よすが / カネコアヤノ 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『よすが』(2021年)カネコアヤノ
 
 
僕はカネコアヤノは風景を描く作家だと思っている。風景と言ってもそれは山や川ということではなくてより身近なもの、手の届く範囲のことで、今回は特に自粛生活だからか、アルバムのインナースリーブにあるようにあまり明るくない部屋の一室からの風景ということになる。
 
ところが彼女の作品は、これは前作もそうだが実質彼女自身の一人語りになっていない。確かに歌詞は「わたし」や「僕」という一人称が用いられているけれど、決して作家本人の喜怒哀楽が述べられているわけではないのだ。あくまでも主役は目に映る風景、「布と皮膚」であり「屋上で干されたシーツ」でありはたまた「瞳孔の動き」である。彼女の視点がそこにフォーカスされている以上、実のところ彼女自身の感情は横に置いておかれているのだ。
 
これは意識してのことだろうか。そこは分からない。けれど彼女が自分の感情を掃き出すために歌っているのではないことは明らかだ。彼女はその大声を「自分のこと」を歌うために使ってはいない。だから彼女がいくら心をむき出しに歌おうとそこに暑苦しさは窮屈さはないし、むしろプラスに転じる明るさや開放感が宿っているのだ。
 
加えて、彼女には今「カネコアヤノ・バンド」と呼べるメンバーがいる。いつからのコラボレーションなのかは分からないが、幾度かのレコーディング合宿を行い、幾度もライブを重ねた彼らは、単にカネコアヤノとバック・バンドではなく、もうすっかりバンドだ。アルバム1曲目、『抱擁』でのアウトロ。ここでのコーラスのなんと穏やかな一体感。更に言えばそれは、身近な風景を描くカネコアヤノならではの、さっきまで肘を突いていた机に残る温かさたちが手を添えるコーラスでもある。
 
すなわちここには彼らバンド・メンバーの目があり、小さな部屋にうごめく生命(そう、彼女の描く風景、モノにはいつも命の宿りが感じられる)のあたたかな目がある。彼女の歌が決して彼女の視点だけにならないのはそういうこと。彼女は人に向かって歌っている。「私」が前に来るのではなく「歌」が前に来ているのだ。
 
それにしても、この’みんなの歌’感はなんだ。7曲目の『閃きは彼方』ではそれこそトイ・ストーリーのように部屋中のテーブルや歯ブラシやフライパンといった身近な風景たちが楽団となり音を立てていて、それをみんなで見たり聴いたりしているような錯覚がある。やはり彼女の歌は「私の出来事」という狭い世界の話ではなく、それがたとえ活動を制限された自粛生活から生まれたものであろうと、もっと大きな、生きとし生けるものたちを描く壮大で切なる物語なのだ。
 
大事なことを何気なく「ポン」と置いていくカネコアヤノさんの歌には、やっぱり何気ない何か、例えば小学校時代から使っているシャーペンを今も大事にしているような温かさを感じます。決して正面切って人を励ます歌ではないけれど、きっと誰かの支えになっている。そんな歌だと思います。
 
あと最後に。彼女の日本語表現、相変わらず素敵です。「快晴で透けるレースの影」(『手紙』)とか「桃色の花びら 希薄な僕ら」(『春の夢へ』)とか「瞼から子うさぎが跳ねてく 波のようだね 波のようだね あなたが優しい人だから」(『窓辺』)とか、他にも沢山ありますけどホントに見事な情景描写です。あともうひとつ(笑)。#8『窓辺』でのギター・ソロが最高です。

中村佳穂の新曲『アイミル』と細田守の最新作『竜とそばかすの姫』

邦楽レビュー:
 
中村佳穂の新曲『アイミル』と細田守の最新作『竜とそばかすの姫』
 
 
 
中村佳穂の新曲がリリースされた。2019年の『LINDY』以来、随分と久しぶりだ。その間、いろいろなことがあった。今も続いている。そんな中での再始動。そうだ、再始動!中村佳穂が動き出したぞ!『アイミル』はそんな新しい気持ちになる新曲だ。
 
聴いて分かるようにコロナ禍だからという曲ではない。ずっと前からあった曲にも思えるし、何年後かに出たとしても恐らく今の曲だと思える、そんな普遍性を帯びた曲だ。『アイミル』、’私は見る’、いいタイトルです。中村佳穂の持つ肯定のイメージ、いけいけゴーゴー、そんな気持ちがいっぱい詰まっている気がします。そうそう、何気に『LINDY』の一節が投げ込まれているのも楽しいね。すべては分かたれたわけではなく、連続しているのです。
 
それと先日、所さんの『笑ってコラえて!』を見ていたらビックリ映像が。あれ、この横顔、佳穂さんじゃないの?と思ったらなんとビックリ、細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』の主役声優を中村佳穂がつとめるとのこと。え?佳穂さん芝居できんの?と思った瞬間、アフレコのご様子が。うわっ佳穂さん、スゲー、めちゃくちゃできてるやん!!
 
