心理 / 折坂悠太 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『心理』(2021年)折坂悠太
 
 
物事を表現する上で、私たちが普段の伝達手段として用いている言葉を使えば、その伝達速度は圧倒的に早くなります。例えば「嬉しい」とか「悲しい」とか恥ずかしながら「好きです」とか。でもそれはともすれば通り一遍の表現になりかねない。勿論、その前後がありますから何もかも一緒くたにはしてしまえませんが、せっかくに訪れた何かを伝えようとする機会が、不自由のない普段の伝達手段を使ってしまうことによって、表面的には即座に相手に伝われど、その時にしか発生しえなかったそれこそ肝心なその時だけの唯一のものはそぎ落とされてしまう恐れがある。
 
つまり私たちは自己の内で補完しているのかもしれない。極論を言えば、私たちは共通言語によって過去の自分の感情を追体験しているに過ぎないのではないか。「嬉しい」とか「悲しい」といったキーワードを基に自らの中のどこかに仕舞われた過去の感情を手繰り寄せた追体験。失礼な言い方ではあるけれど、単に「嬉しい」とか「悲しい」といった言葉のみで突き動かされる感情は過去にある自己のものに過ぎないのかもしれません。
 
感情で伝えられることには限りがある。誤解を恐れずに言うと、うわっ滑りで、大事なことが抜け落ちてしまう。現代詩はそこを非常に面倒くさい、まどろっこしいやり方で言葉を構築しようとする試みだ。確かにつらい時、表に出てくるのは悲しさかもしれないが、人間の感情はそんな単純なものではない。その奥にはそこへ上り詰める確かな気配があるのだ。折坂悠太はそこを丹念に掬い取ろうとしている。最大公約数的な意味を持つ言葉に、或いは聴き手の過去に委ねることなく、その時だけの唯一のものをなるべく原型をそのまま真空パックにして表現しようとする試み。それが『心理』ではないか。
 
『心理』アルバムはざくざくと音を立てる。水彩画ではなく、ペインティングナイフでキャンパスに直に描く油絵のように。流れるように風景を描くのではなく、直に絵の具を置いてゆく。そこで折坂悠太が伝えようとしているのは実態。情緒にまつわる感情でなく、ただただ風景を置いてゆく。本人にしか知り得ぬ実態を求めて、ざくざくと足音を確かめては風景を置いてゆこうとしている。
 
詩人の吉増剛造はある番組で「gh」と言った。「night」の発音しない「gh」。それでもじっと聞いていると聴こえてくる「gh」。僕は詩とは宮沢賢治が「心象スケッチ」と言うように風景を描くものだと思っていた。僕は気付かないでいた、その風景には音が伴うことを。音が聞こえる、「gh」が聴こえる、そういう詩を書きたいと願いつつ、それを書かせる働きは感性でも情緒でもなく知性であると、折坂悠太は実演する。
 
音楽家が真空パックした風景を僕たちは新しく見る。それをどう見るかは僕たち次第。僕たちは自らの内にある過去の感情にすがるのではなく、その時にしか発生しえなかった新しい風景を見、新しい感情を得る。そのやって初めて風景はゆっくりと立ち上がる。始めから用意された姿形ではなく、僕たち新たな体験として。そのきっかけとしての音楽。音がある折坂悠太のスケッチを僕たちは見ている。彼は風景そのものに迫ろうとした。『心理』、2021年にリリースされたアルバム。折坂悠太、渾身の作品だと思います。

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