お正月の仏像巡り~広隆寺から東寺へ~

アート・シーン:

お正月の仏像巡り~広隆寺から東寺へ~

1月3日、仏様に会いに京都へ参りました。参拝したのは太秦にある広隆寺。お目当ては日本一美しい仏像と言われ、国宝第一号でもある弥勒菩薩半跏思惟像と京都駅を少しばかり西へ歩いた東寺にある空海の曼陀羅を再現した立体曼陀羅です。お正月も3日目ということで、人手もボチボチとちょうどよく、天候にも恵まれとてもよい1日を過ごすことが出来ました。

広隆寺へはJRでも行けるのですが、せっかくなので嵐電で。私は十数年前、西院辺りに住んでいたことがありまして当時何度か利用していたのですが、道路を走ったり住宅地を抜けていく電車はなんとも言えない風情がありますね。生活感があって素敵です。

広隆寺は思ったより人が少なかったですね。1時間ぐらい滞在していたのですが、参拝客は20名ほどでしょうか。人が少なくガチャガチャしてなくて、静かなお正月って感じが心地よかったです。

お目当ての弥勒菩薩半跏思惟像は新霊宝殿に安置されております。入り口には係りの方がいらっしゃって、そうそう、当たり前のことですがお寺ですから境内には僧侶だけでなく、ここで働いている方が何人かいらっしゃいます。だからお務めって言うんですかね、境内は落ち葉ひとつなく綺麗なんです。こういうお正月であっても普段と変わらないお寺の日常感には心が洗われますね。

新霊宝殿は想像以上に広くて魅力的な仏像が数多く並んでいます。中は薄暗いので最初はちょっと見えにくいのですが、目が慣れてくると暗いことは全く気にならなくて、かえってその微妙な暗さ加減が厳かな雰囲気を出していました。

弥勒菩薩半跏思惟像はその中央奥におわします。繊細なイメージを持っていたのですが思ったより大きかったですね。座った姿勢の高さは84.2cmだそうで標準的な日本人とさほど変わらないのですが、見た感じはもっと大きいです。流石と言いますか、迫力がありますね。

弥勒菩薩半跏思惟像の前は畳敷きの小上がりになっているので、そこに座って弥勒菩薩さんをじっくりと眺めることが出来ます。この日は人手がポツポツだったので、僕はしばらくの間座っていましたが、普段はこうはいかないんでしょうね。

で弥勒菩薩さん。実物を見て印象に残ったのはスタイルですね。なんとも上品な佇まいで、胴体もすごくスマート。でも細さを感じなくてちゃんと内臓を感じられる。でもやっぱり細い。でまぁ考えるとですよ、やはり呼吸が細いんでしょう。それに菩薩様は食生活も質素ですから、我々みたいに馬鹿忙しく内臓が立ち働く必要はない訳です。だから内臓も必要最小限しか活動しない。てことで全体のサイズに比べて胴体がスマートなんだと。あぁなるほどなと。僕は小上がりに座ってそんなことを想像しながら一人頷いておりました。

新霊宝殿には他にも魅力的な仏様が沢山いらっしゃいます。印象的だったのを幾つか挙げると、先ずは聖観音立像。失礼ながら、こちらに向けて下に下ろしている掌が艶かしいんですよね。そう考えると衣装も胸元の辺りが2つの円を描いているようでセクシー。てことで僕は勝手にこのお方はエロスなんだと。我々しもじものいやらしい煩悩を始末してくださるエロス仏なのではないかと。そんなことを思いフムフムと一人悦に入っておりました。

あと吉祥天立像。こちらは女性です。毘沙門天の奥様だそうです。吉祥天立像は3体並んでおりまして、僕のイメージでは向かって左がちゃんとした格好をなさっているのでお務め時の吉祥天さん。まん中がラフな格好なので普段着の吉祥天さん。右端が胸元がちょっと開いたお衣装なのでドレスコードかな、よそ行きの吉祥天さんですね。

新霊宝殿を出るとポカポカ陽気。ちょうどお昼過ぎなので、太秦広隆寺駅にある麺処でお正月らしく力うどんをいただきました。年末年始を家人の実家である愛知県で過ごしたので、あぁやっぱ関西風のお出汁はええなぁと舌鼓を打ちつつ、その後は西へ10分程歩きJR太秦駅へ。東寺に向かうべく京都駅まで行きました。しかしJRの車内は凄い人でしたね。外国の方も多くて、行きの嵐電とは大違い。京都駅から歩いて15分程の東寺も結構人がいて、広隆寺界隈との落差を感じました。

