「いだてん」第22回 ヴィーナスの誕生 感想

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「いだてん」 第22回 ヴィーナスの誕生 感想

 

先日電車に乗っていたら、大阪駅で前に立っていた旅行者が「次降りる方がよか」「降りるばい」と言っていたのを聞いてわたくし、「リアル熊本弁や!」と心中大阪弁で興奮した覚えがございます。個人的には昨年の「じゃっどん、ほなこつ」より「よかですばい!」の方が明るくていいですね。ま、言い方によるか。

先々週の第20回「恋の片道切符」で金栗四三のオリンピックを巡る物語は一旦終了。先週の「櫻の園」からは急転直下、四三の女子スポーツ普及にまつわる話にひとっ跳びです。この変わり身の早さ、いいですねぇ。その第21回「櫻の園」。廃墟のベルリン女子の「くそったれ!」で始まり、黎明日本体育女子の「くそったれ!」で終わるという本大河屈指の痛快回でございましたが、今回の第22回も名場面続出の素晴らしい回となりました。

出だしは志ん生こと若き日の美濃部孝蔵。変名を繰り返した志ん生ですがこん時の名前はなんだったか。ようやく真打ちに昇進したものの相変わらずの放蕩三昧。見かねた小梅が孝ちゃんに無理くり見合いをさせます。で、その相手がちょいといいとこのお嬢さん、かどうかは怪しいりん。ちなみに後年のりんを演じているのが中尾彬の「おい、志乃」でお馴染みの池波志乃さんで、志乃さんは本物の志ん生の長男、金原亭馬生の娘ですから志ん生直系の孫娘様なのです。ってそんなこと知ってるって?

前回、東京府立第二高等女学校に着任した金栗四三。女子スポーツの普及に四苦八苦していたいだてんですが、もうすっかり打ち解けて思う存分女子スポーツの普及にいそしんでいます。と話しは進み、四三先生の生徒の興味はもっぱらテニス!てことではるばる岡山へテニスの遠征へ行きます。そこで出会ったのが後に日本女子オリンピアン第1号となる人見絹枝。その人見に四三の生徒たちはコテンパンにやられます。

が、人見の有り余るスポーツの才能にほれ込んだ同行していたシマ先生、人見に向かって、日本陸上界の第一人者である四三の元へ来てはどうかと熱心に口説きます。最初は渋っていた人見もシマの熱意にほだされ、四三に脚の状態を見せることになる。裾を上げて脚を出そうとする人見に四三は「いやいや、見せんでよか。触れば分かる」と人見の脚にふれようとした刹那、人見は我に返り四三にハイキック!うずくまる四三を横目にスタコラと人見は去っていく…。

この時の描写、良かったですね。人見のハイキックはスローモーションとなり、ワイヤーアクションのように四三が吹っ飛ぶ。人見さん、まるでマトリックスのトリニティー!!で、映像おもしれぇーってなるところで同時に我々視聴者は人見のシャンな(=美しい)ハイキックにとつけむにゃあ運動能力を視覚的に理解するわけです。こりゃ確かに触らんでも分かるなと。

東京へ戻った四三一同は日本初の女子による運動競技会を開催します。ところが第二高等女学校のエース村田富江は新調したスパイクが足に合わない。ってことでその場で黒のハイソックスを脱いでしまいます。なんせ女子は肌を見せちゃいかんという時代ですから、先生、生徒、日本初の女子運動競技会の取材に来ていた記者などなど、競技場全体がどよめく事態となります。が、当の村田は素知らぬ顔、最初は戸惑いの表情を見せた四三も大きくうなずき、見事村田は優勝をかっさらっていきます。

しかし女性が脚を出して走り回ったということが新聞紙上に踊り、大問題に。しまいにゃ、村田の写真が卑猥な写真として露店で売られる始末。それを売ってるのが美川ですよ。忘れたころに出てきますよねぇ美川くん。スヤには本当に忘れられていましたが、我々も本当に忘れそう。でもね、多分ですよ、この美川って人はやっぱ我々なんですよ。同じ遊び人の孝蔵は憎めないのに、美川が憎たらしいのは、そこに自分自身を見るからです。胸に手を当てると誰だって美川くん的な一つや二つあるわけです。そういう現代人っぽい普通の人、ちょっと露悪的に描かれていますが、美川は我々なんだと思います。

で間の悪いことにその写真が村田の父親の知るところになってしまい、父親は第二高等女学校へ怒鳴り込んできます。女子が脚を出すとは何事か。こんなことをしてどう責任を取るんだ。だいたい女子にスポーツをさせるなどと…。最初は殊勝に聞いていた四三先生ですがここで遂にブチ切れます。

