溶けてなくなる前に

ポエトリー:

「溶けてなくなる前に」

きみはわたしの声を秒単位で欲しがる
溶けてなくなる前に
早く次のを放り込んでおくれ
でないと声を失うと

そんなにも欲しがるならば
なぜあのとき
日が陰るあのとき
待ち合わせの場所にきみは来なかったのか

冷たい夕に
わたしはひとり凍えていたのだ
きみが
秒単位で欲しがるのと同じに

わたしも
ちいさなひとりの人間だということを
知ってか知らずか
あいも変わらずきみは秒単位で欲しがる

溶けてなくなるのはなにも
きみばかりじゃないというのに

 

2023年10月

Eテレ 司馬遼太郎 雑談 「昭和」への道 感想

TV program:

司馬遼太郎 雑談 「昭和」への道

 

今、NHKのEテレで司馬遼太郎生誕100年の特番をしていて、1986年だったかな、『昭和への道』という、まぁあの戦争に向かって日本が狂っていた時代ですね、あれはなんだったのかというところをメインに司馬遼太郎が話をしているという当時の番組の再放送をやっていて、その第6回だったかに戦争期の日本に蔓延していた、特に軍人やメディアで非常に誇大な言語表現がなされていた、かつてない言語量を使ってしかも漢文のような古い言い回しなんかも多用しながら大袈裟な言語表現をしていたわけですけど、それを司馬さんは実態のない言葉と言ってるんですね。中身が空っぽで空虚だと。だって日本はヤバいなんていう本当のことなど言えやしないんだからつい誇大な表現でごまかす、糊塗する。まぁ愚かな時代ですけど、この中身がない、実態がないからつい言語表現は大袈裟になるっていうのは、司馬さんは当時の政治家のスピーチを例にとって、実体がない、言っている本人に実感がないからああいうもったいぶった大層な言い方になると言ってましたけど、本当にそうだなぁと、今も変わらないなぁと、やっぱり大袈裟にいいこと言う人は信用なりませんよね。

ここで話は僕の意見、別の方向へ行きますけど、日本の漫画は世界でも人気で評価も高いわけですけど、日本の漫画、アニメ、特撮なんかもそうですけど、ヒーローものの場合だいたい必殺技がありまして、ライダーキックとかブレストファイヤーとかですね、もう初期の頃からあるわけです。今じゃもうさらに進んで、「全集中、水の呼吸、一の型、なんとかなんとか!」みたいな何個あるねんっていうぐらい決め台詞があってですね、もうそういうのが日本人はいちいち大好きで、僕も「キン肉マン」とか「北斗の拳」とかの世代ですからそういうのに熱狂してたんですけど、まぁあれもですね、技名がとにかく大袈裟でなんのこっちゃ意味の分からないものもいっぱいあるんですけど、なんかそういう誇大表現に納得してしまうというか、「廬山昇龍波!」なんて言われると、わぁスゲーって興奮してしまう。やっぱ日本人は意味はよく分からんけどなんか凄そうな名前だったらそれでよしとしてしまう気質があるんじゃないかと。アベンジャーズにヒーローはいっぱい出てきますけど、それぞれのキャラが必殺技名を連呼しまくるってないですからね。

あともう一個言うと、これはもう前から思っていたことですけど、いわゆるJ-POPですね、これも熱い表現とか大層な言い回しが好きなんですね。君を守るとか君を助けるとか、ま、そんなこと現実的でないですよね、これもやっぱり実体がない。本当に助けるとはどういうことなのか、本当に守るとはどういうことなのか、そこの実体がないから無邪気に大声で歌えるのだと思います。それなりの現実認識、要するに実感があればもう少し違った表現になると思うんですけどね、でも聴いてる方もそれで熱狂してしまう、涙流して感動したりするわけです。僕は海外の音楽も沢山聴きますけど、僕の知っている限り海外にああいうド直球な応援歌ってないんじゃないかな。これも日本独特の文化だと思います。

だからまぁ、日本人というのはこういうポップ・カルチャーの分野においても大袈裟な表現、今で言うエモい物言いについ引っ張られてしまう傾向があるんだなと。なので、司馬さんの番組、あれは昭和のことを言ってますけど、今だって根本は変わっていなくて、中身のない、実感のない言葉に引っ張られがちな国民であるんだということを番組を見ながら、もちろん自分も含めてですけど、改めて思いました。

SENSUOUS / コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:

『SENSUOUS』(2006年)コーネリアス Cornelius

 

