ポエトリー:
『明日はパンの日』
天国ってあるのかな
空の向こうにあるのかな
今はどんよりとしているけれど
その向こうには目の覚めるような青空があって
月日の概念も遠ざかって
皆が仲良く手を繋いで
一緒にテーブルを囲むような
そんな世界があるのかな
なんてバカらしいや
チャイムが鳴るまであと三十分
窓際の席でだらりとながまる
明日はパンの日
知っているのはそれだけ
みんな そんな難しい顔をしないで
2018年4月
ポエトリー:
『明日はパンの日』
天国ってあるのかな
空の向こうにあるのかな
今はどんよりとしているけれど
その向こうには目の覚めるような青空があって
月日の概念も遠ざかって
皆が仲良く手を繋いで
一緒にテーブルを囲むような
そんな世界があるのかな
なんてバカらしいや
チャイムが鳴るまであと三十分
窓際の席でだらりとながまる
明日はパンの日
知っているのはそれだけ
みんな そんな難しい顔をしないで
2018年4月
TV program:
Eテレ 日曜美術館「熱烈! 傑作ダンギ アンリ・ルソー」 2018.7.2放送 感想
教科書に載っていたのかな。何かの媒体で目にしたことがあるのかな。どこかで見たことがあるような気はするけど、実際そんな身近な絵とでもいうか、決して画壇のお偉いさんや巨匠が描いた絵ではなく、一見シュールな絵なんだけど手が届きそうな親しみ。僕たちの側にある絵。それは独学で学んだということにも関係してくるのかもしれないけど、自由で明るく前向きな彼の姿勢が強く関係しているのかもしれない。そんな風に思いました。
アンリ・ルソーが本格的に絵を描き始めたのは40才を過ぎてから。パリの税関で働きながら休みの日に絵を描くという日曜画家。な~んだ、サラリーマンだったのかって余計に親しみを覚えてしまいました。ただ彼は日曜の休み毎にのんびりと描いていたわけではなく、展覧会に出す絵はことごとく酷評。私生活でも一人目の妻、二人目の妻を病気で亡くし、更には5人の子供のうち4人までをも病気でなくしている。そんな絵などもう描きたくなくなるような試練の中、彼は強い心で絵を描き続けた。
少しづつ世間に認められつつあったルソーは絵の先生として地域の人々に絵を教え始める。自身の肖像画にはその資格を認められたバッジを胸にした姿が誇らしく描かれている。見ているこちらにまでその喜びが伝わるような絵だが、そこに描かれたパレットには亡くした二人の妻の名前が書き込まれている。全体としてはまるでどこかの万博ポスターのような明るい絵だけど、彼はそういう人なんだな。
今回、番組で談義を繰り広げるのは、世田谷美術館学芸員の遠藤望さん。ミュージシャンのグローバーさん。女優の鶴田真由さん。ルソーの研究家でもある遠藤さんでさえルソーの絵はよく分からないという不思議な世界。けれど彼はあきらめない人、めげない人だと、そこは何度も強く強調していた。結局はそこがいつまでも掴んで離さない彼の絵の魅力なのかもしれない。
ミュージシャンのグローバーさんの言葉も印象的だった。影を描かなかったり、朝陽なのか夕陽なのか分からない描き方をする時間の概念を無視したルソーに対し、時制に囚われたくなかったのかも、との気付きを話していた。あぁ、確かにそうだ。時間の概念よりも大切なものがルソーにはあったんだ。それに対し鶴田真由さんはこういう見方をしていた。彼は興味あるものにしか目が向かない人なんじゃないかって(笑)。それもそうかもしれない。男の子にはそういうところがあるからな。ルソーは男の子の部分を大きく残していた人のような気もするし、うん、確かにそうかもしれない(笑)。
死の半年前に描かれた「夢」という作品はルソーの総括。この世の生命力を象徴するような絵だ。ルソー自身の諦めない、めげない精神を象徴する絵。遠藤望さんは彼の絵は晩年になればなるほど良くなっていくと言っていたけど、死の半年前に書かれた絵が最高傑作だなんて。もしルソー自身もそう思っていたとしたら、絵描きにとってこんな嬉しいことはないのかもしれない。
苦労してきたのに暗い感じで絵に出ていない、そこが酷評されてもくじけないところとリンクする、と言った鶴田真由さんの言葉が強く心に残りました。人生はつらいことの方が多いけど、出来るだけ前を向いていたい。そんな風に考えている人はきっと、アンリ・ルソーの絵に何かを感じるのかもしれません。勿論僕もそんなひとりです(笑)。
幼い頃からの夢を持ち続け、40才を過ぎてから筆を取り始め、妻や子供を失くしながらも、世間に酷評されながらも描き続けたルソー。そんな彼の絵を僕はいつか直に見てみたいと思いました。