「なぜ、女が悪かとですか!」、「それは君、好奇の目にさらされる」、「それは男が悪か!女子が靴下履くのではなく、男が目隠ししたらどぎゃんですか!!」。もういだてん屈指の名場面でしたね。物語中、ここまで四三が怒ったのは初めてじゃないですか。この言葉の力、これほど四三がリアルに感じられたのは初めてでした。「いだてん」では2019年現在に投げかけられたような言葉が随所に見られますが、今回のこの言葉は正にそうでなかったか。それぐらい魂のこもった声でした。

物語の最後、学校をクビになった四三先生を辞めさすまいと女生徒たちが教室に立てこもります。一歩も引くそぶりを見せない女生徒たちに、遂に四三が動き出す。さて、どうなる!ってとこで続きは次回へ。ん?次回はいだてん、金八先生になる、か?!

Eテレ『SWITCHインタビュー 達人たち』2019年6月8日放送 奥田民生×リオ・コーエン 感想

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Eテレ『SWITCHインタビュー 達人たち』2019年6月8日放送回 奥田民生×リオ・コーエン

2名のゲストが交代してインタビューをし合うEテレ『SWITCHインタビュー 達人たち』。2019年6月8日の放送回では、ミュージシャンの奥田民生とYouTube音楽部門の総責任者リオ・コーエンが対談した。

日本でもそうだが海外では完全にストリーミングが中心。若い子のほとんどはもうCDなんて買わないそうだ。そりゃ月々1000円程度で音楽が聴き放題ならそっちがいいに決まっている。一方、アナログ盤、レコードの売上は右肩上がり。より本格的に音楽を聴きたい連中はレコードを聴くのだという。

リオ・コーエンもCDプレーヤーは持っていないそうだ。じっくり聴くときはアナログ盤。だから来日した時に色々な方がCDをくれるんだけど実は聴けないんだと笑いながら話していた。

番組を観ていて思ったのは、二人とも何も特別なことを言っていないということ。根底に流れるのは音楽とそれを作る人と聴く人双方へのリスペクト。

例えば奥田民生からリオ・コーエンへの質問。「レコード会社は要らないですか?」。リオ・コーエンは言う。「80年代と同じことをするのならレコード会社は要らない」と。

これからの音楽の流通においては。奥田民生は言う。「こちらからは選べないから全て出す」。リオ・コーエンは大きく頷き、CD、レコード、音楽配信。音楽を聴きたいと思う人に、聴き手が望む形でちゃんと聴けるようにするべきだと。

音楽の流通形態がこの10年で大きく変わったように、この先10年ももっと早いスピードで変わり続けるだろう。しかし大事なのは音楽家と聴き手両方に対する敬意。作る側と聴く側にもっとも利益(お金という意味だけではなく)がもたらされるべきだという、ごく当たり前の態度ではないだろうか。

リオ・コーエンはYouTubeの機能について不満があるそうだ。現在のような聴き手の好みに応じていく形ではなく、レコード店に行ったときに目当てのミュージシャンだけでなく他のミュージシャンに目移りをしてしまうような、良い音楽とそれを求めている人との偶然の出会いがあればいい。YouTubeをそんな未知の音楽との出会いの場していきたいと語っていた。

僕はCDを買う派だ。歌詞や対訳を読みたいから。だからストリーミングでも対訳が読めれぱ僕はストリーミングを選ぶかもしれない。ただ今はやっぱりCDを買うことがそのミュージシャンへのサポートになるかもしれないという気持ちが大きいいかな。ストリーミングはどういうシステムだかよく分からないし。

聴き手のわがままを言わせてもらえば、選択肢は沢山あった方がいいけど僕の好きな音楽家の収入が減って、彼らが思うように音楽が作れなくなるのは一番困る。だから結局は音楽の作り手にちゃんと正当な利益が還元される仕組みが絶対に必要。音楽を作らない、音楽を聴かない商売人に音楽配信の世界を牛耳られてはいけないのだ。

僕がこの番組を観て思ったこと。音楽配信の最大手であるYouTubeのトップにリオ・コーエンのような人がいて本当に良かった。日本を代表する音楽家の根本の考えが僕たち聴き手と同じ方向を向いていることを知れて良かった。この番組を観て僕は音楽の未来に対し、明るい気分になりました。

いやいや「いだてん」は面白い!

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いやいや「いだてん」は面白い!

