Eテレ「落語ディーパー~真田小僧~」 感想

TV Program:

Eテレ「落語ディーパー~真田小僧~」 2019.3.11放送 感想

 

今回のテーマは「真田小僧」。子供が出てくる噺だそうです。小利口な悪ガキが父親から小遣いをせしめる話だそうで、大人をからかう悪ガキといやぁ僕は大阪人ですから、三代目春団治の「いかけや」を思い出しますが、どっちにしても悪ガキがイヤらしく見えちゃあしょうがない。春風亭一之輔によると、演じる人によっちゃ、ホントに嫌な子供になってしまう。前座でも二ツ目でもウケる鉄板ネタだそうですが、実は演じる人の人(にん)が出るとあっちゃ、ある意味恐ろしいネタでもございます(笑)。

「真田小僧」といえば。ということで東出昌大が紹介するのは三代目 古今亭志ん朝。なんつったって歯切れがいいですから、子供がイヤらしくも何ともないんです。愛嬌があるんです。ちなみに大阪人の僕が江戸っ子と聞いて先ず思い浮かべるのは志ん朝ですね。

続いて当代の柳家さん喬と柳家権太楼の映像が流れました。嬉しいですね。僕は両人とも大好きですから、アプローチの違いってんですか。さん喬さんはイメージどおりの上品な悪ガキ(?)で権太楼師匠もイメージどおり賑やかな悪ガキ。こうやって好きな落語家の演じ方の違いを見るのは実に楽しいことです。ニヤニヤしてしまいました。

落語には年寄りから女性から子供から色んな登場人物がいます。それをどうやって演じ分けていくか。この辺りの話も面白かったですね。一之輔さんは全く声音は変えないと。語尾や仕草、目線のみで表現するんだそうで、一方で柳家わさびは背が高いから子供を演ずる場合は手を結構使うと。腕を縮こませたり、手を顔の真下に持って来たりすることで背の高い自分を子どもっぽく見せるんだとか。柳亭小痴楽も自分の見た目の特徴をなんとか打ち消そうとしてるらしいですが、基本チャライやつですから本心はよく分かりません(笑)。

「真田小僧」の登場人物は基本、父親と子供。どっちに身を入れて演じるかで印象も変わってきます。一之輔さんは自分が父親になってからは完全に父親メインで演じていると話していました。今回の実演は小痴楽さんでしたが、観てると彼はやっぱ若いですから子供メインなんですね。彼のキャラもあるでしょうが子供メインがしっくりくる。なるほど、そういう見方もあるんだなと。やはり落語は奥が深いですな。

Eテレ「落語ディーパー~長屋の花見~」 感想

TV Program:

Eテレ「落語ディーパー~長屋の花見~」 2019.3.4放送 感想

 

「落語ディーパー」がこの3月からまた始まりまして、この日はその1回目。その間出演者それぞれに佳き事があった模様で、中でも柳家わさびさんと柳亭小痴楽さんのお二人は真打に昇進したらしく、なんともお目出度い限りでございます。

記念すべき再開1回目のお題は「長屋の花見」。なんでもこちらの演目は‘The 落語’と呼べるような基本中の基本だそうで、人が沢山出てきてわちゃわちゃしたり、食べる所作があったり、落語の基本的な技術が大凡網羅されてると。だから演じる方は難しい。そういう演目だそうです。

話の中身も大した話じゃありません。貧乏長屋の住人が大店(おおたな:大家さんのことです)に連れられて花見に行く。けれど貧乏だから酒がありません、アテもありません。ま、貧乏は貧乏なりの宴会でもしますかっていう話です。で、このどうってことない話を面白おかしくってんですから、演じる方には技量がいる訳です。

この番組のいいとこは過去の名人の話を観れるところ。ほんのさわりですけどこれがいいんです。落語家と言っても沢山いますから、僕みたいな落語の初心者にゃどっから手を付けたらいいか分からない。そこでこういう風に観せてもらえると、じゃあこの人のをちゃんと聴いてみましょうかとなるわけで。僕も早速今回VTRが流れた5代目柳家小さん師匠のCDをば借りて参りました(笑)。

てことで、今回の「長屋の花見」は小さん師匠のVTRが流れます。まぁ上手いです。そりゃまぁ人間国宝ですから、素人の僕が聴いてもこの方凄いなと思います(笑)。肩肘張ってなくて淡々としてんですけどね、妙な可笑しみがあるんです。周りにもいませんか。この人が話すと妙に面白いって人。よく聞きゃ面白くもなんともない話なんだけど、この人が喋るとなんか面白い。その人間国宝レベルってことです(笑)。