ちなみに、、、。感性で話すいつまでもロマンチストなグローバーさんと、論理的でいつまでもクールな鶴田さんの対比が可笑しかった。やっぱ女性にはかなわないや(笑)。
洋楽レビュー:
『Waiting for the Dawn』(2013)The Mowgli’s
(ウェイティング・フォー・ザ・ドーン/ザ・モーグリス)
8人編成の大所帯バンド。過去にEP盤はリリースしていたみたいだけど、これが初のフル・アルバム。作詞作曲は全員、ボーカルも全員、楽器も特に取り決めがないような感じで、とにかくバンド始めようぜ!てな勢いが満載だ。
ほとんどの曲を全員で歌っていることもあってとにかく賑やか。クレジットを見ると、バンジョーやらフィドルなんて文字も。マムフォード・アンド・サンズとまではいかないが、アコースティックなサウンドでジャカジャカ攻めてくる。そうかと思うと、ギター・ポップな曲があったり、シンセが絡んできたり、はたまたカントリー調になったり、ほんとゴチャゴ混ぜ。でもこういうゴチャゴチャ感は結構好き。
歌詞も至ってシンプル。難しい顔してないで顔を上げて行こうてな具合。なんてったってオープニング・チューンが『San Francisco』ていうくらいだから、その陽気さというのは窺い知れる。その楽天性は未熟さ、或いは若さゆえという人もいるかもしれないが、そんなことは元より承知。彼らのそれは分別めかした連中への陽気なカウンター。つまりそれがロックンロールということだ。
『Slowly,Slowly』みたいな疾走系から『Emily』みたいなかわいい系もあって結構楽しめる。女性ボーカルが一人混じっているのもいいアクセント。疾走系ナンバーが結構あって、それをみんなで合唱するなんてのはあまり聞いたことが無いのでとても新鮮。若さに任せてアクセルが徐々に上がってゆくこの感じはファーストならでは。こういうのって年取ると、やろうと思っても出来ないんだよなあ。
とにかく明るくって楽しくって、暑い夏にはもってこいの作品。演奏もアレンジも申し分なく、このまま身も蓋もないまま突き進んでほしい。サマソニあたりに来てくんないかな。
1. San Francisco
2. Slowly, Slowly
3. Waiting for the Dawn
4. Love Is Easy
5. Clean Light
6. Time
7. Emily
8. The Great Divide
9. Say It, Just Say It
10. Leave It Up to Me
11. Carry Your Will
12. Hi, Hey There, Hello
13. We Are Free
ポエトリー:
『丸善にて』
岡崎でゴッホを見た後、河原町の今はBALの地下にある丸善で、僕は詩集コーナーと文芸誌コーナーを行ったり来たりしながら、ここは詩集が沢山あるからいいなぁ、大阪にもこんな本屋がないかなぁなどと、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩集とレクスロスの詩集のどちらかを何度か手に取り、下の方にあるイェイツにも目を落とし、パラパラとこれは無理だななんて、また文芸誌コーナーというかその類いの新刊が山積みになっているレジの近くに行って、ユリイカの今月の作品として掲載された僕の名前をもう一度確認し、隣にいるお姉さんにこれは僕ですと言いたくなる気持ちを少しだけ堪えて、というかそんなでもないけど、とりあえずもう一度確認してから詩集コーナーに戻り、やはりウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩集とレクスロスの詩集とを迷いつつ、昔、というか前に僕が京都に住んでいた時の丸善の、あのエスカレーターが好きだったなとか、横切る彼女のガラス越しに写る姿が美しかったなとか、もういい加減そんなことは卒業して今はここに至るのかオレはとか、そんなどうでもいいことを考えながら、どっちかといえばウィリアム・カーロス・ウィリアムズかなと思いつつも、急に帰り道に京阪モールでケーキを買って帰るんだっけと思いだし、早く帰らなくちゃといそいそとしだしたこともあってその日はレジには向かわずに、それでもユリイカに載ったと知ったのがここの丸善で良かったな、昔の丸善じゃないにしてもやっぱ丸善だったというのはなかなかいい気分だなと、何かの物語になぞらえて、僕は新しくなった丸善を後にした。
2018年2月
ポエトリー:
『で、手紙』
手紙が届いた 誰からだろう
差出人の名前がなかった
爪が欠けていて 早く切らないといけないことを思い出していた
部屋に入って手紙の封を切ったら 爪の事は忘れるだろうなとも思った
