2019年もヴィンテージ・トラブルが来日するそうだ

 

2019年もヴィンテージ・トラブルが来日するそうだ

 

来春にヴィンテージ・トラブルが来日するそうだ。ヴィンテージ・トラブルというのはその名のとおりヴィンテージなソウル・ロックを奏でるアメリカの4人組バンドで、泥臭いくせに洗練されていて、ヴィンテージなくせにモダンで、田舎の酒場で歌ってそうなくせに都会的という、何言ってるかよく分からないだろうけど、ある意味1周回ってオシャレ感満載のソウル・ロック・バンドだ。

ヴィンテージっていうぐらいだから、真夏であろうと基本は全員スーツ・スタイル。汗水流しながら、ドンッドド、ドンッドドってグイグイ押してくエンターテイメント精神溢れるライブ・バンドで、僕は2014年のサマソニで初めて彼らを観たんだけど、確か13時ごろのクソ暑っつくて、人もまだまばらな時間帯に登場した彼らはそんなことお構いなしにどんどんヒート・アップ。照明用の塔に登るわ、シャウトしまくるわ、踊りまくるわで僕もいっぺんに虜になった覚えがあります。

そんな連中なので、ライブはもう間違いない。集客もバッチリなようで毎年来日しているような気もしますが、来年も来るってんで、そういや2015年のアルバム『華麗なるトラブル(1 Hopeful RD.)』にDVD付いてたなと。久しぶりに観てみたらこれがやっぱりカッコいいのなんのって。一緒に観てた小学4年の息子もえらい気に入ったご様子で、見よう見まねでシャウト。その日は思い出してはまねをして、二人で笑い転げてました(笑)。

つーことで調べると、今月末に2枚組EP盤が出るんですね。なんでアルバムじゃなくて2枚組EPなのかよく分かりませんが、とりあえずそれは買うとして、ライブのチケットも買っちゃうだろうなと(笑)。まぁ、来るのは来年の4月みたいだし、チケット買うのはちょっと気持ちを落ち着かせてからにしよーかな。つーかチケットすぐ売れ切れるんだろうか?毎年来るぐらいやからな~。

自由の岸辺/佐野元春 感想レビュー

 

『自由の岸辺』(2018年)佐野元春

 

僕は割と物持ちのいい方で、幸い体型も若い頃とさほど変わらないから、10年以上前に買ったジーンズを未だに穿いたりしている。流石にデザイン的に古くなったものは処分するが、世間には仕立て直して代々引き継ぐなんてのもあって、まぁそういうものはそれなりの価値があるものだろう。そういえば姉が成人式で着た振袖は母のものを仕立て直したものだし、うちの娘が着た七五三の晴れ着も確か姪っ子のものを仕立て直したものだった。

この『自由の岸辺も』も言ってみればそのようなイメージで、年月を重ねた今の体型にそぐう形に仕立て直されたアルバムだ。したがってカバー・アルバムにありがちな、昔のアレンジはちょっとアレだから今風のサウンドに手直ししましたというのとは異なる。アーシーでより直接性を帯びたサウンドを聴けば、本作が現代の解釈で練り直されたリ・クリエイト・アルバムだというのが分かってもらえるだろう。

芸術とはまだ起きていない事を形にするものだとは誰が言った言葉だったか。優れた作品というものは時代を超える。本作にも今の時代に照らし合わせても、いや年月を経た今だからこそかえって真実味を帯びている曲がある。例えば『メッセージ』。2000年の曲だが、不穏な時代の今にこそよく響く。原曲では快活に「How you going to read this message? (君ならこのメッセージをどう読み取る?)」と歌われる歌詞は、よりテンポを落とした落ち着いたトーンで「本当の君のメッセージ / 本当の君が知りたいだけ」と視点を変え、日本語に変えて歌われている。この視点の入れ替わりは何を意味するのか。それは非寛容な現代における他者への耳のそばだてを意味するというのは考え過ぎだろうか。