 

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」の視聴率が低調らしいが、いやいやかなり面白いぞ。ということで唐突ですが、先日の第20回「恋の片道切符」の感想です。はは~ん、そういうことやったのねと思っていただければ幸いです。

とその前に。このドラマが始まる前、天の邪鬼な私としては、「けっ、2020年東京オリンピックのプロパガンダかいっ」と思っていました。が実は実は大間違い。プロパガンダどころかちゃっかりスポーツはこうでなくっちゃっていう批評が盛り込まれているんです。

例えば、満を持して出場したアントワープ・オリンピックでは、テニスで日本初の銀メダルを獲得するものの金栗四三始めその他の競技は完敗。帰国後の記者会見で記者から選手団が集中攻撃を受ける中、二階堂トクヨはこう言い放ちます。「オリンピック最優先の体制を改めない限り、わが国の体育の向上はない!」と。これ完全に今の日本に対して言ってますよね(笑)。

あと嘉納治五郎が欧米との実力の差にこう呟きます。「重要なのは50年後、100年後の…」。視聴者はこれまでの嘉納治五郎のイケイケぶりを観てますから、きっとこの後のセリフは、「50年後、100年後の日本選手が欧米人と対等に、いやそれ以上に戦えるよう」みたいなことを言うのかと想像します。ところがです、嘉納治五郎は満面の笑みでこう言うんです。「50年後、100年後の選手たちが、運動やスポーツを楽しんでくれていたら、我々としては嬉しいよね」と。

この場面の嘉納先生は神々しかった~(笑)。それまでは女子はスポーツしては駄目なんですかと訴えるシマに対しても、全く理解を見せるところが無かったあの嘉納治五郎がここでは打って変わってこういうセリフを吐く。なんか嘉納治五郎が一気に開花したような錯覚を覚えました(笑)。

シマは女子がスポーツなんかするもんじゃないと言われながらもこっそりと朝早く起きて、マラソンの練習に励んでおります。そこへ四三の朝練とかち合います。そしてその邂逅と四三がオリンピック後の放浪中にベルリンで観た景色、女子が当たり前のようにスポーツをする景色を見て四三は天啓を得るわけですが、ここでシマとの邂逅が繋がるわけです。

そのシマ。今回の話では彼女の「キエーッ!!」というシャウトが聞けます。そうです。四三の持ちネタですね。四三が素っ裸で水浴びをして「キエーッ!!」と叫ぶ。もう「いだてん」の定番です。ところが最近はその四三の「キエーッ!!」の回数が減ってきた。そこで今回はシマが初の「キエーッ!!」。次週の予告編ではシマが何度もシャウトする姿が描かれています。しかも四三は女学校の教師!?

つまり第21回、ここから四三の精神がシマへ受け継がれることを意味するのです。密かな主役交代と言っていいんじゃないでしょうか。日本人初のオリンピアン、金栗四三から女子体育の夜明けを担うシマへのバトンタッチ。私はそういう風に受け取りました。

この点、先のトクヨさんの発言や嘉納先生の発言と被って来ません?つまりそういうことなんです。勝利至上主義やメダルを何個獲ったとかではなく、市井の人々が等しくスポーツを楽しめることこそが本来のスポーツではないかと。金メダル、金メダルと念仏のように唱えていた四三もまたここで鮮やかに開花するのです。

私は芸術というのはすべからく批評の精神が宿っていると思っているんですね。たかが日曜夜の大河ドラマにそんな大層な理屈付けるんじゃないよと言われるかもしれませんが、これはやっぱり芸術なんだと。制作者一同もきっとそういう心意気なんだと私は思います。

ちなみにシマ演じる杉咲花さんは昨年末の「笑ってはいけない」に出演。バス内でのコントでいきなり「ギヤーッ!!」と叫び笑いを起こしていました。「いだてん」でのシャウトはそこから始まったのではと私は勝手に解釈しております(笑)。

Eテレ 日曜美術館「絵が語る僕のすべて~絵本作家・画家 スズキコージの世界」感想

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日曜美術館「絵が語る僕のすべて~絵本作家・画家 スズキコージの世界」2019年4月7日放送 感想

 

芸術と作家の幸福な出会いを見るとこちらまで幸せな気持ちになってしまう。絵本作家で画家でもあるスズキコージさんもそんな一人です。あ、スズキさんの場合はかしこまって芸術と言うのではなく素直に絵と言った方がいいですね。

今は神戸に住まわれていて、時折外に出て大きな絵を描く。坂道の途上にある神戸北野美術館の一隅を借りての下絵も構想もないライブ・ペインティング。知り合いの楽団が訪れ賑やかな音楽を奏でる。観光客がなんだなんだと立ち止まる。辺り一帯、陽気な雰囲気で、そこはまるでスズキさんたち自体が絵本の世界にいるような、絵と実際の境目がない不思議な世界が現れます。

