映画『イエスタデイ』感想レビュー

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『イエスタデイ』(2019年) 感想レビュー

もし世界にビートルズが存在していなかったら。この誰もが思い付きそうで思い付かないアイデアが先ず秀逸ですね。このアイデアを思い付いた時は「よし、これだ!」と小躍りしたんじゃないでしょうか(笑)

そこでです。設定としては最高なんですが、じゃあこれをどうやってドラマに仕立てていくか。そこがこの映画の見どころです。

話の筋としては、ミュージシャン志望の冴えない青年がそろそろ夢を諦めようとした時に、あるきっかけで世界は彼以外の誰もビートルズのことを知らない世界になってしまう。そして彼はビートルズの曲を自作の曲として歌いスターダムにのし上がってゆくというものです。

この誰もビートルズを知らない世界になるっていうきっかけが何じゃそりゃ感はあるのですが、その辺は冒頭のことですから、ここは設定の面白さで押し切れちゃいます。

その青年、ジャックは一躍時の人になるのですが、やっぱりね、後ろめたさはあるわけです。そういう意味では普通の人が一気に出世をして我を失う、けれど最終的には色んな人の助けを借りて自分を取り戻す、っていうよくあるパターンとはだいぶ異なります。ジャックは基本ずっと好人物ですから。

面白いのはジャックの後ろめたさが観ているこちらにも伝わるというところ。ジャックは真面目で優しい奴なんですが、事情が事情なもんでスターダムにのし上がったとしても観ているこっちは単純に喜べない。例えば『ボヘミアン・ラプソディー』のフレディみたいによし頑張れとはならないわけです。好青年のジャックを応援する気持ちはあっても観ているこちらの気持ちとしては中々盛り上がっていかない。そういうもどかしさを共有していく映画でもあります。

で、そこをどう決着を付けていくか、ビートルズが存在しないという世界を最終的にどう回収していくのか。その解決法がこの映画を好きになるかどうかの分かれ目なんじゃないでしょうか。

その結末ですが、ここは非常に真面目に取り組んでいると思います。気をてらった、或いはどんでん返しが待っているということではなく真面目に向き合っている。納得感を持たせるべく少しずつ積み重ねている気はします。ありがちな安易なクライマックスへ持っていかないところは好感が持てますね。そこはやっぱりビートルズへのリスペクトがあるからではないでしょうか。

ジャックはクライマックス前にある人物に会いに行きます。もしかしたらここはやり過ぎという声があるかもしれませんが、この出会いが最後のジャックの決断を後押しすることになる。ちょっとしたサプライズも含めここは感動的でした。

あと最後に付け加えると登場人物が皆いい人(笑)。ジャックの友達で何かと面倒臭いキャラのロッキーも最後はいい事言います(笑)。そういう意味でもこの映画は設定上、感動ストーリーと思われがちですが、基本はコメディと捉えて観た方がよいのではないでしょうか。実際笑うとこはいっぱいありますし(笑)。

もうひとつ。主人公のジャックは白人ではなく移民系ですね。『ボヘミアン・ラプソディー』もそうでしたし、今アメリカで公開されていて話題のブルース・スプリングスティーン絡みの映画『Blinded By The Light』もそうです。この辺りも物語にリアリティーを与えているのかなという気はします。

映画『ミルカ』感想レビュー

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『ミルカ』2013年 感想

『ミルカ』。2013年公開のインド映画です。2時限半と結構長いのですが(インド版のオリジナルは3時間!)、飽きることなく最後まで楽しく観ることが出来ました。

インド映画ということで登場人物や話の展開が今まで見慣れた映画とは異なりますので、そこが先ず新鮮でしたね。あら、そういう話しになるのね、という感じで全然先が読めません(笑)

あと悲惨なシーンもあったりするのですが、基本的には明るく楽しい映画ですので、重たい気分にはならない。まぁそれは主人公ミルカのキャラクターにもよるのですが、清々しい印象を与えてくれる映画でした。

『ミルカ』というのは実在する人物、ミルカ・シンのことです。かつて陸上400m競技で世界新記録を出したインドの国民的英雄とことだそうです。てことで言ってみれば、インド版『いだてん』といったところでしょうか。

導入部を簡単に説明するとこんな感じ。400mの世界記録保持者であるミルカは1960年のローマ・オリンピックで国民の期待を一身に集めますが、金メダル直前のゴール間近で大きく後ろを振り返り順位を落としてしまいます。そこにはミルカの悲しい過去があったのです。

その原因となるのがインド・パキスタン紛争。それはこの映画の重要や背景となるのですが、物語はそれだけではありません。流石インド映画と言いますか、映画は孤児となったミルカの成長譚でもありますし、コーチとの熱い友情やライバルとの戦いといったスポ根ものでもありますし、もちろんロマンスあり、しかも何度もあり(笑)、インド映画らしく唐突な歌ありダンスあり。社会派とか感動ものといった一つのジャンルにとどまらないエンターテイメント要素をこれでもかとぶち込んだ全部盛りの映画です。でも不思議なことに支離滅裂な感じは一切しないんですね。この辺の監督の手腕はお見事!

