Category: その他雑感
今、ライブを観に行きたい人シリーズその③ カネコアヤノ
今、ライブを観に行きたい人シリーズその② 中村佳穂
その他雑感:
「今、ライブを観に行きたい人シリーズその② 中村佳穂」
中村佳穂さんを知ったのは昨年のフジロックでのYoutube中
スマホの小さな画面だったのですが、
じゃあ中村さんのステージはどんなのかっていうと下にリンク貼っ
ピアノの方は凄いスキルをお持ちです。
ですので例えて言うと矢野顕子さんということになるのでしょうが
てことでこの方のライブもやはり一度は観てみたいなと。
今、ライブを観に行きたい人シリーズその① 折坂悠太
「今、ライブを観に行きたい人シリーズその① 折坂悠太」
折坂さんのことはこのブログでも何回か取り上げたことがあるので
やっぱりこの方はですね、
昨年はテレビドラマの主題歌を歌っていましたから、現状、
気持ちのいいことを歌う人が苦手
その他雑感:
「気持ちのいいことを歌う人が苦手」
気持ちのいいことを歌う人が苦手だ。何事によらず物事には良い面と悪い面があるのだけど、そのどちらか一方だけに寄りかかった歌を歌われると個人的には何だかなぁと思ってしまう。
高校時代に「それが一番大事」という歌が流行ってクラスメートにもえらく気に入っているやつがいたけど、僕にはそれのどこがいいのか全く分からなかった。今思えばそういうことだったのだろう。これは全く個人的な好みなので、この歌が好きな人には申し訳ないですが。
僕がウィルコを好きなのはウィルコはその両面をちゃんと描いているから。彼らは決して一面的にきっとうまくいくなんて歌わない。右から照らせば反対側に影が出来ることを当たり前の事として描いている。
例えば昨年出た『Ode To Joy』というアルバムの『Love Is Everywhere』という歌では、チャーミングなギター・リフに乗せて「愛はどこにでもある」と歌うんだけど、「愛はどこにでもある」と同時進行で「愛はどこにでもないかもしれない」というニュアンスが立ち上がってくる。
同じく『Ode To Joy』の『Hold Me Anyway』という曲では「すべてはうまくいく」と歌うけど、どうも丸っきり「すべてはうまくいく」とは思えない。ウィルコの歌にはいつもそうした反語的な響きがどこかしらある。
でそういうことをウィルコはジェフの声とかバントの演奏やなんかで匂わすだけで殊更詳しく述べたりはせずに、いつもの通りのあの調子で歌うだけなんだな。ぐっと体温が上がったりせずに平熱のまま。実にほんのりとほのめかしてくる。だからこちらも安心して素直に耳を傾けられるのだ。
今、世界のティーンが熱狂しているビリー・アイリッシュだってあんなにダークな歌世界にもかかわらず逆に子どもたちはそこに希望を感じている。それは何故かというと、どちらか一方に寄りかかった表現ではないからではないか。その事を子どもたちは感覚的に理解している。あぁ、この人は信用できるんじゃないかって。
この事は表現をするものとして頭の隅に入れておいてもよいのではないか。
変なリセットに対する違和感 補足
その他雑感:
『変なリセットに対する違和感』補足
先にアップした『変なリセットに対する違和感』について。言葉足らずだったので、ちょっと補足を。
僕がこの言葉に違和感を抱くのは、一つにはそこに同調圧を感じてしまうから。なんかオリンピックについての後ろ向きなことを言う空気を抑えつける作用を感じてしまうから。ちょっと待ってよ、おかしいことまだ解決してないでしょって言うと、お前今はそういうことじゃなくて、国を挙げてよいものにするために皆で協力すべき時だろ?みたいな。
