Mellow Waves / コーネリアス 感想レビュー

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『Mellow Waves』(2017年)コーネリアス Cornelius

 

コーネリアスは自己主張をぶつけたいとか誰かに言いたいことがあるとかそういう部分とは無縁のような、そんなこと他人に言ったってしょうがないでしょう的なある意味当たり前の前提で音楽を作っているような気はするのだが、出てくる音楽というのは非常にエモーショナル。つまりそれは言葉に頼るのではなく、音楽全体として表現しているからで、分かりやすく言うと音の一つ一つがメッセージなのである。

ただそのメッセージは我々が期待するような具体的な何かということではないし、むしろ聴き手に対しても何か特定の理解を求めるのではなく、音楽というものが複合芸術である以上、その表現するところも複合的なもの、そこのニュアンスを嗅ぎとればいいじゃないかというのが聴き方として程よいのかも。聴き手の方が勘違いしやすいけど、明確な意味を求めるのであれば、論文なり解説書なりを読めばよいわけで。

例えばこの時コーネリアスはEテレで『デザインあ』なる番組を手掛けていて、向かい方としては尚のこと言葉による表現に特化したものから離れているだろうし、アルバム後半の曲は特に、#6『Helix / Spiral』とか#7『Mellow Yellow Feel』とかのヘンテコさはそのままEテレの不思議な番組で流れていそうないろいろ感がある。#9『The Rain Song』なんかもうそのまま。

そうやって表現される細々見るとよくわからないけどいろいろな何かの塊は、聴き手にじんわりと押し寄せて僕たちの中で確実に広がっていく。それはとてもエモーショナルで雄弁で温かい。誤解されがちだが、コーネリアスの音楽は分かる人にだけ分かればいいというような一方的なものではなく、聴き手がいてはじめて成立するし、小山田圭吾は多分それを信じている。

夢中夢 / コーネリアス 感想レビュー

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『夢中夢 – Dream In Dream』(2023年)コーネリアス Cornelius

 

高校時代はフリッパーズ・ギターをよく聴いていた。彼らは3人称の歌、彼彼女の歌を歌っていた。当時の僕に自覚はなかったろうけど、どうやら僕は3人称で歌われる誰かの物語を聴くのが好きだった。逆に作者自身の熱い思いを歌われるのは苦手だった。フリッパーズ・ギターが解散した時、僕は小山田圭吾の新しい活動を待ちわびた。そしてコーネリアスとしての第一弾シングル『太陽は僕の敵』がリリースされた。

小山田の声に飢餓感を感じていた僕はその新曲とほどなくリリースされた1stアルバム『First Question Award』をむさぼるように聴いた。しかし急速にその熱は冷めていく。何故ならコーネリアスとなった小山田の歌には僕が僕がという強い自己主張があったから。そこにはフリッパーズ・ギターで作った(作詞は小沢健二だったが)サリンジャーのような美しい誰かの物語はなかった。

以来、コーネリアスの音楽は聴いていなかった。コーネリアスは2nd以降、野心的な取り組みで世界的にも著名なミュージシャンになったのは知っている。しかし一旦距離を感じてしまった僕は改めてコーネリアスの音楽に手を伸ばすことはなかった。ところが唐突にコーネリアスは、というか小山田圭吾は時の人となる。かつて彼の音楽に心を奪われた人間として僕はその顛末を知りたかった。そして僕の中である程度の結論が出た。それは肯定的なものだった。むしろあれほど天才だと思っていた小山田圭吾に僕は勝手に親近感を感じ始めていた(勿論、そうでない部分もあるが)。そしてアルバム『夢中夢』がリリースされた。

このアルバムは彼にしては珍しく、シンガーソングライター的な手法で作られたと言う。つまり自分のことを歌っている。そこにはかつてのような息苦しさはなく、まるで他人事のようなおだやかな歌声があった。ただ歌と言っても全10曲のうち、3曲はボーカルが無いインストルメンタル。しかしこれは歌のアルバムと言いたい。なぜならボーカルの無い曲にも声が溶けているから。

ここではボーカルと楽器とサウンドに継ぎ目がないまま全体として響いている。曲を構成する楽器のように小山田は歌い、やがてその声はメロディやサウンドの中に溶けていく。するとインストルメンタルと思えた曲も実は小山田の声が溶けていった後なのではないかと感じるようになる。きっと言葉や声は見えないだけでそこにあるのだと。