「長屋の花見」ってのは元々は上方の「貧乏長屋」って話だそうです。それを5代目小さん師匠の師匠の師匠が東京に持ち帰ったそうで、番組では「貧乏長屋」演ずる6代目笑福亭松鶴の声(映像は無かったです)が流れました。懐かしい声やね。子供心に何となく覚えていますが、落語はちゃんと聴いたことが無いので、またネットでも観ようかと思います。まぁ便利な世の中や。

ちなみに「長屋の花見」は花見ですから、ちょうど今の時期、2月、3月にやるそうで、それもちょいと早い時期にやるんだそうです。ま、それが‘粋’ってことで、逆に桜が散り始めてんのにこれをやっちゃうと‘不粋’ってことになるんでしょうな。

そして番組後は番組ホームページで出演者による「長屋の花見」がフルで観れます。今回は春風亭一之輔さんです。例のごとく「ったく、しょうがねぇや」って感じがこの話によく合ってますな。

Eテレ 日曜美術館「生き物のいのちを描く~知られざる絵師 小原古邨~」 感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「生き物のいのちを描く~知られざる絵師 小原古邨~」 2019.3.3放送(2018.10.7の再放送) 感想

 

日美では時折、版画家が登場します。今回は小原古邨(おはらこそん)。明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本画家、版画家です。元々は日本画を描いていたそうですが、当時はジャポニズムなる日本画ブームがフランスで起きていて、古邨の絵も目を付けられます。この辺り、教科書に出てきたフェノロサも絡んでいるようですが、案の定、古邨の絵は海外で注目を浴びる。けれど創作は追いつかない。そこで古邨は量産可能な版画へと舵を切ることになります。

版画というのは版元、絵師、彫師、摺師の共同作業です。版元というのは今でいうプロデューサーですね。そのプロデューサーが絵師は誰それにしよう、彫師は誰それにしよう、なんて決めていく。で共同作業ですから、それぞれ皆が意見を持ち寄る。ここはこうしようとか、ここは技術的に無理だからこう変えてみようとか。そういう風にしてそれぞれの個性がぶつかり合って一つの作品が出来るわけです。その点、通常の絵画の一人の作家の強烈な個性の発露とは少し違うんですね。

今回の見所は、80年前の版木での古邨作品の再現です。再現するのは摺師40年の沼辺伸吉さん。版木を見て沼辺さんは「柔らかさを感じない。切れるような鋭さ、緊張感を感じる。」と仰っていました。

古邨の版画には江戸時代から伝わる伝統的な技法も用いられています。例えばカラスの黒は黒一色ではなく艶を出すための技法があったり、雪を立体的に表現する技法があったり。それは普通に観ていると気付けないところなんですが、見えないところに凝るというのは芸術作品のみならず工業製品においても見られる日本人の特徴なのかもしれない。そんな風にも思いました。

今回のスタジオ・ゲストは2名です。俳優のイッセー尾形さんと中外産業の美術担当、小池満紀子さんです。小池さんは埋もれていた古邨作品を発見し、世に出したすんごい人です。

イッセー尾形さんは言います。「芸術というのは西洋でいうと、写実主義があったら次は印象派があって、キュビズムがあってっていう、前の時代を批判して発展するというのがあるけど、この場合は江戸時代の浮世絵をそのまま発展させて、批判しなくて、健やかな健康的な発展の仕方を感じる」と。とても素晴らしい見方だと思いました。

あとイッセーさんはこんなことも仰っていました。「同じ版画家でも北斎は望遠鏡の目を持っている。逆に古邨は小さな世界に目が行く人なんじゃないか」と。また版画というのは非常に手がかかる。皆で積上げていくものです。それについては「謙虚な存在が一つ一つの版画の絵の中にある」と仰っています。「それを皆で表した時の喜び。これは一生辞めれらないだろう(笑)」と笑って話していましたが、これもとても素晴らしい見方だと思いました。

そういえば版画を再現した沼辺さんも「絵師は彫師や摺師がどういうアイデアを出すか楽しんでいたんじゃないか」と仰っていました。とかく芸術家というのはアクの強い、俺はこうでこうなんだという‘我’が強いもの、という印象がありますが、そればっかりじゃない。皆で協力して何かを作り上げることに喜びを感じる芸術家もいるんだと。考えてみれば当たり前のことですが、そういう部分にも改めて気付いた回でもありました。古邨もまた、全部自分でする人ではない、謙虚な人、和の人であったのではないかと。こういう芸術家もいいな、って思いました。

最後に。古邨の版画は日常の風景を描く花鳥画です。そこに強烈な我欲は感じません。日常なちょっとした風景ですから小さな命の存在が時にユーモラスに描かれます。小池満紀子さんは言います。「古邨の作品から自然に目を向けるのもいいかもですね」と。