僕は細田監督の作品も割と好きなんで、『竜とそばかすの姫』が俄然楽しみになりました。いや~、テンション上がりましたね~。中村佳穂、ここで一気にブレイクしてほしいです。

POWERS/羊文学 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『POWERS』(2020)羊文学
 
 
メジャーでの初アルバムだそうで、その前に出たミニ・アルバムもなんとなく聴いていたんですけど、格段にスケール・アップしています。ドシッとした重量感というかがっしりとした手ごたえ、これで一気に売れて欲しいですね。
 
ドラム、ベース、ギター/ボーカルの3ピースなんですけど、頼んなさがない、音がキレてますよね。録音は3人だけだったのか他にミュージシャンが参加していたのかその辺りは気になりますけど、ドラム、ベース、ギター/ボーカルの顔がはっきりと見えるサウンドで、つまり確信を持って鳴らされてるってことなんだと思うんですけど、言ってみれば初期衝動ってやつですね。シンプルでありながらアイデアに溢れていて相当カッコイイです。全曲フェイドアウトじゃなく、ちゃんと演奏で終わるのも彼女たちの強い意志を感じます。
 
てことでバンド全体での記名性もばっちりなんですけど、このバンドの個性を一層際立たせているのは塩塚モエカのボーカルです。独特の浮遊感があって性別を超えちゃってるというか、ただそれも現実離れしているわけではなく、エモーショナルなサウンドを支えるにはこの声かなっていう、そういうリアルな力強さがあります。物事にリアリティを与えるには現実的なだけでは駄目で、一方で非現実的な部分、フィクションも必要で、そういう架空と現実を行き来できる強い声だと思います。
 
あと#2『Girls』での「コンクリート蹴った」の語尾を潔く言葉を切って歌うところがあるんですけど、ここ、ロックっぽくていいです。彼女の場合コーラスも含めどこまで行くんだいという高音ファルセットが魅力ではあるんですけど、「蹴ったっ!」みたいなロックっぽさがあれば尚のこと最高だなと。ここにウルフ・アリスのエリー・ロウゼルばりのシャウトが加われば最強ですね。
 
また彼女の発音ですけど、すごく母音を英語っぽく発音するんですね。’i’をイとエの間の中間音で発音したり、’a’をアとエの中間音で発音したり。例えば#『変身』のサビで歌う「大変身よ」の’だいへんしん’の部分なんか分かりやすいですよね。多分無意識なんじゃないかと思うんですけどこの辺りも独特でロック的なアタックに一役買ってます。
 
そういう意味でも非常にボーダレスな雰囲気がありますね。3人の佇まいもなんか性別云々という感じじゃないですし、日本のというよりユニバーサルな機軸に立っている気はします。このまま洋楽の中に混じっても違和感ないんじゃないですか。昨今アジアンなミュージシャンが世界レベルでブレイクしていますけど、その並びにいても全然不思議じゃない頼もしいバンドですね。
 
ちょっとボーカルへの言及が多くなりましたが、羊文学っていうぐらいだからリリックもいきなり「嘘つくな!」で始まる曲があったり、「きみは砂漠の真ん中 ユーモアじゃ雨はふらない」といったキラー・フレーズもあったりで、あんまりクドクドと書いてもアレなんでこのぐらいで止めておきますが(笑)、心に響く言葉が沢山あると思います。繰り返しますが、是非売れて欲しいですね。

女性アーティストを応援するゾ!!

その他雑感:
 
女性アーティストを応援するゾ!!
 
 
 
久しぶりに赤い公園を聴いています。やっぱいいですね。曲も演奏も最高なのになんで売れないのか不思議です。『猛烈リトミック』(2016年)は結構行くと思ったんですけどね。そういや赤い公園とほぼ同時期のきのこ帝国も2014年の『フェイクワールドワンダーランド』がそれまでの重い感じから一気にはじけてすごく格好いいアルバム、これでどうだ!って感じだったんですけど、本格的なブレイクには至らなかった。同じく女性陣メインのバンドで言うと、最近は羊文学もいいなぁなんて思ったりしていますけど、どーなるんでしょうねぇ?
 