しかしスズキコージさんは今年71歳。ここまでに来るのに大変な時期を過ごして来られました。

東京の芸大を幾つか受験するも全て不合格。それでも静岡から上京し、働きながら絵を描く毎日。幸運な出会いがあり少しは絵での収入も得るが、世間に認められるのは40歳の時に描いた絵本、「やまのディスコ」で絵本日本賞を受賞してから。売れない時期には肉体労働など仕事を転々とし、電話や水道などを止められることもしばしば。それでも絵を描くことは楽しくてしょうがなったと。お腹が減るのも忘れて描いていたと。

スズキさんの画力であれば東京の芸大も恐らく、合格する術はあったはず。けれど、どうも違う、アカデミックな世界は俺には合わないと見切りをつける。売れない時代は絵の仕事を紹介されるも個性が強すぎると首になる。やっぱり純粋な絵描きなんですね。何のために描いているか。そこから離れられないんです。

ライブペインティングは3日に渡り行われました。3日目は生憎の雨模様でしたが、何事もなく絵を描き続けます。スズキコージさんは言います。「絵を描くことが向いてるんだろうね」と。

絵を描くことがイコール生きていくこと。スズキさんは緑内障にかかり、今見えるのは視野が狭くなった右目のみだそうです。全く見えなくなったとき。こればっかりは分からないなと仰ってました。

スズキコージさんは絵を描く。絵本だからとか、子どもに向けてだからとか、世間に向けてだとか、そんなことには一切頓着せずに、好きな絵を描き続ける。「絵描きじゃなかったらもっとさみしかっただろうね。俺が絵をつくりだせる人間だった。その絵が僕の生活を豊かにしてくれてるんだと思う。」

冒頭に僕は、芸術と作家の幸福な出会いを見るとこちらまで幸せな気持ちになってしまう、と書きましたが、そんな簡単なものではないですね。到底出来ないことです。スズキさんのライブ・ペインティングを直に見てみたい。そんな風に思いました。

Eテレ「落語ディーパー~火焔太鼓~」 感想

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Eテレ「落語ディーパー~火焔太鼓~」 2019.3.26放送 感想

 

古今亭志ん生特集の第2夜は「火焔太鼓」。落語には頼りない主(あるじ)としっかり者の女房というのは付き物で、この「火焔太鼓」もそんな噺。

ある日道具屋の甚兵衛が古い太鼓を仕入れてくる。またそんなものを買ってきてどうすんの、と女房の小言が始まる訳だが、丁稚の定吉が店先でそれにハタキをかけるふりをして叩いていると、表から侍が駆け込んでくる。偶然通りがかった殿様が太鼓の音色を聴いて、いたく気に入ったご様子だと。是非、屋敷に持参せよと言う。甚兵衛は喜ぶが、妻は半信半疑。しかし甚兵衛が屋敷に太鼓を持参すると、殿様はすぐに買いたいと申し出る。甚兵衛の手元には思わぬ大金が手に入り、めでたしめでたしというお噺。

この噺、古今亭のお家芸だそうで、他の流派はやってはいけないという暗黙の了解があるとのこと。どうしてかと言うと、先にも書いた通り、あらすじとしちゃ大した話じゃない。これを志ん生が工夫を重ねて面白おかしく創り上げたという経緯があるから、志ん生の次男である志ん朝いわく、これは「オヤジの噺」なんだと。よそでやってる奴がいたら、「誰だそいつは」ってんで志ん朝がたしなめたっていう逸話があるようで、古今亭にとっちゃ一門を代表する大事な噺だそうです。東出昌大が今日はいつになく緊張感がありますね、と変な空気を感じていたみたいですが、ま、そういう噺なんだそうです。

落語なんてのは割と柔軟というか自由が効く芸なんですが、中にはね、こういうドシッとした重しみたいなものがあるのも面白いところではあります。そういや大阪にも「地獄八景亡者戯」なんていう桂米朝が復活させた大ネタがありますが、これはどうなんですかね。やっぱし敷居は高いんでしょうか?

