Eテレ 日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ マティス」 感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「熱烈!傑作ダンギ マティス」
2019.1.21放送 感想

 

この日の日美は一人の芸術家の魅力をその芸術家を心から愛するゲストと共にその魅力を談義する恒例の「ダンギ・シリーズ」。今回のテーマは「アンリ・マティス」です。

~芸術家の役目は見たものをそのまま描きとることではなく、対象がもたらした衝撃を最初の新鮮な感動とともに表現することなのだ~

これはマティスの言葉です。ま、そういうことです。これで全部言い切っちゃってるから、もう他に言うことないですね(笑)。

僕にとってマティスは好きな部類には入るけど、同時代のゴッホとかピカソに比べてあまり強烈なイメージは持っていませんでした。どっちかっていうと優等生的なイメージ。だから今回の日美も何となく観始めたのですが、番組の冒頭で紹介されたこのマティスの言葉に僕は気持ちを一気に持って行かれました。

マティスといえば色鮮やかな色彩。特に「赤」が印象的です。その「マティスの赤」の魅力について、俳優の津田寛治さん。赤というのは強くキツイ色だけど、マティスの赤はドキッとさせる赤ではなく、逆に温かみを感じると仰っています。これは面白い指摘ですね。番組でも紹介されていましたが、マティスはアクの強い絵を描こうとしていたのではなく、何気ない初めからそこにあるような絵を目指していたとのこと。それを表現するのに敢えて個性の強い赤、反対の意味のもの用いてみる。穏やかな絵を反対のイメージを持つ色で構成してみる。そうすることでかえって本当の穏やかさが表現されるのではないか。マティスはそこに起きる化学反応を試していたのかもしれないですね。

この手法、音楽で例えるとポップ・ソングと同じですよね。悲しい詩に悲しいメロディを持って来ても聴き手には悲しい気持ちしか伝わりません。そこで悲しい詩ならば、敢えて明るいメロディを持ってくる。陽気な言葉ならば暗いメロディを持ってくる。そうすることで不思議な化学反応が起き、聴き手へ届くイメージは大きく広がってゆく。絵についても同様だということではないでしょうか。

マティスは赤を多用しますが、一緒くたに赤と言っても微妙に赤味を変えてくる。例えば下地に別の色を塗ってからその上に赤を重ねたり。アーティストの日比野克彦さんは言います。思考錯誤の末にこれだと思える瞬間がある。それは作家にとって大きな喜び。それが経験値として積み重なってくると同じ手法を用いたくなるが、作家自身の鮮度としては当然落ちるわけで、そこは作家の宿命として崩したくなる。それが一見同じ赤であって印象変えてくるマティスの態度にも繋がっているのではないかと。

マティスの第一次世界大戦の頃の絵は全てがそうではないが、色彩の魔術師と言われる人がキャンバスの大半を黒やグレーといった暗い色で覆い尽くしてしまう。お茶の水女子大学教授、天野知香さんんの話によると、元々あった風景やそれに伴う色彩を上から黒く塗りつぶしてしまっている絵もあるそうで、やはり芸術家は時代と無関係ではいられないのではと考えてしまいますと、司会の小野正嗣さんが言うと日比野さんはこんなことを言います。芸術家は時代に敏感に反応するように普段からトレーニングしているから、やっぱり時代からは逃れられない。とは言いつつ、作家独自の個性はあってそこからも逃れられないから、これはちょっと異質てすね、なんていう絵でも作家らしさは残っている。これも非常に面白い話でした。

晩年のマティスは創作のブロセスを写真に取って残している。素人考えでは、何かインスピレーションが降りてきて、さささっと描いてしまう、しかもマティスみたいな抽象画だと尚のことそう思ってしまうが、実はテクニックの占める割合は相当あるんだと。天野知香さんはこれは後進に対する教育という意味もあったということですが、マティスの芸術に対する考え方がうかがい知れて興味深いです。つまり、芸術というととかく感性で括られがちですけど、修練の部分、技術の部分も多くを占めるのだと。これは芸術全般に言えることではないでしょうか。

最晩年、キャンバスに向かう体力の落ちたマティスは新しい表現方法を獲得します。それが切り絵。図らずもキャンバスや筆から離れることでマティスは絵画という枠組みから解き放たれます。以前から、デッサンと色彩とに乖離を感じていたマティスは色彩によるデッサンという新しいスタイルを獲得するのです。それをマティスは「濃縮された音色」と言っています。

