『風立ちぬ』(2013年) 感想その2

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『風立ちぬ』(2013年) 感想その2

 

映画『風立ちぬ』を見て今思うのは、やっぱりあれは菜穂子の物語だなと。二郎は子どもの頃から飛行機が好きでその道へ没頭しますが、栓なきことを言えばそれだけのことなんです。自分のもっとも良い時期に生涯の仕事をやり遂げた。それだけなんです。

じゃあお前はどうなんだと問われれば随分と心許ない。どころか二郎に比べちっぽけなことも成し遂げていない。そういう意味で言えば失礼ながら僕だけではない。世のほとんどの人がそうだと思います。

であるならば。二郎の生涯、と言ってもまだ壮年には程遠いですが、僕たちの人生とは少しかけ離れた世界とも言えるのかもしれません。にも関わらず宮崎駿監督はそうしたある種特殊なひとりのエンジニアの半生を描いた。なぜか?そこには菜穂子の存在があったから。それしかないように僕は思います。

この物語をもう少し知りたいと思って、原作のひとつにもなった堀辰雄の小説『風立ちぬ』を読みました。原作と言うより着想を得た、と言ってよい繋がりだとは思いますが、そこで得た僕の感想はやはり、主人公の男は頼んない。

頼んないというのは物語の主人公としてという意味ですが、この物語の主人公は余命幾ばくもない女性とのサナトリウムでの交感、その言葉にならぬ、例えば夏草の先にしずくのように命が少しずつ溜まっていくような描写、そんな物語だと思うのですが、それに比較して主人公の男のつまらなさ。いや、二郎は優しくていい男ではあるんてすが、そうではなくこれは自分も含めた男のつまらなさなんだと思うのですが、突き詰めて言えば映画『風立ちぬ』での二郎もそれに似たような、彼は彼の人生をもしかしたら主体的に生きてきたというのとは少し違うのかもしれないと。

というところとの比較。菜穂子は完全に主体的であったわけですから、だからこの映画の二郎の半生というのは極端に言えばバックグラウンドに過ぎない。より重要なのは『風立ちぬ』というタイトルになっていますけど、そういう生涯の仕事をした、というはっきりと目に捕まえられるような代物ではなく、もう少しぼんやりとした抽象的なものが主題だったような気がして、その主題にもっとも近づいたのは菜穂子の方だったのではないかと。勿論二人の交感というところではあるけれど、それもより菜穂子の側にその働きかけはあった、というところが僕がこの映画はやっぱり菜穂子だよなぁと思うところではあります。

『風立ちぬ』(2013年) 感想その1

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『風立ちぬ』(2013年) 感想その1

 「風立ちぬ」を観た
 これは菜穂子の物語
 あの子の命はひこうき雲
 一粒。泣いた

これ、2015年に初めて『風立ちぬ』を見たときに書いた僕の詩です。下手な詩ですね(笑)。失礼しました。

一編の詩を読むような、詩集を開くとそこに匿われた物語が一気に吹き出し、詩集を閉じるとすべてが元に吸い込まれていく。あれは夢か幻か、いや現実だったのだと。そのようなじんわりとした余韻を残す映画でした。

映画は詩で始まり、詩で終わります。始まりはポール・ヴァレリーの詩の一節、「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」(「風立ちぬ いざ生きめやも」堀辰雄訳)ですね。風が立ったのなら生きねばならぬ、ということでしょうか。

では風が立たなかったら。当然風が立たなくても人は生きねばなりません。風が立つ、立たないは別にして生きねばならぬのがつらいところではありますが、案外気がつかないだけですべての人に風は立っているのかもしれません。

明確に風が立った二郎。カプローニさんに導かれて我が道を進みます。一方で菜穂子はどうか。僕は菜穂子にも風は立ったのだと思います。というかむしろそこに心を掴まれた。

映画は荒井由実『ひこうき雲』で終わります。そうですね。歌の途中からはエンドロールに入りますが、映画はこの歌も含まれる、この歌でもって完結する、そんな気がします。

宮崎駿作品には「女=守られるもの」、「男=守るもの」という構図があるような気がしますが(とか言いながら僕はラピュタがめっちゃ好き。ま、所詮男ですから)、この映画での菜穂子はそこを凌駕しているような気がするのですが果たしてどうでしょうか。女性からはどう見えたのかな、というところです。