加えて最初にも言いましたが、ミルカのキャラクターが生き生きしていて明るく屈託がない。前向きでポジティブ。ミルカはあっち躓きこっち躓きするんですが、この度前を向いて歩いていく。そこに引っ張られる部分は大きいですね。

そういう意味でもこれはやはり大河ドラマ。あちこち飛ぶストーリーをバイタリティー溢れる主人公が統べていく。根底には陽気なポジティビティが流れていますから、これはやはりインド版『いだてん』という見方で間違いないんじゃないでしょうか。

あとミルカさん、若い頃の髭もじゃブルース・スプリングスティーンにそっくりです。私の中ではその時点で高ポイントでしたね(笑)

映画『最強のふたり』 感想

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「最強のふたり」 2011年公開 感想

 

人間の価値って何だろう?
勉強が出来ることや仕事が出来ること?
頭がいいことや力を持っていること?
育ちがいいとかお金を持っているってのはどうだろう?
上手く立ち回れるってのは?

多分、
人の価値というのはそういうことではなくて
例えば音楽
例えば絵画
いや、そういうのが出来るとか出来ないとかじゃなく、要は心の有り様
‘正しく人と向き合えること’

頭が良くてお金持ちになっていい暮らしをするっていうのは
そりゃそっちの方がいいと思うけどただ実際は
そういうことだけで心の隙間や空白は埋まらないということを
薄っぺらに感じながらも
毎日、知っている人やあんまり知らない人に会って
おはようだのこんにちはだの言いながら
誰かの手助けをしたりされたり
ちょっかいを出したり怒られたり

そうやって心の隙間や空白は小さくなっていくものだと
これもまた薄ぼんやりと知りつつも
やっぱり大事なことは忘れがちになるから
なるべく意識しておはようだのこんにちはだの言いながら
困っている人がいたら考えずに手を出して
それで間違って恥をかいても構わないし
買い物行ったらレジの人とお話したりなんかして
自分なりのやり方で毎日人と向き合いながら
今日もじゃあ行ってくるわっていう

時にはそれで諍いもあって
でも本来人と人は分かり合えないものだから
だからなんていうか
個人が個人として立って
個人として接していく
そうやって日々の浮き沈みを過ごしていく
特別に誰かと繋がろうとかではなく
自分なりに人と向き合える毎日がいいし
そこにユーモアがあれば尚いいし

だからここで強引に言えば、
この映画の主役二人は「最強のふたり」だなと思うわけです(笑)

ということで、
この映画を観て最初にぼんやりと思ったのは
人間の価値って何だろう?
そういう問いでした

 

映画『最強のふたり』(原題: Intouchables):
2011年のフランス映画。頸髄損傷で体が不自由な富豪と、その介護人となった貧困層の移民の若者との交流を、ときにコミカルに描いたドラマ。そんなことまで言う!?っていう若者ドリスと堅苦しそうで実は柔らかなフィリップとの掛け合いにゲラゲラと笑うこと請け合いです。

「シェイプ・オブ・ウォーター」と「火の鳥~復活編~」について

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「シェイプ・オブ・ウォーター」と「火の鳥~復活編~」 ネタバレ注意!!

 

「シェイプ・オブ・ウォーター」のあれこれを思い巡らす中でラストを思い返していると、手塚治虫の「火の鳥~復活編~」を思い出した。「火の鳥~復活編~」のあらすじを簡単に説明すると、、、。

舞台は数百年後の未来。エアカー(=空飛ぶ車)から墜落死した青年レオナは、最新の科学技術によって息を吹き返す。しかし人工脳によって再生したレオナの脳はあらゆる生物を無機質としか見れなくなってしまい、人の造形がまるで怪物か何か物の塊のように見えてしまう。ところがある日、レオナは美しい人間の姿かたちをした女性を発見する。彼女の名はチヒロ。レオナは大いに喜びチヒロに愛の告白をするが、レオナの目に美しい人間の姿として映るその彼女は、実は美しくもなんともない鉄の塊、作業用ロボットに過ぎないのだった、、、。