シンガーソングライター的な手法で作られたこのアルバムには多かれ少なかれ小山田個人の内省、或いは思いが入っている。しかし彼は言葉のみで何かを言おうとしていない。言葉に重きを置いていると言葉は強くなる。けれど彼の音楽にその必要はない。音楽表現とは言葉やメロディやサウンドが溶け合ったうえで、全体として聴き手が感じるものにあるのだから。

僕たちは何気なく街を歩くときでさえ歩くだけではない。いろいろなことを脈絡なく考え、自動車の音や風の音、人の話し声、様々なことが同時に起きている中、手足を動かしている。表現もそれらすべてをひっくるめたものであるならば、なにか一つに答えを求めることもない。聴き手は自由に感じればいいし、言葉でなんか説明できなくても感じればそれでいいのだ。

タオルケットは穏やかな / カネコアヤノ 感想レビュー

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『タオルケットは穏やかな』(2023年)カネコアヤノ

 

下北沢にある書店、日記屋月日 には物珍しい本、その名の通り書籍化された日記が置いてあるそうで、僕が詩を好きなのを知っている友人が東京土産にそこで購入した日記をプレゼントしてくれました。リトルプレスの『犬まみれは春の季語』という本です。著者は柴沼千晴という方で、日記屋月日で行われていたワークショップ、「日記をつける三ヶ月」でつけていた2022年1月1日から2022年3月27日までの日記をまとめたものだそうです。

正直、他人の日記なんて興味ないよと渋々読み始めたのですが、これが思っていたのとは全然違って散文のような、時には詩のような。しっかりとした観察眼で書かれていて日記という形式であっても場合によってはこうやって作品足りえるのだなぁとまた新しい発見がありました。

結局、詩にしても日記にしてもそれを作品と称するからにはある程度自分からは切り離して、ただ何よりも個人の思いが大事なのでそこのところは難しいのだけど、自分の心にうずくまったり時にはこぼれそうなものを精一杯書いても、見えるところは作者本人ではなく他者の共感を得る方向へ向かうというのが大事で、でもそういうのは意図的にどうこうできるものではないと知りつつ、けど何がしらの自覚があってこそなんだと思います。そこのところがとても大きく他者への共感に向かうのがカネコアヤノの音楽ではないでしょうか。

さぁこれから、というところでコロナ禍にまみえたカネコアヤノですけど、負けじと無観客ライブだのなんだとできうる限りの活動を続けて、元々アルバム出す毎に脱皮していくような印象はありましたけどコロナ禍を経ての今回のアルバムでは更に太くたくましくなった印象を受けました。

あとカネコアヤノは心象風景を歌う作家だと僕は思っているのですが、前作の『よすが』ではそれも部屋の風景に落とし込まれている印象がありました。それが今回は外に向かった解放感というのが復活しているような気はして、例えばタイトル曲の『タオルケットは穏やかな』での「家々の窓には~」っていうのはもう完全に外の景色、昼か夜かは人それぞれの受け取り方だと思いますけど、とにかくそこには空があって風が吹いてというところまで想像できる、しかも迷っているけど「シャツの襟は立ったまま」という。すべてではないですけど、歌ひとつひとつが外で鳴っていて、今歌の主人公は外にいるんだという感じはすごくします。

あと太くたくましくというところで言うと、今回もバンドがすごくいいです。同じメンバーでもう何作目になるのかは知りませんけど、一緒にアルバム作って一緒にライブしてっていうのをずっと続けてきた中で、お互いの理解が更に進んでいるような気はします。特に目新しいことはしていないと思うのですけど、ごく自然なやり取りの中で歌に合わせてちゃんと曲の表情が変わっていって、何よりバンドの演奏だったりカネコの歌であったりというところで全く継ぎ目がなく聴こえてくるところがとても素晴らしいです。

『よすが』があって、窮屈な中で活動を続け、今作の1曲目『わたしたちへ』でギターが思いっきりかき鳴らされるオープニングというのはやっぱグッと来ます。単純にソングライティングの練度もどんどん上がっているし、もちろんその時々のアルバムでの良さはありますが、災厄を経てまた一段、音楽家として大きくなったんだと思います。

ところで、日記『犬まみれは春の季語』でもカネコアヤノへの言及が沢山出てきます。好きなものが横に広がっていく感じが嬉しいです。

中村佳穂 「TOUR  NIA・near 」in フェスティバルホール 感想

ライブ・レビュー:
 
中村佳穂 「TOUR  NIA・near 」大阪フェスティバルホール 2022年10月27日
 
 
念願の中村佳穂のコンサートに行きました。いや、もう凄かったです。才能だけで突っ走ってもいいぐらいの人だと思うんですが、ちゃんとエンターテインメントとしての構成を考えられたショーになっていて、しかもバンドのメンバーそれぞれがメインを張るような場面も用意しているし、今振り返るとどれかひとつということではなくてあれやこれやと色んな場面が印象に残って、アンコール含め約2時間、あっという間でした。
 
