手を取って、さぁ行こうよって伝えたい。そんな心意気が「Hi My name is KAHO !」に繋がっているのだと私は想像します。
 
歌い手である「私」が前に出過ぎることは危険です。それはどこから見ても「私」の歌でしかないから。けれど中村佳穂は敢えてそうした。これはチャレンジなんだと思います。それにあの素晴らしい『AINOU』(2018年)アルバム。皆はあれの第2弾を期待した。僕もそうでした。でも彼女はアーティストなんですね。同じことをしてもつまらない。彼女は自分の感性に従って、今は何をすべきかを選択した。それが『NIA』アルバムなんだと思います。
 
音楽的に言えば、もっと落ち着いたサウンドに出来たでしょうし、ストーリー・テリングに徹することも出来たと思います。でも彼女はそれよりも大きな熱量、ちょっとばかり強引でも、シンドイ気持ちを抱えている人、生きづらさを感じている人に彼女自身が直接タッチできるような、直接声をかけられるような、そんなアルバムを作りたかった。「Hi My name is KAHO !」の後は「そこにいるって合図をしてよ」という言葉へ続くんですね。つまりそういう意思の働きがこのアルバムには流れているということではないでしょうか。
 
ただやっぱり余計なお世話かもしれませんが、心配事はありまして、2021年のメディアへの登場は少しぶっ飛んだ人というか、アート系の浮世離れした人みたいなイメージもありましたから、この『NIA』アルバムのテンションはそこに拍車をかけたかもしれないなって。実際はここで僕がずっと書いてきたように、聴き手に寄り添った歌い手ではあるんだけど、パッと聴きして、あぁこの人は私たちとは違うんだみたいに誤解されたら嫌だなって、いちファンとしては思っちゃいますね(笑)。
 
あと最後に一つ付け加えておくと、中村佳穂の声は微妙にビブラートしているのが特徴で、僕は2年ぐらい前だかにたまたまラジオでDJが中村佳穂本人にそのことを質問をしているところを聞いたんですけど、彼女自身は言われて初めて気がついたみたいだったんですね。でその時はナチュラルでビブラートしているんだなという話になった。でそんなことはすっかり忘れて今回の『NIA』アルバムを聴いていたのですが、表題曲『NIA』を聴いた時に思い出したんです。つまりこのアルバムでは『NIA』だけが微妙にビブラートしている。これが何を意味しているのかはわかりません。意図的なのか自然とそうなったのか。ただこのアルバムを聴いていてようやく11曲目の『NIA』になって初めて中村佳穂の声が微妙にビブラートしているのが聴こえてくる。これは何故か分からないですけど、胸に迫るものがありました。

BADモード / 宇多田ヒカル 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『BADモード』(2022年)宇多田ヒカル
 
 
『Fantôme』(2016年)での復帰後の3作目『BADモード』で、宇多田ヒカルは早くも第2期のピークを迎えた。『Fantôme』での明らかにそれまでとは異なるフェーズ、大げさに言うと別人のような新たな佇まいは彼女の音楽の聴き手を更に押し広げている。
 
『BADモード』アルバムでは、何より目を引くフローティング・ポインツやA.G.クックとコラボした強烈なサウンドが強く語られがちだが、ここではやはり言葉に言及していきたい。つまりそれはこの作品には日本のポップ音楽が営々と格闘してきた日本語の音楽化に対する一つの到達点があるから。
 
正直言ってFantôme』までの宇多田ヒカルを僕はよく知らない。けれど、Fantôme』、『初恋』(2018年)と比較しても今作での言葉の切れ味は別格だ。いや、恐らくは前2作を経たからこその覚醒感。少なくともアルバム冒頭の3曲の時点で僕は圧倒されました。
 
言葉の意味性。勿論大切だが、昨今、音楽に限らず何事にも意味性が重要視されているような気がする。しかしこれは音楽。意味性よりも先ずもって音楽として機能しなければならない。そこで大いなる武器となるのが宇多田ヒカル独特の割符だ。例えば#5『TIME』での最初のヴァースをよく聴いて欲しい。ここでの言葉の載せ方を聴いていると、宇多田ヒカルの体内時計は例えば何気ない誰かの日記でさえも歌にしてしまえるのではないかと思ってしまう。また#7『誰にも言えない』でもラップ感はどうだ。よく聴くとこれラップ?でもそうとは思えないほどのメロディーとの馴染みのよさ。つまり彼女はラップだとか歌だとか考えちゃいない。言葉がそうとは気付かれないほどに音楽化されているだけなのだ。
#6『気分じゃないの(Not In The Mood)』はなかなか詩が出てこなかったそうで、街に出てスケッチをしたものをそのまま詩にしたことがLiner voiceで語られている。必要なものがあって必要ではないものが何もない完璧な情景描写で、それだけで参ってしまうが、ここで特筆すべきは言葉とメロディーが逆転している点だ。通常はメロディーという乗り物に言葉が乗るという感覚だと思うが言葉に載ってメロディーやサウンドが歌っているかのような感覚。上下逆さまになる浮遊感。つまりそれだけすべてが一体化しているということ。
 
