Eテレ 日曜美術館「アメリカの国民的画家・ワイエス」 感想

TV Program:

Eテレ 「日曜美術館〜アメリカの国民的画家・ワイエス」 2017.9.10 放送

 

アンドリュー・ワイエス。20世紀の米国を代表する画家。幼少時から高名な画家である父より絵の手ほどきを受ける。父は息子を挿絵画家にすべく、徹底的に写実的な描写を求める(時には同じくモチーフを数百回も描かせた!)が、長じるにつれ自由な表現を求め始めたワイエスはやがて父との間に乖離を感じ始める。

五人兄弟の末っ子で病弱だったワイエスは次第に学校へも行かなくなり、家の近所の人々との交流を深めるようになる。次第に当時厳しく分けられていた黒人居留地へも足を運ぶようになり、彼らとの邂逅はその後の活動に大きく影響を与えるようになった。

再現描画力が抜きん出ていて(この基本的な技倆は父親からの英才教育の賜物であろう)、それこそ草の一本一本まで描写する執拗な精緻さを持っているわけだが、にも関わらず彼の絵から受ける最大の印象は気配という一言に集約される。上手く描くことを目的とした絵では無く、如何にその人の年輪をキャンバスに刻みつけるかに持ち得る表現の全てを注ぎ込んだような絵。故に我々目に飛び込んでくる最大のものはどうあってもその気迫であり気配なのである。

米国に限らず、国を支えるのはお金持とか政治家とか世渡り上手といった成功者ではなく、名もない市井の人々であり、ワイエスが美しさを感じるのは厳しい自然界や理不尽な社会の中にあっても懸命に生き、ズル賢さでは無く生真面目さでしか生きることが出来なかった人々であり、貧しくとも現実を受け入れ、地を這って生きてきた人々に人間という生き物の気高さ見出していたのだと思う。人間にとって最も大切なことは何か、人の営みとは何かということのワイエス唯一の答えが、絵の中に凝縮されているのだと思う。

この何に美しさを見出すかという部分は、同じく小さな村の暮らしの中で、農業の専門家として人々の暮らしを少しでも良くしたいと奔走し、最良の精神を‘デクノボー’に見出した宮沢賢治を思い起こさせた。

僕はこの番組が好きだ。この番組のいいところは、無理に分かろうとしない二人の司会者のトーンにもよる押し付けがましさの無さと、毎回ゲストに呼ばれる人たちのアーティストに対する深い尊敬だ。今回のゲストの一人で、バイオリニストの五嶋龍氏が言った「答えはこれだよと言ってはくれないけれど、見た瞬間に何か答えを得たような気がする。」という言葉はワイエスの絵を語るに最も的確な言葉のひとつかもしれない。

もうひとりのゲスト、岐阜県現代陶芸美術館館長であり、ワイエス研究の第一人者である高橋秀治は言う。
「自分と共感を持てるまわりの人たちを描くことが結果的に普遍性を獲得している。」
これは多くの場合、あらゆる芸術に当てはまる真理なのかもしれない。

 

2017年9月

アドルフ・ヴェルフリ展 二萬五千頁の王国 感想

アート・シーン:

『規則正しく自由に』
~アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国~兵庫県立美術館

 

奥行きがあるような無いような

平面的でないような立体的でないような

規則正しく自由な感じ

 

左右対称でないようで非対称でないようで

動的でないようで静的でないようで

あるようなではなくないような

規則正しさのコラージュ

その居心地の悪さ

 

でもそれは彼にとっての規則正しさ

タイトルを変えイメージを変えモチーフを変え執拗に描かれる

所々に明るさが垣間見える

譲れない規則正しさがあってでもそこから自由になる

その自由さにも規則正しさがある

 

彼の鼻の中とか耳の中とか毛穴とか目の奥から覗いた景色

まさしく揺りかごから墓場まで

彼の旅を覗いていく

 

決して平面的に描いている訳ではなく意図的に奥行きを効かせている場合もある

ペルシャ絨毯のようなそれでいて規則正しさからの自由

 

あちこちに書かれた音符は五線譜ではなく六線譜

不自由で自由な規則正しさの表れ

あちこちに書かれたポエトリーを読みたい

 

旅は晩年の葬送行進曲で終わりに向かう

目に付いた僅かなコラージュとことば、マントラ

ぐるぐると回ってマグマの奥深く己のマントルへ向かう

最後まで自己の物語を演出する

彼は絵を描いているといふ感覚があったのだろうか

 

2017年2月

Eテレ 日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」 感想

TV Program:

Eテレ 日曜美術館「木版画 未踏の頂へ~吉田博の挑戦~」 2017.1.29 アンコール放送

 

新聞のテレビ欄に面白そうな番組を発見した。Eテレの『日曜美術館』。吉田博。精緻な木版画と書いてあった。僕は興味を引かれた。

画家、吉田博は今も海外では人気があるらしいが日本ではあまり知られていない。彼が活躍した昭和初期当時も日本画壇は黒田清輝を中心とする淡い色使いの人物画、所謂新派と呼ばれるグループが主流を占めていたようで、吉田のような油絵は旧派と呼ばれ、あまり評価をされなかったらしい。ともあれ、反骨の人、吉田は己の技法を突き詰めていく。そして49才の時に木版画と出会う。

その木版画。木版画とは言われてみないと分からない程の精緻さと奥行き、表現力だが、これはもう見てもらうしかない。僕らが持つ葛飾北斎とか棟方志功といった木版画のイメージを軽く跳躍する驚くべき作品。空前絶後だ。霧の表現、朝日の表現、水流の表現、水面の表現。全てがまだそこにある生きている景色。静的でもあり動的でもあり自然そのものである。彼はイノベーター。誰もなしえない未知の領域を表現している。

『濁流』は圧巻だ。文字通り唸りを上げている。圧倒的な動と静がそこにある。堅い樫木に細かく掘っていく作業は困難を極めた。歯を噛みしめるため奥歯が随分やられたという。1週間もかかったらしい。いや、1週間で彫りあげたのだ。これは驚異だ。何故そこまでして彫ったのか。答えは簡単。そこに線が見えるからだ。自分が進むべき線がはっきりと見えているのに描かない芸術家がいるだろうか。余談だが芸術家には我々には見えない、この進むべき線がはっきりと見えている。何故そんな風に描いたかなどという質問は多くの場合愚問だ。

吉田はいつまでも絵の表現を追い求めていく。満足しない。それこそ書生時代は「絵の鬼」と呼ばれるぐらい熱中した。沢山歩いて、沢山山に登って、沢山景色を見て、沢山人の絵を見て、何度も海外へ行って、自分の絵を高めていく。そして彼の絵は年代を追うごとに磨かれていく。彼の最後の作品である『農家』はその極みだ。芸術に年齢は関係ない。この絵は芸術には何が必要かということを証明している。

彼の言葉がある。
~自然と人間の間に立って、それをみることが出来ない人のために自然の美を表してみせるのが天職である。~

心に留めておきたいことがもう一つある。それは自分が決めた道であればそれを向上させるためにはいかなる努力も惜しんじゃならないということ。沢山学んで、吸収して、実践していかなくてはならない。自分の技法はこうだ、自分にはこれしかないとか、自分にはこれが合ってるというのではなく、新しいやり方に挑戦していかなければならない。芸術にとって停滞は悪だ。彼はそんなことは言わなかったけど、心得として、そんな風に聞こえた。

今年、『吉田博 生誕140年 回顧展』が幾つかの地域を巡回している。残念ながら北関東ばかりでこちらにはやってこないようだ。でもまあいい。僕はまだ長生きする。死ぬまでに吉田博の木版画を見る。

 

2017年2月

バルにて

ポエトリー:

『バルにて』

 

バルの奥から見える赤いドア枠の扉の隙間をグレーがかった猫が少し頭をもたげた格好で歩いている。揺れる扉のガラスに写り込んだ猫の姿は乱反射し、一匹が二匹にも三匹にも見えた。僕は心の中で言う。おい、お前、名前はなんて言うんだ?他の誰かも心の中で言う。おばさん、あの猫を捕まえてきて。猫は斜めになったドアガラスに写り込んだまま、石畳みを西の方角へ移動する。僕は跡をつける。

中東の入り組んだ住宅街。ここは一転砂の色。酔っ払いか、或いは普段から酔っ払ったようなオヤジが悪態を突く。オメェはどこの国のもんだ?どうやらどの家にも朝から洗濯物がなびいているのが気に入らないようだ。

自転車に轢かれそうになる。と思ったのはこちら側で、グレーがかった猫は見えているのか見えていないのか分からないような格好で、物売りか若しくはくたびれたビジネスマンのようにとりあえず前に進む。うねりながら若干登り坂になった通りの先にようやく市場が見えてきた。温かいスープにこんがり焼けたポテトの山。そんなような事を頭に浮かべながらバルのおばさんは買い物をする。あぁそうだ。僕は今、バルの奥で栄養価の高いワインを食しているところだった。