「シェイプ・オブ・ウォーター」のイライザが世界との違和感を感じているのと同じように、「火の鳥~復活編~」のレオナも違和感を感じている。そしてイライザが半魚人に同質のものを感じたように、レオナは作業用ロボット、チヒロと心を通わせる(そう。この物語はロボットの心を持ち始めた人間と人間の心を持ち始めたロボットとのふれあいの物語でもある)。

「シェイプ・オブ・ウォーター」のラストは、殺されたイライザが半魚人の治癒能力によって命を吹き返す中で、半魚人と同じ水中で生きる能力を身に付け、そして二人は自分たちの場所へと旅立っていくというものだ。

一方の「火の鳥~復活編~」ではどうか。物語は謎解きの要素もあり話が大きく展開していくが、途中、自分を復活させたドクターに、「僕は人間なんですか!ロボットなんですか!はっきりさせてください!!」と叫ぶレオナは、最終的に自分の記憶をチヒロに移植し、チヒロと一つになることを選ぶ。そして生まれたロボットが汎用型作業ロボット、ロビタ。ちなみにロビタは「火の鳥」シリーズを通して登場するキャラクターでその誕生秘話というオチもついている。

「シェイプ・オブ・ウォーター」のギレルモ・デル・トロ監督が「火の鳥~復活編~」のことを知っていたとは思えないが、要は世界に違和感を感じている主人公が世間からは異質なものとされる物体と心を通わせ、最終的には二人は同種族になる、一つになるという似たようなエンディングを迎えるというのはなんとも不思議な類似性だ。

結局、人にとって最も幸せな事ことは、自分を最も理解してくれる人に出会い、共に暮らすことなんだということなのかもしれない。

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』を再考す

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映画『The Shape Of Water/シェイプ・オブ・ウォーター』を再考す

 

映画「シェイプ・オブ・ウォーター」のどこがいいか分からないと言う友人のひと言を受け、少し考えた。結局、合う合わないはあるけど僕の考えたところによると、「シェイプ・オブ・ウォーター」はこんな話ではないだろうか。

例えば。僕たちはあるコミュニティーに属している。その最たるものは国家。もっと身近に言えば、職場、学校、クラス。それこそ無人島で自活でもしない限り、僕たちはある一定の社会に属している。

けれどそのコミュニティーというのは厄介で、あるルール、常識を強いてくる。勿論、そのおかげで僕たちの社会は破たんせずに成り立っているのだが、中にはそのコミュニティー内の常識が息苦しくなることがある。極端な例を出すと、女性は女性らしくとか男性は男性らしくとか。殊に成り立ちが村社会である日本ではその傾向はより強く、場合によっては同調圧、多様性の拒否といった形で表れることになる。

少し大げさに言ってしまったが、誰しも自分が属する、或いはかつて属したコミュニティーの中で、大なり小なりのそうした違和感を感じたことはあるはずだ。

そこへある日、異端者が現れる。これも極端な例で言うと、外国人が職場にやって来る、教室にやって来る。それも割と身近なアジア人ではなくほとんど接したことのないアフリカ人だとする。異端者と言ったが、ここでは宗教が違う、生活様式が違う、美的感覚が違う、そうした僕たちの日常とはかなりの程度距離のある文化的な差異のことを言う。恐らく、多くの人間にとって彼(ここでは例として‘彼’とする)の態度は理解しがたい。彼の存在を異質なものとして取り扱うだろう。場合によって彼はいわゆるホームシック、孤立感を深め、強烈に「ここは自分の居場所ではない」と感じるかもしれない。

一方で、元々そのコミュニティーに属している人たちに中にも、今いるコミュニティーにどうしても馴染めない人がいるかもしれない。普段彼女(ここでは例として‘彼女’とする)はそれを表には出さないが、心の内に強烈な違和感を感じている。そこへある日異端者が現れる。彼女が彼の違和感を同質のものではないかと感じ始めたとすれば、彼女が彼に興味を持つ、ある種の仲間意識を感じ接近するのも理解できる話だろう。

すると思った以上に彼の疎外感は彼女の疎外感と重なるところがある。自分が育った、暮らした社会の中に自分は見いだせないが、自分が行った事も無い場所の文化風土に初めて触れた時に、これこそ私の馴染むものだ、と感じることが時には起こる。恐らく、人にとって最も嬉しいことは自分を理解してくれる人に出会うことではないだろうか(最もつらいことはその逆ではないかとも思う)。

今言った極端な例に限らず、人は誰しも違和感を感じることがある。大きくそれを感じている身近な人にその違和感を払しょくできる機会が訪れたなら。友人はそれを了解するだろう。手を差し伸べるだろう。映画を観た人ならお気付きだと思うが、今述べた‘彼’が半魚人であり、‘彼女’がイライザのこと。手を差し伸べる人々がイライザの友人たちのことである。

