Cruel Country / Wilco 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『Cruel Country』(2022年)Wilco
(クルエル・カントリー/ウィルコ)
 
 
もし、一人もしくは一組のアーティストのカタログしか所持してはいけないという法律が出来たら、僕はやっぱり佐野元春かなと思いつつ、よくよく考えてみると、常にBGMとして傍に置いておきたいのはウィルコもしれないなと思い返した。なんてありもしないことを考えてしまったが、そもそも時折ありもしないことを妄想する僕の傾向自体がウィルコっぽいなと思いつつ、その根拠を聞かれても答えようはない。ただそういう妄想を許容してくれるのがウィルコの音楽。
 
そんなくだらないことを考えたのはこのアルバムを聴いたことが原因だと思うが、とにかくジェフ・トゥイーディのリアルなのか半ば夢見がちなのか、いつものことながら分かるようで分からないながら、どっちかというと分かる寄りの歌を聴いて、何事も白黒ハッキリつけたくない、というかハッキリつけられない性質の人間としては、このぐらいのスタンスがやっぱり落ち着く。
 
今回、その落ち着きをより顕著なものにしているのはカントリー色の強いサウンド。元々、オルタナ・カントリーと呼ばれるところから出発して(ちなみにこのオルタナ・カントリーというのも分かるようで分からないが、それもまたウィルコっぽくてよい)、途中実験的な音響であったり、エレキギターで変態的な音をギャイーンと鳴らすこともあったけど、ここ最近は、というか2016年の『シュミルコ』アルバムあたりから割とアコースティック寄りにはなってきた。
 
なんでそうなってきたのかは知る由もないが、なんにせよこの歌心と予想通りにはならないがなぜか安心感のあるサウンドはウィルコ以外の何ものでもない。しかし相変わらず大きく盛り上がることもなく地味な曲が21曲も続くのにずっと聴いていられる、あぁやっぱりウィルコはいいなぁと思わせるこの力はなんなんだ。
 
そこで考えてみる。音楽というのは非日常を楽しむものでもある。ダンス音楽に体を揺らすこともあれば、時には悲しい音楽で思いっきり悲しんでみたりもする。そうすることで心が晴れればいいじゃないかと。てことで普段私たちが耳にする音楽は感情の揺れ幅の大きいところめがけて奏でられている向きはあるかもしれない。それに対し、素のまんま、普段の調子の私たちに並走するのがウィルコの音楽ではないか。
 
日常とは基本的には平坦なものである。しかしその平坦な中にもドラマはある。そのドラマの中で小さくうごめく何か。つまりそれが#13『Hearts Hard To Find』。人生が起伏激しくやたらめったら盛り上がったり盛り下がったりするものではないならば、音楽も平坦でいい。僕はやっぱりウィルコの音楽を傍に置いておきたい。

優しさがない

ポエトリー:

「優しさがない」

ないの優しさが
 と虚しさが頬をつたう
  それはいつのことだっけ

幾らで買ったのか
 問いかけることもせず
  とるに足らない言い訳

ただ足元を見ると
 捨てた言葉が掃くほど溢れ
  今はまた別の方角から風に吹かれ

無い物ねだりと知りながら
 白身の粘り気が苦手で
  ちゃんと火を通さないと駄目だった

喉を通るものだけを食べなさい
 昔の母みなそう言ったが
  今は涙が止まらないんです

休日

ポエトリー:

「休日」

am7:30
 あどけない朝の態度がとても優しい
 心の隙間に潜んでいるものたちの声が聞こえます
 その言葉のひとつやふたつ
 耳たぶに貼り付けて今日は過ごしましょう
 それで困るくらいなら
 今日はおそらく駄目でしょう
 朝から真夏日でクラクラになります
 暑い日のお化粧は体に堪えます

am8:30
 午後からのキャンセル
 致し方ない?それとも人格との戦い?
 もともと気にしてないって言ってあげるわたしは天才
 でも十日も雨が降らないと食べ物が心配
 今はただひたすらあなたを患っていて
 そうだとしても食べ物は心配
 別腹ですから

  am10:00
   いつかの
   耐えきれなかった時間がまた現れる
   今度も
   自分が嫌になるなら黙っているのがよいでしょう
   今度会うときは花束を添えてあなたに届けようと思う
   困らない勇気、あなたはまぁまぁあると思う
 
 am11:30
   今日はいい感じで午後を迎えられそうです
   でも心臓破りの坂は体に悪いから今日はやめておきます
   今は簡単に蛇口をひねって喉を潤すぐらいの気持ち
   いろいろありますが、
   それぐらいの元気はあるようです