もう一つはそれでほくそ笑んでいる人がいるんじゃないかってこと。勿論この言葉を発する人の多くは、純粋に「やると決まったからにはよりよいものにしましょう」ってことで言っているのだとは思いますし、そりゃあ僕もそう思いますが、一方でそういう空気を実に巧みに利用する連中がいる、ほらほら時間が経てばいつものように皆忘れるからって密かに逃げ切ってしまう連中がいる、だから僕たちは「オリンピックを良いものにしましょう」と言う一方で、それはそれとして、おかしな問題はまだまだ解決されていないでしょ、それおかしんじゃないかってのは言い続けるべきなのではないか、でもそっちの言葉が今全く聞こえてこない事に嫌な感じがするのです。
何気ない「やると決まったからには一致団結してやりましょう」と言う言葉で、そのことが少しずつ少しずつ塗り固められていくような違和感。それを『変なリセットに対する違和感』と言ったのです。
変なリセットに対する違和感
その他雑感:
ニュースウォッチ9を観ていたら、スポーツコーナーで来るべき東京オリンピックについて、サンドウィッチマンがこんなようなことを言っていた。
「最初は東北の復興が遅れるからどうなんだろうって思っていたが、やると決まったからには一致団結してやりましょうと」
これ、わりと聞く言葉ではないでしょうか。
やると決まったからには皆で協力し合って、いいものを作り上げましょう。一見前向きな良い言葉に見えるけど、本当にそうなの?動き出した大きな流れは良しとしなきゃいけないの?
コンパクトな五輪のはずがそうじゃなくなったり、東京に人手が集中してしまったり、誘致にはお金が動いてたんじゃないかとか、オリンピックの後どうすんだとか、いろいろあったけど、やると決まった以上は一致団結してやりましょうってなんか変。やると決まっていてもおかしなことはおかしなままのはず。
勿論、サンドウィッチマンにしても実際に多くの復興に尽力していて、僕よりも沢山考えて、沢山行動している。それなのにお前なに偉そうなこと言ってんだと言われるかもしれませんが、でもやっぱりおかしなことには、それおかしいよって言い続けるべきではないでしょうか。
せっかく決まったんだからとか。何にしてもやることはやるんだからとか。そういう変なリセットの仕方はちょっと方向が違うんじゃないかと僕は思います。
改元を機に
その他雑感:
「改元を機に」
年齢を数える時に昭和64年が平成元年で、平成31年が令和元年だから、オレは今何歳だなんていう数え方は誰もしないだろう。
てことは織田信長は「ワシは天文3年の生まれだぎゃ。天文は23年までで翌年は弘治になって、弘治は3年まででその次は永禄で、永禄12年の翌年が元亀元年で今年は元亀3年。てことは今ワシは39歳だがや」なんて数え方はしなかったはず。話が急に戦国時代に飛びましたが。
今我々が桶狭間の戦いの時の信長は27歳で、本能寺の変の時は49歳だったというのを知るのは恐らく信長の側近とか祐筆とかがしっかり書き留めていたからで、当の本人は自分の歳を正確に把握していたかどうか。出自が農民の秀吉の年齢が曖昧なのはもっともな話だ。
何が言いたいかって、昔の人は自分の歳に無頓着だったんじゃないのって話です。昔の日本人は西暦なんて知らなかった訳だから元号で数えなきゃならない。でも昔はころころと元号が変わったもんだから、いちいち天文何年だから何歳だとか数えてられないだろうし、ていうか庶民はそんなこと知らない。てことは自分の年齢は去年は幾つだったから今年は幾つだろうなぐらいの積み上げ式の数え方しか出来なかったんじゃないだろうか。
そうすっと自分の正確な年齢もそのうち分からなくなって、要するに「そういや近所の平蔵が今年40っつってたな、じゃあオレも今年は40か?」ぐらいのテキトーな認識だったんじゃないだろうか。
現代に生きる我々は同い歳のあいつはあーなのに自分はどーしてこんななんだとか、何歳だからこうしていなくちゃならないとか、わりと年相応ってことを気にしがちなんだけど、この際昔にならってその辺はなんとなくでいいんじゃないでしょうか。
