ロック・イン・ジャパン・フェスの中止に思うこと

その他雑感:
 
 
ロック・イン・ジャパン・フェスが中止となった。この夏はオリンピックだけを見ておけということだろうか。
 
開催1か月前に茨木県医師会からフェス主催者へ延期にするなり、開催するにしても更なる防止策を施すよう求めた。主催者側はこの1年、フェスを復活させるべくテストを実施。自治体とも協議を重ねながら、今回のフェスもステージを7つから1つに減らしたり観客数を通常の半分以下に減らすなど、会場への導線も含めて様々な対策を取ってきた。しかし医師会が求めるのは更なる対策。つまり観客の会場外での行動も管理せよ、というものだった。そんなこと出来るはずもない。要するに医師会の見解は「やめろ」ということ。開催1ヵ月前にこんな踏み絵とは。
 
医師会はフェスというものは若者がただ騒ぎたいだけと思っているのではないか。違う。世の中には音楽がないと生きてゆけない人が大勢いるのだ。つらいこと、苦しいこと、年に数えるほどの音楽フェスを心の拠りどころにして頑張って生きている人たちは沢山いるのだ。何故そのことが医者である彼らに分からないのか。
 
僕は昨年末にコロナ禍で開催されたライブに行った。行くことを随分迷ったが、行ってよかったと今は思う。そこでは演者だけでなく観客までもが新しい形のコンサートを作ろうと主体的に行動し前を向いていた。何故か。僕らは音楽を愛しているからだ。こんなつまらないことでライブを失いたくないからだ。
 
三度の飯よりオリンピックが好きという人もいるだろう。でもオリンピックが始まろうが何しようが寄席に行きたい人は寄席へ行くし、美術館へ行きたい人は美術館へ行くし、おれは見るよりやる方が好きなんだとフットサルへ出かける人もいるし、オリンピックなど少し見ずにいつもどおりソロキャンプへ行く人もいる。すべては同じ地平にあるのだ。そしてその選択は絶対に強要されてはならない、制限されてはならない。
 
医療従事者の皆さんには本当に頭が下がる思いだし、感謝の気持ちでいっぱいだけど、それとこれとは別の話。何故この勧告が1ヶ月前になったのか。これがどういう意味を持っているのかを茨城県医師会が理解しているとは思えない。

くるりと現在の日本のロック・シーンと今年のフェス

その他雑感:
 
 
Youtubeを開くと、くるりの新曲が現れた。タイトルは『I Love You』。と言ってもくるりのことだから、通り一遍のI Love You ではないようだ。3回ほど聴いたけど、まだ何もわからない。今月末にアルバムが出るようだから、そこでしっかりと聴きたいと思う。とか言いながら僕はくるりのアルバムを1枚も聴いたことがない。シングルをつまみ食いしていた程度だ。それがなぜか今回、アルバムが出ると聞いて迷わず購入するをクリックした。
 
くるりは僕が大学生の頃にデビューした。20数年前のことだ。以来、メンバー変更をいとわない野心的なチャレンジを経て、今も一線で活躍している。僕はくるりのアルバムを一枚も持っていないけど、ずっと気になる存在ではあった。くるりの岸田繁は僕と同世代だ。その岸田繫が未曾有のこの一年を経過して出すアルバム。どんなサウンドでどんなメロディで何を歌うのかを聴きたい。
 
思えば、くるりがデビューした90年代の中盤から後半にかけては多くの素晴らしいバンドが登場した。グレイプバイン、ピロウズ、トライセラトップス、サニーデイサービス、TOKYO No.1ソウルセット、スーパーカー、他にも数え上げればキリがない。一般的にはミスチルやGLAYといった巨大な存在に隠れていたが、彼らはJ-POPとはまた別の今に至るオルタナティブな日本のロックの大きなうねりを作り上げた。
 