普通、初っ端は景気のいい曲をやってお客さんを引きつけるってのが常道だと思うんですが、中村佳穂はそれどころかなかなか歌いません(笑)。初っ端からメンバー紹介、んで今日はよろしくお願いしますって感じでMC、でもそれはお喋りというより歌で伴奏を付けてのアドリブ、今日の気分を鼻歌みたいに歌う、そんでもって気付いたらその流れでオリジナルの曲を歌うみたいな(笑)。もう自由過ぎて素敵です。
 
終始ずっとそんな感じだし、アレンジもオリジナル・バージョンとは大幅に変えてくるし、ホント、歌いだすまで何の曲か分からないっていう世に言うボブ・ディラン状態(笑)。いろいろな表現を用意してはいるもののそれらはすべて音楽、そうじゃないところで演出するってことではなくあくまでも音楽での表現っていうところがやっぱり音楽のライブに来たって感じで最高でしたね。
 
バンド編成はドラム二人にコーラス二人にベースが一人、それと中村佳穂のキーボード。リズム主体のこの編成も面白かったですね。ぐるんぐるんとグルーヴ感の極みのような曲もありましたし、歌い手3人だけでステージに立つ時もありました。あとアンコールではみんな真ん中に集まり、最小限の楽器で『KOPO』を演奏するっていうピクニックみたいな楽しい瞬間もあって、冒頭にも述べましたが、強弱を付けながら中村佳穂バンドのいろんな面を満喫できました。そうそう、生で聴いた『LINDY』はレディオヘッドみたいでした。
 
あとこれぞ中村佳穂、というようなステージに一人で立つソロ・パートもあって、そこもアドリブみたいに「今日は何を歌おうかなぁ」って喋りながら歌って、始めたのはなんと皆知ってる童謡の『あんたがたどこさ』。これが超早弾きキーボードを交えつつ縦横無尽のアレンジ。うん、ここは中村佳穂スゲーっていうパートでしたね(笑)。
 
そんな天才性を垣間見せる中村佳穂ですが、我々観客が感じるのは親密さ。リビングにお邪魔して、ちょっと歌を聴かせてもらうみたいな。もちろん、圧倒的なステージでそれはそれは鮮やかな才能のきらめきなんですけど、感覚としてはなにか親密さがある。これはやっぱり「皆さん、健やかに~」ってメッセージを発する彼女のキャラクターゆえ、なのかもしれませんね。
 
ってことでお客さんもパッと見、いい人ばかりのような気がします(笑)。いやでも冗談じゃなくて、ここにいる多くの人たちは傷つきやすくナイーブな人なんじゃないかなって。ライブ中のみんなの立ち居振る舞い、大人しくて控えめな感じからそんな印象を受けました。あ、自分のことを言っているわけじゃないです(笑)。
 
そうそう、会場へ入場するところで、中村佳穂直筆のプリント(小学校でもらうプリントみたいなイメージ)が配られて、僕はそれを見ながらフェスティバルホールの長いエスカレーターに乗っていたんですね。すると、手を滑らせてそのプリントを落としてしまった。それはヒラヒラッとエスカレーターの間に落ちてしまって僕はもうあきらめかけたんです。そしたら後ろの人たちが皆でそれを拾ってくれたんですね。なんかスゴイ嬉しかった。みんな当たり前のように必死に取ろうとしてくれたんです。なんかあそこにはそんな優しさオーラがあったのかなぁ。改めまして、拾うとしてくださった方々、どうもありがとうございました。

ぼちぼち銀河 / 柴田聡子 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『ぼちぼち銀河』(2022年)柴田聡子
 
 
日々のこまごまとしたことを日記のように綴りながら、日記とは対極のカラカラに乾いた感性が秀逸な#2『雑感』を聴いていると、ひとり言のようでいてその実、自分のことは一切書いていないのではないかと思ってしまう。とか言いつつ、「給料から年金が天引かれて心底腹が立つ」ているのは彼女なんだろうなぁと思わせる絶妙な距離感。いずれにしても彼女は描くものを対象化できているのだろう
 
つまり彼女は入れ込んだり、情緒に流れることはしなくて、物事を表現する時の態度をどうとるべきかという彼女なりのスタンスが明確で、「私」と「対象」とが寄りかかったままだと本当に大切なことは感情にくぐもってしまうということを敏感に回避しているのではないか。言葉としては「私」でありながら、「私」でもなさそうなこの絶妙な距離感はそういうこと。この時ぐらい情緒に流されてよさそうな聖夜の『サイレント・ホーリー・マッドネス・オールナイト』でさえそのスタンスは崩れない。
 