志ん生の「火焔太鼓」に戻りますが、この噺はほぼ夫婦の会話で成り立っています。それも丁々発止やり合うってんではなく、女房が一方的にやり込める。でも、これがいい感じの夫婦なんです。二人の間に目には見えない情がある。仲睦まじさがあるんですね。これはやっぱり志ん生の人間力なんだと思います。こういう会話をあの声でテンポよくやられると、ホントに気持ちいいです。

そうそう、今回気付いたんですが、志ん生はリズム感が抜群なんです。どうもゆったりとゴニャゴニャ喋ってるイメージですが、結構早口なんです。でもそんなに早くない。ちょうどいいスピードで夫婦の会話がテンポよく弾んでいく。ベタな言い方ですが、間がやっぱり独特なんです。このつかず離れず、粘り気がありそうでない、湿り気がありそうでない独特の頃合いが抜群ですよね。

志ん生の特徴として合間合間にくすぐりを入れてくる。笑いどころを入れてくる。立川吉笑はパンチラインという言い方をしていましたが、この言い方、いいですね。例えば女房は頼りない甚兵衛を「だからお前さんはあんにゃもんにゃなんだよ」と言う。「バカだねぇ」とは言わずに「あんにゃもんにゃ」と言う。これ、まさしくパンチラインですよね。

それをさらりと言うところがまたよくって、まぁこれは志ん生自身が普段からそういうことを言う人なんだろうということですが、演じてるってんではなく、実際長屋の住人が言うようなちょっとしたユーモアの感覚が志ん生に備わっている。そういうことなんだと思います。

昔の人はそういうユーモアがありましたよね。私ごとで恐縮ですが、うちの母親なんかも昔アイドル歌手が歌ってると「風呂で蚊が飛んでるような声」だなんて言ってましたね。あと、大阪難波駅にかつてあった「ロケット広場」を「ロボット広場」なんて言ってましたが、こうなると間違って言ってんだかワザとなんだがよく分かりません(笑)。

ところで、今回の志ん生スペシャルから司会者となった片山千恵子アナウンサーがいい質問をしていました。女性を演じる時はどうするかって話。古今亭菊之丞が答えます。日本舞踊を習ってりゃ女性っぽい所作は身に付きますが、基本は話し方なんだそうで、けれど声音は必要以上に変えちゃいけない。女でも子供でもそうですが、極端に声音を変えるのは「八人芸」と言って嫌がられるそうです。要するにそんなの芸じゃねぇってことでしょうか。

確かに、志ん生の「火焔太鼓」だって夫婦それぞれの声音を変えちゃいない。普通に志ん生の声なんですね。それなのにちゃんと甚兵衛とおかみさんにしか聞こえないんですから、この何気なさがすなわち芸、凄みなんだと思います。

Eテレ「落語ディーパー~風呂敷~」 感想

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Eテレ「落語ディーパー~風呂敷~」 2019.3.25放送 感想

 

珍しく2夜連続の「落語ディーパー」。昭和の大名人、古今亭志ん生の特集だそうです。ゲストに志ん生の孫弟子にあたる古今亭菊之丞を迎え、志ん生のエピソードを交えながらその魅力を語り合います。

1夜目の噺は「風呂敷」。あらすじを簡単に言うとこんな感じです。熊五郎が用事があるってんで出掛けるも、どうやら帰りは遅くなるらしい。女房のお崎がのんびりしていると、そこへ若い衆の新さんが熊五郎を訪ねてくる。あいにく熊五郎は居ないが、お崎も暇だし雨も降って来たんで、新さんお茶でも飲んでったらと新さんを家に上げるが、思いのほか熊五郎が早くに帰ってくる。別に平気な顔してお茶でも飲んでりゃいいんだが、この熊五郎がどうしようもないやきもち焼きとくる。しかも‘へべのれけ’に酔ってるとあっちゃあらぬ疑いを掛けられては大変。お崎は新さんを押し入れに隠して、さあどうしよう、近くの兄(あに)さんの元へ相談に行くのだが…。とまぁそんなお噺です。

流石NHKですね。「風呂敷」演じる志ん生の映像があるんです。これがやっぱり面白い、確かに東出昌大が言うように映像は白黒だし音声も明確じゃないから、古い資料映像のようで知らない人からするとつまらないものかもしれないけど、志ん生を知った身とあっちゃ動く志ん生がなんとも愛おしいのです。

やっぱしね、お崎さんにしても魅力的なんですよ。全然いやらしくないし、可愛げがある。頼りになるのかならねえのかよく分からない兄(あに)さんだっていい塩梅で、志ん生が演じると登場人物がホントに愛らしい。これはもうホントに誰にも真似できないですね。

で熊五郎は泥酔してる。これをまぁグデングデンに酔ってるだのヘベレケに酔ってるだの色んな言い回しがありますが、志ん生は「へべのれけ」と言う。これですよ、この言語感覚。「へべのれけ」と言うことで印象がぐっと近くなる。それでいてあの志ん生の語り口ですから、何とも言えない味わいがそこに生まれるんです。