このアルバムをリビングで聴いていたら、娘に「BGMやん」て言われてしまった。確かにそうかもしれない。でも音楽なんてそういうもんじゃないかとも思う。電車に乗ってると多くの人がイヤホンを付けているけど、スマホでは別の画面を見ているし、さして真剣に聴いているようには思えない。けれど僕も含め、けっこう多くの人が音楽無しではいられない。

僕は主に洋楽を聴く。ほぼ英語は解さない。対訳のついた国内盤CDを買うこともあるが、基本はサブスクが多い。もちろん歌っている内容を知ることでその音楽がもっと好きになることはあるが、それがなくても好きな音楽はたくさんある。多分僕の中で歌詞はそれほど多くを占めていないのかもしれない。部分的な英語しか分からなくてもボーカリストの声やトーン、バンドの演奏、メロディ、和音、そうしたものが一体となってあちこちから色んなタイミングで飛び込んでくる。それらひっくるめた連なりを僕なりに感知し楽しんでいるのだと思う。

電車の中でリラックスして聴いている多くの人もそうなんじゃないか。耳から色んな音が入ってきて感知出来たり出来なかったり。それでもこの音楽は好き、これはあんまり、というものは出てくるし、なんだっていいわけじゃない。それぞれの感性に従って、人は音楽を聴いている。分かる分からないといった意味よりも遥かに多く伝わっているものがあるのだ。

言葉で何か言ったってたかが知れているよ。僕は自分の考えなんて開陳するつもりはないし、お説教するつもりもない。コーネリアスはそんなこと言わないだろうけど、ま、そういうことだと思う。音楽なんてただの’振動’。でもその’振動’に人の心は揺れ動く。ただの’振動’に作家は心血を注ぐ。最後に心温まるシナトラのカバーを英詞のまま、しかも声にエフェクトをかけて歌うところが素敵だ。

コーネリアス 夢中夢 Tour 2023 Zepp Namba 感想

ライブ・レビュー:

Cornelius 夢中夢 Tour 2023  Zepp Namba 10月6日

 

僕は絵も好きだし、詩も好きだし、いろいろ見たり聞いたりしていると時に圧倒的な作品に出会って不思議な気持ちになることがある。コーネリアスのライブもそんな感じだった。煽るわけでもなく、大袈裟にするわけでもなく、平熱なのにこちらに伝わる何か。音楽を通して、いや、映像も照明も素晴らしいかった。それら音楽表現でやれることは全部やるんだという静かな熱があった。音楽の、いや何かを表現するとはこういうことなのだということをその一点に絞って見せてくれた。そんなライブだった。

ステージでの4人は小山田が真ん中にいるのではなく、4人が均等に並んで客席を向いている様子が素敵。余計なものに頼らず表現する潔さ。クールに、でも身体の奥に何かをたたえたまま、真っすぐ前を見据える。バンドとしてのエネルギーが放射されていた。僕はコーネリアスはバンドなんだということを知った。

音源もいいけど、ライブはまた別世界。全く違った。僕は体全体で感じていた。気安く感情に頼らずに音楽全体として表現し、映像表現を含めた音楽全体として聴き手に委ねる。気持ちのいいことを手っ取り早く歌って満足するようなまやかしではなく、表現行為に最初から最後まで真摯に向き合い、準備し、それを果たしていく。偉ぶるのでもなく控えめ過ぎるのでもなく、虚勢を張るのでもなく謙虚過ぎるのでもなく、出来得る限りの能力を使って表現する。

情緒に頼らず、真摯に向き合う姿勢の中から伝わるもの。それが聴き手の心を揺さぶるのだろう。表現するとはどういうことか。その真っ直ぐさに触れ、僕は胸がいっぱいになった。

本編で喋ることは一切なかったけど、アンコール最後の曲の間奏で小山田圭吾は口を開いた。「いろいろあったけど、またこうして演奏できてうれしいです。今日はどうもありがとうございました。」。朴訥に、静かな歌声と同じトーンでそう話した。

安野光雅展 / あべのハルカス美術館 感想

アート・シーン:

安野光雅展 / あべのハルカス美術館

 

最初の絵本『ふしぎなえ』を見ていると、描きたいことがどんどん溢れているんだなぁ、手が勝手に動いているんだろうなぁと思ってしまいました。それぐらいアイデアが出てきてどんどこ描けたんじゃないか、そんな気がしました。もちろんそんな簡単な話ではないでしょうけど(笑)。