東寺ではお正月の三が日のみ、五重塔の四面の扉が開帳されていて中の四仏坐像を見ることができました。金堂では薬師如来と両サイドに日光菩薩と月光菩薩。薬師如来の台座の下には十二神将がぐるりと配されています。

てことで十二神将はサイズがかなり小さいんですね。つまりは想像すると十二神将はサイズが自由自在なんじゃないかと。ほら確かウルトラマンだって怪獣相手だとでっかいけど、相手に応じて小さくなれたはず。十二神将もあれと同じで、戦う相手や場所に応じて体長を変えられるということではないかと。そーかそーかなるほどね、戦う神さんだからそりゃそーだよねと、一人納得して講堂へ向かいました。

そしていよいよ講堂の立体曼陀羅。これも思っていたより大きくて迫力満点でした。なんといっても如来像5体(五智如来)、菩薩像5体、明王像5体、天部2体、四天王像4体の計21体ってことですから、仏像好きにはたまりませんな。立体ですから角度を変えないと見えない仏様もいて、あっちから眺めこっちから眺めと、多種多様な仏様を拝見出来るんですから、食べ物で例えると蟹とかフグとか焼き肉とかが一つのテーブルに並んだ満漢全席と言いますか、贅の限りを尽くした立体曼陀羅といった感じでしょうか。

ですので人それぞれ、好みに応じて見所満載でして、僕が最初に見入ったのは入ってすぐの梵天。チケット売り場でもらえる栞の表紙にもなっています。なんつっても4匹のガチョウの上に単座されてる姿がいいじゃないですか。想像力がスパークしてますよね。用事がある時は梵天さん、「行けっ、ガチョウ」なんつって、この4匹のガチョウが羽ばたくんでしょうなぁ。くぅ~、飛ぶとこ見たいぜぇ。

立体曼陀羅の中心部は5体の如来様がおわします。如来様ですから華美な装飾はないのですが、それでもそれぞれに個性があってじっくり見比べるのもよいです。しかしまぁ悟りを開かれた如来様ですから5体とも静かで落ち着いた佇まいですね。やっぱ如来様はちゃうなぁ。

その隣は明王様たち。先ずは隆三世明王、カッコええ。胸の前で組んだ印て言うんですか、指どうなってんねんっていう。この魔術を使いそうな指の絡ませ方と足を踏み出したポーズがいかにも戦いまっせという感じでカッコいいです。

あと不動明王。不動明王は大体どこで見ても光背が赤く色付けされていて、なんか特別感が出ております。よう分からんけど怒ってはんねんなと。学校にもいたでしょ怖い先生。ま、仏像界でもそういうポジションなんでしょうな。

天部では梵天と並び称される帝釈天。流石、仏像界No.1と言われるイケメン。キリリとして男前ですな。象の上で半跏思惟の座り方です。象がどういう意味を持つのか分かりませんが、片足を組む半跏思惟の姿勢ですよ。ハイ、最後に戻りましたね、足を組んで思索にふける半跏思惟像に。そーです、最初に見た広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像と同じ座り方です。こりゃなんか今年はよーく考えて行動しなさいよってことでしょうか、弥勒菩薩様。

午前に広隆寺を訪れ、昼食を挟み午後からは東寺へ。時間的にも余裕もあり、我ながらなかなかよいチョイスではないかなと。もうちょい駆け足で行けばもう一件ぐらいお寺を回れたかもしれませんが、あんまり急いでもねぇ。折角の仏像巡りですから、ゆったり見て回るには広隆寺~東寺はちょうどよいルートではないでしょうか。

旅のおまけ:

帰りに京都駅で食パンを買いました。京都駅近鉄名店街にある「ORENO PAN」(←俺のフレンチとは関係なしです)。名物は柚子ピール食パンらしいのですが家人がピール系は好みではないので、普通の食パンを買いました。4枚切り。モチモチしてかなり美味しかったです。また京都駅に行ったら多分買いますなこりゃ。

サザンオールスターズで年末年始

その他雑感:

『サザンオールスターズで年末年始』

 

今年の年末年始は図らずもサザンオールスターズ。紅白に元旦のスペシャルに、どちらも偶然チャンネルが合っただけなのについつい最後まで観てしまいました。特にサザンのフォロワーってわけじゃないですが、ほとんどの曲を知っていましたね(笑)。恐るべし、サザンオールスターズ!