年を取るということは成熟するということではなくて、よりピュアになっていく。以前、あるアーティストがそんなことを言っていたのを聞いたことがありますが、マティスは正にそれを地で行く存在だったのかもしれません。

マティスは教会とその敷地をデザインするという創作も行っています。切り絵といい工業デザインといい、キャンバスに囚われない活動はまるで創作をインタラクティブなものとして捉える現代のアーティストのよう。冒頭の言葉や、異なる組み合わせによる化学反応への期待、テクニックの部分への信頼。そうした印象からもマティスは単に絵画に留まらない総合的なアーティストだったと言えるのではないでしょうか。

デザートにパイナップルを

ポエトリー:

『デザートにパイナップルを』

 

努めて明るい風を装えと老いた脳みそが言う
邪悪な手紙の二行目には殺すと書いてあった
背中を丸めて歩く風景には怠惰があった
神様はいなかった
書きかけの文章を読み上げた
多くを望み過ぎていた
他の人がよく見えた
写真を撮られるのを嫌な人がいることを知らなかった
ピーターパンが何故大人になりたくないのか分からなかった
君のためのスペースを空けておけばよかった
あの時、こんにちはと挨拶をしておけばよかった
パイナップルは銃で撃たれていた
果肉が散らばっていた
風情があった
背中にまで穴が届いて
可哀想な絶望が
全てを取っ払って枠組みだけにした
若いことは取り柄じゃない
努めて明るい風を装えと
古い脳みそが言う
自堕落に土の道を踏み続けた
草を踏みつけて
大事な花を踏みつけて
心を踏みつけて
大きな木の根元にいてだんまりしながら
マッチを三本擦った
影よ
最後までついてこれないのか君
愛しい君
もう少し時間が
パイ生地に包んだ食卓が
もう少し時間が
デザートにパイナップルを
デザートにパイナップルを
デザートにパイナップルを置いて欲しかった

 

2018年11月

リペア

ポエトリー:

『リペア』

 

君の身代わりになって
夜の街を歩く
寒いのは上着のせいじゃない

こだわりは捨てて
赤の他人
気持ちのいい世の中になればな

十二時を示す時計は
デジタル化が進み
権力者がセグメントを付け替える

災いをもたらすのは
冴えない技で
手先が器用な君は今日も面取りに忙しい

蛇腹が伸びきったまんまで
心配事が尽きない君
制度を利用して罹災証明書を申し込むんだ

自堕落な正義の器などと言わないどくれ
お願いだ、
早急に善処して欲しい

今夜、
全部が全部
元の形に修復されたらいいのに

 

2018年11月

丸選手のFA移籍と長野選手の人的補償をきっかけに思った事

野球のこと:

『丸選手のFA移籍と長野選手の人的補償をきっかけに思った事』

 

2018年のFA取得者の中で超目玉選手であった広島カープの丸選手が読売ジャイアンツへFA移籍。それに伴う人的補償として長野選手が選ばれ、広島カープへ移籍することとなった。ジャイアンツはその前に西武の炭谷捕手を同じくFAで獲得しており、その時の人的補償としては内海投手が選ばれ、西武へ移籍している。

FA移籍に関する人的補償について簡単に説明しておくと、FA移籍をされた球団はその見返りとして、FA移籍先球団に対し金銭補償、若しくは人的補償を求めることが出来る。人的補償を要求した場合、移籍先球団は、この中から好きな選手を持ってっていいですよ、というリストを提出。FA移籍をされた球団はその中から欲しい選手をピックアップしチームに迎え入れるというものだ。原則、指名された選手は拒否できない。

この場合、移籍先球団は引き抜かれては困る選手をプロテクトするのだが、今回の件で言えば、ジャイアンツは生え抜きの功労者である内海投手と長野選手をプロテクトしなかった。そのことに一部のジャイアンツOBやファンから怒りの声があるようだ。

そのことは感情論として分からなくもないが、いちプロ野球ファンとしては昭和の大型トレードみたいでワクワクしている。どっちにしても冷静に考えれば、内海投手と長野選手はこのままジャイアンツにいたとしても出場機会はかなり限られるわけで、二人とも、特に長野選手はまだ十分にレギュラーを張れる選手であり、そうした選手が試合に出られないとなると本人にとっても、僕たちプロ野球ファンにとっても大きな損失である。なので、かつて清原だのマルちゃんだの江藤だの各チームの4番を片っ端から寄せ集め、挙げ句、ベンチや2軍で大戦力を持て余していた時代に比べると、今回の方がよっぽど健全なのではないでしょうか。