言わずもがな、このアルバムはそこらじゅうで韻が踏まれている。第1期の彼女は知らないが、少なくとも『Fantôme』以降でさえ、ここまで韻を踏んではいなかったように思う。それなのに何故、『BADモード』アルバムではここまで韻が踏まれているのか。それは彼女の言語感覚がこれまでになく鋭敏になっていたからではないか。
 
つまりクリエイティビティというのは散発的にやって来るものではないということ。ピークは唐突にソングライティング、サウンド、歌唱、ありとあらゆるものが同時進行で訪れる。どこをどう切っても宇多田ヒカルは今、クリエイティビティのピークにある。

折坂悠太『心理』~わたしなりの全曲レビュー

邦楽レビュー:
 
折坂悠太『心理』 わたしなりの全曲レビュー
 
 
『爆発』
インスタントな表現を拒む、言葉は口をつぐみ、こちらはじっとこらえて待つのみ。折坂悠太の創作に向かう姿勢を表しているようにも思えます。表現の核にあるものを大切に思う、主体はあくまでもそこにある、受け手である私。ところで「岸辺の爆発」という言葉、関係ないけど僕は思わず福島第一原発を思い出しました。
 
『心』
子供の頃に自分が蝶になったり蜂になったりするのを想像をしたことはありませんか?僕はあります(笑)。と思ったら、砂漠にバンドが登場します。と思ったら、更に唐突にグラスの縁を撫でる女が登場。おまけに鉄の扉に手紙は焼かれるそうです。ここは素直に脳内で想像力の飛躍を楽しみましょう。
 
『トーチ』
この歌詞を見ていると、本当に景色を置いていってるなという気がします。あとは知らない、皆さんご自由にという感じ。2番の歌詞、とりわけ「倒された標識示す彼方へ 急ごう終わりの向こう ここからは二人きり」が好きです。抽象的な描写ではあるけれど、とても具体的な表現かと思います。「いませんかこの中に あの子の言うこと分かるやつは」には日本で暮らす外国人のことも頭に浮かんできます。
 
『悪魔』
画家の行動、自転車の動き、おれのコール、これらは何に怯え、何を警告しようとしているのか。「戦争もかたなし」というのは重く捉えるべきか軽く捉えるべきか。「壁に書かれた番号へコール 10分後のおれが答える おれはそれからかけ直すが 10年後のおれはでなかった」。怖いですね(笑)。主人公は偽悪的に「悪魔のふりして」語ります。
 
『nyunen』
窓際で揺らぐレースのカーテンを思い浮かべました。
 
『春』
近頃、エモいなんて言葉をよく耳にしますが、わたしもここはひとつ。「確かじゃないけど 春かもしれない」、「けど波は立つ その声を聞いたのだ」のなんとエモいこと。殊更歌に寄せようとはせずに悠々と流れるバンドが尚のこと春。
 
『鯱』
ちんどん屋のように商店街を練り歩くガチャガチャ感。つまり昭和の流行歌のような、もっと言うと大正期のそれ。ていうかよく知らない。が、そう思わせる身内感があります。つまり日本人にもっともしっくりくる音楽と言うのはこういうものなんじゃないでしょうか。追いかけっこ感がたまらない。それにしても楽しい演奏だこと。
 
『荼毘』
さよならの歌か。とすればラストのダヤバ…はまじない、お経とでも解せばよいか。それはたむけ?それともわたしへの癒し。僕は夏を思い浮かべました。お盆だからでしょうか。「今生きる私を救おう」が遠乗りのように響いてきます。ただ悲しみに暮れどおしではなく、少しシュールでユーモアが効いている。「山陰山陽」が「三人三様」に聴こえるのもよいです。
 
