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『それしかないわけないでしょう』の「すらい」について
竜馬がゆく/司馬遼太郎 感想
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『竜馬がゆく』 司馬遼太郎
『竜馬がゆく』を読んだのは大学生の頃。大学の購買で買って読み始めたんだけど、当時は読書の習慣なんて丸っきりなかったからすぐに挫折(笑)。その後何のきっかけで再び読み始めたのかはとっくに忘れたけど、とにかく僕にとっては沢木耕太郎『深夜特急』とともに、読書をするきっかけになった、読書の面白さを知るきっかけとなった思い出深~い小説です。
でやっぱり竜馬さんはスーパーヒーローなんですね。ケンカは強いわ、でも基本は戦わない人で、優しくって愛嬌あるからモテるし、普段は軽いけどいざとなりゃ凄みがあって、頭もバチバチっと回転して誰にも負けないし、ていうか自分も含めなるべく勝者を作らない。そりゃあもう男なら絶対憬れるような要素をこれでもかってぐらいに持っている人で、勿論これは小説だし、司馬さんの創作なんだろうけど、やっぱ生き生きとしているから、生身の人間みたいに思っちゃう。だから幾多の大学生同様、当時僕は京都に住んでいたから、霊山へお墓参りに行ったり、寺田屋へ行ったり、まあ単純なもんですな(笑)。とにかく竜馬、竜馬って憬れたもんです。
ところがですねぇ、これがだんだんと覚めてくるわけです。現実を見始めるというか、余りにもスーパーヒーロー過ぎて、やっぱ遠すぎるんですね。ちょっと違うんじゃないかなって。そこで出会ったのが司馬さんのもう一つの幕末人気作、『燃えよ剣』でございます。
ここに出てくる土方歳三って人が、この人もめっぽう強くてカッコいいんですが、とにかく一途なんです。新鮮組ですから時代と逆行しているんですけど、それでも親友の近藤勇と共に信じる道を突き進む。けどだんだんと追い詰められていく。それでも近藤勇と袂を分かってまで抵抗し続ける。ま、滅びの美学ってんですか。やっぱこれもねぇ、暇を持て余しているバカな大学生にはグッとくるわけですよ(笑)。そこでやっぱオレは竜馬じゃねえ、土方さんだって思い始める。これまた単純な話やね(笑)。
つーことでしばらくは土方のファンになって、そんでもってそっち関係(←幕府側ってことね)の本を読み漁る。例えば池波正太郎の『幕末遊撃隊』。ここに出てくる主人公の伊庭八郎がまた涙ちょちょぎれるぐらいカッコいいんだ。あと北方謙三の『草莽枯れ行く』とか、これもよかったな~。まぁそういう時勢や損得に関係なく、己の信じた道を突き進む男たちに憬れて、その代表として土方さんがいたってことでしょうか。
ま、でもこれも良し悪しでね。盲目的に信じた道を突き進むってのはそりゃ、大学生ぐらいの年代にゃひとつの憧れにもなるんだろうけど、実際にはね、最初の信念に殉じていくってんじゃなく、一時の情緒に燃え上ってしまうってんじゃなく、自分で考えてこれ違うなって思ったらちゃんと軌道修正して、人に変節したなんて言われようと自分の中で理屈の通った考えを持っていくっていうことに当然ながら気持ちは傾いていくわけで、そうなりゃやっぱ竜馬さんなんです(笑)。
確かに表面的なスーパーヒーロー感というか全能感はありますけど、それはそれとしてね、もっと根本のところというか、自分で考えて、皆の意見を尊重して、より良い方向へ向いていくにはどうしたらいいかっていうことを、これでいいってことじゃなく絶えず考えていくっていうのかな。土方さん的に言うと、そんなこと分かってんだ、それでもオレはこっちに行くんだってことになるんだろうけど、それはやっぱりネガティブっていうか自分も含めて皆がしんどくなるし、気持ちいこと言っちゃうけど、やっぱ一人では生きていけないわけだから、誰かがいて自分がいるっていう、そういう当たり前の営みの中であーでもないこーでもないって思い悩んで軌道修正していく方が自然なんじゃないかって。竜馬さんもきっとそっちの人だったんじゃねぇかなって。
だからまた変わるかもしれないけど(笑)、今は竜馬さんみたいにあっちこっちぶつかりながら自分の考えに固執しない、メンツとかプライドなんか放っぽって、素直に「あっそうか」って簡単に心変わり出来るように、そんなんでいれたらいいなって思うのです。
大学の頃に司馬遼太郎の作品に出会って、そっから夢中になって全作品とは言えないまでもかなりの数を読みまくって、中には何回も読み返したのもあったりして、『竜馬がゆく』も文庫本で全8巻もあるのに覚えているだけで3回は読み返してるし、なんだかんだいって僕は竜馬さんが好きなんだろな~と。家族を持って、いい年になって、今もう一度読み返してみたら、また新しい発見があると思うけど、読みたい本が他に山ほどあるからねぇ。いつになることやら(笑)。