 
 
 
なんかバンドに限らず邦楽の女性ってなかなか売れてこないです。男性陣は時代に応じて続々と新しい名前が出てきますけど、最近の女性陣だとどうでしょう、あいみょんぐらいじゃないですか。僕が知っているだけで中村佳穂とかカネコアヤノとか他にもすごい人いっぱいいるのにこれはやっぱ残念な状況です。
 
ここ数年、海外では女性アーティストの活躍が目覚ましいですよね。元々そうでしたけど#MeTooで更に火が付いたところがあって、政治的な発言も増えているしそれが作品にも反映している。しかもそれは女性だけじゃないです。サム・スミスとかフランク・オーシャン、彼らは同性愛を公言していますが、評価も高くセールス面でも実績を上げている。
 
BLMもそうですよね。映画『ブラックパンサー』を例に出すまでもなく、いわゆるマイノリティーと言われた人たちがメインストリームで重要な役割を果たしている。翻って日本は女性アーティストの活躍さえままならない。ダイバーシティなんて言葉を最近耳にしますが、こと日本では道遠し。これは僕たちカルチャーを享受する側にとっても大きな損失です。
 
これはメディアの責任も大きかったと思うんです。本来紹介者の役目を果たすべきメディアがインスタントなものしか紹介できなかった。でも逆を言えばこちらがそれを望んでいたからとも言えますよね。残念だけど僕たち日本人は文化に対する要求が異常に低いのかもしれない。個別にみれば日本人でも世界的な芸術家はたくさんいますが、一般的な受け手側の文化に対する優先度はかなり低いのかも、そんな風にも思ってしまいます。
 
でも時代は変わりました。テレビや雑誌といったメディアにかつてほどの影響力はありません。インターネットですよね、みんながそれぞれ個別で情報を収集し分け合う。もしかしたら1体1でコミュケートするラジオも見直されているかもしれません。大資本のメディアが質の高い文化を紹介しきれないのなら、僕たちで発信していけばいい。そういうことなんだと思います。事はそう簡単なことじゃないかもですけど。
 
あとやっぱり一番大きいのは日本は世界有数の男性社会であるということですね。確かに表向きは露骨な女性蔑視はないですけど、逆に言えば深く深く浸透しているということです。
 
例えば結婚している男女って大概は男性の方が収入が多いと思います。これ、当たり前のようになっていますけどなんかおかしいです。これは何も女性の方が劣っているから、ではないですよね。さっき邦楽では男性陣が次々とブレイクしていくけど、女性ではほとんどないって言いましたが、これも女性アーティストが劣っているからではないですよね。
 
やっぱり日本は根深く男が特をする世の中になっているということです。振り返ってみれば子供の頃、生徒会長は当たり前のように男でしたし、出席番号も男からでした。そういう積み重ねが少しずつ蓄積されてきた。知らず知らずのうちに男も女もそういう体にさせられていったんだと思います。多分僕たちは気付いてないけど男の方が圧倒的に楽な人生を歩んできた。無自覚であったとはいえ、それを甘受してきたということは僕たちもそちら側に加担していたということなんだと思います。
 
あれだけの才能が集まった赤い公園がブレイクしなかったというのは重い事実として受け止める必要があるのではないかと思っています。もっともっと日本の女性アーティストはブレイクすべきです。これだけミュージシャンがいるのに、売れてるの男性ばっかで、女性で売れてるのはアイドルだけってなんか変!フェスのヘッドライナーが男ばっかって考えてみりゃおかしいでしょ。
 
ってことで、これからはめちゃくちゃ小さなメディアですけど、このブログでもしっかり女性アーティストを応援していきたいと思います。
 
 
 

赤い公園『NOW ON AIR』

赤い公園『NOW ON AIR』

赤い公園を知ったのは『NOW ON AIR』です。もう6年前になるんですね。久しぶりに聴いたんですけど、相変わらず素晴らしい!ホント素敵な曲です。

下に貼り付けたライブ映像を見てもらえば分かるんですけど、ボーカルの佐藤千明さん、皆の耳目を集める天性のフロント・ウーマンです。残念なことに脱退してしまったんですけど、ホント素晴らしいボーカリストです。

サウンドも抜群にカッコいいです。勢いでバーッということではなく、ちゃんとテクニカルな部分が垣間見える。ベースやドラム、キーボード、それぞれに聴かせどころがあって、演奏を聴いているだけでも幸せな気分になれます。

なかでも印象的なのはギターですね。カッコいいフレーズがたくさん出てきます。ギター・リフって難しいですよね、変に個性出そうしてもダサくなるし、シンプル過ぎても耳に残らない。そこのさじ加減はもうセンスですね、この曲ではそういうシンプルでカッコいいフレーズがたくさん出てきます。2番が終わってラスサビへ向かうところのギター・ソロといったらもうカッコよすぎっ!