言いたいことがあると、その中身が自分では分かっているものだからつい大掴みにワッと、それこそ大袈裟に言ってしまいがちになるのだが、ここでも彼女は冷静で描くべき対象一つ一つをまるで神は細部に宿るとでも言うように丁寧に重ねていく。すなわちそれは真摯さの表れ。いずれにしても素晴らしいのはその対象がいちいち並列で、やっぱり入れ込んでいない。「一緒に住んでいる人」も「一瞬だけ月」もすべて体温は同じ。
 
究極は#8『夕日』でここで歌われている「大人子供おじいちゃんおばあちゃん孫」とか「酸素炭素水素窒素空虚」とか「猿の置物」とか「みゆき」とか「なおみ」とか「きょうこ」とか「あゆみ」とか「歯医者の窓」とか全てを並列に並べてしまえる彼女の才能は単純に凄い。
 
と振り切ったところから続く最後の#9『ぼちぼち銀河』、#10『24秒』、#11『n,d,n,n,n』で彼女の顔の輪郭がぼちぼち明確になってくるのは意図してのことかどうか。というところでなかなか本心を見せないところが彼女の魅力です。なんて言うと、いや全部出してるよ、とうそぶきそうだなこの人はなどと思っている僕は見事に柴田聡子沼にハマっている。
 
最後になったが細部まで行き届いたリリックを丁寧になぞるようにこちらも真摯な態度のサウンドが最高。静かなところで聴きませう。

言葉のない夜に / 優河 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『言葉のない夜に」(2022年)優河
 
 
いわゆるUSインディー・フォークと呼ばれる系譜にあたるのだろか。優河の音楽は今回初めて聴いたのですが、冒頭の数十秒で確信しました。あ、これオレの好きなやつや。
 
USインディー・フォークというとフリート・フォクシーズとかビッグ・シーフの名前が浮かびますけど、1曲目の『やらわかな夜』を聴いた感想はマイロ・グリーンですね。あんまりメジャーな存在じゃないですけどコーラス感とかピアノの入り方が彼らの1stアルバムに近いような感触がありました。
 
続く『WATER』はこのアルバムの特徴である優河自身による多重コーラスが独特の浮遊感を出しています。時折聴こえるエレピかな、シンセかもしれないですけどズレたような相打ち音がとても心地よいです。描かれる景色に一気に引きずり込まれる感じですね。
 
3曲目『fifteen』、なんでフィフティーンっていうタイトルか分かりませんけど、聞いた瞬間ノラ・ジョーンズだ、って思いました。あのくすんだ声、スモーキーなんて言われますけど英語で歌うと同じなんじゃないかと思うほどそっくりな声です。この曲はギターがいいですね。すごく印象的に鳴っていてこの曲に関してはロック色が強く出ています。もう1回言います。ギターがすごくカッコイイ。
 
続く『夏の庭』も独特の浮遊感が漂っています。タイトル通り、夏ですよね。そこで描かれる景色も少しけぶっているでしょうか。2分ちょいの短い曲ですけど、メロディもバンドも声も完璧に近いですね。素晴らしいです。優河はあるインタビューで、悲しみを帯びた曲だと言葉や演奏がすでに悲しいのだから、ボーカルまで悲しくなってしまうと情緒過多になる、と語っています。そういう意味でこの曲なんかはそこでバランスを取る彼女のボーカルの妙がすごく出ているような気がします。
 
5曲目『loose』も『fifiteen』と同じくロック色の強い曲です。この曲はドラムが印象的な活躍をしますね。あとこのアルバムで欠かせないのが電子ピアノです。僕も大好きなフェンダーローズやウーリッツァーが沢山使われています。この曲ではメインがローズでそこに印象的なピアノのフレーズが入ってくる。ホント、素晴らしい演奏でうっとりします。
 
アルバムで演奏しているのは魔法バンドの面々です。元々、優河の前のアルバム『魔法』に参加していたミュージシャンがそのままバンドという形をとって、以来、ライブやレコーディングを共に行っているとのことです。折坂悠太の重奏とかカネコアヤノバンドみたいな感じですかね。自然発生的に生まれたバンド、故の説得力があります。
 