昨年はフジロック、スーパーソニックが開催されなかった。海外からミュージシャンを呼ぶことが出来なかったということもあるけど、そもそもライブ自体が行われなかった。しかし今年は違う。先ずはフジロックの開催が発表された。出演するのは日本のミュージシャンだけだ。勿論それもコロナ禍が落ち着いていることが前提にはなるが、恐らくスーパーソニックも日本人だけでの開催へ向かうだろう。
 
ひところの日本のロックと言えば、アジカンやバンプの焼き回しみたいな似たようなバンドばかりだった印象がある。けれど今はどうだ。 このブログでたびたび取り上げている折坂悠太、カネコアヤノ、中村佳穂、羊文学。一般的は知られていないが、彼らのライブ・チケットは入手が困難なほど盛り上がってきている。まだ他にも沢山いるし、マスで言えば、髭ダン、King Gnu もいる。音楽に年齢は関係ないというけれど、この数年で幅広いサウンドの若い才能がどんどん出てきている。
 
勿論、海外のミュージシャンは観たいけど、今年に限って言えばフジロックもスーパーソニックも日本のアーティストだけで十分やっていけると思う。今の日本のロック・シーンはそれぐらい質と量ともに充実している。90年代の中盤から後半にかけてのあの黄金期に勝るとも劣らない活況期。彼ら先行する先輩とここ数年に現れ始めた新しい才能。であれば海外勢がいなくても僕はフェスに行きたい。
 
 

備忘録

その他雑感:
 
 
 
その日、大阪市内にある会社でパソコンの画面を見つめていると、何か画面が揺れているような感覚になった。最初は気のせいかと思っていたのだが、だんだんと軽い車酔いをしてるような気分になり、あれ、オレなんか調子悪い?眩暈でもしてるのか?と思い始めた。まるで液状化現象のような、何か柔らかいものがゆっくりと動いているような感覚だった。
 
ほどなく誰ともなく、俺も、私も、と同じような感覚を口にする人たちが現れ、僕たちのフロアは1階だったので、すぐ隣の駐車場へ、「地震かな?」とか「地震とはちょっと違うよな」とか言いながらパラパラと外へ出始めた。 同僚としばらくそこで話をしていたが、特に何も起きる気配はなかったので、僕たちは事務所に戻って仕事を再開した。けれど柔らかいものの上に乗っているような感覚が完全に体から抜け切れたかどうかは判然としなかった。
 
デスクに戻り、ヤフーニュースをチェックすると、確か「宮城県沖で地震発生」との速報のみが表示されていたと記憶している。しかし、先ほど体験した感覚は僕の知っている地震とは違ったし、何より宮城県の地震がここまで影響を及ぼすとは考えにくかったので、この二つを結びつけることはなかった。未曾有の災害が起きたと知ったのは、家へ帰ってテレビを付けてからだった。
 
僕は大阪に住んでいて被害は受けていないが、毎年3月11日になれば、あの日、自分は何をしていたかを思い出している。特に意味はないが、このことはこれからも続けていくだろう。

マスク越しの恋

その他雑感:
 
「マスク越しの恋」
 
 
先日、帰宅時に会社近くの交差点で信号待ちをしていると、同じ会社の女性が立っていて、何度も喋ったことある人なので声かけようかと思ったのだが、マスクして目しか見えないし、私服の感じもよく知らないし目元だけで判断するのはちょっと自信がないなと、近くまで行って声をかけるのをやめた。なんだオレ、怪しい人じゃないか。
 
会社の人間は毎年そんなに顔ぶれが変わらないからいいとして、学校やなんかだと去年の春は休校だったし、始まってもやれリモートだやれソーシャル・ディスタンスでまともに会話できず、同じ学校でもお互いの顔をよく知らないまま過ごすという状態が続いていそうで、いやいやそんなことないよ、子供たちは結構仲良くやってるよ、という声もあるかもしれないけど、身近な人はそうだろうけどすれ違いざまで顔を覚えるなんてことはあまりないような気はする。
 
ということで若者たちの間で、惚れたはれたの機会が随分と減っているのではないかと、勝手に心配したりしている。十数年後には既婚率が減ってマスク世代なんて言われるかも。
 