この曲を書いてるのはそのギターを弾いている津野米咲さんです。赤い公園全般の曲を書いているソングライターですね。サウンド・デザインも津野さんでしょうか。僕はあまり詳しくないのでその辺りはよく知りませんが、これだけの曲を書く人ですから、大部分でタクトを振るっていたのではないかと想像します。

 

『NOW ON AIR』
(作詞作曲 津野米咲)

日々の泡につまづきやすい
あの頃 毎日のように
ハガキにメッセージ
書き溜めていた

新しいものに流されやすい
この頃 ついうっかり
あなたの事を
忘れかけていた

今も私には
才能も趣味もないから
せめて せめて
Please Don’t Stop The Music Baby!!

レディオ
冴えない今日に飛ばせ
日本中の耳に
他愛もないヒットチャートを
めくるめくニュースを
この先もずっと
聴いていたいの

どんな人からも愛されやすい
あの子は 毎日のように
幸せそうな
写真上げている

当の私には
夢も希望も遠いから
どうか どうか
Please Don’t Stop The Music Baby!!

レディオ
冴えない今日に飛ばせ
日本中の耳に
ぱっとしないヒットチャートも
重たいニュースも
瞳を閉じて
聞いていられるの

レディオ
居なくならないでね
今夜も東京の街のど真ん中
ひとりぼっちで
NOW ON AIR

レディオ
冴えない今日に飛ばせ
日本中の耳に
窮屈なヒットチャートも
悪くないけど

レディオ
冴えない今日に飛ばせ
日本中の耳に
異論のないグッドチョイスな
いなたいビートを
いつもありがと
この先もずっと

二人の電波
たぐり寄せて

 

やっぱり僕たちには音楽が必要です。音楽には僕たちの傷んだ心をそっと押し上げる力がある。今、この曲を聴いて改めてそう思いました。

この素晴らしい歌詞を歌う最高の声と最高の演奏を多くの人に聴いてもらいたいです。なんてことない日々を過ごす私たちをそっと癒し、やさしく鼓舞する。ゴキゲンなビートで明日を肯定する素晴らしい曲です。

コロナ禍にあって大変な日々が続きます。もう誰もいなくなってしまわぬように、ひとりぼっちの部屋にこの歌が届けばいいなと切に願います。

colour me pop/Flipper’s Guitar 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
colour me pop(1991)Flipper’s Guitar
(カラー・ミー・ポップ/フリッパーズ・ギター)
 
 
そういえばと思いSpotifyでフリッパーズ・ギターを検索したら、「バスルームで髪を切る100の方法」が流れて、帰りの電車の中にもかかわらず思わず歌ってしまいそうになった。フリッパーズ・ギターを聴くのは何年振りだろう…。
 
僕の高校時代はいわゆるCDバブルの時代で100万枚200万枚は当たり前。小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」とか米米クラブの「君がいるだけで」とか数えだせばきりがないぐらいメガ・ヒットの連続だった。いわゆるJ-POPなんて言葉が生まれたのもこの頃なのかもしれないな。ただ僕にとってはこれらの曲は街に流れる幾多のヒット曲の一つに過ぎなかったし、友達が夢中になっていた「それが大事」なんてどこがいいのかさっぱり分からなかった。
 
かわりに僕が一生懸命に聴いていたのは、フリッパーズ・ギターとユニコーンとレピッシュ。ユニコーンはダウンタウンやウッチャンナンチャンが出演していた「夢で逢えたら」でもかかっていたからメジャーな存在だったけどフリッパーズ・ギターもレピッシュも全然知らなくて音楽好きの同級生に教えてもらった。
 
ちなみに『colour me pop』は僕が初めて買ったフリッパーズ・ギターのアルバムでそれまでは全部レンタルCD屋で借りてカセット・テープにダビングしたものばかり。それはユニコーンもレピッシュも同じで、言ってみれば今の子がサブスクやyoutubeで聴くみたいなもん。要するに高校生だからお金がなかったということです。
 
で、どうして『colour me popi』はアルバムで買ったのか覚えていないんだけど、そん時はもうフリッパーズ・ギターは解散をしていたし、僕も高校を卒業するしということで何かの節目ぐらいには思ったのかもしれないが、それはちょっと自分の過去を美化しすぎ。
 