6曲目の『ゆらぎ』。アルバムの中で一番強い光を放っているのはこの曲でしょうか。先ほど述べたボーカルの曲へのアプローチがこれまた凄いですね。バンドメンバーもほれ込む優河の声、確かにある一定の声音というのはあるのですが、アルバムを聴いていると、彼女は曲によって歌い分けているのが見て取れます。声の質感が曲ごとに違う。この曲では声で曲をリードしていくというか、声が前に来ていますね。特に最後のコーラス、「愛が・・・」とリフレインしつ最後へ向かい着地する部分は多重コーラスも相まって声の力が凄い。このアルバムのハイライトのひとつですね。
 
コーラスの美しさだと次の『sumire』でしょうか。曲調は全然違いますけど、通底するところは『夏の窓』に近い曲のような気もします。こっちはもう少し明るいイメージかな。僕はこのアルバムで初めて優河を聴いたのですが、前作までコーラスはしてこなかったそうです。どんな感じだったのか気になるのでこれから聴こうとは思っていますが、とにかくコーラスは今回から始めたと。で、やってて面白かったからデモでは全曲コーラスを付けてるそうです。となればそれも聴いてみたい気がしますね。
 
『灯火』はドラマの主題歌になりました。ということでドラマサイドから要望があったのかなと思わせる他の曲とは異なるトーンがありますね。一言で言うと派手(笑)。なんてったってサビで始まりますから。ただ違和感があるかといえばそうでもない。この辺は魔法バンドの流石の存在感といったところでしょうか。でもこういう曲がポンと入ることで全体としてのスケールの大きさに繋がっていると思います。
 
で、『灯火』で一旦しめて、最後の『28』は夜明けを迎えるような作りになっています。もう完全に太陽が出てきていますね(笑)。こういう明るいトーンで終わるところに彼女たちの意思が表れているような気がします。28というのはどういう意味だろうか?1周回って明け方の4時ということでしょうか。4時だとまだ暗いか(笑)。
 
アルバム・タイトルにあるように言葉がキーワードになります。言葉というのは実態があるようでない、言わば借りものの器です。人々の間にはなにがしかの共通の意思疎通アイテムが無いとコミュニケーションは図れませんから、我々は仮に嬉しいとか悲しいとか丸いとか赤いとかを名付けているんですね。でも正確に言うと、例えばあなたが今朝食べた食パンは昨日のそれとは違う。食パンもあなたの体も1日分変化している。大げさに言うと、今朝のあなたの食パンを食べるという行為は人類史上初めての経験なわけです。であればそれに的確に当てはまる言葉はこの世にもまだ存在していないということになります。でもそこになんとかして既存の言葉、我々で言うと日本語を使って言い表そうとする、というのが詩人の仕事なのかなと思っています。
 
つまり、というような理由で優河は言葉というものを当てにしていない。けれど逆に言えば言葉を非常に大切に思っているとも言えます。このアルバムの抽象的な歌詞は慣れていない人からすると難解に聴こえるかもしれない。そんなもってまわった言い方をしないで、例えば悲しいなら悲しいって言えばいいじゃないかって。ただ、みんなが即座に理解しうる言葉、インスタントな表現で即座に理解してもらえたとて、そこに何の意味があるだろうか。であればわざわざ歌う必要はないのではないか。つまり言葉で表現することに対して、優河は出来るだけ誠実であろうとしている、ということなんだと思います。
 
夜というのは人々が思いふける時間帯ですよね。時には眠れない夜を過ごしたりもする。そこには簡単に言葉をあてはめられないものです。けれど我々は言葉を探そうとする。そう考えると『言葉のない夜に』というタイトルもなかなか深いものがありますね。

OOPARTS / 羊文学 感想レビュー

邦楽レビュー:

『our hope』(2022年) 羊文学

 

聴いて一番に思うことは塩塚モエカの声が力強くなったということ。いや、力強くなったというだけじゃないな。彼女はきっと語り部になったのだと思う。物語があって、そこに自分自身の喜怒哀楽は立ち入らせない。表現者としてまた一歩、前へ進んだのだと思う。

ではあるけれど、音楽というのはボーカルだけじゃない。彼女が歌わなくてもバンドが表現してくれることがある。その取捨選択が見事だなと思う。つまりバンドとしてもまた一つ、ステージが上がったということ。サブスク時代にあって歌以外の部分は飛ばされることが多いけど、こと羊文学の音楽の聴き手に関してはそんなことしないかもしれない。

リズム隊であったり、コーラスであったり。ボーカルであったり、ギターであったり、3ピースではあるけれどこれだけ音がまとまってガッと届いてくるバンドはそうはいない。いくら塩塚モエカの才能が素晴らしくとも彼女一人ではここまでの音楽にはならなかった。突出した塩塚モエカのバンドではなく、どこからどう見ても羊文学というバンドでしかないというのが清々しい。

