Maniju/佐野元春 感想レビュー

『MANIJU(マニジュ)』(2017)佐野元春

 

佐野元春、17枚目のオリジナル・アルバム。コヨーテ・バンド体制になってからは、2007年の『Coyote』、2013年の『Zooey』、2015年の『Blood Moon』に続く4枚目のアルバム。前作でコヨーテ・バンドとしてひとつの完成形を見たわけだが、今回の『MANIJU』アルバムは新たなタームの第一歩、前3作と比べても感触はかなり異なる。

「曖昧なグラデーション/まばゆい光」(『白夜飛行』)。このアルバムで最初に出てくる言葉だ。今やなんでもかんでも‘どちらか’を迫る世の中。そこに冷や水を浴びせかけるようなこの言葉が僕は気に入った。分断と対立の時代などと言うが、音楽家が言いたいのはそういう類いものではない。目線はずっと向こうにある。ファンファーレのようなギター・ストロークに乗せて歌われるこのフレーズを聴いた瞬間、僕のイメージは広がを見せ、何故か一人嬉しくなっていた。

このアルバムを聴いて最初に思ったことは、言葉が先行しメロディが遠のいているなということ。どちらかと言えばリーディングに近く、Aメロ、Bメロ、サビ、というような一般的なメロディの図式とは異なっている。極端に言うと鼻歌がそのまま曲になったって感じ。最新のインタビューで佐野は最近の曲作りのフローについて、「先ず言葉をラップしてリズムを作る」と話している。最初に言葉があって、そこから歩くリズム、バイクに乗っている時のリズム、午後のひと時のリズム、恋人といる時のリズム、そんなような折々のリズムによってメロディが裏付けられている。随分と前から佐野は「言葉とメロディの継ぎ目のない関係」ということを強調しているが、それがもう当たり前というか体に馴染んでいて、曲を作るという意気込みからも離れている、日常の生活の一部として掃除をしたり買い物に出掛けたりといった事と同じ地続きで曲が出来る、そんな感じではないか。この肩肘の張らなさは僕が佐野の音楽を聴いて以来初めての感覚だ。まさに8曲目の『蒼い鳥』でいう「自由に歌う/想いのままに」って感じ。出来たよほら、っていう自由さがある。言葉をメロディへ如何に違和感なくフックさせるかという取り組みをデビュー以来ずっと続けてきた佐野が今行き着いた場所は、玄関で家族に「ちょっと行ってきます」と言う時のようなトーンで「喋るように歌う」ことなのかもしれない。

ということで今回の佐野元春は自由だ。言葉が前面にあって、あとはどっちだっていいって感覚。勿論どっちだっていいということはないだろうが、コヨーテ・バンド、好きにやっちゃってという感じで、もうこだわりが無いというか、メロディの決まり事もどうでもいいというか、~ぽくってもいいというか。聴いてると、あ、これビートルズだなとか、あ、ディランだなとか、マービン・ゲイだなとか、はたまたこれは大瀧詠一だなぁってのまであって、そういう事にも無頓着でいられるっていう。まるで、そういう自由さがいいんだよ、と言う佐野の声が聞こえてきそうな具合だ。それに今まではバンドに対して細かく指示を出していたと思うが、そういうのも止めたっていう自由さもあって、勿論そんなことはないのだろうけど、印象として佐野も含めたコヨーテ・バンド全体としての自由さが格段に上がっているような気はやっぱりする。

先ず言葉があって、そこから音楽化していくには勿論佐野のビジョンがあるのだろうが、割と成すがままに流れ着いたのではないか。で恐ろしいことにそれも織り込み済みというか、要するに実際「自由に歌う/想いのままに」という歌詞にもあるように、やはり「自由」というのが気分としてあったのではないだろうか。こんな世の中、しかし前回の『Blood Moon』アルバムのような硬質なメッセージを携えるのではなくて、佐野自身が自由に振る舞う中で見えてくるものに意味があるという。僕は最近、フランスのバンド、フェニックスの新しいアルバム『Ti Amo』に触れて、ヨーロッパの人たちのアティチュードについて改めて思ったこと(要するに、彼らは何が起きてもカフェで好きなようにお喋りをする自由を離さない、というようなこと)があったのだが、そこと割と繋がっているような気がして、つまりは我々の態度というか、何が根本にあるのかということをもう一度確認してみた、披露してみた、そして今はそのことがすごく大事になってきているのではないかという認識がどこかしらにあって、それが今回の自由な表現に繋がっていったのではないかと思う。そう考えると、アルバム中インタールードのような軽さで歌われる、「自由に歌う/想いのままに」という言葉は非常に重要なキーワードなのかもしれない。