紅白では他の歌手がさんざん出てきた後に聴くサザンというのが、すご~く新鮮でした。端的に言うと歌詞です。歌っていたのはかの「希望の轍」。これがやっぱいいんですよ。「希望の轍」なのに「希望」という言葉が一切出てこない。それでもやっぱ浮かぶイメージは「希望の轍」なんですね。それは何かって言うと情景描写なんです。

ほら、ついこの手の曲って応援したくなるでしょ。それは作者も同じ。だから普通はそこに作者の声が入ってしまうのです。でもこの曲には作者の声が入ってない。作者である桑田さんの気持ちとかメッセージは入ってないんです。いや、厳密に言えば入ってるんですよ。でも分かりやすく言えば歌い上げない系とでも言いますか、例えて言うと、コブクロとかゆずって歌い上げるでしょ。要するに情緒が入ってるんです。

これはどっちがいいって話じゃなくて、これは所謂J-POPの特徴でもありますけど、情緒的なんですね。入れ込んじゃう。ところが「希望の轍」には情緒がない。丸っきりないことはないんですが、ただ情景を描いているだけなんです。俺はこう思うとか、俺はこんな気持ちなんだぜとか、俺は応援してるぜっていうんじゃなく、ただそこに風景があるっていう。

桑田さんはその風景をスケッチしてるだけなんですね。そこに桑田さん自身の情緒は入り込まない。だから聴き手がそれぞれ、それこそ若い子でもお年寄りでも自分自身の経験とか希望に応じてそれぞれの物語を描けるんです。だからみんなのうたになり得るのですね。これはやっぱ凄いやって(笑)。紅白を観ながら僕はそんなことを思いました。

あと元旦にやってたNHKの「クローズアップ・サザン!」。この番組で印象に残った曲は「ミス・ブランニュー・デイ」。これ、80年代前半の曲ですよね確か。でも全く古びてない。今の時代を歌ってるような、ちゃんと今の曲になってるんです。音楽家に限らずアーティストというのはカナリアと言いますか嗅覚が優れていて、やっぱマーケティングではないんですね。アーティスト自身のフィルターを通してその時代の空気を感じていく。その先を感じていく。だから普遍性を獲得していくのだと思いますが、「ミス・ブランニュー・デイ」なんか正にそんな曲。2019年現在の事を切り取っているかのような曲で、ほんとにお見事!改めて桑田さんは凄い人だなと思いました。

で、全編聴いて思ったのはホントにヒット曲ばかりで、聴いてて楽しいのは知ってる曲ってのが大きいとは思うんですが、おそらく全然知らない人、例えば若い子がいきなりサザンの歌を聴いてもこりゃかなり楽しいんじゃないかと。改めて、僕は桑田さんは日本有数のソングライターだなと。もうポール・マッカートニーに見えてきました(笑)。

それにも関わらず、番組内のインタビューで桑田さんが語ったのは、「新曲を書きたい」と。これからのサザンはどういう風にやっていきたいですかっていう質問に「新曲を書いていきたい。ポップ・グループである以上。それがすべて」なんて言うんです。こんだけヒット曲がありながら、新曲を出して、それで勝負する。それがポップ・グループの宿命なんだって言うんです。普通のトーンで喋ってましたが、こん時の桑田さんの凄みはたまんなかったです。

ちょっと長くなりましたけど、両方の番組を観て思ったのは、もうサザンはみんなのものだなって。意図的でもなく、無理してってんでもなくこの開かれた感じ。それでいて密かに作家性を真っ先に持ってきている。矛盾しているようで自然体としてそれが同居してしまっている。こんなおかしなバンド、ちょっと見当たらない。

紅白を観てる時の家族あるあるって「最近は知らない歌ばっかりだよな」って感じで(笑)、今や皆が楽しめる歌ってほとんどないのかもしれないけど、デビュー当時、大人たちが眉をひそめたサザンオールスターズが40年やって、もしかしたら昭和が過ぎ平成が終わり新しい時代を迎えるにあたって、一番老若男女を楽しませる最大公約数なみんなのうたになってる。演歌でなく、歌謡曲でもなく、アイドルでもなく、サザンオールスターズっていうジャンルがみんなのうたになってる。2日続けて観たからちょっと僕も情緒的になってますが(笑)、それもあながち的外れではないのではないでしょうか。