エッシャーみたいな不思議な絵も楽しいけど、僕はその絵の中にいるピエロだかなんだか分からない異国的な登場人物が右往左往している様子がおかしくて好きです。手足が長くてキャラ的にデフォルメされたものだけど生き生きとしている。こういうところも楽しくずんずん描けちゃったんだろうなぁ。

あとまぁすんごい緻密です。『もりのえほん』なんてやっぱすごい画力だなぁと驚きますね。これもやっぱり頭の中にイメージがあってどんどん描き進めていけるんだろうなと。考えていたら多分描けないよ、こんなの。ってそれは凡人の考えかな(笑)。

それとは対照的に『天動説の絵本 てんがうごいていたころのおはなし』という、しっかりと構成を練られたような作品もあります。空想ばかりしていたという安野さんの真骨頂のような作品です。ストーリーが記載されてはいますけど、やっぱり絵が面白いです。この絵の空想力あってこそなんだと思います。

『旅の絵本』シリーズは俯瞰で風景やらそこにいる人々やらを描いているんですけど、これもやっぱり細かいです。で面白いのが、細かいんだけど人物の遠近感がさほど気にされていなくて、遠くの人の方がちょっと大きかったりする(笑)。こういう大らかさもいいなぁと思ってしまいます。やっぱそれよりも人物たちが動いているんです。安野作品の一番の魅力はやっぱりこの’動き’なんだと思います。

経歴を見ていると多分本格的な絵の勉強はされていないみたいですけど、実際はどうだったんでしょうか。アールブリュットという言葉がありますが、安野さんの絵もそういう魅力、規定されない自由さ、大らかさ、ユーモアがあるような気がします。あ、でも安野さんは普通に上手いです。

三国志を描いたシリーズもあるし、いろんな本の表紙絵やポスターもある。単に同じような雰囲気のものを描き続けたという人ではないということが分かります。晩年まで創作、空想が止まなかった、描きたいことがいっぱいあった芸術家だったんだろうなと思いました。

あなたといるだけで

ポエトリー:

『あなたといるだけで』

 

あなたといるだけで心が張り裂ける
あなたといるだけで胸が熱くなる

あなたがいるだけで時が動き出す
あなたがいるだけで心が満たされる

あなたといる時は落ち着いていられる
あなたといる時は穏やかでいられる

あなたは今何処にいる
あなたは今何をしている
あなたは今幸せなの
私があなたを幸せにしてあげる

そんな風に思われる事が
たとえ一瞬でもあったのかな
そんな風に慕われる事が
ほんの一度くらいはあったのかな
そんな風に人知れず過ごす日々があったのかな

 

2017年5月

Exorcism of Youth / The View 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Exorcism of Youth』(2023年)The View
(エクソシスム・オブ・ユース/ザ・ビュー)

8年ぶりだそうです。前作『Rope Walk』(2015年)も悪くなかったんですけど、迷いというかもやっとした感じはありましたから、そこから長い沈黙があったのも頷けるかなと。もともと音楽的な野心というより、勢いでやってきたという印象なので、その初期衝動というか、もちろん才能はあるので手癖でよい曲は書けるんだろうけど、一番大事な気を込めることが難しくなっていたのかなと想像します。

というわけで8年ぶりの新作です。流石に初期の『Wasted Little DJ』や『5Rebeccas』みたいな爆発力はないけど、各々の曲の出来というか、全体としてのレベルの高さやまとまりは彼らのキャリアでも屈指だと思います。

プロデューサーは3作目にあたる『Bread And Circuses』(2011年)で組んだユースを再び迎えたそうですが、それが良い方向に出ていて、どっちかというととっちらかってしまう彼らの特性、それが魅力でもあるわけですけど度が過ぎないように交通整理するというか、特に3作目はとても洗練されていて受けも良かったと思うので、復帰作がそっち寄りになったのは良かったと思います。

それにしてもカイル・ファルコナーのソングライティングは変わりませんね。12曲ありますけど、全部特色があって工夫があって単調なところが少しもない。それでいて英国ロックの伝統を感じさせる雰囲気もあるし、やっぱこの人はアークティックのアレックスとかクークスのルークと並ぶ、この世代を代表するソングライターだと思います。

