Blood Moon/佐野元春 感想レビュー

『BLOOD MOON』(2015年)佐野元春

僕がこのアルバムを聴いて最初に思ったのは、バンド・サウンドだ。ついにコヨーテ・バンドのオリジナリティが開花したと思った。ハートランドとも違う、ホーボーキングとも違うコヨーテ・バンドならではのサウンド。今この時、2015年を生き抜くには強靭なグルーヴが必要だ。足元をすくわれぬよう、無意識のうちに導かれぬよう、自ら拠って立つ強靭なグルーヴが。

2007年の『コヨーテ』アルバムは‘荒地’がテーマだった。現代を荒地と捉え、その中でどうサバイブしてゆくか、ということが大きなテーマだった。佐野はこのアルバム・リリースにあたってのインタビューで「変容」という言葉を使っている。「変化=change」ではなく、「変容=transformation」。変化という生易しいものではなく、我々の住む世界そのものが形を変えてようとしていると。アルバム『コヨーテ』以来、バンドは原始的で重心の低いグルーヴを求めてきた。それは邪な風が吹いても優しい闇が訪れても、決して流されない為だったのか。そうして鍛え上げられてきたグルーヴに今回、いつもより硬質な言葉が乗せてられている。

それは政治的な言葉と言っていい。但し政治的と言っても特定の誰かを糾弾したり、批判したりというものではない。今ある世界にいる我々の生きてゆく様を大げさに言うでもなく、ありのまま物語ることだ。しかしそれはバンドと聴き手のイマジネーションへの揺るぎない信頼があって初めて可能になる。それさえあれば作家は思うままに言葉を乗せてゆくことができる。どう聞いても間違いようのない明確な言葉が躍動しているのはバンドに対する深い信頼と、当たり前のことではあるが良き聴き手がいて自分がいるという意識の表れだ。

今回のアルバムではいつになく、映像が鮮やかだ。全ての曲ではっきりと聴き手のイマジネーションに働きかけている。といっても実際の話という訳ではない。あくまでも架空の物語である。フィクションにどれだけリアリティを持ち込めるか。フィクションだからこそのリアリティ。これは優れたアートの大前提と言っていい。そしてフィクション故に様々な両義性が生まれる。

そう、このアルバムの特徴を一言で言うなら両義性だ。かつてないほどネガティブな言葉、硬質な言葉。そして象徴的なアルバム・ジャケット。しかしそのすべてが一方的に外に向けられたものではなく、こちらにも等しく返ってくるということ。ここにあるのはどちらかの立場で何かを述べたものではなく、どちらが正しいというものでもなく、今ある世界をあるがまま見ようとする態度である。#3『本当の彼女』での「彼女のこと 誰もわかっちゃいない」というのも、だからといってこちらが分かっているわけではないし、#4『バイ・ザ・シー』においても何もセレブな週末を描いているわけでもない。『優しい闇』での闇というのも外から迫りくるものという解釈がある一方で、自分の内に芽生えるものという解釈も見えてくる。#6『新世界の夜』や#9『誰かの神』などはもろに言葉がこちらに返ってくるし、#7『私の太陽』でも主人公は不公平な世界を「気にしない」と言うけれど、そことは無関係ではいられない自分を知っている。#10『キャビアとキャピタリズム』も市場原理主義の真っ只中にいる我々が「俺のキャビアとキャピタリズム」と叫ぶところに意味がある。

一見、外に向けたメッセージ色の濃いアルバムのように思える。しかしこのアルバムは自分以外の誰かや見えない何かを指さすものではない。「何も変わらない」、「気にしない」といった言葉の意味は?正義面して誰かを指弾することができるのか?今の自分の生活はどこに立脚しているのか?不公平な世の中の恩恵を受けているのは誰なのか?僕たちの生活は明日も保証されたものなのか?僕たちこそ糾弾されるかもしれない、坂を転げ落ちるかもしれない。そんないつどうなるとも限らない頼りない世の中で、僕たちはどう生きてゆけばいいのか、どう向き合ってゆけばいいのかということを投げかけてくる。だからこそこのアルバムは人々のイマジネーションに働きかけ、各々がはっきりと自分自身の物語として像を結ぶのである。

今はかつてないほど同時代性が重要だ。今この時代に何も言うことがない作家はどこにもいないだろう。これは今を生きるある作家からのメッセージだ。不特定多数へではなく、聴き手ひとりひとりへ。一方通行ではなく相互に作用しあうメッセージ。