ぼちぼち銀河 / 柴田聡子 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『ぼちぼち銀河』(2022年)柴田聡子
 
 
日々のこまごまとしたことを日記のように綴りながら、日記とは対極のカラカラに乾いた感性が秀逸な#2『雑感』を聴いていると、ひとり言のようでいてその実、自分のことは一切書いていないのではないかと思ってしまう。とか言いつつ、「給料から年金が天引かれて心底腹が立つ」ているのは彼女なんだろうなぁと思わせる絶妙な距離感。いずれにしても彼女は描くものを対象化できているのだろう
 
つまり彼女は入れ込んだり、情緒に流れることはしなくて、物事を表現する時の態度をどうとるべきかという彼女なりのスタンスが明確で、「私」と「対象」とが寄りかかったままだと本当に大切なことは感情にくぐもってしまうということを敏感に回避しているのではないか。言葉としては「私」でありながら、「私」でもなさそうなこの絶妙な距離感はそういうこと。この時ぐらい情緒に流されてよさそうな聖夜の『サイレント・ホーリー・マッドネス・オールナイト』でさえそのスタンスは崩れない。
 
言いたいことがあると、その中身が自分では分かっているものだからつい大掴みにワッと、それこそ大袈裟に言ってしまいがちになるのだが、ここでも彼女は冷静で描くべき対象一つ一つをまるで神は細部に宿るとでも言うように丁寧に重ねていく。すなわちそれは真摯さの表れ。いずれにしても素晴らしいのはその対象がいちいち並列で、やっぱり入れ込んでいない。「一緒に住んでいる人」も「一瞬だけ月」もすべて体温は同じ。
 
究極は#8『夕日』でここで歌われている「大人子供おじいちゃんおばあちゃん孫」とか「酸素炭素水素窒素空虚」とか「猿の置物」とか「みゆき」とか「なおみ」とか「きょうこ」とか「あゆみ」とか「歯医者の窓」とか全てを並列に並べてしまえる彼女の才能は単純に凄い。
 
と振り切ったところから続く最後の#9『ぼちぼち銀河』、#10『24秒』、#11『n,d,n,n,n』で彼女の顔の輪郭がぼちぼち明確になってくるのは意図してのことかどうか。というところでなかなか本心を見せないところが彼女の魅力です。なんて言うと、いや全部出してるよ、とうそぶきそうだなこの人はなどと思っている僕は見事に柴田聡子沼にハマっている。
 
最後になったが細部まで行き届いたリリックを丁寧になぞるようにこちらも真摯な態度のサウンドが最高。静かなところで聴きませう。

Mr. Morale & The Big Steppers / Kendrick Lamar 感想レビュー

洋楽レビュー:
『Mr. Morale & The Big Steppers』(2022)Kendrick Lamar
(ミスター・モラル・アンド・ザ・ビッグ・ステッパーズ/ケンドリック・ラマー)
 
 

このアルバムは前後半、Volume1(Big Steppers)とVolume 2(Mr.Morale)に分かれているんですね。だから長いアルバムでもあるので思い切って前後半と分けて聴いていたんです。でVolume 1 の方から何回か繰り返し聴き続けて、あぁ今回は聴きやすいなぁなんて思っていました。もちろん、ケンドリックの作品ですからそんな単純に聴きやすいってこともないんですけど、割と重くないというか、急にセレブになってATM2台分ぐらいどうってことなくなってしまった自分や周りに対する違和感とか、昔ながらの男らしさを徹底的に叩き込まれた父親との関係とか、あとこれは4文字言葉連発という意味で聴くのしんどいので僕は時々飛ばしますけど(笑)、痴話ゲンカの一部始終とか、まぁこれまでの作品でこっちが免疫付いたのかもしれないですけど、割と負荷なく聴けるんです。