また、1989年の作品『ブルーの見解』は、分かったような口を聞く「放課後の教師」のような存在に対し、「俺は君からはみ出している」と辛辣に言い放つ曲。これこそSNS時代の今ならではのリアリティーを感じる曲だ。曲調はファンクでアップテンポ。性急さと共に、「俺は君からはみ出している」のはもう当然だろ?とでも言うような居住まいはやはり2018年だ。

前回のリ・クリエイト・アルバム『月と専制君主』(2011年)は‘君の不在’がテーマだったが、本作は‘そばにいるよ’という優しいメッセージがテーマとなっている。オープニングを飾る『ハッピーエンド』はその典型。新しくラテン調のリズムを纏ったこの曲は原曲の溌剌さではなく、優しく語りかけるように「そばにいるよ」と歌う。続く『僕にできること』もそうだし、基本的には最終曲の『グッドタイムス&バッドタイムス』まで穏やかなトーンで占められている。このアルバムはやはり、「一緒にランチ食べよう」と歌う『エンジェル・フライ』でも顕著なようにコミュニティの中で好むと好まざるに関わらずアウトサイダーになってしまう人々の存在が強く意識されているのではないか。それが全体としての優しいトーンに繋がっているようにも思うし、2018年という時代性とも繋がっているように思う。

しかし全体としてはそのような優しいトーンであるにもかかわらず、アルバム・タイトル曲として、80年代に作られどのオリジナル・アルバムにも収録されていない隠れた曲、『自由の岸辺』を持ってきたというのにはわけがある。優しいだけではなく、時代への危機感や明確な意思が働いていることも聴き手には訴えかけてくるだろう。

このアルバムは原曲では英語になっている箇所が日本語に置き換えられていたり、歌詞そのものが変更されている箇所がある。原曲に馴染んだ手前、変更された歌詞に異物感を感じてしまうところもあるが、勿論作者はそれも織り込み済みであろう。そうした遺物感から生まれる揺らぎを作者は提示しているのかもしれない。

僕は物持ちがいい方だ。出来れば気に入った服は長く愛用したい。中には長く着ていないけど、気に入っているので処分できずにずっと仕舞われたままのものもある。ところが何を思ったか、今の時代にぴったりそぐう時があって再び袖を通す時が訪れる。それはやはり嬉しいことだし、少しだけ誇らしい気分にもなる。音楽家だって同じこと。過去に書いた曲であっても今の空気に触れさせたいと思うのは当然だ。新しい空気に触れて、その音楽はまた新しい色艶を手に入れる。そういう音楽の在り方は素敵だと思うし、聴く方も勿論楽しい。

 

Track List:
1. ハッピーエンド
2. 僕にできることは
3. 夜に揺れて
4. メッセージ
5. ブルーの見解
6. エンジェル・フライ
7. ナポレオンフィッシュと泳ぐ日
8. 自由の岸辺
9. 最新マシンを手にした子供たち
10. ふたりの理由~その後
11. グッドタイムス&バッドタイムス

カエデ

ポエトリー:

『カエデ』

夢の暮らしをしたいと願う
桜並木のカゲロウはカエデ
日々の暮らしを数えて
時折風に大きく
指一本触れただけで
形は崩れ遠退いていく

調べ
床の間に飾れ
萎れた花を流れ
行き倒れの彼方
熱く光れ

災いは振り返り
新たな声を呼び戻す
支えのない価値に
一人聳え立つカエデ

知らないことを知らないままに
知ったことを知ったままに
降り注く雨の最中
信号機の
明滅する時の中で
ひどいこと言うんだなお前
たくさん乱反射して
朝になるのかお前

2018年8月

Big Red Machine/Big Red Machine 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Big Red Machine』(2018)Big Red Machine
(ビッグ・レッド・マシーン/ビッグ・レッド・マシーン)

 

ビッグ・レッド・マシーンとはボン・イヴェールことジャスティン・ヴァーノンとザ・ナショナルのアーロン・デスナーによるコラボ・プロジェクト。ボーカルがジャスティン・ヴァーノンなので、聴けば、あぁボン・イヴェールだということで、僕はあの静謐な狂気とでも言うような世界が好きなので迷わず購入した。ザ・ナショナルのことはアーロン・デスナーのことも含めて知らない。