しかし、FA権が「一定の資格を得たならば、選手が自由に移籍出来る権利」であるにも関わらず、現状のFA制度では人的補償というよく分からない制度がくっ付いてしまっているし、せっかく得たFA権にしてもFA宣言したらしたで裏切り者だなんだ言われたりして、なにかすっきりとしないのも確か。

いっそのことメジャーリーグみたいに資格を得れば宣言なんかしなくても、自動的にFAになってしまうようにしてみてはどうか。サッカーみたいに出場機会を求めてレンタル移籍なんてのもあっていい。プロスポーツ選手は試合に出てナンボなんだし出来るだけ沢山の人に試合に出てもらう。そうするともう3球団ほど増やすことができるかもしれない。じゃあ5チームの3リーグ制になって、ワイルドカードを入れたもっと真実味のあるプレーオフも出来る。なんか活気が出てきて面白いかも。

僕が子供の頃は落合の電撃トレードがあったり、主力選手の移動がもっと活発だったように思う。メジャーリーグのようにコロコロ選手が入れ替わるのも何だが、もう少し流動性があった方が面白いんじゃないだろうかという話です。

2018年 洋楽ベスト・アルバム

 

『2018年 洋楽ベスト・アルバム』

 

年末恒例の各メディアのベスト・アルバム選。年も明けてほぼ出揃った感じでしょうか。こういうの、眺めてるだけでも楽しいですよね。2018年の傾向としては、2017年のケンドリック・ラマー『Damn』のようなこれが今年の1枚だ、みたいな作品が無くて、そういう意味では各メディアそれぞれの個性が出て、逆に面白い年間ベスト・アルバム選になっているんじゃないでしょうか。でしょうかって言っておきながら知らん作品ばかりなんやけどね。

僕個人で言えば、2018年はYouTubeをかなり利用しました。タダでアルバム聴くなんざ不届き者っー!!(笑)。ていうかチャンス・ザ・ラッパーがフィジカル盤出さんからや~。てことで、あれっ?YouTubeでアルバム結構聴けるんやってことに気付いて、ついついこれ買うか迷うな~ってのをYouTubeで済ましてしまう1年となってしまいました。ま、懐事情もございますから(笑)。今後はほどほどに致します…。

で2018年の僕のベスト・アルバムはなんだっけかなと考えてみると、先ず年明けのスーパーオーガニズム。気の抜けたようなサウンドもいいし、オロノさんの声もいいし、なんつっても曲がいい。これからどう変容していくのか分からないけど、彼女たちの先には未来しか見えません。それとアークティック・モンキーズ。サウンドとしてはロックじゃないかもしれないけど、このわけの分からなさを納得させる腕力は流石と言うか、ロック・バンドも負けちゃいねぇぞっていう爽快感がありましたね。

あと世間的なベスト選には引っ掛かって来ないかもしれませんが、ボン・イヴェール好きとしてはビッグ・レッド・マシンのアルバムが2018年の世の中の気分とマッチしていてすっごく良かったです。同じく変化球だとルイス・コールも。この人の才能にはぶったまげました。それと個人的に大好きなクークスの新作もキャリア史上ベストなんじゃないかっていうぐらいメロディが映えるいいアルバムでした。

でこの中から今年のベストはどれかな~なんて考えてたら、最後にドカンと来ました。The1975です。12月に出たばっかなので、どうしてもテンションが上がり気味になってしまいますが、このサウンドとリリックは時代を象徴するアルバムなんじゃないかと。日常の些細な出来事こそが真実であり、その15編の小さな物語がThe1975という端末に収束されていくという手腕は見事と言うしかない。

正直、このバンドがここまで来るとは思っていませんでした。『OKコンピューター』によってレディオヘッドが幾つかあるいいバンドのうちの一つからオンリーワンの存在になったように、The1975も今回のアルバムで唯一無二の存在になったような気がします。

てことで、2018年、僕のベスト・アルバムはThe1975の『A Brief Inquiry Into Online Relationships(ネット上の人間関係についての簡単な調査)』に決定です!!次点でアークティック・モンキーズ『Tranquility Base Hotel & Casino』とザ・クークス『Let’s Go Sunshine』。一応新譜は聴くたび毎に点数を付けておりまして、2018年に満点を付けたのはこの3作品でした。やっぱオレ、UK好きやな…。