 
加えて音がべらぼうに恰好いいし、中には歌モノもあるしサウンド的な面白さもあってキャッチーな要素も結構ある。だからリリックはさておき、部屋で流して聴いても全然イケるなっていう感覚があった。ていう流れでじゃあそろそろVolume 2 を聴こうかってことでこっちも最初は音だけを聴いていたんです。でやっぱり恰好いいなぁと、ヒップホップ分かんなくても全然恰好ええわぁと。
 
まぁこれは、ケンドリックのアルバムを聴く時の僕のいつものやり方ではあるんです。やっぱリリックが強烈なのでシンドイ、後回しにしちゃえ、と。あと、いつも和訳付きの国内盤を買うんですけど、和訳片手に目で追ってくの大変なので、音まで気にしちゃいられないというのがある。でもそれも勿体ない、だから先ずは耳で楽しみたいなと。ケンドリックは勿論リリックだけの人ではないので、音楽的なところで先ずは楽しみたいというのがあって今回も先ずは訳を読まないでいました。とは言え、Volume 1 があったので、そこまでキツイものではないのだろうと高を括ってたんですけど、Volume 2 の和訳を片手に聴き始めたらですね、これはかなりヤバい、辛い内容がそこにはありました。
 
ずっとケンドリックが描いてきたことなんですけど、アフロアメリカンとしての歴史ですよね。特に性的なところ、レイプされレイプさせられてきたという事実。そういう中々消えない歴史、トラウマがアフロアメリカンにはあって、そしてケンドリック自身も幼いころに性的被害に関するゴタゴタにあっている、そして性的虐待や恐喝をした罪で服役しているR.ケリーも傷を負っていると。この辺のくだりは訳詞を読んでて本当にキツイです。
 
そしてケンドリックの告白ですよね、セックス依存症であるという。でケンドリックのパートナーであるホイットニーが登場して、彼女はすべてを包み込む聖母のようなんですね、でも実際はどうなんだろう、他の女の人とそういうことがあって、理由はあるのだろうけどそんな受け入れられるのかなとか、いやいやホイットニーも受け入れることができるぐらいアフロアメリカンにとってのトラウマ自体が深いものなのかとか、はたまたケンドリックぐらいになるとそれこそ女の人がヤバいぐらい寄ってきてもうまともな奴でもそうなってしまうのかな、でもなんでそうなっちゃうんだとか他にもいろいろ考え込んでしまう。
 
更に話は飛んで、日本だと在日2世とか部落の問題とかいろいろあるわけで、僕はEテレの『バリバラ』をたまに見るぐらいの知識しかないけど、じゃあ在日とか部落でもまだまだ言えないことがあるのだろうかとか、このアルバムはアフロアメリカンについてではあるので関係ないのかもしれないけど、こっちはそんなことまで考えてしまってまぁホントに重たい。あと、自分が子供の頃の記憶をたどりながら性転換をした親戚の話があったりもするし、曲自体は全体を通して聴きやすいし恰好いいんですけど、リリック含めた音楽としては気楽には聴けないなかなかしんどいアルバムではあります。
 
なのでVolume 2 も何回か聴いてますけどVolume 1 ほどじゃない、しかも和訳読みながらっていうのはそんなにないですね。アルバム買って2か月ぐらい経ちますけどまだ2回です、無理です(笑)。でも英語圏の人はこのアルバムを聴く度このヘビーなリリックが耳に入ってくるわけですよね、ちょっとそれは耐えられないなぁ(笑)。
 
最後にこういう事書いているとこのアルバムはじゃあどうなんだということになりますが、勿論素晴らしいです。先ずは当たり前のことして音楽として恰好いいかどうか、やっぱこれが大前提になりますけど、この点は流石ケンドリックの恰好よさです。あとやっぱリリックをね、何ラップしてるのか分からなくて音楽としてのみ楽しむ、勿論それもありですけど、リリックを読んでいろいろなこと、聴くのしんどい時はあるかもしれないけど、ケンドリックはやっぱ大事ことラップしてますから、日本人だから関係ないとかじゃなく、こういうことを知っておくというのも大事なんじゃないかなと、これは僕がケンドリックを聴き続けている理由でもあります。

ではまた

ポエトリー:

「ではまた」

 