ソングライティングは共同で行っているようだが、恐らく歌詞はジャスティン・ヴァーノン。ていうかあんなヘンテコな歌詞は彼にしか書けないだろう。サウンド的にもほぼボン・イヴェールの延長線上にあると考えていい。その点、僕はザ・ナショナルのことは知らないので詳しくは聴き分けられない。でも1曲目の電子音にはちょっと身構えた。『KID A』やんって(笑)。

でもそれは最初だけ。参加ミュージシャンは50名!ほどいるらしいからいろんな音が聴こえてくる。ストリングスもあるからそれぐらいの人数にはなるのかもしれないが、それにしても多い!っていうかボン・イヴェールもそうだなと思いつつ、このいろんな音がチクチクと聴こえてくるのはやっぱ病みつきになる。体の中の手薄なところをいちいち突いてくる感じが心地よいのは僕もヘンテコなのか。

ボン・イヴェールの時もそうだけど、沢山のミュージシャンがいて、沢山の音が奏でられて、その上コンピュータ音もあって、にもかかわらず賑やかな感じがしないというのは不思議。つまりはお行儀がいいということか。けれど全体として飛び込んでくる印象は狂気。イメージも都会の喧騒と言うより、緑豊かな、或いは湖があってっていう景色が広がるんだけど、そこからはみ出るような、いや、はみ出さずにはいられないという狂気がある。それでもやっぱり行儀の良さを感じてしまうのは、周りに迷惑を掛けたくないというごく普通の感情と他者へのいたわり。しかしそのちゃんとした人の狂気は、我々が持っているごく普通の狂気とも言える。だからこそ我々の体の中の無防備なところをチクチクと突いてくるが心地よいのだ。つまり僕たちは人である以上ヘンテコなのだ。という僕たちのごく当たり前の狂気をごく当たり前に表したアルバム。

それにしてもなんでビッグ・レッド・マシンて名だ?シンシナティ・レッズとは関係あるのだろうか?

 

Track List:
1. Deep Green
2. Gratitude
3. Lyla
4. Air Stryp
5. Hymnostic
6. Forest Green
7. Omdb
8. People Lullaby
9. I Won’t Run From It
10. Melt

この世界の片隅に/こうの史代 感想

ブック・レビュー:

『この世界の片隅に』 こうの史代

 

ずっと前から気になっていた『この世界の片隅に』。友達が買ったってんで、そいじゃあオレにも貸してよってことで幸運にも読むことが出来ました。マンガだし上・中・下、さらーっと読めちゃうかなと思っていたけど、そうはいかんよね。読んでは戻り、戻っては読む、なんかすずさんみたいにゆ~っくりとページ開いていくのが、この本の読み方なのかなぁと。映画もドラマも観てなかったけど、今さらどっちも観たくなりました。遅いっちゅうねん(笑)。

冒頭からしばらくは日常の風景が流れてゆくだけなんだけど、僕たちの日常が淡々としていそうで実はそうではないのと同じで、いつも心が少しずつ動いていくような、でも勿論そんな堅苦しいものではなくて、それは本っ当に素晴らしい絵を描くこうの史代さんの絵の柔らかさもあると思うんだけど、そういうものに優しく導かれて自分もその中に入っていくような、柔らかいんだけど力強いとでもいうような、慌ただしく波風は立たないんだけど、大きく濃くゆっくりと柔らかい波が進んでいくみたいな感じで、共に読みすすんでいるような気はします。

だから、とりあえず最後までゆ~っくりと読みはしたけど、決して読み終えたって感じはしなくて、またしばらくしたら読みたいな~と思うだろうし、それでもやっぱり何回読んでも読み終えたなぁとは思わないだろうし、いつ読んでも途中からお邪魔しま~すっていうか、この物語はそうやっていつまでも続いていくものだと思います。