但しそのメッセージは非常に言葉が強い。それを可能にしたのは間違いなくバンドだ。こうしたはっきりとした言葉が表に出過ぎてしまうと、きっとそれは聴くに堪えない。だがここにある言葉は浮つくこともなければ、逆に重すぎて沈み込んでしまうこともない。また殊更ネガティブになることもなければ、ポジティブになることもない。えぐい言葉が出てくる。だが聴き手を突き刺してくることはない。むしろこちらの態度に委ねられていると言っていい。ここで歌われている風景を見ているのは我々なのか。あるいは見られているのはこちら側なのか。バンドはただフラットな感情を呼び起こし、我々に踊ろうと言う。音楽というのは楽しむものだ。その本能に従っていけばいい。硬質な言葉が眉間にしわを寄せることなくダンスする。我々はビートに従ってゆくだけだ。ビートとは反抗。佐野は言う。「ロックンロール音楽はカウンターである」と。

 

1. 境界線
2. 紅い月
3. 本当の彼女
4. バイ・ザ・シー
5. 優しい闇
6. 新世界の夜
7. 私の太陽
8. いつかの君
9. 誰かの神
10. キャビアとキャピタリズム
11. 空港待合室
12. 東京スカイライン

Blood Moon/佐野元春 全曲レビュー

『BLOOD MOON』(2015)佐野元春 全曲レビュー

 

1. 境界線
アルバム全体に流れるネガティブな言葉。しかしそれらは全てここに総括される。Be Positive 。運命のせいにはできない。表題曲は次曲『紅い月』だけど、この曲がここにあることの意味を考えたい。ソウルフルに始まる出だしがいい。

2. 紅い月
ギターとドラムの不穏な響き。ここに安易な励ましや共感は無い。ただ、「ここで戦っているから」と唄うのみ。「夢は破れて 全ては壊れてしまった」という象徴的な歌詞に光を差し込ませるバンドの演奏が素晴らしい。「大事な君」というリフレインが心に響く。

3. 本当の彼女
彼女は彼女。誰が導いたわけでもない。彼女はある地点から旅立ち、そして今ある地点にいる。僕は彼女を世界で一番分かってる(と思う)けど、本当の彼女を知るのはやっぱり彼女だけ。マンドリンが優しげだ。

4. バイ・ザ・シー
主人公は世の中不公平だと呟く。世間はすぐに陥れようとするけれど、主人公は決して0にされない。。その理由が明らかになるのはブリッジ。ここで一気に羽を広げる様がいい。シビアな現実を歌うのは陽気なラテンのリズムだ。

5. 優しい闇
いつもと変わらず静かな生活を送る彼らに優しく狡猾な闇が忍び寄る。知らぬ間に奴らは奴らの思うユートピアへ連れてゆこうとする。でも約束の未来なんてどこにもない。何もかも変わってしまったあれからとは過去のあの時なのか?それとも今なのか?それらを振り切るロックンロールがいい。

6. 新世界の夜
何がいけないとか何が正しいとかではなく、今いる世界はそうやって動いているという現実認識。そしてそれは私たち自身にも投げかけられる。お前を形成するものは正義なのか、悪意なのか。勿論、そのどちらでもある。静かな熱を湛えたバンドの演奏とボーカルが素晴らしい。前半のハイライト。

7. 私の太陽
『新世界の夜』と対になるナンバー。だがここでは諦念というよりやるせなさが表立っている。それを表すかのうような荒々しいジャングル・ビート。途中はさまれるピアノ・ソロが素晴らしい。言葉数は少なく、むしろここは演奏が雄弁に語る。

8. いつかの君
幾つかの傷を負いながらもここまで何とかやってきたかつての少年少女に向けて、「確かな君はつぶされない」と歌う。そしてこれからも、邪な風が吹いてもしっかりグリップするために、「元いた場所に戻ってゆけばいい」。性急で力強いロック・ナンバーだ。

9. 誰かの神
誰だって人の役に立ちたいし、それが出来ればそりゃ嬉しい。でもそれって相手の望んだことなのか。そうした無形無数の自称救い主へ。特定の誰かを糾弾するわけでなく、投げた言葉がこっちに帰ってくる。辛辣で愉快な曲。

10. キャビアとキャピタリズム
全てのアートには生々しいポエトリーと肉体性を伴ったビートが必要だ。踊った末に現れるものこそ信じるに値する。「俺のキャビアとキャピタリズム」という強烈なパンチラインが全てを物語る。クラビネットのうねりがたまらない。