一年の計

ポエトリー:

『一年の計』

 

悲しみを手掛かりに
交通整理する輩
人の感動など持ち出さないどくれ
君たちの世間にはなりません

オレに景色を与えとくれ
オレに手紙を与えとくれ
オレに音楽を与えとくれ
好きなようにやらせておくれ

マジな話、
君をけしかけるような真似はできない
君を労わるような真似はできない
お世話になるばっかりだ

それでも
思いつくんだから仕方がない
だからお届けします
しみったれた現実を

きっと口をあんぐり開けて
お届けします
だから私の真心
今日も明日も明後日もくっつけて

アイラブユー皆さん
一年の計はどこですか?
今は何をしてますか?
あ、今おまえ、手持ちぶさただな

 

2019年1月

年の瀬に

ポエトリー:

『年の瀬に』

 

君に届け
言葉に乗って
君に届け
言葉に沿って

僕は君に
伝えたいことが
人より多くある

例えば今朝の
澄んだ空気や
例えば町の
賑やかなお囃子

僕は君に
届けたい
言葉に乗せて
届けたい

僕は人より多く
君に話したいことがあるんだ

例えば冬の冷たい朝
人より先に冷たいねって伝えたい
例えば冬の三日月
人より先に綺麗だねって伝えたい

遠くのものから近くのものまで
君と僕を隔てる妙な諍いとか
濡れた瓶の縁まで
そびえる障害はそのままにして
その苛立ちの語尾が丸くなるように変換して
君と僕の日常にして照らし出す

そんな日があってもいい
だって今年ももう
残り僅かだから

#MeToo

昨日、NHKのニュースウォッチ9でジャーナリストの伊藤詩織氏の特集が放送されていた。2015年に性的暴行を受けた彼女は記者会見を開きその被害を白日の下にさらした。この日本で、尋常ならざる勇気を持って、顔をさらし堂々と会見を行った。

しかし彼女に性的暴行を行ったとされる山口敬之氏は彼女を執拗に攻撃した。著名なジャーナリストであった彼は表には一切顔を出さず、疑惑には答えず、質問は受け付けず、自分の言いたいことだけを自分の息のかかったメディアを通じてのみ一方的に反論した。 どちらが正しいかは二人の態度を見れば明らかだ。しかし世間はそうではなかった。何のバックボーンも持たない一人の女性ジャーナリストの声よりも、金とコネと権力を持った親父どもの声を支持する顔の見えない連中は、彼女を執拗にバッシングし続け、疲弊した彼女は追われるようにして日本を出て行った。

彼女は今も戦っている。世界中の性被害者との交流を重ね、事実を伝えるという地道な活動を行っている。しかし事件はまだ数年ほど前の話だ。表情を見れば、彼女の傷は到底癒えていない事は明らか。それでも何とか踏ん張って毎日戦っている。

昨年の#MeToo運動はハリウッドの大物プロデューサーによるセクハラへの告発が始まりだったか。その後、続々と大物著名人によるセクハラ行為(トランプ大統領も!)が明るみになり、#MeToo運動は世界的な広がりを見せた。レディー・ガガを始め、多くの有名人はそれを支持した。しかし日本ではどうだっただろう。アイスバケツチャレンジにはこぞって参加した有名人が、こと#MeToo運動になると誰一人手を挙げようとしない(僕が知らないだけかもしれないが)。どころか伊藤詩織氏はバッシングされ続け、彼女への支持を表明する有名人はほとんど現れなかった。そんな日本で彼女は戦っている。

僕は彼女の声を支持します。このような私的なブログではあるが、僕は伊藤詩織氏を支持します。

Room25/Noname 感想レビュー

洋楽レビュー:

『Room25』(2018年)Noname (ルーム25/ノーネーム)