それはやっぱ地続きだからで、地続きなんて言うとあの時代と今は全然違うんだから同じように考えないでくださいとピシャッと言われそうだけど、僕にはそうは思えなくて、確かに時代背景は違うけど、僕たちだって一応はちゃんと真面目に生きているし、そういうささやかな営みがある以上はそれを守りたいっていうか、守りたいって言うと大げさだけど、悲しい出来事はそういうささやかな日常にすっと滑り込んでくる訳だから、そこのところはやっぱ同じなのかもしれないって。

だから玉音放送の後、すずさんの印象的な場面があって、それは急にエネルギーが立ち上がるような強烈な場面なんだけど、それも割となんかすぅっと入ってくる感じで、恐らくこの漫画を読む前にそのセリフだけを聞いていたら、いまひとつ飲み込めなかったかもしれないけど、上巻中巻下巻と読む進む中で表れるすずさんの言葉というのは自然に入ってくるのだな。でも自然に入ってくるからといって理解したとか軽く流れてしまうってことではなくて、重い言葉なんだけど、ていうか重い言葉とは言いたくはなくて、それは僕たちへと続いていく言葉でもあるわけだから、そこを情緒的に捉えるのはヤダなっていう。肯定するとか否定するとかってんでもなく、そこはちゃんと落ち着いて飲み込みたいというか、そこはこのこうの史代さんの絵とストーリーの力で多分ちゃんと飲み込ませてもらえたと思います。

とまぁもっともらしいことを言っていますが、またしばらくして読んだら違った感想も出てくるだろうし、これはこうだということではなく、その折々に頷きながら長く読んでいくものなのかなぁとは思います。

僕にも片隅があって、皆にも片隅があって。人の片隅に触れたいなんて図々しい話だけど、たまにはね、すずさん、またあんた達の片隅に触れさせてくれんさいね、って(笑)。

カクテル

ポエトリー:

『カクテル』

 

クールなふりを装うのなら
我々はゼロに従うべきだ
クローゼットは閉めて
諦めは肝心

買い物帰り、ふと考える
果たしてこれは必要だったか
おもむろに尋ねる
すみません、ボク、コレ、ヒツヨウデスカ?

タオルケットを腰に当てて
いつでも着替える準備はOK
姿見は彼女
いつも貴重なご意見をありがとう

そもそもここへは何を?
さしあたって…
そう、格調高く!

そうさ僕らは旅する楓
試作のカクテル
重なり合って色を付ける
春は春色
秋は秋色
今は何色?

進むべく方角をすっと指で指し示し
来るべき朝を今ある色で調色
あなたはそれを誰に教わった?

冬枯れのコートを次のシーズンまで
持ち越すつもりはない
キッパリと
あなたはどこへ翻す
湯呑みの茶柱は立っている

 

2018年8月

音楽が奏でる球体

ポエトリー:

『音楽が奏でる球体』

 

音楽が奏でる球体が夜分にそっと忍び込む
あなたが夢を見るのは球体のスクリーンのせい
球体があなたの記憶を吸い込むの
朝になって思い出せない幾つかは
もうとっくに運び出された後だから
そうやって私たちは少しずつ記憶を失う

球体は地球に与える
私たち人類の記憶を
輪になって
束になって
雨粒になって
晴れやかな太陽の日差しとなって

地球は健やかに育つでしょう
我々が地球の邪魔をしている?
うううん
私たちがいなければ地球はとっくに枯れてしまっているわ
私たちはそういう関係

私たちはテキストとなって
大切に一枚ずつ削り取られていく
受験生の脳みそのように地球はそれを食い尽くす
それが地球のシンフォニー!!