詩について見ていくとこのアルバムでは「あの人」という言葉が頻繁に出てくる。この言葉も今回のキーワードだ。しかしここで佐野は「あの人」を特定していない。いや、佐野の中では「あの人」の明確なイメージがあるという人もいるだろう。けれど僕はそう思わない。佐野がここで言いたいのは、特定の誰かについてではなく、不穏な「あの人」の足音が聞こえているという事実のみなのだ。それでも僕たち聞き手に「あの人」にあるイメージを喚起させるのは、恐らく僕たち自身がその不穏な足音を感じているからに他ならない。ただ、その足音とは自分以外の誰かや何かだけだろうか。恐らく「ブルドーザーとシャベルを持って」(『悟りの涙』)やって来るのは自分と反対側にいる(と思っている)「あの人」のことだけではない。「ブルドーザーとシャベルを持って」押しつけていくのは自分自身でもあるという事実を僕たち自身が薄々感じているからこそ僕たちは「あの人」という言葉に反応してしまうのだ。間違っても物事ははっきりと分け隔てられるものではない。「あの人」とは誰の事なのか、どういう事象の事なのか、どういう態度の事なのか、僕たちは見極めねばならない。

一方で「あの人」とは対極にあると思われる言葉、アルバム・タイトル曲『MANIJU』で佐野が高らかに歌う「スタア」とは何なのか。簡単に言えば、自分以外の誰かである君と、物理的にも遠く離れた星のことである。けれどここで言う君や天空の星とはそうした自分とは近しい、或いは遠く離れた惑星の事だけではない。佐野ははっきりと言及している。それらは全て「おとといのココナッツミルク」(『MANIJU』)と同義であり、「愛は君の中」(『MANIJU』)にあると。この君とスタアはすなわち僕たち自身であると思う知覚。僕は君であり、君は天空の星であり、天空の星は僕で、君は僕であるという悟り。それは「心が通じない人もいるんだよ」(『落ちたスズラン』)という知覚とも通底する。僕たちはもう悟っている。全ては僕たちの中にあると。もしかしたらマニジュ(摩尼珠)というアルバム・タイトルにはこの東洋的な考えが背後にあったのかもしれない。

最初に出てくる「曖昧なグラデーション/まばゆい光」という言葉は、表題曲『MANIJU』の最後で「どこで生まれただとか/何を信じているだとか/隔てるものは見えないよ」という言葉に変換されて再び登場する。これはそれらは‘たかがそれしきのこと’という認識であると同時に、今さら指導者が言及しようと既に世界は一つであり、他人事ではなく僕たち自身もそこからは逃れられないという事実をも含んでいる。搾取される側がいてする側がいて、僕らの朝のコーヒーもそこからは逃れられないという事実を含んでいるのだ。その上で「曖昧なグラデーション/まばゆい光」と続ける作者の言葉は強い意思のメッセージとして受け止めていいのではないか。

このアルバムは演劇の手法が持ち込まれている。軽やかなオープニング、『白夜飛行』が歌詞とアレンジを変え、影を帯びた『夜間飛行』として後半に置かれているのもその一つだ。この2曲は対になっていると言う。しかし本当の対は、オープニング、『白夜飛行』と最後の曲、『MANIJU』がそれに当たるのではないか。生死の境目に立ったような『MANIJU』は、後半、まるで黄泉の国を渡るような不思議な描写が続く。その背後で微かに流れるギター・ストロークが僕には『白夜飛行』のそれと呼応しているような気がしてならない。

最後に。今回のアルバム・ジャケットは前作同様、ヒプノシスの流れを汲む英国のデザイン・チーム「StormStudios」の手によるものだ。カラフルな花びらに覆われた女性の横顔が少しノスタルジックで少しサイケデリックな色合いで映しだされている。女性の目からは涙がこぼれている。裏ジャケットに目を移すと、水の中にジャケットと同人物と思われる女性が横たわっているのが見える。それは僕にミレーの絵画、オフィーリアを思わせた。佐野がオフィーリアをイメージしたのかどうかは分からない。

 

Track List:
1. 白夜飛行
2. 現実は見た目とは違う
3. 天空バイク
4. 悟りの涙
5. 詩人を撃つな
6. 朽ちたスズラン
7. 新しい雨
8. 蒼い鳥
9. 純恋(すみれ)
10. 夜間飛行
11. 禅ビート
12. マニジュ

 

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