11. 空港待合室
色んなことがあって、色んな人に会ってここまで来た。時々上手くいったこともあったけど、随分怠けたりもした。時が経って景色が変わったのは、自分自身がもうあの時とは違うから。随分遠くまで来たようにも思うけど、今いるここも空港待合室にすぎない。

12. 東京スカイライン
少し背の高い高速道路をゆっくりとカーブしてゆくと眼下に街が広がる。そこに見えるのはこれまでの長い道のりや色んな人の色んなこんな。人々に、あるいは自分自身に何があってもなくても確かなことはただ一つ。今年も夏が過ぎてゆく。

Maniju/佐野元春 感想レビュー

『MANIJU(マニジュ)』(2017)佐野元春

 

佐野元春、17枚目のオリジナル・アルバム。コヨーテ・バンド体制になってからは、2007年の『Coyote』、2013年の『Zooey』、2015年の『Blood Moon』に続く4枚目のアルバム。前作でコヨーテ・バンドとしてひとつの完成形を見たわけだが、今回の『MANIJU』アルバムは新たなタームの第一歩、前3作と比べても感触はかなり異なる。

「曖昧なグラデーション/まばゆい光」(『白夜飛行』)。このアルバムで最初に出てくる言葉だ。今やなんでもかんでも‘どちらか’を迫る世の中。そこに冷や水を浴びせかけるようなこの言葉が僕は気に入った。分断と対立の時代などと言うが、音楽家が言いたいのはそういう類いものではない。目線はずっと向こうにある。ファンファーレのようなギター・ストロークに乗せて歌われるこのフレーズを聴いた瞬間、僕のイメージは広がを見せ、何故か一人嬉しくなっていた。

このアルバムを聴いて最初に思ったことは、言葉が先行しメロディが遠のいているなということ。どちらかと言えばリーディングに近く、Aメロ、Bメロ、サビ、というような一般的なメロディの図式とは異なっている。極端に言うと鼻歌がそのまま曲になったって感じ。最新のインタビューで佐野は最近の曲作りのフローについて、「先ず言葉をラップしてリズムを作る」と話している。最初に言葉があって、そこから歩くリズム、バイクに乗っている時のリズム、午後のひと時のリズム、恋人といる時のリズム、そんなような折々のリズムによってメロディが裏付けられている。随分と前から佐野は「言葉とメロディの継ぎ目のない関係」ということを強調しているが、それがもう当たり前というか体に馴染んでいて、曲を作るという意気込みからも離れている、日常の生活の一部として掃除をしたり買い物に出掛けたりといった事と同じ地続きで曲が出来る、そんな感じではないか。この肩肘の張らなさは僕が佐野の音楽を聴いて以来初めての感覚だ。まさに8曲目の『蒼い鳥』でいう「自由に歌う/想いのままに」って感じ。出来たよほら、っていう自由さがある。言葉をメロディへ如何に違和感なくフックさせるかという取り組みをデビュー以来ずっと続けてきた佐野が今行き着いた場所は、玄関で家族に「ちょっと行ってきます」と言う時のようなトーンで「喋るように歌う」ことなのかもしれない。

ということで今回の佐野元春は自由だ。言葉が前面にあって、あとはどっちだっていいって感覚。勿論どっちだっていいということはないだろうが、コヨーテ・バンド、好きにやっちゃってという感じで、もうこだわりが無いというか、メロディの決まり事もどうでもいいというか、~ぽくってもいいというか。聴いてると、あ、これビートルズだなとか、あ、ディランだなとか、マービン・ゲイだなとか、はたまたこれは大瀧詠一だなぁってのまであって、そういう事にも無頓着でいられるっていう。まるで、そういう自由さがいいんだよ、と言う佐野の声が聞こえてきそうな具合だ。それに今まではバンドに対して細かく指示を出していたと思うが、そういうのも止めたっていう自由さもあって、勿論そんなことはないのだろうけど、印象として佐野も含めたコヨーテ・バンド全体としての自由さが格段に上がっているような気はやっぱりする。