フリッパーズ・ギターは解散をして、その後小沢健二が大ブレイクするわけだけど、解散後にソロが出るか出るかと楽しみにして待ったのは小山田圭吾の方。その前には整髪料「UNO」のCMに出たりなんかして、解散後の飢餓感もあって僕の心はウキウキしっぱなし。このCMで流れていた小山田のインストが収められたコンピレーション・アルバムも買いました。なんてタイトルか忘れたけど。なので僕にとってフリッパーズ・ギターはオザケンではなく小山田圭吾。あのこまっしゃくれた鼻声が全てだ。
 
今、フリッパーズ・ギターを聴いてるとオルガン風のキーボードがすごく耳に残る。これはさっき言ったインスト曲でもそうだけど、このキーボードの感じはフリッパーズを構成する大事な要素だったんだな。これは今も続く僕の一番の弱点だから(もしかしたらギターよりも好きかも)、僕自身十代の頃からそこのところがなんにも変わっていないのがちょっと面白い。
 
あとやっぱり歌詞がすごい。例えば冒頭話した「バスルームで髪を切る100の方法」だと「明るい食堂をティーワゴン滑り出してく間 もう君のこと忘れてるよ仕方ないこと」とか、もうサリンジャーとかカポーティーとか有名な海外文学の一説にしか聞こえない。巷じゃ小難しい表現を文学的だなんて言うけれど、ここで小山田と小沢が作り出す、簡単な言葉で構成されるチャーミングで毒のある歌詞は文学以外の何物でもない。あ、『colour me pop』に「バスルーム~」は収録されてません。
 
全然『colour me pop』のレビューになってないけど、フリッパーズ・ギターをといえばあのジャケットを思い出す。まぁそれまではカセットにダビングだからな。どっちにしてもあのアルバム・ジャケットは僕の脳みそに鮮明に焼け付いている。なのに今手元にこのアルバムが残っていないのはなぜだろう…。
 
前述の音楽好きの友達に連れられてアメ村にある怪しげなCDショップをはしごしたのも懐かしい思い出。後にも先にも小山田圭吾や小沢健二みたいなおかっぱ頭のそいつと出かけたのはそれが最初で最後だった。

AINOU/中村佳穂 感想レビュー:

邦楽レビュー:

『AINOU』 (2018年) 中村佳穂

 

中村佳穂さんを知ったのは2019年のフジロックYoutube中継で、スゴいなぁと思ってアルバム『AINOU』をスポティファイで聴いたんですけど、僕は未だにケチ臭くフリーなもんでシャッフル再生なのですが、きっと中村佳穂さんはYoutube中継で聴いたようなピアノ主体のジャズっぽいことをする人なんだろうなって勝手に想像をしていて、ところが『AINOU』を聴いたらピアノ主体どころか思いの外エレクトロニカだったので、そん時の曲はなんだったかは思い出せないけど、なんかちょっと腰が引けた記憶があります。

ま、そんな先入観だったのでそこで一旦あいだが空いてしまって、ちゃんと聴くまでにはそこから時間を要してしまったんですけど、こんな素晴らしい作品なのにね、先入観なんて困ったものです。

それはさておき。とにかく素晴らしい作品でインタビューとか色々読んでるとサウンド・メイキングなんかはかなり凝った作りのようで僕には理解できないことが多いんですけど、それはもうジャズっぽい即興とはかけ離れた緻密なサウンドでして、それでもスゴイのはそんな考え抜かれたサウンドであってもやっぱり中心にあるのは佳穂さんの歌というところで。素晴らしいバンドの技量に引っ張られているのではなく佳穂さんの歌が引っ張っているっていう、そこがやっぱり肝ですね。だから聴いてて思うのは中村佳穂バンドというのはチームとか仲間という感じじゃなくて連帯っていうことですかね。

佳穂さんは落ち着きのない人のようで、落ち着きのないというと変な言い方ですけど、色々なところへ行ってそこでワォってなったら声掛けて一緒にやってみないっていう、そんでオーケーならまた共演しようみたいな。それでもやっぱり即興共演というのではなく、ちゃんとその場その場であっても俯瞰的にプロデュースできる人だって書いてるバンド・メンバーの言があって、『AINOU』アルバムを聴いていてもそれはスゴく出てるんですね。それぞれの曲には全部違う場所感があって景色が全然違うんですね。この曲はある特定の土地で見える景色だって独立してるんです。

でその独立した感じとか俯瞰てのはホント活きていて、これだけ感動的な作品にもかかわらずカラッとしているというか押し付けがましくないのが多分そこに起因しているのではないかと。やっぱり改めてスゴイなぁと思います。