ノーネームの2作目。1作目の『Telefono』(2016年)が好評だったようで、それまでの平穏な生活から一転、各国をツアーで回る日々が続いたそうだ(その間、日本公演もあったようです)。デビュー作でいきなり脚光を浴びたアーティストが一様に辿る道として、慣れないショービジネスの世界に戸惑い、自分を見失いそうになりつつも、そこで見た新たな世界に触発されて次作では一気に世界観が広がっていく、というのはよくある話で、ノーネームも全く同じく、基本的なモノづくりに向かう姿勢としては1作目とさほど変わらないとしても、アウトプットされて出てきたものは音楽的にもより深く、詩の面でもも視野はより大きなものとなり、やはりアプローチとしてはそのリーチが格段に伸びている。

1曲目の『Self』ではそれこそ前作を踏襲したソフトなサウンドだが、聴き手は2曲目の『Blaxploitation』で度肝を抜かれるだろう。ヒップホップのジャズへの接近は近年のトレンドであるが、チャンス・ザ・ラッパーを中心に今やシーンの最重要地域であるシカゴ一派はもともと従来のヒップ・ホップに頓着しない。今回もそのシカゴ一派が繰り出すサウンドはノーネームのリリックを乗せて縦横無尽に駆け巡っている。

続く『Prayer Song Feat. Adam Ness』でもそうだが、リズムはかなり複雑だ。人々の感情に最接近する生き物のようにうねるジャズ。その変則的なリズムはどこかノーネームたちアフリカ・アメリカンのルーツを思わせる。そう、今回のアルバムでは2曲目のタイトル、『Blaxploitation』からも想起されるように自らのアイデンティティーへの言及が顕著だ(『Blaxploitation』の意味は分からないが)。黒人であり、女性であること。そのことはサウンドも含め歌詞に置いてもかなり強く言及されている。落ち着いたトーンの(厳しい世界が歌われてはいるが)1作目を聴いて、ノーネームはいかにもヒップ・ホップな言葉遣いをしない人だと勝手に思い込んでいた身としては、今回の‘nigga’や‘bitch’や‘pussy’といった言葉が飛び交う歌詞に随分と面食らってしまった。詩の詳しい中身は英語をあまり解さないのでほとんど分かっていないが、それでも彼女の意図や決意や意志は十分に伝わってくる。肉体的なサウンドはそのメッセージ故だろう。

ところで、飛躍的に音像が豊かになったこのアルバム。ノーネームの言によると、生の楽器にこだわったそうで(外野から口出しされるのが嫌だから、全部自分でお金を出したらしい!!)、ゲストもふんだんに交えて、通常のポップ・ソングからすれば突拍子もないご機嫌なメロディーが聴けるのだけど(#7『Montego Bae』とか#8『Ace』とか)、これらはチーム全体のアイデアなのか。メロディやサウンドのアイデアはどこまでがノーネームのものなのか。そこはちょっと気になりました。

いずれにしてもノーネームのラップ・スキルは相変わらずとても滑らかでクール。彼女の場合、元々はちょっとしたイベントでポエトリー・リーディングを披露する街の詩人だったのだが、そこは音楽が伴おうが変わらない。キャリアを重ねてフロウも更に磨かれているけど、いかにもラッパーな感じはしないし、雰囲気はあくまでも街の詩人のポエトリー・リーディングというところが僕は好きだ。

Tracklist :

1. Self

2. Blaxploitation

3. Prayer Song Feat. Adam Ness

4. Window Feat. Phoelix

5. Don’t forget about

6. Regal

7. Montego Bae Feat. Ravyn Lenae

8. Ace Feat. Smino & Saba

9. Part of me Feat. Phoelix & Benjamin Earl Turner

10. With you

11. no name Feat. Yaw & Adam Ness

荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋 in 大阪 感想

『荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋』in 大阪 感想


大阪は天保山、大阪文化館で開催中の『荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋』へ行きました。ジョジョと言っても僕は第5部までしか読んでないので、いっぱしのジョジョラーとは言えない半端者なのですが、いやいや半端者こそジョジョラー、こりゃ行かにゃならんだろと。大阪での開催は2018年11月25日~2019年1月14日なので、グズグズしてると学生さんたちが冬休みに入ってしまう。たださえ混んでそうなので、慌てて行くことにしました。

行って思ったこと。想像以上のボリュームでした。大阪文化館には行ったことがなかったのですが、海遊館の横だしどうせ小ぢんまりした会場での小ぢんまりした展覧会だろうと高を括っていたら意外や意外。見どころ満載で、そんなにゆっくり観ていた覚えはないのですが全部観るのに2時間以上はかかりました。素直に行って良かったです。