この世界の片隅に/こうの史代 再読 感想
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『この世界の片隅に』 こうの史代 再読 感想
『この世界の片隅に』をもう一度読みまして。もう一度って言っても前読んだ時からまだ1ヶ月ぐらいしか経ってないんですけど、まぁそれでも1度目ではよく分からなかったところがなんとなく、あ~そうなんかねぇ~ぐらいにはなったような気もして、やはり2度目だと落ち着いて読めたのかなぁなどと思ったりもしています。
1つ目。これは皆もそう思ったかもしれないですけど、やっぱ哲さんのくだり。よく分からないですよね~。ちょっと説明しますと、すずさんの幼馴染に哲さんて方がいて、この人は水兵さんなんですけど、休暇ということですずさんの嫁ぎ先にふらっとやって来て、ていうか確信犯的にやって来るんですけど、この人が子供時代以上に馴れ馴れしくてですね、「すず、すず」って呼び捨てにするぐらいなんですけど、じゃあ今日はすずの家に泊めてもらおうか、なんて言うわけです。そこですずさんの夫である周作さんがですね、「今日は父がおらんですけぇ、私が主です。あなたをお泊めするわけにはいきません」みたいなことを言いまして。ここで読者は、おぉよう言うた周作さん、それでこそ周作や、なんて思うんですが、ところが周作さん、離れというか物置に追いやった哲さんとこへすずさんに行火なんか持たせて、あっちは寒いから持って行ってやれなんて言うんです。あかんっあかんっ、そんなん離れに二人きりにしたらあかんやんか!なんてこっちは思うわけですけど案の定哲さんはすずさんに言い寄りまして、おぉ~っ、お前ら何しよんね~ん!って展開になるわけです。結局すずさんが、うちは周作さんが好きですけぇみたいなことを言って事なきを得るんですが、それにしてもですよ。おい、周作!あんた何で大好きなすずさんを差し出すような真似やったんやって思うわけです。
ただこれがですね、読み返してみるとなんか分かるような気がしてきまして。だって周作さんにしたってすずさんが好きで、何も知らんすずさんを無理やりって言ったらあれですけど、もしかしたらすずさんにいい人がおったかもしれんけど、それを嫁に貰ったわけで、そういう意味じゃ周作さんには負い目みたいなのがあるわけです。で哲さんとすずさんは幼馴染で傍で見てたら仲がいいのは分かるし、哲さんは水兵だからいつ死ぬか分からんし、わざわざすずさんのところに来たってのは今生の別れを言いに来たんだというのはそりゃ誰にだって分かるし。それが周作さんの優しさって言ったらそんなの優しさじゃねぇなんて言われそうだけど、自分の負い目もあるだろうけど、すずさんと哲さんのこと考えたら周作さんは人の気持ちに敏感な人だからついそうするのが一番いいんだなんて。他人から見たら絶対いいわけないんですけど、当事者はですね、周作さんはすずさんが好きだからそういう時はそう考えてしまうもんなんですよ。
ていうかこの行ったり来たりな頼りない男の微妙な心情をこうの史代さんはよく描けるなと。表情もそうですけど、微妙な心の動きをホントに丁寧に描くんですね。だからやっぱこうの史代さん自身も他人の感情に敏感な人なんだろうな~と勝手ながら偉そうに思ったりしました。
あと終盤の方で義姉の径子さんがすずさんに、あんたの居場所はここなんやからここにおったらええ、みたいなことを言うのですが、2度目読んだ時にはここが凄く印象に残りました。すずさんなりに思い悩むところがあって、でもそれは夫である周作さんにも十分に分かってもらえずに、そこでキツイ性格の径子さんがすっとすずさんに吐くセリフがね、全然ドラマチックじゃないところがまたええですよねぇ。
でまぁそういうところを見ていくと、こうの史代さんはやっぱり詩人だなぁと。これは中盤の話だったか、土手ですずさんが海というか軍用艦を見ていて、そこへ周作さんが仕事から帰ってきて、落ち込んでいるすずさんの頭を撫でようとするんですね。でもすずさんは周作さんの手を振り払う。周作さんは撫でようとする、すずさんは振り払う、そんなことを繰り返す描写があって。で後で分かることなんですが、実はすずさんの頭には10円禿げができていたっていうオチがつくんですけど、でも本当はね、もしかしたらすずさんが周作さんの手を振り払ったのは10円禿げがバレるのが嫌だったというよりも、別の意味があったんじゃないかって、そういう行間があるんです。
