コーネリアス 夢中夢 Tour 2023 Zepp Namba 感想

ライブ・レビュー:

Cornelius 夢中夢 Tour 2023  Zepp Namba 10月6日

 

僕は絵も好きだし、詩も好きだし、いろいろ見たり聞いたりしていると時に圧倒的な作品に出会って不思議な気持ちになることがある。コーネリアスのライブもそんな感じだった。煽るわけでもなく、大袈裟にするわけでもなく、平熱なのにこちらに伝わる何か。音楽を通して、いや、映像も照明も素晴らしいかった。それら音楽表現でやれることは全部やるんだという静かな熱があった。音楽の、いや何かを表現するとはこういうことなのだということをその一点に絞って見せてくれた。そんなライブだった。

ステージでの4人は小山田が真ん中にいるのではなく、4人が均等に並んで客席を向いている様子が素敵。余計なものに頼らず表現する潔さ。クールに、でも身体の奥に何かをたたえたまま、真っすぐ前を見据える。バンドとしてのエネルギーが放射されていた。僕はコーネリアスはバンドなんだということを知った。

音源もいいけど、ライブはまた別世界。全く違った。僕は体全体で感じていた。気安く感情に頼らずに音楽全体として表現し、映像表現を含めた音楽全体として聴き手に委ねる。気持ちのいいことを手っ取り早く歌って満足するようなまやかしではなく、表現行為に最初から最後まで真摯に向き合い、準備し、それを果たしていく。偉ぶるのでもなく控えめ過ぎるのでもなく、虚勢を張るのでもなく謙虚過ぎるのでもなく、出来得る限りの能力を使って表現する。

情緒に頼らず、真摯に向き合う姿勢の中から伝わるもの。それが聴き手の心を揺さぶるのだろう。表現するとはどういうことか。その真っ直ぐさに触れ、僕は胸がいっぱいになった。

本編で喋ることは一切なかったけど、アンコール最後の曲の間奏で小山田圭吾は口を開いた。「いろいろあったけど、またこうして演奏できてうれしいです。今日はどうもありがとうございました。」。朴訥に、静かな歌声と同じトーンでそう話した。

POINT / コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:

『POINT』(2001年)コーネリアス Cornelius

 

日本だと割とリリックについての言及が大きくなりがちだが、音楽においてリリックは構成要素のひとつに過ぎない。一見当たり前に見えるこの認識を当たり前に進めたのがこのアルバム。言葉もサウンドもメロディも声も並列。歌詞やそれを発するボーカリストの声という分かりやすい記名性に寄りかからず、ていうか排除し、音楽としての表現に真正面から取り組んだ、ズルさのない正々堂々としたアルバムだ。

よってここでは、声も楽器も鳥の声も波しぶきも虫の音もすべて等しく扱われている。どれに対しても特別扱いはしない。その上で、僕たちが日ごろ楽しむポップ・ミュージックができるのか、という取組なのだと思う。自然、インストルメンタルが多くなる。いや、それは認識間違い。そもそも前述の前提である故、作家はインスト云々というところで作っていないはず。並列に進めた結果こうなったに過ぎないと。

そもそも小山田圭吾には、ポップ音楽などとうにネタは出尽くしていて、後はそれをどう組み合わせるかという達観があったはず。だったらばどうするか、というところに自覚的にラジカルに推し進めていたのがフリッパーズでありコーネリアス初期の作品であるならば、このアルバムは、だったら新しいの作ってやるよ、とでも言うような、いやそこまで肩肘は張っていないけど、それまでのともすればシニカルな態度は一旦置いといて、自身の新しい表現に向けて次のステップに進んだアルバムなんだと思う。

これまでに例のない取組である以上、聴き手としても面食らうところがしばしばあるわけだけど、とかなんとか言いながらお高くとまった感は一切なく、チャーミングでポップになってしまうところはもう小山田の天性だろう。どんなアルバムになってもギターがカッコいいのが嬉しい。これまでにないわけだから完成がない。ということでこの流れは次作へも続く。

FANTASMA / コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:

『FANTASMA』(1997年)コーネリアス Cornelius

 