『炎 feat. Sam Gendel』
私たちは見えない傷をたくさん負った。けれどそんなことはお構いなしに雨は降る。私たちをめがけてるわけでもないだろうに。あなたに言葉を投げかける術は持たないけれど、ここでゆっくりおやすみよ。わたしもじきに眠るから。近いようで遠い演奏がこの情景に近づくことを許さない。
 
『星屑』
『見上げてごらん夜の星を』のような美しい曲です。夜遅く、こども園からの帰りであろうか。親子の後ろ姿が描かれます。世界で一番美しい光景をここで持ってくるなんてズルいよ。一番大切なものは日常の中に。見落とさないようにしたいものです。とはいえそれだけじゃなく、将来への得も言われぬ不安も顔をのぞかせます。
 
『kohei』
上賀茂神社を思い出しました。あそこでよく横になりました。
 
『윤슬(ユンスル) feat. イ・ラン』
アルバムでこの曲だけは水彩画で描かれたようなたおやかさがあります。1本のショートフィルムを見ているようです。普通に考えると折坂悠太は日本側の岸、イ・ランは韓国側の岸にいるということになりますが、でも「流れがどっちかわからない」のだと。この辺り、凄く映画的で想像力を掻き立てます。ハングルで書かれたタイトルとイ・ランのリーディングでイメージは横に広がる。互いの詩を交換することから理解は始まる。
 
『鯨』
小さな船の下を鯨が洋々と進んでいく。それはあまりにも大きすぎて私たちの一生を経ても全ては見通せないようです。『윤슬(ユンスル)』では流れがどっちか分かりませんでしたが、それも今は分かりそうです。

心理 / 折坂悠太 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『心理』(2021年)折坂悠太
 
 
物事を表現する上で、私たちが普段の伝達手段として用いている言葉を使えば、その伝達速度は圧倒的に早くなります。例えば「嬉しい」とか「悲しい」とか恥ずかしながら「好きです」とか。でもそれはともすれば通り一遍の表現になりかねない。勿論、その前後がありますから何もかも一緒くたにはしてしまえませんが、せっかくに訪れた何かを伝えようとする機会が、不自由のない普段の伝達手段を使ってしまうことによって、表面的には即座に相手に伝われど、その時にしか発生しえなかったそれこそ肝心なその時だけの唯一のものはそぎ落とされてしまう恐れがある。
 
つまり私たちは自己の内で補完しているのかもしれない。極論を言えば、私たちは共通言語によって過去の自分の感情を追体験しているに過ぎないのではないか。「嬉しい」とか「悲しい」といったキーワードを基に自らの中のどこかに仕舞われた過去の感情を手繰り寄せた追体験。失礼な言い方ではあるけれど、単に「嬉しい」とか「悲しい」といった言葉のみで突き動かされる感情は過去にある自己のものに過ぎないのかもしれません。
 
感情で伝えられることには限りがある。誤解を恐れずに言うと、うわっ滑りで、大事なことが抜け落ちてしまう。現代詩はそこを非常に面倒くさい、まどろっこしいやり方で言葉を構築しようとする試みだ。確かにつらい時、表に出てくるのは悲しさかもしれないが、人間の感情はそんな単純なものではない。その奥にはそこへ上り詰める確かな気配があるのだ。折坂悠太はそこを丹念に掬い取ろうとしている。最大公約数的な意味を持つ言葉に、或いは聴き手の過去に委ねることなく、その時だけの唯一のものをなるべく原型をそのまま真空パックにして表現しようとする試み。それが『心理』ではないか。
 
『心理』アルバムはざくざくと音を立てる。水彩画ではなく、ペインティングナイフでキャンパスに直に描く油絵のように。流れるように風景を描くのではなく、直に絵の具を置いてゆく。そこで折坂悠太が伝えようとしているのは実態。情緒にまつわる感情でなく、ただただ風景を置いてゆく。本人にしか知り得ぬ実態を求めて、ざくざくと足音を確かめては風景を置いてゆこうとしている。
 
詩人の吉増剛造はある番組で「gh」と言った。「night」の発音しない「gh」。それでもじっと聞いていると聴こえてくる「gh」。僕は詩とは宮沢賢治が「心象スケッチ」と言うように風景を描くものだと思っていた。僕は気付かないでいた、その風景には音が伴うことを。音が聞こえる、「gh」が聴こえる、そういう詩を書きたいと願いつつ、それを書かせる働きは感性でも情緒でもなく知性であると、折坂悠太は実演する。
 