ところで、個人的にはマスクをしていると女の人が綺麗に見えるのだが、逆に女の人から見ればどうなのだろうか。もしお互いそうであれば、かえって好きになる機会も増えるかもしれない。逆にはっきりと顔が見えないことで想像力も膨らみ自ずと盛り上がってしまいそうだし、結局なんだかんだ言って見た目重視だから、マスク越しで綺麗に見える、格好よく見えるという方が逆に恋愛促進効果があるのかもしれない
 
しかし、マスク越しに知り合って、マスク越しに話し合って、マスク越しに気が合ってっていう流れの中で、ようやく一緒に食事をする機会を持ち、その時に初めて顔を見合わすなんてのは結構ドキドキする話だ。あれ、なんか想像と違ったなっていうマスク落差もあったりして。そうなると、俺は見た目で判断してるのかと自己嫌悪、思春期であればそれはそれで落ち込みそうだ(笑)。中年の僕はもう関係ないけど、想像すると結構面白い。

寅さんはなぜ逃げるのか

その他雑感:
 
「寅さんはなぜ逃げるのか」
 
 
 
大学時代のバイト先に中年の絵描きさんがいて、無口な人で自身の事は余り語りたがらなかったけど、だからこそ絵描きとしての矜持がそこにあったような気がした。僕自身も芸術家になりたかったけどそこまでの覚悟や行動力がなくてっていう当時の心境も相まって、芸術家の態度というのはどうあるべきかっていうのが僕の原風景としてそこにある。
 
現在BSテレ東で毎週土曜日に放送している『男はつらいよ』シリーズを観ていて、なんで寅さんは好きな人と一緒になんないのかなと考えていたら、ふと大学時代に出会った絵描きさんのことを思い出した。その人はいかにも絵描きっぽい雰囲気の渋い人だったから、色っぽい話の一つや二つあったろうにと思うけど、やっぱりその人も寅さん同様独り身だった。
 
多分、これは僕の想像だけど、寅さんもその絵描きさんも芸術家なんだな、ま、寅さんの場合は風来坊だけど。芸術家であったり風来坊であることが何よりも優先される。それは単にあぁオレもうちょっと自由が欲しいなとかじゃなく、もう哲学なんですね、生きる上での根幹っていうか。
 
そういうの、誰だって多少なりともあるとは思いますけど、ただ実際は秤にかけてたとえ縛りがあっても縛られる方、例えば結婚とか(笑)、まあ要するにそっちの欲に流れてしまうわけですけど、中には流されてかない人もいて、それは多分欲の付け所が違うんです。
 
とはいえ寅さんなんて年に2回も恋をして、しかもたまに綺麗な人にしなだれかかられたりするわけですから、それでも堪えちゃう寅さんというのは昭和でありながらも令和のアスリートみたいな自己管理力!あ、そうでない人もいるか(笑)。
 
なんにしろ寅さんにしても絵描きさんにしても確固たる信念を持っていて、ただ信念って言ったって人生の折々でそれを揺るがせる出来事は何度もあっただろうし、それでもそっち側に居続けたというのはやっぱりね。信念って言うと大げさかもしれないですけど、簡単に言えば世帯持つのが怖いというか、それをしちゃうと今までの自分はなんだったのかというのもあるだろうし、やっぱ一番大きいのはそれによって何か失ってしまうんじゃないかっていう恐怖、だからまぁその辺は人並み以上に誠実で、ある意味真面目なんだろうと思います。どっちにしても渡世人だろうと芸術家だろうと気安く名乗れるもんじゃないなと思います。
 
そういえばその絵描きさん、こんなこと言ってました。友達からお前は自由でいいなぁと言われるけど、俺からしたらそっちこそ家族を持ってうらやましいよって。お互い無いものねだりなんだよね、って。
 
 

引退試合

その他雑感:
 