ソロ・デビュー作『『The First Question Award』(1994年)での過剰な言葉や2nd『69/96』(1995年)での過剰なサウンドでコーネリアスが試していたことは、結局どこをどう表現すれば何がどれだけ表現されるかの確認であり、それを見極めるにはその分野で目一杯メーターを振ってみるしかなかった。その上で一応はたどり着いた答えは、結局のところ何か一つの切っ先をいくら鋭利に研いでみせようとも何か一つでやり切れることはたかがしれているということではなかったか。

しかし考えてみれば、フリッパーズ時代から意味なんてなく、彼はスカスカの箱を用意していただけで、そこに僕たちは勝手に意味を見出していただけ。ただその箱があまりにもキラキラとしていたものだから、僕たちは随分とその気になってしまったわけだけど、その素敵な箱は逆に言うとフィクションだからこその輝きだとも言える。

音楽に限らず、フィクションにどれだけリアリティーをぶち込めるかが作家の腕の見せ所でもあるわけだけど、このことは自分のことを云々するよりもはるかに難しい。自分のことを垂れ流しては僕のメッセージですだなんて言う人もいるが、それなら誰だってできることで、創作とはやはりないものから何かを創り上げる、あるいは内的なものを外的なものに変換することではないだろうか。

それにその外的なものが既にあるなら、わざわざ創ることはないだろうし、そもそもリンゴがどれひとつとて同じではないように、どんなものでも同じものは存在しない。例えて言うと、このアルバムには誰もが知るメリーゴーランドや誰もが知る観覧車はないし、誰もが知るポップ音楽からは外れたようなヘンテコな乗り物ばかりではあるけれど、作者が真摯であればあるほどそうなってくるのはごく自然なことで、僕たちは初めての乗り物になんだこれと驚いたり目を丸くしながら楽しめばいいのだ。つまりここでもコーネリアスは場を用意しているだけ。

多分ここまでがフリッパーズ・ギターでスタートした彼の初速。ソロ1stが1994年、2ndが1995年、3rdが1997年と目一杯のスピードで走り続け、いろいろなことを試しに試した結果は始めから分かっていたことかもしれないが、実践することでより強固になった。

The First Question Award / コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:

『The First Question Award』(1994年)コーネリアス Cornelius

一足先にリリースされた小沢健二のソロ1作目が大絶賛されていた状況は、小山田圭吾にとって相当なプレッシャーであったろうと想像する。フリッパーズ・ギターが小山田と小沢の共同作業であったことは周知のことだとはいえ、ボーカリストが小山田であった以上、小山田にそれ相当の期待が背負わされてしまうのは仕方がないところではあった。

当時、何かの雑誌で小山田のインタビュー記事を初めて読んだ僕は、想像とは違った偉そうでいきがった彼の受け答えに面食らってしまったわけだが、それは後年、彼自身がフリッパーズ解散後は不安で不安でしかたなかったと語っているように、あの時期は虚勢を張るしか自分を守る術はなかったのかもしれない。

そんな精神状態で作られた小山田圭吾改め、コーネリアスのデビュー作は恐ろしくハイパーで強烈なポップさと陽性に満ち満ちている。フリッパーズ時代の作詞は小沢が担当していたにもかかわらず、これだけの言葉数でまくしたてる小山田は一種の躁状態にあったのかもしれない。その洪水のような言葉をフリッパーズぽさを求めるファンが引くぐらいのフリッパーズぽさで’やり過ぎている’のはそうせざるを得なかったとも言えるし、小山田のやけくそも半分あったようにも思う。

が、言い換えれば、小山田の手のひらには未だそれだけのものが残っていたし、その残り物を総ざらいし、束にしたマッチ棒のように火をつけ一瞬で終わらせる作業はいずれにせよ必要であった。このアルバムはどうせならと華々しく打ち上げられた花火だったのかもしれない。しかしその総ざらいは恐ろしく練度が高い。

なんだかんだ言いながら、キレキレの小山田がここにいる。アルバム1枚を通して聴くには聴く方にもエネルギーが必要だ。

Mellow Waves / コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:

『Mellow Waves』(2017年)コーネリアス Cornelius

 

コーネリアスは自己主張をぶつけたいとか誰かに言いたいことがあるとかそういう部分とは無縁のような、そんなこと他人に言ったってしょうがないでしょう的なある意味当たり前の前提で音楽を作っているような気はするのだが、出てくる音楽というのは非常にエモーショナル。つまりそれは言葉に頼るのではなく、音楽全体として表現しているからで、分かりやすく言うと音の一つ一つがメッセージなのである。