「シェイプ・オブ・ウォーター」のどこがいいか分からないと言った僕の友人は、その場面必要?ってのが幾つかあって、そこにも拒否反応を示したとも言った。恐らく冒頭のイザベルの自慰の場面もその一つかもしれない。

主人公のイザベルは過去の出来事がきっかけで声が発せない。身なりも質素で一見静かな目立たない女性だ。その設定上、映画の観客は彼女を無意識のうちに貞淑な人と定義付けるかもしれない。けれど彼女は淑女でも無垢な存在でも何でもない。普通に性欲を有する僕たちと同じ存在。いい面もあれば、人に言えたものではない部分を心に有する僕たちと同じ存在なのだ。冒頭の自慰の場面はそのメタファーだったのだと思う。

僕だって多少の違和感は感じている。けれどそれは殊更ネガティブに反応するほどのことではない。ある社会に属している限り誰もが有するものであると分かっているし、それへの対処法も知っているからだ。けれど、そうではなくなる日がいつか来るかもしれない。僕たちがよく知っているように、今ある日常は明日もあるとは限らないのだから。加えてSNSという新しい社交場が重きをなす現在。この映画の出来事は僕たちの日常とはかけ離れた出来事として、突き放してしまえるものでもないのではないだろうか。

映画『ヴィンセントが教えてくれたこと』 感想レビュー

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『ヴィンセントが教えてくれたこと』(2014年 監督:セオドア・メルフィ)感想

 

冒頭にジェフ・トゥイーディーの曲が流れてきたのを聴いて、僕はこの映画とは馬が合うと思った。この映画は他にもいい曲が沢山流れていて、エンドロールでかかるディランの曲なんかは主役のビル・マーレイがアドリブで演じていて、滑稽な佇まいはそれだけで一つの作品になる程の出来栄えだ。

監督のセオドア・メルフィはこれがデビュー作ということなので、きっと映画を作るにあたっては使いたい曲が山ほどあったのだろう。どっちにしてもジェフの曲が2曲も採用されていたので、僕としてはそれだけで何ポイントかは上がる。

先に述べた主役のビル・マーレイは飲んだくれで嫌われもののロクでもない爺さん。家には時折妊婦ながらも商売に懸命な馴染みの‘夜の女’が真昼間からやって来る。そんなある日、隣に親子二人が引っ越してくる。小学生にしては小柄な少年とその母親のシングルマザーだ。メインの登場人物はこの4名で、言ってみれば皆、人生につまずきまくっている連中だ。

話は変わるけど、Eテレでやってた大阪釜ヶ崎の特集「ドヤ街と詩人とおっちゃんたち~釜ヶ崎芸術大学の日々~」の録画をようやく観た。釜ヶ崎大学なる地域に根差した芸術学校を立ち上げた詩人の上田 假奈代(かなよ)とドヤ街のおっちゃんたちのドキュメンタリーだ。

そこでは芸術に関するワークショップが連日行われる。最初は怪訝な顔をしていたおっちゃんたちも自身の作品を持ち寄るようになる。次第に芸術やそこでの文化的交流ががおっちゃんたちの人生に違った側面から光を照らすようになる。勿論いい事ばかりではない。暴力沙汰やややこしい問題は起きる。それでも上田假奈代始め、そこに関わる人たちは釜ヶ崎という場所に根を下ろし続ける。

映画のビル・マーレイ演じるヴィンセントは確かにろくでもない奴だ。けれど、隣に越してきた親子を捨て置かない(最初は金目当てであるけれど)。少年もヴィンセントを捨て置かないし、身重の娼婦も何かとヴィンセントの世話を焼く。一方のヴィンセントだって、少年のことを考えているし、母親のことを考えてるし、娼婦のことも気に掛けている。人生につまずきまくっている4人は誰かを頼らざるを得ない一方で、誰かを捨て置いたりは出来ないのだ。

僕は果たしてどうだろう。この映画は基本コメディだし、最後もいい感じで終わるし、観ている方は、あぁいい話だなぁで終わるかもしれない。けど実際、そんな人たちが目の前に現れたとしたら。僕たちは映画の登場人物のように振る舞えるだろうか。

簡単な事ではないけれど、人生がこの映画のように基本コメディであるならば、手の届く範囲でもう少しやっかいなことになってもいいのかもしれない。それが僕たちの人生にも違った側面から光を照らしてくれるのかもしれないのだから。