さっきも言ったとおりサウンドがホントに緻密なのでうちの古いミニ・コンポで聴いても色んな音が聴こえてきて、スピーカーから聴くのもいいですけど、イヤホンだともっと最高ですね。ただサウンドに関しては僕は全くの素人なのでよく分かりません。とはいえやっぱりよく伝わってるとは思うので身体的には理解できているのかなとは思っています。

あとやっぱり言葉ですよね。元ある言葉に寄りかからないというか元ある言葉の意味に頼らない。自分でどういう日本語を当てていくのかというところを言葉の持っている意味を一旦ゼロにして取り組んでいるってのがホント伝わりますよね。その上でそこは音楽ですから音楽的にどう機能させるかってところに最終的な目標なんだと。それはスゴく感じます。

ただこんなに素晴らしい作品であってもこれはこれという通過点みたいな、さっき言いましたけどここでは連帯するけど、そこに固執しないというか、中村佳穂さんの持つ移動感という一本筋が通っている感はやっぱりありますよね。

だから次どうなるんだろうっていうワクワク感が佳穂さんにはありますし、そう思っていたら次出たのが『LINDY』っていうまた異なる土地からの発信っていう(笑)。また移動してるぞってのがとっても楽しいです!

エンタテイメント!/ 佐野元春 感想レビュー

邦楽レビュー:

『エンタテイメント!』 (2020年) 佐野元春

 

4月22日に佐野の新しい歌がリリースされた。タイトルは『エンタテイメント!』。印象的なギター・リフがリードする8ビートのポップ・ナンバーだ。佐野は何気ないリフが本当に上手だ。大袈裟な仕掛けもないのに風に乗っていくスピード感。それは『世界は慈悲を待っている』の系譜と言っていい。

今年はデビュー40周年ということで、この15年活動を共にしてきたコヨーテ・バンドと制作した4枚のアルバムの中から、選りすぐりの曲を集めたベスト・アルバムが準備されている。『エンタテイメント!』はこの中に収められる佐野元春&ザ・コヨーテ・バンドの新曲だ。

つまりこの曲は昨日今日作ったものではない。恐らくは今年早々か、もしかしたら昨年にレコーディングされたのかもしれない。

ただの巡り合わせでこの時期にリリースされたに過ぎないのは分かっている。けれどコロナ禍がピークを迎えつつある今現在にこの曲がドロップされたことに心のざわめきを抑えようもない。

曲を仔細にに見ていくとただのエンターテイメント万歳という曲ではないことが分かる。人が人を徹底的に責め立てるネット上の悪意すら僕たちはエンタテイメントとして消費しているのではないか。そのような問いかけをもいつものように佐野は冷静にスケッチをしていく。

この曲が素晴らしいのは心が舞い上がるような前向きのポップ・ソングでありつつ、そのようなマイナスの側面、社会的なメッセージを携えている点だ。そうすることでふと言葉が自分に帰ってくる。僕自身はどうなのだと。

けれど稀に、曲には時代と偶然にも合わさる瞬間がある。今は幾分心が舞い上がる気持ちに身を委ねてもよいのではないか。高らかなギター・リフに乗ってどこまてもゆけるようにと。

~つかの間でいい
 嫌なこと忘れる
 夢のような世界 I’ts just an entertainment !~

たかがエンターテイメント。されどエンターテイメント。お偉いさんに言われなくたって僕たちは知っている。僕たちにはいつも文化が必要だ。

 

~ここはそこらじゅう
 見かけ倒しの愛と太陽~

というパンチラインが最高だ

中村佳穂の言葉~例えば「LINDY」

邦楽レビュー:
中村佳穂の言葉~例えば「LINDY」

 

「ハッときて ピンときたんだLINDY」。これだけじゃ何のことだか分からないですよね。これ、中村佳穂さんの『LINDY』の冒頭の言葉です。

以前カネコアヤノさんの『布と皮膚』のリリックに言及した時にも書いたんですけど、言葉というのは予め意味を持っているんですね。その予め意味を持った言葉を解体して新たなイメージを構築しようとする、それが詩人の仕事だとすれば、この『LINDY』の歌詞は正にそれを象徴するような歌詞だと思います。

それと中村佳穂さんの曲に顕著なのが韻ですね。それも理知的に捉えたライミングというより曲の流れのなかで、曲を口ずさむなかで発せられた動的なライミング。例えば『LINDY』。分かりやすいところでは、