 

2018年7月

NHKスペシャル 平成史 第1回 大リーガーNOMO HIDEO 感想

TV Program:

NHKスペシャル 平成史 第1回 大リーガーNOMO HIDEO             

 

野茂は近鉄時代から野茂英雄だった。ノーヒットノーランが掛かる最終回であろうが、勝負にこだわり真っ直ぐを投げ続けたし、右腕にライナー性の打球が当たり一旦ベンチに引っ込んでも、何食わぬ顔をして再びマウンドに上がった。何を聞かれても仏頂面で自分の意志だけを言った。その周りの事はどうでもよかった。今年、50代を迎えた野茂は体型が違えども眼光は昔のまま。今も尚、野茂英雄は野茂英雄のままだった。             

この番組で興味深かったのは野茂が近鉄バッファローズから離れることになったいきさつ。今回のインタビューで野茂から語られた内容によると、第1回契約更改の前に既に自由契約になっていたということ。揉めに揉めて自由契約になったとばかり思っていたが実は違うようだ。任意引退を申し出たのは野茂サイドの方で、自由契約になれば、復帰するには元の在籍球団としか交渉できないという制約があるものの、アメリカの球団との交渉は可能という、当時の日本プロ野球規則をあらかじめ調べ上げ、これならいけると近鉄球団へ申し出たのだ。その時点では誰も野茂がメジャーリーグに挑戦する意向を持っているとは思っていなかったわけで、近鉄球団側は野茂サイドのシナリオに乗った訳だ。

この辺り、番組中に名前は出てこなかったが、当時の野茂の代理人はダン野村氏であったかと思う。しかしこれを可能にしたのは、ここで野球人生が終わってもいいと覚悟した野茂の決意だ。説明を聞いてこれで行こうと一度決めたなら、あとは迷わずに突き進む。そこに野茂のピッチング・スタイルと同じ太い幹を見るような気がした。       

最後の交渉の場で近鉄はあらゆるオプション契約を提示し、野茂を引き留めようとしたが、同行した当時のピッチングコーチの佐藤道郎によると野茂は「メジャーに行かせてください」としか言わなかったようで、その様子を見た佐藤もその情熱の前では「頼むから気持ちよう行かせたってくれ」としか言えなかったそうだ。

野茂は自分が日本人メジャーリーガーのフロンティアと呼ばれることに抵抗を持っている。通訳やトレーナーや多くの関係者がいる。自分だけが特別扱いされることを極端に嫌う。野茂は自分がフロンティアだとは本当に微塵も思っていないし、寧ろ理解のあるドジャースに入れた自分は幸運だったと述べている。 

野茂は華々しくメジャー・デビューをするものの、キャリアの中盤では肘を手術するなど、思うような結果が出ない時期を過ごす。メッツ時代、ブリュワーズ時代がそれにあたるだろうか。しかしそこから野茂は二つ目の大きな山を作り出す。それはレッドソックス在籍時のノーヒットノーランであり、再びドジャースに戻った時のエースとしての活躍だ。どうして二つ目の山を作ることが出来たのかという問いには、「この頃から自分の事だけじゃなく、自分が投げない時もチームに貢献出来ないかと考えるようになり、回りの選手の事も見るようになった。投げていない日も試合を観るようになったし、そうしたらうまくいくようになった」と答えている。この非常に重要なコメントを引き出したインタビュアーの大越キャスターの質問は素晴らしかったと思う。

野茂は剛腕のイメージがあるが、肘を手術してからの真っ直ぐは(野茂はいつも直球を真っ直ぐと言う)140km/h中盤しか出ない。しかしその140km/h台中盤しかでない真っ直ぐで野茂は真っ向勝負を挑む。スピードがあるとかないとかではないのだ。打者を見据えて、腕を思いっ切り振ることしか考えない。野茂にとっては打者を抑えることが結果ではなくて、腕を思い切り振れたかどうかが結果なのだ。

大谷選手の活躍について聞かれると、大谷がどうこうとは一切言わず、自分も体が元気だったらもう一度やりたいとか、どんな球を投げるのか打席にも立ってみたいとだけ言う。日米野球では自分の真っ直ぐがどれだけ通用するかを知りたかったから、真っ直ぐばっかり投げて怒られてましたと言って笑う姿や、引退したくなかったし、引退してからも投げたいと思いましたと当たり前のように言う姿を見て、引退して何年も経っても野茂英雄は野茂英雄のままなんだなと思った。