おまけでベスト・トラックも。やっぱ2018年はこのバンドを外すわけにはいかんでしょう。てことで、スーパーオーガニズム『Everybody Wants To Be Famous』に決定です。「みんな有名になりたい」って歌詞を眉ひとつ動かさず歌うオロノさんがカッコええ。

※2019.2.1追記:
大事な人たちを忘れていました。ピーター・コットン・テールの『Forever Always』。フィーチャリング Chance The Rapper,Daniel Caesar,Rex Orange County, Madison Ryann Ward, Yebbaっていう沢山のミュージシャンが参加してますが、もの凄く幸せになれる曲です。この曲も僕のベスト・トラックですね。2曲になってしまいました(笑)。

お正月の仏像巡り~広隆寺から東寺へ~

アート・シーン:

お正月の仏像巡り~広隆寺から東寺へ~

1月3日、仏様に会いに京都へ参りました。参拝したのは太秦にある広隆寺。お目当ては日本一美しい仏像と言われ、国宝第一号でもある弥勒菩薩半跏思惟像と京都駅を少しばかり西へ歩いた東寺にある空海の曼陀羅を再現した立体曼陀羅です。お正月も3日目ということで、人手もボチボチとちょうどよく、天候にも恵まれとてもよい1日を過ごすことが出来ました。

広隆寺へはJRでも行けるのですが、せっかくなので嵐電で。私は十数年前、西院辺りに住んでいたことがありまして当時何度か利用していたのですが、道路を走ったり住宅地を抜けていく電車はなんとも言えない風情がありますね。生活感があって素敵です。

広隆寺は思ったより人が少なかったですね。1時間ぐらい滞在していたのですが、参拝客は20名ほどでしょうか。人が少なくガチャガチャしてなくて、静かなお正月って感じが心地よかったです。

お目当ての弥勒菩薩半跏思惟像は新霊宝殿に安置されております。入り口には係りの方がいらっしゃって、そうそう、当たり前のことですがお寺ですから境内には僧侶だけでなく、ここで働いている方が何人かいらっしゃいます。だからお務めって言うんですかね、境内は落ち葉ひとつなく綺麗なんです。こういうお正月であっても普段と変わらないお寺の日常感には心が洗われますね。

新霊宝殿は想像以上に広くて魅力的な仏像が数多く並んでいます。中は薄暗いので最初はちょっと見えにくいのですが、目が慣れてくると暗いことは全く気にならなくて、かえってその微妙な暗さ加減が厳かな雰囲気を出していました。

弥勒菩薩半跏思惟像はその中央奥におわします。繊細なイメージを持っていたのですが思ったより大きかったですね。座った姿勢の高さは84.2cmだそうで標準的な日本人とさほど変わらないのですが、見た感じはもっと大きいです。流石と言いますか、迫力がありますね。

弥勒菩薩半跏思惟像の前は畳敷きの小上がりになっているので、そこに座って弥勒菩薩さんをじっくりと眺めることが出来ます。この日は人手がポツポツだったので、僕はしばらくの間座っていましたが、普段はこうはいかないんでしょうね。

で弥勒菩薩さん。実物を見て印象に残ったのはスタイルですね。なんとも上品な佇まいで、胴体もすごくスマート。でも細さを感じなくてちゃんと内臓を感じられる。でもやっぱり細い。でまぁ考えるとですよ、やはり呼吸が細いんでしょう。それに菩薩様は食生活も質素ですから、我々みたいに馬鹿忙しく内臓が立ち働く必要はない訳です。だから内臓も必要最小限しか活動しない。てことで全体のサイズに比べて胴体がスマートなんだと。あぁなるほどなと。僕は小上がりに座ってそんなことを想像しながら一人頷いておりました。

新霊宝殿には他にも魅力的な仏様が沢山いらっしゃいます。印象的だったのを幾つか挙げると、先ずは聖観音立像。失礼ながら、こちらに向けて下に下ろしている掌が艶かしいんですよね。そう考えると衣装も胸元の辺りが2つの円を描いているようでセクシー。てことで僕は勝手にこのお方はエロスなんだと。我々しもじものいやらしい煩悩を始末してくださるエロス仏なのではないかと。そんなことを思いフムフムと一人悦に入っておりました。