元号っていうのはそういう年齢に曖昧さをもたらす効用があったのかもしれず、ならばそれに素直に従って行きましょうと。改元を機に年齢なんて大体でいいんじゃないかと思った次第です。これからは昔の人にならって「そういやオレは幾つだったっけ?」ぐらいの大らかさで行きましょうか。
丸選手のFA移籍と長野選手の人的補償をきっかけに思った事
野球のこと:
『丸選手のFA移籍と長野選手の人的補償をきっかけに思った事』
2018年のFA取得者の中で超目玉選手であった広島カープの丸選手が読売ジャイアンツへFA移籍。それに伴う人的補償として長野選手が選ばれ、広島カープへ移籍することとなった。ジャイアンツはその前に西武の炭谷捕手を同じくFAで獲得しており、その時の人的補償としては内海投手が選ばれ、西武へ移籍している。
FA移籍に関する人的補償について簡単に説明しておくと、FA移籍をされた球団はその見返りとして、FA移籍先球団に対し金銭補償、若しくは人的補償を求めることが出来る。人的補償を要求した場合、移籍先球団は、この中から好きな選手を持ってっていいですよ、というリストを提出。FA移籍をされた球団はその中から欲しい選手をピックアップしチームに迎え入れるというものだ。原則、指名された選手は拒否できない。
この場合、移籍先球団は引き抜かれては困る選手をプロテクトするのだが、今回の件で言えば、ジャイアンツは生え抜きの功労者である内海投手と長野選手をプロテクトしなかった。そのことに一部のジャイアンツOBやファンから怒りの声があるようだ。
そのことは感情論として分からなくもないが、いちプロ野球ファンとしては昭和の大型トレードみたいでワクワクしている。どっちにしても冷静に考えれば、内海投手と長野選手はこのままジャイアンツにいたとしても出場機会はかなり限られるわけで、二人とも、特に長野選手はまだ十分にレギュラーを張れる選手であり、そうした選手が試合に出られないとなると本人にとっても、僕たちプロ野球ファンにとっても大きな損失である。なので、かつて清原だのマルちゃんだの江藤だの各チームの4番を片っ端から寄せ集め、挙げ句、ベンチや2軍で大戦力を持て余していた時代に比べると、今回の方がよっぽど健全なのではないでしょうか。
しかし、FA権が「一定の資格を得たならば、選手が自由に移籍出来る権利」であるにも関わらず、現状のFA制度では人的補償というよく分からない制度がくっ付いてしまっているし、せっかく得たFA権にしてもFA宣言したらしたで裏切り者だなんだ言われたりして、なにかすっきりとしないのも確か。
いっそのことメジャーリーグみたいに資格を得れば宣言なんかしなくても、自動的にFAになってしまうようにしてみてはどうか。サッカーみたいに出場機会を求めてレンタル移籍なんてのもあっていい。プロスポーツ選手は試合に出てナンボなんだし出来るだけ沢山の人に試合に出てもらう。そうするともう3球団ほど増やすことができるかもしれない。じゃあ5チームの3リーグ制になって、ワイルドカードを入れたもっと真実味のあるプレーオフも出来る。なんか活気が出てきて面白いかも。
僕が子供の頃は落合の電撃トレードがあったり、主力選手の移動がもっと活発だったように思う。メジャーリーグのようにコロコロ選手が入れ替わるのも何だが、もう少し流動性があった方が面白いんじゃないだろうかという話です。
サザンオールスターズで年末年始
その他雑感:
『サザンオールスターズで年末年始』
今年の年末年始は図らずもサザンオールスターズ。紅白に元旦のスペシャルに、どちらも偶然チャンネルが合っただけなのについつい最後まで観てしまいました。特にサザンのフォロワーってわけじゃないですが、ほとんどの曲を知っていましたね(笑)。恐るべし、サザンオールスターズ!
