一年の計

ポエトリー:

「一年の計」

 

同じ言葉で嘆くより
違う言葉でハグしよう

같은 말로 한탄하는것 보다 다른 말로 안아주자

用同样的话语相互叹息,
不如用不同的话语拥抱彼此

Instead of lamenting with the same words,
let’s hug with different words.

 

2022年1月

Valentine / Snail Mail 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Valentine』(2021)Snail Mail
(バレンタイン/スネイル・メイル)
 
 
自分で曲を書いておきながら、私の言いたいことはこんな事じゃないとでもいうような不満感を感じさせるのはロック以外の何ものでもない。シンプルな編成のギター女子として登場したけれど、2ndとなる今作ではそのエンジンにシンセという新しい加速装置が取り付けられその飛距離はグンと伸びた。初っ端の#1『Valentine』のコーラスで爆発する様はいきなりカッコいいぞ。おもいっきりロケットで飛ばされたぐらいの宇宙感はある。
 
スネイル・メイルというのは芸名で直訳すると ‘カタツムリ便’ 。カタツムリがギターとシンセの融合音でドカンと発射されるのも凄い絵だなと思いつつ、考えてみればすげぇカッコいい名前。ぱっと見、長澤まさみ似の美人のくせにコンプレックスだらけみたいな立ち居振る舞いで、うじうじして最後にゃグワーッとなってしまう(←まったくの想像です)彼女にはピッタリの名。うまいこと付けたもんだ。便と言うからにゃやっぱ届けたいんだな。
 
それにしてもビリー・アイリッシュといいスネイル・メイルといい、最近の若い娘はシンプルで優しいメロディーを書きやがる。#4『Light Blue』と#5『Forever(Sailing)』の低い地声のファルセットがかすれる高音部のなんと美しいこと。どうかこのままショービズの世界で潰されずにすくすくと育ってほしい。しかしまぁ、自分をふった相手の名前をアルバム・タイトルにするなんて、すげぇ業だな。。。
 

溶解

ポエトリー:

「溶解」

 

手違いで訪れた世界
手のひらで溺れた人という文字を書いてみる
重ねてみる
くちばしであなたを尋ねてみる
新しい我が家に
新しい生物が
ここはわたしではなかったですかと問いかける

あなたの庭に
満開の花が咲くころ
かれんな姿のご婦人は
ご苦労さまと出ていった

手違いでゆらり
見たことのない衣擦れの
音、重なるほど
余韻の軋む音

偶然の成り行き
それとも迷い込んだ
不可思議な国の楽園は静かに体溶かして
あなたといた時間が頬を流れる

 

2021年9月

どこかにきずついているひとがいたら

ポエトリー:

「どこかにきずついているひとがいたら」

 

どこかにきずついているひとがいたら
ひとまえではなくまいと涙をこらえているひとがいたら

どうしてかわからなくて
なぜだかわからなくて
いきもできずに ことばもだせずに
だったらぼくがだいじょうぶってゆうよ

ぼくはもうきみのてをひいてやれないけど
きっとせいいっぱい
だいじなひとからてがみがたくさんくるくらい
ゆうひがまっかにそまるくらい
さよならがこんにちはにひっくりかえるくらい
だいじょうぶってゆうよ

そしたらダイヤモンドよりとうめいなきみの涙は
クレオパトラみたくせかいをそのてにいれて
まっすぐなにじになる

そしたらあまがえるがちょんととびはねて
きみがわらうよ

 

2012年5月

「みうらじゅん マイ遺品展」感想

アート・シーン:
 
「みうらじゅん マイ遺品展」 in アサヒビール大山崎山荘美術館
 
 
入ってすぐにみうら編集長によるご挨拶文(400字詰め原稿用紙に手書き!!)が展示されておりまして、そこにはプレイしてもらえればという記述がございましたので、物心ついた時から妄想ばかりしておりました私は思う存分脳内プレイを楽しませていただきました。美術館へは年に数回ほど足を運びますが、これだけ笑った展覧会は後にも先にもないと思います。とりあえず入ってすぐの「大西郷の湯飲み」に大笑いしたことはお伝えしておきます。
 