その清々しさはやはり3人の曲に向かうアプローチから来るのだと思う。よい意味で淡々としているというか、勿論実際はそんなことはないのだろうけど、入れ込まなさ、というのが背後にあるのではないかと。メロディーありき言葉ありき曲ありき。そこにどうアプローチしていくかしかなくて、ああしてやろうとかこうしてやろうといった気負いがない。それは恐らく前作やコロナ禍であってもライブを続けてきたことの成果であり、曲に向かっていればよいのだという自信の表れなのかもしれない。#7『くだらない』での深刻でありながらも淡々とした疾走感と、だからこそのやるせなさはそれを端的に表している。

オープニングの『hopi』は暗い夜更けを朝へ向かってゆっくりと進む船になぞらえた曲。その後、何気ない日常を描いた#6『ラッキー』から宇宙規模の#10『OOPARTS』(この曲はイントロがThe1975を思わせるね)まで、様々な世界をめぐりつつ、けれど最後の#12『予感』では結局「おやすみ」としか言えないというのがたまらない。

OTODAMA’22~音泉魂~ 2022年5月5日 感想

ライブ・レビュー:
 
OTODAMA’22~音泉魂~ 2022年5月5日 感想
 
 
5月5日、7日、8日に大阪は泉大津フェニックスで開催される音楽フェス、音魂’22の初日に行ってきた。他の音楽フェス同様2年ぶりの開催だそうだが、僕が参加するのは今年が初めて。やってるのは知っていたし、なかなか素敵な出演者が揃っているなという印象もあったので、近場だし、なんなら自転車でもいけるのでそのうちにと思っていたが、今回はグレイプバインにくるり、そしてなにより羊文学が来るということで、これは行かねばと再開一発目の5/5(木)初日のチケットを購入した。
 
ステージは2か所で交互の演奏になる。演奏が終わると割とすぐにもう一つの場所で演奏が始まるので、続けて次のステージを前の方で観ようと思っても間に合わない。でもどこにいても演奏はしっかり聴こえるので特に問題はない。このどこにいてもすべての演奏を聴く事が出来るというのはこのフェスの利点やね。あと中央にシートエリアがあって、地べたに座るところとイスを置いて座るところが別々に区切られているのがよいです。もちろん飲食OKなので、皆ゴザを敷いてゆったりと鑑賞している。アルコールOKでしたけど、バカ騒ぎをしている人は皆無でとてもマナーのよい環境でした。
 
僕の一番のお目当ては羊文学。新しいアルバム『OOPARTS』も素晴らしかったもんね。久しぶりのフェスということで観る方もちょっと緊張していたと思うけど、華やかで茶目っ気たっぷりの羊文学がそれを吹き飛ばしてくれました。こういうキャラの人だったんだと(笑)。そんなことを知れるのもフェスのいいところです。
 
もちろん演奏も素晴らしかったです。とても3ピースとは思えない分厚いサウンドで、いわゆるシューゲイザーですけどギターの響きがとても心地よかったです。途中で気付いたんですけどベーシストはギターを弾いてましたね。ベースはコンピュータか袖で誰か弾いてたのかな。3ピースなのでその辺は臨機応変にということでしょうか。ボーカルも力強く安定していて、見た目は華奢ですけど、芯のある鍛えられた声ですね。新しいアルバムでも声が力強くなったなぁという印象を受けたのですが、生で聴いてそれを確認することが出来ました。険しい顔して結構ロックな歌い方が格好いいんですが、MCになるとほのぼのとしたキャラになるギャップ萌えも〇。
 
あと新しいアルバムが出たばっかりでそのことにも触れていたんですけど、そこからは1曲しかしないっていうのが計算なのか天然なのか(笑)。とにかく期待に違わぬ、というかそれ以上でますます好きになりました。
 
ただこの日、僕がガッツリ聴いた中で最高だったのはグレイプバインでした。もうめちゃくちゃかっこよかったです。特に昨年のアルバム『新しい果実』からの3曲が最高でしたけど、中でも『阿』は圧巻でしたね。田中和将の咆哮が辺りの空気を切り裂いていました。アルバムも良かったですけど、ライブだと尚のこと素晴らしかった。やっぱりこの人たちはライブの人なんですね。「今日みたいな天気に合わせて」と言って、随分と昔の『風待ち』も演奏してくれました。当時は僕もまだ20代でしたけど大好きな曲だったのでとても嬉しかったです。そうそう、ライブ中は喋らないという評判でしたけど、結構気さくに喋ってましたよ。関西人らしくもっちゃりと(笑)。
 