「引退試合」
 
 
先日、藤川球児投手の引退試合が行われたんですけど、僕はあれがどうも苦手です。藤川投手は’00年代の強いタイガースの象徴でもあり、僕も好きな選手の一人なんですけど、ああやってこれで最後ですよと笑顔で登場して、バッターがわざと空振りをして、意図的なショーを演出するのはどうしても直視できません。
 
先ず僕にはプロ野球選手というのは僕らの手の届かない特別な存在だという認識があります。150km/hの球を投げる。ホームランを打つ。とてつもない身体能力で届きそうもない打球をキャッチする。鍛え抜かれた体と技術を有したプロの選手が真剣に勝負をするからこそ、僕は感動したり興奮したりするんですね。それが予め決められた予定調和であれば興味はない、筋書きのないドラマだからいいんです。
 
藤川投手はまだ150km/h近い球を投げることが出来る。仮にチームが戦力として考えているならば、引退宣言しようがしまいが1軍で投げればいい。僕たち観る側としては戦力としてマウンドに上がった藤川投手を、あぁ、今日で最後かもしれないな、と心に思いながら観る。それが特別な存在であるプロ野球選手に対するリスペクトではないかと思います。もし残念ながら1軍に上がることが叶わなかったら2軍のマウンドに上がった藤川投手を観に行けばいいし、マウントに上がれなかったならばそれもしょうがない、プロの世界はそういうものなのだから。
 
引退するんだからそれでいいじゃないかとか、ファンが喜んでいるからいいじゃないかという意見もあるかもしれません。でもプロ野球選手は僕らの愛玩の道具ではないのです。あくまでも主体はプロの野球選手同士の真剣勝負であるというところを忘れてはいけないと思う。
 
引退試合に出てきた選手に花を持たせようと故意に空振りをする、故意に打ちごろの球を投げるというのは所謂「忖度」と呼ばれるものです。それはここ数年、政治の分野で何度も耳にした、僕たちが忌避していたものではなかったでしょうか。そんな大層なものではないよと言う人がいれば、それこそプロ野球選手へのリスペクトに欠けるのではないかと思います。
 
故意に空振りをするというのはその投手の価値をおとしめるものです。あの分かってても打てないと言われた火の玉ストレートはなんだったのかと。あの藤川球児が手加減される姿など見たくはありません。
 
プロ野球はファンあってのものです。けれど最も大事な部分は保持しなければならないと思います。

「伊集院光のらじおと(ゲスト:佐野元春)」2020.11.4 感想

その他雑感:
 
「伊集院光のらじおと(ゲスト:佐野元春)」2020.11.4 感想
 
 
 
佐野さんは40周年を機にベスト盤2種をリリースしまして、それに絡めたメディアへの露出がこのところ続いています。ラジオ出演についてはインターネットで後からでも聴けるので、全部ではないがチェックはしているんですけど、今回とくに聴きごたえがあったのが伊集院光さんの番組、『伊集院光とらじおと』での出演でした。
 
冒頭、まだ佐野さんが登場する前、つかみとして伊集院さんが話していたのは佐野元春の歌はカラオケでは歌えないという話。『SOMEDAY』を引き合いに話していたんですけど、これは僕も常々思っていたことなんで目から鱗でした。
 
佐野元春というと初期の頃なんかは特に一音に一語以上を載せたりだとか、英語を混ぜこぜにしたりというところで注目されて、この辺はサザンの桑田さんもそうでしたし、一般的にもそういう言われ方をするんですけど、一番の特徴は独特の譜割にあると僕はずっと思っていたんですね。だからカラオケやなんかで歌うと全然うまく歌えないんです、歌ってて全然楽しくない、だってかっこ悪くなっちゃうんだから(笑)。
 