みうらさんの作品も沢山ございましたが、多くは何十年かかけてみうらさんが収集されてきたもの。つまりこれらにはクリエイターがいたわけです。商品として売るつもりはあるのかというツッコミはツッコミ如来にお任せするとして(如来なんですね。。。)、まぁ作り手としての哲学はあったのでしょう、いやあったはず。そこには企画会議もあったやもしれず、ケンケンガクガクの議論、いや企画会議など経ずにいきなり商品化という強引さ(そこはクリエイターですから)も時にはあったでしょう。思いつきで作るおやじと奥さんの夫婦ゲンカも十分に想像されます。しかしまぁ、日本のご当地クリエイターも捨てたもんじゃないですね。これらはアンクール・ジャパン文化遺産として残すべき、継承されていくべきですね。
 
みうらさんの作品も素晴らしかったです。スクラップブックですかね、収集した雑誌の切り抜きやパンフなどを基にコラージュしたと思われる作品。ものすごい大量に、壁一面どころかレースのカーテンのようなものにもプリントされておりました。野球好きは打撃ベストテンを眺めているだけでいくらでも酒が飲めると言いますが、私はこれを眺めているだけでいくらでもいけそうです。いやもうほうじ茶で十分いけます。松方弘樹と梅宮辰夫と山城新伍そろい踏みの裸の写真、最高ですね。ところでみうら編集長がまとめられたスクラップブック、一番多いのはエロ関係なんですよね。いやいや、そんな超個人情報など拝見しようとは思いませぬが、つまり今回の展示は氷山の一角ということ。そこに驚いています。
 
みうらさんが子供の頃に作られたものもいくつか展示されています。何を隠そう私も自作漫画を描いてクラスメート(訂正します、ともだち2、3人に)に見せて喜んでいましたが、ちんけな私とは質量ともに全然比べ物にならないです。みうら少年、才能があふれ出ています。書かれた文章もそのまま拝見することが出来るのですが、文才も子供の頃から秀でていたのですね。今と変わらんやん。子供のみうらさん、大人のみうらさん、双方へリスペクツ!!
 
順路通り見ていきますと、最後の方にはみうらさんの描かれた絵がこれも壁一面に展示されています。コロナ禍の最中に描かれたということですが、それにしても旺盛な創作意欲!ていうかさっきのコラージュ作品と基本は一緒や~。絵か切り抜きかということですね。でも何気にみうらさんの画力、スゲーっす。しかも創作が止めどない!このテーマだといくらでも描ける(切り貼り)できるんですね。
 
ちなみに大山崎山荘美術館の地下にはモネとルノワールの絵も展示されておりまして、特にモネは半円上の壁に4枚、かの『睡蓮』が並んでおります。モネと言えば睡蓮シリーズですが、彼は『睡蓮』を100作以上描いたらしいです。自宅に蓮池を作ったりもして、よくもまあ飽きもせずというところですが、そうか、みうらさんも同じじゃないかと。みうらさんの作品も壁一面に並べられていましたが、それはみうらさんからモネおじさんへのリスペクトだったのですねここは大山崎山荘美術館が選ばれた理由をひとり合点しておきます
 
ところで誰か、みうらさんの作品に登場する人物の登場ランキングをつけてくれないでしょうか?エロ部門はアレなので非開示として、エロ以外の登場人物ランキング。ただこれは生前遺品整理ということになりますから、みうらさんご自身にやってもらうしかないでしょうか。私の予想では第1位はボブ・ディランです。
 
世の中デジタル化が進んでおりますので、収集ペースは以前より落ちているかもしれませんが(もしくは老いるショック?)、首を長くして「マイ遺品展Ⅱ」を待っておりますので、編集長!またよろしくお頼み申し上げます。

折坂悠太『心理』~わたしなりの全曲レビュー

邦楽レビュー:
 