今夜もまた真っ直ぐ家には帰らないだろう。でもそこが中東の土で出来た幾つかの四角い窓のあるアパートならこのまま帰ってもいい。

 

2014年11月

パリ・マグナム写真展 感想

アート・シーン:

パリ・マグナム写真展 in 京都市文化博物館

 

1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成された。その写真展が京都文化博物館で開催された。

第二次世界大戦前からの記録。所々挟まれる解説文を見ながらの写真はパリの歴史を追いかけるようで、一種のドキュメンタリー・フィルムを思わせる。パリ解放であったり、アルジェリア独立問題であったり、5月革命であったり、今年の大統領選挙であったり。その中心にいる市民による揺り戻し。積み上がったものを壊す。その力をみくびってはいけない

写真展を見るのは今回が初めてだ。思うのは写真家と被写体との距離。写真家はそこに入り込まない。余計な口を挟まない。写真はデザインであり、ジャーナリズムであり、日常である。絵のように一枚一枚に目を凝らして見るのもいいが、少し離れてみるのもいい。じっと見て、離れてみる。同時期に起きている事実が並べられている。その様子を見るのがいい。

モノクロ、カラー、デジタルという変遷も興味深い。その吐き出すもの、受ける印象というのは違ってくる。今の写真家はそれらを使い分けるのだろうが、その意図するところはどのような具合なのだろう?モノクロ、カラー、デジタル、どれもいいがモノクロは面白い。写真の中にある人や建物や風景にそれを見ている僕の影が重なるとぞわっとする。遠い昔の写真の本当さが濃くなる。

絵画は作者の込めたものが立ち上がってくるが、写真にはそれが無い。ただし動きがある。写真は静止画。しかし当たり前ながらそこには前の動きがあり、後の動きがある。世界が動いている様子を一瞬止めたものがシャッター。ふむ、やっぱり物語が幾らでも湧いて来る。

中には政治家や著名人のポートレートもあるが、やはり市井の人々の様子を見るのがいい。僕も写真家に撮ってもらいたいと思った。構えたり、自然な表情を不意に撮るではなく、構えて不意に撮る。出来た写真を見ながら、これは自分ではないなと思いながらも、人が見たらあぁそれそれっていう僕になる。それを知りたい。そして当たり前ながらも世界はそういう人たちで出来ている。自分のお気に入りの肖像ではなく、人が見たらあぁそれそれっていう人たちで出来ている。

展覧会の最後に飾ってある写真はマクロン氏の当選スピーチのステージを遠くから眺める人々。どこかの建物の大きなポーチのような場所。頭上には木々が茂っている。この国の人たちを侮ってはいけない。

最後に一つ余計な事を付け加えておくと、僕がこの写真展に行くきっかけとなったのは紹介文にあった「自由と公平さと自治」という文言。僕は今、「自由」という言葉がキーワードだと思ったからだ。見に行かなくてはならないと思った。数日経ってもまだ僕の中に残るものがある。行って良かった。

もうひとつ。僕は10年程前まで京都で暮らしていた。三条界隈、京都市文化博物館の前は何度も通った道だ。写真のようにあの時の僕が見え隠れしたら面白かったけど、そういうものは一切見えなかった(笑)

夏から秋にかけては

ポエトリー:

『夏から秋にかけては』

 

夏から秋にかけては

体調を崩すから嫌だ

夏から秋にかけては

体調を崩すから嫌だ

 

秋から冬にかけては

Virusが舞うから嫌だ

秋から冬にかけては

Virusが舞うから嫌だ

 

冬から春にかけては

離れ離れになるから嫌だ

冬から春にかけては

離れ離れになるから嫌だ

 

夏は命の源

夏は命の源

大切な人もきっと良くなる

 

2016年6月

A Moon Shaped Pool/Radiohead 感想レビュー

洋楽レビュー:

『A Moon Shaped Pool』 (2016) Radiohead
(ア・ムーン・シェイプド・プール/レディオヘッド)

ここで歌われるのは祈りだ。ところどころ感じさせる宗教的なサウンドが落ち着きを与える一方、不穏さを与えている。緊迫感と平穏さの同時進行もまた聴き手の感情を不安にさせ、安心させる。相反する動きがそれが自然な形だと言わんばかりに同居している。当然それらを許容する器が必要だ。