だからあらゆる場面でそうなんですけど、こうのさんはこの辺をクドクドと説明したりしない。絵でもって、前後の動きでもって表現するんですね。だから読む人によって色んな解釈が出来る。読む場所や時によって違う見え方がする。つまりはポエジーなんです。世の中には言葉で説明できないものがあって、それを言葉で説明するのではなく、ポエジーという目には見えないものを立ち上がらせることで過去にあった情感や思いを現出させるやり方がある。言葉では説明できないものを表現するのが詩人であるならば、こうのさんも詩人なのだと僕は思いました。
てことで2回も続けざまに読んだんで、まぁしばらくは読まないかなと。といいながら、来年には映画の再編集版が上映されるそうで、僕は「片隅」ビギナーなんでスクリーンではまだ一度も観たことがなく、再編集版であろうと何であろうと今から楽しみで仕方がないんだけど、そん時にはまたこの原作を読み返すかもしれないなぁと。そんな具合にして、結局この物語はいつまでも終わらないものなんだと思います。
この世界の片隅に/こうの史代 感想
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『この世界の片隅に』 こうの史代
ずっと前から気になっていた『この世界の片隅に』。友達が買ったってんで、そいじゃあオレにも貸してよってことで幸運にも読むことが出来ました。マンガだし上・中・下、さらーっと読めちゃうかなと思っていたけど、そうはいかんよね。読んでは戻り、戻っては読む、なんかすずさんみたいにゆ~っくりとページ開いていくのが、この本の読み方なのかなぁと。映画もドラマも観てなかったけど、今さらどっちも観たくなりました。遅いっちゅうねん(笑)。
冒頭からしばらくは日常の風景が流れてゆくだけなんだけど、僕たちの日常が淡々としていそうで実はそうではないのと同じで、いつも心が少しずつ動いていくような、でも勿論そんな堅苦しいものではなくて、それは本っ当に素晴らしい絵を描くこうの史代さんの絵の柔らかさもあると思うんだけど、そういうものに優しく導かれて自分もその中に入っていくような、柔らかいんだけど力強いとでもいうような、慌ただしく波風は立たないんだけど、大きく濃くゆっくりと柔らかい波が進んでいくみたいな感じで、共に読みすすんでいるような気はします。
だから、とりあえず最後までゆ~っくりと読みはしたけど、決して読み終えたって感じはしなくて、またしばらくしたら読みたいな~と思うだろうし、それでもやっぱり何回読んでも読み終えたなぁとは思わないだろうし、いつ読んでも途中からお邪魔しま~すっていうか、この物語はそうやっていつまでも続いていくものだと思います。
それはやっぱ地続きだからで、地続きなんて言うとあの時代と今は全然違うんだから同じように考えないでくださいとピシャッと言われそうだけど、僕にはそうは思えなくて、確かに時代背景は違うけど、僕たちだって一応はちゃんと真面目に生きているし、そういうささやかな営みがある以上はそれを守りたいっていうか、守りたいって言うと大げさだけど、悲しい出来事はそういうささやかな日常にすっと滑り込んでくる訳だから、そこのところはやっぱ同じなのかもしれないって。
だから玉音放送の後、すずさんの印象的な場面があって、それは急にエネルギーが立ち上がるような強烈な場面なんだけど、それも割となんかすぅっと入ってくる感じで、恐らくこの漫画を読む前にそのセリフだけを聞いていたら、いまひとつ飲み込めなかったかもしれないけど、上巻中巻下巻と読む進む中で表れるすずさんの言葉というのは自然に入ってくるのだな。でも自然に入ってくるからといって理解したとか軽く流れてしまうってことではなくて、重い言葉なんだけど、ていうか重い言葉とは言いたくはなくて、それは僕たちへと続いていく言葉でもあるわけだから、そこを情緒的に捉えるのはヤダなっていう。肯定するとか否定するとかってんでもなく、そこはちゃんと落ち着いて飲み込みたいというか、そこはこのこうの史代さんの絵とストーリーの力で多分ちゃんと飲み込ませてもらえたと思います。
とまぁもっともらしいことを言っていますが、またしばらくして読んだら違った感想も出てくるだろうし、これはこうだということではなく、その折々に頷きながら長く読んでいくものなのかなぁとは思います。
僕にも片隅があって、皆にも片隅があって。人の片隅に触れたいなんて図々しい話だけど、たまにはね、すずさん、またあんた達の片隅に触れさせてくれんさいね、って(笑)。
夕凪の街 桜の国/こうの史代 感想
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『夕凪の街 桜の国』 こうの史代