部屋のテレビは壊れていた
ヒーターの調子もおかしかった
部屋でコートを脱げないなんてクソッタレだ
夕飯は外で済ませてきた
会社帰りにいつものあいつと
あいつは仕事が出来ねえけど あいつとは気が合う
そういや一緒にメシ食うの 今週は三回目だ
外から賑やかな声が聞こえてきた
子供の声 こんな夜遅くに出歩くんじゃねぇよ
オレの親はこんなことさせなかった
はずだ 多分 よく思い出せない
明日からまた夜勤だ いつまで続くのやら
大して時給もよくならねぇのに オレもお人好しだね
明日偉そうなあの野郎に言ってみるか
まぁ、いい 誰かがやんなくちゃならねぇんだから
丈夫に産んでくれた母親に感謝だな
そうそう手紙だな
母親だったらマジ勘弁
そういやオレがまともな仕事に就かずにフラフラしていた頃
男は仕事をするものです みたいな手紙寄越しやがった
あれにはちょっと参った
で 手紙
封を切るか?
いや しばらくは置いておくべきだ
明日から夜勤なのに面倒くせぇ事頭に入れたかない
そうだな 夜勤から戻ってあいつがまた退屈そうにしてやがったらまた一杯やって
そんでもって今みたいにいい気分で帰ってきたとして
そん時にこいつがオレの目に入ったとしたら
まぁ 分かってる 分かってるさ
大体見当は付いているんだからさぁ
読まなくてもお前の役目はもう済んだようなもんなんだぜ
あぁ面倒くせぇ
爪を切るのやになってきたな
おめえの言いたいことは分かる 分かるよ
けどもういいんだ
いや諦めたとかやる気が無くなったとかそんなんじゃない
気が済んだと言えばいいのかな
元々大したこと描きやしねぇんだ
誰かのためにやってた訳じゃねぇし
そうやって引き留めてくれるやつがいるなんて有難い 有難いよ
でもな こうやってっと生きてる感じがするんだよ
だから今はこれ これなんだ
変な時間に帰ってきてさ
バカなやつと一杯やってさ
他にやるやつがいねぇんだぜ
大層な服着てさ 日にちょっとしか進まないけど
それでもいいんだよ
オレァ多分 役に立ってんだ
まぁいい 今日はもう終わり
手紙 まぁしばらくそこにいな
オレの気が変わるのを辛抱強く待っててくれ
今日はぐっすり寝て あぁ、そうだ
今日はわりかし上手くいったぜ
ま、心配すんな
どっちにしろ一度描いた人間はやめられないんだ
2017年12月
その他雑感:
近頃は散髪屋に行くと必ず耳に例のペン状の電動剃刀を当ててもらっている。先日も散髪に出掛けたのだが、理容師が電動剃刀を耳の外側に当てただけで終わろうとするので、「耳の中も当ててください」と言った。
40を過ぎてからどうも耳の中から妙に長い耳毛が伸びてくる。耳の中など普段は気にもしないし、僕は視力が弱く目視も出来ないので、何気に耳を触ったら、「なんじゃこれは!?」というような耳毛が生えているのに気付くことがある。これはこれで妙に愛おしくそのままにしておきたい気持ちもないでもないが、イヤイヤこれはエチケットとしてバツだろうということで、せめて剃るのではなく引っこ抜いてやろうとするのだが、これがなかなか摘めない。指の腹では挿めても引っ張るとすり抜けてしまうので、爪で挟もうとするのだが、そう簡単に爪でピンポイントで挟めるものではない。鏡を見ながらでもそこまでの精度ではつかめないし、結局はやたら当てずっぽうで引っこ抜くしかなく、それはそれで最高にオレはやったぜ感にも浸れるのだが、やっぱこれはそこまでの長さになる前に剃っておきたいものである。
毛といえば、もうひとつ気になるのが鼻毛。これも定期的にカットするのが大人のたしなみなのだが、近頃は鼻の穴の内側出口のキワに、わざわざ外に向かって生えてくるというトンデモナイ目立ちたがり屋がいる。僕は電動式ではなく、小さな鼻毛用ハサミでカットする派なのだが、この目立ちたがりをカットするのが甚だ難しい。僅か1mm程度でも外から見えてしまいかねないこいつをハサミでカットするのは至難の業だ。結局は諦めて、小指でキュキュッとこれで良し、みたいな妙な大人な納得の付け方で終わるのがオチだ。
人間、不惑にもなると慎ましやかになるものだが、こいつらは逆にかえって自己主張が激しくなる。これまで虐げてきたつもりはないのだが、これは何の反逆か。この年にもなって前へ出ようとする姿勢は殊勝だが何もご主人様に迷惑をかけることもあるまい。まったく手のかかる奴らだ。
てことで僕は散髪に行くと必ず耳の中をカットしてもらう。そして鼻毛は毎日チェックをする。これは40男共通の大事なチェックポイントだ。世の中には反逆させっぱなしの強者も結構いるが、僕はまだそこまで大らかにはなれない。まだまだ修行は必要だ。
あと長い眉毛にも要注意!
