安野光雅展 / あべのハルカス美術館 感想

アート・シーン:

安野光雅展 / あべのハルカス美術館

 

最初の絵本『ふしぎなえ』を見ていると、描きたいことがどんどん溢れているんだなぁ、手が勝手に動いているんだろうなぁと思ってしまいました。それぐらいアイデアが出てきてどんどこ描けたんじゃないか、そんな気がしました。もちろんそんな簡単な話ではないでしょうけど(笑)。

エッシャーみたいな不思議な絵も楽しいけど、僕はその絵の中にいるピエロだかなんだか分からない異国的な登場人物が右往左往している様子がおかしくて好きです。手足が長くてキャラ的にデフォルメされたものだけど生き生きとしている。こういうところも楽しくずんずん描けちゃったんだろうなぁ。

あとまぁすんごい緻密です。『もりのえほん』なんてやっぱすごい画力だなぁと驚きますね。これもやっぱり頭の中にイメージがあってどんどん描き進めていけるんだろうなと。考えていたら多分描けないよ、こんなの。ってそれは凡人の考えかな(笑)。

それとは対照的に『天動説の絵本 てんがうごいていたころのおはなし』という、しっかりと構成を練られたような作品もあります。空想ばかりしていたという安野さんの真骨頂のような作品です。ストーリーが記載されてはいますけど、やっぱり絵が面白いです。この絵の空想力あってこそなんだと思います。

『旅の絵本』シリーズは俯瞰で風景やらそこにいる人々やらを描いているんですけど、これもやっぱり細かいです。で面白いのが、細かいんだけど人物の遠近感がさほど気にされていなくて、遠くの人の方がちょっと大きかったりする(笑)。こういう大らかさもいいなぁと思ってしまいます。やっぱそれよりも人物たちが動いているんです。安野作品の一番の魅力はやっぱりこの’動き’なんだと思います。

経歴を見ていると多分本格的な絵の勉強はされていないみたいですけど、実際はどうだったんでしょうか。アールブリュットという言葉がありますが、安野さんの絵もそういう魅力、規定されない自由さ、大らかさ、ユーモアがあるような気がします。あ、でも安野さんは普通に上手いです。

三国志を描いたシリーズもあるし、いろんな本の表紙絵やポスターもある。単に同じような雰囲気のものを描き続けたという人ではないということが分かります。晩年まで創作、空想が止まなかった、描きたいことがいっぱいあった芸術家だったんだろうなと思いました。

アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO 感想

アート・シーン:
 
『アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO』in 京セラ美術館
 
 
京都市京セラ美術館で開催されている、『アンディ・ウォーホル・キョウト / ANDY WARHOL KYOTO』へ行ってきた。僕はいわゆるポップ・アートと呼ばれるものに疎い。子供の時からそれなりに絵は得意だったが、デザイン的なものになるとからきし弱い。ま、要するにセンスが無い。そんな僕でもアンディ・ウォーホルの面白さは分かる。そういうポップ・アートに疎い連中にもタッチできるのがアンディ・ウォーホルということなのだろう。ちなみに最近はウォーホールではなくウォーホルと言うみたい。
 
展示物は秋に行った岡本太郎展と比べると圧倒的に少ない。しかも原画というものが存在しない。彼の作品のほとんどがシルクスクリーンで印刷されたものだからだ。それでも圧倒的に楽しい。なんなんだこのお気軽な楽しさは。作家の魂とか作家の生き様なんてのはここにはない。あの作品はどうだとかこの作品はどうだとかウンチクを述べたところで手応えはなく、まるでプラスチック製の容器に手を触れるような感覚。それこそが工業デザインということになるのだろう。平熱で面白がって平熱で会場を後にする楽しさが心地よい。
 