音楽家が真空パックした風景を僕たちは新しく見る。それをどう見るかは僕たち次第。僕たちは自らの内にある過去の感情にすがるのではなく、その時にしか発生しえなかった新しい風景を見、新しい感情を得る。そのやって初めて風景はゆっくりと立ち上がる。始めから用意された姿形ではなく、僕たち新たな体験として。そのきっかけとしての音楽。音がある折坂悠太のスケッチを僕たちは見ている。彼は風景そのものに迫ろうとした。『心理』、2021年にリリースされたアルバム。折坂悠太、渾身の作品だと思います。

星屑 / 折坂悠太 感想

邦楽レビュー:

『星屑』(2021年)折坂悠太

 
折坂さんの新しいアルバム『心理』、素晴らしいです。折坂さんの歌は所謂分かりやすさとはかけ離れていますから、取っつきにくい印象を持たれるかもしれませんが、逆から捉えればこちらの理解の幅は大きなゆとりを与えられてるとも言え、この『星屑』という曲も聴き手の環境によって大きく印象を変えてくるように思います。
 
この曲はアルバムの中では割と素直な表現でもあるので、歌詞をそのままに受け取ることが出来るのですが、それでも昔懐かしい人、友人、愛する人、対象はいかようにも受け取れます。僕が心に思い浮かべたのは、幼子をこども園から迎えて帰ってゆく様子です。このように捉えた方は結構多いのではないでしょうか。
 
僕の子供は随分と大きくなり、もう遊んではくれませんが(笑)、子供に良きことが訪れることを祈る気持ちは今も変わりません。ただこの歌は自分の子供だけに限定するものではありませんよね。もっと大きな意味、全ての子供たちへの祈り、そういう大らかさも含まれているような気がします。
 
 
 疲れた顔 見ないでいい ほら
 聴かせてほしい 漫画のあの歌
 覚えたての歌
 
 ~『星屑』折坂悠太~

 

https://www.youtube.com/watch?v=adiG68h9T1Y

新しい果実 / グレイプバイン 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『新しい果実』(2021)グレイプバイン
 
 
僕がグレイプバインを知ったのは京都は北大路ビブレにあったJEUGIA。ここの試聴器でデビュー間もない彼らのシングル『白日』を聴いたのが最初でした。今もちゃんと覚えています。それぐらい新しいカッコ良さがあったんですね。もう20数年前のことです(笑)。
 
その後、何枚かアルバムを買ったのですが、2001年の『Circulator』を最後に聴かなくなりました。で今回、新しくリリースされた『新しい果実』の評判がすこぶるいい。ということで、20年ぶりに彼らのアルバムを買いました。
 
随分と久しぶりに聴きましたけど、良い意味で変わらないですね。あの独特の声、歌い方、20年分歳を取ってるはずなんですけど、時にシャウトを交えた表現は健在、相変わらず艶っぽくてかっこいいです。例えば#2『目覚ましはいつも鳴りやまない』の「リヴィングジャストイナフフォーザシティ!」とスティービー・ワンダーの曲タイトルを叫ぶところ、例えば#6『阿』で「因果応報~!」と咆哮するところ、最高ですよね。
 
歌う様がカッコいいというのはロック音楽の基本なんですけど、実はそんな人あんまりいない。グレイプバインのボーカル、田中和将さんはそんな数少ないロック・ボーカリストの一人ですね。
 
このアルバムはメインのソングライターであるドラムスの亀井亨さんではなく、田中さんが多くの曲を手掛けているのも特徴だそうです。ま、熱心な彼らのリスナーではない僕からすると違和感はないですけどね。あの独特の歌詞があの声によって独特のリズムで歌われる、そこは変わりないですから。僕なんかは、あぁグレイプバインだなという感じです。
 
ただ久しぶりに聴いて感じたのは随分とゆったりとしているなという点です。初期の頃は言葉数も多かったですし突っかかるような性急さがありましたが、今は非常に差し引かれている。余白にも意味を持たせているという感じはします。特に1曲目の『ねずみ浄土』なんてそれが顕著、完全に引き算のサウンドですね。だからラスト近く、合いの手みたいにギターが鳴るところなんかがすごく効いてくる。まぁこの曲は歌詞も含めかなり革新的ですよね、なかなかエグイと思います。
 