Eテレ 日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」 感想

TV program:

Eテレ 日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」2019.2.24放送 感想

 

今回の日美は、日本各地に点在する印象派の作品をゲストの3名がそれぞれ訪問する趣向。女優の深川麻衣さんはひろしま美術館へ。演出家の大宮エリーさんは山形美術館へ。歌舞伎俳優の尾上右近さんは笠間日動美術館へ訪れていました。

印象派が登場するまでは宗教画や写実的な絵が主流をなしていました。そこへ印象派の画家たちが登場するのですが、専門家たちには「なんだあの絵は。印象を描いているだけじゃないか」と酷評されたそうで、それが印象派という名の語源になったそうです。

日本でも印象派の絵は大層人気ですから、色々な美術館に所蔵されています。今回の番組で印象に残った作家は2名。アルフレッド・シスレーとポール・シニャックですね。シスレーの作品はひろしま美術館に「サン=マメス」、山形美術館に「モレのポプラ並木」が所蔵されています。どちらも美しい絵です。自然の美しい景色がシスレーの眼を通して切り取られています。

ポール・シニャックは点描画で有名です。25才の時に描いた「ポルトリュー、グールヴロ」と68才の時に描いた「パリ、ポン=ヌフ」。どちらも同じ点描ですが手法は大きく異なります。68才の時の絵はそれこそ俳句のようですね。ちょっと勝手に画像を貼付できないのが残念ですが(笑)。

印象派というのは先にも述べたとおり印象を描いたもの。同じ景色でも作家それぞれの見え方というのは当然異なりますから、それぞれの心の風景、或いは目から脳みそに至る過程で変換された風景がそこにあるわけです。

僕たちは寝ている間に夢を見ます。しかし普段見慣れた景色が登場する現実的な夢であっても、実際の場所とはかなり違って見えることがよくあります。僕も夢の中に子供の頃よく利用した駅がふいに登場する時があるのですが、実際の駅とは随分違うんですね。或いは昔懐かしい思い出なんかもそう。印象に残る出来事、人、景色というのはある程度覚えていても、その周りの風景というのは案外大雑把なものです。

人間の脳みそというのは写真じゃありませんから、やはり印象に残っている部分しか覚えていないんですね。けれど強く印象に残っている部分はちゃんと覚えている。しかも場合によってはイメージを増幅させより強く残るものに補正している場合がある。印象派の絵は言ってみればそのような絵なのかもしれません。

それにしても、、、。モネの絵はそこらじゅうにあるな(笑)。

Eテレ 日曜美術館「奄美の森に抱かれて~日本画家 田中一村~」 感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「奄美の森に抱かれて~日本画家 田中一村~」 2018.12.30再放送 感想

 

毎週録画している番組が幾つかあって、なるべくその週中に観ようと思うんだけど、なんだかんだと観ることが出来ずに録画がどんどん増えていくというのは録画あるある。

Eテレの日曜美術館もそのひとつでついつい観るのが先になってしまう。ということで昨年末に放送していた「日本画家 田中一村(いっそん)」の回も先日やっと観たばかりで、この人のことは知らなかったんだけど、とても素晴らしい画家だということを知って、なんだもう少し早く観ておけば良かったなどと今さらながら思った次第ですが、なんでもこの回は昨年7月の再放送だということで、多分その時はタイトルだけを見てなんとなく削除してしまったんだろうな。こういうのも録画あるあるです(笑)。

田中一村という人は明治41年の生まれで、彫刻家だった父親の薫陶を得、幼い頃から絵を描いていたそうで、一村8歳の頃の水墨画が番組でも紹介されていましたが、子供が描いたとは思えない素晴らしい水墨画。当時は神童なんて呼ばれていたそうです。

長じて、東京美術学校(現東京芸大)へ入学するものの、当時は南画と呼ばれる水墨画は衰退の一途を辿っていたそうで誰も教えてくれる人がいない。加えて家庭の事情もあって退学し、そこからは誰の師事も仰がずに独学で日本画を学んでいったということです。独学と言っても物心両面で支えてくれる支援者もいたり、晩年に奄美大島で生活をする際には地元の人に随分助けられたようで、一村の経歴を見てみると、芸術一辺倒の激烈な性格であったと思われますが、実際は人懐っこく社会性に富んだ人ではなかったかと思います。

とかく日本画というと淡い色調の大らかな絵を想像しますが、一村の日本画は非常に色彩豊かで躍動的。色彩感覚や構図はアンリ・ルソーを思わせますが、ルソーの売りがいわゆる「素人っぽさ」だったのに対し、一村は技術的にも優れていますから非常にリアルです。構図としてはルソー同様ファンタジーの要素もあるのですが、一村は実際にある景色を描いているし、しかも写実的で色鮮やかですから圧倒的に生命力があるわけです。