野茂は批評めいたことや誰かのことを悪しざまに言ったりしない。「日本球界に対して大きな壁を感じたことはありますか」と聞かれた時もそうだった。近鉄球団に対しても文句はいくらでもあるだろうけど、口にするのは「最後の話し合いで、メジャーに行かせてくれた人には感謝しています」と言うのみ。マスコミに散々嫌な思いをしたろうけど、そんなことも一切言わない。多分それは野球とは関係ないことだからだと思う。

野茂英雄は僕にとってのヒーローだった。別にメジャーリーガーになったからではない。ユニフォームがはち切れんばかりに大きくワインドアップをして、背番号が見えるほど体を捻り、どんなに大きい相手であろうと、真正面から突破を試みる。それは僕には到底できないことだった。この日、久しぶりに野茂さんを見た。体型は変わって髪の毛には白いものが見えたけど、やっぱり野茂さんは僕のヒーローのままだった。高校の教科書に何度もピッチングフォームを落書きした、大学時代に4畳半のアパートで夜な夜な観た、あの時のヒーローのままだった。

佐野元春 & The Coyote Band 禅BEAT TOUR 2018 感想

ライブ・レビュー:

佐野元春 & The Coyote Band 禅BEAT TOUR 2018 in ZEPPなんば 2018.10.20 感想

いや~、楽しかったッス。佐野元春 & The Coyote Band「禅ビート・ツアー 2018」。今年の春にニュー・アルバム『Maniju』をフォローするマニジュ・ツアーが行われたばっかなのに、この秋に『Maniju』アルバム中の1曲である「禅ビート」をタイトルにしたツアーを行うという。春がホール・ツアーで今回はライヴ・ハウスを巡るということで主旨が異なるものの、またなんでツアーなの?という疑問が無くもなかったのですが、行ってみてよ~く分かりました。全編、重心の低い Coyote Band ならではビートをフィーチャーした名付けて禅ビート。2007年のアルバム『Coyote』に端を発した Coyote Band 結成がここに至り獲得したひとつのスタイルをより重点的に披露しようってんですね。その意図がよ~く伝わるライヴでした。

マニジュ・ツアーは Coyote Band と制作したアルバムからの曲のみで本編が構成されるという潔いセット・リストだったけど、今回の禅ビート・ツアーも基本はそこは同じ。オープニングからほぼ全編、近年の曲で占められています。これはやっぱりいいですね。ロック音楽には同時代性が必要で佐野さんの昔の曲がそうではないという訳ではないけど、今の佐野さんには今を叩きつける今の歌が沢山あるわけだから僕はやっぱりそれを聴きたい。世の中には音楽が沢山あるけれど、残念ながら日本には時代に言及する音楽が足りない。今の佐野さんの音楽はチャートに昇るようなものではないけれど、今日この日の会場では2018年の音楽が流れている。そう強く感じさせるライブでした。

ライブ前半はマニジュ・ツアーに準ずるラインナップ。しかしやはりライブ・ハウスというのは大きい。単純に届く距離が短いということは同じ曲であっても響き方が全然違うということ。これは僕が思ってるだけかもしれないけど、やはりCoyote Band はライブ・ハウスが映える。なんかホールだとよそよそしく感じてしまうんだよなぁ。このバンドが一番自然体ていられるのはライブ・ハウスってことではないでしょうか。

てことで、ところ違えば響き方も違う。僕個人として今回一番そこを感じたのは「純恋(すみれ)」だ。この曲は『Maniju』アルバムの中でも人気が高い曲だけど、実は僕にはあまり響いて来なかった。ところが今回はイントロを聴いた瞬間に感情が大きく波打って自分でもびっくり。この曲は佐野さんのMCでもあったようにティーンエイジャーに向けられた曲で、恋に落ちた時の心模様が描かれている。なんだろ、好きになった時やそれが成就した時の天にも昇る気分、恋が終わった時ののたうち回るような苦しさ、そういった記憶がバババッと思い出されてきたんだな。なんか自分の中の思春期が急に蘇ってきた感じ(笑)。強烈なアンセムとして響きました。僕にとってはこの曲がこの日のハイライトでした。