先ず言葉があって、そこから音楽化していくには勿論佐野のビジョンがあるのだろうが、割と成すがままに流れ着いたのではないか。で恐ろしいことにそれも織り込み済みというか、要するに実際「自由に歌う/想いのままに」という歌詞にもあるように、やはり「自由」というのが気分としてあったのではないだろうか。こんな世の中、しかし前回の『Blood Moon』アルバムのような硬質なメッセージを携えるのではなくて、佐野自身が自由に振る舞う中で見えてくるものに意味があるという。僕は最近、フランスのバンド、フェニックスの新しいアルバム『Ti Amo』に触れて、ヨーロッパの人たちのアティチュードについて改めて思ったこと(要するに、彼らは何が起きてもカフェで好きなようにお喋りをする自由を離さない、というようなこと)があったのだが、そこと割と繋がっているような気がして、つまりは我々の態度というか、何が根本にあるのかということをもう一度確認してみた、披露してみた、そして今はそのことがすごく大事になってきているのではないかという認識がどこかしらにあって、それが今回の自由な表現に繋がっていったのではないかと思う。そう考えると、アルバム中インタールードのような軽さで歌われる、「自由に歌う/想いのままに」という言葉は非常に重要なキーワードなのかもしれない。

詩について見ていくとこのアルバムでは「あの人」という言葉が頻繁に出てくる。この言葉も今回のキーワードだ。しかしここで佐野は「あの人」を特定していない。いや、佐野の中では「あの人」の明確なイメージがあるという人もいるだろう。けれど僕はそう思わない。佐野がここで言いたいのは、特定の誰かについてではなく、不穏な「あの人」の足音が聞こえているという事実のみなのだ。それでも僕たち聞き手に「あの人」にあるイメージを喚起させるのは、恐らく僕たち自身がその不穏な足音を感じているからに他ならない。ただ、その足音とは自分以外の誰かや何かだけだろうか。恐らく「ブルドーザーとシャベルを持って」(『悟りの涙』)やって来るのは自分と反対側にいる(と思っている)「あの人」のことだけではない。「ブルドーザーとシャベルを持って」押しつけていくのは自分自身でもあるという事実を僕たち自身が薄々感じているからこそ僕たちは「あの人」という言葉に反応してしまうのだ。間違っても物事ははっきりと分け隔てられるものではない。「あの人」とは誰の事なのか、どういう事象の事なのか、どういう態度の事なのか、僕たちは見極めねばならない。

一方で「あの人」とは対極にあると思われる言葉、アルバム・タイトル曲『MANIJU』で佐野が高らかに歌う「スタア」とは何なのか。簡単に言えば、自分以外の誰かである君と、物理的にも遠く離れた星のことである。けれどここで言う君や天空の星とはそうした自分とは近しい、或いは遠く離れた惑星の事だけではない。佐野ははっきりと言及している。それらは全て「おとといのココナッツミルク」(『MANIJU』)と同義であり、「愛は君の中」(『MANIJU』)にあると。この君とスタアはすなわち僕たち自身であると思う知覚。僕は君であり、君は天空の星であり、天空の星は僕で、君は僕であるという悟り。それは「心が通じない人もいるんだよ」(『落ちたスズラン』)という知覚とも通底する。僕たちはもう悟っている。全ては僕たちの中にあると。もしかしたらマニジュ(摩尼珠)というアルバム・タイトルにはこの東洋的な考えが背後にあったのかもしれない。

最初に出てくる「曖昧なグラデーション/まばゆい光」という言葉は、表題曲『MANIJU』の最後で「どこで生まれただとか/何を信じているだとか/隔てるものは見えないよ」という言葉に変換されて再び登場する。これはそれらは‘たかがそれしきのこと’という認識であると同時に、今さら指導者が言及しようと既に世界は一つであり、他人事ではなく僕たち自身もそこからは逃れられないという事実をも含んでいる。搾取される側がいてする側がいて、僕らの朝のコーヒーもそこからは逃れられないという事実を含んでいるのだ。その上で「曖昧なグラデーション/まばゆい光」と続ける作者の言葉は強い意思のメッセージとして受け止めていいのではないか。

このアルバムは演劇の手法が持ち込まれている。軽やかなオープニング、『白夜飛行』が歌詞とアレンジを変え、影を帯びた『夜間飛行』として後半に置かれているのもその一つだ。この2曲は対になっていると言う。しかし本当の対は、オープニング、『白夜飛行』と最後の曲、『MANIJU』がそれに当たるのではないか。生死の境目に立ったような『MANIJU』は、後半、まるで黄泉の国を渡るような不思議な描写が続く。その背後で微かに流れるギター・ストロークが僕には『白夜飛行』のそれと呼応しているような気がしてならない。