一村は自分なりの日本画を求める中、旅で九州を訪れます。その時に魅せられた南国の自然の豊かさが後の奄美大島での生活に繋がっていくようですが、結果的には独自で絵を研鑽し誰にも学ばなかった一村の一番の師は南国の自然だったのかもしれません。

一村の経歴をネットで調べてみると、彼は何度も壁にぶち当たってるんですね。展覧会に出展しては落ち、出展しては落ちの繰り返し。今見ると圧倒的な絵ばかりですが、生前はあまり評価されなかったようです。けれど一村はひたすら絵の道を突き進みます。挙句に奄美大島へ移住する。この絵に対する一途さが作品にも表れているような気がします。自分の力で立っている。絵そのものが凛としている。そういう凄みが立ち上がってくるような気がします。

芸術というのは誰かに評価されるためにやっているのではないのだと思いますが、そうは言っても実際には経済的なことだったり社会的な事だったりで、自分の信じる道を突き進むなんてのはそう出来ることではありません。一村の奄美時代の写真を見ると非常に人懐っこい顔をしていて、体質もあろうかと思いますが体も引き締まっていて、やっぱり生命の強さ、美しさが滲み出ている。今も健在の奄美の人々の一村に関する思い出話を聞いていても、とても魅力的な人だったのではないかなぁと想像します。

昨年は田中一村生誕110周年ということで、各地で展覧会が催されていたようです。何でも滋賀県の守山でも大がかりな展覧会があったようで、昨年7月の日美もそれに合わせての放送だったようですね。なんだ、ちょっと遠いけど守山なら日帰りで行けたのになぁと、やはり録画は溜め込まず早くに観るべしと、改めて誓った次第でごさいます。

ちなみにこの日以来は僕はスマホの待ち受けを一村の代表作、「初夏の海に赤翡翠」にしています。この頃の一村の絵はスマホ時代を見透かしたかのように縦長なのでバッチリ(笑)。ホンマ、いい絵やわぁ。

Eテレ 日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ マティス」 感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ マティス」
2019.1.21放送 感想

 

この日の日美は一人の芸術家の魅力をその芸術家を心から愛するゲストと共にその魅力を談義する恒例の「ダンギ・シリーズ」。今回のテーマは「アンリ・マティス」です。

~芸術家の役目は見たものをそのまま描きとることではなく、対象がもたらした衝撃を最初の新鮮な感動とともに表現することなのだ~

これはマティスの言葉です。ま、そういうことです。これで全部言い切っちゃってるから、もう他に言うことないですね(笑)。

僕にとってマティスは好きな部類には入るけど、同時代のゴッホとかピカソに比べてあまり強烈なイメージは持っていませんでした。どっちかっていうと優等生的なイメージ。だから今回の日美も何となく観始めたのですが、番組の冒頭で紹介されたこのマティスの言葉に僕は気持ちを一気に持って行かれました。

マティスといえば色鮮やかな色彩。特に「赤」が印象的です。その「マティスの赤」の魅力について、俳優の津田寛治さん。赤というのは強くキツイ色だけど、マティスの赤はドキッとさせる赤ではなく、逆に温かみを感じると仰っています。これは面白い指摘ですね。番組でも紹介されていましたが、マティスはアクの強い絵を描こうとしていたのではなく、何気ない初めからそこにあるような絵を目指していたとのこと。それを表現するのに敢えて個性の強い赤、反対の意味のもの用いてみる。穏やかな絵を反対のイメージを持つ色で構成してみる。そうすることでかえって本当の穏やかさが表現されるのではないか。マティスはそこに起きる化学反応を試していたのかもしれないですね。

この手法、音楽で例えるとポップ・ソングと同じですよね。悲しい詩に悲しいメロディを持って来ても聴き手には悲しい気持ちしか伝わりません。そこで悲しい詩ならば、敢えて明るいメロディを持ってくる。陽気な言葉ならば暗いメロディを持ってくる。そうすることで不思議な化学反応が起き、聴き手へ届くイメージは大きく広がってゆく。絵についても同様だということではないでしょうか。

マティスは赤を多用しますが、一緒くたに赤と言っても微妙に赤味を変えてくる。例えば下地に別の色を塗ってからその上に赤を重ねたり。アーティストの日比野克彦さんは言います。思考錯誤の末にこれだと思える瞬間がある。それは作家にとって大きな喜び。それが経験値として積み重なってくると同じ手法を用いたくなるが、作家自身の鮮度としては当然落ちるわけで、そこは作家の宿命として崩したくなる。それが一見同じ赤であって印象変えてくるマティスの態度にも繋がっているのではないかと。