ライブ後半はマニジュ・ツアーと違って80年代、90年代の曲が幾つか披露されました。禅ビート・ツアーって言うぐらいですから勿論、Coyote Band としての解釈でぐぐくっと重心の低いダンス・ビートとして鳴らされます。確かにこの辺の曲をやった時の方が Coyote Band としてのアイデンティティーが明確に目に見えて来ますね。なんて言うのかな、世代的にオルタナティブなロックをくぐり抜けた Coyote Band の面々ではあるけれど、かえってアーシーと言うか非常に泥臭いサウンドで直に迫る感じ、泥が跳ねて来そうな直接性を感じられました。「インディビジュアリスト」や「ヤァ!ソウルボーイ」などでそれは顕著に感じましたね。

まぁそういう意味では、古い曲をすることで Coyote Band が叩き出す`禅ビート’がよりはっきりと浮かび上がってくる訳だけど、マニジュ・ツアーに比べると幾分古い曲が多いかなと。個人的にはもうちょい『Maniju』アルバムからの曲が聴きたかったかなとは思います。ま、そうするとマニジュ・ツアーとあんま変わらないセトリになってしまいますからとマニジュ・ツアーとは別のアプローチで、というのはあったのかもしれないですね。

あとライブの中身と関係無いところで、春のツアーはフェスティバルホールだったの席番があって、ところが本編の間中ずっと誰も立たないという髄分なストレスがかかる状態となり(←主要年齢層が50代なもので)、集中することが難しかったんだけど、今回はライブ・ハウスということでスタンディングあり。それでも年齢層を考慮してほぼ9割が座席ありのチケットで、僕は勿論前みたいにずっと座ってんのヤダからスタンディングにしたんだけど、始まったら結局みんな立ち上がって、なんだそんならイス席取りゃ良かったなと(笑)。だってスタンディングは1階の最後列なんやもんなぁ。

あと途中からなんかプワ~ンと漂うものがあって、これは多分口臭ですかね(笑)。これがどうも気になっちゃって、いかんいかん、口で息をしようと思ったんだけど、オレ魚じゃねぇし無理(笑)。多分後ろの人だと思うんだけど、だんだん盛り上がって来て一緒に歌い出したんだろな、そうすっと息も前へ前へ押し出されてくる訳で、スンマセン、僕はもう我慢出来なくなりました。てことで途中で一番後ろへ移動(笑)。でもこれが不幸中の幸い。一番後ろはスペースもあって、そこからは周りを気にすることなく目一杯楽しめました。やっぱスタンディングで良かったという話です(笑)。

今回はインスト・ナンバーも披露されました。キーボードの渡辺シュンスケ率いるバンド、シュローダー・ヘッズの曲、「ライナス・アンド・ルーシー」。聞き覚えのあるスヌーピーの曲です。これが格好良かった!めちゃくちゃ楽しかった!僕は一番後ろで跳び跳ねてしまいました(笑)。佐野さんも「ここからは渡辺シュンスケ・アンド・ザ・コヨーテ・バンド!」なんて粋なこと言います。

ライブはアンコール含めての2時間弱。えっ、そんだけしか時間経ってないの?っていうぐらいあっという間の濃密なライブでした。セトリもアップ・テンポのものが多く、やはりビートに重きを置いたライブという主旨が如何なく発揮されていました。力強く深く道を抉る感じ。今の佐野元春はこれなんだよ、という宣言。Coyote Band のアイデンティティーはこれなんだよ、という宣言。どうしても年齢層は高くなるけど、これはやっぱり若い人に聴いてもらいたいな思いました。現実的に年齢層の高いお客さんのパワーも落ちてきたような気もするしね(笑)。

でも実際、もし佐野元春の曲をひとつも知らなくても十分楽しめるライブだと思います。今の若い子はフェスなんかでそういう場合の楽しみ方もよーく分かってるだろうし、なんつっても Coyote Band の作り出すサウンドは普通に格好いい!勿論、手練れのメンバーだし技量的に優れているのだけど大事なのはそういことではなく、同時代性を伴って如何にビートを鳴らせるかに掛かっている訳で、そういう意味では佐野元春 and The Coyote Band の’禅ビート’はまさしく今を強くキックするバンドだと思います。