真の意味のオリジナリティなど存在しない。我々は何かしらの影響や先人の遺産をいじりまくることで別のものを生み出していく。何十年も前からそういうもんじゃんと堂々とやってのけたウォーホルはやっぱり天才。京都滞在中に描き残したと言われる、幾つかの模写を見ていると、何も無いところから何かを生み出すということではなく、そこに在るものから何かを生み出す人なんだなと改めて思った次第。いくら面倒くさいことを言おうとも、我々はそこに在るものを足して引く。それでいいのだろう。
 
ちなみに大リニューアルされた京都市美術館改め、京都市京セラ美術館へ初めて行きました。なんてことない入口から階段を昇ると大ホールの吹き抜けがあり、その向こうに東山の景色が覗く。思わず感嘆の声が出ました(笑)。

岡本太郎展 中之島美術館 感想

アート・シーン:
 
岡本太郎展 大阪中之島美術館
 
 
気付けば、大阪での岡本太郎展も10/2までと残り僅か、台風14号の影響もあり天候が不安定ではありましたが、かえって人出では少なかろうと、3連休の中日に行ってまいりました。
 
10時開館より少し早めの9時45分ぐらいに到着しましたが、既に行列ができていました。この天候にも関わらず流石ですね。会場に入ると最初に目に飛び込んでくるのは初期の作品群ですね。と言っても戦火で随分と消失してしまったようですが、学生時代の作品も含め幾つか展示されていました。岡本太郎といえば原色鮮やかなあの絵を思い浮かべますけど、始めからそうではなかった、ちゃんと写実に描いている絵もあって、当然と言えば当然なんですけど、こうやって観ると新鮮な驚きがあります。
 
展覧会は年代順に展示されており、絵だけでなく幅広く活動していた岡本太郎らしくいろいろな造形物もあって楽しく観ることが出来ます。僕はぐるっと回って2時間ちょいでしたが、そんなに経ったとは思えないぐらいあっという間でした。つまり岡本太郎の作品に対する評価はいろいろあるのでしょうけど、基本的にはエンタメなんだと、楽しませるだけではなく違和感を抱かせる部分も含めて見る側を飽きさせないエンタメなんだと思います。
 
あと面白かったのは、晩年にはテレビによく出ていて有名なフレーズ、「芸術は爆発だ」と共に目を見開く岡本太郎の姿が印象的でしたが、あれも芸術活動の一環だったようで、つまりにらめっこなんだと。動物でもなんでも相手とにらめっこしてそこから創作が生まれるというのがあるらしく、にらめっこというのは岡本太郎にとって重要な意味を持つ行為だったんです。あぁなるほどなと、あの岡本太郎の姿はあえてだったんだと(笑)、今になって腑に落ちるとは思わなかったです。
 
作品には一応タイトルがあるのですが、ま、その辺はよくわからないですよね(笑)、絵を観てももうなんのこっちゃ(笑)。でも圧倒的なパワーですよね、そこに何かあると思わせる、岡本太郎にはそうとしか見えない何かがあるのだと。つまり物を見る時に我々は形あるものとして、そこにある物を物質として認識するのですが、岡本太郎はそこを超えて何かエネルギーであるとか別のものに変換されて見えてくる。例えばリンゴは赤くて丸いですけど、じゃあ本当にそうなのだろうか、その本質は本来の姿はどこにあるのか、そこにあるじゃないか、それを描くんだというような、物を見る自分と物とが同じ意識下、同じレベルになって相互に見て見られる、そういう関係性があったんじゃないかと、何か意識レベルの交感があったんじゃないか、そんな気はしました。
 
あと芸術に対して、条件に挙げていることがいくつかあって、もう忘れてしまったんですけど(笑)、そのうちのひとつに「心地いいものであってはいけない」というのがありまして、やっぱり自己陶酔というか、自分で気持ちよくなってしまうことがあると思うんですけど、そうじゃないんだと、気持ちの良いものであってはいけないと。また、鑑賞する側に対しても何かをぶつけるというような、相手にとって心地よいものを提示する、ということとは真逆なものを提示する、というのは何か目から鱗というか、僕自身も居住まいを正されるような気持ちになりました。
 