洋楽レビュー:
『Little Dark Age』(2018)MGMT
(リトル・ダーク・エイジ/MGMT)
NY出身のポップ・デュオによる5年振りの4thアルバム。僕は彼らの音楽を聴くのが今回が初めてなので、元々どういう音楽を指向していた人たちなのかよく知らないが、このアルバムに関して言えば、非常にポップであるものの、ポップというオブラートに包みきれない彼らの世界観があちこちに滲み出していて、それがこのアルバムの印象を決定付けているような気はする。
サウンド的はもう思いっ切り80年代というか、当時のMTVに彼らの音楽が混じっても違和感ないというか、1曲目の『 She Works Out Too Much』の最後でサックスがブロウ・アップするところなんて思わずニヤッとしてしまう。3曲目『When You Die』とか4曲目『Me And Michael』なんて思い出せないけどどっかで聴いた感満載だ。ただそのサウンド・デザインもそこを狙ったという訳ではなさそうで、彼らとしては今回の曲をどう響かせるかという流れの中で自然にそうなっていったというか、この辺りはもう’10年代の特権というか、昔がどうとか今はどうとかお構いなしにいいものはそれ貰いって素直に採用できる自由さがあって、それが結果的にもろ80年代になろうが、彼らとしちゃああそうですかって程度のもので、それが実は1曲目ほど全体は明るくはないのだけど、全体を通してのこのアルバムに感じる風通しの良さにも繋がっているのではないだろうか。
ただ風通しが良いからといって、全てがスムーズに流れていく訳ではなくて、全体としてはポップなアルバムなんだけど、それぞれの曲のタイトルを見ても分かるようにどこかでダーク・サイドを引きずって行くような手触りがあるのも確か。例えば、君が裏切っても僕は落ち込まないよとでも言うような、もうそんなことは始めからデフォルトで設定されているといった重い現実認識が背後に横たわっているのは結構重要だ。
チャーミングなメロディは普通にアレンジすれば楽しいポップ・アルバムになりそうだが、そうは出来ないところはもう体がそうなっちゃってんだから仕方がない。てことで我々は不穏な時代に生きているのかもしれないけど、それも彼らにしてみれば少しやな時代ってこと。逆に言えば、それぐらいやな時代ってことかもしれない。『Little Dark Age』とはよく言ったものだ。
信じられるものは実はそんなにない世の中で、そんなものさと嘘ぶくか、それともそれに抗うか。5年振りにアルバムを出したってことはそういうことだろう。てことで捉えどころのないバンド(ユニット?)ではあるが、これはやっぱりロックなアルバムなのである。
1. She Works Out Too Much
2. Little Dark Age
3. When You Die
4. Me And Michael
5. TSLAMP
6. James
7. Day That Got Away
8. One Thing Left To Try
9. When You’re Small
10. Hand It Over
その他雑感:
日美の司会者
Eテレ『日美』の司会者がこの春から変わった。高橋美鈴アナはそのままに、男性司会者が俳優の井浦新さんから作家の小野正嗣さんに変わった。井浦さんはいい感じで評判も良かったと思うけど、それでも何年かやったらこうしてスパッと変更する姿勢が僕は好きです。流石Eテレ。
井浦さんはとにかく格好いいんだけど、気取らないというか、常にアーティストやアートへの尊敬の眼差しを忘れない人で、子供みたいにすぐにウットリするお茶目な方。なにより、分からない事を無理に分かろうとしないところが僕は好きでした。上手く言葉にできなくても上手く言おうとしないというか、しょっちゅう言葉に詰まってましたが(笑)、その詰まった感がかえって良かったですね。