最後に。今回のアルバム・ジャケットは前作同様、ヒプノシスの流れを汲む英国のデザイン・チーム「StormStudios」の手によるものだ。カラフルな花びらに覆われた女性の横顔が少しノスタルジックで少しサイケデリックな色合いで映しだされている。女性の目からは涙がこぼれている。裏ジャケットに目を移すと、水の中にジャケットと同人物と思われる女性が横たわっているのが見える。それは僕にミレーの絵画、オフィーリアを思わせた。佐野がオフィーリアをイメージしたのかどうかは分からない。

 

Track List:
1. 白夜飛行
2. 現実は見た目とは違う
3. 天空バイク
4. 悟りの涙
5. 詩人を撃つな
6. 朽ちたスズラン
7. 新しい雨
8. 蒼い鳥
9. 純恋(すみれ)
10. 夜間飛行
11. 禅ビート
12. マニジュ

 

『MANIJU』 覚え書き③

『MANIJU』 覚え書き③

佐野は以前、TV番組『ソングライターズ』で言葉と音楽の関係を紐解いた。詩は紙面に書かれた言葉、朗読される言葉、音楽を伴う言葉、それぞれ響き方が違ってくる。ということはつまり、表現の仕方も変わってくるということ。『MANIJU』の言葉は間違いなく音楽が伴う言葉だ。音楽と共にあることが前提の言葉。言葉だけでは成立し得ない、言葉と韻律とメロディがあって初めて成立する言葉。

佐野は以前、「言葉とメロディの継ぎ目のない関係」ということをさかんに話していたが、『MANIJU』ではその域にかなり接近しつつあるのではないか。そんな気がしてきた。言葉とメロディがある、というのではなくて音楽がそこにあるという感覚。音楽が川を流れ、いかようにも形を変えていく。もうそんなイメージでしかない。

『MANIJU』 覚え書き②

『MANIJU』 覚え書き②

二度目に聴いて思ったこと。佐野さん自由(笑)。とにかく言葉が前面にあって、あとはどっちだっていいって感じ。勿論どっちだっていいってことはないだろうけど、コヨーテ・バンド、好きにやっちゃって、て感じ。もうこだわりが無いというか、メロディの決まり事もどうでもいいというか、別に何かに似ててもいいというか。

聴いてると、あ、これビートルズだなとか、あ、ディランだなあとか、マービン・ゲイだなあとか、はたまたこれは大瀧詠一だなあってのまであって、そういうのにもう無頓着でいられるっていう。そういう自由(笑)。それに今まではバンドに対して細かく指示を出していたと思うけど、そういうのも止めちゃったっていう自由(笑)。ま、想像だけどね。

先ず言葉があって、そっから音楽化していくには勿論佐野さんのビジョンがあるんだろうけど、割と成すがままに流れ着いたんじゃないかって印象を受けた。で恐ろしいことにそれも織り込み済みというか、要するに今回の隠しテーマはもしかして「自由」なんじゃないかと。こんな世の中、でも前回の『Blood Moon』アルバムみたいに硬質なメッセージを携えるんじゃなくて、佐野さん自身が自由に振る舞う中で見えてくるものに意味があるという。

僕はちょっと前にこのブログで、フランスのバンド、フェニックスの新しいアルバムに触れて、ヨーロッパの人たちのアティチュードについて書いたけど、そこと割と繋がってるような気がして。つまりはアーティストの態度というか、何が根本にあるのかということをもう一度確認してみた、披露してみた、佐野さんの視点は今そんなところにあるんじゃないかと。まだ二度しか聴いていないけど、そんなような印象を受けた。そういう意味でも今回のアルバムはなんか特異。こういう感じは今までになかったな。

今回はアルバム・リリースの知らせがあってからも僕の中であんまり盛り上がってこなくて、リード・トラックを聴いてもあまりピンと来ずに、まあとりあえずって感じ聴き始めたんだけど、さっき書いた理由とか諸々あって、今はじんわりと吸い寄せられている。こういうパターンは初めて。ちょっと面白い。

あとコヨーテ・バンドの印象も随分変わってきた。ホントもう自由に演奏しちゃってる。前回のアルバムがコヨーテ・バンドここに極まれりって感じで、一種の到達感みたいなのがあったんだけど、ここに来てもう完全にやらかしちゃってる。一旦組み上げたものを崩しにかかってる。形が無くて水のよう。そこに言葉を乗っけて漂っている感じ。