折坂悠太『心理』 わたしなりの全曲レビュー
 
 
『爆発』
インスタントな表現を拒む、言葉は口をつぐみ、こちらはじっとこらえて待つのみ。折坂悠太の創作に向かう姿勢を表しているようにも思えます。表現の核にあるものを大切に思う、主体はあくまでもそこにある、受け手である私。ところで「岸辺の爆発」という言葉、関係ないけど僕は思わず福島第一原発を思い出しました。
 
『心』
子供の頃に自分が蝶になったり蜂になったりするのを想像をしたことはありませんか?僕はあります(笑)。と思ったら、砂漠にバンドが登場します。と思ったら、更に唐突にグラスの縁を撫でる女が登場。おまけに鉄の扉に手紙は焼かれるそうです。ここは素直に脳内で想像力の飛躍を楽しみましょう。
 
『トーチ』
この歌詞を見ていると、本当に景色を置いていってるなという気がします。あとは知らない、皆さんご自由にという感じ。2番の歌詞、とりわけ「倒された標識示す彼方へ 急ごう終わりの向こう ここからは二人きり」が好きです。抽象的な描写ではあるけれど、とても具体的な表現かと思います。「いませんかこの中に あの子の言うこと分かるやつは」には日本で暮らす外国人のことも頭に浮かんできます。
 
『悪魔』
画家の行動、自転車の動き、おれのコール、これらは何に怯え、何を警告しようとしているのか。「戦争もかたなし」というのは重く捉えるべきか軽く捉えるべきか。「壁に書かれた番号へコール 10分後のおれが答える おれはそれからかけ直すが 10年後のおれはでなかった」。怖いですね(笑)。主人公は偽悪的に「悪魔のふりして」語ります。
 
『nyunen』
窓際で揺らぐレースのカーテンを思い浮かべました。
 
『春』
近頃、エモいなんて言葉をよく耳にしますが、わたしもここはひとつ。「確かじゃないけど 春かもしれない」、「けど波は立つ その声を聞いたのだ」のなんとエモいこと。殊更歌に寄せようとはせずに悠々と流れるバンドが尚のこと春。
 
『鯱』
ちんどん屋のように商店街を練り歩くガチャガチャ感。つまり昭和の流行歌のような、もっと言うと大正期のそれ。ていうかよく知らない。が、そう思わせる身内感があります。つまり日本人にもっともしっくりくる音楽と言うのはこういうものなんじゃないでしょうか。追いかけっこ感がたまらない。それにしても楽しい演奏だこと。
 
『荼毘』
さよならの歌か。とすればラストのダヤバ…はまじない、お経とでも解せばよいか。それはたむけ?それともわたしへの癒し。僕は夏を思い浮かべました。お盆だからでしょうか。「今生きる私を救おう」が遠乗りのように響いてきます。ただ悲しみに暮れどおしではなく、少しシュールでユーモアが効いている。「山陰山陽」が「三人三様」に聴こえるのもよいです。
 
『炎 feat. Sam Gendel』
私たちは見えない傷をたくさん負った。けれどそんなことはお構いなしに雨は降る。私たちをめがけてるわけでもないだろうに。あなたに言葉を投げかける術は持たないけれど、ここでゆっくりおやすみよ。わたしもじきに眠るから。近いようで遠い演奏がこの情景に近づくことを許さない。
 
『星屑』
『見上げてごらん夜の星を』のような美しい曲です。夜遅く、こども園からの帰りであろうか。親子の後ろ姿が描かれます。世界で一番美しい光景をここで持ってくるなんてズルいよ。一番大切なものは日常の中に。見落とさないようにしたいものです。とはいえそれだけじゃなく、将来への得も言われぬ不安も顔をのぞかせます。
 
『kohei』
上賀茂神社を思い出しました。あそこでよく横になりました。
 
『윤슬(ユンスル) feat. イ・ラン』
アルバムでこの曲だけは水彩画で描かれたようなたおやかさがあります。1本のショートフィルムを見ているようです。普通に考えると折坂悠太は日本側の岸、イ・ランは韓国側の岸にいるということになりますが、でも「流れがどっちかわからない」のだと。この辺り、凄く映画的で想像力を掻き立てます。ハングルで書かれたタイトルとイ・ランのリーディングでイメージは横に広がる。互いの詩を交換することから理解は始まる。
 