あとカイルと言えば終始シャウト気味に歌うボーカルですよね。久しぶりの新作でも変わらぬシャウターぶりでめっちゃカッコええです。アルバム屈指のポップ・チューン、#10『Woman of the Year』の声を張り上げるミドルエイトも最高です。そうですね、ザ・ビューと言えばミドルエイトですけど、復帰作でもそこの魅力は変わりません。

本作の気に入らないところは曲順ぐらいかな。#1『Exorcism of Youth』のいい曲だけどオープニングじゃない感とか、彼らのキャリアにおいても随一のスローソング#7『Black Mirror』の置き場所はもっとええとこあるやろとか、#6『Allergic To Mornings』の後は#9『Dixie』みたいなポップチューンがええやろとか、もうちょっとええ感じにでけたやろ感ありありです(笑)。

バンドの休止中にカイルのソロ作はありましたけど、あれはやっぱ元気なかったですから、やっぱ一人じゃ楽しくないのだと思います。演奏力とか表現力云々じゃなく、カイル・ファルコナーはやっぱこのバンドが良いのかもしれませんね。

POINT / コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:

『POINT』(2001年)コーネリアス Cornelius

 

日本だと割とリリックについての言及が大きくなりがちだが、音楽においてリリックは構成要素のひとつに過ぎない。一見当たり前に見えるこの認識を当たり前に進めたのがこのアルバム。言葉もサウンドもメロディも声も並列。歌詞やそれを発するボーカリストの声という分かりやすい記名性に寄りかからず、ていうか排除し、音楽としての表現に真正面から取り組んだ、ズルさのない正々堂々としたアルバムだ。

よってここでは、声も楽器も鳥の声も波しぶきも虫の音もすべて等しく扱われている。どれに対しても特別扱いはしない。その上で、僕たちが日ごろ楽しむポップ・ミュージックができるのか、という取組なのだと思う。自然、インストルメンタルが多くなる。いや、それは認識間違い。そもそも前述の前提である故、作家はインスト云々というところで作っていないはず。並列に進めた結果こうなったに過ぎないと。

そもそも小山田圭吾には、ポップ音楽などとうにネタは出尽くしていて、後はそれをどう組み合わせるかという達観があったはず。だったらばどうするか、というところに自覚的にラジカルに推し進めていたのがフリッパーズでありコーネリアス初期の作品であるならば、このアルバムは、だったら新しいの作ってやるよ、とでも言うような、いやそこまで肩肘は張っていないけど、それまでのともすればシニカルな態度は一旦置いといて、自身の新しい表現に向けて次のステップに進んだアルバムなんだと思う。

これまでに例のない取組である以上、聴き手としても面食らうところがしばしばあるわけだけど、とかなんとか言いながらお高くとまった感は一切なく、チャーミングでポップになってしまうところはもう小山田の天性だろう。どんなアルバムになってもギターがカッコいいのが嬉しい。これまでにないわけだから完成がない。ということでこの流れは次作へも続く。

『眩暈 VERTIGO』(2023年)感想

フィルム・レビュー:

『眩暈 VERTIGO』(2023年)監督・井上春生

 

映画の感想を書こうと何度か試みているのだけど、何度書いてもただ表面をなぞっているような気がして書いた気にならない。でも考えてみれば、今までに見たこともない映画だったので、言葉に出来ないのは当たり前だ。見たというより、見てしまった、いいのだろうか、という感覚さえある。

詩というのは一応は紙に言葉が印刷されたものだけど、こちらに伝わるものは言葉だけとは限らない。アクセントやリズム、抑揚。或いは景色、自分の過去に照らし合わせた映像が喚起される場合もあるし、全く知らない映像、それこそ心象風景としか言いようのない抽象的な何かが渦巻くことだってある。ただそれは詩に限った話ではないし、同じく文字しか情報のない文学作品ならよくあることだろう。詩がそれらと少し異なるのは、人によって、或いは同じ人でも時間や場所、状況によって喚起されるものがビックリするぐらいまちまちだということだ。

僕は吉増剛造の詩を読んでも全く分からない。しかしそれは多分言葉の意味として分からないということだろう。現に心のなかで音読すると皮膚感覚が泡立ってくる。詩が単なる紙に書かれた言語に過ぎないなら、こんなことは起きないだろう。吉増の詩はどう考えても言葉だけには収まらない得体の知れないものなのだ。

けれどそれは当然の話で誰もが知ってる得体の知れたものなら、わざわざ詩を書く必要はないのだし、どこかからそうそうこれこれなんて言って持ってくればいいのだ。そうはいかないから詩人は詩を書いてるのだろうし、吉増が言った「未完成を目指す」というのもなんとなくそういうことのような気はする。