番組出演者によると「風呂敷」は非常に難しい噺だそうです。だから、菊之丞は持っていないし、一之輔も一度高座にかけたことはあるけどそれっきりだと。対して若手の柳家わさびと柳亭小痴楽は割とあっけらかんと持ちネタにしているそうで、この辺りの距離感も面白いですね。

噺の中身にしたって、一緒にお茶を飲んだぐらいでこんな風になりますかね、というわさびは自分が演じる時は、新さんを間男にしちゃう。実際この噺は元々そういう噺だったそうですからそれでいいのかもしれないけど、お布団敷いてって噺にしちゃう。一方、一之輔はお茶飲んだぐらいでこんな風になってしまうっていうのがこの噺のミソだと言う。解釈の違いですけど、僕は一之輔派ですかね。この辺はもう年齢でしょうね。

てことで落語はこのように演者によって解釈を変えてもいいんです。勿論最低限のルールはあるのでしょうが、多少中身を変えても差し支えない。ここも落語の面白い所ですよね。また、菊之丞の師匠である古今亭圓菊は「風呂敷」のお崎と新さんのやりとりをお茶を飲むってパターンとお酒を飲むパターン、2種類用意していた節があると。その日のお客さんの状態によって使い分けていたんじゃないかっていう。お茶とお酒、ただそれだけの違いなんですが、やっぱりニュアンスは異なりますよね。なんか粋な話です。

落語というのは新作落語は除いて、みんな共通の噺なんです。それを如何に演じ分けていくかっていうところが腕の見せ所なのかもしれませんが、これ、音楽の場合もそうですね。カバー曲なんてのが時々ありますが、その歌い手の解釈、俺だったらこう歌うねっていう。硬い言葉で言うと批評ですが、そうした批評の精神がその芸術の価値を高めていく。落語もそういうことではないでしょうか。

Eテレ「落語ディーパー~真田小僧~」 感想

TV Program:

Eテレ「落語ディーパー~真田小僧~」 2019.3.11放送 感想

 

今回のテーマは「真田小僧」。子供が出てくる噺だそうです。小利口な悪ガキが父親から小遣いをせしめる話だそうで、大人をからかう悪ガキといやぁ僕は大阪人ですから、三代目春団治の「いかけや」を思い出しますが、どっちにしても悪ガキがイヤらしく見えちゃあしょうがない。春風亭一之輔によると、演じる人によっちゃ、ホントに嫌な子供になってしまう。前座でも二ツ目でもウケる鉄板ネタだそうですが、実は演じる人の人(にん)が出るとあっちゃ、ある意味恐ろしいネタでもございます(笑)。

「真田小僧」といえば。ということで東出昌大が紹介するのは三代目 古今亭志ん朝。なんつったって歯切れがいいですから、子供がイヤらしくも何ともないんです。愛嬌があるんです。ちなみに大阪人の僕が江戸っ子と聞いて先ず思い浮かべるのは志ん朝ですね。

続いて当代の柳家さん喬と柳家権太楼の映像が流れました。嬉しいですね。僕は両人とも大好きですから、アプローチの違いってんですか。さん喬さんはイメージどおりの上品な悪ガキ(?)で権太楼師匠もイメージどおり賑やかな悪ガキ。こうやって好きな落語家の演じ方の違いを見るのは実に楽しいことです。ニヤニヤしてしまいました。

落語には年寄りから女性から子供から色んな登場人物がいます。それをどうやって演じ分けていくか。この辺りの話も面白かったですね。一之輔さんは全く声音は変えないと。語尾や仕草、目線のみで表現するんだそうで、一方で柳家わさびは背が高いから子供を演ずる場合は手を結構使うと。腕を縮こませたり、手を顔の真下に持って来たりすることで背の高い自分を子どもっぽく見せるんだとか。柳亭小痴楽も自分の見た目の特徴をなんとか打ち消そうとしてるらしいですが、基本チャライやつですから本心はよく分かりません(笑)。

「真田小僧」の登場人物は基本、父親と子供。どっちに身を入れて演じるかで印象も変わってきます。一之輔さんは自分が父親になってからは完全に父親メインで演じていると話していました。今回の実演は小痴楽さんでしたが、観てると彼はやっぱ若いですから子供メインなんですね。彼のキャラもあるでしょうが子供メインがしっくりくる。なるほど、そういう見方もあるんだなと。やはり落語は奥が深いですな。

Eテレ「落語ディーパー~長屋の花見~」 感想

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Eテレ「落語ディーパー~長屋の花見~」 2019.3.4放送 感想

 