ところが当然のことながら佐野さんが歌うとべらぼうにかっこいい。これはいつも僕は体内時計って言うんですけど、言葉のメロディへのフックのさせ方が抜群になんです。僕らが歌うとあんなにぎこちなくなる『SOMEDAY』を佐野さんはすごくスムーズに滑らかに歌う。その独特の佐野元春譜割を歌えるのは佐野元春だけという、これを伊集院さんは見事に言葉にしてくれて、さっきも言いましたが言葉数だとか英語だとかそういう話はよく聞くんですけど、佐野さんの譜割の話はメディアで初めて聞いたので、伊集院さん、すごいとこ突いてくるなぁと。ちなみに佐野さんは今もそうだし、この点は宇多田ヒカルさんもそうですよね。
 
佐野さんが登場してからも伊集院さんは面白いことおっしゃっていました。佐野元春は新しいものが好きなのに古いものも好きで、これは非常に珍しいことだと。例えば佐野さんはインターネットを早くからやっていた、ヒップホップ音楽を早くからやっていた。けれど一方でオールディーズと呼ばれる古い音楽が大好きだ。普通、新しいもの好きの人は新しいから好きなのであって、古いものが好きな人もこれは古いから味があるから好きなんだとなる。けれど佐野元春はどっちも好き。つまりは新しいから好きなのではないし、古いから好きなのではないのだと。これは見事でしたね。佐野さんも自身の感性をこういう風に解釈してもらって嬉しそうにしていました。
 
あと音楽の聴かれ方についてですけど、今はプレイリストなんて言って個々人が自由に音楽を聴いている。けれど作者が考えたアルバムの曲順通りに聴いていくとまた違った響きで聴こえてくるんですよという話を伊集院さんは野球が好きですから野球に例えてですね、2番バッターの役割とかを交えながら話していくんですね。それに対する佐野さんの答えもそれはコンセプト・アルバムと言うんだよと。僕は今までもそうしてきたし、これからもそうやってアルバムを作っていくと話されていて。で面白いのはそれでも佐野さんも伊集院さんも今のプレイリストみたいな線ではない点での聴かれ方についても全く否定していなくて、むしろ肯定している部分もある。けれど伊集院さんが言うのは気に入った曲があったらそれが収録されているアルバムを曲順通りに聴いてほしいなと。そうするとまた違った良さが現れますからと。とてもよい話だと思いました。
 
ちなみにこの話をするにあたって、伊集院さんは佐野さんの『コヨーテ、海へ』という曲の話から入って、それが収録されている『COYOTE』アルバムの話に繋げたんですね。まずファンとして嬉しいのは古い作品ではなく比較的新しい『COYOTE』アルバムというのを持ってきてくれたということ。そしてこのアルバムは佐野元春作品の中でも一つの映画となるようにいつも以上に全体のストーリーを意識して作られた作品だったということ。だからこの曲順とかコンセプト・アルバムの話をする例えに『COYOTE』アルバムを持ってくるのは伊集院光、よく分かってるなと(笑)。
 
今回佐野さんが色々なラジオに出演しているのを聴いてると、中には昔の話ばっかりするDJもいるんですね。ま、40周年でそれを記念したベスト盤が出る訳だからそういう話になるのは当然ちゃあ当然なんですけど、実はそれって聴いてる方もあんまり面白くない。ある番組では昔の話とか既存の佐野さんの発言を引き出そうとするDJもいて、だんだんと佐野さんの口数が少なくなって楽しくなさそうだなっていうのもあって(笑)。
 
その点、伊集院さんが番組の最後に話していたのは、伊集院さんも最初はやはり40周年だから昔の話から始めようと思っていたと。けれどちょっと話してみるとこの人はどうも昔の話には興味がない人だなと認識して、そこからは自分が今聞きたいことだけを聞こうとしていったと。実際、いくつか聞いた番組の中でもこの伊集院さんの番組が佐野さん一番楽しそうに笑いながら喋ってたし、だからやっぱ伊集院さんの観察力はすごいなと改めて思いました。
 