マティスの第一次世界大戦の頃の絵は全てがそうではないが、色彩の魔術師と言われる人がキャンバスの大半を黒やグレーといった暗い色で覆い尽くしてしまう。お茶の水女子大学教授、天野知香さんんの話によると、元々あった風景やそれに伴う色彩を上から黒く塗りつぶしてしまっている絵もあるそうで、やはり芸術家は時代と無関係ではいられないのではと考えてしまいますと、司会の小野正嗣さんが言うと日比野さんはこんなことを言います。芸術家は時代に敏感に反応するように普段からトレーニングしているから、やっぱり時代からは逃れられない。とは言いつつ、作家独自の個性はあってそこからも逃れられないから、これはちょっと異質てすね、なんていう絵でも作家らしさは残っている。これも非常に面白い話でした。

晩年のマティスは創作のブロセスを写真に取って残している。素人考えでは、何かインスピレーションが降りてきて、さささっと描いてしまう、しかもマティスみたいな抽象画だと尚のことそう思ってしまうが、実はテクニックの占める割合は相当あるんだと。天野知香さんはこれは後進に対する教育という意味もあったということですが、マティスの芸術に対する考え方がうかがい知れて興味深いです。つまり、芸術というととかく感性で括られがちですけど、修練の部分、技術の部分も多くを占めるのだと。これは芸術全般に言えることではないでしょうか。

最晩年、キャンバスに向かう体力の落ちたマティスは新しい表現方法を獲得します。それが切り絵。図らずもキャンバスや筆から離れることでマティスは絵画という枠組みから解き放たれます。以前から、デッサンと色彩とに乖離を感じていたマティスは色彩によるデッサンという新しいスタイルを獲得するのです。それをマティスは「濃縮された音色」と言っています。

年を取るということは成熟するということではなくて、よりピュアになっていく。以前、あるアーティストがそんなことを言っていたのを聞いたことがありますが、マティスは正にそれを地で行く存在だったのかもしれません。

マティスは教会とその敷地をデザインするという創作も行っています。切り絵といい工業デザインといい、キャンバスに囚われない活動はまるで創作をインタラクティブなものとして捉える現代のアーティストのよう。冒頭の言葉や、異なる組み合わせによる化学反応への期待、テクニックの部分への信頼。そうした印象からもマティスは単に絵画に留まらない総合的なアーティストだったと言えるのではないでしょうか。

NHKスペシャル 平成史 第1回 大リーガーNOMO HIDEO 感想

TV Program:

NHKスペシャル 平成史 第1回 大リーガーNOMO HIDEO             

 

野茂は近鉄時代から野茂英雄だった。ノーヒットノーランが掛かる最終回であろうが、勝負にこだわり真っ直ぐを投げ続けたし、右腕にライナー性の打球が当たり一旦ベンチに引っ込んでも、何食わぬ顔をして再びマウンドに上がった。何を聞かれても仏頂面で自分の意志だけを言った。その周りの事はどうでもよかった。今年、50代を迎えた野茂は体型が違えども眼光は昔のまま。今も尚、野茂英雄は野茂英雄のままだった。             

この番組で興味深かったのは野茂が近鉄バッファローズから離れることになったいきさつ。今回のインタビューで野茂から語られた内容によると、第1回契約更改の前に既に自由契約になっていたということ。揉めに揉めて自由契約になったとばかり思っていたが実は違うようだ。任意引退を申し出たのは野茂サイドの方で、自由契約になれば、復帰するには元の在籍球団としか交渉できないという制約があるものの、アメリカの球団との交渉は可能という、当時の日本プロ野球規則をあらかじめ調べ上げ、これならいけると近鉄球団へ申し出たのだ。その時点では誰も野茂がメジャーリーグに挑戦する意向を持っているとは思っていなかったわけで、近鉄球団側は野茂サイドのシナリオに乗った訳だ。

この辺り、番組中に名前は出てこなかったが、当時の野茂の代理人はダン野村氏であったかと思う。しかしこれを可能にしたのは、ここで野球人生が終わってもいいと覚悟した野茂の決意だ。説明を聞いてこれで行こうと一度決めたなら、あとは迷わずに突き進む。そこに野茂のピッチング・スタイルと同じ太い幹を見るような気がした。       

最後の交渉の場で近鉄はあらゆるオプション契約を提示し、野茂を引き留めようとしたが、同行した当時のピッチングコーチの佐藤道郎によると野茂は「メジャーに行かせてください」としか言わなかったようで、その様子を見た佐藤もその情熱の前では「頼むから気持ちよう行かせたってくれ」としか言えなかったそうだ。