とにかく原画がいっぱい置いてあって、荒木先生は原画展なのでライブ感を楽しんで欲しいと仰ってましたが、実にその通り。例えばジャンプ掲載時の原画には下描きが透けて見えてそのまま。僕は漫画の世界に疎いのでよく分かりませんが、薄い青の色鉛筆のようなもので、下描きをしていて(青だと印刷時に写らないからかな?)、そのラフな幾つかの線が躍動感を醸し出していて、で近づいて見ると結構修正液で修正してるんですね。これがかえってリアリティーを出していて、やっぱり躍動感、絵が生まれていく生々しさが表れていました。

展示の流れも良かったですね。導入部があって、ジャンプ掲載時の原画があって、カラー原画があって。ジョジョ漫画の論理的な解説もあり、最後にクライマックスというかドカンと縦2メートルぐらいの描き下ろしカラー原画が部屋を囲むようになんと12枚!!流石偉大な漫画家というか、起承転結がちゃんとあって飽きさせない趣向が凝らされているなと。荒木先生が今回はベスト・オブ・ベストを出したと語っていたようにホントにずっしりとしたボリュームの展覧会でした。

で今言ったように始めに導入部があって、そこで先ず我々は「ドドドド~、ジョジョ展に来たぜぇ~」てテンションが上がるわけですが、色んなパターンの原画を観て最終的には「荒木先生スゲェ!」ってなる。恐らく多少なりとも絵が好きな人であれば、ジョジョ自体を知らなくても圧倒的な画力にひれ伏してしまう。やっぱ荒木先生の絵の力は相当なものなんだと。色彩感覚は相当なものなんだと。そこは改めて思いましたね。

だからジョジョの世界というか、ここはもう荒木先生の世界と言うべきでしょうね。大衆漫画ですから面白くてナンボなんですが、そういうコマーシャルな部分よりもむしろ作家性がバーンッ!と来る。石の塊みたいな物量でゴゴゴ~ッとこれが荒木・ザ・ワールドッ!みたいに来る。荒木飛呂彦という作家の個性が全面に表れていて、でもこれ、実は作家として当たり前のことですよね。僕は詩が好きですから詩人で例えますが、茨木のり子さんにしても吉増剛三さんにしてもその言葉は圧倒的に茨木さんで圧倒的に吉増さんですから、そこは僕個人としても凄く刺激になりました。

あと、さっきも言ったように下描きなんかの展示もありますから、創作の一端が垣間見える部分もありまして、そこは非常に興味深かったです。有料ですが荒木先生の音声ガイドもあり、裏話も聞けたりするのでなかなか面白いです。ガイドの中身はネタバレになるから書きませんが(笑)。

とにかく初めから最後までジョジョ、ジョジョ、ジョジョ。ジョジョ展なんで当たり前ですが、僕としてはジョジョ展というより荒木飛呂彦という一人のアーティストの絵画展という印象を強く持ちました。単純ながら「オレも絵を描きてー!」と思わせるような圧倒的な波紋のエネルギーというか刺激を与えてくれる展覧会で、荒木先生がライブ感を楽しんで欲しいって言ってたのはそういうことだったのかもしれないですね。人に何かしらの意欲をかき立たせる、触発させるっていうのは優れたアートの一つ条件ではないかなと。そこは改めて感じました。

映画『シェイプ・オブ・ウォーター』 感想レビュー

フィルム・レビュー:

『The Shape Of Water/シェイプ・オブ・ウォーター』〈2018年)

なんだか試されているような映画だ。僕は全てに等しくありたいと思う。けれど僕は日本人だ。同じ肌の色、同じ宗教、似たような価値観の中で育った。小学校時代、確かにいじめられっ子はいたし、皆に避けられている子はいた。けれど僕は避けたりはせずに、なるべく等しく接してきた。つもりだ。でもそれ、お前の本当なのか?