ところで、『風立ちぬ』、これまでと比してもとりわけ絵が素晴らしかったと思いませんか。この点で言えば宮崎駿作品の最高傑作ではないでしょうか。風景の動き、人の動作、角度、それに伴う周りの変化。そうですね、飛行機の上を歩く二郎とカプローニの足元がへこむところ、最高でした。人の動きを見ているだけでもうっとりしますね。僕が好きななところは眼鏡の中の目と実際の目がそれぞれ別に描かれていた二郎の横顔。同じくド近眼の人間として感動しました。

多分いつも以上に絵に力を込めていたような気はします。台詞ではなく風景で、絵でやり過ごす、というケースが非常に多かったように思いました。この映画は詩で始まり詩で終わると言いましたが、そういう絵で見せるという部分も僕にそう思わせたのかもしれません。つまりここは意図的かと。詩というのは言葉ではなく風景なのかもしれません。

「カセットテープ・ダイアリーズ」感想レビュー

 

フイルム・レビュー:

「カセットテープ・ダイアリーズ」(2020年)感想レビュー

 

「カセットテープ・ダイアリーズ」を観ました。先ずは久しぶりの映画館、僕は平日の朝イチの回を見に行きまして、予想通り人はまばら、ていうかほぼ空席でした(笑)。ま、この時期ですから、みんな外に出るのを控えてるんだと思います。とはいえ映画館ではマスクをして大人しくしているわけですから、朝晩の通勤電車に比べればよほど安全ではないかなと(笑)。なんにしてもやっぱり映画館で観るのはいいですね。しかも僕にとっても特別な人、ブルース・スプリングスティーンを題材にした映画ですから尚のこと素晴らしい時間となりました。ありがたや、ありがたや。

映画の主人公ジャビドと同じく多感な頃にブルースの音楽に出会った身としては、もう涙腺緩みっぱなしでした。ブルースのあの声とE ストリート・バンドの演奏と、そしてジャビドを奮い立たせるかのように視覚化されたリリック、僕は40後半ですけど、もう年齢は関係ないです。よい音楽というのは時代を越えてしまうものなのです。

そしてこのことは僕にとっても新しい発見でした。ブルースの歌は今の僕にとっても有効であると。あの頃心を震わせた音楽というのは単なるノスタルジーではなく現在進行形でもあるのだということ。やっぱりブルース・スプリングスティーンの歌は成長の歌なんですね。

と随分映画の本題からは離れてしまいましたが、ジャビドはブルースの音楽を聴いて音楽がただの音楽ではなくなります。印象的なシーンはカセットテープをセットするところ。ジャビドはポータブル・テープレコーダー(ウォークマンって言っていいのかな)をベルトの腰の辺りに装着していて、真正面のバックルの位置ではないのですけど、そこにカセットテープをガシャっと押し込むんですね。すると気持ちに変化が起きる。ブルースの歌の力が装填されるんです。言ってみれば変身ベルトです。てことで仮面ライダー(笑)。ほら、平成ライダーはベルトにUSBとかカプセルとか差し込みますからね、僕はまさにあれを思い出しました。

そうやって、ジャビドはブルースの力を借りて変身をする。だから映画の序盤から中盤にかけてはジャビドがカセットを装填するシーンが沢山出てきます。好きな子に告白する時なんかまさにそう。ブルースの言葉を借りて力に変えていくのです。