野茂は自分が日本人メジャーリーガーのフロンティアと呼ばれることに抵抗を持っている。通訳やトレーナーや多くの関係者がいる。自分だけが特別扱いされることを極端に嫌う。野茂は自分がフロンティアだとは本当に微塵も思っていないし、寧ろ理解のあるドジャースに入れた自分は幸運だったと述べている。 

野茂は華々しくメジャー・デビューをするものの、キャリアの中盤では肘を手術するなど、思うような結果が出ない時期を過ごす。メッツ時代、ブリュワーズ時代がそれにあたるだろうか。しかしそこから野茂は二つ目の大きな山を作り出す。それはレッドソックス在籍時のノーヒットノーランであり、再びドジャースに戻った時のエースとしての活躍だ。どうして二つ目の山を作ることが出来たのかという問いには、「この頃から自分の事だけじゃなく、自分が投げない時もチームに貢献出来ないかと考えるようになり、回りの選手の事も見るようになった。投げていない日も試合を観るようになったし、そうしたらうまくいくようになった」と答えている。この非常に重要なコメントを引き出したインタビュアーの大越キャスターの質問は素晴らしかったと思う。

野茂は剛腕のイメージがあるが、肘を手術してからの真っ直ぐは(野茂はいつも直球を真っ直ぐと言う)140km/h中盤しか出ない。しかしその140km/h台中盤しかでない真っ直ぐで野茂は真っ向勝負を挑む。スピードがあるとかないとかではないのだ。打者を見据えて、腕を思いっ切り振ることしか考えない。野茂にとっては打者を抑えることが結果ではなくて、腕を思い切り振れたかどうかが結果なのだ。

大谷選手の活躍について聞かれると、大谷がどうこうとは一切言わず、自分も体が元気だったらもう一度やりたいとか、どんな球を投げるのか打席にも立ってみたいとだけ言う。日米野球では自分の真っ直ぐがどれだけ通用するかを知りたかったから、真っ直ぐばっかり投げて怒られてましたと言って笑う姿や、引退したくなかったし、引退してからも投げたいと思いましたと当たり前のように言う姿を見て、引退して何年も経っても野茂英雄は野茂英雄のままなんだなと思った。

野茂は批評めいたことや誰かのことを悪しざまに言ったりしない。「日本球界に対して大きな壁を感じたことはありますか」と聞かれた時もそうだった。近鉄球団に対しても文句はいくらでもあるだろうけど、口にするのは「最後の話し合いで、メジャーに行かせてくれた人には感謝しています」と言うのみ。マスコミに散々嫌な思いをしたろうけど、そんなことも一切言わない。多分それは野球とは関係ないことだからだと思う。

野茂英雄は僕にとってのヒーローだった。別にメジャーリーガーになったからではない。ユニフォームがはち切れんばかりに大きくワインドアップをして、背番号が見えるほど体を捻り、どんなに大きい相手であろうと、真正面から突破を試みる。それは僕には到底できないことだった。この日、久しぶりに野茂さんを見た。体型は変わって髪の毛には白いものが見えたけど、やっぱり野茂さんは僕のヒーローのままだった。高校の教科書に何度もピッチングフォームを落書きした、大学時代に4畳半のアパートで夜な夜な観た、あの時のヒーローのままだった。

Eテレ 日曜美術館「巨大な絵画にこめたもの~画家・遠藤彰子の世界~」 感想

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Eテレ 日曜美術館「巨大な絵画にこめたもの~画家・遠藤彰子の世界~」 2018.10.14放送 感想

 

今回の日美、すっごく良かったです。番組は道路にチョークで絵を描く女の子の映像で始まります(←そういや昔はこんな光景がたくさんあったよなぁ)。イメージがどんどん溢れて絵が止まりません。マンホールは太陽になり、キャンパスは道の有る限り。描けば描くほどイメージは広がって手が止まらない。きっとお母さんに「お昼ご飯ですよ~」って言われても止まらないだろう。

子供の頃に絵を描くのが好きだった人なら誰しも、そんな記憶があるかもしれない。確か僕にも似たような経験、あったっけな(笑)。72才の画家、遠藤彰子さんの根本は今もそういうところにあるのかもしれない、そんなイメージを抱かせる象徴的な冒頭のシーンは見事でした。さすが日美やね!