つまり詩であればあるほど、創作に誠実であればあるほど見たことも聞いたこともない度は大きくなるわけだから、分からないのは当たり前の話で、でも何か分からないけど胸を打つ、感慨として何か残る、というものが表れればそれは’見た’’聞いた’もしくは’経験した’ということになる。ただ吉増剛造もジョナス・メカス(の作品を僕は観た事はないけど)もそうしようと思ってそうしたわけではなく、ただ単に真摯に取り組んだということなのだろう。

そうやって芸術は積み上げられ引き継がれていく。監督も井上春生もまたその一人なのだ。それにしても、よくもこんな瞬間を撮ったと思う。映画だからもちろん映像もあるし音もある。けれど一方で文字しかない詩のようにも感じられる。吉増の「メカスさん」という何とも言えない呼び声。創作時の「書いておかないと忘れちゃう」と言った時の時間の歪み方。セバスチャンの人間を超越したような佇まい。吉増とセバスチャンの間に流れた沈黙。記憶としてのはずのメカス。どうしてあんな瞬間を撮ることが出来たのか。紛れもなく、見たことも聞いたこともない瞬間の連続だった。

けれどこの映画の敷居は決して高くない。もちろん、ジョナス・メカスのことや吉増剛造のことを知っていれば尚よいのだろうけど、分かる人にだけ分かればいいという映画では決してない。一応はドキュメンタリー映画ということにはなっているけど、色々な工夫がされていて、観ていて楽しい要素もあり、一概にドキュメンタリー映画とは言えないつくりにもなっている。数人に朗読をしてもらった音声を少しずつずらして重ねていくところなんて、恰好いいし、テーマでもある揺らぎと相まってとてもよかった。そういうポップさもある。

僕が行った日は観客が僕を含めてたった8人しかいなかった。きっとこの映画を求めている人はたくさんいると思う。多くの人が知らないままなんじゃないかという事が残念に思った。もっとメディアで紹介されてほしい。きっと観るたび何度も何度も異なる感想が現れるのだと思う。もう一度観たいと思った。

FANTASMA / コーネリアス 感想レビュー

邦楽レビュー:

『FANTASMA』(1997年)コーネリアス Cornelius

 

ソロ・デビュー作『『The First Question Award』(1994年)での過剰な言葉や2nd『69/96』(1995年)での過剰なサウンドでコーネリアスが試していたことは、結局どこをどう表現すれば何がどれだけ表現されるかの確認であり、それを見極めるにはその分野で目一杯メーターを振ってみるしかなかった。その上で一応はたどり着いた答えは、結局のところ何か一つの切っ先をいくら鋭利に研いでみせようとも何か一つでやり切れることはたかがしれているということではなかったか。

しかし考えてみれば、フリッパーズ時代から意味なんてなく、彼はスカスカの箱を用意していただけで、そこに僕たちは勝手に意味を見出していただけ。ただその箱があまりにもキラキラとしていたものだから、僕たちは随分とその気になってしまったわけだけど、その素敵な箱は逆に言うとフィクションだからこその輝きだとも言える。

音楽に限らず、フィクションにどれだけリアリティーをぶち込めるかが作家の腕の見せ所でもあるわけだけど、このことは自分のことを云々するよりもはるかに難しい。自分のことを垂れ流しては僕のメッセージですだなんて言う人もいるが、それなら誰だってできることで、創作とはやはりないものから何かを創り上げる、あるいは内的なものを外的なものに変換することではないだろうか。

それにその外的なものが既にあるなら、わざわざ創ることはないだろうし、そもそもリンゴがどれひとつとて同じではないように、どんなものでも同じものは存在しない。例えて言うと、このアルバムには誰もが知るメリーゴーランドや誰もが知る観覧車はないし、誰もが知るポップ音楽からは外れたようなヘンテコな乗り物ばかりではあるけれど、作者が真摯であればあるほどそうなってくるのはごく自然なことで、僕たちは初めての乗り物になんだこれと驚いたり目を丸くしながら楽しめばいいのだ。つまりここでもコーネリアスは場を用意しているだけ。

多分ここまでがフリッパーズ・ギターでスタートした彼の初速。ソロ1stが1994年、2ndが1995年、3rdが1997年と目一杯のスピードで走り続け、いろいろなことを試しに試した結果は始めから分かっていたことかもしれないが、実践することでより強固になった。