現在司会をされている小野正嗣さんは作家ということで最初は理知的な堅いイメージがあったのですが、何度か見ていると小野さんも無理に分かろうとしないというところがあって、知的な印象の割に絵に圧倒されているところが意外とバレバレな人で(笑)、最近は僕も親しみを覚えるようになってきました。
それとやっぱり品の良い語り口の高橋美鈴アナが素晴らしいですね。高橋アナがこの番組の空気を下支えしているように思います。
TV program:
Eテレ 日曜美術館「もうひとつのモネ~現代アーティストが語る革新~」 2018.6.10放送 感想
日美、この日のテーマは「モネ」。それも印象派としてのモネではなく、現代アートとして見るモネの革新性について。現在、名古屋市美術館にて「モネ それからの100年」と題した展覧会が開かれている。今回はスタジオからではなく、その名古屋市美術館から、そこに展示されている日本の現代アーティストたち(画家:児玉靖枝、美術家:小野耕石、版画家:湯浅克俊)の対談形式で番組は進行しました。
モネはどうしても「睡蓮」が有名過ぎて、あぁあの絵ねってことで落ち着いてしまい、今まであまり気にも留めていなかったんだけど、現代の日本人アーティスト3名が語るモネの魅力が非常に分かりやすい形で伝えられていて、モネの魅力を再発見するという意味でも僕にとってとても興味深い回となりました。
今回気付いたことの一つが、モネの絵に上も下もないのではないかということ。水面に映る空は下にも広がっていくし、横にも上にも広がっていく。上も下もない宇宙的な感覚。それは動的なもので、それこそ移り行く自然。絵は静的なものだけど、モネは当然、自然を描いている訳だから、その時にしかない動くものを捉えている。だから絵は静的なものであっても動いているのだ。そこに鮮やかな原色の花弁がちょんとあって、画面いっぱいにたゆたう中で、それこそ命がバッと開いている。
しかし原色で色づけされたその花びらは画面全体に広がる動的なもののうち、ほんの一瞬でしかない動的なもの。それは上と下もなくて、この世は所詮浮世、或いはこの世ははかないものとする日本的な美に通ずるものではないでしょうか。
だから画家、児玉靖枝さんの「モネは時間を書きたかったんじゃないかな」という言葉が、あぁなるほどなって。絵画は筆を置いた時に止まるものだけど、止まらないまま続く揺らぎ。本当の景色があって、でもそれだけではないし、画家が描いたものが一方にあるものの、それもそうだというものではなくて、やはり揺らぎ続ける。
モネは言い切らない、見る人の広がりに委ねる。そこが絵に意味を持たせる同時代の作家とは異なる部分であり(版画家、湯浅克俊さんの「海外の美術館に行った時に、宗教画とか写実的な絵、意味があり、時代背景があり、隠れたメッセージが含まれたような絵が続いた後にモネの絵を見るとホッとする」、という言葉が印象的だった)、現代アートにも通じる部分ではないかということ。
つまり、絵を見る、というのではなく体験するという感覚、姿形をこういうものだと見るのではなく、同化する、ここではないどこかへ連れ去られる、ここが本当の場所とは限らないし、勿論、作家が提示したものが本当の場所とは限らないけど、異質ではあるけれど、心地よい、行ったことはないけれど馴染みのある場所と思わせる感覚。それはつまり、芸術家は人が見えないものを描く、ということにも繋がるのではないでしょうか。
今回は現代の日本人アーティスト3名の対談が凄くよかったです。芸術家は何故描くのか?誰も急き立ててはいないのにこの切羽詰まった感は何なのか?その一端が垣間見えるような気がしました。
名古屋市美術館「モネ それからの100年」は2018年7月1日まで続き、その後は神奈川へ。十数年前に京都でモネ展を見た記憶があるが、もうほとんど記憶にない(笑)。また近くに来たら是非見に行きたいな、と思いました。