それが中盤から最後にかけては少し様子が違ってきます。徐々にジャビド自身に変化が起きてくるのです。それがはっきりと分かるのはスピーチのシーン。ここに至ってはもうブルースのカセットを装填する必要はないんですね。ジャビドはブルースの言葉を借りることなくジャビド自身の言葉で話します。彼は単なる憧れからブルースをきっかけに自分を変えていくんです。翻って僕はどうだろうか。単なる憧れで終えてしまってないだろうか。やっぱり好きなら尚のこと憧れで終わりたくない。そんなことを思いました。ジャビドを見て大事なことを学べたような気がします。

この映画にはジャビド以外にも魅力的な人物が沢山登場します。ジャビドの家族、お父さんだけではなくお母さんや姉妹たちとのエピソードも心に残ります。ガールフレンドや学校の先生、カッコいいですよね。そんな中、特に印象的だったのはジャビドの親友、マットとループスです。

映画はジャビドとマットの子供時代から始まるんですね。小高い丘で二人は永遠の友情を誓います。そうですね、映画では激しいレイシズムもそこかしこに描かれています。パキスタン移民であるジャビドたちは随分とつらい目に合う。けれどマットはそんなことは気にしない。すごくシンプルにジャビドは友達なんです。で途中、ジャビドとマットが仲違いをする場面がある。けれどここで原因を作るのはジャビドの方だし、最後の方で夢に向かって順調に歩み出すジャビドに対し嫉妬とか距離を置くとかもなく、子供時代と変わらずずっとマットは同じトーンなんですね。なんかマット、素敵だなって思いました。あと関係ないけどマット、ピート・ドハーティにそっくりや(笑)。

そしてループス。ジャビドと同じパキスタン移民の彼がジャビドにブルースの存在を教えることになります。だからループスはジャビドにとって運命の人でもあるわけですが、例えば僕も十代の多感な頃にブルース・スプリングスティーンを知りました。それは雑誌だったんですけど、その文面というか紙面は今でもちゃんと覚えています。レンタルCD屋でブルースのCDを探している時のことも。大切な何かを知ったとき、出会ったとき、そこには必ずきっかけがあると思います。だからループスというのはそのメタファーというか、自分と大切な何かを結びつけた象徴でもあるわけです。

いつも変わらない非常にリアルな存在のマットと、放送室に忍び込んだり街中で一緒に歌い踊るファンタジーなループス、もちろんエンドロールに登場したようにループスも実在の人物なのですが、イメージとしてはユージュアルなマットとアンユージュアルなループスという対極にある人間関係がジャビドには存在したというのも大きな要素であったような気はします。

そして最後の場面。ジャビドが助手席に父親を乗せて旅立ちます。ここでかかるのが「Born To Run」。始めに言ったように僕はブルースの曲が流れると条件反射的にウルウルしちゃったんですけど、ここではそうはならなかったんですね。すごく清々しい気分で「Born To Run」を聴けた。それはブルースの映画だということで幾分興奮していた僕が劇中のジャビドと同じように曲に対して、ブルースに対してちゃんと距離が取れていったということだと思います。そしてジャビドと父親の乗る車が俯瞰で描かれます。ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードですよね。そして丘の上の見知らぬ少年のカットになる。ここですよね、バトンが繋がっていくという。

最初にも言いましたが、この映画で描かれるブルース・スプリングスティーンの音楽は単なるノスタルジーではないんですね。ここはすごく大事なところ、グリンダ・チャーダ監督の思いなんだとを思います。いろいろな出来事があってジャビドは旅立つ。ジャビドには過去があって今があって未だ見ぬ未来がある。そして丘の上に立つ少年もまたそうなんだと。更にはそれだけではない。助手席に座る父親だってそして映画を観ている僕たちにも過去があって今があって未来がある。この場面から僕はそんなメッセージを受け取ったような気がしました。

ジャビドが特別な経験をしたのは音楽でしたけど似たような経験、誰しもあると思います。音楽でなくても文学であったり映画であったり。そうではなく実際の人との出会いがそうだったかもしれないし、具体的な何かの体験がそうだったかもしれない。人にはきっと多かれ少なかれそうした経験があるのだと思います。