あと見に来ている人ですけど女性が非常に多かった、特に若い女性が多かったのが印象的でした。岡本太郎の作品のどこにそういう要素があるのか、僕には見当がつかないですけど、今までもいろいろと展覧会へ行きましたけど、こんなに若い世代、特に若い女性が多かったのは初めてでした。
 
あとグッズ売り場が充実していましたね(笑)。とにかく岡本太郎の作品はキャラ付けしやすいというか、そこもさっき言ったエンタメ性と繋がると思うのですが、企画会議ででもあれしよう、これはどうか、っていくらでもアイデアが出たんじゃないかって想像できますよね(笑)。つまり岡本太郎の作品が他の誰かの創作を喚起している、作品が作品を生むっていう、そういう循環を促す力があるんだということなんです。それこ芸術ですよね、今もなお他人に伝播しつつ爆発しているんだと思います。

「没後50年 鏑木清方展」感想

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「没後50年 鏑木清方展」京都国立近代美術館
 
 
日本画の美人画はあまり興味はなかったのですが、Eテレ「日曜美術館」で見た鏑木清方の作品がとても美しく、これは見ておきたいなと小雨まじりの京都へ出掛けました。あいにくの天気だったので、行く日を変えようかなとも思ったのですが、雨の方が人も少ないだろうと出発。これが大正解で、人気の展覧会にもかかわらず、土曜日ではありましたけど程よい人数でゆっくり鑑賞することが出来ました。
 
展覧会は目玉の三部作「浜町河岸」「築地明石町」「新富町」をクライマックスに清方のキャリアを順を追って辿っていく構成となっています。元々は挿絵画家として出発したということで、清方の絵は物語の一場面、という印象を受けますね。絵の背景に何かしらの物語があって、絵の登場人物の表情や体の動きなどを通して、こちらの想像力をかき立てる。僕の場合は絵そのものにどうこうというよりは、肩の入り方とか腰の浮かせ方とか、そういう微妙な体全体を通して出てくる表情に強く引きつけられました。全然関係ないかもしれませんが、この辺りは日本の漫画表現にも繋がる、西洋とは異なる日本人独特の人物の描き方というのがあるのかもしれないなとも思いました。
 
あと写真やネットでは分かりにくいところですが、実物を間近に見ると非常に細かい!髪の毛1本1本や肌の微妙な色合いの変化、睫毛、ものすごく繊細な表現がなされていることに気づきます。あと明治時代の江戸情緒を主題に描いていることが多いのですが、当時の風俗、とくに女性の着物の柄がすごく魅力的で非常にお洒落なんですね。柄もそうですけど、色見のバランスとかも、清方自身も凄くお洒落な人だったんじゃないかと思わせる配色の妙がありました。
 
でやっぱり目玉の三部作ですよね。特に「築地明石町」。女性の瞼の上に薄っすら線が入っているんですね。人によっては気に留めない箇所かもしれませんが、この線があると無いでは大違い。僕はこの薄っすらと入った線を見たいがためにこの展覧会へ行ったと言っても過言ではありません(笑)。
 
この三部作の下絵も展示されていたのですが、この下絵を見ると清方のデッサン力の凄さが分かりますね。鉛筆で描いて消しゴムで消すみたいなことは出来ませんから、ほぼ一発勝負で筆を載せていく、しかも着物を着ているのでやっぱり骨格を取りにくいんですね。それも大きなサイズで描いていく。これは相当難しいと思います。
 
ということで、漫画やイラストを描いている人が見に行ったらとても得るところがあるんじゃないでしょうか。それに江戸の庶民の風俗であったり、清方独自の画風がありますから、あまり日本画に興味がないという人も楽しめる展覧会だと思いました。

「みうらじゅん マイ遺品展」感想

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「みうらじゅん マイ遺品展」 in アサヒビール大山崎山荘美術館
 