ところでライブ前のチューニング、本人たちがやってました。あまりに普通にごちょごちょやってたから、観客の方も歓声あげるタイミング逃したみたいな感じになっていました。え、あれ、本人ちゃうんって(笑)。
 
そしてグレイプバインの次がくるり。なんで立て続けやねん!前で観られへんやんか!と思っていたのは僕だけではなかったと思いますが、これは正解でしたね。あのグレイプバインのすぐあとは並みのバンドじゃキツイです(笑)。でゾロゾロとくるりのステージへ向かったのですが、こんなに人おったっけ?というぐらいの大観衆でした。流石くるり、すごい人気やね。
 
『上海蟹~』や『ばらの花』といった有名曲で始まり、田中和将より更にもっちゃりとした岸田繁の関西弁を挟みつつ、『すけべな女の子』で勢いつけてって感じでしたけど、最新アルバムの『天才の愛』からはひとつも演奏しなかったのが残念だったかな。くるりのハイライトは最後に演奏した『街』。僕は初めて聴きましたが調べてみると2000年の曲なんですね。『青すぎるそらを飛び交うミサイル』という歌詞があったり、最後に世界の都市名を連呼したりというところで、思うところがあってこの曲を選んだのだと思います。全身全霊を込めて歌う岸田繫の姿に心を打たれた人も多かったはず。僕もその一人でした。
 
5月初旬にしては暑かったですけど、夏に向けてよい肩慣らしとなりました。屋台はそんなに期待してなかったんですけど、結構充実してましたよ。すごい行列でしたけど(笑)。今度来るときは家から食べ物もって行ってもいいかもですね、真夏じゃないから痛まないし。あと会場全体が芝生ってのがいいですね。足にやさしい(笑)。暑さも軽減されるんじゃないでしょうか。こんな近場でこんなに素晴らしいフェスがあるなんて滅多にあることじゃないので、これからは毎年チェックしようかなと思っています。

Love All Serve All / 藤井風 感想レビュー

邦楽レビュー:
 

『Love All Serve All』(2022年) 藤井風

 

日産スタジアムでの無観客一人ライブがあったり、紅白歌合戦で特集を組まれたりと大飛躍の2021年となったわけだが、ここでアルバムとしても売れて、よい評価も得て、いよいよ邦楽シーンの顔になろうかという、言わば勝負のタイミングでリリースされた本作。

とにかく曲が抜群にいいです。複雑なメロディーだけどスムーズに進行して、印象的なサビで一気に持っていくっていう、最高にキャッチーなポップ・ソングです。あちこちで韻を踏む言葉選びの巧みさとかもそうですけど、この辺は考えて出来ることではないと思うので、初期衝動のなせる業というか、今は凄くいい状態で曲が出来ているのかなぁと想像します。キラー・フレーズも満載だし、一度聴いたら頭から離れないですね。
 
ただ、それでいいのか藤井風、というのが実はありまして、最初から最後までいい曲ばかりだし、聴いてて心地よいし、非常によくできたポップ・ソング集だとは思うのですが、そこからの広がりですよね。なんかこう期待してたのとちょっと違うなぁと。もっと個性的なのがグワッと来るのかなと思ってたんですけど、普通にええアルバムやんていう。
 
ピアノの前に座って、一人で歌ってるときは個性の塊でめちゃくちゃ格好いいんですけどあの他とは一線を画する突き抜けた個性がアルバムになるとなんか薄っすらしてるなぁと。そこは多分アレンジなんだと思うんですが、その90年代ぽい、久保田利伸っぽいアレンジがあまり魅力的なものになっていないような気はします。曲はいいしボーカルはいいし、そこにビタッとはまるサウンドがあれば最高なんだけどなぁと思ってるのは私だけでしょうか。既視感のあるシンセのフレーズはなんだかなぁ。。。
 
ただアレンジに関しては、最近は宇多田ヒカルの『BADモード』でも編曲に加わっていたA.G.クックと一緒になんか始めたみたいなので、フットワーク軽く今回はこれ、次はこれっていう風に決めつけはせずコロコロ変えていくタイプなのかもしれません。それはそれで面白いとは思いますが、今回のアルバムに関しては決め手に欠ける気がしました。
 
アルバムは凄く売れて、多分これから先もしばらくは売れ続けるとは思いますけど、万人に好かれるポップ・ソングを作る人ではなく、好きなことをめちゃくちゃやって、僕ら凡人の理解を超えていく作品を残してほしいなとは思います。藤井風っていいよねじゃなく、なんか分からんけど、すげぇっていう。やっぱ彼にはそっちを期待してしまいますね。いいアルバムだとは思うんですけど、あの圧倒的な存在感とかいい意味での異物感が薄まっちゃったかなぁというのが正直な感想です。