彼らはギター・ロックという範疇に入りますけど、その中でこれが限界なんだということではなく、新しい表現、ベテランの域に達していてもまだこんなもんじゃねぇぞというような熱を感じます。特に#5『ぬばたま』~#6『阿』を聴いた時にはレディオヘッドかと思いました。
 
言葉においても#1『ねずみ浄土』の最後、歌詞は「好き嫌いはよせ」になっているんですけど、「好き嫌いは余生」という風にも聞こえるんです。こうなるとすごく意味が膨らんできますよね。こういう響かせ方、他にもたくさん出てきます。つまり歌詞は活字で見るのと音で聞くのとでは違う、ここのところを意図的に表現しているということですね。
 
冒頭で僕は良い意味で変わらないと言いましたが、言ってみればそれは瑞々しさですよね。ストロング・ポイントはそのままに今も飢餓感を持ち得ている、それが今作でも感じる切っ先の鋭さ、瑞々しさにも繋がるのだと思います。長く彼らの音楽を聴いていませんでしたけど、これを機に他のアルバムも聴いてみたいと思いました。

天才の愛 / くるり 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『天才の愛』(2021年)くるり
 
 
先日、中1の息子が谷川俊太郎の『朝のリレー』を持ってきた。学校のテストで出たんだけど、よく分からないと。けれど僕は考え込んでしまった。なぜなら詩は人によって受け取り方が違うから正解なんて言えない(笑)。なのに問題文はここはどういう意味だ?とか、作者がここで言いたいことは何だ?とか言う。こういうところが子供から詩を奪うんだよなぁと思いつつ、そんなことを息子に言ってもしょうがないから、これが一般的な答えかなぁというのをその理由と共に伝えました。
 
詩はそもそも論文でも作文でもない。簡単に言えば、好きに受け取ってしまえばいいし、必ずしも言葉を一つ一つ追いかけて論理的に理解する必要はないわけです。そこのところのスタート地点に立った時、『天才の愛』は僕の中で俄然輝きを放ち始めました。
 
『天才の愛』、タイトルからして分からないですよね。1曲目の『I Love You』だってこんな分かりやすいタイトルだけど、「杯になれ 灰になる I Love You」はどういう意味かを問われれば答えに窮します。2曲目『潮風のアリア』だってそう。しかも大らかな『潮風のアリア』の次に「かっとばせ!かっとばせ!」ですよ、全く分からない(笑)。『益荒男さん』、「デゼニランド」、なんのこっちゃ?「my guiter、スルスルneckを滑らすnylon弦」と来て、「昔々人類は…」ですよ!僕も最初はこれらの歌詞を理解しようとしたんですけどやめました(笑)。ていうか気づきました。細かい理屈は要らないって。
 
僕たちは言葉に支配されてしまっているような気がします。もっと自由でいいのに。理解を放置する、思考を捨てて身を委ねる、そういうところに戻ってもいいのかなって気がします。つまり、ぼーっと聴けばいい(笑)。だってくるりは言葉だけを構築しているのではなく、サウンドを含めた曲全体を構築しているんですから。で、凄いことにそれらすべては並列していて、『潮風のアリア』の大らかなストリングスも『ことでん』の愛らしいピロピロ音も『益荒男さん』の「オッペケペッポー」も同じ地平にあるのです。
 
インタビューで岸田さんが『天才の愛』は弾き語りではできないと仰ってました。そうですよね、この『天才の愛』は言葉もメロディもサウンドも全てひっくるめて『天才の愛』なんです。どこかを抜き出して表現できないということは、聴く方にしたって、どこかを抜き出して聴くことなんて出来ないのです。
 
 
ですので、僕は頭で理解することをやめました。そうするとだんだんと全体像に耳は傾きだした。思考を捨てて身を委ねると、景色が目の前を通り過ぎて歌が動き出す。論理を超える、サウンドがそれを補強する、その心地よさ。あぁ『渚』は通り過ぎてくなぁ~。
 
だから『天才の愛』を僕は詩のように聴いています。論文ではないんですから、細かいことは気にしません。沢山の音が入ってますよね、遊園地のように。そういえばうちの高2の娘が『益荒男さん』と『大阪万博』がスピーカーから流れ出た時に「これ、ディズニーランドで流れてる曲みたい」と言いました。娘は曲のさわりだけを聴いてそんなこと言ったので僕は「おぉぉ、慧眼や!」と興奮したのですが、ま、それは横に置いといて(笑)、『天才の愛』は思考をゼロにして、ダイレクトに受け取りたい、論理を飛び越えて鳴る音楽に身を委ねたい、そんな感じです。
 