でも時が経ち、あの気付きは、あれは若気の至り、勘違いだったのかもしれないと思うときがある。あれは目が眩んだ戯言だったんだと。でもきっとそうじゃないんです。若気の至りだろうとなんだろうとそう感じたのは紛れもない事実で、それは今も心のどこかにちゃんと残っている、今の自分を形作っている大切な要素なんです。そのことをも思い出させてくれた。僕にはそんな映画でもありました。

最後にもうひとつ。グリンダ・チャーダ監督のユーモア、素敵ですよね。僕も沢山笑いました。マットのお父さんとか、ブルースの曲をバックに踊るマイケル・ジャクソン男とかめちゃくちゃ面白かったー!

映画『君の名前で僕を呼んで』(2017年) 感想

フイルム・レビュー:

「君の名前で僕を呼んで」 (2017年 イタリア、フランス、ブラジル、アメリカ合作)

フィクションに如何にリアリティーをもたらすかがアートの大前提だとすれば、この映画は正しくアートだということ。そしてそれは美しさでもって語られる。

もしかしたらイタリア語フランス語英語を話し、ピアノを弾き自ら編曲をし、アントニア・ポッツィの詩集を友達に手渡すような早熟すぎる17才なんていないだとか、あんなに進歩的で物分かりのよい両親はいないだとか、二人がイケメン過ぎるだとか、悪い人どころか嫌な雰囲気の人すら登場しないだとか、要するにこの映画はとにかく非現実だと興ざめしてしまっている人もいるかもしれないが、誤解を恐れずに言えばあまりにも非現実的だからこそ、あまりにも美しいからこそこの物語は僕のような古い人間にも届いたのだと思う。

雑誌の批評を読んでこの映画に興味を持ち、男と男の恋愛がどういう風に進んでいくのかという下品な覗き趣味とプラトニックな美しさに期待をして僕はこの映画を見始めたのだが、それはすぐに間違いであることに気づいた。冒頭すぐに登場したオリヴァーはどう考えてもそんな生易しい存在ではなかったから。

僕は自分ではいわゆるLGBTQ的なことには理解がある方だと思っていたけど、実際、生々しい描写のあるこの映画をみていると、特にそういうまぐわいには目をどこにもって行けばよいのか分からなくなるしさすがに構えてしまうところはある。でも男と男というところに囚われなければそういうものではなかったかと。

ここまで劇的なことは誰もが経験することではないけど、自分も振り返り性的な衝動も含め人を好きになるということは心穏やかではいられないことで、つまり男と男であってもそれは同じだし、女と女だって多分同じ。どうってことないことこかもしれないけど、そういうことをゆっくりと時間をかけて染み込ませてくれた。僕にとってはそういう映画でした。

美しい映像共にゆっくりと理解するということ。身構えてしまうまぐわいもあの美しい夏の景色の連続した短いカットも控えめで回りくどいセリフも全ては僕たちに共通のもの。あぁほんとに水浴びのシーンはどれも素敵だった。

そして映画のタイトル。物凄く心引かれるタイトルですけど、これは心と体が結ばれたエリオとオリヴァーが交わした二人だけの秘密の言葉です。オリヴァーはエリオに「オリヴァー」と呼び掛け、エリオはオリヴァーに「エリオ」と呼び掛ける。映画の最後の方でお父さんが語った大切な言葉にも含まれているような気もしますけど、言ってみれば若い二人にとっての愛のおまじない、魔法の言葉ですよね。

かのゲーテは「人生でいちばん美しい時間は誰にも分からない二人だけの言葉で誰も分からない二人だけの秘密をともに語り合っているとき」と言いましたけど、まさにそんな感じでした。

最後のお父さんの話とその後の雪景色。これで終わりかなと思いきや冬の出で立ちのエリオが登場し、まさかのオリヴァーからの電話。ここでエリオは受話器越しにふたたび唱えます、「エリオ、エリオ、エリオ…」と。しかしここでのおまじないはもう風前の灯火。それでもエリオは嘆願するように「エリオ、エリオ、エリオ…」と唱える。

そして両親とオリヴァーの会話があって、暖炉の前にしゃがみこむエリオ。ここでのエリオの表情はそこに重なる音楽も含め本当に素晴らしかった!!