ただそのメッセージは我々が期待するような具体的な何かということではないし、むしろ聴き手に対しても何か特定の理解を求めるのではなく、音楽というものが複合芸術である以上、その表現するところも複合的なもの、そこのニュアンスを嗅ぎとればいいじゃないかというのが聴き方として程よいのかも。聴き手の方が勘違いしやすいけど、明確な意味を求めるのであれば、論文なり解説書なりを読めばよいわけで。

例えばこの時コーネリアスはEテレで『デザインあ』なる番組を手掛けていて、向かい方としては尚のこと言葉による表現に特化したものから離れているだろうし、アルバム後半の曲は特に、#6『Helix / Spiral』とか#7『Mellow Yellow Feel』とかのヘンテコさはそのままEテレの不思議な番組で流れていそうないろいろ感がある。#9『The Rain Song』なんかもうそのまま。

そうやって表現される細々見るとよくわからないけどいろいろな何かの塊は、聴き手にじんわりと押し寄せて僕たちの中で確実に広がっていく。それはとてもエモーショナルで雄弁で温かい。誤解されがちだが、コーネリアスの音楽は分かる人にだけ分かればいいというような一方的なものではなく、聴き手がいてはじめて成立するし、小山田圭吾は多分それを信じている。

夢中夢 / コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:

『夢中夢 – Dream In Dream』(2023年)コーネリアス Cornelius

 

高校時代はフリッパーズ・ギターをよく聴いていた。彼らは3人称の歌、彼彼女の歌を歌っていた。当時の僕に自覚はなかったろうけど、どうやら僕は3人称で歌われる誰かの物語を聴くのが好きだった。逆に作者自身の熱い思いを歌われるのは苦手だった。フリッパーズ・ギターが解散した時、僕は小山田圭吾の新しい活動を待ちわびた。そしてコーネリアスとしての第一弾シングル『太陽は僕の敵』がリリースされた。

小山田の声に飢餓感を感じていた僕はその新曲とほどなくリリースされた1stアルバム『First Question Award』をむさぼるように聴いた。しかし急速にその熱は冷めていく。何故ならコーネリアスとなった小山田の歌には僕が僕がという強い自己主張があったから。そこにはフリッパーズ・ギターで作った(作詞は小沢健二だったが)サリンジャーのような美しい誰かの物語はなかった。

以来、コーネリアスの音楽は聴いていなかった。コーネリアスは2nd以降、野心的な取り組みで世界的にも著名なミュージシャンになったのは知っている。しかし一旦距離を感じてしまった僕は改めてコーネリアスの音楽に手を伸ばすことはなかった。ところが唐突にコーネリアスは、というか小山田圭吾は時の人となる。かつて彼の音楽に心を奪われた人間として僕はその顛末を知りたかった。そして僕の中である程度の結論が出た。それは肯定的なものだった。むしろあれほど天才だと思っていた小山田圭吾に僕は勝手に親近感を感じ始めていた(勿論、そうでない部分もあるが)。そしてアルバム『夢中夢』がリリースされた。

このアルバムは彼にしては珍しく、シンガーソングライター的な手法で作られたと言う。つまり自分のことを歌っている。そこにはかつてのような息苦しさはなく、まるで他人事のようなおだやかな歌声があった。ただ歌と言っても全10曲のうち、3曲はボーカルが無いインストルメンタル。しかしこれは歌のアルバムと言いたい。なぜならボーカルの無い曲にも声が溶けているから。

ここではボーカルと楽器とサウンドに継ぎ目がないまま全体として響いている。曲を構成する楽器のように小山田は歌い、やがてその声はメロディやサウンドの中に溶けていく。するとインストルメンタルと思えた曲も実は小山田の声が溶けていった後なのではないかと感じるようになる。きっと言葉や声は見えないだけでそこにあるのだと。

シンガーソングライター的な手法で作られたこのアルバムには多かれ少なかれ小山田個人の内省、或いは思いが入っている。しかし彼は言葉のみで何かを言おうとしていない。言葉に重きを置いていると言葉は強くなる。けれど彼の音楽にその必要はない。音楽表現とは言葉やメロディやサウンドが溶け合ったうえで、全体として聴き手が感じるものにあるのだから。