 
入ってすぐにみうら編集長によるご挨拶文(400字詰め原稿用紙に手書き!!)が展示されておりまして、そこにはプレイしてもらえればという記述がございましたので、物心ついた時から妄想ばかりしておりました私は思う存分脳内プレイを楽しませていただきました。美術館へは年に数回ほど足を運びますが、これだけ笑った展覧会は後にも先にもないと思います。とりあえず入ってすぐの「大西郷の湯飲み」に大笑いしたことはお伝えしておきます。
 
みうらさんの作品も沢山ございましたが、多くは何十年かかけてみうらさんが収集されてきたもの。つまりこれらにはクリエイターがいたわけです。商品として売るつもりはあるのかというツッコミはツッコミ如来にお任せするとして(如来なんですね。。。)、まぁ作り手としての哲学はあったのでしょう、いやあったはず。そこには企画会議もあったやもしれず、ケンケンガクガクの議論、いや企画会議など経ずにいきなり商品化という強引さ(そこはクリエイターですから)も時にはあったでしょう。思いつきで作るおやじと奥さんの夫婦ゲンカも十分に想像されます。しかしまぁ、日本のご当地クリエイターも捨てたもんじゃないですね。これらはアンクール・ジャパン文化遺産として残すべき、継承されていくべきですね。
 
みうらさんの作品も素晴らしかったです。スクラップブックですかね、収集した雑誌の切り抜きやパンフなどを基にコラージュしたと思われる作品。ものすごい大量に、壁一面どころかレースのカーテンのようなものにもプリントされておりました。野球好きは打撃ベストテンを眺めているだけでいくらでも酒が飲めると言いますが、私はこれを眺めているだけでいくらでもいけそうです。いやもうほうじ茶で十分いけます。松方弘樹と梅宮辰夫と山城新伍そろい踏みの裸の写真、最高ですね。ところでみうら編集長がまとめられたスクラップブック、一番多いのはエロ関係なんですよね。いやいや、そんな超個人情報など拝見しようとは思いませぬが、つまり今回の展示は氷山の一角ということ。そこに驚いています。
 
みうらさんが子供の頃に作られたものもいくつか展示されています。何を隠そう私も自作漫画を描いてクラスメート(訂正します、ともだち2、3人に)に見せて喜んでいましたが、ちんけな私とは質量ともに全然比べ物にならないです。みうら少年、才能があふれ出ています。書かれた文章もそのまま拝見することが出来るのですが、文才も子供の頃から秀でていたのですね。今と変わらんやん。子供のみうらさん、大人のみうらさん、双方へリスペクツ!!
 
順路通り見ていきますと、最後の方にはみうらさんの描かれた絵がこれも壁一面に展示されています。コロナ禍の最中に描かれたということですが、それにしても旺盛な創作意欲!ていうかさっきのコラージュ作品と基本は一緒や~。絵か切り抜きかということですね。でも何気にみうらさんの画力、スゲーっす。しかも創作が止めどない!このテーマだといくらでも描ける(切り貼り)できるんですね。
 
ちなみに大山崎山荘美術館の地下にはモネとルノワールの絵も展示されておりまして、特にモネは半円上の壁に4枚、かの『睡蓮』が並んでおります。モネと言えば睡蓮シリーズですが、彼は『睡蓮』を100作以上描いたらしいです。自宅に蓮池を作ったりもして、よくもまあ飽きもせずというところですが、そうか、みうらさんも同じじゃないかと。みうらさんの作品も壁一面に並べられていましたが、それはみうらさんからモネおじさんへのリスペクトだったのですねここは大山崎山荘美術館が選ばれた理由をひとり合点しておきます
 
ところで誰か、みうらさんの作品に登場する人物の登場ランキングをつけてくれないでしょうか?エロ部門はアレなので非開示として、エロ以外の登場人物ランキング。ただこれは生前遺品整理ということになりますから、みうらさんご自身にやってもらうしかないでしょうか。私の予想では第1位はボブ・ディランです。
 