「ヴィンセントが教えてくれたこと」とは。いや、ヴィンセントだけじゃなく、彼らが教えてくれたことは、もしかしたら人生を少しだけ楽しく生きる工夫なのかもしれない。

映画『金子文子と朴烈』 感想レビュー その③

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映画『金子文子と朴烈』 (2019年) 感想レビュー その③

 

しつこいようですが『金子文子と朴烈』の話、その③です(笑)。
金子文子については先にも述べたように自伝が出版されていたり(絶版のようなので、図書館で探すつもり。高い中古品はあるようですが)、ネットで検索しても多くの情報を得られるのだが、朴烈についてはあまり検索に引っ掛かってこない。この辺りは朝鮮人と日本人の違いなのだろうか。

映画の中の金子文子もカッコいいんですが、朴烈もめちゃくちゃカッコよくて、じゃあ実際の朴さんはどうだったか。映画は供述記録などを基にほぼそのままのセリフだそうですから実際もあんなふてぶてしい野郎だったんです、やっぱり(笑)。金子文子も朴を「宿無し犬のような暮らしをしているのに、あの人は王者のようにどっしりしている」と称していて、戦後も周りに担がれたみたいですから、やはり泰然としたところがあったのでしょう。結局文子と二人で権力と戦うことになるのですが、当初朴烈は一人で皆の盾になろうとした訳ですからやっぱり英雄的気質があったということでしょうか。

二人は大逆罪ということで一旦は死刑判決を受けるのですが、この大逆罪というのはほぼ政府のでっち上げです。確かに朴烈は爆弾を入手しようとしますが、粗漏な計画の為失敗しますし、皇太子暗殺計画も書生の口角泡を飛ばす程度のもので具体的な計画は無し。それをこれ得たりと政府に利用されるわけです。

しかし朴烈の快進撃はここから始まるわけで、当初は煙に巻いていたものの文子が堂々と話始めたと知るや「あぁそうだ、皇太子暗殺を計画した」とあっさり自供し(というか敢えてその尻馬に乗り)、その激烈な思想や行動計画を頼まれもしないのに滔々と述べるわけです(ちなみに天皇は寄生虫だと述べるくだりは、日本人としても知っておいてよいものの見方だと思います)。そうなりゃ取り調べる側もこりゃ大変だとなって世を揺るがす大事件になるわけですが、これこそ朴のしてやったりで、要するに朴烈は自分で騒ぎをどんどん大きくして、同胞の決起をうながそうとするわけです。

でこれ、似たような話をどっかで聞いたことあるなと思ったら、吉田松陰です。松陰の場合、最初はついでに捕縛されたような感じだったんですけど、お白州の場で自分から時の老中暗殺計画を述べ立てます。松陰は‘狂’という言葉をよく使いますが、要は自分は革命の為の捨て石になろうという訳です。皆、立ち上がれ!と。松陰には帝国主義的な思想がありましたから(当然、あの幕末においてです。後の大正昭和期に松陰がもし生きていたとしたら、同じ思想を持ち続けていたかどうか。)、同じ土俵に上げることに抵抗を覚える方も多いかとは思いますが、姿勢というか心意気は相通ずるものがあるのではないかなと。僕はそんな風に思いました。

戦後、朴烈は釈放され、朝連(在日朝鮮人連盟)に英雄として招かれるが、反共であった朴はそこに参加することを拒否します。その後、仲間と共に今に続く在日本大韓民国民団を立ち上げ、初代団長に指名されますが、程なくその座も追われます。恐らく、生来協調することが出来ないたちだったのか。やはり権力に対する嫌悪感というか、映画で描かれているような孤高の人だったのかもしれません。吉田松陰は‘草莽崛起’という言葉を用いました。在野の民衆の力で事を成し遂げようというものです。松陰風に言えば、朴烈も金子文子も‘草莽崛起の人’だったということでしょうか。

ところでその民団代表当時の1948年に神戸事件が起きます。神戸事件とは、GHQの指令を受けた日本政府が「朝鮮人学校閉鎖令」を発令し、日本全国の朝鮮人学校を閉鎖しようとした事に対して、大阪府と兵庫県で発生した在日韓国・朝鮮人と日本共産党による暴動事件です。

この事件後、朴烈は「神戸事件の教訓(一九四八年六月)― 我等は子弟を如何に教育すべきか ―」と題するレポートを書いています。内容は、暴力によって訴えてはいけないとか、そのことはかえって朝鮮人の印象を悪くするとか、何より朝鮮人の子どもたちにも悪影響だとか、とりわけ教育の問題に政治を絡ませてはいけないと強く述べています。僕も読みましたが、非常にリベラルなんですね。かつて皇太子暗殺を企てた人物と同じ人物とは思えない程、一人落ち着いてリベラルなことを言っている。要するに大局に立って、人がまだ見えていない部分に先んじて気付き得た。そのような人物だったのかもしれません。

