Oasis:Supersonic 感想レビュー

『Oasis:Supersonic』(2016)
(オアシス:スーパーソニック)

オアシスの映画を観た。公開初日に観た。2時間たっぷり。観終わった素直な感想は「疲れた~」。「馬鹿か、そんなんじゃやってけねぇよ」ってノエルに言われそうだけど、それぐらいすごいパワーに圧倒されっぱなしの2時間だった。

見どころは沢山あってその辺の詳しい話はいろんな媒体に載っているからよしとして、僕が思ったのはオアシスが巨大になっていくに従って、トラブルも倍々に増えていったけど、悪いやつは一人もいないってこと。そりゃノエルもリアムも無茶苦茶やるけど、後に金目当ての裁判を起こしたトニーだって悪くない。すべてなるようになった。それだけのことなのだ。結局、映画観ててこいつ悪いやっちゃなぁって思ったのは父親だけ。でもその父親がいたから二人がいるってことだから全否定はできない。

ということで、この映画には製作総指揮としてノエルとリアムが関わっている。通常この手のドキュメンタリーは死んだあとに作られたりするんだけど、二人はまだピンピンしてる。なのに一番輝いていた時期だけを抜き取って映画にすると言う。そんな昔の栄光、なんで今更って話で、ディナー・ショー・ミュージシャンじゃあるまいし、我々がよく知ってる二人のキャラからは考えられないことだ。なのに映画にすると言う。それは何故か?要するにこれはオアシスの8枚目のアルバムだからだ。

オアシスが解散してからずっと、二人は絶縁状態のままだ。今もツイッターやインタビューで互いを罵り合ってる。なのに力を合わせて映画を作る。確かに面と向き合って作り上げていくわけではないが、これはもう明らかに二人の共同作業。同じ場所にいなくても二人が同じステージに立っていた時のように通じ合っている。こっち向いていくぜって。ケンカしながらもスタジオに入った時に、あるいはステージに立った時に爆発的な力を発揮したあの時と同じ。二人は分かっているのだ。今もそれが可能なことを。そして自分たちが今やるべきことを。それは何か。ただの昔の栄光を辿る下らない映画ではなく、今を、2016年を、ジャスティン・ビーバーやテイラー・スウィフトやカニエ・ウェストがいる2016年を20年前と同じように唾を吐いて、ファッキン喚き散らし、壁に穴をあけて、叩き壊す。二人の目線は間違いなく今ここにある。だからこうやって映画を作ったのだ。

トランプが大統領になるとか、イギリスがEUを離脱するとかはどうだっていい。ロックもEDMもヒップ・ホップもソウルも何もかもポップでいいねっていう世の中に、デビット・ボウイもビヨンセもケンドリック・ラマーもすべて同じ地平で語られる世界に、二人は2016年に叩きつけてきたのだ。そんなんじゃねぇぞ。なにぬるいこと言ってんだって。昔の伝記映画ではなく、新しいロックンロール・アルバムとして。

二人はあの時と何も変わっちゃいない。同じ態度で同じ目線で、無敵なままやってきた。お前ら、くだらねぇこと言ってねえでオレたちを見ろって。ネットや周りの意見なんてどうでもいい。いいことはいいと言えばいいし、やなことは嫌と言えばいい。みんな隣の顔色伺って、あれもいいよねとか、それもありだよねとか、一見物わかりの良くなった2016年に、クリック一つで何もかも分かったような気になる2016年に、顔をさらさず好きなことが言える2016年に、二人は20年前と同じ温度で怒鳴り込んできた。これはそういう映画だ。2016年現在、今この時にドロップされたオアシス8枚目のアルバムだ。そう考えてほぼ間違いない。

 

2016年12月25日

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