僕たちは何気なく街を歩くときでさえ歩くだけではない。いろいろなことを脈絡なく考え、自動車の音や風の音、人の話し声、様々なことが同時に起きている中、手足を動かしている。表現もそれらすべてをひっくるめたものであるならば、なにか一つに答えを求めることもない。聴き手は自由に感じればいいし、言葉でなんか説明できなくても感じればそれでいいのだ。

タオルケットは穏やかな / カネコアヤノ 感想レビュー

邦楽レビュー:

『タオルケットは穏やかな』(2023年)カネコアヤノ

 

下北沢にある書店、日記屋月日 には物珍しい本、その名の通り書籍化された日記が置いてあるそうで、僕が詩を好きなのを知っている友人が東京土産にそこで購入した日記をプレゼントしてくれました。リトルプレスの『犬まみれは春の季語』という本です。著者は柴沼千晴という方で、日記屋月日で行われていたワークショップ、「日記をつける三ヶ月」でつけていた2022年1月1日から2022年3月27日までの日記をまとめたものだそうです。

正直、他人の日記なんて興味ないよと渋々読み始めたのですが、これが思っていたのとは全然違って散文のような、時には詩のような。しっかりとした観察眼で書かれていて日記という形式であっても場合によってはこうやって作品足りえるのだなぁとまた新しい発見がありました。

結局、詩にしても日記にしてもそれを作品と称するからにはある程度自分からは切り離して、ただ何よりも個人の思いが大事なのでそこのところは難しいのだけど、自分の心にうずくまったり時にはこぼれそうなものを精一杯書いても、見えるところは作者本人ではなく他者の共感を得る方向へ向かうというのが大事で、でもそういうのは意図的にどうこうできるものではないと知りつつ、けど何がしらの自覚があってこそなんだと思います。そこのところがとても大きく他者への共感に向かうのがカネコアヤノの音楽ではないでしょうか。

さぁこれから、というところでコロナ禍にまみえたカネコアヤノですけど、負けじと無観客ライブだのなんだとできうる限りの活動を続けて、元々アルバム出す毎に脱皮していくような印象はありましたけどコロナ禍を経ての今回のアルバムでは更に太くたくましくなった印象を受けました。

あとカネコアヤノは心象風景を歌う作家だと僕は思っているのですが、前作の『よすが』ではそれも部屋の風景に落とし込まれている印象がありました。それが今回は外に向かった解放感というのが復活しているような気はして、例えばタイトル曲の『タオルケットは穏やかな』での「家々の窓には~」っていうのはもう完全に外の景色、昼か夜かは人それぞれの受け取り方だと思いますけど、とにかくそこには空があって風が吹いてというところまで想像できる、しかも迷っているけど「シャツの襟は立ったまま」という。すべてではないですけど、歌ひとつひとつが外で鳴っていて、今歌の主人公は外にいるんだという感じはすごくします。

あと太くたくましくというところで言うと、今回もバンドがすごくいいです。同じメンバーでもう何作目になるのかは知りませんけど、一緒にアルバム作って一緒にライブしてっていうのをずっと続けてきた中で、お互いの理解が更に進んでいるような気はします。特に目新しいことはしていないと思うのですけど、ごく自然なやり取りの中で歌に合わせてちゃんと曲の表情が変わっていって、何よりバンドの演奏だったりカネコの歌であったりというところで全く継ぎ目がなく聴こえてくるところがとても素晴らしいです。

『よすが』があって、窮屈な中で活動を続け、今作の1曲目『わたしたちへ』でギターが思いっきりかき鳴らされるオープニングというのはやっぱグッと来ます。単純にソングライティングの練度もどんどん上がっているし、もちろんその時々のアルバムでの良さはありますが、災厄を経てまた一段、音楽家として大きくなったんだと思います。

ところで、日記『犬まみれは春の季語』でもカネコアヤノへの言及が沢山出てきます。好きなものが横に広がっていく感じが嬉しいです。

中村佳穂 「TOUR  NIA・near 」in フェスティバルホール 感想

ライブ・レビュー:
 