話が随分と逸れましたが、映画『金子文子と朴烈』は本当に素晴らしいです。牢屋に入れられ、自由に会えなくなった二人のそれでも私は貴方の全てを理解しているといった表情が何とも言えません。僕は日本人ですから、つい金子文子に目が行ってしまいますが、あの激烈な文子を受け止め得たのは朴であり、文子の導火線に火をつけたのは朴であると。ソウルメイトとという言葉がありますが、二人は確かにそうであったかもしれない。そんな風に思いました。

映画『金子文子と朴烈』 感想レビュー その②

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映画『金子文子と朴烈』 (2019年) 感想レビュー その②

 

この映画、韓国では200万人を超えるヒット作となったそうだけど、韓国でもこの二人については映画が公開されるまで、余り知られていなかったようだ。ちなみに原題は『朴烈』。で日本公開時のタイトルは『金子文子と朴烈』。なんか面白い。

でもインパクトとしては断然、金子文子でしょう。チェ・ヒソ演じる金子文子が強烈です。映画を観た後に知りたいことだらけだったので色々調べてたら、実際の金子文子という人は映画が誇張でも何でもなく本当にドエライ人だということが分かってきました。

映画でも獄中で自伝を書く場面があるのですが、それが実際に出版されて今も残っています。その内容を一部読んでいると凄いのなんのって。強烈に天皇を批判してはいますが、今現在の世で考えれば本当に真っ当な至極当然のことを述べていて、しかもそれが非常に分かりやすく理路整然と述べられている。そして私はこの考えをあなたに押し付けたりはしない。私は私の仕事をするだけだ、みたいなことを言うわけです。こんな自立した女性が大正期の日本にいたとは。しかも義務教育すらまともに受けさせてもらえなかった20才そこそこの女性が書いたっていうんですから驚きです。

映画の中の彼女はキレキレです。尋問で「朴烈に天皇制の矛盾を教えたのは私だ」と啖呵を切るとことか、同居するにあたって文子が朴に提案した誓いがまた、「二人は同志である」とか、「活動の場では金子文子が女性であることを考慮しない」とかもう痛快過ぎます。

日本はとかく男性社会で昨年の#metooだって日本は一人蚊帳の外みたいな感じで、ところが今から100年近くも前の日本にこんな自立した女性がいたってことは本当に驚きで、韓国で200万人以上が観たっていうのもそういう金子文子自身の国籍を越えた魅力があったればこそなのではないでしょうか。

勿論、朴烈も強烈なんですが、その彼を導いているのは金子文子なんじゃないかって思うぐらい、怒られるかもしれないけど、なんかオノ・ヨーコとジョン・レノンみたいな関係に見えてきました。そして金子文子を支持する韓国人がこんなにも多くいることに嬉しい気持ちを持つと共に、これが逆だったら。今、日本は自国を褒めそやすことに熱心だから難しいかもしれない、そんな風にも思ってしまいました。

ちなみにこの映画は冒頭に「実在の人物による実際の話です」みたいな字幕が出てくるけど、本当に本当のことのようです。彼らは尋問を受けていますから、実際の調書も残っているし、裁判の記録もちゃんと残っている。最初の裁判で朴烈が朝鮮の官服を着て登場するのも、金子文子がそれに合わせチマ・チョゴリ姿で入場したことも事実で、彼らの尋問でのやりとりやセリフもほぼそのままだそうです。

ところで。僕たち日本人は韓国を含めアジアの他の国を下に見ている節がある。それは言い過ぎにしても弟ぐらいには思っているんじゃないだろうか。文化にしても科学技術にしても政治にしても日本の方がイケてるんだと。でもそれは間違いなく妄想です。少なくともこの映画は難しい題材をどちらかの国に肩入れすることなく丁寧な取材をして見事に俯瞰で描いている。情緒的ではなく、落ち着いたトーンで作り上げている。それはほぼ全編に渡って韓国人俳優が話す見事な日本語からもよく分かることだ。

日本の報道の自由度は180か国中67位だそうだ。韓国も43位とそれほど高くないが、果たして日本にこれだけの映画が作れるだろうか。少し心配になってきた。

最後に少し説教臭いことを言うと、この映画は100年前の不幸な時代を描いた映画ではなく、今に繋がる話だと思います。現代も富めるものが益々富み、貧しいものが益々貧しくなる。表立って現れてこないがそんな時代でもあると言えるのではないでしょうか。僕の友人に小学校の教師をしている人物がいますが、彼からも非常に厳しい家庭環境にいる子供たちの話を聞く機会があります。そういう普段生活している中では見えない部分に思いを巡らせる、そういう機会を与えてくれる映画でもあるような気がします。