世の中デジタル化が進んでおりますので、収集ペースは以前より落ちているかもしれませんが(もしくは老いるショック?)、首を長くして「マイ遺品展Ⅱ」を待っておりますので、編集長!またよろしくお頼み申し上げます。

『聖徳太子と法隆寺』in奈良国立博物館 感想

アート・シーン:
 
『聖徳太子と法隆寺』in奈良国立博物館
 
 
先日のEテレ「日曜美術館」で本展覧会の特集が放送されまして、開催しているのは知っていたのですが、6月20日までの開催ということでもうあまり時間がない、行ける日に行っておこうと、関西地方は大雨の日だったのですが、朝一の9:30から行って参りました。
 
「聖徳太子と法隆寺」ですから、奈良時代のものが沢山あって、奈良時代、7~8世紀のものが沢山展示されているわけです。もう1,400年前のものですよ。しかも保存状態が素晴らしいんです。これは「日曜美術館」でも言及されていたのですが、法隆寺はちゃんと保存目的に管理していた、つまりあの時代ですでに美術品であるという認識があったということなんですね。今の美術館と同じ役割を担っていた。これは凄いことです。文化に対する位置づけが相当高かった証拠ですよね。でその中心に聖徳太子がいた。このことからも聖徳太子がいかに進歩的な人だったかというのが見て取れるのではないでしょうか。
 
その聖徳太子直筆の「法華義疏」、法華経の注釈書らしいですけど、これが展示されていて、なんと間近に見ることができます。さっき言ったように保存状態がいいから、しっかり読めます!もちろん、解読はできないですけど(笑)。それにしてもあの聖徳太子の直筆ですよ、しかもちょっと丸みを帯びた親近感ある字体なんです。学者然とした感じではなく、生活感のある字体。こういうの見ると身近に感じますよね、太子さんの実像が浮かび上がってくるというか、まさしくロマンです。
 
あと見どころは何と言っても仏像ですね、その辺も沢山見れて仏像好きにはたまりません。特に飛鳥時代のいわゆる「アルカイックスマイル」と「アーモンド形の眼」の仏像、僕は鎌倉期の情報量の多いものより、シンプルなこの時代の仏像が割と好きなのでホントもう惚れ惚れするというか、溜息を何度ついたことか、もう美しいの一言ですね。
 
あと仏像って決して写実ではないんですけど、今にも動き出しそうなリアルさがあって、つまり創造物とはそっくりそのまま作ればリアルになるということではない、フィクションのリアリティということなんですが、その写実ではないけどリアルっていう相反するものが行ったり来たりと目の前で転換されるダイナミズム、もう最高です。何と言っても間近に見れますから。
 
今回はちょっと風変わりな塑像もありまして、「羅漢座像」というものなんですが、お釈迦さまの死を悼む様子を描いた座像でして、これが現代のフィギュアのようなリアル造形なんです。で、おぉこれはすげぇなんて隣に目をやると、横にも同じく悲嘆にくれる別の表情の塑像がある、更に横を見ると、みたいな感じで要するに連作なんですね。これにはちょっと笑ってしまいました。ここも大事な見どころです(笑)。
 
奈良国立博物館には仏像館もあって、この特別展の半券があれば入館できます。仏像館と言うぐらいですから仏像盛りだくさんで、更に今は5m以上もある金剛力士像2体が堂々と展示されていますから、ここも是非足を運びたいところですね。金剛力士像のみ撮影OKですので、みんなバシャバシャ撮ってました(笑)。
 
それにしても、何十体とある仏像にどれ一つとして同じものはない。当たり前のことですけど、ちゃんとそれぞれに顔立ちが違って造作が違って、個性が異なる。仏像なんてみんな同じやん、と思われるかもしれませんがひとたびその魅力に取りつかれるとこれほどシンプルで奥深いものはありませんね。今度は法隆寺に行って、また違った環境で見てみたいと思いました。