あと吉祥天立像。こちらは女性です。毘沙門天の奥様だそうです。吉祥天立像は3体並んでおりまして、僕のイメージでは向かって左がちゃんとした格好をなさっているのでお務め時の吉祥天さん。まん中がラフな格好なので普段着の吉祥天さん。右端が胸元がちょっと開いたお衣装なのでドレスコードかな、よそ行きの吉祥天さんですね。

新霊宝殿を出るとポカポカ陽気。ちょうどお昼過ぎなので、太秦広隆寺駅にある麺処でお正月らしく力うどんをいただきました。年末年始を家人の実家である愛知県で過ごしたので、あぁやっぱ関西風のお出汁はええなぁと舌鼓を打ちつつ、その後は西へ10分程歩きJR太秦駅へ。東寺に向かうべく京都駅まで行きました。しかしJRの車内は凄い人でしたね。外国の方も多くて、行きの嵐電とは大違い。京都駅から歩いて15分程の東寺も結構人がいて、広隆寺界隈との落差を感じました。

東寺ではお正月の三が日のみ、五重塔の四面の扉が開帳されていて中の四仏坐像を見ることができました。金堂では薬師如来と両サイドに日光菩薩と月光菩薩。薬師如来の台座の下には十二神将がぐるりと配されています。

てことで十二神将はサイズがかなり小さいんですね。つまりは想像すると十二神将はサイズが自由自在なんじゃないかと。ほら確かウルトラマンだって怪獣相手だとでっかいけど、相手に応じて小さくなれたはず。十二神将もあれと同じで、戦う相手や場所に応じて体長を変えられるということではないかと。そーかそーかなるほどね、戦う神さんだからそりゃそーだよねと、一人納得して講堂へ向かいました。

そしていよいよ講堂の立体曼陀羅。これも思っていたより大きくて迫力満点でした。なんといっても如来像5体(五智如来)、菩薩像5体、明王像5体、天部2体、四天王像4体の計21体ってことですから、仏像好きにはたまりませんな。立体ですから角度を変えないと見えない仏様もいて、あっちから眺めこっちから眺めと、多種多様な仏様を拝見出来るんですから、食べ物で例えると蟹とかフグとか焼き肉とかが一つのテーブルに並んだ満漢全席と言いますか、贅の限りを尽くした立体曼陀羅といった感じでしょうか。

ですので人それぞれ、好みに応じて見所満載でして、僕が最初に見入ったのは入ってすぐの梵天。チケット売り場でもらえる栞の表紙にもなっています。なんつっても4匹のガチョウの上に単座されてる姿がいいじゃないですか。想像力がスパークしてますよね。用事がある時は梵天さん、「行けっ、ガチョウ」なんつって、この4匹のガチョウが羽ばたくんでしょうなぁ。くぅ~、飛ぶとこ見たいぜぇ。

立体曼陀羅の中心部は5体の如来様がおわします。如来様ですから華美な装飾はないのですが、それでもそれぞれに個性があってじっくり見比べるのもよいです。しかしまぁ悟りを開かれた如来様ですから5体とも静かで落ち着いた佇まいですね。やっぱ如来様はちゃうなぁ。

その隣は明王様たち。先ずは隆三世明王、カッコええ。胸の前で組んだ印て言うんですか、指どうなってんねんっていう。この魔術を使いそうな指の絡ませ方と足を踏み出したポーズがいかにも戦いまっせという感じでカッコいいです。

あと不動明王。不動明王は大体どこで見ても光背が赤く色付けされていて、なんか特別感が出ております。よう分からんけど怒ってはんねんなと。学校にもいたでしょ怖い先生。ま、仏像界でもそういうポジションなんでしょうな。

天部では梵天と並び称される帝釈天。流石、仏像界No.1と言われるイケメン。キリリとして男前ですな。象の上で半跏思惟の座り方です。象がどういう意味を持つのか分かりませんが、片足を組む半跏思惟の姿勢ですよ。ハイ、最後に戻りましたね、足を組んで思索にふける半跏思惟像に。そーです、最初に見た広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と同じ座り方です。こりゃなんか今年はよーく考えて行動しなさいよってことでしょうか、弥勒菩薩様。

午前に広隆寺を訪れ、昼食を挟み午後からは東寺へ。時間的にも余裕もあり、我ながらなかなかよいチョイスではないかなと。もうちょい駆け足で行けばもう一件ぐらいお寺を回れたかもしれませんが、あんまり急いでもねぇ。折角の仏像巡りですから、ゆったり見て回るには広隆寺~東寺はちょうどよいルートではないでしょうか。