『鯨』
小さな船の下を鯨が洋々と進んでいく。それはあまりにも大きすぎて私たちの一生を経ても全ては見通せないようです。『윤슬(ユンスル)』では流れがどっちか分かりませんでしたが、それも今は分かりそうです。

心理 / 折坂悠太 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『心理』(2021年)折坂悠太
 
 
物事を表現する上で、私たちが普段の伝達手段として用いている言葉を使えば、その伝達速度は圧倒的に早くなります。例えば「嬉しい」とか「悲しい」とか恥ずかしながら「好きです」とか。でもそれはともすれば通り一遍の表現になりかねない。勿論、その前後がありますから何もかも一緒くたにはしてしまえませんが、せっかくに訪れた何かを伝えようとする機会が、不自由のない普段の伝達手段を使ってしまうことによって、表面的には即座に相手に伝われど、その時にしか発生しえなかったそれこそ肝心なその時だけの唯一のものはそぎ落とされてしまう恐れがある。
 
つまり私たちは自己の内で補完しているのかもしれない。極論を言えば、私たちは共通言語によって過去の自分の感情を追体験しているに過ぎないのではないか。「嬉しい」とか「悲しい」といったキーワードを基に自らの中のどこかに仕舞われた過去の感情を手繰り寄せた追体験。失礼な言い方ではあるけれど、単に「嬉しい」とか「悲しい」といった言葉のみで突き動かされる感情は過去にある自己のものに過ぎないのかもしれません。
 
感情で伝えられることには限りがある。誤解を恐れずに言うと、うわっ滑りで、大事なことが抜け落ちてしまう。現代詩はそこを非常に面倒くさい、まどろっこしいやり方で言葉を構築しようとする試みだ。確かにつらい時、表に出てくるのは悲しさかもしれないが、人間の感情はそんな単純なものではない。その奥にはそこへ上り詰める確かな気配があるのだ。折坂悠太はそこを丹念に掬い取ろうとしている。最大公約数的な意味を持つ言葉に、或いは聴き手の過去に委ねることなく、その時だけの唯一のものをなるべく原型をそのまま真空パックにして表現しようとする試み。それが『心理』ではないか。
 
『心理』アルバムはざくざくと音を立てる。水彩画ではなく、ペインティングナイフでキャンパスに直に描く油絵のように。流れるように風景を描くのではなく、直に絵の具を置いてゆく。そこで折坂悠太が伝えようとしているのは実態。情緒にまつわる感情でなく、ただただ風景を置いてゆく。本人にしか知り得ぬ実態を求めて、ざくざくと足音を確かめては風景を置いてゆこうとしている。
 
詩人の吉増剛造はある番組で「gh」と言った。「night」の発音しない「gh」。それでもじっと聞いていると聴こえてくる「gh」。僕は詩とは宮沢賢治が「心象スケッチ」と言うように風景を描くものだと思っていた。僕は気付かないでいた、その風景には音が伴うことを。音が聞こえる、「gh」が聴こえる、そういう詩を書きたいと願いつつ、それを書かせる働きは感性でも情緒でもなく知性であると、折坂悠太は実演する。
 
音楽家が真空パックした風景を僕たちは新しく見る。それをどう見るかは僕たち次第。僕たちは自らの内にある過去の感情にすがるのではなく、その時にしか発生しえなかった新しい風景を見、新しい感情を得る。そのやって初めて風景はゆっくりと立ち上がる。始めから用意された姿形ではなく、僕たち新たな体験として。そのきっかけとしての音楽。音がある折坂悠太のスケッチを僕たちは見ている。彼は風景そのものに迫ろうとした。『心理』、2021年にリリースされたアルバム。折坂悠太、渾身の作品だと思います。

Spotifyのまとめ機能

その他雑感:
 