『天才の愛』は名作です!とか言いながら、僕はくるりのアルバムを聴くのはこれが初めてです(汗っ)。くるりと僕は世代が近いんですね。その同世代が、このコロナ禍で何を歌うんだ、というところが気になって今回初めてくるりのCDを手に取りました。ところがアルバムを聴いて、そんな僕の期待はすっかりはぐらかされた。そんなところはとうに飛び越えた音楽がここにはあったんです。
 
僕は新しい音楽を知りました。嬉しい気持ちでいっぱいです。くるり初心者の僕は彼らのキャリアの中でこのアルバムがどういう意味を持つのか知りません。でも僕の中で2021年に出たこのアルバムはしっかりと記録されました。今まで無かった新しい回路が開いた感じ。 この年になってそんな感覚になるなんて思いもしませんでした。僕は俄然くるりが好きになりました。

よすが / カネコアヤノ 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『よすが』(2021年)カネコアヤノ
 
 
僕はカネコアヤノは風景を描く作家だと思っている。風景と言ってもそれは山や川ということではなくてより身近なもの、手の届く範囲のことで、今回は特に自粛生活だからか、アルバムのインナースリーブにあるようにあまり明るくない部屋の一室からの風景ということになる。
 
ところが彼女の作品は、これは前作もそうだが実質彼女自身の一人語りになっていない。確かに歌詞は「わたし」や「僕」という一人称が用いられているけれど、決して作家本人の喜怒哀楽が述べられているわけではないのだ。あくまでも主役は目に映る風景、「布と皮膚」であり「屋上で干されたシーツ」でありはたまた「瞳孔の動き」である。彼女の視点がそこにフォーカスされている以上、実のところ彼女自身の感情は横に置いておかれているのだ。
 
これは意識してのことだろうか。そこは分からない。けれど彼女が自分の感情を掃き出すために歌っているのではないことは明らかだ。彼女はその大声を「自分のこと」を歌うために使ってはいない。だから彼女がいくら心をむき出しに歌おうとそこに暑苦しさは窮屈さはないし、むしろプラスに転じる明るさや開放感が宿っているのだ。
 
加えて、彼女には今「カネコアヤノ・バンド」と呼べるメンバーがいる。いつからのコラボレーションなのかは分からないが、幾度かのレコーディング合宿を行い、幾度もライブを重ねた彼らは、単にカネコアヤノとバック・バンドではなく、もうすっかりバンドだ。アルバム1曲目、『抱擁』でのアウトロ。ここでのコーラスのなんと穏やかな一体感。更に言えばそれは、身近な風景を描くカネコアヤノならではの、さっきまで肘を突いていた机に残る温かさたちが手を添えるコーラスでもある。
 
すなわちここには彼らバンド・メンバーの目があり、小さな部屋にうごめく生命(そう、彼女の描く風景、モノにはいつも命の宿りが感じられる)のあたたかな目がある。彼女の歌が決して彼女の視点だけにならないのはそういうこと。彼女は人に向かって歌っている。「私」が前に来るのではなく「歌」が前に来ているのだ。
 
それにしても、この’みんなの歌’感はなんだ。7曲目の『閃きは彼方』ではそれこそトイ・ストーリーのように部屋中のテーブルや歯ブラシやフライパンといった身近な風景たちが楽団となり音を立てていて、それをみんなで見たり聴いたりしているような錯覚がある。やはり彼女の歌は「私の出来事」という狭い世界の話ではなく、それがたとえ活動を制限された自粛生活から生まれたものであろうと、もっと大きな、生きとし生けるものたちを描く壮大で切なる物語なのだ。
 
大事なことを何気なく「ポン」と置いていくカネコアヤノさんの歌には、やっぱり何気ない何か、例えば小学校時代から使っているシャーペンを今も大事にしているような温かさを感じます。決して正面切って人を励ます歌ではないけれど、きっと誰かの支えになっている。そんな歌だと思います。
 
あと最後に。彼女の日本語表現、相変わらず素敵です。「快晴で透けるレースの影」(『手紙』)とか「桃色の花びら 希薄な僕ら」(『春の夢へ』)とか「瞼から子うさぎが跳ねてく 波のようだね 波のようだね あなたが優しい人だから」(『窓辺』)とか、他にも沢山ありますけどホントに見事な情景描写です。あともうひとつ(笑)。#8『窓辺』でのギター・ソロが最高です。