こうの史代さんの『夕凪の街 桜の国』を読みました。先ず絵がすっごく上手。そんなこと言うと、こうのさんはくすぐったがりそうだけど、本当に素晴らしい絵です。決して写実ではないんだけど、ちょっとした表情とか体の動きに実に敏感な絵で、伝わってくるものがとても大きいのです。
漫画だから静止画なんだけど、ちゃんと前と後ろがあるっていうか動いてる。絵に躍動感がある。桜の国(1)で七海ちゃんが野球のノックを受ける場面があるんだけど、その時のスローイング姿だけでもずっと見てられます。背景も丁寧に描き込まれていて、広島で暮らしている時の家の中の様子や街の背景に映るちょっとした人の姿なんかもしっかりと描かれていて、そうしたところからも人の動きの前と後ろを感じられる。だから人物が立体的なんだな。そうした流れの中でセリフがあってそのセリフにも前と後ろがあってしかもそこを急がないっていうか、読み手に時間を与えてくれる。だから俳句的っていうか行間がたくさんあって、少し読んでちょっと戻ってまた読んでみたいな、そんなゆったりとした時間を与えてくれるのです。
何気ない絵なんだけど、凄く表情が豊か。だから登場人物がとっても魅力的なんです。ちょっとした微妙な表情の変化を捉えていて、そこにもやっぱり前と後ろがあるっていうか。だからちらっとしか出てこない皆実ちゃんの会社の同僚たちだってちゃんと立体的で生活があって、何気ないからこそ、さぁーと流れて行ってしまわない。場面一つ一つ、セリフ一つ一つが流れて行ってしまわないのです。
東日本大震災があって、生き残った人がいて、生き残ったのになんで生き残ってしまったんだろうって加害者の気持ちになってしまう人たちがいて。皆実ちゃんもそうでした。なんで私は生き残ったのかって自分を責めて。だからようやくそこと向き合い始めて、ようやく歩き出そうとしたある日、急に皆実ちゃんの身に起きる現実に、「てっきりわたしは死なずにすんだ人かと思ったのに」ってセリフに愕然としてしまいます。
そして時が経って。おばあちゃんやお父さんや七海ちゃんや凪生や東子ちゃんが東京にいて、いや今も日本中のどこかにまだ沢山いるんだってことが、戦争が終わって70年以上も経ってもまだここにいるんだってことが流れて行ってしまわない。まだ前と後ろがあって、現在へ続いている、夕凪はまだ続いているのだと強く感じられるのです。
想像ラジオ/いとうせいこう 感想
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『想像ラジオ』 いとうせいこう
夢ばかり見ている子供でした。野球選手になって大活躍する夢や悪い奴をやっつける夢や好きな女の子に告白される夢。いや、これは夢と言うより妄想かな。ていうか今もやってます(笑)。告白しますが、僕はいい年をして未だに妄想しています(笑)。
僕には大切な家族がいます。もし何かの理由があって会えなくなったら。僕は妄想すると思います。街角で急に会って、「あぁ、こんなとこで」、みたいな妄想を。それからまた一緒に居れる妄想を。もしくは本当にこの世から居なくなったら。僕は妄想すると思います。楽しかった時、険悪な雰囲気だった時(笑)、それから今の今、一緒にいる姿を。
僕が急にこの世から居なくなる場合もあるかもしれない。そうそう、実はそういうことを妄想してしまうことがあるのです。ここで自転車で転んで頭打って死んだらどうしようとか、電車に乗ってる時に後続の電車が突っ込んで来たらどうしようとか。
でもそうなったら僕は真っ先に妻の元へ駆けつけるかもしれない。いや、きっと駆けつける。きっと空へ召されるまでに幾ばくかの猶予があるはずだ。だから一刻も早く、空へ召されるまでに何とか妻の元へ駆けつけ、先ずはこうこうこういう理由でこうなったとことを、或いは詫びや言い残したいこと、或いはあそこの引き出しは開けないでくれとかをあれこれ告げるだろう。だから妻の元へ駆けつけるまでの少しの時間を利用して、必死に考えをまとめて必死に急ぐんだ。ていうかもうこれ、妄想入ってます(笑)。
『想像ラジオ』は‘魂魄この世にとどまりて’しまったDJアークの物語。かもしれないし、もしかしたら登場人物である作家Sの作中小説かもしれない。一方でこれホントのことかもしれない、ドキュメンタリーかもしれない。時々耳鳴りがしたり、気分が悪くなったり、変な声が聞こえたりっていうのは精神疾患的なものじゃなく、事実、何かの声が聞こえているのかもしれない。でもやっぱり作者いとうせいこうの想像かもしれない。まあ何だっていいや。
僕は小さい頃、大きくなったら妄想はしないだろうって思っていたけど、40を過ぎてもまだやっている。多分、もっと年をとっても死にそうになってベッドに寝たきりになっても妄想しているだろう。好きな人のこととか、それは妻だったり、妻じゃなかったり(笑)。あと僕がカッコいいスーパーお爺さんになってたり。