わたしたちの
額に流れる汗
いつもより濃い目のコーヒー

通りに面したカフェで
わたしたちは互いの困難や苛立ちを語り合い
時には大げさに笑いあった

これまでの暮らしがわたしたちに与えたものは
初めから無かったものを無理やりぶら下げるようにして
雨傘や
時には進軍ラッパをかき鳴らし
人々がこうと決めた目的地まで
一目散、声を競ったんだ

見返りに求めたものは何だったのか
見知らぬまま胸ポケットの裏返し
朝昼晩、過不足ない食事を摂り
時折無駄をした痕跡
体のあちこちに歪む意思

もう二度と
交わることはないと知りながら
今日は昨日のこと
明日は今日のこと

わたしたちの
額に流れる汗
いつもより濃い目のコーヒー

無事に過ごせばいいじゃん
通りに面したカフェで
わたしたちは今日も
大げさに笑いあった

 

2022年8月

岡本太郎展 中之島美術館 感想

アート・シーン:
 
岡本太郎展 大阪中之島美術館
 
 
気付けば、大阪での岡本太郎展も10/2までと残り僅か、台風14号の影響もあり天候が不安定ではありましたが、かえって人出では少なかろうと、3連休の中日に行ってまいりました。
 
10時開館より少し早めの9時45分ぐらいに到着しましたが、既に行列ができていました。この天候にも関わらず流石ですね。会場に入ると最初に目に飛び込んでくるのは初期の作品群ですね。と言っても戦火で随分と消失してしまったようですが、学生時代の作品も含め幾つか展示されていました。岡本太郎といえば原色鮮やかなあの絵を思い浮かべますけど、始めからそうではなかった、ちゃんと写実に描いている絵もあって、当然と言えば当然なんですけど、こうやって観ると新鮮な驚きがあります。
 
展覧会は年代順に展示されており、絵だけでなく幅広く活動していた岡本太郎らしくいろいろな造形物もあって楽しく観ることが出来ます。僕はぐるっと回って2時間ちょいでしたが、そんなに経ったとは思えないぐらいあっという間でした。つまり岡本太郎の作品に対する評価はいろいろあるのでしょうけど、基本的にはエンタメなんだと、楽しませるだけではなく違和感を抱かせる部分も含めて見る側を飽きさせないエンタメなんだと思います。
 
あと面白かったのは、晩年にはテレビによく出ていて有名なフレーズ、「芸術は爆発だ」と共に目を見開く岡本太郎の姿が印象的でしたが、あれも芸術活動の一環だったようで、つまりにらめっこなんだと。動物でもなんでも相手とにらめっこしてそこから創作が生まれるというのがあるらしく、にらめっこというのは岡本太郎にとって重要な意味を持つ行為だったんです。あぁなるほどなと、あの岡本太郎の姿はあえてだったんだと(笑)、今になって腑に落ちるとは思わなかったです。
 
作品には一応タイトルがあるのですが、ま、その辺はよくわからないですよね(笑)、絵を観てももうなんのこっちゃ(笑)。でも圧倒的なパワーですよね、そこに何かあると思わせる、岡本太郎にはそうとしか見えない何かがあるのだと。つまり物を見る時に我々は形あるものとして、そこにある物を物質として認識するのですが、岡本太郎はそこを超えて何かエネルギーであるとか別のものに変換されて見えてくる。例えばリンゴは赤くて丸いですけど、じゃあ本当にそうなのだろうか、その本質は本来の姿はどこにあるのか、そこにあるじゃないか、それを描くんだというような、物を見る自分と物とが同じ意識下、同じレベルになって相互に見て見られる、そういう関係性があったんじゃないかと、何か意識レベルの交感があったんじゃないか、そんな気はしました。
 
あと芸術に対して、条件に挙げていることがいくつかあって、もう忘れてしまったんですけど(笑)、そのうちのひとつに「心地いいものであってはいけない」というのがありまして、やっぱり自己陶酔というか、自分で気持ちよくなってしまうことがあると思うんですけど、そうじゃないんだと、気持ちの良いものであってはいけないと。また、鑑賞する側に対しても何かをぶつけるというような、相手にとって心地よいものを提示する、ということとは真逆なものを提示する、というのは何か目から鱗というか、僕自身も居住まいを正されるような気持ちになりました。
 