「落語ディーパー」がこの3月からまた始まりまして、この日はその1回目。その間出演者それぞれに佳き事があった模様で、中でも柳家わさびさんと柳亭小痴楽さんのお二人は真打に昇進したらしく、なんともお目出度い限りでございます。

記念すべき再開1回目のお題は「長屋の花見」。なんでもこちらの演目は‘The 落語’と呼べるような基本中の基本だそうで、人が沢山出てきてわちゃわちゃしたり、食べる所作があったり、落語の基本的な技術が大凡網羅されてると。だから演じる方は難しい。そういう演目だそうです。

話の中身も大した話じゃありません。貧乏長屋の住人が大店(おおたな:大家さんのことです)に連れられて花見に行く。けれど貧乏だから酒がありません、アテもありません。ま、貧乏は貧乏なりの宴会でもしますかっていう話です。で、このどうってことない話を面白おかしくってんですから、演じる方には技量がいる訳です。

この番組のいいとこは過去の名人の話を観れるところ。ほんのさわりですけどこれがいいんです。落語家と言っても沢山いますから、僕みたいな落語の初心者にゃどっから手を付けたらいいか分からない。そこでこういう風に観せてもらえると、じゃあこの人のをちゃんと聴いてみましょうかとなるわけで。僕も早速今回VTRが流れた5代目柳家小さん師匠のCDをば借りて参りました(笑)。

てことで、今回の「長屋の花見」は小さん師匠のVTRが流れます。まぁ上手いです。そりゃまぁ人間国宝ですから、素人の僕が聴いてもこの方凄いなと思います(笑)。肩肘張ってなくて淡々としてんですけどね、妙な可笑しみがあるんです。周りにもいませんか。この人が話すと妙に面白いって人。よく聞きゃ面白くもなんともない話なんだけど、この人が喋るとなんか面白い。その人間国宝レベルってことです(笑)。

「長屋の花見」ってのは元々は上方の「貧乏長屋」って話だそうです。それを5代目小さん師匠の師匠の師匠が東京に持ち帰ったそうで、番組では「貧乏長屋」演ずる6代目笑福亭松鶴の声(映像は無かったです)が流れました。懐かしい声やね。子供心に何となく覚えていますが、落語はちゃんと聴いたことが無いので、またネットでも観ようかと思います。まぁ便利な世の中や。

ちなみに「長屋の花見」は花見ですから、ちょうど今の時期、2月、3月にやるそうで、それもちょいと早い時期にやるんだそうです。ま、それが‘粋’ってことで、逆に桜が散り始めてんのにこれをやっちゃうと‘不粋’ってことになるんでしょうな。

そして番組後は番組ホームページで出演者による「長屋の花見」がフルで観れます。今回は春風亭一之輔さんです。例のごとく「ったく、しょうがねぇや」って感じがこの話によく合ってますな。

Eテレ 日曜美術館「生き物のいのちを描く~知られざる絵師 小原古邨~」 感想

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Eテレ 日曜美術館「生き物のいのちを描く~知られざる絵師 小原古邨~」 2019.3.3放送(2018.10.7の再放送) 感想

 

日美では時折、版画家が登場します。今回は小原古邨(おはらこそん)。明治時代から昭和時代にかけて活躍した日本画家、版画家です。元々は日本画を描いていたそうですが、当時はジャポニズムなる日本画ブームがフランスで起きていて、古邨の絵も目を付けられます。この辺り、教科書に出てきたフェノロサも絡んでいるようですが、案の定、古邨の絵は海外で注目を浴びる。けれど創作は追いつかない。そこで古邨は量産可能な版画へと舵を切ることになります。

版画というのは版元、絵師、彫師、摺師の共同作業です。版元というのは今でいうプロデューサーですね。そのプロデューサーが絵師は誰それにしよう、彫師は誰それにしよう、なんて決めていく。で共同作業ですから、それぞれ皆が意見を持ち寄る。ここはこうしようとか、ここは技術的に無理だからこう変えてみようとか。そういう風にしてそれぞれの個性がぶつかり合って一つの作品が出来るわけです。その点、通常の絵画の一人の作家の強烈な個性の発露とは少し違うんですね。

今回の見所は、80年前の版木での古邨作品の再現です。再現するのは摺師40年の沼辺伸吉さん。版木を見て沼辺さんは「柔らかさを感じない。切れるような鋭さ、緊張感を感じる。」と仰っていました。

古邨の版画には江戸時代から伝わる伝統的な技法も用いられています。例えばカラスの黒は黒一色ではなく艶を出すための技法があったり、雪を立体的に表現する技法があったり。それは普通に観ていると気付けないところなんですが、見えないところに凝るというのは芸術作品のみならず工業製品においても見られる日本人の特徴なのかもしれない。そんな風にも思いました。