 ON AND ON ドキドキ
 ON AND ON トキメキ
 となえるのさ
 応援をあげる

「ドキドキ」と「トキメキ」もそうですけど「ON AND ON」と「応援を」ですねここは。ちょっと私の説明、野暮ですか(笑)。ただ前半はそんなゆったりとした韻なんですがリズムが忙しくなる後半に入ると、

 パッと見て不意に気づくさLINDY
 おどけたふりして 結び直してゆく

と、この短いリリックの間でもそこらじゅうで韻が踏まれいて、「不意に」の「意」と「に」が「リンディ」の「リ」と「ィ」に。「おどけたふりして」の「ふり」が前段の「不意」と、プラス「ふり」は「リンディ」の「リ」、次の「結び」は発音も「結びぃ」となり前段の「リンディ」と掛かります。

まぁそこらじゅうで跳ねるようにアクセントが置かれていくんですけど、この一連のメロディを一気に聴くとですね、やはり言葉とメロディは一体なんだなと。そしてそうなることで冒頭の話じゃないですけど、新たな意味が構築されてゆくのが聴いているこちらも体で理解するんですね。これはやっぱり理屈じゃありません(笑)。

そう考えると中村さんはやはり詩人なんですね。意味を追いかけていかない、何百年も昔からあって既に意味を持っている日本語を駆使して自ら意味を授けようとしている。恐らくそれは意識してというより、もうそういうもんなんだという自覚があるからだと思います。

何故なら中村佳穂が捉えたポエジーは大げさな言いようですが、その場その時人類が初めて経験するポエジーなわけですから(それは僕やあなたのポエジーもそうです)、それを表す言葉というのはまだこの世に存在しないんです。それをたまたま自分が持っていたのが日本語であるならそれを利用して表現をするんだと。それが「ハッときて ピンときたんだLINDY」という言葉になるのだと思います。

あと言葉の解体と言えば、この曲では中盤にどっかの地方の掛け声のような、これも日本語を解体して新たなイメージを構築するという典型的な部分ですけど、その新しくイメージされた掛け声言葉が明けてのドンッと中村佳穂さんの歌い出しがあって、それは「全部あげる」という解放が始まるところですが、この「全部あげる」には深いエコーがかかってですね、佳穂さんの声は微妙にビブラートするんですがそれもあって、「全部あげる」が「ぜ え ん ぶ う あ げ え る」と解体されて聴こえてくるんです。もう言葉自体が解体されてしまっているんですね。

つまりここではもう give you :あげるという意味は解体されているんですね。勿論そういう意味はまだ含まれていますけど、そこを越えたコズミックなイメージが聴き手それぞれにもたらされる。歌い手が捉えたポエジーと同じ空間が手渡されるわけです。個別の意味とかは越えた感覚的なイメージですよね。だからもうこの部分は聴いていて本当に鳥肌が立つところでもあります。

詩人の茨木のり子さんが仰っていたのは、よい詩というのは最後に離陸する詩なんだと。そういう意味ではこの「全部あげる」という部分は見事に離陸しまくってます(笑)。そこまでも本当に素晴らしいんですけど、それがまるで助走のようにここで一気に飛翔するんです。

この曲は現時点の中村佳穂さんの最新曲になるのかな。その前のアルバム『AINOU』(2018年)も本当に素晴らしいので興味を持たれた方は是非手にとっていただければなと。動的なというものに限らず理知的で素晴らしい歌詞も沢山ありますので、頭と身体と同時に響いてくると思います。

カネコアヤノの言葉~例えば「布と皮膚」

邦楽レビュー:

カネコアヤノの言葉~例えば「布と皮膚」~

 

僕は洋楽をメインに聴いていますが、何も邦楽を避けているわけではありません。ただ邦楽の場合はどうしても言葉に目が行ってしまうんですね。そこでこれちょっとなと思ってしまうともうダメなんです。逆に言葉の部分でこれいいなと思えるものがあったらすぐに食いつきますね(笑)。やっぱり母国語で得られるカタルシスは特別ですから。

最近僕が食いついたのはカネコアヤノさんの曲です。彼女の言葉への向かい方が新鮮なんですね。そこで今回はカネコさんの曲の中でも、これ特徴的だなと思った曲があったので、それを紹介したいと思います。2019年リリースのアルバム『燦燦』に収められた「布と皮膚」という曲です。

先ずタイトルの「布と皮膚」ですよね。最初に聴き手はここで引っ掛かります。カネコさんは突飛な曲のタイトルの付け方をしないのですが、この「布と皮膚」はちょっと独特ですね。字だけを見ているとちょっと堅い印象を受けます。その堅い印象を持ったまま、そして意味の把握しかねる状態で聴き手は曲を聴き始めます。で最初のヴァース。