今は3月だから震災関連の番組があります。気になるから観るけど、「この後津波の映像が流れます」ってテロップが入ると僕は目を閉じて耳をふさぎます。僕は大阪にいて全く被災していないけど、僕にもムリです。
想像することは止めることができない。いいことだけじゃなく嫌な事も想像してしまう。しょうがない。気付けば勝手に想像してしまうのだから。きっと僕は死んでも想像しているだろう。もしあの世があればあの世に行っても想像しているだろう。会いたい人のこととか、会えない人のこととかを。
わたしを離さないで/カズオ・イシグロ 感想
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『わたしを離さないで』 カズオ・イシグロ
カズオ・イシグロの小説は解決されないことが解決されないままそこにあって、それでも時間は流れていくみたいなイメージが僕にはある。ただそれでも読んで良かったと思わせる魅力が彼の作品にはあって、それはやっぱり心に形のあるものが明確に残るからで、解決されない、いつまでもあぁそうかって腑に落ちないものではあり続けるんだけど、読んだ後では心のありようが違ってくるというか、具体的にどうとは言えないけど、お前はどうなんだと問いかけられているような、その問いがいつも心に引っ掛かりを残し続ける。彼の作品はそんなような作用を読み手にもたらすものなんだと思います。
誤解を恐れずに言うと、僕はやはり最後に反逆して欲しかったなって。素直に無垢にそうは言えない事は十分承知しているつもりだけど、そう思いたい、というか、でもそれって僕自身の偽善を突きつけられているような気分もあって、やはり一概には言えないんだけど、ページ数が残り少なくなって、もうそういうことは起きないんだなと分かっていてもやはり最後まで反逆して欲しかった、早く逃げて、なんで逃げないのっていう気持ちが強く残ったのは正直なところです。
キャシーとトミーは逃げちゃだめだったのかな。いや逃げられないのは分かっている。僕たちはもう世界中と見えるところ見えないところで繋がり合っていて、もう誰とも無関係ではいられない。グローバリズムなんて言ってるけど、要するに極論すれば誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立っている訳で、そんなこと俺はしてないと言ったって僕たちは美味しいものを食べたり、誰かにプレゼントをしたりっていう行為の中で、その裏にはもしかしたら僕たちの知らない誰かが犠牲になっているかもしれないし、僕らの新しいスニーカーは誰かの裏庭を荒らしているかもしれない。原発や沖縄の問題を思い浮かべればよく分かる。いくら綺麗ごとを言ったってもう僕たちはそういう世界にいるのだ。
そういう意味ではキャシーやトミーも逃げることはできないのかもしれないし、反逆して欲しかったななんて言ってるけど結局僕たちは今のところエミリー先生でもあり、彼らを腫物でも見るような目で見てしまう存在でもあり、反逆される側でもあるという事実からは目をそむけることは出来ない。一方でいつ僕たちもそちら側になるかもしれない、そしてそちら側へ行けばもう簡単には戻ってこれないという現実をも孕んでいる。
それでも彼らに逃げて欲しかったのか、反逆して欲しかったのかと問われれば、そうした複雑な感情が絡むにせよ、そうだという気持ちが勝ってしまうのはどうしようもない事実として今の僕には残っている。逃げて、っていうのは自分自身のつい見て見ぬふりをしてしまう現実に対する負い目から解放されたいという自己防衛みたいな気持ちが働いたからかもしれないし、それは否定しきれないけど、偽善だと言われようが彼らに逃げて欲しいという気持ちは事実としてある。感情的に言ってしまえば、キャシーたちの犠牲の上に立つ幸福なんて要らない。
そんなこと考えようが考えまいが何も起こらないし世界は変わらない。けど、そういうことを心のどこかに残していく、目に見えない引っかき傷を残していくという行為は無駄な事ではない、意味のあることだと思います。
僕はフィクションにこそリアリティーは宿ると思っている。この物語はイギリス人が書いた遠い国の空想ではない。僕たちの物語でもあるのだ。
忘れられた巨人/カズオ・イシグロ 感想
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『忘れられた巨人』 カズオ・イシグロ
歴史は封印されるべきものだろうか。もし悲惨な歴史が記憶から消えてしまえば、私たちと隣国はもっと穏やかに暮らすことができるかもしれない。いっそこの極東にも、その息で人々の記憶を失わせるという雌竜が現れてくれないものか。けれどそれは虫が良すぎる話だろうか?