『永遠のソール・ライター』in 美術館「えき」KYOTO 感想

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『永遠のソール・ライター』in 美術館「えき」KYOTO 感想

 

僕は詩が好きで常に何かを読んでいるものだから、自分の中にも時々言葉が落ちてくる。そうするとやっぱり書きとめたくなる。ただ、そうやって自分の楽しみで書いていたものが、やがてこれは何か意味があるのかなって思わなくもない。例えば他の人の詩には切実な思いがある、書かずにはいられない理由がある、気がする。けれど僕はどうだ。そんな切実な思いないやん。

ソール・ライターの写真展に行ってきた。一言で言うとオシャレな写真です。見てるとあれもこれもと沢山の気付きがあって語りたくなる、喚起力がスゴいんです。で見ながらふと思う。ソール・ライターは何を言いたかったのかなって。

写真を取ることは見つけること。絵を描くことは創造すること。これはソール・ライターの言葉です。ソール・ライターは一瞬の美を切り取っていたんです。世に美しいと言われるもの、ではなく単純なこと、あるいはつまらなく見えるものの中にある美を。

世に美しいと言われるものにしても世間一般が規定したものですよね。だったら、わたしが規定した美、あなたが規定した美でもいい。ソール・ライターは美しい風景を切り取っているだけなんです。これはオレが美しいと思うもの。あなたはどう?って。

ではソール・ライターにとっての美とは何か?それはもう自然美ですよね。意図されたもの、準備されたものではない、偶然がもたらす一瞬の調和、例えば道ゆく人の足が交差する一瞬訪れる完璧な世界。山や木々ではなく彼が暮らす街、ニューヨークの自然美。

ソール・ライターは言います。私の写真によって世界を進歩させることはできないけど、誰かをいい気分にさせることはできるって。ソール・ライターは一瞬訪れる完璧な美を見つけると写真を撮らずにはいられない。ポートレートもたくさんあったんですけど、多分あれはほら、ショーウィンドウに映った自分のシルエットが中の商品や回りの景色と調和してなんかいいなって思うことあるでしょ。あんなノリじゃないかな。

街の自然美、ソール・ライターにとっての偶然訪れた一瞬の均整、彼はそれが目について仕方がなかった。街に生きているとたくさん目につく、いや、もっと見つけたい、そこにシャッターを押したいって。

ソール・ライターに主張したいことはなんですか、何を表現したいのですか、あなたが写真を撮る理由はなんですかって聞くのはなんか違うような気がしてきたな。目につくのはしょうがない、シャッターを押したいのはしょうがない。その瞬間を捉えたいんだもん。多分、他に理由はなくてもいいんです。

Eテレ「日曜美術館 蔵出し西洋絵画傑作15選(3)」感想

TV program:
 
Eテレ「日曜美術館 蔵出し西洋絵画傑作15選(3)」2020年7月19日放送回 感想
 
 
Eテレ「日曜美術館」で放送中の西洋絵画15選、3回目も非常に濃い内容でした。有名絵画ばかりなので絵画という点では特に目新しさは無いのですが、このシリーズの目玉は何と言ってもこれまでの放送、あるいはNHKが所蔵するアーカイブの中から登場する作家、あるいは著名人たちの過去映像です。今回もすごい人たちが登場していました。
 
冒頭のマネ「草上の食卓」で登場したイッセー尾形さん。大好きな方なので、ここでテンションが軽く上がったのですが、そのあとはあの池波正太郎!すげぇ、さすがNHKや、と思って見ていたらなんとゴッホ「ひまわり」のところで忌野清志郎だぁ!かっこいい!めちゃくちゃ興奮してしまいました。キヨシロー、ゴッホ好きだったんですね。ゴッホは僕も大好きなのでなんか嬉しかったです。と興奮してしまいましたが、ここのくだりはやはり棟方志功でしょうか。強烈なインパクトでした。
 