このバンドの最大の特徴は目的地に向かって最短距離で突き進むってところにあったんだけど、そこから離れていくとすれば、もうどうなってくんだ?この自由さはホーボー・キング・バンド的だぞ。それとも聴き込んでいくともっと印象は変わっていくのか。

『MANIJU』 覚え書き①

『MANIJU』 覚え書き①

昨日、佐野元春の新譜『MANIJU』が届いた。夜、早速聴いた。第一印象は、メロディが随分遠のいた。言葉が先行している気がする。どちらかと言えば、スポークン・ワーズに近いのかも。抑揚のないメロディに、今までとは少し違う言葉が乗っかっている。アルバム『COYOTE』から始まって、『ZOOEY』、『BLOOD MOON』は同じ世界の言葉で綴られていたように思う。けど今回はベクトルが違う方向を向いている。今はまだそこまで。聴き続けるに及んで、少しづつ見えてくるだろう。

佐野元春 in NY『not yet free〜何が俺たちを狂わせるのか〜』  感想レビュー

TVプログラム:

佐野元春 in NY
『not yet free ~何が俺たちを狂わせるのか~』  NHK-BSプレミアム 2017.5.28
 
 
2017年4月28日。ニューヨークにあるライブハウス「ポアソン・ルージュ」で、ミュージシャン、佐野元春がスポークン・ワーズのライブを行った。この番組はその舞台に立つまでを追ったドキュメンタリーだ。
 
スポークン・ワーズとは詩の朗読のこと。詩の朗読は一般的にはポエトリー・リーディングと呼ばれている。少し説明するとポエトリー・リーディングとは50年代に米国で起きた「ビート」と呼ばれるカウンター・カルチャーの主をなすもの。そして「ビート」とはあらゆる制約から離れた文学のムーヴメントのこと。アレン・ギンズバーグの『吠える』やジャック・ケルアックの『路上』などが有名だ。話し言葉で、思いつくまま、文体などは一切無視し、文学でもって反逆の狼煙を上げる。簡単に言うとそんなようなものか。ビートルズもストーンズもディランもその系譜と言っていい。余談ながら当時日本でも「ビート」の影響を受けた諏訪優や白石かずこといった詩人がポエトリー・リーディングを行っている。
 
佐野のスポークンワーズはこの流れを汲むものだが、ポエトリー・リーディングとは少し異なる。スポークンワーズとは詩の朗読にバックトラックを乗せたもの。要するに音楽付きのリーディングだ。あまり知られていないが佐野は通常の音楽活動とは別にこのスポークンワーズを80年代から行っている。
 
番組の中で佐野は言う。「音楽からそこに元から備わっている言葉を取り出すのが僕の仕事」だと。このことから佐野がいわゆる現代詩の詩人とは少しスタンスが異なるというのが窺える。あくまでも音楽ありき、ビートありきのポエトリー。ビートとは鼓動。生きる鼓動。すなわち書棚に飾られた言葉ではなく、移動する言葉ということだ。番組でも佐野は頻繁に街に出かける。街の名もないアーティストに声をかけ、地下鉄に乗り、ポエトリー・カフェへ向かう。言うまでもなく詩は路上に落ちている。

佐野が立ち寄ったポエトリー・カフェでは名もない詩人たちが夜ごと言葉を発している。壇上に立ち、マイクの前で吠える。ここでは詩は生活に根差したもの、日常のすぐ傍にあるものだ。欧米ではこうしたポエトリー・カフェが沢山ある。オレは言いたいこと言い、あいつも言いたいことを言う。少し口を滑らせただけですぐに袋叩きに合うどこかの国とは大違い。トランプが大統領になろうともこの営みは変わっていない。むしろ活発になっているようだ。

そういえば佐野は路上のアーティストの「社会が大きく変わる時にアーティストは何をすべきか」との問いにこう答えている。「ワードとビートで人々がまだ気づいていない事に言及する」と。佐野がよく口にする炭鉱のカナリアとはまさにこのことだ。大きなトピックが起きた時に反応することは誰にもできる。大事なのは何も起きていない時に如何に想像力を働かせるかということなのかもしれない。
 
