大工よ、屋根の梁を高く上げよ/J・D・サリンジャー 感想

ブック・レビュー:

『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』  J・D・サリンジャー

 

結婚式当日。シーモアは現れない。「幸福すぎる」というのだ。新婦側によって盛大な準備がなされた披露宴へ、新郎側の数少ないゲストの一人として出席した次兄バディの針のむしろのような状態が描かれる。結局シーモアは密かに新婦のミュリエルのもとへ訪れ、二人して駆け落ちしてゆく。例によってこのあたりのくだりは描かれていない。

主人公はシーモアのすぐ下の弟バディ。この二人は他の弟妹と比べ年が近く年長であり、ある種の同志めいたものがある。バディにしても‘あのシーモア’の一番の理解者であるという気持ちがあるようだ。ここでのバディは後年の人里離れた隠遁者ではない。未だ軍隊に属する若き青年である。といっても彼には他の兄弟のような溌剌さはなく、どこかコンプレックスを感じさせる言わば普通の人に近い存在。しかし哲人のようなシーモアを誰よりも理解しているのも彼であり、同時に多くの人にとっては理解されないのだろうなというようなことをよく分かっているのも彼である。

つまりは特別な何かと、その対極にある普通の人々の両方を理解する一方で、自分はそのどちらでもないこと知っているバディ、すなわちサリンジャー自身の物語とも言える。人物描写が素晴らしく、これもよく出来た短編。下世話な人たち(特にそんなわけではないが)の間に見え隠れするイノセンス。でも痛々しいわけではなく、バディと世間との相容れなさが透けて見える。これをコメディと言っていいのか僕には分からない。

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