NIA / 中村佳穂 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『NIA』(2022年)中村佳穂
 
 
映画『竜とそばかすの姫』の主演に抜擢され、紅白歌合戦にまで出場した2021年。言わば勝負のタイミングでリリースされた『NIA』アルバム。一言で言うと、テンションたけぇ!初っ端からイケイケで現在の彼女の状態の良さ、クリエイティビティの高まりを存分に感じることが出来ます。が、ちょっとハイパー過ぎるかなという気はします。こっちがそのテンションに付いていけない(笑)。
 
その象徴がオープニングの#1『KAPO』で、いきなり「Hi My name is KAHO !」で始まります。つまりここでこのアルバムは中村佳穂本人にかなり近い形で進んでいくのだなと聴き手は了解します。これ実は凄い事だと思います。海外の音楽を聴いていると割と歌い手がそのまま歌詞に登場するってのがあるんですけど、日本でここまで宣言するのって聞いたことないです。
 
邦楽の場合はそこまで宣言しなくても、歌い手=歌の主体、なのかなと思わせる人が多いですけど、多分それは無自覚なんだと思います(笑)。自覚的なミュージシャンは恐らくそこは距離を取っている。作家は自身の喜怒哀楽を表現するのではなく、ストーリー・テラーなんだという自覚ですね。だからこそ聞き手は各々の物語として受け止めることが出来るのです。
 
中村佳穂はどうか。無自覚なわけないですよね(笑)。恐らく彼女は敢えて「Hi My name is KAHO !」と宣言している。それは何故か?彼女は多分今はそうしていかないとダメなんだという現実認識があるのだと思います。コロナで思うような活動が出来なかった特に若い人たち。彼彼女らをなんとかチア・アップしたい。誰かの物語として訴えるのではなく、直接私が皆の手を取って、さぁ行こうよって伝えたい。そんな心意気が「Hi My name is KAHO !」に繋がっているのだと私は想像します。
 
歌い手である「私」が前に出過ぎることは危険です。それはどこから見ても「私」の歌でしかないから。けれど中村佳穂は敢えてそうした。これはチャレンジなんだと思います。それにあの素晴らしい『AINOU』(2018年)アルバム。皆はあれの第2弾を期待した。僕もそうでした。でも彼女はアーティストなんですね。同じことをしてもつまらない。彼女は自分の感性に従って、今は何をすべきかを選択した。それが『NIA』アルバムなんだと思います。
 
音楽的に言えば、もっと落ち着いたサウンドに出来たでしょうし、ストーリー・テリングに徹することも出来たと思います。でも彼女はそれよりも大きな熱量、ちょっとばかり強引でも、シンドイ気持ちを抱えている人、生きづらさを感じている人に彼女自身が直接タッチできるような、直接声をかけられるような、そんなアルバムを作りたかった。「Hi My name is KAHO !」の後は「そこにいるって合図をしてよ」という言葉へ続くんですね。つまりそういう意思の働きがこのアルバムには流れているということではないでしょうか。
 
ただやっぱり余計なお世話かもしれませんが、心配事はありまして、2021年のメディアへの登場は少しぶっ飛んだ人というか、アート系の浮世離れした人みたいなイメージもありましたから、この『NIA』アルバムのテンションはそこに拍車をかけたかもしれないなって。実際はここで僕がずっと書いてきたように、聴き手に寄り添った歌い手ではあるんだけど、パッと聴きして、あぁこの人は私たちとは違うんだみたいに誤解されたら嫌だなって、いちファンとしては思っちゃいますね(笑)。
 
あと最後に一つ付け加えておくと、中村佳穂の声は微妙にビブラートしているのが特徴で、僕は2年ぐらい前だかにたまたまラジオでDJが中村佳穂本人にそのことを質問をしているところを聞いたんですけど、彼女自身は言われて初めて気がついたみたいだったんですね。でその時はナチュラルでビブラートしているんだなという話になった。でそんなことはすっかり忘れて今回の『NIA』アルバムを聴いていたのですが、表題曲『NIA』を聴いた時に思い出したんです。つまりこのアルバムでは『NIA』だけが微妙にビブラートしている。これが何を意味しているのかはわかりません。意図的なのか自然とそうなったのか。ただこのアルバムを聴いていてようやく11曲目の『NIA』になって初めて中村佳穂の声が微妙にビブラートしているのが聴こえてくる。これは何故か分からないですけど、胸に迫るものがありました。