最後に聴き方の話でもうひとつ。今はラジオだってインターネットを通じて好きな時に聴ける。けど希望としてはほんのたまにでいいんだけど、リアルタイムで、或いは雑音の中で聴いてもらいたいなと、そんなことを伊集院さんは最後に話していました。つまりライブってことですよね。文字の書き起こしでもなく、インターネットで後から聴くでもなく、話し手が喋っている同じ時間を過ごしながら聴くというのは何かしら意味があるんじゃないか。そこを信じたいっていう。大きく見ればさっきのアルバムの曲順にもつながる話なんだと思います。
 
僕は佐野さんのファンですからついつい佐野さんの言葉に耳が向きがちなんですが、今回ばかりは佐野さんの言葉より伊集院さんの言葉が強く印象に残りました。Eテレ『100de名著』でも凄いコメントするときがありますが、伊集院さんは誰も気づかない王道を突いてくるんですね。誰も気づかないというと横からとか穿った見方とかってなるんだろうけど、そうじゃなく正面から見据えた誰も気づかなかったことを突いてくる。一般論ではなく自身の解釈でど真ん中を突いてくるっていうのは、なかなか出来ることじゃないですよね。これは爆笑問題の太田光さんもそうだと思うんですけど、ご自身の中にぶれないものの見方があるからなんだろうなと思いました。
 
伊集院さんはオレの主戦場はラジオとよく仰ってますが、それも頷ける、テレビで見る時とはまた違う魅力を発見した気もしました。伊集院さんのラジオ、他にも聴いてみようと思います。できればリアルタイムでね。

子供たちのヒーロー

その他雑感:
 
「子供たちのヒーロー」
 
 
 
「鬼滅の刃」が一大ブームとなっている。うちは保育士をしている奥さんが園児たちの影響で先にはまり、僕はそれを「ふ~ん」と横目に眺めていたのだが、先日のテレビ総集編を一緒に観たところ、遂に僕もはまってしまった。
 
僕はまだその総集編とその後に始まったテレビ・シリーズの再放送を観ているだけなので、ほんの序の口しか観ておらず、これからまだまだたくさん楽しめるという特権を持っている。どうだ羨ましいだろう(笑)。職場の同僚がコミックを貸すよと言ってくれたが、僕は借りない。これからテレビ・シリーズを毎週観ながらちびちび楽しむつもりだ。この特権を簡単に手放すものか(笑)。
 
人喰い鬼の話なので結構グロいシーンがある。小さな子供が観て大丈夫かなと思っていたが、そこはあまり気にはされていないようだ。確かに観ていてもさほど印象に残らない。「進撃の巨人」を観たときは気持ち悪くなって観るのをすぐ止めたが、あれとは決定的に何かが違うのだろう。それでも小さな子供たちに悪い影響がかなければいいなとは思う。
 
昨日、会社の帰りにTUTAYAへ寄ったら小さな子供が母親の手を引っ張って「鬼滅の刃」コーナーの前に行き、一生懸命になにかを説明していた。舌足らずの様子がかわいくて仕方がなかった。今朝は今朝でまた別の小さな子が炭治郎の羽織柄マスクをしていた。炭治郎は子供たちのヒーローなんだと思った。
 
主人公の炭治郎は心が清らかで優しい男だ。怖くても一歩踏み出して誰かを助けようとする。やられそうになっても諦めない。最後の最後までどうしたらいいか、どうしたらいいかと考え続ける。週刊少年ジャンプの主人公の伝統としてやたらメンタルが強いというのはあるにせよ、それは悟空やルフィのような天然な強さではない。炭治郎は誰かを守るために自らを奮い立たせていく、そこが魅力なんだと思う。
 
主要登場人物は炭治郎に限らず皆そうした後天的に身に着けたたくましさを持っている。苦境に陥っても「呼吸を整えてよく考えるんだ」と諦めずにベストを尽くそうとする炭治郎。男女関係なく今の子供たちにとって最高のヒーローなんだと思う。

エモい

その他雑感:

「エモい」

 