中村佳穂 「TOUR  NIA・near 」大阪フェスティバルホール 2022年10月27日
 
 
念願の中村佳穂のコンサートに行きました。いや、もう凄かったです。才能だけで突っ走ってもいいぐらいの人だと思うんですが、ちゃんとエンターテインメントとしての構成を考えられたショーになっていて、しかもバンドのメンバーそれぞれがメインを張るような場面も用意しているし、今振り返るとどれかひとつということではなくてあれやこれやと色んな場面が印象に残って、アンコール含め約2時間、あっという間でした。
 
普通、初っ端は景気のいい曲をやってお客さんを引きつけるってのが常道だと思うんですが、中村佳穂はそれどころかなかなか歌いません(笑)。初っ端からメンバー紹介、んで今日はよろしくお願いしますって感じでMC、でもそれはお喋りというより歌で伴奏を付けてのアドリブ、今日の気分を鼻歌みたいに歌う、そんでもって気付いたらその流れでオリジナルの曲を歌うみたいな(笑)。もう自由過ぎて素敵です。
 
終始ずっとそんな感じだし、アレンジもオリジナル・バージョンとは大幅に変えてくるし、ホント、歌いだすまで何の曲か分からないっていう世に言うボブ・ディラン状態(笑)。いろいろな表現を用意してはいるもののそれらはすべて音楽、そうじゃないところで演出するってことではなくあくまでも音楽での表現っていうところがやっぱり音楽のライブに来たって感じで最高でしたね。
 
バンド編成はドラム二人にコーラス二人にベースが一人、それと中村佳穂のキーボード。リズム主体のこの編成も面白かったですね。ぐるんぐるんとグルーヴ感の極みのような曲もありましたし、歌い手3人だけでステージに立つ時もありました。あとアンコールではみんな真ん中に集まり、最小限の楽器で『KOPO』を演奏するっていうピクニックみたいな楽しい瞬間もあって、冒頭にも述べましたが、強弱を付けながら中村佳穂バンドのいろんな面を満喫できました。そうそう、生で聴いた『LINDY』はレディオヘッドみたいでした。
 
あとこれぞ中村佳穂、というようなステージに一人で立つソロ・パートもあって、そこもアドリブみたいに「今日は何を歌おうかなぁ」って喋りながら歌って、始めたのはなんと皆知ってる童謡の『あんたがたどこさ』。これが超早弾きキーボードを交えつつ縦横無尽のアレンジ。うん、ここは中村佳穂スゲーっていうパートでしたね(笑)。
 
そんな天才性を垣間見せる中村佳穂ですが、我々観客が感じるのは親密さ。リビングにお邪魔して、ちょっと歌を聴かせてもらうみたいな。もちろん、圧倒的なステージでそれはそれは鮮やかな才能のきらめきなんですけど、感覚としてはなにか親密さがある。これはやっぱり「皆さん、健やかに~」ってメッセージを発する彼女のキャラクターゆえ、なのかもしれませんね。
 
ってことでお客さんもパッと見、いい人ばかりのような気がします(笑)。いやでも冗談じゃなくて、ここにいる多くの人たちは傷つきやすくナイーブな人なんじゃないかなって。ライブ中のみんなの立ち居振る舞い、大人しくて控えめな感じからそんな印象を受けました。あ、自分のことを言っているわけじゃないです(笑)。
 
そうそう、会場へ入場するところで、中村佳穂直筆のプリント(小学校でもらうプリントみたいなイメージ)が配られて、僕はそれを見ながらフェスティバルホールの長いエスカレーターに乗っていたんですね。すると、手を滑らせてそのプリントを落としてしまった。それはヒラヒラッとエスカレーターの間に落ちてしまって僕はもうあきらめかけたんです。そしたら後ろの人たちが皆でそれを拾ってくれたんですね。なんかスゴイ嬉しかった。みんな当たり前のように必死に取ろうとしてくれたんです。なんかあそこにはそんな優しさオーラがあったのかなぁ。改めまして、拾うとしてくださった方々、どうもありがとうございました。

ぼちぼち銀河 / 柴田聡子 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『ぼちぼち銀河』(2022年)柴田聡子
 
 
日々のこまごまとしたことを日記のように綴りながら、日記とは対極のカラカラに乾いた感性が秀逸な#2『雑感』を聴いていると、ひとり言のようでいてその実、自分のことは一切書いていないのではないかと思ってしまう。とか言いつつ、「給料から年金が天引かれて心底腹が立つ」ているのは彼女なんだろうなぁと思わせる絶妙な距離感。いずれにしても彼女は描くものを対象化できているのだろう
 