ちなみに僕はシネマート心斎橋で観ました。観に行った回はほぼ満員だったけど年配の方が多くを占めていました。けど若い人にぜひ観てもらいたい映画です。少なくともこの映画は、かつての僕には無かった新しいものの見方をもたらしました。

映画『金子文子と朴烈』 感想レビュー その①

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映画『金子文子と朴烈』 (2019年) 感想レビュー その①

 

僕は下手な詩を書いているが、そのひとつに「アメリカ人のことを知りたければアメリカ人の詩を読めばいい/中国人のことを知りたければ中国人の詩を読めばいい/韓国人のことを知りたければ韓国人の詩を読めばいい」というのがある。幼稚な詩だけど、発想としてはまぁそんな悪くないんじゃないだろうか。そこで。僕はこの映画を知った。だったらば観に行かなければ。そんな風に思った。

あらすじはざっとこんな感じ。舞台は大正期の東京。親に捨てられ悲惨な環境で育った日本人、金子文子はある日、朝鮮人アナキスト朴烈(パクヨル)の書いた詩「犬コロ」に衝撃を受け、彼に会いに行く。文子は朴烈と会ったその日に一方的に同居すると宣言。二人は仲間と共に「不逞社」を結成し、アナキストとしての活動を始める。しかし程なく関東大震災が発生。混乱に乗じて朝鮮人や社会主義者への虐殺が始まる中、二人も検挙され、言われの無い大逆罪の罪に問われていく。

映画の感想は、、、正直言って疲れた。先ず長い。それからオーバーアクション。ちょっと作り過ぎ(笑)。こういうのもアリなのかもしれないけど、慣れてないもので…。でも映画を観て疲れた本当の理由は他にちゃんとある。脳みそが整理が出来ずに混乱していたからだ。

先ず、朴烈は何をしたかったのか。金子文子は何をしたかったのか。当然映画を観ただけでは明確に分からない。関東大震災で朝鮮人が虐殺されたのは知っていたけど、日本政府が加担していたっていうのも本当なのか?そんなこと初めて聞いた。映画はある意味青春映画であり、強烈な愛の物語であり、当然社会的なメッセージもふんだんに盛り込まれている。だがクドクドと説明しない。特急列車のように物語は過ぎていく。物凄いスピードでエネルギーを放射していく。僕はこの映画に圧倒されていたんだと思う。ちょっと体力不足でした。

そこで映画を観た後の数日間、僕は暇を見て色々と調べ始める。3.1運動とは何か?アナキストとは?関東大震災時の朝鮮人虐殺について。朴烈とは?金子文子とは?そうすると彼らの思想が少しづつ見えてくる。彼らは天皇制を批判する。天皇といえば僕の頭の中は今の天皇だから、彼らの主張は???だらけ。でも落ち着いて考えれば違う。戦前の天皇のことだ。天皇は万世一系の現人神であり、国民はその保護下にいるのだというやつ。今の北朝鮮みたいなもんか。だから当時はそんな天皇思想に対しそんなのおかしいんじゃねぇかっていう日本人は沢山いたし、当然支配されている朝鮮人の朴烈はもっと思ったろうし、最下層で差別を受けて虐げられてきた金子文子はこの不平等な日本の諸悪の根源は天皇だって強く思う。つまり彼らは絶対的な権力に抗うレジスタンスなのだ。

とまぁ僕の方がクドクドと書いてしまったけど、実際「犬コロ」という詩がどんなものか、それを読んでもらうのが一番分かり易いと思うので、下に転載します。

 

 「犬コロ」 朴烈

 私は犬コロでございます
 空を見てほえる
 月を見てほえる
 しがない私は犬コロでございます
 位の高い両班の股から
 熱いものがこぼれ落ちて私の体を濡らせば
 私は彼の足に 勢いよく熱い小便を垂れる
 私は犬コロでございます

 (解説)
 空は当時の日本帝国最高権力の象徴である天皇だ。
 その空を見て吠えることができる犬畜生の勇気に感嘆する。
 位の高い両班が自分に向かって小便を垂れるのならば、
 やられっぱなしでなく彼の足に向って小便を垂れる。
 これは制度的権力に対する真っ向からの挑戦を宣言した言葉だ。

 