最後、ある人の何気ない呼び掛けで「エリオ」がただの人名、ただの固有名詞として終わるというのもこれ以上ない終わり方でしたね。

映画『未来のミライ』(2018年) 感想

フィルム・レビュー:

未来のミライ (2018) 感想

 

自粛生活だからというわけではありませんが、『未来のミライ』を家族で見ることになりまして。で子どもたちがいちいち笑うんですよ、パパみたいって(笑)。オレ、そんなにくんちゃんのお父さんみたいに奥さんに尻に敷かれてんのかなぁと思ったりもするんですけど、間近で見てきた子どもたちがゲラゲラ笑うんだらきっとそうなんでしょう。僕も自分を見るようでちょっと恥ずかしい部分はありましたから(笑)。

ま、くんちゃんのお父さんもそうですけど、成長の物語ですよね。お母さんもばあばもひいじいじもゆっこもミライちゃんもくんちゃんも、ぜ~んぶ現在進行形でずっと生きてきた、或いは生きている。昔があって今があって多分未来がある。自分の人生だけじゃなく自分の存在も含め、点ではなく線なんだぞと。でもそういう気づきってちょっと元気湧いてきますよね。

それはごく当たり前の日常もしかり。ほら、電車乗って外見てたら色んな家があってマンションがあって。あぁ、あのマンションの灯りひとつひとつに人住んでいてそれぞれに悩みがあって心配事があって幸せがあって、ほんでもってちょっとしたドラマがあって。そんなこと思ったことありますよね?多分、そういう映画なんだと思います。

やっぱ細田守監督だから、「いっけぇぇぇーっ!!」みたいなカタルシスを求めちゃうところはあって、僕も最初は正直物足りなかったんですけど、あぁこの映画はそうじゃないなって。最初にワン・シチュエーション・コメディみたいなのがずっと続いていくことで見ている方の心の準備が、あぁそうじゃないなこの映画はって気づくんですけど、最初の限られた部屋での数シーンは多分そういう意図があっての演出だったのかもしれないですね。

物語は後半に入ると時代があっちこっち変わったりするんですけど、印象的なのはひいじいじのエピソードですね。この時のくんちゃんが男の子感が増してたのが良かったです。

で、ひいじいじがくんちゃんに言うんですね、「遠くを見ろ」って。凄く印象的に交わされるセリフですけど、この言葉がこの映画の一番深いところに流れるテーマだったのかもしれないなと思いました。

僕は子どもの時、自転車乗ってると壁とか木に結構ぶつかる子だったんです。あれは壁にぶつかると思ってそっち見ちゃうからぶつかるんであって、大丈夫な方、道の方を見れば自然と自転車は
ぶつかる方をそれていくんですね。だからやっぱ「遠くを見ろ」ってことなんです。

とかく夢見てないで足元を見ろって言われがちですけど、それも確かにそうなんですが、やっぱり視線は前向いて、自分の進みたい方向を見る。そうすると自ずとそっちへ向かっていくもんなんだと。綺麗事かもしれないですけど事実そういう部分はあるんだと思います。

今は世の中こういう状況ですから、そこと繋げて見てしまう部分はあるんですけど、やっぱり今だけを見てるとしんどいじゃないですか。そうじゃなく遠くを見る、未来であったり遠い昔であったり、点ではなく線を意識する。そうすることで少しはポジティブになれるのかもしれないですね。

手探りだから遠くを見るしかない。それは未来だけじゃなく時には過去の事だったり。それに僕たちの未来は唐突にやって来るのではなく、今と繋がっているし、勿論これまでとも繋がっている。

そういうテーマが割りと明確に僕には立ち上がってきました。映画見てそんな風にはっきりとしたイメージで捉えることはあんまりないんですけど、『未来のミライ』に関しては凄く明確に伝わってきました。