つまり彼女は入れ込んだり、情緒に流れることはしなくて、物事を表現する時の態度をどうとるべきかという彼女なりのスタンスが明確で、「私」と「対象」とが寄りかかったままだと本当に大切なことは感情にくぐもってしまうということを敏感に回避しているのではないか。言葉としては「私」でありながら、「私」でもなさそうなこの絶妙な距離感はそういうこと。この時ぐらい情緒に流されてよさそうな聖夜の『サイレント・ホーリー・マッドネス・オールナイト』でさえそのスタンスは崩れない。
 
言いたいことがあると、その中身が自分では分かっているものだからつい大掴みにワッと、それこそ大袈裟に言ってしまいがちになるのだが、ここでも彼女は冷静で描くべき対象一つ一つをまるで神は細部に宿るとでも言うように丁寧に重ねていく。すなわちそれは真摯さの表れ。いずれにしても素晴らしいのはその対象がいちいち並列で、やっぱり入れ込んでいない。「一緒に住んでいる人」も「一瞬だけ月」もすべて体温は同じ。
 
究極は#8『夕日』でここで歌われている「大人子供おじいちゃんおばあちゃん孫」とか「酸素炭素水素窒素空虚」とか「猿の置物」とか「みゆき」とか「なおみ」とか「きょうこ」とか「あゆみ」とか「歯医者の窓」とか全てを並列に並べてしまえる彼女の才能は単純に凄い。
 
と振り切ったところから続く最後の#9『ぼちぼち銀河』、#10『24秒』、#11『n,d,n,n,n』で彼女の顔の輪郭がぼちぼち明確になってくるのは意図してのことかどうか。というところでなかなか本心を見せないところが彼女の魅力です。なんて言うと、いや全部出してるよ、とうそぶきそうだなこの人はなどと思っている僕は見事に柴田聡子沼にハマっている。
 
最後になったが細部まで行き届いたリリックを丁寧になぞるようにこちらも真摯な態度のサウンドが最高。静かなところで聴きませう。

言葉のない夜に / 優河 感想レビュー

邦楽レビュー:
 
『言葉のない夜に」(2022年)優河
 
 
いわゆるUSインディー・フォークと呼ばれる系譜にあたるのだろか。優河の音楽は今回初めて聴いたのですが、冒頭の数十秒で確信しました。あ、これオレの好きなやつや。
 
USインディー・フォークというとフリート・フォクシーズとかビッグ・シーフの名前が浮かびますけど、1曲目の『やらわかな夜』を聴いた感想はマイロ・グリーンですね。あんまりメジャーな存在じゃないですけどコーラス感とかピアノの入り方が彼らの1stアルバムに近いような感触がありました。
 
続く『WATER』はこのアルバムの特徴である優河自身による多重コーラスが独特の浮遊感を出しています。時折聴こえるエレピかな、シンセかもしれないですけどズレたような相打ち音がとても心地よいです。描かれる景色に一気に引きずり込まれる感じですね。
 
3曲目『fifteen』、なんでフィフティーンっていうタイトルか分かりませんけど、聞いた瞬間ノラ・ジョーンズだ、って思いました。あのくすんだ声、スモーキーなんて言われますけど英語で歌うと同じなんじゃないかと思うほどそっくりな声です。この曲はギターがいいですね。すごく印象的に鳴っていてこの曲に関してはロック色が強く出ています。もう1回言います。ギターがすごくカッコイイ。
 
続く『夏の庭』も独特の浮遊感が漂っています。タイトル通り、夏ですよね。そこで描かれる景色も少しけぶっているでしょうか。2分ちょいの短い曲ですけど、メロディもバンドも声も完璧に近いですね。素晴らしいです。優河はあるインタビューで、悲しみを帯びた曲だと言葉や演奏がすでに悲しいのだから、ボーカルまで悲しくなってしまうと情緒過多になる、と語っています。そういう意味でこの曲なんかはそこでバランスを取る彼女のボーカルの妙がすごく出ているような気がします。
 