昨夜テレビでやっていた『鬼滅の刃~兄妹の絆~』を見まして、まぁ初めて鬼滅の刃を見たんですけど、すごく面白かったです。今朝、用事でドンキホーテに寄ったのですが、思わずグッズを買いそうになりました(笑)。来週は続きをするということなのでめっちゃ楽しみです。

見ていて一番に思ったのは、流行りの言葉で言うところの’エモい’というやつですね。感情の発露が生々しく描写されています。鬼にもその背後には悲しいドラマがあって、というのは見ていてシンドイです(笑)。家族の関係、敵との関係、仲間との関係、そのいちいちに激しいドラマがあって見ているこちらの感情を揺さぶる、そういうアニメだなと思いました。

テレビで有名人がこのアニメについて熱く語っている場面を見たことがありますが、見る人を熱くさせる要素がふんだんにあるように思います。僕は音楽が好きだからそっちの方面で考えてみると、音楽にも感情を波打たせるサウンドがあります。いわゆる’四つ打ち’というやつですね。

2、3年前だか邦楽には猫も杓子も四つ打ちという時期がありました。あれもやっぱり聴き手の感情を刺激するんですね。僕は音楽でも映像でも感情で煽られたくないというのがあって、それは僕個人の性格として割りとそっちへ引っ張られやすいというのを自覚しているからなんですね。音楽であろうとなんであろうと創造物に対してその本質以外のところで自分自身の評価を左右されたくない。そう思っています。僕がたまにこうやって文章を書くのはそういう部分も大きいです。

けれど考えるのは面倒臭いんですね。だから評価を感情に委ねた方がいい。その方が心地よいですしそれも分からなくはない。そしてそういう大げさな番組を見て感動して涙を流しても、その後は割りとあっけらかんとしている場合、これはいいんだと思います。言ってみればひとときの余暇、気の紛らわし、これはエンターテイメントが果たす大きな役割のひとつですから。

ただ気になるのはそこに、煽られた感情に引っ張られたまま日常が継続してしまうこと。例の半沢直樹もしかり、今の世の中、エモいが幅を効かせていますけど、ちょっとしたその積み重ねが少し心配になる気がしないでもない。

エモいと過剰さは隣り合わせです。物事の良し悪しをエモいに委ね過ぎないよう、少し引いてみることも必要かもしれません。エモいを余り体に詰め込みすぎないように、ですね。

歌は世につれ世は歌につれ

その他雑感:
 
「歌は世につれ世は歌につれ」
 
 
クラウド・ナッシングスの新作が非常にポップだ。僕はこれまでクラウド・ナッシングスをちゃんと聴いたことはなかったのだが、ネット上でメロディが立ってすごくいいという情報を知り、じゃあと思って聴いてみたらハマってしまった。ハードでエモい印象があったのだが、すごく聴きやすくてちょっとネオアコっぽかったりバーズぽかったり。こういうの好きです。
 
また、間もなくリリースされるザ・キラーズの新作から2曲が先行公開されたのだが、これが笑ってしまうぐらいのキラーズ節で、もういい加減キラーズはいいかなと思っていたのだが、これを聴いたら買わねばなるまい(笑)。
 
もういっちょ。テイラー・スウィフトの「フォークロア」。テイラーさんはこのところ何処へ行きたいのかよくわからないサウンドだったけど、このアルバムではタイトルどおりフォーキー(と言ってしまっていいのかどうか)で、彼女本来の良さである曲の良さがしっかりと前に出ている。
 
ということで3枚だけですけどかつてなくポップなんです。すごく聴きやすい。多分これは今の状況を反映してるんですね。暗い世の中ですからシンプルにいい歌っていう、素直にソングライティングが活かされた曲が出てきてるんです。これ逆に世の中が浮かれてると暗い内省的な歌が多くなりますよね。世は歌につれ歌は世につれなんて言いますけど、つくづくその通りだなと思います。
 
物理的に大きなプロジェクトが動かせないというのもあるかもしれませんが、やっぱり皆、素直な曲を聴き手に真っすぐに届けたいという気持ちが強くなっているんだと思います。