この回で僕が一番心に残ったのはピカソ「ゲルニカ」で登場した岡本太郎です。実物大の「ゲルニカ」のレプリカの前で語ります、「きれい」と「美しい」は違うと。「きれい」というのは誰かが作った規範にのっとったもの、あるいは型、時代に合ったもの。一般的に勘違いされているけど「きれい」と「美しい」は全然違うんだと。
 
つまりこういうことじゃないでしょうか。規範から外れていようが何しようが関係ない。作家は真に感じたものを筆やペンを介して表現をする。自分の中に湧き上がる塊、過去にあったどれとも違う新鮮なものを既存の元ある言葉、表現、色使いとは異なる手法で表現をする。そりゃそうです、今までの誰とも同じでない塊なわけですから。で、そこに作家それぞれの固有のアプローチがあり、そこに「美しさ」はある。すなわち司会の小野正嗣さんが流暢なフランス語で仰ったように「醜悪なものにも美は存在する」のです。
 
それにしても、、、ピカソが富士なら岡本さんは何合目あたりですかと問われて、「僕はもう越えちゃてると思うけど」と答えた岡本太郎、かっこええ!

「アキノイサム展」御殿山生涯学習センター 感想

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「アキノイサム展」御殿山生涯学習センター 感想

大阪は枚方市にある御殿山生涯学習センターで「アキノイサム展(2020年2月2日~2月16日)」が開催されています。京阪電車は枚方市駅を東へ5分程。急な坂道を登った先に御殿山生涯学習センターはあります。

先ず最初に展示されているのは絵本「プンクマインチャ」の原画です。傍らに絵本が置いてあるのでそれも読んだのですが、やはり原画は違いますね。生き生きとしていて絵に生命力を感じます。

「プンクマインチャ」には秋野亥左牟の特徴である独特の線が特に目を引く作品です。一筆描きのような線が立体感を出しています。髪の毛だけではなく、表情や体のラインが毛糸を這わせたような幾つかの線で表現されています。これはやっぱり魅力的ですね。

「プンクマインチャ」は絵本ですからストーリーがあって当たり前ですが絵のタッチも同じです。秋野亥左牟の特徴も凄く出ていますから、こういう絵を描く人なんだなと思ってしまいますが、彼の絵はひとつのスタイルにはとどまりません。

それがよく分かるのは絵巻物。秋野亥左牟は旅をする絵描きです。いやむしろ絵を描く旅人と言った方が正しいのかもしれません。旅をする際に携行しやすいということで障子紙を巻物にして世界のあちこちで絵を描きました。

その絵巻物。展示されていたのは二巻だけだったのですが、さっきの「プンクマインチャ」とは全く雰囲気が異なります。一枚目はロシア・ヨーロッパの旅の時のものだそうで、なるほど言われるとそんな雰囲気があります。二枚目はインドということでそれっぽい建物が沢山描かれています。そして実物がどうかは別にしてとても綺麗な色使いですね。それぞれの雰囲気は全く異なります。

旅には障子紙の巻物と12色の水彩絵具のみの携行だったとのことですが、色数が限られていることがかえってよい効果をもたらしているような気はします。とっても明るくて綺麗ですね。二巻のみの展示なのではっきりとは言えませんが、秋野亥左牟が旅をどのように捉えていたのかが分かるようなそんな絵巻物だと思います。

三つ目のフロアにはろうけつ染めや版画などが展示されていました。一つところにとどまらすあらゆる手法を試していたんですね。秋野亥左牟の自由な手さばきを感じることが出来ます。ここでは頭が眼だけの目人間というようなキャラクターがそこかしこに登場します。この人物は秋野自身ということでしょうか。よく見るということ。若い頃から旅に生きてきた秋野亥左牟の思想をそこに見るような気がします。