言葉やメロディ、そしてそれらを運ぶサウンドがぎこちないままだと聴き手への伝播力は半減される。ここでの言葉とメロディやエレクトロニカ、オーケストレーションの緩やかな結合は人の手が加わったことも忘れてしまうほどにあまりにも自然だ。そこに外界のどんなウィルスも受け付けない声が降り注ぎゆっくりと同化してゆく。このアルバムでは声であるとかベースであるとかギターであるとかストリングスであるとかという区分は意味を持たない。全てがひとつの音という意識として人々の耳へ飛び込んでくる。耳から入った音もまた、耳とか脳とか心とかの分別なく、体の四隅へゆっくりと溶けてゆく。或いは衰弱し、或いは回復してゆく。それはまるでサイケデリア。現実のようで夢のようで、意識は明瞭のようで幻覚のようで。境界線も曖昧なまま、美しく、ざわめきは抑えようもない。

1. Burn The Witch(魔女を燃やせ)
落ち着きのないサウンド。最後の止まれなくて微かに残る余韻が不穏さを醸し出している。

2. Daydreaming(白日夢)
チベットか何処かを想起させる宗教的な音階。最後のコントラバスが不安をかき立てる。

3. Decks Dark(甲板の闇)
幻覚ではない。意識は明瞭だ。しかし女性コーラスが入ることで幻想的になってゆく。

4. Desert Island Disk
主人公は移動をしている。しかしそれは白昼夢。目覚め、更新される。

5. Ful Stop
ちょっと待って。一旦止めてくれ。元に戻してくれ。

6. Glass Eyes(義眼)
リアルにやばい曲。最後にフッと浮き上がるのは良い兆候かそれとも、、、。

7. Identikit(モンタージュ作成装置)
肉体的なビートが「broken hearts make it rain」という言葉を補完する。

8. The Numbers
ラストのダムが決壊したかのようなオーケストラに押し流されてしまいそう。

9. Present Tense(現在形)
フラメンコ。踊るのには理由がある。

10. Tinker Tailor Soldier Sailor Rich Man Poor Man Beggar Man Thief
(いかけや したてや へいたいさん ふなのり おかねもち びんぼう こじき どろぼう)
エレクトロニカからバンドを経由しオーケストラへ。意識の境もなくなってゆく。

11. True Love Waits
背後に軋む音が残された意味とは。成熟とはより純化されるということ。

一見感情的なように見えて実はそうではない。仮に実体験が下地にあったとしても作者と言葉は一定の距離を保っている。そこのところの冷静さや知性が彼らの魅力だと言えるし、もしかしたらトム・ヨークから出てくる言葉はどうあってもそうなってゆかざるを得ない性質のものなのかもしれない。人の心を揺さぶる声を持っていながらも基礎体温の低さはぬぐい切れない。その奇妙なバランスが美しい。

夕方五時、過去から

ポエトリー:

『夕方五時、過去から』

 

風邪をこじらせた

みたいに咳き込んで

遮断機の音

微かに届く

耳障りな手紙

虚空を流れ

夕飯の流れ

五時の知らせ

持ち運びが未だ

ままならないクラリネット

 

あいにく今はまだ

向かってはいない

何がこの世で

大切なのかさえ

歯ぎしりする痛み

走り出す陽射し

君なしでまだ

やっていける

 

地響きみたいな声

この時期だけの蝉の声

非常ベル気取りで

今年の背中蹴り立てる

駅まで伸びていく道

本屋の前で泣いた記憶

今度ばかりは

見知らぬ記憶

 

真っ暗闇の中

陽射しが高く傾いた

頬杖ついた逆からの光

君はまるで丘の上

輝くヒマワリ

解けた糸がまた絡まるように

途切れた時がまた動き出す

 

今新たな動き

過去からの働き

低く伸びた影を踏んで

あと一歩

形振りほどく背格好まで

あと一歩足りない

 

2017年7月

君は心の声に優しく寄り添う

ポエトリー:

『君は心の声に優しく寄り添う』

 

軽い噂話が君の心を重くさせるだろう

短いすれ違いが君に長い夜をもたらすだろう

心がそばにいて欲しいと君にそっと囁くだろう

八月の雨はもうしばらくアスファルトを叩くだろう

 

君は長雨を理由に友達の誘いを断るだろう

時間が重たい石となって君の上にのしかかるだろう

悲しみは溢れて二階の窓を開け放つだろう

君の涙は誰もいない道端へこぼれ落ちるだろう

 

曖昧なままでいいんだよ

誰だってすべてを乗り越えてきたわけじゃないんだよ

そうやって僕たちは少しづつ生きてきたんだよ

 

時のシーツにくるまって

時間はいつしかおぼろげな過去になる

全ては混ぜ合わさってほどけてゆくだろう

 

2017年8月