あと見に来ている人ですけど女性が非常に多かった、特に若い女性が多かったのが印象的でした。岡本太郎の作品のどこにそういう要素があるのか、僕には見当がつかないですけど、今までもいろいろと展覧会へ行きましたけど、こんなに若い世代、特に若い女性が多かったのは初めてでした。
 
あとグッズ売り場が充実していましたね(笑)。とにかく岡本太郎の作品はキャラ付けしやすいというか、そこもさっき言ったエンタメ性と繋がると思うのですが、企画会議ででもあれしよう、これはどうか、っていくらでもアイデアが出たんじゃないかって想像できますよね(笑)。つまり岡本太郎の作品が他の誰かの創作を喚起している、作品が作品を生むっていう、そういう循環を促す力があるんだということなんです。それこ芸術ですよね、今もなお他人に伝播しつつ爆発しているんだと思います。

10 Tracks to Echo in the Dark / The Kooks 感想レビュー

洋楽レビュー:
 
『10 Tracks to Echo in the Dark』(2022年)The Kooks
(10トラックス・トゥ・エコー・イン・ザ・ダーク/ザ・クークス)
 
 
4年ぶり、6枚目のアルバム。ではあるけれど、元々5曲入りのEPとしてリリースしていた2枚をくっ付けたものらしい。今作リリースにあたってのルーク・プリチャードのインタビューを読みましたけど、ルーク自身はもうアルバムという形にこだわっていないようですね。いい曲が出来たらその時に出せばいいっていう考えのようです。
 
彼らのアルバムはデビュー以来、ずっと聴いています。その時々でサウンドの方向性は異なりますが、ハズレはないですね。ボーカルはいいしバンドはいいし何よりソングライティングに長けている。耳馴染みがよく、それでいて個性的なメロディをいつも聴かせてくれます。デビューして16年経ちますけど、まだこれだけポップな曲を書き続けられるのは実は凄いことだと思います。同期のアークティック・モンキーズはなにやら難解になってますからね(笑)。
 
今作でもそのストロング・ポイントは十分に感じられます。あとはサウンドをどう持っていくかというところだと思いますが、ここが今回はちょっと弱いかなと最初は思いました、最初はね(笑)。やっぱり大人しいんです。ところがここで諦めてはいけない!かの洋楽レビューの大家、ロリングさんも仰られていましたが、こういう時こそ2週間の法則。1週間聴き続けると「ん?ちょっといいかも」、2週間聴き続けると「これ、ええやん!」、と見事に印象が変わりました。
 
全体的に感じられるのはシンセですね、あとベースがしっかりと聴こえてきます。雰囲気としては彼らの4作目であるファンキーな『Listen』(2014年)に近いかもしれませんが、あそこまで振り切れてはいないです。つまりこのアルバムの最初の印象が弱いのは、振り切れていないように見えるからなんだと思います。でもよく聴いていると、彼らの持ち味、彼らのこれまでの道のりがちゃんと配分されていて、何気ないアルバムではあるんですけど、そんじょそこらのバンドにはできない、16年経ったうえでの経験、16年経っても失われない鮮度、そういうものを感じられます。
 
全10曲、目につく派手な曲はないです。しかも多くがミディアム・テンポの曲で占められています。にも関わらず、それぞれの曲の輪郭が明確でそれぞれ全く違う個性を持っている。これはなかなか出来ることではありません。ということでサウンド作りは誰と組んでいるのかなと調べてみたら、ドイツ人のプロデューサー、Tobias Kuhnとベルリンで録音したみたいです。これまた世間とは関係なしにやりたいことをやるクークスらしい判断で、こういうところも好印象です。
 
ということで意識したのは80年代のサウンド。シンセが印象的なのはそのせいですね。とはいえ当時のアレをそのままやるとダサいですから、そこはかいくぐって今のクークスに照らし合わせてみる。
 
つまり『Listen』アルバムで取り組んだ跳ねる要素、パーカッションを用いたり、他にもちょっとした味付け、例えば#5『Sailing On A Dream』では何気にサックスを入れてみたり、#6『 Beautiful World』はレゲエのリズムでリゾート感を出す、#7『Modern Days』ではダフトパンク風のコーラス、#8『Oasis』ではアップリフティングなギターリフ、そうした要素をシンセ・サウンドを基調に合いの手のように入れてくる。確かにクークスと言えば、のギター・サウンドは薄いかもしれませんが、よく聞くと多種多様で職人芸のようなデザインがなされていることに気づきます。プロデュースはドイツ人のTobias Kuhnとルークの共同となっていますが、マイスターのように時代を追いかけない実直な技が光っていますね
 