遠藤さんはもう何年も前から500号(約3メートル×約2メートル)という大きな絵を描き続けています。ヨーロッパから取り寄せた大きな脚立に乗って。何故こんなに大きな絵を描くのか?それは「自由になれるから」、「重力をコントロール出来るから」。窮屈なことは全て取っ払って、自由に好きなだけ想いを巡らせたい。そういうことでしょうか。

勿論、遠藤さんは本当の子供みたいに何もない所からスタートするんじゃなく、500号のキャンパスに向かう前に100枚以上の下書きをする。その上で、準備を万端整えた上で、後は絵の中に入って自由に遊ぶ。キャンパスはどこまでも。まるで家の前でアスファルトにしゃがんでは、次々と浮かぶイメージにチョークを振るわせていくかのように。

今回の放送では遠藤さんが炭で下書きを始めるところから、彩色し完成するまでの約半年間の創作風景を追ってゆきます。これはよかったですね。画家がどのように筆を進めていくのかが垣間見えてとても興味深かったです。それにしても遠藤さん若々しい!大きな脚立を移動させながら、変な姿勢になりながら、軽やかな身のこなし!70を幾つか過ぎた年齢は私の母とそんなに変わらないんだけどな(笑)。やっぱり時空を巡るアーティストは時間の流れが常人とは異なるのかもしれないですね。

絵が完成した時、遠藤さんは何故か分からないけど、いつも悲しくなるそうです。司会の小野正嗣さんは「それは絵が手を離れるからですか?」と訊ねますが、それはどうやら違うらしい。何故だか分からないけど、悲しくなるのだと。ただそれを思いつめようとはせず、なんででしょうねって受け流していく遠遠さんの自然な表情が素敵でした。

この時描き終えた絵と昨年描いた絵は対になっていて(←この点も観ていてゾワッとした)、どちらにも少女が描かれている。それは遠藤さんの内面を表したものではないかという解説があったけど、それが実のところ本当かどうかは別にして、やはり少女性というのは遠藤さんとは切り離せないキーワードで、絵が完成した時に悲しくなるのはなんででしょうねって、さらーっと流せてしまうところなんかも正にそんなところから来るのかなと。なんか自然体で頭の中のスポンジがまだふわふわの人だなって、そんな印象を受けました。

『The Covers』 NHK BSプレミアム 2018.9.23 再放送(ゲスト:グループ魂) 感想

TV Program:

『The Covers』 NHK BSプレミアム 2018.9.23 再放送(ゲスト:グループ魂) 感想

 

MC:リリー・フランキー 池田エライザ、ゲスト:グループ魂 Char

NHK BSプレミアムにて月1で放送されているこの番組。ラテ欄に‘グループ魂’とあり急いで録画。どうも8月放送分の再放送のようでした。番組H.Pを見ると7月はクレイジー・ケン・バンドだった模様。くっそ~、見逃して残念。この番組は月一だからつい見逃してしまうんだよなぁ。

ゲストのグループ魂は元々、劇団「大人計画」のメンバーを中心に結成され、もう10年以上も活動をしているそうだ。活動は年に合わせても1週間程度ということで、パンク・バンドと称しながら細く長くやってますと自虐的に話していました(笑)。過去にテレビで何度か観た印象は遊びの延長みたいな感じで、失礼ながら完全にイロモノとして見ていましたが、この日観たグループ魂はなかなかどうして立派なもん。演奏も上手いし、立ち居振る舞いも完全にバンド。ちょっと見直しました。ちなみにメンバーを列挙すると、阿部サダヲ、宮藤官九郎、皆川猿時、村杉蝉之介、三宅弘城、小園竜一、富澤タク。それぞれ破壊(=阿部)とか暴動(=宮藤)とかバイト君(=村杉)といったバンド・ネームも付いとります。

今回のテーマは昭和のアイドルってことですが、年齢的に1980年前後ですね。カバーしたのはチェッカーズの『哀しくてジェラシー』と渋谷哲平の『Deep』。どっちも良かったけど、『Deep』の方がカッコ良かったかな。クドカンがテンポを倍にしてごまかしましたって言ってたけど、全然パンクの王道って感じで良かったですね。ただもう元歌の渋谷哲平の映像が…。リリー曰く「インベーダー・ダンス」を含めてのインパクトが強烈過ぎて、やっぱ破壊力では元歌だなと(笑)。

トーク・コーナーではメンバーの好きなアイドル遍歴が披露されて、エライザさんが終始引き気味だったんだけど、港カヲルこと皆川猿時が「(渡辺)美奈代もいいけど、エライザもいい」と言った時のエライザさんのド引き具合が最高でした(笑)。

番組は中盤からゲストが登場。赤い彗星と同じ綴りのレジェンドChar。常人の3倍で弾くチャーさんです。流石NHKということで若かりし頃の映像が流れるんだけど、これが20才そこそことは思えない色気で、何でも当時はセックス・アピールが強すぎるってことで出入り禁止になった場所もあったとか。セックス・アピールが強すぎるってどういうことやねん(笑)!で、その「男が一度は言われてみたい言葉(←リリー談)」を持つチャーさんがその場で持ち歌『気絶するほど悩ましい』をアコースティックで披露。これがまた大人の色気満載で、思わずあのエライザさんが「女性ホルモンが出た」と仰ったぐらいなもんで。てことで皆チャーさんの唄よりもエライザさんのその一言にやられちゃいました。ハイ、もちろん私もです…。つーかエライザさん色っぽ過ぎ!そのくせ下ネタには引き気味で、私お酒飲めないんです…みたいなウブなところも見せやがる。こりゃおっちゃん通ってまうやろっ!