旅のおまけ:

帰りに京都駅で食パンを買いました。京都駅近鉄名店街にある「ORENO PAN」(←俺のフレンチとは関係なしです)。名物は柚子ピール食パンらしいのですが家人がピール系は好みではないので、普通の食パンを買いました。4枚切り。モチモチしてかなり美味しかったです。また京都駅に行ったら多分買いますなこりゃ。

サザンオールスターズで年末年始

その他雑感:

『サザンオールスターズで年末年始』

 

今年の年末年始は図らずもサザンオールスターズ。紅白に元旦のスペシャルに、どちらも偶然チャンネルが合っただけなのについつい最後まで観てしまいました。特にサザンのフォロワーってわけじゃないですが、ほとんどの曲を知っていましたね(笑)。恐るべし、サザンオールスターズ!

紅白では他の歌手がさんざん出てきた後に聴くサザンというのが、すご~く新鮮でした。端的に言うと歌詞です。歌っていたのはかの「希望の轍」。これがやっぱいいんですよ。「希望の轍」なのに「希望」という言葉が一切出てこない。それでもやっぱ浮かぶイメージは「希望の轍」なんですね。それは何かって言うと情景描写なんです。

ほら、ついこの手の曲って応援したくなるでしょ。それは作者も同じ。だから普通はそこに作者の声が入ってしまうのです。でもこの曲には作者の声が入ってない。作者である桑田さんの気持ちとかメッセージは入ってないんです。いや、厳密に言えば入ってるんですよ。でも分かりやすく言えば歌い上げない系とでも言いますか、例えて言うと、コブクロとかゆずって歌い上げるでしょ。要するに情緒が入ってるんです。

これはどっちがいいって話じゃなくて、これは所謂J-POPの特徴でもありますけど、情緒的なんですね。入れ込んじゃう。ところが「希望の轍」には情緒がない。丸っきりないことはないんですが、ただ情景を描いているだけなんです。俺はこう思うとか、俺はこんな気持ちなんだぜとか、俺は応援してるぜっていうんじゃなく、ただそこに風景があるっていう。

桑田さんはその風景をスケッチしてるだけなんですね。そこに桑田さん自身の情緒は入り込まない。だから聴き手がそれぞれ、それこそ若い子でもお年寄りでも自分自身の経験とか希望に応じてそれぞれの物語を描けるんです。だからみんなのうたになり得るのですね。これはやっぱ凄いやって(笑)。紅白を観ながら僕はそんなことを思いました。

あと元旦にやってたNHKの「クローズアップ・サザン!」。この番組で印象に残った曲は「ミス・ブランニュー・デイ」。これ、80年代前半の曲ですよね確か。でも全く古びてない。今の時代を歌ってるような、ちゃんと今の曲になってるんです。音楽家に限らずアーティストというのはカナリアと言いますか嗅覚が優れていて、やっぱマーケティングではないんですね。アーティスト自身のフィルターを通してその時代の空気を感じていく。その先を感じていく。だから普遍性を獲得していくのだと思いますが、「ミス・ブランニュー・デイ」なんか正にそんな曲。2019年現在の事を切り取っているかのような曲で、ほんとにお見事!改めて桑田さんは凄い人だなと思いました。

で、全編聴いて思ったのはホントにヒット曲ばかりで、聴いてて楽しいのは知ってる曲ってのが大きいとは思うんですが、おそらく全然知らない人、例えば若い子がいきなりサザンの歌を聴いてもこりゃかなり楽しいんじゃないかと。改めて、僕は桑田さんは日本有数のソングライターだなと。もうポール・マッカートニーに見えてきました(笑)。

それにも関わらず、番組内のインタビューで桑田さんが語ったのは、「新曲を書きたい」と。これからのサザンはどういう風にやっていきたいですかっていう質問に「新曲を書いていきたい。ポップ・グループである以上。それがすべて」なんて言うんです。こんだけヒット曲がありながら、新曲を出して、それで勝負する。それがポップ・グループの宿命なんだって言うんです。普通のトーンで喋ってましたが、こん時の桑田さんの凄みはたまんなかったです。

ちょっと長くなりましたけど、両方の番組を観て思ったのは、もうサザンはみんなのものだなって。意図的でもなく、無理してってんでもなくこの開かれた感じ。それでいて密かに作家性を真っ先に持ってきている。矛盾しているようで自然体としてそれが同居してしまっている。こんなおかしなバンド、ちょっと見当たらない。