具体的に考えてみる。もし、僕の子供たちが大きくなって、身体に障害を抱えている人、若しくは肌の色の違う、宗教の違う人を連れてきたら。僕は顔色を何一つ変えず接することができるだろうか。僕には自信がない。しようとは思うけど、心が付いていかないかもしれない。

折りもおり。僕はアジアのとある地域にいた。たかが3日ほどの滞在であっても、海外に出たことが数えるほどしかない僕にとってそれは多少なりともストレスのかかる出来事だ。ふと考えてみる。僕はここで暮らすことはできるだろうか。

この映画には人間ではない生き物が出てくるが、それは単に生き物ということではなく、やっぱりメタファーだ。つまり僕は僕の物差しでは測れない人を見かけた時、身構える。極端に言えばそうした人を異物と捉えて明確に線を引いてしまう。会社に新しい同僚が来た時のように自動的に手を差しのべることは出来ないのだ。

この映画でも主人公たちは一瞬たじろぐ。けれど主人公とその友人たちは実はさほどでもない。主人公は何か特別な理由があって、ある生命に心を寄せていくのだけど、そうではない友人たちにしても初めて見る自分たちとは姿形が異なる人物(ここは敢えて人物と言う)に対してさほど拒否を示さない。自分たちとは姿形が変わろうとも、たまにはそういうこともあるさとでも言うような態度でさほどでもないのだ。

しかしこの映画にはそうではないない人たちも登場する。心安いパイ屋の主人は黒人が店に入ること拒否する。国家機密を扱う連中はいわずもがな。一方で自分たちとは違う誰かのことを、たまにはそういうこともあるさと肯定する存在か確かにいる。この映画はそのことも高らかに宣言しているのではないか。

僕は全ての人に等しくありたいと思う。けれど今のところはそういう機会が少ないから、いざ自分がその立場になった時どういう態度を取るのか正直分からない。主人公も友人たちも自分の物差しでは測れない誰かを異物と捉えて線引きしたりはしない。何故なら彼らも社会から弾き飛ばされた人たちだから。彼らはよく分かっている。それがどのような意味を持つのかを。だから彼らは自動的に手を差しのべる。

僕たちは想像する。一方で想像しきれないこともある。けれど人の気持ちなど元より分からないものなのだ。分からないことを当たり前の事とするならば、怖れる必要はないし無理をする必要もない。自分のストラグルを誰も分からないのと同様に他人の心情も分からないのだ。

人と人とは本来そういうものなのだとリセットしつつ、分からないまでも相手が今どういう思いでいるのかを想像する。思いやりの気持ちを多少なりとも持てればいい。分からないからこそ親切にできればいい。そして主人公やその友人たちが行ったように、僕も自動的に手を差しのべることが出来るようになれば。『シェイプ・オブ・ウォーター』を観て僕は今、そんな風に思っています。

綻び

ポエトリー:

『綻び』

 

君は明日をつかまえた
僕はこころなしか遠くなった
手首には跡が残った
言葉は行ったり来たりして声が残った
冷たい空気に気付いたから
ここに来てからの日々を想う

意味は昨日からやって来た
答えを用意していた
大人しく黙って見ていた
瞼が重くて仕方がなかったが
明け方、用意した答えをそのままに
贅沢なワインの口を開けた
で、どうする?

君は人生の意味を問いかける
形を正確になぞれるか
感受性は試される
神経質な縫い目を合わせたがっているな

 

2015年4月

この世界の片隅に/こうの史代 再読 感想

ブック・レビュー:

『この世界の片隅に』 こうの史代 再読 感想

 

『この世界の片隅に』をもう一度読みまして。もう一度って言っても前読んだ時からまだ1ヶ月ぐらいしか経ってないんですけど、まぁそれでも1度目ではよく分からなかったところがなんとなく、あ~そうなんかねぇ~ぐらいにはなったような気もして、やはり2度目だと落ち着いて読めたのかなぁなどと思ったりもしています。