歌に戻って、チャーさんとグループ魂のコラボ。『チャーのフェンダー』と『チャーのローディー』のメドレーです。勿論、途中でコント挟みます(笑)。『チャーのフェンダー』っていうのはチャーさんのローディーの気持ちを歌った曲で、『チャーのローディー』はローディーに対するチャーさんの不満を歌った曲。どっちもグループ魂の持ち歌です。これがカッコ良かった。最初にも書いたけど、グループ魂のバンドとしての力量が、えっ!?こんなだっけ?っていうぐらいこなれてて、チャーさんと共演しても全然違和感なくやってける。活動期間は年に1週間程度と言うけど、みんな好きで結構練習してんだろうな~って微笑ましくなりました。ていうかクドカン、ギターうめー。それにやっぱ細身の人が上下タイトに黒でバシッと決めて、足広げてギター鳴らすってのは絵になるねぇ~。クドカンがカッコよく見えた(笑)。阿部サダヲにしたって、本職でもこれだけシャウト出来る人いませんぜ。

それにしても真剣にプレイして、コントにまで付き合うチャーさんは素敵っす。阿部サダヲこと破壊にチャーハン、チャーハンって言われても全然気にしないんだもんな~。そうそうトークでチャーハンが、いやチャーさんが彼らはクレイジー・キャッツとかドリフみたいで今時こんなバンドいないから好きだみたいな話をして、そういや昔はちゃんとしたバンドの音楽コントって結構あったよなぁって。グループ魂は技量にも優れているし、なんてったって舞台俳優だからパフォーマンスはバッチリ。1週間と言わずもっと沢山出てくんねぇかなと思いました。そういや天下のチャーさんのギタープレイに割って入る村杉蝉之介ことバイト君のブルースハープもカッコよかったぞ!

ラストはグループ魂の新曲「もうすっかりNO FUTURE!」。加齢についての歌だそうです。「セックスレス・ピストルズ」って歌詞が最高(笑)。そういやちょっとまえに最近の日本人はなかなかオッサンになれないっていう記事があって、かくいう私も一向に貫録無くて、逆に若いですねなんて言われて図に乗ってますが、昭和のオッサンみたいにしっかりとしたオッサンになれなくても、彼らのようなバカ中学生みたいなオッサンもそれはそれで素敵だなと思いました。

番組の最後はいつものスナックを舞台にしたミニ・コーナー。ミッツ・マングローブ率いるオネエ・トリオによるカバーです。今回はテーマにちなんで中森明菜の「ミ・アモーレ」。これがまた上手いんよね~。いつもながら聴き入ってしまいました。そして聴き入りつつもつい目をつむって聴いてしまう私でした…(笑)。

Eテレ『日曜美術館~北大路魯山人X樹木希林~』 感想

TV Program:

Eテレ『日曜美術館~北大路魯山人×樹木希林~』 2017年8月6日放送(2018年9月23日再放送)

 

北大路魯山人は美にこだわる。
洗濯物の干し方ひとつで怒鳴り込む。

樹木希林さんは言いました。

 「どうでしょう、
  魯山人の美を理解できた人はひとりいたかどうか。」

希林さんは司会の井浦新さんに尋ねます。

 「あなたに理解者はいますか?」

井浦さんは口ごもります。
(ちなみにこの人はいつも口ごもります。それがとてもいいと思います。)

 「すぐには名前が出てこないです。」

希林さん、

 「そういうもんじゃないですか。
  人にあまり期待してもらっては困ります。」

 

いやぁ、やられました。お婆ちゃんのアフォリズムやね(笑)。人と人は本来わかり合えないもの。欲張っちゃいけませんね。たまに分かってくれていると感じた時には、ラッキーぐらいに思っておけばいい。そういうことでしょうか。

番組の最後の方で、希林さんにとって人生は「持って生まれた綻びを繕っているようなもの」と仰っていました。ふむふむ、生きるとは何かを積上げていくものかと思っていたけど逆か。穴ぼこを埋めていく作業。なるほど、確かにこっちの方がしっくりくるな。ただ私の場合は持って生まれた綻びだけじゃなく、今も進行形であちこち破れちゃってますが(笑)。

てことで、私も死ぬ間際には、沢山のツギハギだらけの布っきれになっていたいなぁと、そんな風に思いました。