紅白を観てる時の家族あるあるって「最近は知らない歌ばっかりだよな」って感じで(笑)、今や皆が楽しめる歌ってほとんどないのかもしれないけど、デビュー当時、大人たちが眉をひそめたサザンオールスターズが40年やって、もしかしたら昭和が過ぎ平成が終わり新しい時代を迎えるにあたって、一番老若男女を楽しませる最大公約数なみんなのうたになってる。演歌でなく、歌謡曲でもなく、アイドルでもなく、サザンオールスターズっていうジャンルがみんなのうたになってる。2日続けて観たからちょっと僕も情緒的になってますが(笑)、それもあながち的外れではないのではないでしょうか。

一年の計

ポエトリー:

『一年の計』

 

悲しみを手掛かりに
交通整理する輩
人の感動など持ち出さないどくれ
君たちの世間にはなりません

オレに景色を与えとくれ
オレに手紙を与えとくれ
オレに音楽を与えとくれ
好きなようにやらせておくれ

マジな話、
君をけしかけるような真似はできない
君を労わるような真似はできない
お世話になるばっかりだ

それでも
思いつくんだから仕方がない
だからお届けします
しみったれた現実を

きっと口をあんぐり開けて
お届けします
だから私の真心
今日も明日も明後日もくっつけて

アイラブユー皆さん
一年の計はどこですか?
今は何をしてますか?
あ、今おまえ、手持ちぶさただな

 

2019年1月

年の瀬に

ポエトリー:

『年の瀬に』

 

君に届け
言葉に乗って
君に届け
言葉に沿って

僕は君に
伝えたいことが
人より多くある

例えば今朝の
澄んだ空気や
例えば町の
賑やかなお囃子

僕は君に
届けたい
言葉に乗せて
届けたい

僕は人より多く
君に話したいことがあるんだ

例えば冬の冷たい朝
人より先に冷たいねって伝えたい
例えば冬の三日月
人より先に綺麗だねって伝えたい

遠くのものから近くのものまで
君と僕を隔てる妙な諍いとか
濡れた瓶の縁まで
そびえる障害はそのままにして
その苛立ちの語尾が丸くなるように変換して
君と僕の日常にして照らし出す

そんな日があってもいい
だって今年ももう
残り僅かだから

#MeToo

昨日、NHKのニュースウォッチ9でジャーナリストの伊藤詩織氏の特集が放送されていた。2015年に性的暴行を受けた彼女は記者会見を開きその被害を白日の下にさらした。この日本で、尋常ならざる勇気を持って、顔をさらし堂々と会見を行った。

しかし彼女に性的暴行を行ったとされる山口敬之氏は彼女を執拗に攻撃した。著名なジャーナリストであった彼は表には一切顔を出さず、疑惑には答えず、質問は受け付けず、自分の言いたいことだけを自分の息のかかったメディアを通じてのみ一方的に反論した。 どちらが正しいかは二人の態度を見れば明らかだ。しかし世間はそうではなかった。何のバックボーンも持たない一人の女性ジャーナリストの声よりも、金とコネと権力を持った親父どもの声を支持する顔の見えない連中は、彼女を執拗にバッシングし続け、疲弊した彼女は追われるようにして日本を出て行った。

彼女は今も戦っている。世界中の性被害者との交流を重ね、事実を伝えるという地道な活動を行っている。しかし事件はまだ数年ほど前の話だ。表情を見れば、彼女の傷は到底癒えていない事は明らか。それでも何とか踏ん張って毎日戦っている。

昨年の#MeToo運動はハリウッドの大物プロデューサーによるセクハラへの告発が始まりだったか。その後、続々と大物著名人によるセクハラ行為(トランプ大統領も!)が明るみになり、#MeToo運動は世界的な広がりを見せた。レディー・ガガを始め、多くの有名人はそれを支持した。しかし日本ではどうだっただろう。アイスバケツチャレンジにはこぞって参加した有名人が、こと#MeToo運動になると誰一人手を挙げようとしない(僕が知らないだけかもしれないが)。どころか伊藤詩織氏はバッシングされ続け、彼女への支持を表明する有名人はほとんど現れなかった。そんな日本で彼女は戦っている。

僕は彼女の声を支持します。このような私的なブログではあるが、僕は伊藤詩織氏を支持します。