上記はネットで見つけました。「金子ふみ子コミュの朴烈の詩“犬コロ”」というタイトル(mixiユーザー 2005年11月22日 15:43)で記載がありました。勝手に転載して申し訳ないです。詩は青年朝鮮という雑誌に載っていたそうです。「犬コロ」。原文は、“ケーセッキ”と言いまして“犬畜生”“F○ck野郎”といった罵り言葉、卑語だそうです。このことも同じ記事に載っていました。

この映画はいわゆる反日映画ではありません。物語にはちゃんとした日本人も数多く登場するし、主役の二人だって英雄として描かれている訳じゃない。映画を観て僕はよーく分かりました。これは自由を求めて戦う若者の強烈な愛の物語です。不公平な世の中で自由を奪われ、犬畜生として扱われた名もない若者たちの反逆の物語です。日本がどうだとか韓国がどうだというのではなく、この映画のテーマはそこにあるのだと思います。

朝鮮人虐殺ということでえぐい場面も出てきます。それは僕たち日本人がやったのです。国が政府が加担をして隠滅しようとした事実です。僕たちは知らないことが多過ぎる。そういう部分に目を向けるきっかけにもなる映画だとも思います。

でも決して堅い映画ではない。ユーモアもところどころ、というかふんだんにあるし、やっぱり主役の二人だけでなく仲間の若者たち皆も生き生きしているから、爽快な映画でもあります。結局そこが一番大事なのかもしれない。

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』 感想レビュー

フィルム・レビュー:

『The Shape Of Water/シェイプ・オブ・ウォーター』〈2018年)

なんだか試されているような映画だ。僕は全てに等しくありたいと思う。けれど僕は日本人だ。同じ肌の色、同じ宗教、似たような価値観の中で育った。小学校時代、確かにいじめられっ子はいたし、皆に避けられている子はいた。けれど僕は避けたりはせずに、なるべく等しく接してきた。つもりだ。でもそれ、お前の本当なのか?

具体的に考えてみる。もし、僕の子供たちが大きくなって、身体に障害を抱えている人、若しくは肌の色の違う、宗教の違う人を連れてきたら。僕は顔色を何一つ変えず接することができるだろうか。僕には自信がない。しようとは思うけど、心が付いていかないかもしれない。

折りもおり。僕はアジアのとある地域にいた。たかが3日ほどの滞在であっても、海外に出たことが数えるほどしかない僕にとってそれは多少なりともストレスのかかる出来事だ。ふと考えてみる。僕はここで暮らすことはできるだろうか。

この映画には人間ではない生き物が出てくるが、それは単に生き物ということではなく、やっぱりメタファーだ。つまり僕は僕の物差しでは測れない人を見かけた時、身構える。極端に言えばそうした人を異物と捉えて明確に線を引いてしまう。会社に新しい同僚が来た時のように自動的に手を差しのべることは出来ないのだ。

この映画でも主人公たちは一瞬たじろぐ。けれど主人公とその友人たちは実はさほどでもない。主人公は何か特別な理由があって、ある生命に心を寄せていくのだけど、そうではない友人たちにしても初めて見る自分たちとは姿形が異なる人物(ここは敢えて人物と言う)に対してさほど拒否を示さない。自分たちとは姿形が変わろうとも、たまにはそういうこともあるさとでも言うような態度でさほどでもないのだ。

しかしこの映画にはそうではないない人たちも登場する。心安いパイ屋の主人は黒人が店に入ること拒否する。国家機密を扱う連中はいわずもがな。一方で自分たちとは違う誰かのことを、たまにはそういうこともあるさと肯定する存在か確かにいる。この映画はそのことも高らかに宣言しているのではないか。

僕は全ての人に等しくありたいと思う。けれど今のところはそういう機会が少ないから、いざ自分がその立場になった時どういう態度を取るのか正直分からない。主人公も友人たちも自分の物差しでは測れない誰かを異物と捉えて線引きしたりはしない。何故なら彼らも社会から弾き飛ばされた人たちだから。彼らはよく分かっている。それがどのような意味を持つのかを。だから彼らは自動的に手を差しのべる。

僕たちは想像する。一方で想像しきれないこともある。けれど人の気持ちなど元より分からないものなのだ。分からないことを当たり前の事とするならば、怖れる必要はないし無理をする必要もない。自分のストラグルを誰も分からないのと同様に他人の心情も分からないのだ。

人と人とは本来そういうものなのだとリセットしつつ、分からないまでも相手が今どういう思いでいるのかを想像する。思いやりの気持ちを多少なりとも持てればいい。分からないからこそ親切にできればいい。そして主人公やその友人たちが行ったように、僕も自動的に手を差しのべることが出来るようになれば。『シェイプ・オブ・ウォーター』を観て僕は今、そんな風に思っています。