東京でリハーサルをした後、NYで現地のミュージシャンと最終的な音を練り上げていく。ベース奏者はバキティ・クマロ。彼はかつてポール・サイモンにその才能を見いだされ、アフリカからやって来た。佐野とポール・サイモンとは旧知の仲。ポール・サイモン繋がりということか。ドラムスはそのバキティ・マクロの弟子の若いドラム奏者が担当する。しかしながらこのドラム奏者とは息が合わなかったようで、すぐバキティの別の弟子が現れた。この辺りのドキュメントは面白い。
 
佐野が今回ステージで披露するリストには『何が俺たちを狂わせるのか』と題されたポエトリーがある。変則的な4分の6拍子。今の時代の分断を表現しているのだそうだ。テクニカルな表現になるので、少し知的に過ぎるという懸念があったようだが、セッションを通じて彼らはそれを解消していく。番組の最後に流されるライブ映像をみると、それは見事に解消されていた。バイオリニストのギターのような破れたディスト―ションがゴキゲンなしらべを奏でていた。
 
佐野は今回のステージを日本語で朗読する。佐野は言う。「ポエトリーというのはユニバーシャルなもの。今回はそれを証明するいい機会。それに母国語に誇りを持っているし、日本語でパフォーマンスするのは楽しい。しかし言語が異なる人々にはヒント、取っ掛かりが必要なので今回は映像を用意した。」と。ここでも佐野はNY在住の若い日本人映像作家とセッションを繰り返す。そこに映るのは日本の街の景色と言葉だ。言葉と言っても詩の内容をそのまま英訳したいわゆる字幕ではない。キーワードとなる言葉だけを抽出し展開させる。日本の街の映像とキーワードとなる言葉、そして自身の日本語による朗読とバンドの演奏で観客の想像力をかき立てようというのだ。
 
本番当日、ステージに上がった佐野は軽い自己紹介とこの日披露するポエトリーについて言及した。今から披露するのはジャパニーズ・スポークンワーズ。「Style of ‘ZEN’」と。ここの観客にとって訳の分からない日本語とそれを取り囲む幾つものイメージを媒介にコミュニケーションを図る。言ってみればそれが佐野流の‘禅’のスタイル。そして佐野はかつての「ビート」世代と同じく、悪態を突く。毒にも薬にもならないクール・ジャパンとしてではなく、「ビート」の系譜に連なる街の詩人として。狡猾に素早く。そして、自分の属する文化でもって異文化の人々と接触を図る。自身の立場を明確にしながら。 
 
佐野はライブに向けて準備を進める一方、新しい詩を書きとめていた。セッションの合間を縫って、創作していたようだ。その作業は本番前日の夜も行われていた。佐野は言う。「やろう。インスピレーションがどこかへ行ってしまう前に。」。NYでの自身のドキュメントとして、その詩は『echo ~こだま~ 』と名付けられた。もしかしたらそれは現地で参加したアーティストたちの討論会で、あるアーティストが発した「我々はいつも過去から学び自分の中でエコーさせる」という言葉が導火線になったのかもしれない。

詩は隣近所から生まれる。街の詩人たちは優しさと反逆の精神で言葉を紡ぐ。子供たちに、大人たちに、老人たちに。街路や町内や農村や路地裏に落ちている言葉を丹念に拾い集め、自らの胴体に反響させる。それはこだま。過去から現在、現在から未来。それは決して誰にも途切れさせることのできない。誰にも規定させることはできない。

アーティストにとって一番問題なのは自由な表現を邪魔されること。今ほどその言葉が重くのしかかる時はないだろう。話が逆になってしまうが、番組の冒頭で佐野が記した言葉を最後にそのまま掲示したいと思う。どのような時代になっても「ビート」の系譜は続いていく。私もそうあることを願いたい。
 
 
   かつて50年代 米国にビートと呼ばれる文学者たちがいた
   彼らはあらゆる矛盾に反抗の矛先を向けていた
   企業とメディアに
   近代文明に
   キャピタリズムに
   そしてあらゆる差別と検閲に
 
   2017年の今
   それらはさらに複雑な様相をともなって
   不吉に現実を凌駕している
 
   今 僕らにできることがあるとしたら
   それは亡びに向けて反抗すること
   そして破滅から脱出を
   試みることではないだろうか
 
   僕は夢想する
   新しい思想と新しい行為を持った「旅」のかたちを
   僕は思想する

   忍耐と想像力を傍らに往く創造的な「旅」のかたちを

 

※2017.5.28放送 NHK-BSプレミアム 『Not Yet Free~何が俺たちを狂わせるのか~』より