そんな大それた話じゃなくても例えば愛する人との事。些細なかつての行動が相手にとっては許し難い何かであったかもしれず、時が経ち、二人は仲睦まじく暮らしていたとしても何かの拍子にそれは頭をもたげることがあったとして、その時、かつての行き違いはもう過ぎ去ったこととして処理してしまえるのだろうか。今はどんなに仲睦まじくとも記憶は消せない。やはり忘れてしまえた方が二人はより穏やかに日々を過ごせるというもの。
忘れること(=初めから無かった)と許すこと(=無かったことにする)とは違う。一時は‘無かったことにする’として心の奥に収めたことでも、記憶がある限りそれは‘あったこと’に変わりはない。アクセルはベアトリスを「お姫様」と呼ぶ。確かに記憶が薄まれば、アクセルとベアトリスのように初めて会った時のようにずっと仲良くいられるかもしれない。けれど大切なことはそんなことじゃないはずだ。だから年老いたアクセルとベアトリスは記憶を求めて旅に出る。
私たちは記憶で出来ている。好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いと言い、勉学に励み為すところを目指し、人に強く当たったり、人に優しくするというのは全て記憶の為せるわざだ。それを‘無かったこと’には出来ない。失くしてしまうということは私自身を失くすということ。だからこそ、アクセルとベアトリスはいつまでも二人いるために旅に出るのだ。
これは記憶をめぐる物語。答えは無論何処にもない。けれど私たちは意識せずともいつもそうした記憶を巡る葛藤の中にいる。やはり記憶は消せない。時に自分に問いかけ、時にあなたに問いかける。愛するならば繰り返すしかない。いつの日か、記憶に少しでも優しく触れるために。自分自身でいるために。
大工よ、屋根の梁を高く上げよ/J・D・サリンジャー 感想
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『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』 J・D・サリンジャー
結婚式当日。シーモアは現れない。「幸福すぎる」というのだ。新婦側によって盛大な準備がなされた披露宴へ、新郎側の数少ないゲストの一人として出席した次兄バディの針のむしろのような状態が描かれる。結局シーモアは密かに新婦のミュリエルのもとへ訪れ、二人して駆け落ちしてゆく。例によってこのあたりのくだりは描かれていない。
主人公はシーモアのすぐ下の弟バディ。この二人は他の弟妹と比べ年が近く年長であり、ある種の同志めいたものがある。バディにしても‘あのシーモア’の一番の理解者であるという気持ちがあるようだ。ここでのバディは後年の人里離れた隠遁者ではない。未だ軍隊に属する若き青年である。といっても彼には他の兄弟のような溌剌さはなく、どこかコンプレックスを感じさせる言わば普通の人に近い存在。しかし哲人のようなシーモアを誰よりも理解しているのも彼であり、同時に多くの人にとっては理解されないのだろうなというようなことをよく分かっているのも彼である。
つまりは特別な何かと、その対極にある普通の人々の両方を理解する一方で、自分はそのどちらでもないこと知っているバディ、すなわちサリンジャー自身の物語とも言える。人物描写が素晴らしく、これもよく出来た短編。下世話な人たち(特にそんなわけではないが)の間に見え隠れするイノセンス。でも痛々しいわけではなく、バディと世間との相容れなさが透けて見える。これをコメディと言っていいのか僕には分からない。