なので全体の印象としては地味ですし、クークス、本気出してないんじゃないの的な腹八分目な印象を持たれてしまうかもしれない、ファンには歓迎されにくいアルバムではあるかと思います。が、僕はしっかりと作り込んださすがクークスと思わせるとてもよいアルバムだと思います。なのでこのアルバム、あんまりだなと思った人も多いかと思いますが、懲りずにもう何回か聴いてもらえると違って聴こえてくるのかなと思いますね(笑)。

読書の秋

その他雑感:
 
読書の秋
 
 
『14歳の君へ』という池田晶子の著作を息子に手渡した。以前、Eテレの『100分de名著』で紹介されていたのを見て、息子が14歳になったら送ろうと思っていた。もちろん、ちゃんと自分でも読んでから渡した。
 
息子に望むことはここに書かれてあることを鵜吞みにすることではなく、こういう考えもあるんだという視野を広げてもらいたいということもう一つは誰かが異なる意見を述べた時にちゃんと聴くことが出来る素地を作ってもらいたいということ。若いころはとかくこうずべきだ、なんて自分の考えに固執するきらいがあるが(僕が多分にそうだった)、少しずつものの見方の幅を広げていってくれたら嬉しい。
 
以前贈った植松努の本は気に入ってくれたようで、自分の部屋の本棚に大切に置いてくれている。僕も多感な頃にこうした本に触れていれば少しは今と変わっていたのかもしれない。
 
息子も娘も時間があればスマホやタブレットを触っている。あれは色々な情報を与えてくれるが、Aiが使用者の傾向を勝手に分析し、困ったことにそれに応じた情報を流してくる。スマホで読む情報なんてたかが知れているが、そうは言っても毎日繰り返し続けられると、サブリミナル効果のように更に考えが偏るように刷り込まれていく。そんなことは分かっていてもついスマホを見てしまう。大人がこれなのだから、無防備な子供への影響度は計り知れない。
 
その点、紙の本というのは面倒な分、自分でちゃんと選んでいるという責任があるのがいい。それに1000円で買ったなら、ちゃんと1000円分は読もうという気になるし、子供に贈る場合も読まれずにその辺にポンと置かれたままだとかなり悲しいので、ちゃんと読んでくれる工夫をして手渡す。
 
それに読むのにはそれ相当の時間がかかるのがいい。スマホのように次々と自分にとって気持ちのいい情報が流れてくるということはないから、読みながら立ち止まったり戻ったりと自分で判断できるのがいい。また1冊読んでも、分かったような分からないような気になるのがいい。難しい本を頑張って読んだけど、結局よく分からなかったというのもなかなか良い時間の過ごし方だと思う。
 
そういうわけでこれからも折を見て、息子に本を手渡そうと思う。そろそろ中原中也の簡単なアンソロジーなどどうだろう。いやいやまだ早い。こんなところで詩から離れてしまわれても困るので、中原中也は高校生になって彼が困っているようならプレゼントしよう。もちろん、堅苦しい本だけじゃなく、漫画もたまに一緒に読みながら。
 
ところで娘はほとんど本を読まない。いくら薦めても全く駄目。先日、珍しく読んでいるなと思ったら、好きな芸能人のエッセイ本でした(笑)。

肌色からベージュへ

ポエトリー:

「肌色からベージュへ」

肌色からベージュへ
わたしたちはひとつの物語に仕舞われることを拒否した

 炎は木からしか生まれない
 その喋り方だと絶えず歯形が付くよ

いつかは思い浮かべる
まぶたの上

わたしたちは選択した
そして時折互いの名前を呼んだ
思い巡らせた後の幾つかで
わたしたちは合致した

人は死んだあと
どれだけそこにいるのか
今はもういないのか
夜明けまでにもいないのか

肌色からベージュへ
まだ誰も起きていない朝の
一番鳥は泣く

 

2022年4月