ライブとは何なのか。こうやってひとつところに集まって直に音楽を聴く、体感することはどういう意味を持つのか。この日の佐野さんは何度も「楽しんでいこう!」、「ダンスしよう!」と言った。会場には少ないながらも10代、20代の連中がいた。佐野元春は言う。「僕たちと皆の見ている景色は違うかもしれないけれど、明るい未来は願う気持ちは一緒だ」と。ただ楽しむもよし、踊るもよし。自分の胸を打つものは何なのか?それは何故なのか?と咀嚼し考えるもよし。それぞれの人生と照らし合わせ、思い思いにライブを過ごす。そういう自由でポジティブなムードをもたらすものはやはり現代の荒地を往く Coyote Band のビートがあるからなのだと思いました。

それにしても佐野さんが一番楽しそう(笑)。ところどころで顔を出すユーモアも抜群だし、佐野さん、キャラ変わってきたな(笑)。「僕たちはこれからも前進します」と言ってたし、結成して10年以上経ちますが、佐野元春 & The Coyote Band の旅はまだまだ続きそう。皆さん、今の佐野元春は凄いですよ!

セットリスト:
1. 境界線
2. 君が気高い孤独なら
3. ポーラスタア
4. 私の太陽
5. 紅い月
6. いつかの君
7. 世界は慈悲を待っている
8. La Vita e Vella
9. 空港待合室
10. 新しい雨
11. 純恋
12. ライナス&ルーシー(インスト)
13. 禅ビート
14. 優しい闇
15. 新しい航海
16. レインガール
17. インディビジュアリスト
(アンコール)
18. ヤァ!ソウルボーイ
19. 水上バスに乗って
20. アンジェリーナ

My Mind Makes Noises/Pale Waves 感想レビュー

洋楽レビュー:

『My Mind Makes Noises』(2018)Pale Waves
(マイ・マインド・メイクス・ノイジーズ/ペール・ウェーヴス)

 

若さとは過剰であること。誰かが言っていたけど、ここにあるのは過剰さそのもの。しかしペール・ウェーヴスはそんなことお構いなしだ。まるでその過剰さこそが現実を凌駕するとでも言うように。そうだ、若さはいつも正しいのだ。

ヘザー・バロン・グレイシーによる歌詞は自身の恋愛体験を綴ったもので、それはまぁよくある話。そんなもの放っぽっておけばいい。しかしあまりに無垢で鋭利な言葉は聴き手に無視することを許さない。こちらの感情にまで真っ直ぐに踏み込んでくる言葉の力は通り一遍の‘私の恋愛物語’ではないから。そこには反逆やここではない何処かを希求する強烈な意志の力が蠢いている。これは彼女たちによる存在証明なのだ。

その存在証明こそが剥き出しの感情であり、過剰にポップなメロディであり、過剰に耳馴染みの良いサウンドであり、幾たびも登場する‘kiss’という言葉なのだ。正直言って、余りに自己主張の激しいポップ・ソングは互いに協調し合うことなんかなく、それぞれが好きな方を向いて勝手し放題。曲順なんてしっちゃかめっちゃかだ。けれどこれでいいんだと思う。多くの人が過剰さを抑えて、クールに決めようとする時代にあって、彼女たちはひたすら懸命に手を挙げているのだから。

今後、彼女たちはキャリアを重ねる中で、新たなスキルを身に付け、より多くの表現方法を獲得していくだろう。けれど、歪で不器用だけど強烈な正しさを秘めたこのアルバムの無防備なエネルギーを超えることはない。何故なら、このアルバムはどうあっても吐き出してしまわざるを得ない初期衝動によって生まれたアルバムなのだから。

 

1. Eighteen
2. There’s a Honey
3. Noises
4. Came In Close
5. Loveless Girl
6. Drive
7. When Did I Lose It All
8. She
9. One More Time
10. Television Romance
11. Red
12. Kiss
13. Black
14. Karl (I Wonder What It’s Like to Die)