5曲目『loose』も『fifiteen』と同じくロック色の強い曲です。この曲はドラムが印象的な活躍をしますね。あとこのアルバムで欠かせないのが電子ピアノです。僕も大好きなフェンダーローズやウーリッツァーが沢山使われています。この曲ではメインがローズでそこに印象的なピアノのフレーズが入ってくる。ホント、素晴らしい演奏でうっとりします。
 
アルバムで演奏しているのは魔法バンドの面々です。元々、優河の前のアルバム『魔法』に参加していたミュージシャンがそのままバンドという形をとって、以来、ライブやレコーディングを共に行っているとのことです。折坂悠太の重奏とかカネコアヤノバンドみたいな感じですかね。自然発生的に生まれたバンド、故の説得力があります。
 
6曲目の『ゆらぎ』。アルバムの中で一番強い光を放っているのはこの曲でしょうか。先ほど述べたボーカルの曲へのアプローチがこれまた凄いですね。バンドメンバーもほれ込む優河の声、確かにある一定の声音というのはあるのですが、アルバムを聴いていると、彼女は曲によって歌い分けているのが見て取れます。声の質感が曲ごとに違う。この曲では声で曲をリードしていくというか、声が前に来ていますね。特に最後のコーラス、「愛が・・・」とリフレインしつ最後へ向かい着地する部分は多重コーラスも相まって声の力が凄い。このアルバムのハイライトのひとつですね。
 
コーラスの美しさだと次の『sumire』でしょうか。曲調は全然違いますけど、通底するところは『夏の窓』に近い曲のような気もします。こっちはもう少し明るいイメージかな。僕はこのアルバムで初めて優河を聴いたのですが、前作までコーラスはしてこなかったそうです。どんな感じだったのか気になるのでこれから聴こうとは思っていますが、とにかくコーラスは今回から始めたと。で、やってて面白かったからデモでは全曲コーラスを付けてるそうです。となればそれも聴いてみたい気がしますね。
 
『灯火』はドラマの主題歌になりました。ということでドラマサイドから要望があったのかなと思わせる他の曲とは異なるトーンがありますね。一言で言うと派手(笑)。なんてったってサビで始まりますから。ただ違和感があるかといえばそうでもない。この辺は魔法バンドの流石の存在感といったところでしょうか。でもこういう曲がポンと入ることで全体としてのスケールの大きさに繋がっていると思います。
 
で、『灯火』で一旦しめて、最後の『28』は夜明けを迎えるような作りになっています。もう完全に太陽が出てきていますね(笑)。こういう明るいトーンで終わるところに彼女たちの意思が表れているような気がします。28というのはどういう意味だろうか?1周回って明け方の4時ということでしょうか。4時だとまだ暗いか(笑)。
 
アルバム・タイトルにあるように言葉がキーワードになります。言葉というのは実態があるようでない、言わば借りものの器です。人々の間にはなにがしかの共通の意思疎通アイテムが無いとコミュニケーションは図れませんから、我々は仮に嬉しいとか悲しいとか丸いとか赤いとかを名付けているんですね。でも正確に言うと、例えばあなたが今朝食べた食パンは昨日のそれとは違う。食パンもあなたの体も1日分変化している。大げさに言うと、今朝のあなたの食パンを食べるという行為は人類史上初めての経験なわけです。であればそれに的確に当てはまる言葉はこの世にもまだ存在していないということになります。でもそこになんとかして既存の言葉、我々で言うと日本語を使って言い表そうとする、というのが詩人の仕事なのかなと思っています。
 
つまり、というような理由で優河は言葉というものを当てにしていない。けれど逆に言えば言葉を非常に大切に思っているとも言えます。このアルバムの抽象的な歌詞は慣れていない人からすると難解に聴こえるかもしれない。そんなもってまわった言い方をしないで、例えば悲しいなら悲しいって言えばいいじゃないかって。ただ、みんなが即座に理解しうる言葉、インスタントな表現で即座に理解してもらえたとて、そこに何の意味があるだろうか。であればわざわざ歌う必要はないのではないか。つまり言葉で表現することに対して、優河は出来るだけ誠実であろうとしている、ということなんだと思います。
 
夜というのは人々が思いふける時間帯ですよね。時には眠れない夜を過ごしたりもする。そこには簡単に言葉をあてはめられないものです。けれど我々は言葉を探そうとする。そう考えると『言葉のない夜に』というタイトルもなかなか深いものがありますね。