1つ目。これは皆もそう思ったかもしれないですけど、やっぱ哲さんのくだり。よく分からないですよね~。ちょっと説明しますと、すずさんの幼馴染に哲さんて方がいて、この人は水兵さんなんですけど、休暇ということですずさんの嫁ぎ先にふらっとやって来て、ていうか確信犯的にやって来るんですけど、この人が子供時代以上に馴れ馴れしくてですね、「すず、すず」って呼び捨てにするぐらいなんですけど、じゃあ今日はすずの家に泊めてもらおうか、なんて言うわけです。そこですずさんの夫である周作さんがですね、「今日は父がおらんですけぇ、私が主です。あなたをお泊めするわけにはいきません」みたいなことを言いまして。ここで読者は、おぉよう言うた周作さん、それでこそ周作や、なんて思うんですが、ところが周作さん、離れというか物置に追いやった哲さんとこへすずさんに行火なんか持たせて、あっちは寒いから持って行ってやれなんて言うんです。あかんっあかんっ、そんなん離れに二人きりにしたらあかんやんか!なんてこっちは思うわけですけど案の定哲さんはすずさんに言い寄りまして、おぉ~っ、お前ら何しよんね~ん!って展開になるわけです。結局すずさんが、うちは周作さんが好きですけぇみたいなことを言って事なきを得るんですが、それにしてもですよ。おい、周作!あんた何で大好きなすずさんを差し出すような真似やったんやって思うわけです。

ただこれがですね、読み返してみるとなんか分かるような気がしてきまして。だって周作さんにしたってすずさんが好きで、何も知らんすずさんを無理やりって言ったらあれですけど、もしかしたらすずさんにいい人がおったかもしれんけど、それを嫁に貰ったわけで、そういう意味じゃ周作さんには負い目みたいなのがあるわけです。で哲さんとすずさんは幼馴染で傍で見てたら仲がいいのは分かるし、哲さんは水兵だからいつ死ぬか分からんし、わざわざすずさんのところに来たってのは今生の別れを言いに来たんだというのはそりゃ誰にだって分かるし。それが周作さんの優しさって言ったらそんなの優しさじゃねぇなんて言われそうだけど、自分の負い目もあるだろうけど、すずさんと哲さんのこと考えたら周作さんは人の気持ちに敏感な人だからついそうするのが一番いいんだなんて。他人から見たら絶対いいわけないんですけど、当事者はですね、周作さんはすずさんが好きだからそういう時はそう考えてしまうもんなんですよ。

ていうかこの行ったり来たりな頼りない男の微妙な心情をこうの史代さんはよく描けるなと。表情もそうですけど、微妙な心の動きをホントに丁寧に描くんですね。だからやっぱこうの史代さん自身も他人の感情に敏感な人なんだろうな~と勝手ながら偉そうに思ったりしました。

あと終盤の方で義姉の径子さんがすずさんに、あんたの居場所はここなんやからここにおったらええ、みたいなことを言うのですが、2度目読んだ時にはここが凄く印象に残りました。すずさんなりに思い悩むところがあって、でもそれは夫である周作さんにも十分に分かってもらえずに、そこでキツイ性格の径子さんがすっとすずさんに吐くセリフがね、全然ドラマチックじゃないところがまたええですよねぇ。

でまぁそういうところを見ていくと、こうの史代さんはやっぱり詩人だなぁと。これは中盤の話だったか、土手ですずさんが海というか軍用艦を見ていて、そこへ周作さんが仕事から帰ってきて、落ち込んでいるすずさんの頭を撫でようとするんですね。でもすずさんは周作さんの手を振り払う。周作さんは撫でようとする、すずさんは振り払う、そんなことを繰り返す描写があって。で後で分かることなんですが、実はすずさんの頭には10円禿げができていたっていうオチがつくんですけど、でも本当はね、もしかしたらすずさんが周作さんの手を振り払ったのは10円禿げがバレるのが嫌だったというよりも、別の意味があったんじゃないかって、そういう行間があるんです。

だからあらゆる場面でそうなんですけど、こうのさんはこの辺をクドクドと説明したりしない。絵でもって、前後の動きでもって表現するんですね。だから読む人によって色んな解釈が出来る。読む場所や時によって違う見え方がする。つまりはポエジーなんです。世の中には言葉で説明できないものがあって、それを言葉で説明するのではなく、ポエジーという目には見えないものを立ち上がらせることで過去にあった情感や思いを現出させるやり方がある。言葉では説明できないものを表現するのが詩人であるならば、こうのさんも詩人なのだと僕は思いました。

てことで2回も続けざまに読んだんで、まぁしばらくは読まないかなと。といいながら、来年には映画の再編集版が上映されるそうで、僕は「片隅」ビギナーなんでスクリーンではまだ一度も観たことがなく、再編集版であろうと何であろうと今から楽しみで仕方がないんだけど、そん時にはまたこの原作を読み返すかもしれないなぁと。そんな具合にして、結局この物語はいつまでも終わらないものなんだと思います。