今回のスタジオ・ゲストは2名です。俳優のイッセー尾形さんと中外産業の美術担当、小池満紀子さんです。小池さんは埋もれていた古邨作品を発見し、世に出したすんごい人です。

イッセー尾形さんは言います。「芸術というのは西洋でいうと、写実主義があったら次は印象派があって、キュビズムがあってっていう、前の時代を批判して発展するというのがあるけど、この場合は江戸時代の浮世絵をそのまま発展させて、批判しなくて、健やかな健康的な発展の仕方を感じる」と。とても素晴らしい見方だと思いました。

あとイッセーさんはこんなことも仰っていました。「同じ版画家でも北斎は望遠鏡の目を持っている。逆に古邨は小さな世界に目が行く人なんじゃないか」と。また版画というのは非常に手がかかる。皆で積上げていくものです。それについては「謙虚な存在が一つ一つの版画の絵の中にある」と仰っています。「それを皆で表した時の喜び。これは一生辞めれらないだろう(笑)」と笑って話していましたが、これもとても素晴らしい見方だと思いました。

そういえば版画を再現した沼辺さんも「絵師は彫師や摺師がどういうアイデアを出すか楽しんでいたんじゃないか」と仰っていました。とかく芸術家というのはアクの強い、俺はこうでこうなんだという‘我’が強いもの、という印象がありますが、そればっかりじゃない。皆で協力して何かを作り上げることに喜びを感じる芸術家もいるんだと。考えてみれば当たり前のことですが、そういう部分にも改めて気付いた回でもありました。古邨もまた、全部自分でする人ではない、謙虚な人、和の人であったのではないかと。こういう芸術家もいいな、って思いました。

最後に。古邨の版画は日常の風景を描く花鳥画です。そこに強烈な我欲は感じません。日常なちょっとした風景ですから小さな命の存在が時にユーモラスに描かれます。小池満紀子さんは言います。「古邨の作品から自然に目を向けるのもいいかもですね」と。

Eテレ 日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」 感想

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Eテレ 日曜美術館「日本で出会える!印象派の傑作たち」2019.2.24放送 感想

 

今回の日美は、日本各地に点在する印象派の作品をゲストの3名がそれぞれ訪問する趣向。女優の深川麻衣さんはひろしま美術館へ。演出家の大宮エリーさんは山形美術館へ。歌舞伎俳優の尾上右近さんは笠間日動美術館へ訪れていました。

印象派が登場するまでは宗教画や写実的な絵が主流をなしていました。そこへ印象派の画家たちが登場するのですが、専門家たちには「なんだあの絵は。印象を描いているだけじゃないか」と酷評されたそうで、それが印象派という名の語源になったそうです。

日本でも印象派の絵は大層人気ですから、色々な美術館に所蔵されています。今回の番組で印象に残った作家は2名。アルフレッド・シスレーとポール・シニャックですね。シスレーの作品はひろしま美術館に「サン=マメス」、山形美術館に「モレのポプラ並木」が所蔵されています。どちらも美しい絵です。自然の美しい景色がシスレーの眼を通して切り取られています。

ポール・シニャックは点描画で有名です。25才の時に描いた「ポルトリュー、グールヴロ」と68才の時に描いた「パリ、ポン=ヌフ」。どちらも同じ点描ですが手法は大きく異なります。68才の時の絵はそれこそ俳句のようですね。ちょっと勝手に画像を貼付できないのが残念ですが(笑)。

印象派というのは先にも述べたとおり印象を描いたもの。同じ景色でも作家それぞれの見え方というのは当然異なりますから、それぞれの心の風景、或いは目から脳みそに至る過程で変換された風景がそこにあるわけです。

僕たちは寝ている間に夢を見ます。しかし普段見慣れた景色が登場する現実的な夢であっても、実際の場所とはかなり違って見えることがよくあります。僕も夢の中に子供の頃よく利用した駅がふいに登場する時があるのですが、実際の駅とは随分違うんですね。或いは昔懐かしい思い出なんかもそう。印象に残る出来事、人、景色というのはある程度覚えていても、その周りの風景というのは案外大雑把なものです。

人間の脳みそというのは写真じゃありませんから、やはり印象に残っている部分しか覚えていないんですね。けれど強く印象に残っている部分はちゃんと覚えている。しかも場合によってはイメージを増幅させより強く残るものに補正している場合がある。印象派の絵は言ってみればそのような絵なのかもしれません。

それにしても、、、。モネの絵はそこらじゅうにあるな(笑)。