Spotifyのまとめ機能
 
 
Spotifyから2021年のまとめデータが届いた。2021年に僕が一番よく聴いた曲、アーティスト、ジャンルなどが数字と共に明示される。僕が有料のSpotifyを始めたのは去年の終わりからだから、1年のデータを見るのは今年が初めてだ。
 
とても面白い機能だなと思うと同時に、何億というSpotifyユーザー全員に一瞬でこういうのを送ってしまえるAIにちょっとおののいてしまう。当然、個人情報と紐づいているわけだし、やっぱちょっとやな感じ。とはいえSpotifyユーザーをやめるわけじゃなし、だんだんこういうのを何とも思わなくなっちゃうんだろうな。あぁ、完全に1984の世界だ。
 
ちなみにこの結果によると、僕が今年Spotifyで一番聴いた曲はウルフ・アリスの「Lipstick on the Glass」らしい。うん、確かにそうかもしれない。ただ2位以下もずっとウルフ・アリス(笑)。つまりアレだ、アルバム『Blue Weekend』をしょっちゅう聴いていたということだ。てことで曲単位で聴く人にこの機能は有効かもしれないが、アルバム単位で聴く人間にとっちゃあんまり意味をなさないということになる。ま、それでも一番聴いた曲が分かるのは面白い機能ではある。
 
ただ僕の一番のお気に入りアーティストとしてリトル・シムズが出てきたのは解せない。確かにリトル・シムズもウルフ・アリスと1、2を争うほどよく聴いたけど、聴いた回数のトップ10はウルフ・アリスが占めてたんじゃないの?リトル・シムズのアルバムは曲数がめっちゃ多かったからか?なんかよく分からん。

午睡

ポエトリー:

「午睡」

喫茶店のカランコロンと共に
君が入ってくるのを夢見て午睡
気がつけば
カップの底がカチカチ音を鳴らして歩いています

同じように時、重ねた日々はそこになく
苦いコーヒーをかき混ぜても
泡立つはただ
カランコロンの響きのみ

カップの縁を時間がよろけるように歩いています
足を滑らせぬよう見守りながら
わたしの役目は眠るふり

 

2021年11月

『それしかないわけないでしょう』の「すらい」について

ブック・レビュー:
 
『それしかないわけないでしょう』ヨシタケシンスケ
 
 
ヨシタケシンスケの絵本『それしかないわけないでしょう』に出てくる女の子は世の中に好きと嫌いしかないのはおかしい、好きと嫌いの間に「すらい」というのがあってもいいはずだと、父親に向かって「おとうさんなんて大すらい!」と言う。この一コマが非常に可笑しくってこちらは勿論大好きなのだが、考えてみれば何事に対しても「すらい」が圧倒的に多く、好きや嫌いよりも人の数だけ、或いは物事の数だけ「すらい」が存在する。
 
現代詩という文学がこの世にあることをご存じの方は少ないかもしれないが、現代詩というのはまさにこの「すらい」を行ったり来たりする様であって、詩というと何か良いことや励みになることを言うみたいなイメージをお持ちの方がいて、とかく明確な言葉を期待されているのだが、どちらかと言うとどちらかを言うのではなく、どちらかではないことを言葉にしたのが詩である以上、需要と供給が合わないのも致し方ないところ。
 
ただこちらの心構えとしては、どちらかを明確に言われるとそれに対する態度の取りようもあるのだが、はっきりとした物言いではない以上、それをどう捉えたらよいのか分からず、つまりついはっきりしろよと言いたくなる。ただそれに対しては、はっきりしないことを書いていますと言うよりは、そこにあるがままを書いています、無理にはっきりさせようとはせずに、そこにあるがままを書くようなるべく努めていますと言うしかない
 
そこをあくまでも分かるようにしてよと親切に食いついてくれる人は一切いないのだが、全く別の角度から「すらい」という言葉で明確に言ってのけ、何気に分からないものを分かる表現に、ていうか面白く変換してしまえるヨシタケシンスケはやはり恐るべし。