紅白では他の歌手がさんざん出てきた後に聴くサザンというのが、すご~く新鮮でした。端的に言うと歌詞です。歌っていたのはかの「希望の轍」。これがやっぱいいんですよ。「希望の轍」なのに「希望」という言葉が一切出てこない。それでもやっぱ浮かぶイメージは「希望の轍」なんですね。それは何かって言うと情景描写なんです。
ほら、ついこの手の曲って応援したくなるでしょ。それは作者も同じ。だから普通はそこに作者の声が入ってしまうのです。でもこの曲には作者の声が入ってない。作者である桑田さんの気持ちとかメッセージは入ってないんです。いや、厳密に言えば入ってるんですよ。でも分かりやすく言えば歌い上げない系とでも言いますか、例えて言うと、コブクロとかゆずって歌い上げるでしょ。要するに情緒が入ってるんです。
これはどっちがいいって話じゃなくて、これは所謂J-POPの特徴でもありますけど、情緒的なんですね。入れ込んじゃう。ところが「希望の轍」には情緒がない。丸っきりないことはないんですが、ただ情景を描いているだけなんです。俺はこう思うとか、俺はこんな気持ちなんだぜとか、俺は応援してるぜっていうんじゃなく、ただそこに風景があるっていう。
桑田さんはその風景をスケッチしてるだけなんですね。そこに桑田さん自身の情緒は入り込まない。だから聴き手がそれぞれ、それこそ若い子でもお年寄りでも自分自身の経験とか希望に応じてそれぞれの物語を描けるんです。だからみんなのうたになり得るのですね。これはやっぱ凄いやって(笑)。紅白を観ながら僕はそんなことを思いました。
あと元旦にやってたNHKの「クローズアップ・サザン!」。この番組で印象に残った曲は「ミス・ブランニュー・デイ」。これ、80年代前半の曲ですよね確か。でも全く古びてない。今の時代を歌ってるような、ちゃんと今の曲になってるんです。音楽家に限らずアーティストというのはカナリアと言いますか嗅覚が優れていて、やっぱマーケティングではないんですね。アーティスト自身のフィルターを通してその時代の空気を感じていく。その先を感じていく。だから普遍性を獲得していくのだと思いますが、「ミス・ブランニュー・デイ」なんか正にそんな曲。2019年現在の事を切り取っているかのような曲で、ほんとにお見事!改めて桑田さんは凄い人だなと思いました。
で、全編聴いて思ったのはホントにヒット曲ばかりで、聴いてて楽しいのは知ってる曲ってのが大きいとは思うんですが、おそらく全然知らない人、例えば若い子がいきなりサザンの歌を聴いてもこりゃかなり楽しいんじゃないかと。改めて、僕は桑田さんは日本有数のソングライターだなと。もうポール・マッカートニーに見えてきました(笑)。
それにも関わらず、番組内のインタビューで桑田さんが語ったのは、「新曲を書きたい」と。これからのサザンはどういう風にやっていきたいですかっていう質問に「新曲を書いていきたい。ポップ・グループである以上。それがすべて」なんて言うんです。こんだけヒット曲がありながら、新曲を出して、それで勝負する。それがポップ・グループの宿命なんだって言うんです。普通のトーンで喋ってましたが、こん時の桑田さんの凄みはたまんなかったです。
ちょっと長くなりましたけど、両方の番組を観て思ったのは、もうサザンはみんなのものだなって。意図的でもなく、無理してってんでもなくこの開かれた感じ。それでいて密かに作家性を真っ先に持ってきている。矛盾しているようで自然体としてそれが同居してしまっている。こんなおかしなバンド、ちょっと見当たらない。
紅白を観てる時の家族あるあるって「最近は知らない歌ばっかりだよな」って感じで(笑)、今や皆が楽しめる歌ってほとんどないのかもしれないけど、デビュー当時、大人たちが眉をひそめたサザンオールスターズが40年やって、もしかしたら昭和が過ぎ平成が終わり新しい時代を迎えるにあたって、一番老若男女を楽しませる最大公約数なみんなのうたになってる。演歌でなく、歌謡曲でもなく、アイドルでもなく、サザンオールスターズっていうジャンルがみんなのうたになってる。2日続けて観たからちょっと僕も情緒的になってますが(笑)、それもあながち的外れではないのではないでしょうか。