  いろんなところがドキドキしてる
  Tシャツの襟ぐりと首の境を
  行ったり来たりバレないように
  指先でそっと縫い目をなぞった

ここで聴き手は「布と皮膚」は具体的には「Tシャツの襟ぐりと首の境」のことなんだなと了解します。もう単純に映像が、この「布と皮膚」というタイトルと「Tシャツの襟ぐりと首の境」という言葉で映像が立ちあがってきますよね。それも少し離れた、或いは俯瞰的な絵というのではなく近い映像。例えて言うと陶芸家が土をこねるようなそぐそこにある即物的な絵です。そこを「行ったり来たりバレないように / 指先でそっと縫い目をなぞ」るわけです。

つまり聴き手は最初のヴァースで「縫い目」とは何か、「Tシャツの襟ぐりと首の境」とは何か、加えて歌の主人公はそこを指でなぞっている、ということを視覚的に知るわけです。ではこの「縫い目」とはどういう意味なのか、「Tシャツの襟ぐりと首の境」が象徴するものは何なんだ、ということがコーラスで判明します。

  布と皮膚 布と皮膚 布と皮膚
  交互になぞった
  眠れない夜にそっと
  布と皮膚 交互になぞった

僕の解釈では「皮膚」というのは‘私’の一番外側にあるもの。「布」というのは反対に‘私’ではない存在の最も‘私’寄りの部分。この両者の接触付近について歌われていることなんだと。簡単に言うと自分と外界の境目についての歌ですよね。そう考えるとそんなニュアンスの歌って結構ありますよね。ただカネコさんはそこをわざわざ「布と皮膚」と表現するんです。「布と皮膚」と表現することによってより即物的なイメージを聴き手は持つことが出来るのです。

面白いのはその境目、触れるか触れないかの接触付近、出入口についての歌なんだけど、そこがどうなんだということは一切触れられていないんです。違和感を感じるとか心地よいとかそういう作者の主観は入ってこない。つまり状態が描写されているだけなんです。ここ、結構大きなポイントではないでしょうか。

そして「布と皮膚」を「眠れない夜にそっと / 交互になぞった」という表現ですがこの表現、少し色っぽいです。これは歌ですからこの言葉に動的な意味が加わる、メロディや声や演奏が加わるわけです。ここをカネコさんは「布と皮膚」ではなく「ぬぅのと、ひっふー」と歌います。少し色っぽい表現を更に「ぬぅのと」と歌うことで同じ意味が被さってきて、要は強調されてきて、次、ここですよね、「ひっふー」と歌うことですばやくユーモアに転じて行く。この部分、見事だと思います。

音楽家に限らず、言葉を扱う人というのはやはりオリジナルの表現を好むんですね。自分自身の言葉を獲得したい、そう思うものだと思います。ですのでどうしても突飛な言い回し、違和感のある言葉遣いに目が向いてしまうわけです。要は表現のアプローチを伸ばしたくなるんですね。

でも結果どうなるかというと、それはやはり自分から離れた言葉ですからリアリティが希薄になります。加えて、突飛な表現というのは案外使い古されている、突飛な表現という行為自体が使い古されていますから、かえってありきたりな表現、紋切型の定型文になってしまいがちです。だから言葉というのは自分の体の中から出てくる、手の届く範囲でないといけないということなんだと思います。

そういう意味でカネコさんの言葉はカネコさんの中から出てきた言葉なんですね。言い換えれば肉体的な言葉。手の届く範囲で捕まえることのできる言葉なんです。だから言葉に通っている静脈がうっすら透けて見えるんです。言葉というものへの向き合い方をカネコさんに改めて教わったような気がします。

最後に。これは谷川俊太郎さんが折に触れて仰っているのですが、言葉というのはもうすでに意味を持ってしまっているんですね。だから詩というのはそことのせめぎ合いということになります。つまり「布と皮膚」というタイトルで言うと、「布」という言葉も「皮膚」という言葉も予め意味、イメージを持っていますよね。その従来持っている言葉が組み合わさることで別のイメージが現れてくる。加えてこれは歌ですから、声やメロディによる効果も加味されて、「布と皮膚」という言葉は従来持っている言葉を組み合わただけではない別のイメージを生み出している、ということが言えると思います。

追記:
本来であればここに歌詞を全て掲載したいのですが、著作権の問題もありますからね。とか言いながら半分程度載せてしまっていますが(笑)。ま、ご容赦ください。