僕はやっぱり秋野亥左牟の絵が好きですね。もう手が勝手に動いてしょうがないというような、描いてる先からもう次のイメージが沸いてくるようなイメージの連続性と言いますか、そしてそこに恐らく他意はないんですね。もちろん彼にも主義主張はあったんだと思いますが、描いてるのが楽しいから描いてるんだという、誰もが最初期には持つけどなかなか持続して持ち得ない初期衝動を稀有にも最後まで持つ続けられた、そんな幸福な絵描きだったのではないかなと、僕は勝手にそんなことを思いました。

見慣れない絵だし沢山のイメージがごった返して忙しい絵のはずなのに観ていて全く疲れない。それは多分彼の世界に対する肯定的なものの見方、その精神性から来るものなのかもしれません。

WAKKUN(涌島克己)さんとの会話

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WAKKUN(涌島克己)さんとの会話

※ 前記事(スズキコージ『チンチラカと大男』絵本原画展&作品展)からの続き、、、

その方は涌島克己さんといいます。もしかしたら愛称のWAKKUNの方が有名なのかもしれません。スズキコージさんとはほぼ同世代の方でして、スズキさんはもちろんのこと他にも多くの芸術家との交流をお話してくださいました。

ギャラリー・ヴィーにはWAKKUNさんの作品も置いてあったのでその説明を聞いたり、普段の活動なんかも面白おかしく話してくださいました。
失礼ながらとても愛嬌があって、僕なんかは割と人見知りする方なので見知らぬ人と話すのは苦手なんですけど、そういう僕でも気軽に話せるというか、色々お話を聞いていると人と人との繋がりがWAKKUNさんの中で大きな部分を占めているようだったんですけど、ひと時だけでもそのひとつに紛れこめたような気がして楽しかったですね。

本物の絵描きさんと話す機会なんてそうそうあるものではないので、不躾にも色々と、普段の自分の創作の中で思っていることとかも含めて、色々と質問させていただきました。

僕は詩を書いているんですね。僕の詩が詩と呼べるかどうかは別にして、詩は読むのも書くのも好きなんです。でいっぱい書いてきました。今も書きかけのものが沢山あります。読んだり書いたりしてきましたから自分で言うのもなんですがそれっぽい詩は書けます。でもそれっぽい詩はそれっぽいままで、いっぱい書いてきたからこそ自分に何が足りないかも分かってるんです。だからそういうことをですね、僕は詩を書いてますなんて言えなかったですけど一般論として、色々と質問をしました。

嬉しいことにその全てにWAKKUNさんは丁寧に、ご自身の経験談や友達の芸術家のことなどを交えてゆっくりと話してくださいました。そして僕が一番聞きたかったことの答えは僕が自分の中で持っているものと同じだったんですけど、やっぱりそれはね、理屈っぽい僕の中での話ではなく、その世界で何十年もサバイバルしてきた方の話として、やっぱりずっしりとくるものがあったんです。

僕は時々思うんです。詩を書いてて、あ、こういうことかもしれないって。ですぐそれは勘違いだと気付く、またしばらくすると、あ、こうかもしれないって。多分これからもそういうことの繰り返しかもしれないけど、何十年も絵描きとして生きてきた人の言葉として、それは何かはここでは言いません、ていうか言葉にできるものでもないので心の中にしまっておきますが、やっぱり変化はあったわけです。

で今回は個人的なことばかり書いてますが、ブログを始めた時に個人的なことを書くのはやめようと思っていたのですが、やっぱりこれは書き残しておきたいと。WAKKUNさんとお話ししてちょっと変化はあったかなと自分でも思うので。

ホントに人懐っこい方で最後はガッシリ握手してくださって、結局1時間以上は話し込んだと思います。WAKKUNさんは話すのも活動のひとつなんだよみたいなこと仰ってましたけど、人見知りする僕でもリラックスして話せる方なので、あぁホントにそうかもしれないって別れ際に思いました。

貴重な話を沢山聞けて楽しかったです。この場を借りてもう一度、WAKKUNさん、ありがとうございました。またお会い出来る日を楽しみにしています。